Future government of Palestineパレスチナにおける将来の政府
設定会議 | 第2会期国連総会パレスチナ問題に関するアドホック委員会及び本会議 |
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募集人数 | |
会議監督 | 岩野誠太郎(東京外国語大学外国語学部3年生) |
議長 | 野口香織(明治学院大学法学部3年生) |
秘書官 | 疋田茜(法政大学法学部3年生) |
報道官 | 森明彦(大阪大学法学部4年生) |
使用言語 | 日本語/日本語/日本語 (公式/非公式/決議) |
「世界に散っているユダヤ人が民族的な郷土を持ちたいと願うのは、至極当然である。
だが、それによってアラブ人が苦しめられたり、追い立てられたりすることがあってはならない。(中略)将来必ずや、パレスチナはミルクと蜜が流れる永遠の地として発展するだろう」
―チャーチルの演説録より
「私たちは、2000年に渡るユダヤの血を受け継ぎ、すべての歴史を背負っていました。誰の励ましにも笑顔で応える必要はなかった。ただ静かに時が過ぎ、パレスチナにたどり着くのを待っていたのです。」
―ユダヤ難民の証言より
「我々ユダヤ人が独立を勝ち得たのは、世界の慈悲のおかげではない。我々が自らの汗と労働によって国家を創設したのである。しかし、まだ戦いが終わったわけではない。
我々は、自信に満ちた態度で明日に備えなければならない。国家は、国家を切望する人々の意志によってのみ築かれるのである。」
―ベングリオン回想録より
「このパレスチナの土地に、ユダヤとアラブの両民族を受け入れる余地はない。この狭い土地にアラブ人がいる以上、我々ユダヤ人の安住の地は望めないのである。(中略)アラブ人の一村落、一部族たりともパレスチナに残してはならないのだ。」
―ユダヤ人武装組織指導者の証言より
「昔は良き隣人だったのに、戦争によってユダヤ人は残虐な侵略者となりました。(中略)我々は、二度と自分の家には帰れませんでした。我々の中にはイスラエル兵の目を盗んで村へと帰った者もいました。
しかし、彼らはやがてイスラエル兵に捕まり、殺されるか、よくてもトラックで国境線まで運ばれ、鉄条網の外に追い出されたのです。」
―パレスチナ難民の証言より
国際連盟の委任によってパレスチナを統治していたイギリスは、第二次世界大戦後、アラブ・ユダヤ両民族の対立を収拾させることができず、その解決を創設されたばかりの国際連合に要請しました。
その結果、1947年4月から特別総会が開かれ、また、5月には国連パレスチナ特別委員会が設置されてパレスチナ問題の討議及び調査が行われました。
しかし、民族、宗教、領土など、人類が経験してきた諸問題が複雑に絡み合うパレスチナ問題の解決は容易でなく、議論は紛糾しました。
対立を抱えたまま交渉の舞台は国際連合の一般総会に移ります。
アラブ諸国による強硬な反対、ユダヤ側の壮絶なロビー活動、大国による小国への圧力といった、参加国の思惑やパワーのぶつかり合いと熾烈な集票活動が議場の内外で繰り広げられました。
国連決議181号は、特別に設置されたアドホック委員会で可決されたのち、決議が回送された総会本会議でも可決され、パレスチナの分割が決定しました。
しかし、アラブ諸国は決議を受けて建国されたイスラエルに宣戦布告し、第一次中東戦争が勃発しました。
戦争の結果、大量のパレスチナ難民が発生し、パレスチナ問題はさらに泥沼化しました。
そして、現在に至るまで解決の見通しが立っていません。
今回は、史実の会議において話し合われた論点から会議監督がピックアップした論点を集中的に審議し、決議を作成して頂きたいと考えています。
木村申二(2002)「パレスチナ分割―パレスチナ問題研究序説―」(第三書館)
ダン・コンシャーボク、ダウド・アラミー(2011)「双方の視点から描く パレスチナ/イスラエル紛争史」(岩波書店)
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東京外国語大学外国語学部 3年生 |