2008年01月05日

保守主義とは何か――混迷する戦後の思想を再点検する(5)

 ●権力に利用された天皇(続)
 日本は天皇制(度)の国といわれる。
 だが、明治維新以後の日本は、天皇を利用して近代化をおこなった西洋のモノ真似国家であり、天皇を中心に和をむすんできた江戸時代以前の伝統的な国のかたちは、120年前に、すがたを消している。
 われわれが知っている天皇制度は、明治維新以降のものである。
 それが、本来のすがたではなかったところに、天皇問題のむずかしさがある。
 現在の象徴天皇も戦前の現人神も、伝統にもとづく、本来の天皇制度ではない。
 というのも、天皇制度は、伝統国家と一対になっているからである。
 保守主義が、天皇制度をおもくみるのは、文化や習俗、歴史の叡智をかかえこんだ伝統国家と一対になっているからで、祖国や歴史への思いに、天皇制度が介在している。
 国家形態と天皇の関係は、おおまかには、つぎのようになるだろう。

 ●古代・中世=豪族をしたがえた朝廷の世襲的君主
 ●中世=文化や歴史の継承者、民の代表、神道の最高神官として権力を監視する権威
 ●明治維新後=国のかたちを象徴する主権者
 ●戦前=現人神、大元帥としての神がかり的な権力者
 ●戦後=国民主権というありうべくもない体制の象徴
 

 西洋の模倣による明治以降の近代国家、西欧と派遣を争った戦前の帝国主義国家、および、主権が国民にあるとされる戦後の空想国家は、いずれも、日本の伝統的な国家像とはいえない。
 わたしがいう天皇制度は、伝統国家における天皇の在り方をさしている。
 天皇と伝統、つまり、国体と文化、習俗、歴史は一体化している。
 したがって、天皇制度の危機と伝統の喪失は、表裏の関係ということになる。
 そこに、保守主義と天皇制度が一体化する根拠がある。
 ちなみに、天皇制度と天皇制は、異なる。天皇制という用語は、日本共産党が、国際共産主義組織(コミンテルン)の指令によって「天皇制打倒」という文脈でもちいられてきたもので、天皇を権力としてみている。
 伝統国家において、天皇は、つねに権威の側にあったので、あえてここでは、天皇制度と、区別して記す。
 日本を伝統国家にもどすことは、それほど、むずかしいことではない。憲法を改正すればよいのである。
 聖徳太子の十七条の憲法と明治天皇の五箇条の御誓文に貞永式目をくわえて、現代風につくりかえれば、世界に冠たる憲法ができあがる。
 だが、現在の情勢では、環境権の新設や人権の拡大ばかりいわれており、憲法をかえると、かえって、いまよりわるくなる可能性がある。
 このテーマについては、次回、のべることにする。
 さて。討幕運動や維新政府による近代国家建設、および、戦後の新体制において、天皇は、権力やイデオロギーに利用されてきた。
 権力が、みずからの権力を強化、正統化、絶対化するために、天皇を大元帥に、あるいは、現人神にして、権力の一部に組みこんできたのが、明治維新から戦前にいたる近現代史の流れである。
 天皇と民、幕府が三位一体となった伝統国家が、天皇を利用して、西洋的な絶対主義の国家へ変質していったのが、日本の近代化だったわけだが、ゆがめられた天皇制度は、いまもなお、かわっていない。
 否、戦後、GHQがつくった新体制では、教育勅語と「五箇条の御誓文」が反映された明治憲法が廃棄されているので、天皇制度のゆがみが、いっそう大きくなった。
 かつて、軍国主義に利用された天皇が、こんどは、国民主権という、一歩まちがえると共産主義へ足をふみこみそうな、危なっかしい体制の象徴にされているのである。
 保守陣営は、天皇制をまもれという。だが、日本の近現代において、西洋のモノ真似によって歴史の連続性が断たれているので、歴史や文化、習俗の復元なくして、天皇制度をまもることはできない。
 保守主義は、歴史の断裂点までさかのぼってゆがみをたださなければならない。それには、西洋のサル真似だった鹿鳴館時代をとびこえて、江戸時代まで立ち返る必要があるだろう。
 江戸幕府以前の権威としての天皇は、民と幕府と、三位一体となった天皇体制の中心にあったが、かならずしも、権力に利用されてきたわけではない。
 権力構造は、権威(民の敬愛)と権力(国益の行使)がかみ合って、はじめて、うまくはたらくもので、それが十全に機能してきたのは、中世の世界において、日本だけだった。
 江戸幕府が、世界史上、もっとも長命で、高潔な権力だった理由は、天皇という権威があったからだが、そのかん、天皇は、表にでてくることはなかった。
 表にでてこないから、権威なのであって、世俗化すると、権威は、失われる。
 権威は、高いところにあるから、失墜する。一方、はじめから、低いところにある権力は、争奪の対象になるだけである。
 企業と株主の関係でみると、権力が社長で、株主が権威である。
 株主(オーナー)の願いは、企業の安泰と繁栄、社員の幸福である。
 社長は、株主の期待に応えるべく、ビジネス界という世俗で、辣腕をふるう。
 株主が、企業にのりこんできて、経営に口出ししたら、どういうことになるだろう。
 経営が混乱するだけではない。内紛がおきる。株主にとりいったほうが権力を握れるとあって、社長派や専務派が、株主の権威を奪い合うのである。専務派が株主をとりこんで社長を追放すれば、クーデター成功だが、そんな権力争いをしている企業は、早晩、潰れることになる。
 権威は、世俗に降りてこず、御殿で歌を詠っていただいていたほうが、権力は、うまく機能するのである。
 明治維新において、天皇は、薩長の討幕運動に担ぎ出されて、権威から権力のカテゴリーへ、横滑りさせられた。そして、天皇という権威を奪い合って、内紛がはじまり、倒幕から戊辰戦争、西南戦争をへて、結局、天皇を担いだ薩長が、天下を握った。
 江戸城無血開城や大政奉還がうまくいったのにもかかわらず、維新政府は、なぜ、旧幕府軍や長岡藩・会津藩をあそこまで追い詰め、西郷隆盛を下野させ、西南戦争で討ったのであろうか。
 すべて、天皇が権力抗争にまきこまれたことに、原因がある。
 天皇をとったほうが勝ちとなるので、和ではなく、相克の論理がはたらくのである。
 権威が、権力へ接近すると、このように、権力構造が内から瓦解してゆく。
 天皇が、権力に利用されることがなかったら、西郷隆盛が中心になって、欧化主義ではなく、伝統国家のすがたをもった、もっとちがった近代化が実現されていたと思われる。
 明治から大正時代までは、日本が西欧化にむかっていった時代で、天皇が権力のほうへ移って、空洞化した権威に、脱亜入欧という文化革命がはいりこんできた。
 昭和にはいって、さらに、天皇は、軍国主義の"虚仮威し"の役割をおしつけられる。
 大株主に、代表権のある会長職をお願いするようなもので、そのため、日本の軍国主義は、統制派と皇道派、陸軍と海軍が天皇を奪い合い、双方ばらばらになったまま、戦争へ突入してゆく。
 旧日本軍には、陸海共同の「作戦本部」がなかった。陸軍は参謀本部、海軍は軍令部が最高の意思決定機関で、それぞれが、別個に、天皇(大元帥)の指揮下にはいったからである。
 大本営も御前会議も、ただの擦り合わせにすぎず、その前に、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が、べつべつに天皇の裁可をとって、勝手に戦争をはじめた。
 陸軍は、海軍の真珠湾攻撃計画の内容や日時を知らされず、海軍は、陸軍の支那事変の門外漢で、両軍とも、あとで、要請をうけて、部隊や飛行機をだしただけだった。
 ガダルカナル血戦やインパール作戦など、おおよそ、日本の敗戦を決定的にした一連の愚かな作戦は、一部軍人が、天皇の裁可をえたとして、良識派の反対をおしきって強引におこなったものである。
 日本軍が長期展望のないでたらめな戦争をしたのは、天皇をとりこめば、何でもできたからで、そこに、権力に欺かれた天皇体制の危険性と悲劇性がある。
 典型的なケースが「統帥権干犯」問題だろう。
 1930年のロンドン軍縮会議で、浜口内閣が海軍軍令部の反対をおしきって調印したのは、天皇の統帥権を干犯したものだとして、軍令部や野党の政友会(犬養毅/鳩山一郎)、右翼が政府を激しく攻撃。そののち、浜口雄幸は右翼(佐郷屋留吉)のテロに、犬養毅は五・一五事件に倒れて、政党政治は終わりを告げる。
 だが、もっと重大なポイントは、この事件によって、軍部が、天皇の名を借りて、統帥権という絶対権力を手に、独裁体制をつくりあげたことである。
 最高権力者として天皇を立て、その天皇を巧く利用したのが、軍国主義の正体だったといってよい。
 権威が、権力に利用されると、最悪の事態が生じるのである。
 権力が権威を利用するのは、戦時体制にかぎったことではない。
 戦後の天皇は、国民主権という、革新的な体制をささえる象徴として、イデオロギーに利用されている。国民主権というのは、GHQの傑作で、天皇制度という伝統的な文化をもって、かぎりなく共産主義(人民独裁)に似た体制をささえようというのである。
 革新が、国民主権ということばをふりまわすことによって、戦後日本から、徳や品格が失われて、日本人は、みな、醜いエゴイストになった。
 それが、伝統を失った国家・国民のありさまである。
 天皇=朝廷は、日本人の宗家であり、歴史や文化の象徴であり、権力者をかねた時代があったとしても、本来、日本という国の中心で、その中心を失うと、日本という国も日本人も、ばらばらになってしまう。
 天皇制度の恩恵は、失うまでわからないが、失ってからは、とりかえしがつかない。
 保守とは、伝統=天皇制度をまもることにつきるが、このテーマは、いつかまたふれることにして、次回は、保守思想と憲法改正についてのべよう。

