感情の理屈を言語化する――漫画の何が私たちを泣かせたり笑わせたりするのか

漫画評論というジャンルがあることをご存知ですか? 世のなかには、私たちが普段「面白い」で済ませているところを「面白い」で済ませず、学問の力を使って解明する人たちがいるのです。

 

明治大学4年生の私、白石がいままでずっと気になっていた先生方にお話を聞きに行く、短期集中連載『高校生のための教養入門特別編』の第4弾。『火の鳥』から、『バキ』『カイジ』『ちはやふる』まで、すべてをつなぐのは「表象」というキーワードでした。(聞き手・構成/白石圭)

 

 

モナリザと漫画を同じレベルで分析してみる

 

――先生のご専門である漫画史と表象文化論について教えてください。

 

漫画史はいままでどのような漫画が出てきて、それぞれのジャンルのなかで漫画家たちがどのような技法を生み出してきたのかなどを調べます。ただ、学問というのは扱う対象の違いだけでなく、方法論でもわかれています。社会学や経済学って、扱っている対象はどちらも人間の社会的な活動ですよね。つまりどこに注目してどのようにアプローチするかという違いがあるわけです。そのひとつとして、僕は漫画の表象に注目しています。

 

表象というのは、何かの代わりに何かを表すということです。記号や言語、イラストなどですね。いま僕の目の前には木でできた長方形の物体がありますが、これを僕たちは「机」という言葉で表象しているわけですね。

 

このように僕たちはあらゆるものを記号や言語を使って表象することでコミュニケーションをとっている。これは人間以外には真似できない、かなり高度な知的能力です。だからこそ、何をどのように表象するかというところに、人間の思考の本質が現れてくるんです。

 

たとえばツンドラ地帯に暮らすエスキモーは、雪のことを、その状態によってべつの言葉で言い表します。日本語ではひとくくりに「雪」とされるわけですが。その表象の違いが人間の文化を形作るわけですね。したがって、あらゆる表象には、その表象を用いる人の文化的背景が読み取れるというわけです。

 

 

――漫画と表象文化論はどう関わってくるんですか?

 

表象文化論は人間の文化的営みのすべてが研究対象になります。モナリザも手塚治虫の漫画も、絵を使った表象という意味で同じレベルの問題にすることができるんですよ。伝統的な芸術学などの固定観念にとらわれず、いろんな見方をしようというわけです。

 

ながらく大学では芸術として認められたハイカルチャーしか、まともに研究されていませんでした。それ以外のカルチャーは「大衆文化論」という枠組みの中で扱われていました。「芸術的価値はないけれども、大衆のことを理解するためにあえて勉強しておきましょうね」という響きがあったわけです。

 

けれども表象文化論は、そうした歴史による芸術的価値をいったん棚上げにし、表象活動全般に注目して研究しようということから始まったんです。

 

 

――たとえば先生の授業で扱われていた手塚治虫の『火の鳥 復活編』では、女性型ロボットが主人公の男性の姿を頭のなかで想像するシーンがあります。その主人公の絵は、普通の線ではなく、じつはとても小さなアルファベットの「A」の集合によって点描のように描かれています。これも表象として読み解けるんでしょうか?

 

はい。ふたつのことを読み取ることができます。ひとつは、女性型ロボットのスペックを表しているということです。アルファベットの「A」の集合による点描といってくれましたが、要するにあれはアルファベットの「A」だけでつくったアスキーアートなんですよね。そう考えると、とても原始的で素朴なイラストの出力の仕方であると読める。だからこの女性型ロボットは、もともとは人工知能的な感情などもインストールされていない、古いモデルなのだということを示しているんですね。

 

もうひとつは、「A」というアルファベットの最初の文字を使うことによって、「始まり」を暗示しているということです。女性型ロボットは、主人公に恋心を抱いたので、姿を思い描いたわけですよね。それは、本来ロボットには存在しない、人間的な感情の発生なわけです。つまり初めて湧き上がってきた感情であるということを、アルファベットの「A」を使って示しているのかもしれないということなんですね。

 

 

――ほかにそのような表象の例は、最近の漫画にもありますか?

 

たとえば『カイジ』で、登場人物が絶望的な状況に追い込まれると、顔が「ぐにゃあ……」という擬音つきで歪みますよね。それも同じです。一番わかりやすいのは「鉄骨渡り編」のときの、彼らの足元の描写ですね。彼らが鉄骨を渡るときに足元がふらつくのですが、それを、足元をぐにゃぐにゃに描くことで表現するんですよね。

 

当然、あの漫画のなかの世界では、足はぐにゃぐにゃになっていないはずです。けれどもカイジ本人の目には、そう見えている。それを引いた構図で描くことで表現しているんですね。つまり一見客観的なカメラ位置からキャラクターの主観的な世界の様子を描くことで、読者を没入させようという技法なんです。この技法は最近ではいろんな漫画に見られますね。探してみると面白いですよ。

 

 

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『君の名は。』が流行ったのは本当に社会の変化が原因?

 

――先生は以前、少女漫画において、陸奥A子作品の主人公の部屋に可愛らしい雑貨が置かれていることについて分析していましたね。そうした背景描写の繊細化は70年代の少女漫画から特徴的に見出されたわけですが、これもいまおっしゃった、ある世代の文化的価値観の分析につながりますね。

 

はい。その授業では、『歌い忘れた1小節』という漫画を取り上げたんですよね。陸奥A子のほか、太刀掛秀子、田渕由美子ら「乙女ちっく」派と呼ばれた作家たちが、70年代末に『りぼん』誌上で似た傾向の作品を手掛け、女子中高生の心を掴みました。

 

「乙女ちっく」の世界は、部屋の内装や小物やファッション、そして街並みの描写に至るまで、日本を舞台にしながらも、微妙に当時の現実の日本よりおしゃれにかわいく描かれているんです。ほとんどの住宅の子供部屋が畳敷きだった時代に、主人公たちの部屋はみんなフローリングにラグを敷いていたり。

 

サンリオのハローキティなどを中心とするファンシーグッズが流行し始め、都会にはいまにつながる雑貨屋さんが現れ始めたころ、かわいい私のかわいい生活のモデルを提供するような役割を果たしたのが乙女ちっく派の作品群だったと考えられます。

 

 

――漫画を表象文化論的に読み取る時は、時代背景との関係を見るということなんでしょうか?

