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「ビルマ慰安所管理人の日記」公表の意義(1) 毎日新聞の澤田克己記者編

「ビルマ慰安所管理人の日記」の公表

ビルマで楼KOREA_EDITION主の補助として、慰安所の管理人を務めた、朝鮮人の朴某の日記は、2013年8月、韓国のニュー・ライトの大物である、安秉直ソウル大名誉教授の解題をつけて本の形で公開された。楼主は山本〇宅と言い、彼の妻の弟で、義弟にあたる。

日本で、このことを報道したのは、朝日新聞が「論座」で公表の経緯を報じたのを除けば、毎日新聞のみ(2013年8月7日朝刊)であるが、元記事はネットではもう見られない。ただし、この時期、関連するヨタ記事を週刊ポスト等が報じている。捏造と言うイチャモンをつけられずに済むので、日記の公開が安によって行われたのは、結果的によかったのだと思う。
『慰安所管理人の日記』公開の裏側/WEB論座
「『慰安所従業員日記』の新事実」 週刊ポスト2013/09/20・27号

ポストの記事に典型的なように、当時、「慰安婦」が「性奴隷」でなかった証拠として、ネット右翼諸氏によって喧伝されたのだが、未だ、似たような話は後を絶たない。幸福の科学さんのとこに書かれた文章はその例で、安秉直の解題にもモンクをつけているので、ある意味、新機軸とも言えるが、呪いをかけられて、来世にイヌさんやブタさんに生まれ変わるのもなんだかイヤ(*´ω`*)なので、あえて言及はしないし、皆さんも、特に読んで頂かなくても構わない。
『日本軍慰安所管理人の日記』から読み解く慰安婦の姿/幸福の科学 

毎日新聞の記事を書いたのは、「知韓派」記者のホープと目されている、澤田克己記者である、澤田氏は、2015年に朴裕河氏と同時に、毎日新聞が主催する、アジア太平洋賞の特別賞を受賞した。あの長田達治氏が絡んでおり、「お手盛り」という言葉が浮かんでくるが、もちろん、もらう方に責任はない(と思う)。

最初に言っておくと、私は澤田記者やその周辺の、毎日新聞の記者については、非常に批判的である(正確に言えば、そうなったのはごく最近の話である)。もちろん、一緒にしたら気の毒とは思うが、澤田記者の書いた記事も基本的には、ポストや幸福の科学さんのように、今までの実証研究や、被害者女性や軍人の証言を無視して、日記の表面上の記述をそのまま垂れ流すという例に変わりない。毎日新聞の新旧記者で、「慰安婦問題」に積極的に発言している人たちのほとんどは、朴裕河氏や李栄薫氏のファンを公言している。バカバカしいので、最近はもう、この人たちに気を遣う必要もないのかなと思い始めている。

前述したように、毎日新聞の元記事は、もう見られないので、当時の記事をまとめたヌルボさんのところのブログ記事、『「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差』に、リンクを貼っておいた。当時の報道の状況を、一番、丁寧に伝えていると思う。実は、(下)でコメントをつけている「サトぽん」と言うのは、この記事を書いてる私本人である。何も知らないくせに、「挺対協」に対する非難めいたことを書いているのは、恥ずかしいのだが、今更、自分を飾ってもしょうがない。「支援団体」に批判的な内容の、四方田犬彦氏の「ソウルの風景(岩波新書)」を読んでいたこともあり、三年ほど前まで、慰安婦問題を論じる時に、「挺対協」批判は一種の「お約束」とすら考えていた。

→「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(上)
「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(中)

「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(下)

ブログの主催者氏は日韓の報道をめぐって、「無視できない大きな落差」があると書いており、同調するようなことを私はコメントしている。だが、これは、はっきり言わせてもらう。確実に日本側の報道が歪んでいるのだ。「慰安婦問題」についての無知と言って構わないと思う。

毎日新聞の記事が出た後、日記本文を活字に起こした韓国版が出版され、2013年の9月からはWEBで安の解題も含めて、ダウンロードできるようになっている。肝心の中身については、こちらで言及しているように、なでしこアクションのサイトから、ダウンロードできると言うビックリのことが起こっているのだが、落星台研究所の正式なダウンロードサイトを紹介しておくので(『日本軍慰安所管理人の日記』(日本語翻訳版))、参考にして頂きたい。