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2007年12月24日

保守とは何か――混迷する戦後の思想を再点検する(4)

 ●権力に利用された天皇の悲劇
 中世以降の日本の権力構造は、世界史のなかでも、ひときわ、きわだっている。
 幕府(権力)が朝廷(権威)から官位を戴き、その朝廷が民の幸を祈るという三位一体の関係が、建武の中興以後、江戸末期まで五百年以上もつづいてきたのは、この仕組みが、それだけ、すぐれていたからであろう。
 とくに信長の安土、秀吉の桃山、家康の徳川時代は、朝廷が唯一絶対の権威で、したがって、その権威から征夷大将軍の官位をさずかった幕府の権力もゆるがないという、権威と権力の二元論が、ほぼ完璧に機能していた。
 権威なき権力は滅ぶということを知っていた信長や家康が、朝廷を利用したという言い方もできようが、じつはそこに、保守思想の真髄がある。
 わたしのいう保守は、過去のよきことをひきうけて、悪しきことを断つ功利的な思考や行動をさす。
 それが、歴史や伝統をおもんじる態度に帰着するのは、結果論であって、先立つのは、守旧・復古主義ではなく、是非をわきまえた、現実にそくした知恵である。
 権力のなかに天皇を立てるという考えがうまれ、時間をかけて、それが、血肉化されてゆく。長くつづいたものは、それだけで価値がある、とするのが、保守の中心的な思想であり、それも、天皇制度をささえてきた支柱の一つである。
 権力が天皇を利用したのではなく、権力は権威の裏づけを必要とするという歴史の知恵が、日本史のなかで開花したとみるべきだろう。
 それが、本来の天皇の在り方で、天皇を神格化して、国家元首にもちあげた明治維新と昭和の新体制のほうが、じつは、ゆがめられた天皇制度だったといえよう。
 幕末の討幕運動では、天皇をかちとったほうが勝ちという論理のもとで、薩長が猛烈な尊王倒幕運動をくりひろげた。
 権力は、みずからの権力を正当化しようとして、歴史をねじまげる。そのため、多くのひとが誤解しているが、徳川家も、朝敵とされた会津藩も奥羽諸藩も、朝廷に歯向かう気は、さらさらなかった。
 げんに、徳川慶喜は、朝廷に大政を奉還して、はやばやと恭順の意をしめしている。
 にもかかわらず、戊辰戦争という内戦へ発展したのは、薩長の謀略、とりわけ、長州藩の怨念によるもので、かれらは、天皇をかつぎあげて、二世紀半以上も昔の関が原の恨みを晴らしたのである。
 討幕運動は、当初から、スムーズに事が運んだわけではない。というのも、当時、国粋主義的だった孝明天皇は、開国をゆるさず、徳川家を頂点とした公武合体の新体制を望んでいたからである。
 その孝明天皇が、とつぜん崩御して、事態が急変する。
 ちなみに、孝明天皇の急死については、岩倉具視と伊藤博文による毒殺説が根強い。戦前は、孝明天皇にかんする研究が禁止され、いまもなお、資料はすくないが、孝明天皇の典医・伊良子光順が残した拝診日記は、中毒死を思わせる内容で、現在では、異例なことに、学術書までが、暗殺説を引用している。
 その孝明天皇がもっとも信頼をよせたのが、徳川家茂(孝明天皇崩御の直後に急死)と京都守護職の会津藩主・松平容保だった。
 孝明天皇と徳川家茂が存命だった時点までは、朝敵は、禁裏守護の役を解かれ、京都を攻めた(禁門の変)長州のほうで、薩長同盟がなければ、日本は、内乱ぬきに、新体制をつくりあげた可能性がつよい。
 ちなみに、坂本竜馬が薩長同盟にうごいたのは、国際的武器商人で、アヘン戦争をおこした国際資本マセソンの手下、トーマス・グラバー(グラバー商会)の意向にそったもので、薩摩は、薩長同盟ののち、グラバーから大量の火砲(アメリカ南北戦争の中古品)を買い付け、長州とともに江戸へ進撃、みずからがひきおこした戊辰戦争で、幕府軍を圧倒する。
 孝明天皇と徳川家茂が相次いで急死して、薩長同盟が成ると、薩長は、御所を軍事制圧して、会津藩は京都から放逐される。そして、若年の天皇を擁して王政復古のクーデターを成功させると、徳川家を丸裸にする要求(辞官納地)をつきつける。
 それでも、徳川慶喜は、倒幕派の挑発にのらなかった。すると、薩摩藩は、配下の者を江戸に送りこみ、薩摩藩士と名乗らせて商家などに押し入らせるという暴挙にでた。
 徳川側が、江戸の薩摩藩邸に犯人の引渡しを要求すると、薩摩側は、これを拒絶。面子と治安維持のため、幕閣が武士団を薩摩藩邸に送りこんだのは当然だが、これが、薩摩に開戦の口実をあたえることになった。
 大坂城にあった慶喜は、薩摩藩討伐を主張する強硬派をおさえきれず、京都にむかって進軍する旧幕府側の大軍と薩摩軍が鳥羽周辺で衝突、薩摩の大砲が火を吹いて、戊辰戦争の火蓋が切られることになるが、たたかいは、グラバー商会から大量の火砲を買い付けた薩長軍の優勢のうちにすすみ、やがて、薩長軍の陣営に「錦の御旗」が翻る。
 会津藩を主体とする旧幕府軍は、朝敵と宣告されて、慶喜は、江戸へ引き返す。
 幕府軍が賊軍となると、諸藩は、次々と官軍の側に転じて、ここで、大勢が決する。
 徳川慶喜は、江戸を無血開城して、新政府への恭順をしめすが、官軍は、鳥羽・伏見のたたかいで「錦の御旗」に発砲した会津藩を第一級朝敵ときめつけ、奥羽諸藩に、会津討伐を命じる。
 このとき、会津藩家老・西郷頼母は、なんども「恭順嘆願書」をさしだし、奥羽諸藩も総督府に、会津討伐解除の嘆願書を提出している。
 ところが、総督府は、討伐の方針をかえない。
 それどころか、総督府参謀の世良修蔵は、密書に「奥羽皆敵」と書き、これが仙台藩の手に落ち、怒った仙台藩士に捕縛されて処刑されるという事件までおきている。
 これを契機に、奥羽列藩同盟が結成されるが、北越戦争で長岡藩が敗北、会津城も白虎隊が全滅して落城。武士集団だった旧幕府軍は、こうして、薩長の火砲の前に瓦解していった。
 降伏の意思をしめした相手を討伐するという発想は、日本史上、なかったことで、そこに、関が原で敗走した薩長の怨念が見える。とくに、長州藩は、京都で、新撰組や会津藩士に痛めつけられた恨みがあり、しかも、長州勢のほとんどが、士分以下の小者で、武士にたいするコンプレックスがあった。
 明治新政府をつくった長州勢のうち、井上馨が士分以下、伊藤博文が足軽、山県有朋にいたっては、剣術を学ぶことすらゆるされなかった足軽以下で、山縣は、武士を何よりも憎んでいた。
 徴兵制度を採用して、日本の陸軍をつくった山縣は、軍隊の軍刀を西洋式のサーベルにかえてしまったが、そこに、明治政府が、武士の身分を廃して、ちょんまげ禁止、廃刀礼をうちだした理由が隠れている。
 明治維新は、近代化をめざした改革運動のようにいわれる。けれども、実際は、上級武士(幕府・藩士)にたいして、外国の力を借りた地方の下級・非武士がおこした西洋化のクーデターで、天皇は、その政変に利用されたといってよい。
 鳥羽・伏見、上野戦争(彰義隊)、長岡藩・会津藩との戦争から函館戦争にいたる戊辰戦争で、旧幕府軍を倒した明治政府は、秩禄処分や廃刀令に反発した士族がおこした佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争にも勝利して、日本から武士という伝統的な身分を根こそぎにする。
 そのことからも、明治維新が、旧体制をひっくり返す過激な革命運動だったことがわかる。
 長州一色となった明治政府がやったのは、武士階級の廃絶と西洋化という文化大革命にほかならず、そのために天皇が利用されて、権威が空洞化した。権力を監視するはずの権威が、権力にとりこまれたからである。
 権威が消滅すると、権力もまた不安定になり、あるいは、怪物化する。
 じじつ、日本は、明治維新によって、権威と権力が並び立つ本来の天皇制度を失い、ヨーロッパ型の権力一元型国家へと移行してゆく。
 日本は、その後、日清・日露戦争をへて、昭和初期の軍国主義にむかうが、そこでふたたび、天皇は、権力に利用されることになる。
 こんどは、権力を強化する飾り物として、である。
 次回は、大川周明や北一輝の国家社会主義と、陸軍と海軍、統制派と皇道派が、天皇を奪い合った軍国体制について、のべる。


