2008年04月10日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(15)

 ●天皇と神道――ヨーロッパ王制とキリスト教
 ヨーロッパの王室は、中世における権力闘争の覇者で、征服王の家系である。
 歴史的にも浅く、三〜四百年ほど前といえば、ちょうど、日本の戦乱期にあたる。
 しばしば、日本の天皇と比較されるが、絶対権力者であるヨーロッパの王は、天皇ではなく、むしろ、平氏の平清盛や源氏の源頼朝、足利尊氏、あるいは、天下統一をはたした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、戦乱期の覇者に近い。
 天皇は、覇者でも、権力者でもない。
 覇者に、征夷大将軍などの称号をあたえ、一方で、幕府を監視する権威である。
 天皇のこの権威は、神話にもとづいている。
 神話は、一つの寓話ではあるが、その根源に、神道という民族の宗教原理があり、国体や国柄、伝統や文化は、その神道の価値観に根ざしている。
 天皇は、権力に正統性を付与し、幕府を総監するだけではなく、国家の繁栄や民の幸、収穫を祈念する神道の最高神官でもある。
 これが、日本特有の権威(天皇)と権力(幕府)の二元体制である。
 ヨーロッパに天皇にあたる地位がなかった理由は、キリスト教の布教によって、民族の神話が失われたからで、ヨーロッパ各国の古来の伝統や文化も、民族の神話とともに、消えさった。
 民族固有の神話を失ったヨーロッパ各国において、新たな神話となったのが、「神が創造した最初の人間、アダムと妻のイヴが神の戒めに背いたため、エデンの園から追放された(原罪=キリスト教の中心教義)」とするキリスト教の物語で、権力構造においても、キリスト教をうけいれたヨーロッパの王国は、いずれも「神より与えられた統治権は神聖にして不司侵である」という帝王神権説をとって、絶対権力をつくりあげた。
 権威の後ろ盾がなかったため、ヨーロッパ王政は、絶対主義という強権を立てなければならなかったのである。
 歴史や民族、文化が異なるドイツ、フランス、イタリアなどのヨーロッパ諸国が、EU統合という大事業をなしえたのは、キリスト教という同一宗教、キリスト教を中心とした独自の文化と価値観でむすばれていたからで、ヨーロッパに、ユダヤ教や回教など、別の絶対神が根を張っていたら、統合は、不可能だったかもしれない。
 万世一系の天皇を戴くわが国の皇室は、古事記や日本書紀に描かれている神話を起源にして、現在まで、連綿とつづいている。
 政体が、源平から鎌倉、室町、戦国時代をへて、織豊、徳川、明治と変遷してきたにもかかわらず、後醍醐天皇による一時期の王政復古を別として、国体がゆるがなかったのは、天皇の権威と幕府の権力のあいだに、一線画されていたからで、権力と権威の二元構造が、古代から今日までひきつがれてきたのも、権力者がかわっても、国体は変化しない柔構造が、すぐれた政治形態だったからであろう。
 この二世紀のあいだに、ヨーロッパ王制の多くが、消滅した。
 ブルボン王朝はフランス革命で、ロマノフ王家はロシア共産革命によって滅び、第一次大戦に敗れたドイツでは、ホーへンツ、オレルン王家が消えた。オーストリアでは、ハプスブルグ家が王制から去り、第二次大戦後、イタリアのサボイア王家が、国外に追放された。
 国家は、国体という文化構造のうえに、政体という権力構造をのせている。
 ヨーロッパで多くの王家が消えていったのは、拠って立つところが、歴史や文化などに裏打ちされた国体ではなく、権力闘争がくり広げられる政体だったからである。
 権力闘争の産物である政体は、時代によって、変遷する。
 ところが、国体という歴史的な文化構造は、かわることがない。
 そこから、国家の母体は、権力の実体たる政体ではなく、国体だったと、わかる。
 国体から、権威が派生する。
 権力は、その権威によって、正統性をあたえられる。
 したがって、権威の裏づけがない権力は、絶対主義でもとらないかぎり、安定した支配体制をつくりあげることはできない。
 立花隆が、雑誌に「戦後日本の国体は憲法九条」などと書いているが、護憲論者の強弁という以前に、政体にぞくする政治や法律が、国体を規制しうるという考え方が、そもそも、まちがっている。
 同様に、憲法で天皇のありかたを定めるのも、憲法で皇室典範を規定するのも、誤っている。
 権威は、権力の都合や法解釈によって左右されてはならないからである。
 だいいち、一過性の権力機構にすぎない政体に、そんな権限はゆるされていない。
 国体は、文化の体系であって、文化の根源をさぐれば、どこの国でも、神話にゆきつく。
 神話によると、天皇は、高天原から降臨した神々の子孫で、いまなお、国の繁栄や民の幸を祈っておられる。
 神話の母体である神道の精神は、無私である。
 私心をはさまず、高天原の神々が理想としたすがたを再現しようとするのが「惟神(かみながら)の道」で、天皇は、覇権を争う権力者と、正反対の立場に身をおかれている。
 そこに、幕府が、天皇のゆるしをえて、国を支配する原理がある。
 神武天皇の血筋をひいておられる万世一系の天皇が、日本の伝統文化や生活感情、習俗の土台になっている神道の最高神官であらせられる以上、戦闘能力にすぐれているにすぎない武力集団が、その天皇に、為政の勅をもとめるのは、すぐれて、しぜんなふるまいであり、それが、日本の国柄である。
 武力だけで、覇権を争ったヨーロッパの王政とのちがいは、いかばかりか。
 もっとも、わが国においても、七世紀初めまで、天皇は、王的な権力もそなえていた。
 というのも、大和朝廷の成立以前、あるいは、その初期において、政体といえるような権力構造がなかったため、政治が、文字どおり、まつりごと(政=祭祀)だったからである。その過程で、いくさ(征夷)をふくめた強権の発動があったと思われるが、ユーラシア大陸でおこなわれたような凄惨なたたかいはなかった。
 その理由は、神道の起源とも関連するが、森林や肥沃な平野、河川、海岸線がゆたかな日本では、砂漠や痩せた土地の国々とはちがって、生存競争や生死をかけた争いのタネが、それほど多くなかったからである。
 人々は、大自然のなかで、おおらかに生きていた。それが、万葉人と呼ばれる日本人の始祖で、かれらは、自然そのものを神として、その自然法則にのっとって生きる、神道という世界観をきずきあげた。
 砂漠や山岳、放牧しかできない痩せた土地では、魂の救済をもとめる一神教の啓示宗教がうまれる。 
 だが、ゆたかな自然に恵まれた日本では、もっと素朴な、太陽の恵みを称える祭祀が根づいた。
 神道の最高神は、太陽である。
 収穫や自然の恵み、巡ってくる四季、一日や一年という区切りは、すべて、太陽のはたらきによるものだからである。
 もっとも、神道は、インカやエジプトのような太陽神崇拝とは異なる。
 太陽のもとにある森羅万象が、それぞれ、神々(八百万神)で、この世は、神々の活動(産巣日=ムスビ)の場にほかならず、そのすがたは、神代から現在まで、かわらないとする。
 高天原の太陽も、この世で輝いている太陽も同じなので、高天原はこの世とつながっている、というのが、神道における太陽で、それが、天照大神のもとで、さまざまな神々が活躍した神話におきかえられて、いまにつたえられている。
 日本の伝統や文化、習俗や生活感情には、神道的な価値観が反映されている。
 たとえば、西洋の時間は直線的だが、神道の時間は循環する。お正月は、ふたたびめぐってきた新しい年で、過去は、忘れられる。
 禊(みそぎ)や浄め、よみがえり、水に流す、という習俗や考えかたは、神道のもので、それが、文化だけにとどまらず、日本人の価値観や気質にまで投影されている。 
 日本の国体は、風土や歴史、文化、日本人の精神の深くにはいりこんでいる神道の価値観にささえられている。
 その中心におられるのが、万世一系の天皇で、それが、国体のすがたといってよい。
 明治維新後、一神教的な価値観がはいってきて、伝統的な神道文化に珍奇な西洋文化を接ぎ木するかたちで、近代化がおこなわれた。
 かわったのは、明治政府という政体だけではなかった。
 権威と権力の二元構造、国体のあり方も、大きな変更をくわえられた。
 その結果、何がおきたか。そのテーマについては、次回、のべることとする。

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2008年03月23日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(14)

