●<国家三原則>に反する外国人参政権
国家には、ゆるがせにできないものが、三つある。
「主権」「国是」「国体」の<国家三原則>である。
国家主権は、交戦権に代表される独立国家の象徴で、国是は、自国の利益をすべてに最優先する国家理性である。国体は、歴史や伝統、文化や民族性などに根ざしている国のかたちで、日本では、天皇体制がこれにあたる。
この三つに、憲法をくわえて、国家の四本柱となる。
ところが、わが国は、占領憲法を改正していないため「主権」「国是」「国体」が憲法の下におかれ、日本共産党ら野党が、この占領憲法をタテに<国家三原則>を攻撃するという危機的な事態にさらされている。
戦後、GHQによって、国家を解体された日本は、六〇余年たったいまなお、国家主権の不在やスパイ法・国家反逆罪の未制定など、独立国家としてのかたちを整えられず、半人前国家の欠陥をひきずったままである。
皇室典範への立法・司法の介入や道州制導入なども、一過性の政権が、絶対無比の国体に変更をくわえようという暴挙で、現在の政治体制が、今後もつづけば、日本は、独立国家としての体裁を失ってしまいかねない。
現在、さらに、懸念されるのが「外国人参政権」問題である。
独立国家なら「外国人参政権」問題は@主権防衛A国益優先B国体護持の観点から、ただちに、はねつけてしかるべきものである。
アメリカでは、グリーンカード(労働許可証兼永住許可証)を取得すれば、徴兵登録をもとめられる。だが、グリーンカードをとっても、徴兵登録しても、選挙権は、あたえられない。
国籍と選挙権は、いかなる国家でも、国家独立の根幹にふれる大問題なのである。
ところが、日本では、民主党元代表の岡田克也が「わたしが外国で、2、3世として生まれ育ち、選挙権をえたければ国籍を捨てろといわれたらゆるせない」と感情論むきだしのユルフンぶりである。
外国人の参政権は、国籍取得がセットになっていなければ、国籍の二重行使になる。
北米諸国やEU諸国、スイス、オーストラリアなどが外国人に地方参政権を付与しているのも、欧州連合や英連邦など、同盟国だけで、無条件で外国人に参政権をあたえているわけではない。
くわえて、同盟国内の在留外国人は、住んでいる国に"政治的運命共同体"意識をもっており、メンタリティにおいて、ほとんど、自国民とかわらないという事情がある。
一方、日本国籍の取得を拒み、外国籍のまま参政権(永住外国人地方選挙権)をもとめている特別永住外国人(主に在日韓国人)は、日本国内に反日的な民族団体(大韓民国民団/朝鮮総連)をもち、しかも、かれらの母国、韓国・北朝鮮では、戦後六十年以上たったいまも、反日教育がおこなわれている。
金正日に忠誠を誓わせ、本国への送金団体としてのみ機能している朝鮮総連が、参政権を拒否しているのは、日本の政治システム組みこまれると、民族的アイデンティティーを失いかねないからという。そんな敵意むきだしの国に、どうして、日本国民の証である参政権をあたえなければならないのか。
外国人参政権法案が成立すると、当然、北朝鮮系在日にも、参政権があたえられる。
そのとき、かれらが、戦術を変更して、地方の市町村へ大挙して押し寄せ、住宅街を建設するなどして、人口の半分を占めると、どうなるか。
在日朝鮮人には、北朝鮮最高人民会議の現役代議員(国会議員)が、六名もいるという。
日本の市や町の首長に、北朝鮮の最高人民会議の国会議員が就任することになりかねない。
地方参政権とはいえ、軍事関係基地や原子力発電所、交通機関のほか、教育、環境、周辺事態法、治安問題など、地方自治は、国家政策と密接にかかわっている。
「日本は朝鮮を侵略したのだから、参政権くらいあげるべき」(野中広務)「参政権がほしいなら国籍を取れというのは、人権にかかわる」(岡田克也)などと、ノーテンキなことをいっている場合であろうか。
●選挙で、反日・創価学会に呑みこまれた自民党
みずからの意思で、日本に永住する外国人として生きることを選択したかれらに、選挙権が付与されないことは、日本国民と外国人の区別であって、差別でも、人権侵害でもない。
ところが、参政権をもとめる在日本大韓民国民団の主張には、日本への内政干渉や批判がにじむ。
@外国人参政権の拒否は、日本国憲法、地方自治法、国際人権規約や人種差別撤廃条約などに違反している
A日本国民と同じく法律上納税の義務を負っているので、参政権は、当然の権利である
B基本的人権と「住民」の権利が保障され、地方公務員採用などにおける不要な国籍条項の撤廃につながる
B少数民族の自尊、国際人権規約B規約第27条に明記されている少数民族の権利、民族教育の制度的保障などが実現される
C戦後処理の一環。在日韓国籍住民の歴史的経緯を正しく認識することで、日本の民主主義の成熟が促される
D21世紀にむけた日本の真の国際化と社会良化。相互理解と共生社会が実現される
公権力にたずさわる公務員(警察官など)に外国人を採用できないのは、当然であろう。
「基本的人権の尊重」と「参政権」は、直接、むすびつくものではなく、戦後処理は「日韓基本条約の調印」で、解決済みになっている。
強制連行によって来日した韓国人の多くは、すでに、帰国しており、現住している韓国人は、任意の永住者であり、戦争被害者ではない。
納税義務をはたしているというが、社会党と国税庁、在日朝鮮人商工連合会(朝鮮商工連)のあいだで取り交わされた合意によって、在日韓国・朝鮮人は、事実上、免税処置をうけている。
免税ばかりではない。生活保護をうけている在日韓国・朝鮮人の人口比率(22.7%)は、日本人(0.9%)の25倍(厚生統計要覧13年度)にたっしている。
在日韓国人、朝鮮人の5人に一人がうけている生活保護は、日本国憲法25条(すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する)にもとづいて、権利の享受を日本国民に限定している。