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2007年12月13日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(3)

 保守ということばには「古いものを大事にする」のほかに、旧態依然、あるいは、改革を排除する、というイメージがある。
 それも、一面ではあるが、本質はちがう。
 保守は、じつは、すさまじいばかりの改革運動なのである。
「権力はかならず腐敗する」(アクトン卿)という至言があるように、歳月の経過とともに、権力は腐り、制度は疲労し、規律はゆるみ、組織はゆがみ、人心は怠惰に流れる。
 この権力の腐敗は、個と全体の矛盾と並んで、政治学上の二大難問で、いまだ、解決の目処が立っていない。
 権力が腐ると、政治体制も崩れ落ちるので、保守は、これをくいとめるために、急進的に、改革運動をおしすすめなければならない。
 それが、保守の真骨頂で、古いものを漫然とまもるのは、保守ではなく、体制主義(派)で、利権を漁る族議員が、これにあたる。
 日本史上、代表的な保守運動が、江戸の三大改革である。
 享保・寛政・天保の三大改革は、いまからふり返ると、ずいぶん窮屈なしめつけのように思えるが、これがなかったら、世界史上、類のない徳川幕府の長期政権もまた、不可能だったろう。
 徳川幕府は、独裁でも絶対主義王権でもなく、不安定な幕藩体制の上になりたっていた。全国の領主となった徳川幕府と、幕府から領地をあたえられて軍務につく各藩が、力を合わせて維持する体制で、近代的だったがゆえに、かならずしも、磐石ではなかった。
 地方にちらばった各藩が中央の幕府を軽んじ、行政官吏である武士の規律が乱れ、あるいは、武士階級が、農村や都市の商業資本を統制できなくなるような事態になれば、蟻の一穴から堤が崩れるように、幕府は、瓦解していたはずである。
 そうならなかったのは、つねに、改革がおこなわれたからである。
 三大改革では、農村振興や都市の商業・金融資本への干渉とならんで、支配階級の質素倹約と武芸の奨励が題目となった。
 幕府が、民のために祈る朝廷から全国の領地をあずかり、各藩が地方の領地を治めるという、三位一体(民⇔天皇⇔幕府)の支配構造のなかで、特権的な権力者は、でてくるはずがない。
 でてきたら、それが、幕藩体制の赤信号なのだ。
 武士階級が、慢心して贅沢にふけり、武芸を怠ることが、家康を尊敬してやまなかった徳川吉宗、吉宗の孫にあたる松平信定、吉宗が登用した水野忠之の子孫、忠邦には、我慢がならなかったのである。
 江戸三大改革は「家康公のむかしに戻す」というのがその精神で、底流に「放っておくと、権力は腐りはじめ、事態はわるくなってゆくが、体制のなかには自浄作用がそなわっていない」という世界観がある。
 これは、現在の「衆愚の思想」にもつうじるもので、世の中は、悪貨が良貨を駆逐する原理で、次第に、悪化してゆく。
 現在、国防を担う防衛省の汚職事件がマスコミに取り沙汰されている。
 江戸時代なら、守屋前次官は切腹モノだが、本人は、数人のヤメ検弁護士を立て、罪を逃れようとやっきになっている。
 このように「官の社会」に自浄作用がはたらかなくなったのは、保守による改革運動が停滞しているからで、そのため、霞ヶ関から防衛省、地方自治体の役所にいたる官僚機構のすべてが腐りはじめてきた。
 江戸時代の官吏は、公務員試験をパスした民間人ではなく、誇り高き武士で、この武士の責任のとり方が切腹だった。腹を切るのがこわいからモラルが高まったのではなく、武士のモラルの高さや名誉心が、切腹という強烈な自裁の精神をうんだのである。
 そのくらいの覚悟がなければ、権力は、腐敗から免れえない。
 日本の歴代将軍は、歴史の知恵として、この原理をわきまえ、幕府(権力)を監視する朝廷(権威)をおき、権力の絶対化と、絶対化にともなう腐敗を防いだ。
 したがって、保守運動が拠って立つところは、権威にたいする畏れということになる。
 朝廷からあずかった権力の行使に乱れがあってはならないとする覚悟が、保守の精神であり、だからこそ、そこに、自己監視→改革運動のエネルギーがはたらいたのである。