●「神道」は日本民族固有の価値・世界観である
 今回は、神道について、すこし、整理してみたい。
 神道は、保守主義や右翼思想の根っ子の部分にひそんでいるが、これは、欧米の保守思想や国家主義が、キリスト教とつながっているのと、同じ構造である。
 民族的宗教観と国体、国柄が、表裏一体の関係にあるからである。
 広辞苑をひもとくと、神道の項目に「かんながらの道」とある。
 これが、神道の真髄で、神道には、これ以上の説明は、必要がない。
 かんながら(惟神)とは、人為をくわえないさま、神慮のまま、という意味である。
 自然や天体、物や事があるがままにあるのが神慮で、そのありさまが、惟神の道、神道のすがた、というのである。
 一神教の場合、自然や天体をつくったのが絶対神で、人間は、それを神からもらいうけるので、自然も他の生物も、人間の所有物や糧にすぎない物となる。
 キリスト教が、神との契約といわれるのはそのためで、中世ヨーロッパにおいて、侵略や他民族の虐殺がおこなわれたのは、キリスト者にとって、地球上の生産財すべてが、神からあたえられたものだったからである。
 神からもらった生産財には、自然のほか、動物もふくまれる。異教徒や未開人も動物なので、中世や大航海時代、ローマ法王の名のもとで、十字軍遠征、あるいは、インカ帝国などの非キリスト教地域で、虐殺や略奪をくり返して、キリスト者は、なんら、罪や良心の咎めをかんじるところがなかった。
 近世・近代になって、神は、科学にとってかわった。神がつくった自然の合理から科学がうまれたので、科学も、神の恩恵というわけで、こんどは、科学が絶対神になって、ふたたび、侵略がはじまった。
 列強のアジア侵略は、ヨーロッパ文明による文化破壊で、アジアやアフリカ、旧アメリカが、かれらに、徹底的に破壊され、奪われ尽くされた。
 一神教がうみだした科学=合理主義が、理性神にまで高められたのが革命である。
 フランス革命では、実際に、祭壇に、理性神が飾られた。
 そのフランス革命をモデルにしたのが、ソ連の共産主義革命だった。
 そして、二十世紀において、多くの共産主義国家がうまれ、大半が滅び、滅びつつある。
 一神教が、絶対神→科学→合理主義→理性→イデオロギー、というふうにすすんできたので、共産主義というイデオロギーのもとにある中国が、中世の十字軍遠征の論理をひきついで、いまなお、チベットの文化破壊やチベット僧侶の虐殺をおこなっているのである。
 神道における宗教観は、一神教世界のそれと、まったく、ちがう。
 宗教観がちがうと、価値観や自然観、世界観も、当然、ちがってくる。
 明治維新以前、日本は、特有の民族文化をもった文明国家で、当時の日本人の美的感覚や識字率、土木や建築技術、政治システムなど、多くの分野で、世界一だったことが、学術的に証明されている。
 日本の文化の高さをささえていたのが、神道の価値観だった。
 神道の「かみ」は、人間はもとより、鳥獣、木草、海や山、その他諸々、すべての存在をさす。その場合のかみは「迦微」で、八百万の神も、本来、迦微である。「神」という文字が付されるのは、全存在の頂点にある太陽だけで、それも、太陽に精霊が宿っているという意味ではなく、太陽そのものが神で、そこが、ギリシャの太陽神やアニミズム(精霊崇拝)とちがう。
 西洋の学者のなかには、神道は宗教ではなく、哲学というひともいるが、絶対神を拝んで救済をもとめるのが宗教なら、神道は、一神教と同じ宗教の枠にくくることはできない。
 神である太陽のもとで、森羅万象があるがままにあり、生あるものが精一杯生を営む、というのが「惟神の道」だが、この神道と、絶対神から、生産財として、自然や動物などをあたえられたと考える傲慢な一神教(絶対神)では、対極といってよいほど、遠い距離にある。
 ●神道と江戸の国学四大人
 日本の古代信仰が、神道として体系化されたのは、江戸時代で、当時、神道の研究は、国学とよばれた。テキストは、古事記や日本書紀などの古典、および民間伝承で、国学=神道を完成させたのは、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の四人(四大人)である。
 なかでも、本居宣長は、キリスト教や儒教など、ユーラシア大陸の価値・世界観を「漢意(からごころ)」として排して、神道の中心に、大和心をすえた。
 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花 
 大和心は、理屈を抜いた情緒や直観で、自然や物事と対面して生じる情けでもある。
 さて。この神道の特異なところは、教義や教典、御神体がないことである。
 しかも、おもんじるのは、祭祀だけで、徳目も、浄明正直(浄く明るく正しく直く)だけという、じつにさっぱりとしたもので、宗教というより、民族固有の世界観といったほうが、たしかに、わかりよい。
 荷田と賀茂、宣長は、順に、師弟の関係にあり、世界観もほぼ同じだが、宣長の後継者を名乗った平田篤胤だけが、やや、異色である。平田篤胤の神道は、天御中主神(アメノミナカヌシ)をキリスト教の創造主に見立て、天皇を現人神とする西洋的な宗教観をうちたてたが、それが、師と仰ぐ宣長がきらった漢意で、平田神道からうまれたのが、天皇を現人神とする国家神道である。
 国家神道では、天皇を現人神としたが、一方で権力は、天皇を大元帥に祭り上げ、政治的に利用した。国家神道は、戦後、GHQによって禁止されたが、神道における天皇は、万世一系の最高神官で、いっとき、武器をもってたたかいはしたが、もともと、高天原から降りてこられた葦原の国(日本)の管理者である。
 権力(幕府・政府)は、したがって、この国が浄明正直であれと願い、祈る天皇の大御心に応えなければならない。そこに、権威と権力が二元化した日本特有の政治構造と、日本で朝敵がもっとも忌まわしい存在となる根拠がある。
 もう一つ。神道が、一神教ともっともちがうところは、あの世がないことである。
 一神教では、あの世という異次元があり、そこに、絶対神がいる。
 人々は、絶対神にひれ伏して、死後、免罪されて天国へ行けるよう祈る。
 神道で、この世のことを「葦原中つ国」というのは、高天原と黄泉国の中間にあるという意味だが、これは、仏教の影響をうけた形跡で、死んでも、この世にとどまって守護神(祖霊)になる神道では、死は、生の抜け殻の死体でしかなく、したがって、忌まわしいだけのものでしかない。
 この世と高天原、黄泉国がつながっている神道には、死後の世界という観念がなく、生死や有形無形を問わず、全存在は、太陽のもとにある。キリスト教が生前(=原罪)の、仏教が死後(=浄土)の宗教なのにたいして、神道が生の宗教といわれるのは、そのためである。
 神道では、絶対神にあたるのが太陽だが、太陽は、あくまでも、この世のものである。
 この世に、太陽という絶対神が輝いているのは、高天原と葦原の国がつながっているからで、この世では、したがって、神代でおきることと同じことがおきる。
 宣長によると、この世界は「奇異なる物(迦微)と事(産巣日=むすび)」の生起消滅の連鎖で、神代で八百万の神々によってなされた事跡が、そのまま、葦原の国でおこっているという。
 太陽の運行も、巡ってくる四季も、草木の生長や動物の繁殖も、世界に存在するさまざまな文物も、人間の性行為さえ、漢意を抜き去ってながめると、奇異(くすしあやし)としかいいえないもので、この世で、奇跡(=奇異)がおきるのは、高天原とつながっているからである。
 刻一刻と、目の前にあらわれる事実や事象が「神の道=惟神」で、それをそのまま「神の御所為(みしわざ)」と見る。神道で、現在を「中今(なかいま)」「神代即今」というのは、いま現在、おきている出来事も、神代でおきたことと同様に、神慮であって、理屈では解けないからである。
 科学で説明しようとしても、なぜ、原子や遺伝子が存在するのか、という最大の謎は、とうてい、科学の手に負えない。
 宣長は、当時、解読不能だった「古事記」を読み解き、そのなかに、生々しく記録されていた神道の真髄を探りあて、その尊きを尊み、 可畏(かしこ)きを畏みているべきであるとした。
 かみには、貴きも賎しきも、強きも弱きも、善きも悪しきもあり、荒魂がいれば、和魂もいる。それらの神々が、太陽系の時空間でくりひろげる奇異とともに、われわれが存在するというのが、太古から有史以前、古事記の万葉世界、現在につらなる神道の世界観で、人間の小さい認識(漢意)で、その理(ことわり)を測り知ることはできない。
 これが、日本人の宗教心で、絶対神の救済をもとめないから、日本人は宗教心が乏しいというのは、西洋人の偏見、無知、思い上がりでしかない。
 戦後、日本人が、自信を失ったのは、戦前まで残っていた神道の価値観が、科学万能主義やマルクス主義、アメリカ化などによって、根絶やしになったためであろうが、一方、初詣や七五三のお参りでは、日本人は、いまなお、こぞって、神社へむかう。
 日本人の心の奥底に、ノスタルジーとしての神道が、根強く残っているからであろう。
 日本人の精神を復活させる鍵は、神道にある、というのが、わたしの持論なのである。
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2008年03月11日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(13)

 ●憲法九条を戦後日本の国体と強弁する立花隆
 雑誌「現代」に、立花隆が「憲法九条は戦後日本の国体」という論文を書いている。
 国体は、歴史や伝統、文化、宗教感情、習俗などに根ざしており、政治や法は、国体の上にのっている政体にすぎない。
 立花の暴論には、驚くしかないが、憲法九条を戦後日本の国体と強弁するのは、事実上の国体否定で、かれら護憲主義者の主張は、最後には、国境を取り払い、世界連邦をつくって、全人類が手をつなごう、という誇大妄想へゆきつく。
 過激派の「世界同時革命」のようなものだが、いったん、こういうイデオロギーにとりつかれると、国家の礎である国体が、世界連邦建設の障壁になるというわけで、保守陣営をふくめた護憲派の政治家、論壇人、マスコミ文化人らが、競って、反日主義をいいつのるようになる。
 反日主義は、左翼ではなく、国体という観念が抜けおちたコスモポリタニズム(世界市民=無国籍主義)で、そんな連中が、憲法九条をたてまつるのは、国体を否定したいからにほかならない。
 憲法九条、および、憲法に謳われている国民主権は「国家は――国家の維持・強化を最高原理として行動する」という国家理性(国是)や国家主権と対立する。
 それも当然で、日本の国体や国是を否定する目的でつくられているGHQ憲法から、コスモポリタニズムに立った絶対平和主義や国体・国益の否定がでてくるのは、必然のなりゆきである。
 さらにそこから、反日主義がとびだしてくるのも、占領憲法に封印されていたシナリオで、要するにかれらは、GHQ憲法という敗戦革命の申し子なのである。
 政治や法を国体に優先させると、国家は、文化的に不毛な人工国家へ転落してゆく。共産主義国家がよい例で、国体の代わりにイデオロギーをもちこんだ結果、国家が機能マヒと経済破綻をおこして、前世紀の末、大半が地球上からすがたを消した。
 国体を否定した国家が、衰弱するのは、文化や歴史、宗教感情が国体ともども、消えてしまったからである。
 戦後の日本が、いまだ、独立国家の体をなしていないのも、政治や法に比べて、国体の比重が軽いからで、そこに、国家としての致命的欠陥がある。
 国体というまもるべき実体がないので、国益がふみにじられ、防衛観念が薄まり、媚中外交や対米従属、自虐史観から、反日主義などというとんでもないものまでがとびだしてくる。