かれらは、差別されているどころか、甘やかされ、特別扱いされているのである。
帰化申請を拒んでいるのは、免税や生活保護などの既得権を失うからで、そのうえ、さらに、参政権をくれないのは、民主主義が未成熟だから、真の国際化に対応できていない、といいつのっているのである。
尊大で、カサのかかってくる在日韓国、朝鮮人をささえているのが、与・野党の反日勢力や学会・論壇である。司法にも、永住外国人の参政権をみとめるべきという意見が根強く、外国人参政権を合憲とする判例もでている。
@法律上「国民」とあるのは「日本国籍保持者」ではなく、広く政治社会の構成員
A国民主権の原理・民主主義の理念は、政治的決定にしたがう人民の自己統治
B人権問題を考える際、重要なのは、その人の国籍ではなく、生活実態
というのだが、国政選挙については、最高裁判所が、これと反対の立場をとっている。
国政をおこなう公務員をえらぶ選挙権は、国民主権の原理から、国民にのみにみとめられるという見解である。根拠は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする日本国憲法第一五条@である。
地方選挙についても、憲法第九三条Aの「住民」の前提が、日本国籍なら、外国人の参政権は、違憲になる。
司法では、憲法第93条Aの「住民」に、その地方に住んでいる外国人をふくむか否かで判例が分かれているが、最高裁判所が在留外国人選挙名簿訴訟の判決で、憲法第93条Aの「住民」を「日本国籍をもつ住民」と解釈して、憲法論議は、一応、決着がついている。
政界で、外国人参政権の決着がつかないのは、創価学会(公明党)と反日勢力が法制化をスケジュール化しているからである。
岡田克也ら、反日主義者の目的は、日本国家の弱体化であろうが、自民党の同法支持者の多くは、選挙区で、創価学会の票をもらっている連中の打算である。
公明党は<国家三原則>など眼中になく、公明党のリモコン下にある自民党にも、政権をとったら、まっさきに、岡田が入閣する民主党政権にも、国家再建は、期待できない。
かつて「外国人参政権の慎重な取り扱いを要求する国会議員の会」の会長として動いた平沼赳夫氏の保守新党旗揚げが、待たれるばかりである。
2008年06月06日
2008年06月02日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(24)
●日本が日本でなくなる「道州制」導入の恐怖
政府の「道州制ビジョン懇談会(座長=江口克彦PHP研究所社長)」や自民党の「道州制推進本部(本部長=谷川禎一政調会長)」、「道州制導入に向けた第二次提案(日本経団連)」、有識者でつくる「日本再建のため行革を推進する700人委員会/道州制導入研究会(座長=石原信雄元官房副長官)」などが中間報告をまとめ、それぞれ、内容を公開した。
各メディアの反応は、こぞって、好意的で、読売新聞などは「道州制知らんぷり官邸」と道州制導入に不熱心な福田康夫首相を暗に批判する熱っぽさである。
小泉内閣・安倍内閣、与野党の改革派を中心にすすめられてきた道州制は、基礎自治体の線引きや分権内容など、細部にわたる議論が先行しているが、何のために道州制を導入するのか、という肝心なことについて、何一つ、明らかになっていない。
「東京一極集中と格差の拡大、地域住民のニーズに即した行政ができない」(道州制ビジョン懇談会)という理由から、「日本の統治構造を全面的に変える」(道州制導入研究会)という飛躍した結論がみちびきだされて、明治四年の「廃藩置県」以来となる行政機構の大改革がおこなわれようとしているわけだが、それがまるで、条例変更ほどの軽さで論じられているのである。
主権をもった道州制の導入は、国家の大改造である。
当然、憲法も変えなければならないが、国家主権が分裂して、国民統合の象徴としての天皇の地位がゆらぐと、国体にも影響がおよび、革命にひとしい衝撃的な変化となる。
国体の解体と国家分裂の危機を隠蔽したまま、ある勢力が、改革の一環として、道州制の導入をはかっているのなら、これほど、物騒な話はない。
政治家が、この罠に気がつかないほど、国体防衛や国家主権に鈍感なのであれば、これも、不気味である。
道州制ビジョン懇談会の江口は、著書『地域主権型道州制』(PHP新書)に、こう書いている。
「私の『地域主権型道州制』について批判する人もいるだろう。それはそれでいい。しかし、反対のための反対、重箱の隅をつつくような反対は止めてほしい。揚げ足取りの批判はごめんこうむりたい。反対、批判するのならば、なにより、そのあなたに私は問いたい。ならば、あなたは崩れつつある、いまの日本を救うために、どのような全体構想をもっているのか、と。それもないなら、あなたと軽々に議論するつもりはない」
道州制の導入に反対なら対案を提起しろと、行政機構の改革を前提にして、居丈高なのである。そして、こうつづける。
「中央集権体制によって、国民の生活が画一化され、強制され、個性を奪われ、自由を阻害されている。実際のところ、このごろの犯罪、とくに若い人たちの犯罪などをみると、中央集権体制の抑圧が個人にストレスをあたえ、取り返しのつかない事件を発生させている例が多い」
国家の衰弱が、国民活力の低下やモラルの崩壊をうむというのが一般常識で、中央集権が諸悪の根源などという理屈は、これまで、聞いたことがない。
道州制の発案者は、松下電器産業の創業者で、PHP研究所をつくった松下幸之助とその松下が師事した下村宏(内閣情報局総裁・朝日新聞副社長/ポツダム宣言の受諾や玉音放送の中心的人物)である。
江口の「地域主権型道州制」は、松下幸之助の「廃県置州」をひきついだものと思われるが、オリジナルは、行政上のコスト削減と県による差別意識の撤廃をはかった下村宏の「道州論」である。
さらに、さかのぼると、福沢諭吉の「廃県論」がある。福沢諭吉、下村宏、松下幸之助らに共通するのは、徹底した経済効率主義と福沢の「脱亜入欧論」や著書「西洋事情」「文明論之概略」に象徴される国際主義である。