 といっても、保守は、かならずしも尊王主義とイコールではない。
 歴史や文化、国土や民が、国家安泰を神に祈る神=天皇に象徴されているので、天皇を絶対化する。絶対なのは、天皇ではなく、天皇が安泰を祈念する天地であって、そこが、王に忠誠を誓うヨーロッパの王政、共産主義・絶対主義国家の個人崇拝と根本的にちがう。
 別の機会に詳しくのべるが、日本の尊王主義は、天皇を利用して、権力を奪取しようという政権争いのなかからあらわれてきた。
 だが、古来より、権威である天皇は、ひたすら、畏れ多い存在だったのであり、権力の系列である臣下をもったことがない。
 臣下をもたないから、権力を監視できるのであり、戦時中の「現人神=大元帥」という宣伝は、日本史上、類のない捏造だったのである。
 保守は何をまもるべきかへ、話をもとへもどす。
 前回、右翼がまもるべきは、歴史や文化、国土や民の象徴としての天皇だとのべた。
 一方、保守がまもるべきは、失われた理想(=過去)である。
 革新は、未来に理想をもとめるが、保守は、過去のなかに理想をみいだす。
 事態は、日を追うごとにわるくなって、いつかは滅びるわけで、だからこそ、保守運動は、過去を模倣するという形で、改革運動をおこなうのである。
 伊勢神宮で二十年に一度、遷宮をおこなうのは、過去を未来へひきわたすには、原点へ還って、装いを新しくしなければならないからで、それも、維新の思想である。
 宇宙は人類の夢、ということばがある。革新陣営がいう未来への夢も、これと同じようなもので、火星かどこかへ行って、小便を濾過してのまなければならない地獄のようなところへ行くことは、人類の夢ではなく、地獄である。
 かつて、共産主義は人類の夢だったが、その夢のために、人類は、一億人以上が悲惨な死に追いやられ、いまなお、北朝鮮では、数パーセントの特権階級以外は、飢えと寒さのために死に瀕しており、中国の内陸部も、事情は、さしてかわらない。
 それでも、革新陣営や福田ら自民党の親中派が、北朝鮮サマサマ、中国サマサマというのは、未来には夢があるという"革命幻想"にとりつかれているからである(自民党のこのていたらくが、保守新党の可能性をさぐる勉強会=平沼新党構想がでてきた背景だが、このテーマについては、べつの機会にのべる)。
 保守思想には、理想は過去において実現されている、という歴史認識がある。
 現在が思わしくないのは、過去にうちたてた理想が崩れ去っているからで、その理想を再現するには、過去へ立ち帰らねばならない。
 未来の、火星へ行って小便をのむような生活、地獄の流血革命が、人類の理想なのではなく、かつてあり、いまもある美しい国土、ゆたかな人情、勤労の成果としての実りや繁栄が理想なのであり、これを旧悪として捨て、暗黒の未来にすべてをゆだねるのは、狂気にひとしい。
 そのことをわかっているのが、保守の心根で、カンサバティブだ、真正だと、小難しいことはいらない。
 革新派は、保守にたいして「現状を肯定する守旧思想」として攻撃する。
 だが、現状に満足していないのは、革新も保守も同じで、ただ、改革のやり方がちがう。
 保守は、家を補修し、手入れをして、大事に住む。ところが、革新は、火を放ってすべてを灰燼に帰させ、保険金で家を新築しようとする。歴史が教えるところによれば、そのくわだてはすべて失敗して、大勢が死に、飢え、文化と歴史が炎につつまれた。
 革新のデマゴギーから国民をまもることも、保守の仕事といいくわえておこう。
 次回は、権力に利用された天皇というテーマで、近現代史をふりかえってみたい。
 
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2007年12月07日

保守とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(2)

 「右翼」ということばは、あいまいで、誤解や曲解をまねきやすい。
 語源は、フランス革命後、議会の右側に、保守派や国粋主義者、ファシズム党が、席を占めたことによるが、そんな歴史をひっぱってきても、右翼の何たるかを説明することはできない。
 右翼、あるいは、右翼ということばが誤解されるのは、もともと、左翼の用語だからである。ちなみに、本物の右翼が、みずからを右翼と名乗ったことは、いちどもない。
 一方の左翼は、マルクス主義にのっとった政権奪取運動で、これには、暴力革命までがふくまれる。
 この左翼の対立概念としてとらえられるので、右翼が、政治運動とみられてしまうのである。
 左翼は革命だが、保守の改革運動は、維新とよばれる。
 維は「つなぐ」の意で、過去を現在につないで新たになるから、維新となるわけで、じじつ、物事は、たいてい、原点や初心にもどって、改まるものである。
 革命に反対する勢力を右翼とよび、敵対視するのは、左翼陣営のとらえかたで、右翼には、もともと、政権奪取の意思などない。
 かつて、北一輝や大川周明が、クーデターを計画したのは、国家社会主義を実現しようとしたイデオロギストだったからで、かれらを右翼というのは、まちがいである。
 左翼の反対語は、右翼ではなく、この国家社会主義で、ともに目的は、政権奪取である。

 政権奪取運動
 左翼→マルクス主義による革命
 国家社会主義→軍部による独裁
 
 
 両方とも、もちいているのは、社会主義や共産主義という西洋の思想で、前者がスターリンなら、後者がヒトラーといえば、わかりよいであろうか。
 戦時中、日本は、国家社会主義を志向したが、これは、一歩、誤ると、共産主義国家とかわらない体制になってしまう。統制経済は、スターリンの計画経済と紙一重で、国家総動員法は、共産党の一党独裁と同じようなものだったからである。
 日本の軍国主義は、右翼政権と思われがちだが、じつは、国家社会主義という左翼政権だったのである。
 左翼と対立するのが国家社会主義、とわかれば、右翼が、思想運動と察しがつくはずである。
 日本の近代右翼は、西郷隆盛の保守思想を汲んでいる。欧化主義に走った明治政府による歴史の断絶を拒み、文化の砦としての武士階級を残そうとした西郷の保守主義が、右翼思想の一つのモデルになっているのである。
 その一方、頭山満や内田良平ら、玄洋社や黒龍会系の人々がアジア解放に心血を注いだ大アジア主義の流れがある。
 現在の左翼がかった教科書には、かれらが、軍部の大陸侵略に加担したと書かれているが、戦前のアジアは、ヨーロッパ列強の植民地で、日本がたたかった相手は、そのヨーロッパ列強だった。
 当時、支那から孫文、朝鮮半島から金玉均、インドからチャンドラ・ボース、ベトナムからクオン・デ侯、ビルマからアウン・サン、フィリピンからリカルテ将軍ら、独立運動のヒーローたちが、続々と日本へやってきて、援助をもとめた。
 かれらを援けたのが、犬養毅や頭山満、玄洋社・黒龍会の有志だった。内田良平らの活躍には、血湧き肉躍るものがあるが、こういう人々の行動は、あくまでも、思想の発現で、権力闘争とは、無縁だった。
 岩倉具視や大久保利通ら、西洋崇拝主義者とのたたかい(西南の役)に破れて、西郷がまもろうとした武士階級は、廃絶となり、日本古来の文化や価値観が、文明開化と鹿鳴館文化に打ち負かされる。
 だが、西郷の保守主義と「敬天愛人」のことばで知られる「情け」は、大アジア主義となって、玄洋社・黒龍会へひきつがれた。
 この伝統右翼は、戦後、解散させられ、GHQ支配と60年安保を契機に、黒幕系や広域暴力団系の団体が右翼(政治結社)を名乗るようになって、本来の右翼は、すがたを消した。
 現在、右翼と呼ばれるのは、狭義では、政治結社系の右翼。広義では、左翼と敵対する政治的陣営のことで、思想のうねりとしての右翼は、残念ながら、存在しない。
 現在、右翼と称する人々やグループが、街宣車で軍歌を流し、激しい演説をぶっている。これはおかしな話で、本来、政治とはかかわらない右翼は、政治運動とは無縁のはずである。
 右翼が、政治にかかわってくるのは、思想運動のはての直接行動で、かれらは、とくべつの意味合いをこめて、極右とよばれる。

 左翼→政治運動 共産・社会(革新)主義者、選挙による政権奪取
 極左→闘争主義 トロツキスト、破壊主義と暴力革命による政権奪取 
 保守→政治運動 現政体・政策の継続性を土台にした政権維持と回復
 右翼→思想運動 国体の維持、歴史の連続性にのっとった文化防衛
 極右→行動主義 国体および現政体の破壊者にたいする直接行動