 ●太陽と神道、天皇と国体
 今回は、国体論をのべるにあたって、神道をからめて、考えてみたい。
 原始の時代から、人々の心をとらえてきた宗教感情は、やがて、独自の価値観や世界観をかたちづくり、それが、文化や習俗、民族性などに投影されて、国体ができあがった。
 政体ができる前に、素朴な宗教的共同体があったのである。
 歴史や伝統、文化、習俗に根ざしている国体は、もとをたどると、宗教感情へゆきつくはずで、日本の場合、それが神道で、万世一系の天皇は、「神に祈る神」として、いまもなお、神道の最高神官という立場にある。
 国家は、この伝統的な国体の上に、封建体制や民主主義、立憲政体などの合理的な権力をのせた二重構造になっている。
 時代や状況とともに変化する権力構造と、万古不易の国体が、擦り合わさっているのが国家で、この二重構造をふまえなければ、国家の全体像は、なかなか、見えてこない。
 宗教感情といっても、国によってちがい、国体には、その差異が、反映される。
 その差異によって、国々の価値観や世界観、ものの考え方も、異なってくる。
 真・善・美になぞらえていえば、西洋の一神教がもとめてきたのはで、東洋の仏教や儒教は、をおもんじる。日本の神道は、美で、日本人は、キリスト教の真理や儒教的な善悪よりも、をたいせつにする。
 日本人の美意識は、伝統的な価値観、古くからの習俗と同様、神道からきている。
 真理をもとめる一神教な世界が、合理主義一辺倒で、弱肉強食となるのは、善がかえりみられないからで、儒教的な善悪の世界観が、不自由で窮屈になるのは、美がないからである。
 美は、内部に、真や善をのみこみながら、それ自体、感性的な価値をもっている。
 事物が美しいのは、邪や悪がとりのぞかれているからで、しかも、真や善以上の価値がある。真が頭脳から、善が精神からうみだされるものであれば、美は、もっと高度な審美的感性からでてくる。その意味で、神道は、一神教や観念宗教をこえた、芸術の域にまで高められた、日本固有の宗教であり、文化であり、美意識ということができる。
 日本の国体は、このような、古来の宗教感覚や美意識を土台にしている。
 したがって、この神道がいかなるものか、どんなかたちをしているか、それをふり返らなければ、日本の国体を語ることができず、われわれは、日本人としての自分自身のすがたを知ることもできない。
 現在、日本が、あらゆる分野で停滞しているのは、借り物の外来文化にたよりきって、神道という感性や国体を見失っているせいではないか。
 かつて、日本が、大陸からの文物を国風化する懐の深さ、柔軟さをもつことができたのは、受け皿となる国体が磐石だったのにくわえ、神道が、太陽を最高の存在とみる大らかない自然観をもっていたからである。
 太陽のもとでは、すべて平等で、しかも、太陽をこえるものは、存在しない。
 仏教もキリスト教も、太陽の恵みのもとにある森羅万象の一つなので、神仏習合というかたちで、共存できる。
 神道は、すべてをのみこむ太陽を崇めるが、霊魂とみているわけではない。
 自然の存在、現象そのものが、神の道で、そのなかで、太陽を最高の神と見立てている。最高神が、照らしだしているので、この世は、下界ではなく、中つ国なのである。
 神道のもっとも大きな特徴は、仏教やキリスト教とちがい、あの世とこの世の境界線がないことである。
 キリスト教などの一神教、あるいは、この世が天の差配のもとにあるとする儒教、死の哲学である仏教では、現世のほかに、天国や来世、彼岸があるが、神道という日本独自の宗教観においては、高天原は、現世とつながったままになっている。
 高天原でも、この世(芦原中つ国)でも、最高神は、同じ太陽で、太陽の化身である天照大神の神話が、血筋によって、現在まで、連綿とつづいている。
 そこに、神道と天皇が中心となった日本の国体のレジティマシー(正統性)がある。
 この世が、高天原の再来なのであれば、真・善・美は、すでに実現されているというのが、神道的世界観で、それが失われているのなら、浄めと復活でよみがえらせることができる。
 そこに、神道の保守思想があるのだが、そのテーマについては、いつかまた、ふれる。
 森喜朗元首相の「日本は神の国」、安倍晋三前首相の「美しい国・日本」は、神道的な価値観にもとづいたものだったわけだが、いかんせん、現在の日本では、神道的な素養が払底しているので、意思がうまくつたわらず、左翼マスコミから、散々、叩かれる破目になった。
 神道は、宗教というより、日本人が数千年にわたって共有してきた文化=世界観であり、天皇は、実史と融合している神話時代の唯一の実在者=国体の象徴で、政治体制がどうかわろうと、その地位やかたちは、ゆるがない。
 神道と国体は、このように、天皇が仲立ちとなった歴史の連続性、および、文化の永続性の関係である。
 このすがたをみず、憲法九条が戦後日本の国体などというのは、知的退廃も、はなはだしい。
 


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2008年02月18日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(12)

 ●「国体」と「政体」
 日本の保守政治家のあいだに、保守主義をつよめてゆこうといううごきがでてきたことを、わたしは、まことによろこばしく思う。
 平沼赳夫、中川昭一、島村宜伸らが主催する勉強会がそれだが、なぜ、かれらが、保守主義をかかげたのか、他の保守議員とどこがちがうのか、今回は、そのあたりを入り口にして、国体と政体のちがいついて、のべたい。
 保守系有志の勉強会「健全な保守」の平沼、中川、島村らと、河野洋平、加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階正博、福田康夫ら自民党左派、あるいは、小沢一郎、菅直人、岡田克也ら民主党主流のちがいは、一言でいえば、国体意識があるか、ないか、である。
「健全な保守」がもち、自民左派・民主主流に欠落しているのは、歴史や文化、民族性に根ざした国体という、国家・政体・国柄の土台となるイメージである。
 別項で、権威と権力の二元論について、のべた。権威が朝廷・天皇で、権力にあたるのが幕府・政府だが、これは、そのまま、国体と政体の関係におきかえることができる。

 ●権威=朝廷・天皇=国体(歴史・文化・民族性など)
 ●権力=幕府・政府=政体(民主主義・資本主義)


 国体と対応する政体は、政治形態ということで、これは、経済形態とワンセットになっている。
 民主主義と資本主義が、日本の政体で、自民党も民主党も、この枠内で、国益・民益を追求している。
 政体論においては、枠組みがきまっているので、両党に大きなちがいはでてこない。
 むろん、枠内での対立点は、多くある。政治は「個と全体」の利益調整なので、自由競争と福祉政策、大きな政府と小さな政府、国益と民益など、二者択一的な争点をめぐって、政治家は、選挙運動や国会・政党活動などをとおして、丁丁発止とやりあう。
 かつての自民党は、旧自由党系が、宏池会の池田勇人から宮沢喜一、谷垣貞一にいたるまで、経済一辺倒で、一方の旧民主党系は、改憲主義者の鳩山一郎から安保条約の岸信介、前首相の安倍晋三まで、政治向き、というちがいがあり、両派は、経済と国家の安全という振り子のなかで、政権を争ってきた。
 それが、かつて、政局問題となり、民主党が躍進してきた現在、政権交代へと発展する可能性もあるが、それが、民主主義と自由経済の枠内におさまるかぎり、政権交代も改革も、政体にかかる変更にとどまり、国体は、ゆるがない。
 つまり、政体は、国体に抵触しない限度内で、国益・民益を追いもとめる政治ゲームであり、たとえば、アメリカの共和党と民主党、イギリスの保守党と労働党がいくら激しく競り合っても、国体は、ゆるがない。
 争点を政体論にとどめおくという暗黙のルールが、まもられているからである。
 ところが、日本では、その境界線が、はっきりしない。
 政体と国体の仕分けが、プロの政治家でも、よくできていないのだ。
 元凶は憲法である。憲法は、政体の基本法で、そのなかで、民主主義を謳うのは、どこの国でも同じだが、日本の場合、国体の規定が憲法のなかにくみこまれてしまっている。
 政体は、国体のうえにのっている。ところが、現憲法によると、政体が、逆に、国体を規制している。これは、属国憲法の特徴で、GHQは、国体を衰弱死させるような憲法を残していったのである。
 わたしが、持論だった二大政党制に、最近、懐疑的になったのも、そのことと無縁ではない。現在の憲法では、政権交代が、国体変更の方向をむかいかねず、とても危なくて、政権交代など、軽々しく、口にできなくなった。
 植民地憲法は、戦前のインド憲法がそうだったように、国体が、宗主国がつくる憲法=政体の下におかれる。政体以前の歴史や文化、民族性などが、政治に隷属するものとなるのである。
 日本国憲法も、植民地憲法なので、天皇の地位を憲法でさだめ、国家ではなく、国民に主権をあたえている。
 ということは、選挙、あるいは、国会議決で国体を変更できるというわけで、独立国家の条件である国体と政体の二元論的分離が、皮肉なことに、国家の基本法である憲法によって、否定されているのである。
 国体が、政治に干渉されると、国の土台がゆらぐ。
 したがって、各国は、国家反逆罪を設けて、政治や民主主義の暴走を防いでいる。
 ところが、日本の憲法には、国家反逆罪も国家転覆罪も、スパイ防止法も、国家防衛のための危機管理項目もない。それどころか、国民主権なので、政治によって、国体の変更が可能で、そんな憲法が、事実上、変更不可能になっている。
 戦勝国アメリカが、日本に、こんな憲法をあたえたのは、日本を占領体制のままにしておきたかったからで、それには、国体を不安定にさせておくのが、いちばんよい。日本の憲法で、徹頭徹尾、国体が形骸化されているのは、GHQの謀略なのである。
 左翼が憲法をまもろうとしているのも、国体の規定がなく、代わりに、国民主権が謳われているからだ。これでは、暴力革命をおこして、憲法を停止させなくとも、現憲法下で、国会に赤旗を立てることができる。
 国体と国家主権がない憲法は、共産党宣言のようなもので、事実、官費で靖国神社にわずかな玉串料を払っても、この国では、憲法違反になる。憲法から、国体条項が外されているどころか、国体が、敵視されているのである。
 その憲法によって、国体が危うくされたのが、皇室典範の改定問題だった。有識者会議の吉川弘之が「歴史観や国家観にもとづいてつくったのではない」とのべたように、改悪皇室典範をつくったメンバーの大半は、反伝統主義の進歩主義者で、こういう連中が、二千年の歴史をひっくり返そうとしたのは、皇室典範という国体の大典が、憲法の片隅にくみいれられていたからである。
 憲法という政体の基本法によって、かえって、国体が危うくされているのが、この国の危機の構造である。そして、植民地憲法の不備をついて、売国政治家が、さかんに、国体へ手をのばしてくる。
 自民・民主の売国政治家が、日本に敵対政策をかかげる中国に媚び、日本を貶める理由は、日本の憲法が、植民地憲法だからである。そこから、対米にしろ対中にしろ、大国によりかかる事大主義でてくる。自虐史観や東京裁判史観などという負け犬根性がはびこるのも、憲法で、国家主権が否定されているからである。
 河野洋平、加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階正博、福田康夫、小沢一郎、菅直人、岡田克也ら、保守系反日政治家が、こぞって、中国に媚びるのは、現在の植民地憲法のもとでは、構造的に、強国の保護下でしか国家の安全がたもてないからで、たまたま、かれらは、対米従属より、華夷秩序(柵封体制)のほうをえらんだのである。
 国家が独立した国家たりえるのは、国体がなければならない。愛国心や誇り、国民性などを培うのは、国体で、政体などは、植民地や属国にだってある。
 独立や国家主権は、政策ではなく、国体思想である。そこで、中国は、靖国神社や教科書、歴史認識などの国体を標的にし、これをうけて、日本の売国政治家も、戦争犯罪をふれてまわり、南京虐殺記念館まででかけて行って花輪を飾り、自国の歴史に泥をかける。
 国体の要である歴史が、中国の気にいられたい与党政治家によって、危機にさらされているのである。
 国体は、政治の埒外にあるので、もともと、無防備である。戦後、左翼にあらねばひとにあらずの風潮のなかで、革命志向の野党やマスコミ、進歩的文化人が、国体を標的にした。それに気づき、反撃を開始したのが、三島由紀夫の「文化防衛論」だった。
 三島は、文化防衛とは、天皇をまもることで、畢竟、それは、国体をまもることだと喝破した。
 しかし、三島以後、国体防衛論は、保守陣営・論壇のなかでも勢力を失い、保守といえば、もっぱら、政体における保守=カンサバティブをさすようになった。
 だが、政治は、流動するので、そんなものに国体をあずけるわけにいかない。
 小泉元首相が、皇室典範改訂をすすめ、福田現首相が、中国の意向をうけて、靖国神社にかわる、無宗教の戦没者慰霊施設をつくろうというのは、国体意識が乏しいからである。
 ここで、政治家の国体意識の乏しさをあげつらっても仕方がないが、いっておかなければならないのは、日本人の心の故郷というべき神道、万世一系の天皇、歴史、伝統、習俗、価値観、歴史観、民族性という国体を構成する分野に、現在という一瞬の国益・民益をはかるにすぎない政治は、けっして、手をつけてはならないということである。
 政体は、目の前の問題を相手にするが、国体は、現在と過去、未来、つまり、歴史の連続性とともにある。
 福田が、中国にほめてもらいたい一心で、靖国神社をコケにすれば、福田の政治的判断によって、神道を礎にしている日本の国体は、根底からゆらぐ。そんな資格は、福田にあたえられていない。福田にかぎらず、従軍慰安婦の河野談話も、古賀誠の南京虐殺記念館館の表敬訪問や献花も、国体への冒涜以前に、選挙に当選したにすぎない代議士には、ゆるされていない越権である。
 政治家は、政治や経済に懸命たちむかうべきだが、国体にたいしては、沈黙しなければならない。
 国体は、まもるべきもので、まもるべきものがあるから、政治がうまれるのである。
 それが、国体と政体の関係ということができよう。
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2008年02月01日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(11)