いまでいう、新自由主義とグローバリゼーションで、これが、現在の道州制に、ひきつがれた。
というのは、道州制は、すべての価値をカネに換算する新自由主義と、左翼色の濃いアメリカ新保守主義(ネオコン)の産物で、小泉内閣からはじまった構造改革のしめくくりが、この道州制導入だったからである。
アメリカは、けっして、保守主義の国家ではない。歴史の浅い国なので、回帰すべき歴史がないからである。保守思想といっても、キリスト教と反共主義のほかには、建国の理想としての自由原理主義(ハト派)と民主原理主義(タカ派)があるだけで、日本やイギリスのような歴史や知恵(コモンセンス)、伝統的な価値観や思考形態がない。
ちなみに、アメリカが、民主主義の名のもとでおこなった戦争がイラク戦争で、自由主義の名のもとでおこなった金融・経済侵略が、グローバリゼーションだった。
プラザ合意からバブル崩壊、第二の敗戦といわれる日米構造協議以降の金融・経済面での屈服から年次改革要望書にいたるまで、日本は、アメリカがおしつける構造改革とグローバリゼーションに痛めつけられてきた。
その仕上げが、東京のワシントンDC化と日本の連邦化をはかる道州制の導入である。
なぜ、道州制が必要なのか、という肝心な話をスッとばして、道州制への完全移行を前提に、改革派系の懇談会などが、州の数や線引き、権限の分担をきめたのは、国民から異論がでる前に、道州制導入を既成事実化してしまおうという狙いがあったからであろう。
道州制導入は、歴史上、類のない大改革で、革命にひとしい。
その革命を、新自由主義にのっとった経済至上主義と、伝統という裏付けのないアメリカ民主主義で、一気に実現してしまおうというのが、改革主義者のやり方とみえる。
道州制は、基礎自治体に公選制の首長をおき、将来的には、各道州が主権をもつ連邦共和制にしようという事実上の無血革命である。
十いくつの州の首長と州都が、主権と自治権を宣言して、独立集州の補選をへて大統領がえらばれることになれば、日本は、歴史が不在のアメリカのコピー国家となり、万世一系の天皇を中心に和をむすんできた日本国の二千年の歴史と伝統は、廃棄される。
ここに、是が非でも、道州制の法制化を阻止しなければならない、国体上の大問題が横たわっている。
●和と均一性、中央集権が日本のパワー
現在、連邦制をとっている国は、アメリカのほか、スイスやドイツなどがある。アメリカは、もともと、州政府や入植者が、経済原理にそって、原住民から奪った土地を分け合った国柄である。
多民族・多言語のスイスは、連邦制以外に、国家の体裁をたもつことができず、歴史的に統一国家ではなかったドイツは、敗戦後、国家が滅亡したため、ドイツ人の団結力や発展をおそれた連合国によって、東西に、さらに、米・英・仏によって、11の州政府(西ドイツ)へ、八つ裂きにされた。
連邦化は、中央集権の求心力が弱まるため、国家の衰弱につながる。
旧ソ連連邦が崩壊したのは、各連邦間の摩擦や経済不況、共産党官僚の腐敗が深刻化したためで、中央集権の求心力がはたらかなくなれば、連邦国家は、連邦間でひきおこされる摩擦と経済不況、腐敗の三悪によって、倒壊してゆく。
日本は、世界で、唯一、万世一系の神話的な存在である天皇を中心に「和」という特有の文化のもとで、家族国家を形成してきた。
アメリカのような歴史をもたない国とも、他民族・多言語の国とも、敗戦によって国土を八つ裂きにされた国とも異なる日本が、歴史的経験がない連邦制をとったら、和という中心原理(=セントラル・ドグマ)が失われ、道州間に、それまで、経験したことがない摩擦が生じて、発展どころか、数年をへずして、非力なアジアの一分裂国家へ転落してゆくだろう。
日本のパワーは、和という中心原理、均一性、中央集権という伝統的な国柄からうまれている。これを廃棄して、先進国と肩を並べられると思うのはおおまちがいで、本気で、そう思っているのだとすれば、おそるべき亡国の論である。
江口は、著書で、こうのべている。
「日本の一地方と同程度の人口・面積しかもたないアイルランドやデンマーク、スイス、オランダ、オーストリアなどが、世界屈指の高所得国に成長している一方、日本は、イギリスやドイツ、フランスを上回る人口・面積をもちながら、これらの国はおろか、先進国平均の成長率を下回るまでに経済・所得が停滞している。日本を小さな国に分けて、道州制国家になれば、中央集権のハンディキャップを克服できる」
なんという、粗雑な議論であろうか。
ヨーロッパ諸国の発展は、欧州連合(EC)という中央集権的な求心力がはたらいたからで、一方、日本経済の停滞は、アメリカのいいなりになって、グローバリゼーションや構造改革に走り、求心力を弱めたからである。
国家は"家"にたとえることができる。玄関や台所、茶の間や書斎、客間や寝室、便所もあるが、これが、統合的にはたらいて、家の形態となる。会社にたとえてもよい。製造部や営業部、総務部や経理部、人事部があって、はじめて、会社という生きた組織になる。
モノをつくり、カネを稼ぐのは、製造部や営業部である。だが、家に台所や寝室、便所が必要なのと同様に、カネは、稼ぎのない総務部や経理部、人事部へも支給されなければならない。
これが、地方交付金や補助金で、これを打ち切って、中央と地方の所得格差をひろげたのが、新自由主義の小泉改革である。
地方も自立して、じぶんでカネを稼げというのだが、東京都に食糧を自給しろというのと同様、無理な相談である。先日、奈良県の吉野へ行ったが、あそこで、どうすれば、自力で産業を興せるであろうか。
日本の経済は、過疎地のきれいな空気と工業地帯の汚れた空気が、どこか見えないところでつながっている大きな関係のなかで、成立している。過疎なのは、若者が、都会へ行ってしまったせいで、その恩恵をうけた都会が、過疎地へ地方交付金をだして、経済の手助けをする――こういう和の精神によって、これまで、日本は、発展してきた。