 保守が、左翼から右翼、革新から反動、反日主義者やコスモポリタン(世界主義者)から国粋主義者とよばれるのは、かれらが、文明開化や欧化主義、軍国主義(ミリタニズム)、社会主義、共産主義など、西洋の文明や外来思想にたいする防波堤だったからで、西郷の悲劇と、そこが、相つうじる。
 西郷は、欧化思想に負けた。現在の日本も、グローバリゼーションやアメリカの「年次要望書」で、屋台骨がグラついている。
 西洋の思想が日本に根づかないのは、「情」がないからだ。
 歴史の知恵、伝統を学びとる知のはたらきが保守なら、右翼は、情である。義理も人情も、礼も徳も、情である。
 情は「社会的情操」ともよばれるように、心と社会をつなぎあわせる。
 ひとは、理屈ではなく、情にしたがって生きる。その情のなかに、過去の価値が、ふくまれている。
 保守に、この情のはたらきがなかったら、ただの復古主義にすぎないものになってしまう。
 愛国心を教えるというが、国を思う心のはたらきは、やむにやまれぬ情なので、教えることはできない。情があれば、しぜんに育まれる。逆に、情がはたらかなければ、愛国心どころか、反日主義に走ることになるだろう。
 右翼が情けなら、国粋主義は宗教で、国家主義はイデオロギー、民族主義は感情である。国粋主義は、排斥運動にむすびつき、民族主義は、差別主義や争いをうむ。
 国家主義も、場合によっては、社会主義や権力主義に傾く。
 政治=権力とかかわっているからである。
 文化=権威とのみかかわる右翼の思想運動は、文化防衛であって、つまるところ、国体の護持である。
 したがって、右翼の役目は、天皇をまもるという次元にいきつく。
 これは、政治運動でもイデオロギーでもなく、文化防衛である。
 一方の左翼は、徹頭徹尾、政治とイデオロギーである。
 情けどころか、文化も歴史も、否定する。ということは、人間不在なのである。
 前世紀末に、共産主義が破綻したのは、過去の遺産なくして、人間らしい生き方ができる社会をつくれないと気づいたからだった。
 ところが、日本では、左翼色が薄まったぶん、反日主義・反国家主義・反歴史主義・コスモポリタニズムが広がって、かえって、保守が弱体化した。
 保守は、イデオロギーでは勝った。だが、保守をささえるハートの部分、つまり、右翼思想が貧弱だったため、共倒れになってしまったのである。
 共産主義というイデオロギーが価値を失った以上、左翼は、もはや、政治的存在たりえない。
 だが、反日主義という、国家を呪う執念だけをもった人々、いわば、情という文化を失った人々が、消えた左翼以上のペースで、ふえつづけている。
 それが、先の参院選において、「美しい日本」「道徳教育の充実」「憲法改正」を掲げた安倍前首相への不支持というかたちであらわれた。
  朝日新聞を中心とした左翼系のメディアは、安倍前首相を「右翼」と攻撃した。
 かれらがいう右翼とは、左翼=善、右翼=悪という左翼独特の識別によるもので、かれらの用語法では、右翼が、悪の代名詞なのである。
 右翼が、左翼が倒そうとする国体(歴史・文化)の守護兵で、当面の敵だからである。 
 反日主義、反国家主義、反歴史主義、コスモポリタニズムが、政治社会やマスコミ界等に広がっていくなかで、現在の政治体制は、保守思想や過去の価値観を共有する人々、あるいは、保守主義者によってまもられている。
 だが、危ないのは、政治体制ではなく、国家の土台となる国体のほうである。
 国体は、歴史や文化の体現者たる天皇を中心になりたっている。
 右翼は、この国体をまもる前衛として、存在価値がある。
 だから、右翼は、天皇の防人であり、文化防衛の担い手となりうるのである。
 思想的に鍛錬された少数精鋭の右翼は、大衆の支持をもとめず、みずからの手で政権を運営する志向ももたない。だが、政治とは異なった次元で、国体=歴史の連続性に身を挺する少数の強者として、維新の先駆けになりうる。
 右翼がおこなうべきは、政治運動ではない。いかにして日本国の国体をまもるかという思想的鍛錬をとおして、保守主義の一つの核となることである。
 その意味で、非政治的存在でありながら、保守主義の一翼をになっている。
 次回は保守主義は何をまもるべきかについてのべる。
 
 




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2007年11月30日

保守とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(1)

 政界ばかりか、現在、日本では、思想界が混乱のきわみにたっしている。
 とりわけ、保守主義にたいする認識が貧弱で、それが、政界を中心にした日本人の思想の混迷に、拍車をかけているように思われる。
 そこで、わたしなりに、ここで、日本の思想を整理しなおし、体系づけ、わかりやすくしておこうと思う。
 思想や主義といわれるものは、二つの体系がある。
 一つは文化。もう一つが、文明である。
 保守と資本主義、君主制が、文化の体系で、革新と共産主義、国民主権が文明の体系である。
 それ以外の、右翼や左翼、国家や民族、自由や平等、人権、民主主義。あるいは、伝統や習慣、宗教、真善美、道徳などは、それぞれ、文化と文明の二つの体系につらなるもので、その一つひとつを単独に語っても、あまり意味はない。
 文化と文明という二つの山があり、山頂に、保守と革新という砦が立っている。
 その山の中腹や裾野に、国家主義や民主主義など、もろもろの主義やイデオロギーが旗印をあげている、とイメージすると、わかりよいのではないか。
 ●文化の体系=保守・資本主義・君主制
 ●文明の体系=革新・共産主義・国民主権
 
 文化と保守が同体ということは、文化の性質をみればわかる。
 歴史の試練に耐え、淘汰されることなく、現在にひきつがれた過去の価値が文化の本質で、そのなかに、さまざまな芸や技術、習俗や伝統、習慣や道徳、真善美などがつまっている。
 保守が、君主制や資本主義と三位一体になっているのも、同じ構図である。
 国家や民族の歴史的遺産を包括的に継承する君主(天皇)制という伝統的体制において、天皇は「君臨すれども統治せず」の権威で、歴史や文化の産物である国体の最高位におかれている。
 そこに、保守の源流としての正統性がある。
 共産主義者がつけた名称なので、天皇制ということばと同様、語弊があるが、資本主義もまた、本来、人々が、生産や製造、貨幣や市場などをとおしてつくりあげた伝統社会であって、君主制とこの資本主義が、保守の両翼である。
「資本家が労働者を搾取する仕組み」などとマルクス主義者がいいがかりをつけるが、資本主義は、本来、勤労精神や主従関係、礼儀や義理、約束、よき風習などの道徳観念からできあがっており、人間の頭のなかでつくられた共産主義と比較することがまちがいなのである。
 保守が、君主制と資本主義を両翼としているのは、ともに、文化やモラル、真善美などを三者が共有しているからで、そういう大きな視野に立って見なければ、保守を理解することはできない。
 わたしは、これを「情の世界」と呼んでいる。
 情というのは、人間らしい感情や情緒、あるいは、義理・人情、忠誠心や愛国心などの総称で、いわば、日本人の心である。
 保守とは、こういう情をつつみこんだ思想で、イデオロギーとは別物なのである。
 一方の革新は「理の世界」である。
 歴史に育まれた歴史や文化、情や心ではなく、言語や観念、理論からできあがっているのが、革新で、その両翼に、共産主義と国民主権をかかえている。
 共産主義も国民主権も、君主制とや資本主義と、相容れない。
 というのも、国民主権も共産主義も、伝統的な価値や体制を打ち倒す(革命)過程からうまれてきたもので、両者は、はじめから、水と油なのである。
 といっても、わたしは、これを頭から否定しない。
 保守を右、革新を左とすれば、左右のバランスがとれているかぎり、社会は、墜落せずにすむわけで、民主主義が国家主義の暴走をくいとめ、国益主義が個人主義のゆきすぎを是正するという機能がはたらいてこそ、社会は、弱肉強食にも、ノーテンキな享楽国家にもならず、中庸をたもつことができる。
 保守・革新という二つの山のあいだに、文化と文明、情と理が融合した中庸という峠があり、そこに、抑制された民主主義やおだやかな愛国心などが、個と全体の矛盾をむきだしにすることなく、おかれている。
 保守というのは、なにも、古いものだけをまもるのではない。この中庸の精神が歴史に根づいたのであれば、これをまもるのも保守で、そこが、右翼とちがう。
 保守は、情の世界なので、当然、矛盾や相反するものが混在する。それを同時にだきかかえる、それも、保守思想である。
 自由民主党や民主党右派、国民新党などが、保守政党たりえるのは、その精神やスタンスが、この中庸にあるかぎりにおいて、である。
 ところが、最近の自民党は、小泉以降、安倍をとばして、福田まで、やや左にシフトして、新自由主義へ近づいている。構造改革やグローバリゼーションは、保守ではなく、新自由主義で、ゆきすぎると、計画主義になって、革新へ接近する。
 事実、小泉元首相も福田現首相も、ぜんぜん、保守主義者ではない。
 河野洋平や加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階俊博にいたっては、保守のカテゴリーから完全に外れている。かといって、革新というわけでもない。日本人としての情が欠落しているので、保守の資格を失い、反日主義へ転落していっただけ、といっておこう。
 さて。その革新だが、共産主義にしろ、国民主権にしろ、理論だけでできあがっている革新のイデオロギーは、とうに、破綻している。
 革新は、国家や資本主義を悪の権化のようにいう。だが、体制内左翼ほど、国家や資本主義の恩恵にあずかっている者はなく、かえって、市井でひっそり生きている保守系の人々のほうが、国や体制から、何ももらっていない。
 それでも、かれらは、体制の打倒などとはいわない。
 資本主義は、もともと、モラルや情にささえられた「共存の構造」で、左翼がいうような、資本家が労働者を搾取する体制などではないからだ。
 市井の人々が、生を営み、地味な努力をつみかさね、ギブ・アンド・テークの場とした社会が、長い年月をとおして、高度に組織化されて、現在、資本主義と呼ばれているだけである。
 市井の人々は、搾取されているどころか、みずから、資本主義をささえているのである。
 そこに、資本主義にたいする共産主義者の、重大な認識上の誤りがある。
 革新のもう一つの翼、国民主権は、もともと、GHQが、民主主義を拡大解釈したもので、これも、嘘っぱちである。絶対王権に対抗するために用意したデモクラシーを人民主権(マルクス主義)に近づけたところで、実体をともなうわけはない。
 国民主権の国民は、総体で、人民独裁というときの人民と同じである。
 こういうトリックを使って、スターリンや毛沢東は、独裁をおこなったのである。
 革新のことばは、ことほどさように、破綻している。
 結局、イデオロギーなど、ことば遊びのようなものなのである。
 たとえば、自由主義といっても、他人にも自由があるので、個人の自由が他人の不利益になったり、社会に有害な場合は、制限される。
 それを「自由を侵害された」というのは、思いちがいで、もともと、自由主義などというものは、なかったのである。
 民主主義(制)は、理想的な体制といっても、結局、多数決は、多数派の独裁となるのであって、話し合ったところで、個と全体、利益相反者の利害は、永遠に一致しない。
 革新(理といってよい)の思想が、このように破綻をきたしたのは、過去の遺産を引き継いでいないからである。
 保守は、理では割り切れないものを、歴史や文化、習慣などの知恵(情といってよい)でのみこんでしまう。その懐の深さが、君主制(天皇体制)や資本主義(商道)という、ある種の矛盾を抱えた体制をささえつづけてきた。
 次回は、日本の保守思想を、右翼・左翼の視点からのべることにしよう。
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2007年03月19日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その2)