●国体と天皇、神道とうたごころ 
 日本の場合、天皇を抜きに、国体を語ることはできない。
 立憲君主国や制限(象徴)君主国というのは、西洋風な政体論であって、国体は、それとは別の次元にある。
 独自の歴史や文化、国土、民族に根ざしているのは、いうまでもないが、国体にとってもっとも重要なのは、宗教感情である。
 民族が共有する神によって、国のかたちが、できあがるからである。
 日本の国体をささえている宗教は、神道(しんとう)である。
 日本の国教は仏教、というひともいるが、大乗仏教は、聖徳太子が国政にもちいたように、信仰の対象であって、国体をかたちづくる宗教感情とは、別物である。
 神道は、日本の習俗や文化、日本人の心に影響をあたえてきた一つの世界観で、仏教やキリスト教、イスラム教のような、信仰の対象となる教団宗教ではない。
 ところが、戦後、神道を軍国主義のバイブルとみたGHQが「信教の自由」の名のもとに<神道指令>をだして、一種の禁教にしてしまったため、神道が、教団宗教であるかのようにうけとられ、また、そのようにあつかわれるようになった。
 GHQは、すぐ、誤りに気がつき、昭和24年に解除した。だが、左翼イデオロギーに染まっていた教育界、学会、論壇、マスコミは、GHQの失策につけこんで、戦後の日本から、神道を抹殺する文化革命をひそかにおしすすめた。
 その結果、日本人は、民族の背骨となる世界観を失い、精神的な根なし草になって、多くが、唯物論や反日主義、コスモポリタニズムへと押し流されていった。
 戦後、GHQが、本物の日本人を要職から追放すると、代わって、左翼や精神的無国籍者が日本の指導的立場に立った。かれらにとって、神道は、前体制の遺物にすぎず、GHQ革命の邪魔物でしかなかった。GHQ革命は、一種の文化革命でもあったので、民族の固有・伝統文化が、かれらの標的になったのである。
 だが、神道は、生きのびた。それだけ、日本人の心に、神道が深く根を下ろしていたということであろう。
 天皇を抜きに国体を語ることができない、というのは、神道の世界観によって打ち立てられている日本の国体の中心に、神道の最高神官である天皇がおられるからで、キリスト教的価値観や西洋合理主義、唯物史観で、この構造を説明することは、できない。
 本居宣長は、漢意(からごころ=現代では西洋合理主義)で、神道の世界観を読みとることはできないとした。読みとれば、不合理だ、非論理的だということになり、神話の世界は崩壊してゆく。
 あとに残るのは、神の道を失った唯物論(=餓鬼道)の世界である。
 西洋合理主義では、すべて、科学で説明がつくとするが、元素や遺伝子を解明できたといっても、元素や遺伝子が、なぜ、存在するのか、わからない。太陽の生成構造を科学で説明したところで、唯物論で、存在の第一原因が解明されるわけではない。
 外務省は、中国の圧力におされて「日中歴史共同研究」を立ち上げ、すでに、二回、北京で会議をおこなったが、「日中間の歴史認識の食い違いを埋める」(外務省)などということは不可能で、そんなタテマエは、中国への屈服の言い訳にすぎない。
 すべての歴史を「人民を抑圧してきた権力史」とみる唯物論者に、神道的な歴史観などわかるはずはないので、議論したところで、意味がない。事実、中国側は、日本史を唯物史観で読みかえ、日本側がそれに反論するというパターンがくり返されたようだが、反論は、相手の論理にまきこまれている証拠で、反論すればするほど、相手の術中にハマってゆく。
 一方、日本側は、反唯物史観論をもちださないので、結局、議論は、天皇・神道にたいする批判と弁明に終始することになる。これでは、日本が被告席に座らされている裁判のようなもので、このようなばかな会議へ、北京まででかけていくほうがどうかしている。
 唯物史観は、人民の抵抗史だが、神道の歴史観は、神代とこの世がかさなりあったすがた(=中今)をしており、戦後、権力史に書きかえられるまで、日本史は、神話や文化が土台になったおおらかなものだった。
 皇国史観というのは、天皇ではなく、神道の歴史観で、どこの国の歴史も、その国特有の宗教観が反映されている。
 日本の神道には、絶対神がいない。自然や天然物、造形物、生物すべてが神そのものであって、最高神が太陽、その化身が天照大神である。太陽を頂点とした自然の営みが惟神(かんながら)というもので、そのかたちは、神代もこの世も、かわるところがない。
 かつて、森喜朗元首相が「日本は神の国」といって、ひんしゅくを買ったが、神道の神は、神ではなく、迦微である。そのなかに、人間をはじめ、鳥獣、草木、山河、海や空など、奇異(くすあやしき)なものが、すべて、ふくまれる。
 本居宣長によると、奇異(それぞれにふしぎ)なものは、すべて迦微で、この世にあるものは、すべて奇異なので、世界には、迦微ならぬものはなし、ということになる。
 迦微に、神という字を当てたのは、迦微のなかでも、ひときわ、可畏(かしこ)きものだからで、頂点に立つのが、太陽(天照大神)である。
 万物は、太陽のもとで生成され、成育する。太陽も生命も、この世に実在する。神は空想だが、神道の迦微は、天照大神(太陽)や産巣日神(生成・生育)として、森羅万象をしたがえている。
 実体と空想が、こうして、調和をとりあうのが、惟神(かんながら)の世界で、本居宣長は、これを「神の道」といった。
 神道は、アニミズムを源流にもつといっても、あながち、まちがいではないが、神道の場合、モノに御霊が宿るのではなく、モノやコト、それ自体が迦微(神)で、神々のはたらきが、この世の仕組み(惟神=神の道)である。
 本居宣長のことばを借りると「貴きも賤しきも、強きも弱きも、善きも悪しきもの」もあり、可畏こきもののなかには、実りをもたらす和魂(にぎみたま)のほかに、台風や飢饉、地震や雷のように、災いをもたらす荒魂(あらみたま)がおり、神々の世界はいろとりどり(八百万の神々)ということになる。
 神々のはたらきを祈念する天皇は、神代から血筋がつながっているので「神に祈る神」となり、この世における神道的価値観の中心となる。
 それが、天皇を抜きに、国体を語ることができないという根拠である。
 神の道というのは、この世もまた、神代の延長だからである。
 この世でおこるくすあやしいさまが、このあはれで、そのことに気づき、驚き、感動する心を、宣長は、大和心と呼んだ。
「もののあはれ」を「物の哀れ」というのは、まちがいで、あはれは、「噫、ハレ」あるいは、安波礼で、この「あはれ」をそのままことばにしたのが、和歌なので、神道とうたごころは、そこでつながる。
本居宣長が「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」と詠んだその大和心が日本人の心で、それが、神の道を生きる心根である。
 保守思想には「神の道」という考え方があり、キリスト教社会でも、アメリカ中西部のファンダメンタリストからイギリスの保守主義まで、神の道が用意されている。
 むろん、この神は、教団宗教の神体ではなく、「神の祝福あれ」というときの神で、善という観念が、個人の生き方であれ、政治であれ、すべて、善神に集約されている。
 神というものを立てなければ、成立しないのが、善なのである。
 イデオロギーにもとづいて、人為的・強制的に社会を改造することをせず、その国の歴史的集積のなかで、自然に形づくられてきた知恵や文化、伝統、習俗をまもろうとするのが、神の道を立てる保守主義であって、宣長も、「天下を治めるには、古(いにしえ)のやり方をもちいて、善神の御心にかなうようにあるべし」といっている。
 神道において、この世は、天照大神や産巣日神とともにある「今即神代(中今)」なので、つねに、善神の御心にかなうように生きなければならないが、その御証人となる立場が、天皇である。
 権威と権力の二元論も、そこからきている。善神の化身である天皇のゆるしをえて、はじめて、幕府が権力を掌握できるということは、権力が、善神の監視のもとにあるということで、善神という基準がなくなれば、現在の国会のように、政治が千々に乱れて、国は、滅ぶ。
 保守思想の根本は、歴史が、すでに、神の道という理想を実現させているので、誤りや悪をとりのぞくほか、何も変えてはならないとするところにある。
 右翼論でいえば、天皇が善神の化身なので、身体を張って、天皇をまもることが第一義で、うたごころ(大和心)を忘れて、政治を語るのは、国体を忘れている証拠、ということになる。
 右翼が、拠って立つところは、政体ではなく、国体=天皇=権威でなければならない。
 多数決で、国が売られる可能性を否定できないのが、民主主義というものだが、国体をまもるという立場に立てば、身体を張って政治的決着を阻止することが、善神の御心にかなう。
 つまり、民主主義と対決を迫られるのが保守で、そこが、衆愚に流れる自由主義とちがうところである。
 政治を「マツリゴト」というのは、善神の御心を奉るという意味で、その善神がおられるのは、多数決がおこなわれる国会ではなく、神代からつながっている日本という国の、国体にほかならない。
 国体までを政治の下におこうというのが、憲法の皇室典範だが、このテーマについては別の機会にのべよう。