それが、全体性の利益追求と中央集権のメリットである。
補助金や支援がなくなれば、過疎地や産業のない地方は破産する。それが、地方を犠牲にしてきた経済国家の構造的欠陥で、この矛盾を解消するには、中央が地方へ、手をさしのべて、お返しをしなければならない。「人生いろいろ」や自己責任で片付く問題ではないのだ。
日本を連邦化して、過疎地に自己責任を課して、地域経済を活性化させることが、可能であろうか。
道州制が導入されると、州都へ資金やカネが集まって、ミニ中央集権化がおき、過疎化がさらに深刻になるだけである。とくに、道州制では、中央からの補助金がなくなるので、破産する州や自治体もでてくるだろう。
道州制は、地方経済にとって、けっして、追い風にはならない。
道州制の導入によって、資金が流入して地方が活性化するというのも、地域社会にかかる行政の権限を道州に委譲して、課税自主権、税率決定権、徴税権をもたせると、地方が元気になるというのも、世紀の大嘘である。
州では、資本マーケットが小さいので、設備投資や商品開発などに大きな資本を投下することができない。スケール・メリットがない地方経済は、中央経済とのタイ・アップが必要なのである。
日本経済の強みは、日本全土という広いマーケットに同質性・均一性があることで、これは、EC統合によって大きな市場をえたデンマークが、酪農製品の売り上げをのばしたのと同じ原理である。
小さな国だから経済がうまくいっているという江口の仮説は、デマゴギーなのである。
道州制の問題点は、経済だけではない。
主権道州ができたら、こんどは、左翼が煽って、オリジナルの憲法、国旗、国歌をつくるうごきがでてくるだろう。東京DCのある関東国と張り合い、摩擦のタネをふりまき、紛争に政治エネルギーを消耗するようなことになれば、経済発展どころではなくなる。
かつて、ヨーロッパ列強は、アフリカを再分割する際、@部族を分散させるA一国に多くの部族種を混在させるB崇める神がちがう部族を同じ国に住まわせる――という弱体化戦略をとった。
中央主権をつくりだせなかったアフリカ諸国は、いまなお、ツチ族とフツ族が殺しあったルワンダの悲劇に代表される悲惨な内戦が絶えない。
道州制によってうまれる独立自治体は、和と均一性、中央集権制という、これまで日本の国力をささえてきた特性を失った一地方にすぎず、その行く末は、内地の都市との一体感を断たれた場合の北海道をイメージするだけで、十分であろう。
地方の活性化は、革命的な道州制という方法をとらなくとも、たとえば、地方農家のオリジナル・ブランドのワイン製造にまで口出しする中央官庁の支配力を大幅に制限するだけで十分で、それが、考えうる、もっとも効果的で、現実的な方法である。
そういう、順当な方法をとらず、いきなり、道州制へ飛躍するのは、改革主義者の狙いが国体の変更にあるからではないかと、わたしは、疑わずにおられない。
政府の「道州制ビジョン懇談会(座長=江口克彦PHP研究所社長)」や自民党の「道州制推進本部(本部長=谷川禎一政調会長)」、「道州制導入に向けた第二次提案(日本経団連)」、有識者でつくる「日本再建のため行革を推進する700人委員会/道州制導入研究会(座長=石原信雄元官房副長官)」などが中間報告をまとめ、それぞれ、内容を公開した。
各メディアの反応は、こぞって、好意的で、読売新聞などは「道州制知らんぷり官邸」と道州制導入に不熱心な福田康夫首相を暗に批判する熱っぽさである。
小泉内閣・安倍内閣、与野党の改革派を中心にすすめられてきた道州制は、基礎自治体の線引きや分権内容など、細部にわたる議論が先行しているが、何のために道州制を導入するのか、という肝心なことについて、何一つ、明らかになっていない。
「東京一極集中と格差の拡大、地域住民のニーズに即した行政ができない」(道州制ビジョン懇談会)という理由から、「日本の統治構造を全面的に変える」(道州制導入研究会)という飛躍した結論がみちびきだされて、明治四年の「廃藩置県」以来となる行政機構の大改革がおこなわれようとしているわけだが、それがまるで、条例変更ほどの軽さで論じられているのである。
主権をもった道州制の導入は、国家の大改造である。
当然、憲法も変えなければならないが、国家主権が分裂して、国民統合の象徴としての天皇の地位がゆらぐと、国体にも影響がおよび、革命にひとしい衝撃的な変化となる。
国体の解体と国家分裂の危機を隠蔽したまま、ある勢力が、改革の一環として、道州制の導入をはかっているのなら、これほど、物騒な話はない。
政治家が、この罠に気がつかないほど、国体防衛や国家主権に鈍感なのであれば、これも、不気味である。
道州制ビジョン懇談会の江口は、著書『地域主権型道州制』(PHP新書)に、こう書いている。
「私の『地域主権型道州制』について批判する人もいるだろう。それはそれでいい。しかし、反対のための反対、重箱の隅をつつくような反対は止めてほしい。揚げ足取りの批判はごめんこうむりたい。反対、批判するのならば、なにより、そのあなたに私は問いたい。ならば、あなたは崩れつつある、いまの日本を救うために、どのような全体構想をもっているのか、と。それもないなら、あなたと軽々に議論するつもりはない」
道州制の導入に反対なら対案を提起しろと、行政機構の改革を前提にして、居丈高なのである。そして、こうつづける。
「中央集権体制によって、国民の生活が画一化され、強制され、個性を奪われ、自由を阻害されている。実際のところ、このごろの犯罪、とくに若い人たちの犯罪などをみると、中央集権体制の抑圧が個人にストレスをあたえ、取り返しのつかない事件を発生させている例が多い」
国家の衰弱が、国民活力の低下やモラルの崩壊をうむというのが一般常識で、中央集権が諸悪の根源などという理屈は、これまで、聞いたことがない。