●反日主義の元凶は原爆慰霊碑の「過ちはくり返しません」 
 安倍首相は、参院予算委員会で、米下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難決議案について「決議があっても謝罪するつもりはない」「米下院の公聴会で証言した元慰安婦の証言に裏付けはない」とのべ、質問者の民主党の小川敏夫参院幹事長が「きちんと謝罪しなければ、日本が戦争にたいする反省をしていないと受け取られる」とつっかかると「あなたは日本を貶めようとしている」「決議案が正しいと思っているのか」ときびしく切り返した。
 小川は「きちんと謝罪しないと――」というが、河野談話(従軍慰安婦の官憲介入)を筆頭に、宮沢談話(近隣諸国条項)、村山・細川談話(侵略戦争容認)、あるいは、日韓併合について談話を発表した大臣の罷免にいたるまで、日本政府が謝罪や遺憾の意を表したことによって、放っておけば風化したであろう問題が、大きな外交問題となって、いまなお、尾をひいている。
 戦後、日本が、毅然とした態度をとりつづけていれば、過去の戦争にまつわる外交問題は、何一つ、おこらなかったのではないか。
 日韓併合も、大韓帝国一進会の李容九が百万人の署名をそえて、李完用首相に送った「韓日合邦を要求する声明書」(1909年)が発端で、日本が武力侵攻したわけではない。
 ちなみに、この声明書には「これまでの朝鮮の悲劇は、朝鮮民族がみずからまねいたことであり、朝鮮の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、国を発展させようではないか」と記されている。
 日韓併合は、韓国国会の決議なので、日本は、その原則論をおしとおしておくのが国際慣例である。「事実上の侵略だった」「朝鮮に他の選択肢がゆるされていなかった」などと余計なことをいい、謝罪するから、巨額の資金と人材を投入した朝鮮国家建設の努力が、欧米が東南アジアでやった、過酷な植民地略奪と同列にあつかわれてしまうのである。
 かつて、米英蘭などの侵略国家と死闘をくりひろげ、アジアを植民地から解放した日本人が、なぜ、現在のような、背骨のないナメクジ民族になってしまったのか。
 わたしは、その元凶が、広島の原爆慰霊碑に刻まれている「過ちはくり返しません」ということばにあると思っている。
 日本の反日運動は、根本が、コスモポリタニズム(世界市民主義)である。
 その原点に、同胞を虐殺されていながら、謝罪する原爆記念碑の無国籍性がある。
 東京裁判で日本を弁護したインドのパル判事は「過ちはくり返しません」という慰霊碑のことばを見て「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまうとは――。東京裁判の影響は、原子爆弾の被害より大きい」と嘆息した。
 パル判事は、戦争が主権国家の交戦権の行使である以上、戦勝国が「平和にたいする罪」「人道にたいする罪」という事後法で、敗戦国を裁くのは違法と主張した。これが、英国法曹界の重鎮ハンキー卿の「戦犯裁判の錯誤」という著書で紹介されて以降、東京裁判は違法という考え方が、世界の常識になった。
 そのパルは、なぜ、日本人が「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」「日本は平和にたいする罪、人道にたいする罪を犯していない」と主張しないのかと、亡くなるまで、いいつづけた。
 戦後の日本は、何でもかんでも、ぺこぺこ謝り、そして、その結果、欧米とユーラシアの、謝ったからには補償をおこなえという論理にじりよられて、ヒーヒーいってきた。
 その負け犬根性の原点が、非戦闘員の市民を大量に殺戮した原爆投下――その慰霊碑に刻まれた「過ちはくり返しません」という不気味な文章にあることに、日本人は、気づいていない。
 パル判事は、広島を訪れた際、「ここに祀られているのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのはアメリカである。過ちを詫びるのは、日本人ではなく、アメリカだ」(一九五二年一一月三日)と批判した。
 これにたいして、碑文起草者の広島大学教授雑賀忠義は「広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちをくり返さないと霊前に誓うのは、全人類の感情であり、良心の叫びである」という抗議文を提出する。
 日本政府も、世界連邦=世界市民という大局に立ち、「原子爆弾使用の罪は、人類全体の罪なので、アメリカにたいする抗議をおこなわない」とした。
 これに、「民族ではなく、階級で団結せよ」という世界共産主義(インターナショナリズム)を標榜する左翼がとびついた。
 スターリンに媚び、アメリカの庇護の下で育った日本の左翼が、反日主義者に衣替えして生き残ることができたのは、じつに、この論拠にのって、なのである。
 ノーベル賞の大江健三郎は「日本が悪いから、原爆を落とされた。原爆は日本人にあたえられた反省の材料。だが、わたしは日本人ではない。ノーベル賞をうけ、文化勲章を断ったのは、世界市民だからである」とうそぶいた。
 これが、反日主義をかかげる日本人の一つの類型で、この思想が、東大教授の羹尚中・高橋哲哉・小森陽一の三バカ大将に代表される日本の学界から、マスコミ、教育界、共産党や社民党、民主党ばかりか、自民党にまで、根深く浸透している。
 国から、散々、甘い汁を吸いながら、国を足蹴にするコスモポリタニズムが、インテリを中心に、戦後日本に蔓延して、どうして、日本が成熟した国になれるだろう。
●慰安婦「非難決議」には原爆投下「非難決議」で対抗せよ 
 わたしは、原爆記念碑のこの文言を取り払うとともに、アメリカが、日本の非難決議をおこなうのであれば、アメリカの原爆投下の咎を断罪する決議運動をすすめようと思っている。
 もともと、アメリカが、日本の非難決議をおこなう背景には、原爆投下の罪意識があるからだ。
 原爆投下をきめたトルーマンは「日本人とインディアンにたいしては、同じ人間の血が流れていると思われないので、良心の呵責が生じない」とのべている。実際、戦後、何百回もたずねられた「原爆投下」について、トルーマンは、難しい決断だったかと聞かれるたび「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと鳴らした(毎日新聞【余録】)という。
 ところが、それから六十数年がたち、日本人が得体の知れない異民族だった時代が過去のものとなり、アメリカ人が原爆や空襲で焼殺した日本人が、大リーグで活躍しているイチローやマツイと同じ親しい隣人だということがわかってくると、かれらは、原爆の罪意識を払拭するために、日本は原爆を投下されても文句がいえないようなことをやったのだ、という新たな理由付けの必要をかんじはじめた。
 それが、今回の慰安婦をめぐる対日非難決議の背景である。
 これには、前科がある。南京大虐殺である。東京裁判で、広島・長崎の原爆投下が問題になってくると、とつぜん、南京大虐殺をデッチ上げ、日本兵が、広島・長崎の原爆投下で亡くなった同数の三〇万人を虐殺したといいだした。
 ヒトラーがアウシュビッツなら、トルーマンは、原爆である。前者が、史上最悪の業悪で、後者が正当な戦争行為となったのは、たんに、アメリカが戦争に勝ったからである。
 原爆投下がいかに非人道的だったか、徐々に、事実関係が明らかになってきている。
 陸軍長官スティムソンと国務次官グルーは、日本が降伏勧告をうけいれることができるよう、大統領トルーマンに、天皇の地位保全を約束すべきだと主張した。原爆投下のタイミングは、そのあとにすべきと説いたのである。海軍長官フォレスタル、陸軍参謀総長マーシャル、海軍軍令部総長キングも、警告なしに日本の都市に原爆を投下することには、絶対反対だった。
 ところが、トルーマンと国務長官バーンズは、日本に降伏を勧告するスティムソンの草案から天皇の地位保全を認める条項と、共同提案国としてのソ連の国名を削ってしまう。日本に、降伏まで時間をかけさせ、ソ連への期待をもちつづけさせようとしたのである。
 原爆の無警告投下を実行するには、日本が、早い段階で降伏条件をのむと不都合だったからである。
 さらに、トルーマンは、原爆を日本の都市に投下することによって、ソ連を脅すことができると考え、無警告で原爆を投下する決意を固める。
 アメリカは、生きた人間を使った核実験と軍事デモストレーションのために、三十万人の日本人を一瞬にして焼き殺したのである。
 日本人が、アメリカのこの非人間性について、怒りをもち、謝罪をもとめるのは当然であろう。
 そうしなかったから、日本人の魂も誇りも地に堕ちたままで、アメリカからあたえられた憲法も改正できなかったのである。
 日本の反日主義は、NHKの反戦ドキュメントから筑紫哲也のニュース番組、朝日新聞、市民運動、教育界の自虐史観、東京裁判史観に毒された官界や保守系政治家にいたるまで、国益や、日本人としての誇りを否定して、他国に媚びるという点で、共通している。
 そして、国家や民族の喪失感を補うため、かれらは、世界市民を口走る。
 日本人が心を一つにして、アメリカに、原爆投下の謝罪をもとめてゆけば、反日主義などというひねくれた思想は、消えてゆくのである。
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2007年03月12日