朴某の日記と米軍の尋問調書

私はこのブログの記事を読んだ後、少しビルマの慰安所のことを知っておこうと、ビルマで慰安婦で働くことを強制された文玉珠さんの聞き書き、『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』を、図書館で借りて読んでみて驚いた。彼女は郷里の大邱から、マツモトという男に騙されて、ビルマに「連行」され、「慰安婦」にさせられたのだが、「慰安婦」となることは、慰安所としてこれから使用される建物に着いて初めて知らされる。大邱を出発してビルマに着くまでの話は、近々、原文を「文献倉庫」の方にアップさせてもらうつもりであるが、手短にその時の様子を引用する。

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mun1十七人はいっせいに大声で泣いた。「アイゴー、だまされたわたしが悪かった」「悪いこともしてないのに、なぜこんな目にあわなければならないのか」と。だましたマツモトにくってかかる娘もいた。マツモトは、泣いてるわたしたちに向かって、はじめてここが慰安所であるといった。軍人の相手をすれば金になるのだから、我慢して働くこと、軍人は切符を持ってくるから、それを受け取って、一日分ずつを自分に渡すこと、朝鮮に帰るときに切符を合計した額を四分六に分けて、六分をわたしたちに渡すから、しっかり働くように、などと説明した。泣きながら眠った夜が明けると、軍人たちが並ぶようになった。

出典:ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私/梨の木社(1977)
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周知のように、彼女は秦郁彦氏などから、しこたまカネを儲けた「売春婦」として扱われているが、彼女のことを話題にするネット右翼諸氏の文章を読んでも、このビルマに連れていかれた経緯に触れていることは全くなかった。私は秦氏がやっていることは、とんでもないインチキだと、確信したのはこれがきっかけなのだが、これで話は終わらなかった。

毎日新聞の記事では触れられていないが、日記を書いた朴は、有名な米軍の尋問調書に出てくる、ビルマの日本人慰安所楼主であるキタムラエイブンと同じ船に乗って、ビルマに到着しているのである。そして、文玉珠さんもこの船に乗っていたことはこれも確実だ。朴の日記の中には、同じ第四次慰安団として来た人間として、大邱の松本恒、つまりマツモトの名前が出てくるからだ。

同様に、1943年7月10日付の記述で、朴とキタムラが同じ船に乗っていたこと分かる。
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7月10日土曜日、曇雨天朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。昨年の今日は、釜山埠頭で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した出発の日である。もう満1年を迎えている。 顧みると、実に多難な1年だった。ペグーの金川栄周が来た。村山氏宅で夕食を食べ、宿舎で寝た。
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以下、ネットに落ちていた、米軍の尋問調書、『連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号』から引用する。引用文中の「捕虜」は、「日本人のキタムラエイブン」である。この日記の発見の最大の意味は、なによりも、この米軍の尋問調書に書いてあることが、細かな日付に至るまで、正確な事実と判明したことなのである。周知のように、この女性たちは、別資料によって、「売春婦」として働かされることは、知らされていなかったことが分かっている。

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burma

ビルマのミッチナーで捕虜となった朝鮮人女性たち 浅野豊美氏の『雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る(1999)』によると、左端の俯いている女性がキタムラエイブン夫人のトミコだと言う

捕虜、その妻、および義理の姉妹は、朝鮮の京城にて食堂経営者としてそれなりに稼いでいたが、客足は減ってきていた。彼らはより多く稼ぐ機会を探していたので、「慰安婦」を京城からビルマへ連れて行く許可を京城の陸軍司令部に申請した。捕虜によると、その示唆は、もともと陸軍司令部から出たもので、京城にいる捕虜と同じような多数の日本人「実業家」たちに伝えられていた。
捕虜は朝鮮人女性22名を購入し、女性の性格、容姿、年齢に応じて300から1000円を彼女の家族に支払った。これら22名の女性の年齢は19から31歳であった。女性たちは捕虜の占有財産となっていたので、陸軍は彼女たちから利益を得なかった。朝鮮軍司令部は、日本陸軍の全ての軍司令部宛ての書簡を捕虜に与え、移送、食糧、医療など、捕虜が必要とした場合の援助は全て提供するよう要請した。
食堂を続けるために義理の姉妹を残して、捕虜とその妻は、22名の女性を連れて、女性703名(全員が朝鮮人)および日本人男女90名程度(全員が捕虜と同じようないかがわしい者たち)からなる一行で、1942年7月11日に釜山を出航した。7隻からなる船団の中で、一行は4000トンの旅客船に搭乗して航行した。陸軍司令部からは無料乗船券が提供されたが、航海中の食事は捕虜が全額支払った。台湾に寄港した際、シンガポールへ向かう女性22名が新たに乗船した。その後、シンガポールに寄港した際に、一行は別の船に乗り換え、1942年8月20日にラングーンに到着した。
ラングーンで、一行は20から30名ずつのグループに分けられ、各グループは異なった連隊、部隊、もしくは中隊に配属され、ビルマ各地へ分散して行ったため、各グループが独自の売春宿を持つようになった。