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2008年01月28日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(10)

●国家は、権力ではなく、情緒の産物である
 国家と聞くと、たいていの日本人は、国家権力、あるは、法治国家というハード面だけを思いうかべるのではないか。
 マスコミが、国家を、そういう印象につくりあげてしまったのである。
 左翼にいわせると、国家は、人民を抑圧する制度・権力機構で、資本家は、労働者から搾取する悪党である。
 マスコミには、左翼が多いので、国家の、そういうハード面だけが強調される。
 その結果、国民の前へ、国家=権力、人民の敵という図式が描きだされる。
 だが、権力は、あくまでも、国家の一面で、国家の本質は、むしろ、歴史や文化、伝統や習俗、国土や民族など包括したソフト面にある。
 愛国心、国を誇りに思う心情は、そこからでてくる。
 マスコミが「反日」を煽り、日教組が「自虐史観」を叫び、野党が「反国家」を謳ったところで、愛国心、国を誇りに思う心情は、国家のソフト面に根ざしているので、国民の大多数は、騙されないというわけである。
 そのことが明らかになったのが、読売新聞がおこなった「年間連続調査『日本人』」である。
 93%の日本人が「日本国民に誇り」をもち、73%が「国の役に立ちたい」と考えていることがわかったという。この結果に、左翼マスコミや日教組、反日市民運動家、共産党や社民党、自民・民主の左派は「じぶんたちは、いままで、何をやってきたのか」と、がっくり、肩を落としたのではないか。
 それにしても、マスコミと世論とのこの乖離は、いったい、何であろう。
 朝日新聞や毎日新聞、NHK、テレ朝、TBSなど、左翼がもぐりこんでいるメディアは、国家を悪とする報道姿勢をつらぬき、最大野党の民主党も、生活主義を標榜して、反国家の姿勢を鮮明にした。
 国家のハード面だけをとらえ、一部は反日主義に、大半は、自虐史観に立って、アジアに謝罪しない日本はわるい国、と言い続けてきたのが、この国のマスコミのすがたである。
 ところが、日本人の93パーセントは、日本人であることに誇りをもっている。
 左翼は、日本人であることの誇りと、国家はつながらないという。
 だが、国家を度外視した、個人主義の日本人など、どこにいるだろう。
 日本に誇りをもつのは、国家との属性をふまえているからで、それが、73%の日本人が「国の役に立ちたい」と応えた読売のアンケート結果に、あらわれている。
 先祖がつくりあげた国家は、父でもあり、母でもある。
 父は、家族をまもるために、銃をもち、規律を立てる。それが国家のハード面で、母のようなやさしさ、なつかしさ、安心が、国家のソフト面といえよう。
 左翼・反日主義者は、そういう家庭を破壊して、人々をすべて、イデオロギーの奴隷にしようというわけで、朝日新聞は、もっぱら、そのPR部門を担当してきた。
 先週の週刊新潮(平成20年1月31日)で、高山正之がコラム変見自在でこう書いている。「この(朝日)新聞はかつて『北朝鮮は天国』と書いて9万人を地獄に送って殺した。共産主義の幻想から書いたものと思っていたが、どうもそうじゃない。記事に騙されて人が殺されにゆくのが愉しくてしょうがないのかもしれない」
 朝日新聞に入社するのは、偏差値が高い極左で、思想的には、革マルに近い。体制内にもぐりこんで、内部から革命をおこすという戦略で、その路線対決で、中核派と内ゲバをくり返して、これまで、双方あわせて百人に近い同盟員が鉄パイプで虐殺されてきた。
 NHK・民放の労組も、極左で、かれらと報道部は、しっかり手をにぎっている。
 新聞・出版・電波の担当者も、極左ではないが、半数以上がインテリ左翼で、かれらの眼鏡にかなった者たちだけが、マスコミに登場してくる。左翼は、イデオロギー右翼ともつうじるところがあるので、保守系媒体も、でてくるのは、理論保守ばかりということになる。
 さて。読売のアンケートのほうだが、「日本国民に誇りをもつ」「国の役に立ちたい」と考えるのは、保守思想である。だが、かれらは、理論保守ではない。高尚な理論やことばは知らないが、情という、人間の感性のいちばん奥深いところで、日本という国をとらえている心情保守である。
 そこに、マスコミを中心とした左翼・反日・反国家主義、あるいは、右翼イデオロギーやインテリ保守との決定的なミゾがある。
 左翼・反日・反国家主義と、右翼イデオロギー・インテリ保守の共通点は、国家だけを相手にしていることである。ともに「国家改造論」で、左は、マルクス主義による完全な国家統制、右は、保守理論による社会主義的な国家体制の立て直しで、情という、人間にとって、もっとも大事なものが忘れられている。
 わたしが、学生時代から二十代にかけて、師事した三浦義一は、「戦後の政財界を裏で仕切った黒幕」(謀略の昭和裏面史/ 別冊宝島)とよばれているが、素顔は詩人で、北原白秋の弟子だった。三浦の保守思想は、うたごころ(和歌の心)にあり、本居宣長の「ものあはれ」につうじる心をもっていた。
 わたしが衆議院に立候補した(次点で落選)した三十数年前、後見人となってもらった今東光から「政治は文化だ」と教えられた。文化というのは心で、今和尚自身は、万葉集のますらお(益荒男)ぶりを最期までつらぬいた。
 昔話をもちだしたのは、読売新聞のアンケート結果と、マスコミ世論とのはなはだしい落差の正体が、文化=うたごころの有無ではないかと思いあたったからである。
 理論右翼には、左翼からの転向者がすくなくない。左翼イデオロギーをひっくり返すと右翼理論になるのは、北一輝の国家改造論が、マルクスの共産党宣言と相つうじるものがあるのと同じで、両方とも、情(=文化)というものがない。
 情を忘れて、理論をふりかざして、どっちが正しいか、とやっているのが、現在の思想界である。
 そして、保守系は、日本人には歴史観や国家観がない、左翼は、日本には個人主義がないと批判している。
 ところが、日本人の93パーセントは、日本人であることに誇りをもっている。
 しかも、「日本の国や国民について、誇りに思うこと」の具体的内容では、「歴史、伝統、文化」が72%で、「国土や自然」43%、「社会の安定・治安」「国民性」(各28%)があとにつづく。
 前回の調査と比べると、「歴史、伝統、文化」が19ポイント増えた一方、「教育・科学技術水準」が22ポイント減の19%、「経済的繁栄」が17ポイント減の19%に落ちこんだという。
 誇れるのは経済だけで、日本人は、じぶんの国に誇りをもっていない、戦争でアジアを侵略して、ろくに謝罪をしないような国の指導者を、日本人は、情けなく思っている、という朝日新聞の主張は、これで、音を立てて崩れ去った。
 日本人が、国を誇りに思うのは、国や民族への情がはたらいているからである。
 一方、左翼には、一片の情もなく、インテリ保守も、あやしいものである。
 ともに国家改造主義で、心や文化、情というものをすっかり忘れている。
 否、もともとないから、理論に走るのである。
 国家改造というのは、政治家や役人が、国民の税金で、じぶんたちに都合のよいように体制をつくりかえようというくわだてで、左右いずれにしても、役人中心の巨大な国家になる。
 今回の読売アンケートの「小さな政府」と「大きな政府」の選択肢では、38%が「小さな政府」をえらび、33%の「大きな政府」を上回った。
 国民が国家に望んでいるのは、強大な官僚機構をもち、役人が幅をきかせるような国になることではなく、誇りをもって外交・防衛をおこない、国内については、余計な公務員を減らして、少数精鋭でいけということである。
 今回のアンケートは、マスコミ左翼やインテリ保守より、情という文化において、大衆のほうが成熟していたことをしめしたように思える。
 次回は、うたごころ(大和心)にからめて、天皇と国体について、のべる。
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2008年01月22日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(9)