道州制の発案者は、松下電器産業の創業者で、PHP研究所をつくった松下幸之助とその松下が師事した下村宏(内閣情報局総裁・朝日新聞副社長/ポツダム宣言の受諾や玉音放送の中心的人物)である。
江口の「地域主権型道州制」は、松下幸之助の「廃県置州」をひきついだものと思われるが、オリジナルは、行政上のコスト削減と県による差別意識の撤廃をはかった下村宏の「道州論」である。
さらに、さかのぼると、福沢諭吉の「廃県論」がある。福沢諭吉、下村宏、松下幸之助らに共通するのは、徹底した経済効率主義と福沢の「脱亜入欧論」や著書「西洋事情」「文明論之概略」に象徴される国際主義である。
いまでいう、新自由主義とグローバリゼーションで、これが、現在の道州制に、ひきつがれた。
というのは、道州制は、すべての価値をカネに換算する新自由主義と、左翼色の濃いアメリカ新保守主義(ネオコン)の産物で、小泉内閣からはじまった構造改革のしめくくりが、この道州制導入だったからである。
アメリカは、けっして、保守主義の国家ではない。歴史の浅い国なので、回帰すべき歴史がないからである。保守思想といっても、キリスト教と反共主義のほかには、建国の理想としての自由原理主義(ハト派)と民主原理主義(タカ派)があるだけで、日本やイギリスのような歴史や知恵(コモンセンス)、伝統的な価値観や思考形態がない。
ちなみに、アメリカが、民主主義の名のもとでおこなった戦争がイラク戦争で、自由主義の名のもとでおこなった金融・経済侵略が、グローバリゼーションだった。
プラザ合意からバブル崩壊、第二の敗戦といわれる日米構造協議以降の金融・経済面での屈服から年次改革要望書にいたるまで、日本は、アメリカがおしつける構造改革とグローバリゼーションに痛めつけられてきた。
その仕上げが、東京のワシントンDC化と日本の連邦化をはかる道州制の導入である。
なぜ、道州制が必要なのか、という肝心な話をスッとばして、道州制への完全移行を前提に、改革派系の懇談会などが、州の数や線引き、権限の分担をきめたのは、国民から異論がでる前に、道州制導入を既成事実化してしまおうという狙いがあったからであろう。
道州制導入は、歴史上、類のない大改革で、革命にひとしい。
その革命を、新自由主義にのっとった経済至上主義と、伝統という裏付けのないアメリカ民主主義で、一気に実現してしまおうというのが、改革主義者のやり方とみえる。
道州制は、基礎自治体に公選制の首長をおき、将来的には、各道州が主権をもつ連邦共和制にしようという事実上の無血革命である。
十いくつの州の首長と州都が、主権と自治権を宣言して、独立集州の補選をへて大統領がえらばれることになれば、日本は、歴史が不在のアメリカのコピー国家となり、万世一系の天皇を中心に和をむすんできた日本国の二千年の歴史と伝統は、廃棄される。
ここに、是が非でも、道州制の法制化を阻止しなければならない、国体上の大問題が横たわっている。
●和と均一性、中央集権が日本のパワー
現在、連邦制をとっている国は、アメリカのほか、スイスやドイツなどがある。アメリカは、もともと、州政府や入植者が、経済原理にそって、原住民から奪った土地を分け合った国柄である。
多民族・多言語のスイスは、連邦制以外に、国家の体裁をたもつことができず、歴史的に統一国家ではなかったドイツは、敗戦後、国家が滅亡したため、ドイツ人の団結力や発展をおそれた連合国によって、東西に、さらに、米・英・仏によって、11の州政府(西ドイツ)へ、八つ裂きにされた。
連邦化は、中央集権の求心力が弱まるため、国家の衰弱につながる。
旧ソ連連邦が崩壊したのは、各連邦間の摩擦や経済不況、共産党官僚の腐敗が深刻化したためで、中央集権の求心力がはたらかなくなれば、連邦国家は、連邦間でひきおこされる摩擦と経済不況、腐敗の三悪によって、倒壊してゆく。
日本は、世界で、唯一、万世一系の神話的な存在である天皇を中心に「和」という特有の文化のもとで、家族国家を形成してきた。
アメリカのような歴史をもたない国とも、他民族・多言語の国とも、敗戦によって国土を八つ裂きにされた国とも異なる日本が、歴史的経験がない連邦制をとったら、和という中心原理(=セントラル・ドグマ)が失われ、道州間に、それまで、経験したことがない摩擦が生じて、発展どころか、数年をへずして、非力なアジアの一分裂国家へ転落してゆくだろう。
日本のパワーは、和という中心原理、均一性、中央集権という伝統的な国柄からうまれている。これを廃棄して、先進国と肩を並べられると思うのはおおまちがいで、本気で、そう思っているのだとすれば、おそるべき亡国の論である。
江口は、著書で、こうのべている。
「日本の一地方と同程度の人口・面積しかもたないアイルランドやデンマーク、スイス、オランダ、オーストリアなどが、世界屈指の高所得国に成長している一方、日本は、イギリスやドイツ、フランスを上回る人口・面積をもちながら、これらの国はおろか、先進国平均の成長率を下回るまでに経済・所得が停滞している。日本を小さな国に分けて、道州制国家になれば、中央集権のハンディキャップを克服できる」
なんという、粗雑な議論であろうか。
ヨーロッパ諸国の発展は、欧州連合(EC)という中央集権的な求心力がはたらいたからで、一方、日本経済の停滞は、アメリカのいいなりになって、グローバリゼーションや構造改革に走り、求心力を弱めたからである。
国家は"家"にたとえることができる。玄関や台所、茶の間や書斎、客間や寝室、便所もあるが、これが、統合的にはたらいて、家の形態となる。会社にたとえてもよい。製造部や営業部、総務部や経理部、人事部があって、はじめて、会社という生きた組織になる。
モノをつくり、カネを稼ぐのは、製造部や営業部である。だが、家に台所や寝室、便所が必要なのと同様に、カネは、稼ぎのない総務部や経理部、人事部へも支給されなければならない。
これが、地方交付金や補助金で、これを打ち切って、中央と地方の所得格差をひろげたのが、新自由主義の小泉改革である。