連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号
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毎日新聞の記事には、私の知る限り、キタムラと朴がこの「第四次慰安団」の一員として、ビルマに一緒に来たことは明記されていない。今、読見返すと、安の会見からそれらしいことが分かるのだが、安に質問している澤田克己記者(大貫記者かもしれない)は、「強制連行」の有無について、安の言質をとりたくてしょうがないのか、前のめりになってほとんど流してしまっている状態である。澤田氏は、安の解題など無視して、朴が書いた日記の内容から、当時の「慰安婦」が置かれた境遇の考察に入るのだが、なぜ、朴が書いていることをそのまま信用するのだろうか。

毎日新聞に澤田克己記者が書いた記事

毎日新聞の澤田記者は記事を書いた頃を回想して、その著書『韓国「反日」の真相』の中でこう語っている。私はさすがにビックリした。会見時は、米軍の尋問調書との関係を知らなかった可能性はあるが、以下の文章が書かれたのは、二年後のことだから、言い訳はきかない。ある意味、確信犯である。
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sawarin私はこの時、「ただの売春婦」や「強制連行された犠牲者」というステレオタイプを排除し、資料から読み取れる慰安婦像を忠実に描こうと努力した。ただ、残念なことに、韓国メディアの描いた「日記から分かる慰安婦像」は全く違うものとなった。韓国メディアは、結婚して廃業する人がいたり、帰国した元慰安婦に業者が送金したなどの記述は一切無視し、「かわいそうな犠牲者」というステレオタイプを拡大再生産する道具に使ってしまったのだ。

出典:韓国「反日」の真相/澤田克己 文春新書(2015)
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おいおいである。「ステレオタイプを拡大再生産する道具に使ってしまった」のはどちらの方なのだ。周知のように、安秉直はあの李栄薫と並ぶ韓国の有名なニューライトである。安の会見での話は、朴裕河氏が当時、言っていたように(ソースが見つかりませんが探します)、あの安秉直が「慰安婦」を性奴隷状態にあったと認めた、良くも悪くも「安が転向した画期的な話」と、当時は受け止められたのである。

日本軍慰安所管理人の日記』(日本語翻訳版)』で、安秉直の解題を読んでもらえれば分かるが、澤田記者は安の解題の内容をまったく参考にしていないのだ。「資料から読み取れる慰安婦像」と言うが、何を寝ぼけたことをとしか思えない。澤田記者が記事を書いた毎日新聞では、慰安婦が映画を見にいったことを記事の見出しに書いているが、ビルマで「慰安婦」にさせられた李用女さんも、既に同様に、映画を見に「行かされた」ことを証言している。もちろん、戦意高揚映画である。もともと、この手の話は、被害者女性の話にいくらでもあるのだ。戦地に慰問に来た歌舞伎を見た話や、宴席で歌を歌わされた話もあるし、軍が主催する「運動会」に参加した話もある。

日記には女性たちに送金した記録があるというが、慰安婦女性にもさまざまな人がいる。ほとんど、楼主の手先のような人も中にはいるのだ。高額を送金した例が、その例でないと、誰が言えるのだ。そもそも、千円程度の前借金(騙されているわけだから正確には前借ではない)なら、客が死ぬほどやってくるのだから、三ケ月か半年程度で完済できる計算になる。彼女たちに高額の貯金があったとして、前借返済後も、慰安婦を強制される立場から見れば、当然の「代価」なのである。彼女たちが「高額の報酬」を得ていたというのは、騙して連れてきた女性に売春を強要していた地下組織の親玉が、「相応のカネは払った」から、免罪されると考えているようなものなのだ。