「反日の構造/コスモポリタニズム(世界市民主義)という妖怪」(その1)

●保守政治家が、なぜ、反日主義者に転落したのか?
 マスコミや言論人ばかりではなく、保守政治家のあいだにも、反日的傾向がひろがっていることに、多くの心ある日本人が、首をひねっている。
 同じ日本人が、じぶんの国の悪口をいい、日本を敵視する神経が、わからないのである。
 一九九一年、旧ソ連・東欧が崩壊したとき、共産主義・社会主義の幻想が破れて、全体主義から解き放たれた世界は、自由主義へむかうと、だれもが、思った。
 事実、世界から、自由主義と共産主義が対立する構図が消えていった。
 左翼政党が、革命路線を捨てて、現実路線をとりはじめたからである。
 ところが、日本だけは、ちがった。
 たしかに、旧社会党・共産党は、衰退したが、それといれかわるように<反日主義>というイデオロギーが登場してきて、かつての55年体制以上に、イデオロギー的な対立がとげとげしくなってきたのだ。
 共産主義から開放された世界が、キリスト教文化とイスラム文化の、いわゆる「文明の衝突」をおこしはじめた同じ時期に、日本では、反日主義が、自由主義や保守主義とぶつかりあうかたちで、文明の衝突をおこしはじめたのである。
 なぜ、共産主義という反体制運動が滅びたのに、自由主義をおびやかす反日主義がこれほどまでに蔓延してきたのであろうか。
 一九〇〇年代から、共産主義に代わって、国家や愛国心などいらないという、コスモポリタニズムが、台頭してきたからである。
 コスモポリタニズムというのは、「国境をなくして、世界の人々が手をつなげば、平和がやってくる」という少女趣味の思想で、タレントのアグネス・チャンが教祖の絶対平和主義と、アインシュタインやラッセル卿、湯川秀樹らが唱えた世界連邦主義が、くっついたようなものである。
 この夢想的な理想主義によって、戦争をおこす国家や国益という考え方やナショナリズムが悪になる一方で、国家と対立する個人のエゴや人権、平等だけが、善ということになった。
 共産主義にたいしては、反共主義という理論武装が可能で、事実、冷戦下においては、共産主義の不毛性・非人間性が、自由主義者によって、きびしく、批判されてきた。
 ところが、コスモポリタニズムにたいしては、理論武装ができない。呆れて、二の句が告げずにいるうち、どんどんと広がって、ついには、政治や行政の場で、共産主義に代わるイデオロギーとして、この十年来、大きな勢力をもつようになった。
 その一つが、小沢一郎の「国連軍構想」である。
 各国の軍隊が、国連軍のもとに終結して、平和をおびやかす悪い国をやっつけようという発想の根底に、世界連邦のイメージがあるのはいうまでもない。こういう、ユートピア的な考え方が危険なのは、非現実的なだけではなく、反動として、反国家主義がでてくるからである。
 最近の小沢が、かつての保守主義者から、社会民主主義者へ変貌したのは、コスモポリタニズムに毒されているからにほかならない。
 ちなみに、共産主義・社会主義が、コスモポリタニズムに変貌してできたのが、民主党で、だからこそ、旧社会党が寄せ集まり、いま、社民党が接近しているのである。
 自民党に反日主義者がふえ、日に日に、民主党化しているのも、同じ理由である。
 そもそも、自民党と組んでいる公明党=創価学会の池田大作の平和主義こそが、世界同時平和=コスモポリタニズムであって、コスモポリタンの大親分、池田大作の私物である公明党に、愛国心や国益という考えは、ない。
 その公明党と一心同体の自民党が、自主憲法制定という党是を捨てたのは、朱に交わって、赤くなったからである。
 朝日新聞がよく使う「偏狭なナショナリズムを捨てよ」というのも、民族ではなく、階級で団結せよという、レーニンの世界同時革命の焼き直しで、朝日が反日の牙城になっているのは、その背骨が、コスモポリタニズムからできているからである。
 自民党のコスモポリタンの代表が「日本国民ではなく、地球市民たれ」という加藤紘一である。
 加藤に、国家や国益の発想が欠けているのは、左翼くずれのコスモポリタンだからである。
 名誉や誇り、善悪の判断は、国家や歴史にたいする意識からうまれる。
 したがって、コスモポリタンには、恥という感覚がない。善悪の価値判断も、一般人とちがっているので、平気で売国的なことができ、しかも、それを悪とは思わない。
 そこに、国家や歴史を否定するコスモポリタニズムの害毒性がある。
 戦後、わが国では、学会やマスコミがコスモポリタニズムに寝食され、反日主義の温床となってきたが、最近では、保守政界にまで、この思想がひろがり、保守思想があやしくなってきた。
 加藤の盟友、山崎拓の場合は、コスモポリタニズムが、そのまま、反日主義にすりかわっている。
 山崎は、安倍晋三首相が従軍慰安婦問題について、「軍が人さらいのように強制連行した事実はない」とのべたことにたいして、「弁解がましいことは一切いわない方がいい」と批判したうえで、「(日本に謝罪をもとめる決議案採択にむけた)米下院のうごきはけっして愉快ではないが、従軍慰安婦なるもの(の存在)は事実だ。それが強制によるか、間接的な強制かの議論は、弁解にすぎない。そういう議論をするより、われわれは(旧日本軍の関与を指摘した平成5年の)河野洋平官房長官の勇気ある談話を評価するべきだ」とわけのわからないことをいっている。
 慰安婦の議論は、軍の介入があったか否か、なのであるから、山崎の発言は、筋違いである。
 コスモポリタニズムが、左翼空想主義ともいわれるのは、論理がめちゃくちゃでも、きれいごとを並び立ててあるので、わかったような気になるからである。
 だが、現実性がない。山崎発言に、日本の国の名誉、国益、愛国の情がみられないのも、現実的視点がすっとんでいるからである。
 日朝国交正常化にかんする作業部会についても、加藤紘一、山崎拓、古賀誠の元幹事長の三人は、「国際協調を旨とし、拉致の問題とは分けて核廃棄を実現しなければいけない」と、核と拉致を分離して議論すべきという、北朝鮮の代弁をおこなって、涼しい顔をしている。
 東大全学連出身の加藤は、確信犯だが、山崎も古賀も、もともと、保守陣営の政治家である。
 といっても、若いころ、保守思想にふれたことも、政治運動に身を投じた経験もなく、したがって、理論武装ができていない。いまごろになって、世界主義などという中学生レベルの幼稚な考えにまきこまれるのは、そのせいであろう。
 若い時代、利権や金儲けのために保守陣営に身をおいた者のうちには、思想的な鍛錬ができていないため、後年になって、とつぜん、共産主義は正しい、武器を捨てると平和になる、などといいだす者がいる。
 保守陣営の宗旨替えは、中曽根康弘もそうだが、何かの拍子で思想に目覚めると、保守思想ではなく、中学生や若い女がとびつきそうな平和主義やコスモポリタニズムへ、走るのである。
 コスモポリタニズムという思想は、戦後、理想主義の一つとして、GHQがもちこんできたものである。そのシンボルが平和憲法で、軍国主義的な傾向を禁止した一連のGHQ指令や日教組などの組合結成の促進も、その流れにある。
 これにのったのが、旧社会党の「非武装中立論」で、防衛軽視・経済重視の「吉田ドクトリン」も、それと、無縁ではない。
 その後、中国革命や朝鮮戦争に直面したアメリカが、マッカーシー(米国上院政府機能審査小委員会委員長)の赤狩りを契機に、反共国家に転じた。その結果、コスモポリタニズムにそまっていたGHQも批判の対象となり、対日政策も軌道修正された。
 マッカーサーが、一九四七年、「二・一ゼネスト」に中止命令をだしたのは、GHQの左傾化修正を先取りしたものだったが、それがなかったら、日本は、GHQの指導の下で共産主義国家になっていたかもしれない。
 反日主義というのは、国際共産主義への幻想が、ねじれて奇形化した、ゾンビのようなものである。 そのゾンビ=コスモポリタニズムが、国際派という衣を着て、日本中のあらゆる分野にはいりこんみ、日本という国の屋台骨をゆるがしている。
 それが、日本という国にあらゆる病変をもたらしている病原なのだが、だれも、それに気がついていない。
 次回は、日本の中央官庁が、なぜ、反日的なのかについて、コスモポリタニズムの文脈から、論じてみたい。