地方も自立して、じぶんでカネを稼げというのだが、東京都に食糧を自給しろというのと同様、無理な相談である。先日、奈良県の吉野へ行ったが、あそこで、どうすれば、自力で産業を興せるであろうか。
日本の経済は、過疎地のきれいな空気と工業地帯の汚れた空気が、どこか見えないところでつながっている大きな関係のなかで、成立している。過疎なのは、若者が、都会へ行ってしまったせいで、その恩恵をうけた都会が、過疎地へ地方交付金をだして、経済の手助けをする――こういう和の精神によって、これまで、日本は、発展してきた。
それが、全体性の利益追求と中央集権のメリットである。
補助金や支援がなくなれば、過疎地や産業のない地方は破産する。それが、地方を犠牲にしてきた経済国家の構造的欠陥で、この矛盾を解消するには、中央が地方へ、手をさしのべて、お返しをしなければならない。「人生いろいろ」や自己責任で片付く問題ではないのだ。
日本を連邦化して、過疎地に自己責任を課して、地域経済を活性化させることが、可能であろうか。
道州制が導入されると、州都へ資金やカネが集まって、ミニ中央集権化がおき、過疎化がさらに深刻になるだけである。とくに、道州制では、中央からの補助金がなくなるので、破産する州や自治体もでてくるだろう。
道州制は、地方経済にとって、けっして、追い風にはならない。
道州制の導入によって、資金が流入して地方が活性化するというのも、地域社会にかかる行政の権限を道州に委譲して、課税自主権、税率決定権、徴税権をもたせると、地方が元気になるというのも、世紀の大嘘である。
州では、資本マーケットが小さいので、設備投資や商品開発などに大きな資本を投下することができない。スケール・メリットがない地方経済は、中央経済とのタイ・アップが必要なのである。
日本経済の強みは、日本全土という広いマーケットに同質性・均一性があることで、これは、EC統合によって大きな市場をえたデンマークが、酪農製品の売り上げをのばしたのと同じ原理である。
小さな国だから経済がうまくいっているという江口の仮説は、デマゴギーなのである。
道州制の問題点は、経済だけではない。
主権道州ができたら、こんどは、左翼が煽って、オリジナルの憲法、国旗、国歌をつくるうごきがでてくるだろう。東京DCのある関東国と張り合い、摩擦のタネをふりまき、紛争に政治エネルギーを消耗するようなことになれば、経済発展どころではなくなる。
かつて、ヨーロッパ列強は、アフリカを再分割する際、@部族を分散させるA一国に多くの部族種を混在させるB崇める神がちがう部族を同じ国に住まわせる――という弱体化戦略をとった。
中央主権をつくりだせなかったアフリカ諸国は、いまなお、ツチ族とフツ族が殺しあったルワンダの悲劇に代表される悲惨な内戦が絶えない。
道州制によってうまれる独立自治体は、和と均一性、中央集権制という、これまで日本の国力をささえてきた特性を失った一地方にすぎず、その行く末は、内地の都市との一体感を断たれた場合の北海道をイメージするだけで、十分であろう。
地方の活性化は、革命的な道州制という方法をとらなくとも、たとえば、地方農家のオリジナル・ブランドのワイン製造にまで口出しする中央官庁の支配力を大幅に制限するだけで十分で、それが、考えうる、もっとも効果的で、現実的な方法である。
そういう、順当な方法をとらず、いきなり、道州制へ飛躍するのは、改革主義者の狙いが国体の変更にあるからではないかと、わたしは、疑わずにおられない。
2008年05月27日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(23)
●天皇の文化=神道と西洋のキリスト教文明
雅子妃のボイコットを理由に、宮中祭祀の廃止をうったえる言説がでてきた。
明治学院大学の原武史教授の「皇太子一家『新しい神話づくり』の始まり」(月刊「現代」5月号)もそのうちの一つで、サブタイトルに「宮中祭祀の廃止も検討すべき時がきた」とある。
内容は、宮中祭祀は、前世紀の遺物なので、廃棄して、ボランティアをやったほうがよいという、お話にならない内容で、雅子妃の宮中祭祀ボイコットを逆手にとって、天皇体制を形骸化しようという魂胆であろう。
これらの者たちに共通しているのが、神道を、仏教的・キリスト教的な価値観でとらえる視点である。
天皇が、天照大神に、何事かを祈念していると思っているのである。
宮中祭祀は「神に祈る神」=天皇が、身体を浄め、心を清らかにして臨む儀式で、一つの型である。
型は、カタチで、言挙げしない日本の文化は、カタチを整えるところに根源がある。
神道の参拝も、手水を使い、二拝二拍手一拝などの型だけあって、神に何事かを願うわけではない。
浄めとカタチができれば、蘇りや生命の再生は、おのずとあらわれる。
そこが、神との契約といわれるキリスト教や成仏をねがう仏教と異なる。
神道は、思う、願う、念じるという賢しらを捨てて、モノ・コトの本質へ立ち返る儀式で、人間の頭で考えることは、もとより、対象になっていない。
モノはコトへ、コトはモノへ変化して、実りをもたらす。籾というモノは、手をくわえるコトによって、苗になる。苗というモノは、太陽の恵みをうけるコトによって、稲穂というモノになり、手間をかけるコトによって、コメというモノになる。
大自然のなかで、モノとコトが循環するのがむすび(産巣日・結び)で、その奇異(くすしあやし)にくらべて、人間の思いや考えの、いかに生臭く、小さいことか。
身体を浄めるのは、その生臭さを水に流すことで、儀式は、賢しらを捨て、モノ・コトが循環する大自然と合一して、高天原に、この世の弥栄(いやさか)をねがうものである。
天皇はこの儀式を、国民になりかわって、おこなっているのである。
『本居宣長』を著した小林秀雄の文章を要約して、引用する。