 

時代背景を読み取るのはかなり難しいので、迂闊にやってはいけないことです。なぜなら、どうとでもいえる話になりがちだからです。なぜ「おとめちっく」と時代背景を結びつけて考えられるかというと、漫画のなかで描かれていた小物やファッションが実際に世の中で普及していたのかどうかを裏取りできるからですね。そうした場合、時代と漫画のつながりを見ることができる。

 

でもたとえば、「内気で自分のことをうまく表現できない子が主人公の漫画が人気になったのは、時代が不景気で女の子が自己表現をしづらくなったのが背景にある」などというと、途端に信憑性に欠けるわけです。

 

そのような分析や批評をしがちな人は多いです。不景気だったからこういう漫画が流行ったとか、バブルだからこういう漫画が流行ったとか。でもそれは、その人が説得材料として都合のいい漫画をもってきているだけですよね。

 

それに、社会と作品のつながり方は、なにも社会から作品への一方通行ではないはずです。逆に、漫画の側から社会に影響を与えることも考えられるわけです。

 

 

――社会の変化に対応しているような作品が存在していたからといって、その社会と作品のあいだにただちに因果関係を見出すのは、いささか軽率であるということですね。

 

そうです。それに、社会の時代性とはまたべつに、ある文化ジャンルのなかでの時代性というのもあるわけです。たとえば映画であれば、それが誕生した当初は素朴な表現であるわけですよね。そういうジャンルの存在自体が脚光を浴びる段階があるわけです。

 

それが徐々に市場規模を拡大していき、ある段階から高度な読みに耐えるような複雑な表現を獲得し、多様化していくわけですね。それはどの時代に生まれたどのジャンルでも、たいてい同じような発展の仕方をするわけです。ですから、この時代の漫画が大人的な表現を多用していたのはこういう時代だからです、という解釈は誤っていて、単に漫画自体がちょうどそういう発展段階に来ていたと捉えた方がいい可能性があります。

 

漫画であれば、作家はその漫画のジャンルの歴史を踏まえたうえで、セオリーから少し外れた表現を狙って差別化を図ったりするわけです。作家としては、いま社会がこうだからこういう漫画を描きたいという理屈よりも、単にこれまでそのジャンルになかったような漫画が描きたいという理屈の方が優越するのは珍しいことではありません。社会の時代性と特定のジャンルのなかの時代性は、さしあたり切り離して考えるべきですね。

 

 

――そう考えてみると、テレビなどの大きなメディアでは、流行っているコンテンツと社会状況を短絡するようなざっくりした解説が多いかもしれません。

 

たとえば『君の名は。』についてNHKなどであれこれ分析されているようですが、まずは監督の新海誠さんがこれまでつくってきた作品群と合わせて考えるべきだと思いますね。これまで彼がつくってきた作品の歴史を踏まえたうえで、どこが共通していてどこが違うのか、なぜそうなのか、と。

 

そのように表現に即して考えるとき、表象文化論系の人たちは、あの綺麗な背景美術の意味について考えることが多いですね。背景の描写は新海誠作品において最初から特徴的だった要素で、時代性と関わる部分と時代に左右されない作家性の部分があると考えられるわけです。それを丁寧に読み解いていくのが重要ですよね。

 

また物語のレベルでいえば、基本的には面白い物語のパターンというのは歴史上そんなにバリエーションがありません。男女がすれ違う作品は時代関係なく人々の心を掴みますよね(笑)。だから『君の名は。』が流行っているからといって、最近の若い男女はよくすれ違っているんじゃないかとかいう読みなどは、無理があるわけです。

 

 

――そういった表現ひとつからそこに人が込めた意図を読み取ることができると、世界の解像度が変わりますね。

 

表象文化論の読み解き方は、メディアリテラシー的でもあります。企業が広告を打つとき、どのような意図があるのか。テレビがドキュメンタリーをつくるとき、映像編集にはどのような意図があるのか。政治家の演説でも、そこにどのようなイメージ戦略があるのか、分析することができる。

 

僕は漫画表現以外にアニメーション表現についての授業もしていますが、そこでも表象を読み解くことには意味がありますよね。ただ「面白かった」で済ますのではなく、なぜこの表現で自分は面白いと感じたのか、あるいはなぜここで泣いてしまったのかを表象から考えてみる。

 

それは感情の理屈を言語化するという点でも意味があるのですが、もっと露骨にいえば、どうすれば自分はメディアによって感情を操られるのかを知るということでもあり、メディアリテラシーを鍛えるということでもあるわけです。【次ページにつづく】

 

 

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vol.213 特集:境界

・「在日朝鮮人として生きるということ――日本社会から断絶された部落での暮らし」趙弘子氏:講演会「証言 ~川崎を生きる~」より

・本多啓「言語からみる自己の境界のゆらぎ」

・中屋敷均「生物と非生物の境界、ウイルスとは何か」

・嶋田晴行「境界(国境)の内と外――『アフガニスタン』という国家を例に

・片岡剛士「経済ニュースの基礎知識TOP5」