「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」
 今後の掲載予定(順不同/変更あり)
●保守政治家が、なぜ、反日主義者に転落したのか
●霞ヶ関が国益に無関心なのはコスモポリタンだから?
●コスモポリタニズムの下では売国奴がヒーローになる
●コスモポリタン国家に「スパイ罪」はいらない?
●ヒトラーとスターリンが憎んだコスモポリタニズム
●なぜ「反コスモポリタニズム」運動が怖れられるのか
●ジェンダーフリー=男女平等とコスモポリタニズム
●改革主義=伝統破壊がめざすコスモポリタンの人工国家
●コスモポリタン型経営者のモラルが崩壊してゆく理由
●「反日テレビ報道」に貫かれているコスモポリタニズム
●文科省「ゆとり教育」の背骨はコスモポリタニズム
●コスモポリタニズムでは「人格」より「人権」が大事
●天皇制度と真っ向から対立するコスモポリタニズム
●エゴイズムだけでなりたつコスモポリタニズム社会
●思想戦に負けて読まれる朝日新聞のコスモポリタニズム
●日本国憲法とフィリピン憲法に共通する無国籍性
●フィリピンの封建的土地制度と日本の霞ヶ関の類似点
●日本国憲法に「国家主権」と「国民の義務」がない理由
●基本的人権が天から降ってくる日本国憲法のまかふしぎ
●憲法で「交戦権」が否定されて消えた日本の国家主権
●「自虐史観」をつくりあげた日本のコスモポリタンたち
●<コスモポリタン政府>だった細川と村山の連立政権
●国際ユダヤ主義=グローバリズムとコスモポリタニズム
●政官財界で暗躍する「国際派」と呼ばれるコスモポリタン
●日本の大学にマルクス主義者・反日主義者が多い理由
●コスモポリタンの化けの皮を被って延命をはかる日本の左翼
●コスモポリタンが「日の丸」「君が代」を目の敵にする理由
●日本政府が、南京大虐殺のデマを否定しないのは、なぜか
●コスモポリタンの代表が「近隣諸国条項」の宮沢喜一
●国を売って恥じない河野洋平のコスモポリタニズム
●原爆慰霊碑「過ちはくり返しません」はコスモポリタン宣言
●GHQがつくりあげた戦後日本のコスモポリタニズム社会
●無宗教の戦没者慰霊碑というコスモポリタニズムの発想
●愛国者をウヨクと侮辱するコスモポリタニズムの風潮
●「反日」を武器に名声を手にしたマスコミのコスモポリタン
●コスモポリタニズムとのたたかいだった六〇年安保闘争
●中国に寄り添う財界人=左翼商人はコスモポリタン
●市民グループが被ったコスモポリタニズムという隠れ蓑
●コスモポリタニズムがゆくつく先は旧ソ連型の官僚国家
●霞ヶ関の「官僚社会主義」が究極のコスモポリタニズム
●コスモポリタニズムがめざす外国人参政権と移民自由法
●国家主権をみとめない日本国憲法はコスモポリタニズム
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2006年08月30日

「わが戦後史」目次抜粋

「わが戦後史」目次抜粋
 三宅島と関東平野
 中央大学レスリング部
 学生服を着たイベント屋
 砂川・60年安保と民族主義運動
 60年安保と「北海道奮戦記」
 「日本及日本人」の編集部へ
 気骨があった昔の財界人
 民族主義者との邂逅と決別
 海外の同志と若き日の外遊記
 大野伴木と中川一郎の出会い
 東京六区から衆院立候補も次点
 後援会長・今東光の一言
 自民党入党と政界の裏表
 北方領土問題を追って根室へ 
 フィリピンで「山下財宝」探検隊長
 グラマン事件と「消えたボストンバッグ」
 アフタヌーン・ショー出演の時代
 竹下「金屏風事件」の真相に迫る
 垣間見たブラックジャーナリズム
 フィリピン革命でエンリレと会見
 若王子事件の犯人グループを追う
 グリンゴ・ホナサン大佐と意気投合
 竹下「皇民党事件」の深層構造
「M資金」の謎を追ってシンガポールへ
 なぜ、わたしがフィクサーなのか?
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