「(日本人にとって)宗教は、教理ではなく、祭儀という行動であった。長いあいだのその経験が、日本人の文化にたいする底力を育んだ。海外から新しい文明や観念がはいってきたとき、それをうけとる日本人の気質(かたち)は、すでに、完成していた。文明や観念に気質を変える力はない。気質が、文明や観念を吸収して、己の物とするのである」
カタチを重んじる祭儀が、文化を吸収する日本人の気質を育て上げたというのである。
カタチができていれば、内実がともなう。外からどんなものがきても、うけとめ、咀嚼して、じぶんのものにできる。
大陸からきた漢字や小乗仏教、唐文化を、ひらがなや大乗仏教、国風文化につくりかえることができたのは、日本の文化は、すでに、カタチができていたからで、このカタチができあがっていなければ、内側から、外来文化にとりこまれる。
原という者は「実りを祈る祭祀は時代遅れ」という。天皇が、豊作を念じて、天照大神を拝んでいると思っているのである。そして、そんなムダなことはやめて、世界一の高位にある天皇に、町で、ボランティアをやれというのである。
戦後、西洋文明で育った者は、日本文化の根本が、大自然のなかで、モノがコトへ、コトがモノへ循環する美や実(まこと)にあって、宮中祭祀が、それを再現していることに、気づいていない。
西洋合理主義にそまったひとは、すべてを、科学や合理、イデオロギー、特定の価値観で説明しようとする。そのとき、モノがコトへ、コトがモノへと循環する大自然の知恵や力が消え、代わりに、生臭く、小さい人間主義が浮上してくる。
古代のギリシア・ローマ文明、中世のキリスト教文明、近代合理主義をへて、現代の科学万能主義へつらぬかれているのは、人間中心の理性主義である。
フランス革命では、王の代わりに、理性神が玉座におかれたが、人間の理性に、それほどの価値がなかったことは、理性だけでつくりあげられた共産主義革命の結末をみればわかる。
日本の文化は、自然の力を敬うところから生じているが、西洋文明は、人間が自然を支配できるという傲慢からうまれた。
ギリシア・ローマ文明は、森林を破壊して、天水農業を破滅させ、略奪経済と侵略戦争にむかった。キリスト教の中世では、自然物から、動物までも神からの賜物とする思想のもとで、食肉文化がすすめられ、牧畜と放牧によって、ヨーロッパの森や河川は、大半が消えた。
森林と河川が消えた大地は死に、ペストのような疫病が大流行して、森の栄養を必要とする沿海漁業も全滅した。
人間中心主義と理性は、自然破壊と肉食文化、略奪と侵略、奴隷売買という暗黒の中世をへて、科学文明へたどりついたが、鉄の科学と火薬の化学は、効率よくひとを殺すため(武器)と、金をえる(錬金術)ための副産物だった。
日本の文化と西洋文明は、逆転した構図になっている。
西洋人は森を破壊しつくしたが、日本人は、森を大事にして、古代より植林をおこなってきた。日本の古代宗教では、自然やモノが迦微(かみ=神)だったので、枝一本、おろそかにできなかったのである。
勿体ないという考え方、物を大事にする発想は、物自体が迦微だった神道の名残で、それも、日本の文化である。
中世・近世にかけて、日本には、世界一のものが、数多く、あった。
水田技術をささえた農業土木、釘を使わずに五重塔をつくった木造建築技術、森と河川がはぐくんだ沿海漁業、大衆レベルの食文化、士農工商によるマクロ経済、和歌や俳句、浮世絵、草紙物などの庶民文芸など、枚挙にいとまがない。
一方、西洋は、十八世紀前後、産業革命がはじまるまで、特権階級以外、飢えをしのぐのが精一杯だった。民の味方=権威(天皇)がいなかったので、権力が、富や文化を独占したためである。
製鉄や化学、酪農などの分野が、西洋より遅れたのは、当時、必要(需要)性が小さかったからで、近代以降、必要に応じて、日本は、短時日で、西洋と肩を並べる文明国になった。
日本は、近代の科学文明まで消化する文化の型=潜在力までもっていたのである。
もう一つ、日本と西洋で、逆転しているのは、自我である。
日本では、抑制されるべきものであった自我が、西洋では、もちあげられる。
自我は、すべて神からの賜物であるとするキリスト教から、産み落とされた。
聖書によると、自然も他の生物も、神がじぶんに似せてつくった人間に与え給うた生活資材で、したがって、征服も略奪も、神の御心にかなっている、ということになる。
この自己中心的な世界観から、自我や人権思想がうまれた。日本で、人権といえば、泣くも子も黙る風潮だが、もともと、これは、キリスト教の教義で、神権政治や専制政治、絶対主義が滅びてからでてきたのが、民主主義である。
西洋は、すすんでいるのではなく、世界戦争に勝ったキリスト教文明が、他の文明を隅におしやっているだけで、日本には、人権や民主主義以前に、人々が自然と共存して、仕合わせにくらせる神道という大思想があった。
それを象徴しているのが、宮中祭祀で、人間は、心を浄めて、大自然と共存する以外、仕合わせに生きることはできない。
だから、本居宣長は、ふしぎは、ふしぎのままでよろしき、といったのである。
ふしぎを、そのまま、みとめることによって、人間の賢しらをこえた、大きな知恵につつまれる――というのは、この世界にあるありとあらゆるものは、奇異にささえられ、奇異の投影であるが、その奇異は、神の御仕業(みしわざ=古事記)なので、ふしぎという通路をとおって、われわれは、神々とともにあることができる――というのである。
奇異の頂点は太陽で、お天道様の下に存在するものは、人間をふくめて、すべて、奇異である。天地があり、禽獣草木が生をいとなみ、人々が出遭い、万物が移りかわってゆくすがたは、けっして、理屈では説明がつかず、もののあはれ(安波礼)として、そっくり、うけとめるほかない。
現代の日本人が、天皇の文化=神道を再発見すると、ボランティアなどという西洋のことばを聞いただけでうかれだす、原のようなばか学者は、少なくなるのである。
雅子妃のボイコットを理由に、宮中祭祀の廃止をうったえる言説がでてきた。