そして、大多数の女性たちは、「相応のカネ」はおろか、楼主から金などまったく、もらわなかったと証言している。兵士からはチップが、もらえたと言う例は多いが、軍事郵便貯金に貯金させるというのは、きちんとカネを楼主が払うかどうかはとは別に、軍が「慰安婦」に推奨していたことである。

なぜ彼女たちは金ももらえず、延々と慰安婦を続けさせられたかという理由の一端は、日記からも読み取れる。それは慰安所経営者の廃業の多さである。朴自身も義弟の死によりビルマの慰安所から離脱するのだが、一年程度で、朴の仲間の数人も廃業している。なぜなのかは分からないが、彼らは、ある程度カネを稼いだら、女性たちを他の業者に売り飛ばして帰国するのだ。

複数の業者にたらいまわしにされたと言う、元「慰安婦」女性の証言は多い。長くなるので、この話はまたの機会に譲るが、業者が悪いのはもちろんである。だが、もともと、内地や朝鮮の公娼制度下の貸座敷業者というのは、女性たちの生き血を吸って生きるといわれた奴らなのだ。だから、女性たちの前借金の返済状況は、抜け穴はもちろんありつつも、警察によるこまごまとしたチェックを受けた。借金を返せば自由になれると言う点では、ぎりぎりのところとはいえ、ともかくも公娼制度下の前借金制度は機能していた。完全にタガのはずれた状況が、軍の慰安所のいたるところで起こったというだけの話である。

国際誘拐団の一味

日記を書いたの朴某は、なにも中立的な立場から日記を記録していたわけではない。彼は朝鮮から騙して女性たちを慰安婦にするために「誘拐」してきた連中の一員である。慰安婦「調達」の経緯は示されていないので、百歩譲って、朴の一団は身売りしてきた女性たちを「調達」してきたと、好意的に考えたとしても、彼はいわば国際誘拐団の一員なのである。朴は、他の連中、文玉珠さんを騙して「連行」していったマツモト、これも騙して「調達」したキタムラがやったことを、当然に知っていたはずだ。この日記の著者の朴が、「いかがわしい奴らの仲間」であることは、安の解題にも書かれている。

なにかあれば、朝鮮人の慰安所業者の日記を押収することなど、憲兵にとって造作もないことだ。不都合なことを、日記に書くわけがないだろうし、事実、同じ船に乗ってやってきたマツモトが、文玉珠さん一行を騙して同じビルマの地に連れてきたことなど、日記には全く書かれていない。

澤田記者はこうも書いているが、これも全く納得がいかない。
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安名誉教授は私の取材に、慰安婦は自由を制限された「奴隷状態にあった」という見解を示しながらも、募集については「行政機構がきちんと機能していた朝鮮では強制連行の必要はなかった」と話した。もちろん「業者が暴力を振るった可能性はあるし、人身売買は当然のように行われていただろう」が、人狩りのような強制連行があったとは考えづらいということだ。

出典:韓国「反日」の真相/澤田克己 文春新書(2015)
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そもそも、この安の話は、単に彼が考える「強制連行」についての一般論で、「慰安所管理人の日記」の発見から分かることとは、何の関係もないし、実証的な研究から導かれた結論でもない。この第四次慰安団の例は、完全に組織的に女性たちを軍共謀のうえでだまして、連れていった例である。「洗濯や兵隊さんに包帯を巻く仕事」だと思っている女性たちに「人狩りのような強制連行」された女性たちが混じっていたら、騒ぎになるのは目に見えている。この例は、秦郁彦氏が言う「狭義の強制連行」の範疇には入らないだろうが、そのことが「狭義の強制連行」がなかったことの証明になるわけもないし、日本軍が主体となった集団誘拐、強制売春の例には、確実に入る。要するに、「強制連行はなかった」という、毎日新聞が垂れ流しているステレオタイプに、押し込めているだけなのであるが、ビルマの慰安所の朝鮮人女性は、このように騙されて連れてこられた女性たち(文玉珠さん、李用女さん)と、中国戦線から「鞍替え」させられた女性たち(朴永心さん)が主体であったことは、既に分かっていた話である。