 ●楠木正成の忠義と足利尊氏の打算
 日本人の忠の精神や滅私奉公は、神話からひきついだ民族の遺伝子のようなもので、他の民族も、同様に、神話をとおして、文化的・精神的な特性をひきついでいる。
 アメリカがフロンティア・スピリッツを国家のパワーとしてきたように、日本では、忠の精神が、経済の発展や組織力をささえてきた。聖徳太子の「和の精神」が横のつながりなら、忠はタテの結束で、団結力が、日本のつよさなのである。
 といっても、忠の精神が、日本史に武士が出現した当初からあったわけではない。
 源平合戦の源義経、鎌倉幕府をひらいた源頼朝、蒙古軍を破った北条時宗、貞永式目の北条泰時、南北朝で活躍した楠木正成、神皇正統記の北畠親房と、徐々に、忠が、武士の魂になってゆく一方、武士のあいだでは、依然として、一所懸命という打算が根強く、それが、のちに、暗黒の中世をつくりだしてゆく。
 日本史に、暗黒の中世が出現したのは、朝廷(権威)の地位が下がったため、求心力を失った権力集団が暴走したためで、南北朝の動乱から応仁の乱、戦国時代をへて、徳川幕府が誕生するまで、数百年にわたって動乱がつづく。
 忠という秩序感覚がはたらかなくなれば、権力は、武装集団にすぎないものになり、武士の世界は、下克上がふきあれる乱世となるのである。
 秩序が乱れはじめた鎌倉末期、武士の世界に打算をもちこんだのが、足利尊氏である。
 尊氏は、武士の打算の代表的な人物で、当時の武士も、所領地の主か、用心棒のようなもので、後世でいう忠の精神がうまれるのは、信長が朝廷の権威を盛り返してからである。
 連や臣ら、天皇のとりまきが権力をにぎる律令体制において、神話的秩序が大きな意味をもった、と前回、のべた。
 そしてそれが、武家政権になって、忠へ転化したと論じたが、それには、乱世という準備期間が必要だったのである。
 打算の足利尊氏と忠義の楠木正成がたたかった南北朝の争いにふれる前に、武家政権が成立した経緯をみてみよう。
 武士が台頭してきたのは、天皇と摂関家(藤原)を中心とした律令体制が崩壊したからである。朝廷や摂関家、源氏、平氏、土地持ちとなって力をつけた豪族が、それぞれ内部分裂してたたかった「保元の乱」を契機に武士が台頭してくると、つづく「平治の乱」で平清盛が源義朝を討って、太政大臣の地位につく。
 武家政権が成立するのは、それから、源平合戦をへて、平氏を滅ぼした源頼朝が、鎌倉幕府をひらいてのちのことである。
 その源氏の血統が三代で絶え、頼朝の妻・北条政子の系統が執権の座につき、「承久の乱」で、後鳥羽上皇の院政を廃した北条泰時の時代になって、ようやく、武家政権らしくなってくる。
 泰時はなかなかの傑物で、貞永式目をつくって潔白な政治をめざし、公武双方から高い評価をうけた。貞永式目は、聖徳太子の十七条の憲法を三倍した五十一条からできているが、その精神もうけつぎ、これが、のちの日本における法体系の土台となった。
 さて。日本の政治が安定していたのは、権力が権威にとってかわらなかったからとのべてきたが、逆に、天皇が権力をめざしたケースは、二度あった。
 一つは、後鳥羽上皇の承久の乱で、もう一つが、後醍醐天皇の建武の新政である。
 承久の乱は、かえって、武士政権をつよめる結果となり、朝廷は、弱体化して、内紛を生じる。承久の乱で、後鳥羽上皇が配流になった二十年後、持明院統と大覚寺統が対立して、両統迭立となる。
 朝廷が権力をもとめた結果、権威としての存在価値があやしくなってきたのである。
 後醍醐天皇が、もとめたのも、王政復古という政治権力だった。
 倒幕計画が発覚(正中の変・元弘の変)して、配流された大覚寺統の後醍醐天皇が隠岐から脱出、蜂起をよびかけると、護良親王や楠木正成、新田義貞らが呼応して鎌倉幕府を倒す。
 こうして、いったんは、王政復古が成功するが、鎌倉幕府から寝返って功をあげた足利尊氏が、ふたたび、叛旗をひるがえして、後醍醐天皇を吉野へ追い、そこから、半世紀をこえる南北朝の時代がはじまる。
 鎌倉幕府と後醍醐天皇を裏切った足利尊氏が、拠って立ったのが、武士の打算だった。
 幕府(将軍)が領主(御家人)に所領や安堵をあたえ、軍事上、経済上の奉公をもとめるのが、武家政権である。幕府と御家人は、打算でむすびつき、武士は、領主を命がけでまもる恩賞として、土地(所領)をえる。
 そこから、一所懸命ということばがでてきたわけだが、鎌倉末期に、その関係がゆるんできた。十分な知行をあたえることができない鎌倉幕府に、領主が、背をむけはじめたのである。
 二度にわたる元寇などで、貧窮化した鎌倉幕府には、幕臣に十分な知行をあたえる力がなく、王政復古の後醍醐政権にいたっては、律令体制への逆戻りで、あたえられる所領も知行も、鎌倉時代から大幅に後退した。
 当時の幕府と武士の関係は、打算であり、鎌倉幕府の幕臣だった足利尊氏が後醍醐天皇に寝返り、さらに、南朝に反旗をひるがえしたのも、打算からだった。
 鎌倉幕府を崩壊させたのと同じ経済的打算から、尊氏は、後醍醐天皇の理想を葬ったのである。
 足利尊氏は、幕府にたいする武士の不満、あるいは、打算を巧みにすくいあげて、叛乱軍を編成した。新田義貞に敗れて九州へ逃れたのち、50万もの大軍を率いて、ふたたび京都をめざすことができたのは、後伏見上皇に宣院を願いでた尊氏の政治力の高さもさることながら、それだけ、当時の武士が、功利的だったということであろう。
 このとき、打算に見向きもせず、忠を立てたのが楠木正成だった。正成は、勇猛にして智謀にたけたいくさの天才で、赤坂城・千早城などで奇策をもちいて奮戦、幕府軍を苦しめた。だが、度重なる進言が後醍醐天皇に聞き入れられず、情勢は不利になり、九州からのぼってきた尊氏の大軍を正面から討たねばならなくなる。
 湊川の決戦である。正成は、出陣のとき「今はこれまでなり」とのべている。天皇への忠をつらぬき、50万対700という劣勢のなかでたたかい、弟の正季と「七生報国」を誓って、刺し違えるが、これは、打算でうごく当時の武士のイメージを一変させる新しい武士像である。
 正成は、古代の神話的秩序を、忠という近世の観念にかえて、朝廷に仕える武家政権の土台をつくりあげて、みごとに、散っていった。
 そこに、太平記が、多くの日本人に読みつがれてきた理由がある。
 近代になって、正成をよみがえらせたのは、水戸藩主・水戸光圀である。
 楠木正成の死に様は、水戸光圀の「大日本史」に著され、幕府や主君より、天皇に忠義をつくすのが、真の武士だという考えがひろまっていった。吉田松陰や幕末の尊王志士のあいだで、楠木正成が武士の鑑となり、一方の足利尊氏は、戦後、再評価されたものの、不忠の烙印をおされた。
 アメリカに密航をくわだて、下田で捕まった吉田松陰は、護送先の泉岳寺で「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」と詠んだ。
 意味も場面もちがうが、忠や義、情もまた、松陰のいう、やむにやまれぬもので、どこかで高い理想につながっている。
 やむにやまれぬもの、それもまた、保守思想の大きな柱であろうと、思うのである。
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2008年01月21日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(8)

 ●神話が源流だった“忠”の精神
 日本史をふり返ると、蘇我馬子、藤原不比等、平清盛、北条泰時、足利尊氏、織田信長、徳川家康など、図抜けた権力者が幾人もでたが、ふしぎなことに、天皇にとってかわった者は、一人もいない。
 未遂者は、二人、いる。弓削道鏡と、金閣寺を建てた足利義満である。
 宮中で権勢をふるった道鏡は、権力者ではなかったので、問題外だとしても、じぶんの息子を天皇の養子にだした足利義満の場合は、上皇となって、院政を敷く可能性が十分にあった。
 政略で太上天皇の称号をいれかけた義満は、正装に、天皇にしかゆるされていない紋をつけ、金閣寺を建てた北山に、朝廷にしかない紫辰殿と同じ名の建物を建てるなど、天皇気取りで、天皇の養子にした息子の義嗣に、後小松天皇の後継ぎをうかがわせる増長ぶりだった。
 だが、義嗣元服の数日後、肺炎にかかって急死して、義満の野望は、ついえた。天罰が下ったのであろう。
 義満は、現在の政治家にたとえると、媚中派・河野洋平のような奇怪な権力者で、明と屈辱的な外交をひらき、その明から「日本国王」の称号をあたえられると、支那服を身につけ、暦まで明歴にあらためるという、極端な明びいきだった。
 日本国王の称号は、華夷秩序(柵封体制)における明皇帝の下位で、かつて、聖徳太子が、これを拒んで「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書き送ったのは有名な話である。
 義満は、これと、まったく逆のことをやった。日中外交に、外務省チャイナスクールや朝日新聞、媚中派の政治家や財界人が介入して、へりくだった関係にしてしまったようなもので、義満が存命して、上皇になっていたら、日本は、柵封体制にとりこまれて、その後の歴史が、まるっきりちがったものになっていたろう。
 だが、これは、あくまでも例外で、有史以来、この義満以外、だれも、天皇になろうとしなかった。
 そこに、日本の権力構造のユニークさがある。
 その理由の一つが、神話の存在である。日本の神話は、天皇の祖であるニニギノミコトが降臨して、国造りをする物語だが、大和時代の豪族から奈良・平安の公家、戦国時代の武将にいたるまで、祖をたどると、すべて、ニニギノミコトにつきしたがってきた従者の神々につきあたる。
 その神々の末裔が、天皇にとってかわれば、祖神を裏切ることになる。
 祖神を敬う日本人の宗教感覚から、とうてい、考えられることではない。
 大化の改新で功があった藤原鎌足とその子、不比等にはじまる藤原一族は、奈良・平安時代に、藤原三百年とよばれる栄華を築きあげ、武家政権になっても、朝廷人事の中枢を占めてきた。
 だが、一族のうちで、天皇になったものは、一人もいない。
 藤原氏の祖先は、神代の時代、天照大神が天岩屋戸に隠れたときに、岩戸の前で祝詞をあげた神で、藤原家系の由緒は、天皇をおまもりすることによってのみ、正統性がまもられたからである。
 神話時代から天皇をまもってきた重臣は、連(むらじ)や臣(おみ)とよばれた。
 日本の権力構造は、藤原氏をふくめ、天皇をまもる神々の子孫、連や臣にささえられてきた。
 したがって、天皇に叛旗をひるがえすと、神話時代から天皇に仕えてきた神々の末裔、他の連や臣が立ち上がって、叛徒を討つ。
 それが、日本で、権力者が朝敵になるのをおそれる理由である。
 たとえ神話でも、歴史上の出来事は、一つの規範となって、後世に残される。
 この神話的秩序をまもるのが保守で、それが、伝統国家の特質である。
 一方、この神話的秩序を破壊しつくすのが革命で、共産主義の名のもとで、前世紀だけで、数億人の人々が犠牲になった。それが、革命の愚かさで、歴史を断ち切ると、人間も国家も、文化と心を失い、野蛮と冷血性にとりつかれるのである。
 ソ連や東欧、中国や北朝鮮、カンボジアの悲惨な歴史が、それを如実に物語っている。
 同じ新興国家でも、アメリカでそういうことがおこらなかったのは、大陸からキリスト教という神話的秩序がもちこまれたからである。
 保守が、宗教とかかわるのは、過去から神話をひきつぐからである。アメリカの新保守主義も、アメリカン・プロテスタンティズムやファンダメンタリズム(原理主義)と深いつながりをもっている。
 宗教をふくめ、道徳や習俗、情などの精神文化が、民族共有のものとなるのは、神話が介在しているからで、日本の場合、そのなかに、忠がある。
 朝廷と公家、天皇の子孫である平氏源氏までは、神話的世界でつながる。
 だが、出自が百姓の武士は、公家や源平にくらべて、天皇とのむすびつきは、それほどつよくなかった。
 ところが、武家政権になっても、朝廷と幕府、幕府と御家人の関係は、崩れていない。
 神話的むすびつきが、忠という武士の倫理にきりかわって、生きつづけたからである。
 忠は、日本人特有の心情で、武士の倫理のみならず、上下の人間関係から愛国心にまでおよぶが、外国には、これに該当することばがない。
 忠の精神は、儒教から移入されたといわれる。だが、日本の忠は、神話から借りてきた日本独自の精神文化で、けっして、大陸のものではない。
 儒教は、孔子がつくった学問で、教えの中心に、仁・義・礼、徳治や忠孝がある。
 朱子学は、儒教より先鋭的で、王道政治(尊王賤覇)が、幕末には「水戸学」となって幕末の志士たちに大きな影響をあたえ、やがて、討幕運動のイデオロギーになっていった。
 だが、儒教(学)も朱子学も、仏教と同様、日本で独自の発展をとげてきたので、中国や韓国のものと、同一視することはできない。
 韓国の儒教は、忠孝の忠が捨てられて、孝が強化された。反対に、日本では、孝よりも忠である。韓国では、親への遠慮が美徳になるが、日本では、忠義が善行である。それが国民性や国柄のちがいで、いかんともしがたい。
 尊王賤覇も、易姓革命をくり返し、何度も北方民族に征服されてきた中国と、古来より覇道(征夷将軍)が王道(万世一系)の下位におかれてきた日本を同列に語ることはできない。
 事実、中国では、観念の上のものでしかなかった尊王賤覇が、日本では、天皇と摂関、朝廷と幕府という権威と権力の二元体制として、千年以上もつづいてきた。
 儒教が日本にはいってきて、忠や尊王が生じたのではなく、儒学によって、神話的秩序が理論化されたとみるべきだろう。
 科挙の国だった中国や朝鮮では、儒学が受験科目で、知識の対象だった。
 地位と富をえるための知識にすぎなかったその儒学が、日本で、よみがえった。
 租神を敬う神話的秩序があったため、儒教が空論ではなく、天皇や君主をまもる武士のモラルにまで高まったのである。
 天皇を中心とした律令制度や幕藩体制が、何百年も何千年もつづいたのは、律令体制の神話的秩序が、武家政権になって、忠という、倫理に成熟したからで、そこに、日本史をつらぬいている保守の思想がある。
 保守は、ただたんに、過去を復元することではない。変容をみとめるのも保守で、それがなかったら、歴史の知恵は、すべて、過去の遺物として捨て去られて、後世につたわらない。
 律令体制の神話的秩序は、封建体制(武家政権)の忠へ、すんなりときりかわったわけではない。
 それどころか、建武の新政ののちに消えた忠がふたたび登場して、織田信長によって、権威と権力の二元体制が再建されるまで、日本は、数百年におよぶ暗黒の中世へ迷いこむのである。
 次回は、日本が暗黒の中世に迷いこんだ歴史をふりかえってみたい。

