T JAPAN web・畠山里子
2017年2月11日12時36分
■石原恒和さん 株式会社ポケモン社長
「配信以来、50代以上の方が初めてプレーするゲームが『ポケモンGO』だったということはとても驚くべきことでした。入り口が易しいのと、今持っているスマホに適していたゲームだったということ。それに自分の子どもたちが小さい頃にポケモンのアニメに夢中になっていた記憶が掘り起こされて、ダウンロードしてみたら『私にも遊べる』と反応してくれたのが大きかった。上の世代の方々はゲームからの離脱率が低いのも特徴です」
ポケモンの愛らしいグッズが並ぶオフィスでそう答えてくれたのは、株式会社ポケモンを率いる石原恒和さん(59)。昨年20周年を迎えたゲーム「ポケットモンスター(ポケモン)」の開発に携わり、『赤・緑』以降の全作品のほか、アニメやトレーディングカードゲーム、グッズなどのメディア展開までを総合的にプロデュース。ポケモンの育ての親といわれる人物だ。
「“ポケモノミクス”の成功には四つの要素があります。2016年7月6日に配信開始された『ポケモンGO』は1週間で全世界的な流行となったので、『ポケ・デミック』(=ポケモン・パンデミック)と呼ばれました。二つめは、SNSとソシャゲ(ソーシャルゲーム)が十分に浸透した環境が加速をさらにパワフルにしたということ。三つめは、『ポケモンGO』の開発・運営を手がけるナイアンティック社が「ユニコーン」の基礎を持っていたということ。最後の四つめは、インフォメーション・テクノロジーの進化のいい頃合いで『ポケモンGO』がスタートしたということ。もしこれが3~4年前であれば位置情報も今より正確ではなかったし、スマホの電池の消耗も早かった。GPSの精度もスマホのスペックもストレスを感じずに遊べるようになったからこそだし、そういう意味ではタイミングがドンピシャリだったというのはありますね」
社会現象とまでいわれるほど『ポケモンGO』が瞬く間に世界中を席巻した背景には、様々な要因がうまく重なっていたのだともいえる。
「ポケモンとグーグルの繋がりは、東京の同じビルに入居していて『同じようなことをしていますね』ということでコミュニケーションを取り始めたのがきっかけです。さまざまなやりとりを続けていく中で、グーグルマップとポケモンを合わせるとこういうことができますねという話が自然と湧き上がってきたんです」
当時はグーグルの中にジョン・ハンケ(副社長・現ナイアンティック社CEO)が起こした社内スタートアップ、ナイアンティック・ラボ(のちにナイアンティックに改名)があり、イングレスという世界を舞台に陣地取りをするゲームがすでに配信されていた。石原さん自身もそのゲームにハマって半年ぐらいやり続けるうちに、ポケモンとイングレスの相性の良さに気づき、『ポケモンGO』の開発が正式にスタートしたのだという。
「イングレスもご存じのように難しいゲームなので、ポケモンの戦略的な要素であるバトルとあわせてしまうと、超難しいゲームになりそうだった。それじゃあダメ。とりあえずポケモンを捕まえる。それが楽しければいいよねということをやりましょう、と。いちばん重要視したのはそこです。遊ぶことが難しいものにしてはダメだという」
くしくも2016年は「VR(仮想現実)・AR(拡張現実)元年」とも呼ばれた年。AR技術を盛り込んだ『ポケモンGO』の世界的な大ヒットは、日常空間がゲームのフィールドになることで、最新のテクノロジーが身近に体感でき、多くの人に未来を実感させるものにもなったともいえる。10年後の未来から今年を振り返ったときに、おそらく真っ先に語られるのは「『ポケモンGO』」であることは想像に難くない。石原さんは、新しいものを生み出すために、なによりも大事なのは「妄想力」だと力説する。
「『何をバカなこと言っているんだよ』ということが、ある種、現実になるという時代にきているのだと思います。最新のテクノロジーがそれらを形にしてくれるし、不可能と思われることを可能にする。じゃあそのきっかけは何が与えるのかというと、妄想する力であったり、自由に考えることができるクリエーティブな時間だったりするわけです。そういう時間が日々の生活の中にあるというのは、相当強いことだと思いますよ」
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《フリーエディター・畠山里子》 1968年、宮城県生まれ。文化出版局勤務を経て、1996年よりフリーのエディター&ライターに。女性誌・男性誌のファッションページの構成に加え、ライフスタイル全般に関する記事などを執筆。先日取材で訪れたスウェーデンでは欧州限定のポケモン「バリヤード」をついにゲット!(T JAPAN web・畠山里子)
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