澤田記者は、去年(2016年)に公開された韓国映画「鬼郷」について、別のところでこう書いている。

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上映後に舞台挨拶をした趙正来(チョ・ジョンネ)監督は「反日映画を作ろうとしたわけではない」と強調した。確かに「日本の見方に配慮した」と主張したいのだろうと思われるシーンが散見された。主人公が連れて行かれるシーンでは、銃を担いだ日本兵と一緒に来た朝鮮人らしい男が両親に娘を差し出すよう強要し、母親が泣きながら荷物をまとめて持たせている。男はおそらく朝鮮人業者だろうし、韓国内で流布されている強制連行のイメージよりはマイルドな描写である。道を歩いている少女を片っ端からさらってトラックの荷台に乗せているというイメージが独り歩きしているのだから。

出典:少女像移転は条件ではない、慰安婦映画と支援財団を考える 澤田克己 ウェッジ 2016年8月1日***************************************************
「鬼郷」に描かれている例は、旧満州への連行例としては珍しくない一般的なやり方で、時期的には「官斡旋」とみられる連行例である。澤田記者が、「道を歩いている少女を片っ端からさらってトラックの荷台に乗せているというイメージが独り歩きしているのだから。」と言うなら、ぜひとも、その独り歩きしている「実例」を提示してみせて欲しいものである。私が知る限り、被害者女性の証言にすら、ほとんどそんな例は見られない。あの吉田清治氏の証言にしろ、暴力的な手段で「慰安婦」の調達を試みたのは、最初だけで、頑強な抵抗にあって、「ダマし」に切り替えたことになっている。「知韓派」の人たちがよくやる、この種の誇張については、→朝日「誤報」騒動時のBSフジ 新報道2001の小倉紀蔵氏の発言という記事の中で指摘している。

この件に関しては、→映画『鬼郷(クィヒャン)』関西上映会でも、既にモンクを言っているのだが、ついでだからもう一ついこう。
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慰安所が日本軍の管理下にあったことは、旧軍の文書でも確認されている。日記にも、連隊本部に慰安婦の収入報告書を提出したり、連隊本部から避妊具を受け取ったという記述が頻繁に出てくる。ビルマでは、軍から移転を命じられて「慰安婦一同は絶対反対」(一九四三年三月一〇日)と抵抗したが、結局は「司令部命令に勝てず」(同一四日)という記述もあった。文句を言うことはできるものの、最終的には従うしかない、という軍との微妙な距離感を読み取れる。

出典:韓国「反日」の真相/澤田克己 文春新書(2015)
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「微妙な距離感」もないもんである。「朝鮮人の楼主」が日本軍にモンクを言えるわけがなかろう。「慰安婦一同は絶対反対」と抵抗した(理由や、どのように「抵抗」したのかは、日記からは全然分からない)ということが、日記からは読み取れるだけなのだ。

タレント野口健氏の祖父が語る「慰安所配分計画」の話

これに関連して、面白い証言がある。以下は、『回想ビルマ作戦/野口省己(1995)光人社』からの抜粋である。野口省己氏は、登山家でタレントの野口健氏の祖父である。辻参謀というのは、あの辻政信のことで、昭和19年7月頃のビルマ・メイミョーの第33軍司令部の出来事。慰安所の配分計画が、司令部全体の合議が必要な、重大なマターであったことを示す証言である。抵抗なんか、できるわけがないではないか。
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「高級副官の上田孝中佐が、辻(政信)参謀のもっとも嫌いな慰安所の配分計画をもって、合議を求めにきた。辻参謀はこれを一瞥すると、時が時だけによほど癇にさわったようで、『こんなものは参謀の見るものではない。少なくとも作戦参謀の見るものではない!』と怒鳴りつけて、書類を床にたたきつけた。上田中佐は、辻参謀のあまりの剣幕にびっくり仰天して、平身低頭して悄然として引き下がっていった」

出典:野口省己著『回想ビルマ作戦』光人社(1995)
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楽なので、今回は本を直接参照していない。例によって、佐久間哲さんのとこからのコピペである。野口は軍人らしく、女性たちは慰安婦に自らの意思でなったのだという立場で証言しているが、米軍の尋問調書に出てくる703人の朝鮮人女性たちの例は、もちろん、この話がウソッパチであることを示す。

ついでなので、もうひとつ、これは自分のとこの「文献倉庫」に、リンクを張っておく。業者と軍の関係が、「モンクは言えるが最後は従わざるを得ない」という関係ではなく、「懇願はできるが抵抗は一切できない」という関係であることを示す例である。
手記 慰安所はこうして出来た