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2008年01月09日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(7)

 ●新自由主義と新保守主義
 新自由主義を語る前に、主義やイデオロギーとはいったい何か、それをのべておくのが順番だろう。
「個と全体の矛盾」を解消しようとする運動論理――一言でいえば、それが、主義やイデオロギーというものの正体である。
 ところが、「個と全体の矛盾」を解消する理論は、まだみつかっておらず、今後、みつかる可能性も、薄い。
 そこに、イデオロギーや主義の不毛性がある。
 マルクス主義や社会主義、計画された資本主義が不完全なすがたをしているのは、それが、イデオロギーの産物だったからである。
「個と全体の矛盾」を解消するどころか、みずから矛盾に陥り、空中分解してしまったのが、前世紀末のソ連邦・東欧の解体劇であり、資本主義の世界で、周期的にくり返されるスタグフレーション(不況+インフレ)の悪夢なのである。
「個と全体の矛盾」は、理論的にも、現実的にも、解消できないというのが、現代の世界常識である。
 にもかかわらず、なお、イデオロギーをふり回すのは、不毛をこえて、おばかさんというしかない。
 とくに、左翼は、イデオロギー一本槍なので、その荒廃ぶりは、目に余るものがある。左翼過激派の内ゲバやリンチ殺人をみてわかるとおり、過剰にイデオロギーにとりこまれると、人間性が破壊されて、ケダモノやロボットのようになってしまう。
 日本の左翼も、本人はインテリのつもりでも、かつてのオウム信者のように、魂の抜け殻で、イデオロギーにマインドコントロールされたまま、自虐史観や反日主義、反道徳をふりまわしているだけである。
 いったい何のために、そんなことをしているのか、本人も、よくわかっていないのではないか。
 おおよそ、主義と名のつくものは、あまり信用しないほうがよいわけだが、自由主義もリベラリズムも、新自由主義も、その域をでない。
 知識にすぎないイデオロギーにとらわれると、経験をふまえる、現実を直視するという頭のはたらきが留守になってしまい、生きた知恵がはたらかなくなる。
 ちなみに、イデオロギーや主義のうち、経済を土台にしているものは、マルクス主義をはじめ、すべて、革新にぞくする。自民党でも、大蔵出身の池田勇人がつくった旧宮沢派(宏池会系/加藤派・谷垣派・古賀派)は、党内でもっとも左翼的で、保守からもっとも遠いところにいる。
 自由主義は、国家から自由という意味なので、左翼的なのだが、一方の保守は、国家や歴史、伝統によりそい、経済理論をふりまわさない。のちにのべるように、経済を単独の問題として考えず、社会や歴史、人間との関連でとらえるからである。
 自由主義は、「個人の自由」というときの自由とはちがう。
 国家に縛られない経済という意味で、経済用語である。リベラリストは、自由人ではなく、国家からの自由をもとめる反逆者であり、イギリスやフランス、アメリカにおける政変や革命、分離独立を担ったのも、国家の束縛をきらったかれらだった。
 その自由主義のわかりにくいところは、古典的自由主義と現代の自由主義(リベラリズム)が、まるっきり、逆の立場にたち、新自由主義は、リベラリズムを逆転させて、ふたたび、古典的自由主義へ立ち戻っているところにある。

 ●古典的自由主義(アダム・スミス)→国家からの自由→市場経済(神の見えざる手)
 ●リベラリズム(ケインズ)→国家の関与→市場への積極的介入(社会保障・福祉)
 ●新自由主義(ハイエク)→国家の関与を縮小→市場原理の重視(民営化・規制緩和)


 昨今、日本で、民営化・規制緩和がすすめられ、一方で、社会的格差や貧富の差がひろがりつつあるのは、アメリカで猛威をふるっている新自由主義が移入されたためである。社会保障や福祉が後退して、競争原理が前面にでてきたために、経済が活気をおびてきた半面、社会がギスギスしてきたのである。

 ●リベラリズム→大きな政府→社会保障・福祉→公共投資など政府の経済振興策
 ●新自由主義→小さな政府→自由化・規制緩和・民営化→減税による消費経済の拡大


 両者は、どちらがよくて、どちらがわるいというふうには、いえない。
 自由放任(レッセ・フェール)を制限すると、コストがかかり、経済が沈滞する。
 かといって、弱肉強食の市場至上主義を前面におしだすと、勝者と敗者の二極化がすすみ、市場原理に合わないものは淘汰されて、悪貨は良貨を駆逐するたとえどおり、価値の高い少数が、価値の低い大衆的な多数におしつぶされることになる。
 こうなると、衆愚化現象の経済版である。
 小泉・竹中コンビは、新自由主義にとびついた。だが、「日本改造計画」で新自由主義を主張した小沢一郎は、民主党へ入党するにあたって、リベラル路線へのりかえた。民主党は、羽田元首相の「共生」、旧社会党横路の「民主」、菅の「市民」、鳩山の「友愛」がごちゃまぜになったわけのわからない政党だが、新自由主義より、よほど、左翼色がつよい。
 小沢は、そこへ「生活」という新たなスローガンを掲げて、リベラリストの仲間入りをはたした。
 自由主義は、このように、のりかえも自由で、不況にぶちあたるたび、各国の経済担当部門は、自由主義政策のモデルチェンジをおこなってきた。古くは、ルーズベルトのニューディール政策(自由主義→リベラル/公共事業と社会保障制度の整備)、新しいものでは、レーガンのレガノミクス(リベラル→新自由主義/大型減税と規制緩和)などがあるが、日本のケースでいうと、バブル崩壊後のグローバリゼーションも、リベラリズムから、新自由主義へののりかえである。
 ちなみに、新保守主義は、新自由主義をささえる政治的イデオロギーで、伝統の重視や強硬な外交姿勢に特徴があるが、グローバル資本主義において、国家主義的な政治勢力が台頭してくるのは、理屈として、うなずける。
 だが、グローバル化や政治主義で武装しても、新自由主義がイデオロギーであるかぎり、いずれ、失敗に終わる。
 冒頭にのべたように、主義やイデオロギーは、永遠に「個と全体の矛盾」を解消することができないからである。しかも、経済理論である自由主義は、革新色がつよく、マルクス主義の二の舞になる可能性さえある。
 経済理論を軸にした主義は、すべて、左翼にぞくするとのべた。
 それでは、保守のイデオロギーや主義は、何を中心にしているのであろうか。
 経済ではなく、国家や歴史、文化である。
 厳密にいえば、保守には、主義もイデオロギーもない。本ブログでは、便宜上、主義と呼んでいるが、実際は、保守思想で、テーマは、徳である。
「個と全体の矛盾」は、イデオロギーで、解消できないと指摘した。
 ところが、徳なら、その矛盾を解消できる。
 前回、聖徳太子の和に、ふれた。イデオロギーでは、数の暴力になる民主主義が、和の精神という徳をもちいると、まるくおさまるように、「個と全体の矛盾」も、全体利益への譲歩、エゴイズムの抑制、忠孝の精神という徳をもちいると、解消される。
 かつて、日本経済が世界一となった一方、旧ソ連の経済が破綻し、現在、中国が、高い経済成長を実現しながら、日本に追いつけないのは、日本経済にそなわっていた徳が、いまの中国になく、旧ソ連になかったからである。
 理論は正しくとも、徳がはたらかなければ、「個と全体の矛盾」は解消されない。
 徳のない自由主義の経済は、かならず、ゆきづまる。日本の過去の経営者は、そのことを知っていたので、日本経済はつよかったわけだが、それが、保守主義である。
 経済政策において、保守主義は、経験主義である。
 革新は「頭で考えて不可能なことはない」という人知万能主義だが、人知を完全なものとしてみない保守は、頭のなかで考えたものに、全幅の信頼をおかない。
 歴史の知恵や常識、あるいは、徳にもとづいて経済をとらえ、創造や勤勉、協力、互助という倫理観に立って、経済哲学をつくりだすのである。
 商道の元祖といわれる石田梅吉(「商人の売買するは天下の相なり」)や、自藩(松代藩)の困窮と徴税問題を民との話し合いで解決した恩田杢、自助・互助・扶助の三助で米沢藩の財政危機を救った上杉鷹山、「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」の名言を残した二宮金次郎、武士道と商道を合体させた「富国論」で日本資本主義の黎明をひらいた横井小楠、そして、東洋紡や東京海上火災など、生涯に千をこえる事業をおこない、「完全な冨、正当な殖益には、かならず徳がそなわっている」と喝破した渋沢栄一など、欧米の主義やイデオロギーに学ばずとも、わが国には、先人のすぐれた教え、哲学、テキストがいくらでもある。
 自由主義やリベラリズム、新自由主義は、かつての日本にあり、いまは失われた「人間経済学」に比べると、浅知恵に類するものなのである。
 次回は、日本史に目を転じて、中世日本の保守主義を検証してみたい。
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2008年01月07日