例によって長くなった。コメント欄に、澤田記者が書いた文章の、関連部分を全文、転載させてもらったので、参考にして頂きたい。次は安秉直による日記の解題と米軍の尋問調書との関わり、その次は秦郁彦大先生編、そのまた次に文玉珠さんと李用女さんの話をして、朴裕河氏の話と日記の細かい詳細については、最後に記事にします。

って、あと四回も続くのかよ(+_+)、と自分でも思ってますが、今回はこれまで。


【関連記事】

週刊ゲス新潮の記事と林博史教授
文玉珠さんの軍事郵便貯金

【関連記事:毎日新聞関連】

3.28 研究集会 「慰安婦問題」にどう向き合うか 集会記録集
テニアン島で米軍捕虜となった朝鮮人男性の証言(幻のリー・パクド)
テニアン島で捕虜となった朝鮮人女性の話
毎日新聞の慰安婦問題報道について(1)

【関連外部リンク】

本文中で紹介したところ以外で、参考にしたところに限らず、現在、この日記の発見が、どのように論じられているのか、分かりやすいところを挙げました。内容については、ここでは言及しません。堀和生氏のところは、基本中の基本文献なので、ちょっと文字を大きくしてます。

犬鍋さんのとこの(9)は、朴裕河氏がこの資料について書いた「幻の書評」ですが、改めて読んだら、凄いことが書いてありますね。ぜひとも、皆さんに読んで頂きたいものです。今年から、一応、リンク集に書いてないサイトに参考リンクを張る場合には、連絡しようと思ってるんですが、犬鍋さんと私の仲なので(笑)、まあいいかと。イカンっていうなら、コメントでも下さい>犬鍋様。

東アジアの歴史認識の壁 京都大学経済学研究科教授 堀 和生

慰安所日記を読む(9) 幻の書評 犬鍋のヨロナラ漫談やで~ 2014-06-08
慰安所日記を読む(10) 安教授の深謀遠慮 犬鍋のヨロナラ漫談やで~ 2014-06-10
「日本軍慰安所管理人の日記」に関する安秉直氏の結言 誰かの妄想・はてな版 2015-02-15

ビルマの日本軍慰安所(日本軍慰安所管理人の日記)を読む 河野談話を守る会のブログ 2015/5/28
★朴裕河박유하「帝国の慰安婦」無罪記念★落星台経済研究所낙성대경제연구소『日本軍慰安所管理人の日記』★ 

発表順に並べました。ほかにもいろいろありますが、とりあえずこれくらいで。

1 comment to 「ビルマ慰安所管理人の日記」公表の意義(1) 毎日新聞の澤田克己記者編

  • satophone

    韓国「反日」の真相/澤田克己 文春新書(2015)

    メディアも逆らえぬ「正しさ」

    第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働いた朝鮮人男性の日記が、二〇一三年に発見された。一九四二年に釜山港を出発した「第四次慰安団」の一員として東南アジアに向かい、一九四四年末に朝鮮へ戻ったという人物だ。第三者として現場にいた人物の日記が発見されたのは初めてだった。

    朝鮮近代経済史が専門で、慰安婦問題にも詳しい安秉直ソウル大名誉教授が、地方経済史研究のために収集した資料の中から発見した。元々は、ソウル近郊の個人博物館が約二〇年前に古書店で入手したものだ。日記の筆者は、釜山市郊外で一九〇五年に生まれ、公立普通学校を卒業した一九二二年から一九五七年まで日記を付けていた。三六年間に及ぶ日記は、一年にノート一冊。数行程度の日も多いけれど、ほぼ一日も欠かすことなく日記を付けた几帳面な人だったようだ。

    残念ながら、朝鮮での慰安婦募集に携わったと見られる一九四二年など八年分は欠落していた。ただ、慰安所で働いていた一九四三、一九四四年の記録から、当時の状況がよく分かる資料だ。

    日記を通読して分かったのは、日韓双方で語られる極端な話はどちらも現実離れしているということだった。

    慰安婦たちは日本軍の管理下で厳しい状況に置かれていたが、一方で、廃業して帰国する人もいたし、収入を貯金してもいた。貯金については、超インフレだった当時の状況や、実際に引き出せたかどうか疑問の残る戦時郵便貯金だったという問題点はあるものの、それでも収入を得てはいた。今までも語られてきたことではあるが、現場にいた人物の日記という形で全体像を見せられると、現実は単純ではないことを改めて実感させられる。