保守思想とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(6)

 ●革命憲法から伝統憲法へ
 憲法問題にかんしては、保守と革新が、攻守ところをかえる。革新が「平和憲法をまもれ(保守せよ)」と叫び、保守が「GHQ憲法は廃棄すべき(革新せよ)」と主張しているのである。
 ということは、現行憲法は、左翼にとってだけ都合のよいもので、したがって、その憲法のもとで生きている戦後の日本人もまた、知らず知らずのうちに、左翼色にそまってきたということになる。
 六日間で日本憲法をつくりあげたGHQの若い男女19人は、ニューディーラーだったといわれる。
 F・ルーズベルトの社会主義(ニューディール=新規まき直し)的政策の申し子だったかれらは、敗戦国日本をニューディールするべく、かれらが信奉するイデオロギーにもとづいて、思い切り左翼的な憲法をつくってみせたというわけである。
 自民・民主の左派から社民党・共産党にいたる大勢力が揃って護憲をいうのは、日本国憲法が、左翼のテキストとして、それだけ、よくできているということなのである。
 改憲派にしても、大半は、憲法九条の戦争放棄が、事実上、国家主権の否定にあたるのでこれを改正すべきという「九条改正派」で、自主憲法制定派とのあいだには、温度差がある。
 現行憲法を改正しなければならないのは、不都合があるからではない。
 歴史の連続性を断ち切っているからである。
 とりわけ、憲法九条の戦争放棄と十章の最高法規、憲法前文の三つは、みずから、国家主権を否定した、世界に類のない、珍奇な内容である。
 むろん、日本の歴史文化、伝統は、反映されていない。
 GHQは、日本をそっくりつくりかえるつもりだったので、あたりまえの話である。
 あえて、保守主義といわずとも、GHQ憲法の廃棄→伝統にもとづいた自主憲法の制定は、国民感情としても当然である。
 その場合、問題になるのが、自主憲法の下敷きになる思想や価値観である。
 新憲法の手本に、明治天皇の「五箇条の御誓文」と聖徳太子の「十七条の憲法」以上のものはみあたらない。
 というのも、新憲法にもとめられるのは、国家(主権)と国体(文化)、国民(繁栄)の三つをつなぐ哲学だからである。
「五箇条の御誓文」と「十七条の憲法」には、その三つが書かれている。
 それらをひきついで、憲法改正をおこなって、はじめて、伝統憲法となる。
 伝統憲法というのは、読んで字の如し、歴史や国柄が反映された憲法である。
 明治憲法は、形式こそ、ヨーロッパの憲法がモデルだが、精神は「五箇条の御誓文」で、そのまた原型が聖徳太子の「十七条の憲法」なので、伝統憲法ということになる。
 五箇条の御誓文にこうある。

 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
「広く会議を開設し、何においても公の議論によって決めなければならない」
 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
「上に立つ者も下に立つ者も心を合わせて国策につとめよ」
 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
「官史も武士も庶民も志をもって、国民が失望しないようにすべきである」
 一、旧来ノ陋習を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
「旧弊にとらわれず、世界につうずる、道理にかなった国をつくろう」
 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
「知識を広く海外にもとめて、大いにこの国を発展させるべきである」
 
 これを現代にあった文章にかえるだけで、「主権が国民に存する」「人類普遍の原理」「崇高な理想」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」などという空想的な文言をちりばめた現憲法のものより、よほど、現実的で、りっぱな前文ができあがる。
 多くのひとは、意外に思うかもしれないが、明治維新の人々にとって、公議公論は、常識であった。外来思想の受け売りではなく、伝統的な道徳として、公議公論がおもんじられていたのである。
 原典は、聖徳太子の「17条の憲法」、その第17条である。
 十七条を現代語訳にするとこうなる。
<ものごとは一人で判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。重大な事柄を論議するときは、みんなで検討すれば、判断をあやまらず、道理にかなう結論がえられよう>
 個と全体の調和がとれた民主主義が、1400年前に、すでに、あったのである。
 一方、現代の民主主義は、個人が、非の打ち所がない権利者としてとらえられているので、個人は、他者や全体と対立し、しかも、多数決という数の暴力によらなければ、何事も、決着がつかない。
 多数決に該当するのが、公議公論である。各人が利己心を離れて"公"にとって、最善と思われる策を論じ合うような話し合いのことで、そこでは、エゴではなく、公益という徳がはたらく。
「17条の憲法」の第10条にこうある。
<ひとそれぞれにちがった考えがあり、相手がこれこそといっても、じぶんはよくないと思い、じぶんがこれこそと思って、相手はよくないとする。じぶんだけが聖人で、相手が愚かなどということはない。皆、ともに凡人なのだ。そもそも、だれもが賢く、反面、愚かというのに、だれが、まちがいのない判断を下せるだろうか>
 自己中心的でエゴイスティックな人権、全体の利益に一歩も譲らない現代の民主主義のはるか上をゆく和の精神が、聖徳太子の時代に、確立されていたのである。
 そのことを忘れて、戦後、アメリカから民主主義がはいってきたので、日本はよい国になったという議論は、愚かというしかない。
 エゴや多数決でしかない人権や民主主義が、ついに、主権にまでのぼりつめたのが国民主権だが、これもインチキである。人民独裁が不可能なので、人民の代表である独裁者が人民の生殺与奪の権利をもつ、という革命思想を借りてきただけである。
 日本伝統の民主主義=和の精神は、GHQも、みとめている。
 昭和26年(1946年)元旦に出された詔書(人間宣言)の詔書の冒頭にしるされた五箇条の御誓文が、それである。
 この詔書によって、天皇が人間になられたというが、昭和天皇は、昭和52年(1977年)8月23日の記者会見で「神格は二の次の問題で、わたしは、明治大帝のお考えを示すために、五箇条の御誓文を載せることを(マッカーサーに)もとめた」とのべておられる。
 マッカーサー元帥が詔書に記載することをゆるすほど、五箇条の御誓文が民主的だったということである。
 さて。憲法には、成文法と習慣(不文)法の二種類がある。
 前者がフランスやアメリカなどの憲法で、後者が、イギリスやイスラエルなどの憲法である。習慣法は、伝統憲法だが、成文法にも、伝統憲法と革命憲法がある。近世・近代になって、世界中の国々が、戦争や政変、革命を経験したため、大半が革命憲法になり、成文法の伝統憲法をもつ国は、日本の明治憲法をはじめ、わずかだった。
 敗戦によって、その明治憲法が、捨てられた。
 現在の日本の憲法は、伝統憲法どころか、革命憲法であり、謀略憲法でもある。
 というのも、国家主権(=交戦権)を否定する憲法九条「戦争放棄」は、日本を国家としてみとめないという属国化政策だからである。
 そして、前文で、国家主権を国民主権におきかえ、国家の主権を奪った。
 日本を主権喪失の国にした三つ目が、十章(最高法規/第九十七条、九十八条、九十九条)である。
 条文をみてみよう。

第十章 最高法規
【第九十七条】この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
【第九十八条】この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
【第九十九条】天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 基本的人権が、侵すことのできない永久の権利として信託された(主語がないため、だれから信託されたかわからない)ものなら、国民と国家の絆は切れてしまう。安全や経済的・文化的恩恵が自由獲得の努力の成果なら、国家はいらないということになるが、現実は、国家の庇護のもとになければ、われわれは、一日たりとも、人間らしい生き方ができない。
 子どもの作文のような憲法が、すべての法の上位にあり、立法権・行政権・司法権より重いばかりか、天皇も国会議員も、裁判官も役人も、この憲法を尊重し、擁護する義務を負わなければならないという。
 アメリカが、こんな呪術のような憲法をつくったのは、武力で日本を占領していたからである。
 したがって、講和が成立した1951年の時点で、その呪いから開放されなければならなかったのだが、さらに、日本は、憲法九十六条で、各議院の総議員三分の二以上の賛成と国民投票の過半数の承認という足かせをはめられて、GHQ憲法の呪縛は、いまもなお解けていない。
 GHQは、日本が国家の統一を欠き、いつまでたっても一人前の国家になれない、平和憲法という毒を仕込んでいったのである。
 革新陣営が現行憲法をまもろうとするのは、日本を弱体化させるためにつくったGHQ憲法が、文化・伝統破壊をおこない、革命前夜の状況をつくりだす効果をもっているからである。
 改憲政党だった自民党も、いまでは、護憲派のほうが多く、改憲派も、修正派といったほうが、あたっていよう。
 保守の立場に立って、伝統憲法を制定しないかぎり、日本は、現在の国力・国威低下に歯止めがかからず、やがて、アメリカが狙ったとおり、力も誇りもない、情けない国へ転落してゆくだろう。
 憲法問題については、いつかまた、別の角度からふれたい。
 次回は、日本の弱体化をはかるべくアメリカが仕掛けたグローバリゼーションと日本がとびついた新自由主義についてのべる。
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