    私はこの時、「ただの売春婦」や「強制連行された犠牲者」というステレオタイプを排除し、資料から読み取れる慰安婦像を忠実に描こうと努力した。ただ、残念なことに、韓国メディアの描いた「日記から分かる慰安婦像」は全く違うものとなった。韓国メディアは、結婚して廃業する人がいたり、帰国した元慰安婦に業者が送金したなどの記述は一切無視し、「かわいそうな犠牲者」というステレオタイプを拡大再生産する道具に使ってしまったのだ。

    韓国メディアでこうした日本関連の記事を見る時、韓国の記者に「おかしいじゃないか」と文句を言うと、「こう書かざるをえない」という答が返ってくる。こうした書き方をしないと世論から批判されるというのだ。そこには、世論の考えるであろう「正しさ」には逆らえないという意識があるようだ。司法と同じくメディアにも、「軍事政権に利用されてきた」という批判があることが作用しているのかもしれない。

    安名誉教授は私の取材に、慰安婦は自由を制限された「奴隷状態にあった」という見解を示しながらも、募集については「行政機構がきちんと機能していた朝鮮では強制連行の必要はなかった」と話した。もちろん「業者が暴力を振るった可能性はあるし、人身売買は当然のように行われていただろう」が、人狩りのような強制連行があったとは考えづらいということだ。

    韓国内ではかなり刺激的な見解なので、「新聞に実名で書いていいのか」と繰り返し確認したが、「事実なのだから構わない」と言う。とても勇気のある人だが、残念と言うべきか、当然と言うべきか、韓国メディアにこうした見解が紹介されることはなかった。「正しさ」という観点からは、あってはならない発言ということになるのだろう。

    参考までに、日記の内容というのは次のようなものだった。

    男性は、一九四三年七月一〇日の日記に「昨年の今日、釜山埠頭で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した」と記述。一九四四年四月六日には「一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第四次慰安団の団長としてきた津村氏が生鮮組合の要員として働いていた」と書いた。日記には、津村氏以外にも「朝鮮・忠州の人である新井清次氏」や松本、山田、光山といった人物が「朝鮮から一緒に来た」と挙げられている。どれも、日本名を名乗った朝鮮人業者だと見られる。

    米軍が一九四四年に作成した日本人捕虜の尋問調書には、慰安婦七〇三人と業者約九〇人が一九四二年七月一〇日に釜山港からビルマへ向かったと記録されている。業者は同年五月から、東南アジアでの「軍慰安業務」のために女性を募集した。出港日から見ると、日記にある「第四次慰安団」であると類推できる。少なくとも四回は「慰安団」が組織されたということだろう。

    日記にはその他、「航空隊所属の慰安所二ケ所が兵站管理に移譲された」(一九四三年七月一九日)、「夫婦生活をするため(慰安所を)出た春代と弘子は今般、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになった」(同二九日)などと、軍と慰安婦の関係が記されていた。

    慰安所が日本軍の管理下にあったことは、旧軍の文書でも確認されている。日記にも、連隊本部に慰安婦の収入報告書を提出したり、連隊本部から避妊具を受け取ったという記述が頻繁に出てくる。ビルマでは、軍から移転を命じられて「慰安婦一同は絶対反対」(一九四三年三月一〇日)と抵抗したが、結局は「司令部命令に勝てず」(同一四日)という記述もあった。文句を言うことはできるものの、最終的には従うしかない、という軍との微妙な距離感を読み取れる。

    一方で日記には、「慰安婦の金●先が送る送金六〇〇円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った」(一九四四年一〇月二七日)、「鉄道部隊で映画(上映)があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた」(一九四三年八月一三日)という、戦時の日常生活をうかがえる内容もあった。

    日記を読むと、前線であるビルマと後方地域であるシンガポールでは状況がかなり違ったことがわかる。シンガポールでの日記には慰安婦の「廃業」や「帰国」に関する記述が多く出てくるが、ビルマではそうした記述は見られない。日記の筆者はシンガポール在住時の一九四四年一〇月二五日、元慰安婦が結婚したので「知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われ」たという。ビルマでは既に日本軍が敗走を重ねていた時期で、連合軍の尋問調書などによると、多くの慰安婦が巻き添えで犠牲になっていた。

    残念ながら、「正しい」情報以外を切り落とした韓国メディアの記事からは、こうした多面的な姿を知ることは出来ないのである。

    (P112~118)

    出典:韓国「反日」の真相/澤田克己 文春新書(2015)

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