明治学院大学の原武史教授の「皇太子一家『新しい神話づくり』の始まり」(月刊「現代」5月号)もそのうちの一つで、サブタイトルに「宮中祭祀の廃止も検討すべき時がきた」とある。
内容は、宮中祭祀は、前世紀の遺物なので、廃棄して、ボランティアをやったほうがよいという、お話にならない内容で、雅子妃の宮中祭祀ボイコットを逆手にとって、天皇体制を形骸化しようという魂胆であろう。
これらの者たちに共通しているのが、神道を、仏教的・キリスト教的な価値観でとらえる視点である。
天皇が、天照大神に、何事かを祈念していると思っているのである。
宮中祭祀は「神に祈る神」=天皇が、身体を浄め、心を清らかにして臨む儀式で、一つの型である。
型は、カタチで、言挙げしない日本の文化は、カタチを整えるところに根源がある。
神道の参拝も、手水を使い、二拝二拍手一拝などの型だけあって、神に何事かを願うわけではない。
浄めとカタチができれば、蘇りや生命の再生は、おのずとあらわれる。
そこが、神との契約といわれるキリスト教や成仏をねがう仏教と異なる。
神道は、思う、願う、念じるという賢しらを捨てて、モノ・コトの本質へ立ち返る儀式で、人間の頭で考えることは、もとより、対象になっていない。
モノはコトへ、コトはモノへ変化して、実りをもたらす。籾というモノは、手をくわえるコトによって、苗になる。苗というモノは、太陽の恵みをうけるコトによって、稲穂というモノになり、手間をかけるコトによって、コメというモノになる。
大自然のなかで、モノとコトが循環するのがむすび(産巣日・結び)で、その奇異(くすしあやし)にくらべて、人間の思いや考えの、いかに生臭く、小さいことか。
身体を浄めるのは、その生臭さを水に流すことで、儀式は、賢しらを捨て、モノ・コトが循環する大自然と合一して、高天原に、この世の弥栄(いやさか)をねがうものである。
天皇はこの儀式を、国民になりかわって、おこなっているのである。
『本居宣長』を著した小林秀雄の文章を要約して、引用する。
「(日本人にとって)宗教は、教理ではなく、祭儀という行動であった。長いあいだのその経験が、日本人の文化にたいする底力を育んだ。海外から新しい文明や観念がはいってきたとき、それをうけとる日本人の気質(かたち)は、すでに、完成していた。文明や観念に気質を変える力はない。気質が、文明や観念を吸収して、己の物とするのである」
カタチを重んじる祭儀が、文化を吸収する日本人の気質を育て上げたというのである。
カタチができていれば、内実がともなう。外からどんなものがきても、うけとめ、咀嚼して、じぶんのものにできる。
大陸からきた漢字や小乗仏教、唐文化を、ひらがなや大乗仏教、国風文化につくりかえることができたのは、日本の文化は、すでに、カタチができていたからで、このカタチができあがっていなければ、内側から、外来文化にとりこまれる。
原という者は「実りを祈る祭祀は時代遅れ」という。天皇が、豊作を念じて、天照大神を拝んでいると思っているのである。そして、そんなムダなことはやめて、世界一の高位にある天皇に、町で、ボランティアをやれというのである。
戦後、西洋文明で育った者は、日本文化の根本が、大自然のなかで、モノがコトへ、コトがモノへ循環する美や実(まこと)にあって、宮中祭祀が、それを再現していることに、気づいていない。
西洋合理主義にそまったひとは、すべてを、科学や合理、イデオロギー、特定の価値観で説明しようとする。そのとき、モノがコトへ、コトがモノへと循環する大自然の知恵や力が消え、代わりに、生臭く、小さい人間主義が浮上してくる。
古代のギリシア・ローマ文明、中世のキリスト教文明、近代合理主義をへて、現代の科学万能主義へつらぬかれているのは、人間中心の理性主義である。
フランス革命では、王の代わりに、理性神が玉座におかれたが、人間の理性に、それほどの価値がなかったことは、理性だけでつくりあげられた共産主義革命の結末をみればわかる。
日本の文化は、自然の力を敬うところから生じているが、西洋文明は、人間が自然を支配できるという傲慢からうまれた。
ギリシア・ローマ文明は、森林を破壊して、天水農業を破滅させ、略奪経済と侵略戦争にむかった。キリスト教の中世では、自然物から、動物までも神からの賜物とする思想のもとで、食肉文化がすすめられ、牧畜と放牧によって、ヨーロッパの森や河川は、大半が消えた。
森林と河川が消えた大地は死に、ペストのような疫病が大流行して、森の栄養を必要とする沿海漁業も全滅した。
人間中心主義と理性は、自然破壊と肉食文化、略奪と侵略、奴隷売買という暗黒の中世をへて、科学文明へたどりついたが、鉄の科学と火薬の化学は、効率よくひとを殺すため(武器)と、金をえる(錬金術)ための副産物だった。
日本の文化と西洋文明は、逆転した構図になっている。
西洋人は森を破壊しつくしたが、日本人は、森を大事にして、古代より植林をおこなってきた。日本の古代宗教では、自然やモノが迦微(かみ=神)だったので、枝一本、おろそかにできなかったのである。
勿体ないという考え方、物を大事にする発想は、物自体が迦微だった神道の名残で、それも、日本の文化である。
中世・近世にかけて、日本には、世界一のものが、数多く、あった。
水田技術をささえた農業土木、釘を使わずに五重塔をつくった木造建築技術、森と河川がはぐくんだ沿海漁業、大衆レベルの食文化、士農工商によるマクロ経済、和歌や俳句、浮世絵、草紙物などの庶民文芸など、枚挙にいとまがない。
一方、西洋は、十八世紀前後、産業革命がはじまるまで、特権階級以外、飢えをしのぐのが精一杯だった。民の味方=権威(天皇)がいなかったので、権力が、富や文化を独占したためである。
製鉄や化学、酪農などの分野が、西洋より遅れたのは、当時、必要(需要)性が小さかったからで、近代以降、必要に応じて、日本は、短時日で、西洋と肩を並べる文明国になった。
日本は、近代の科学文明まで消化する文化の型=潜在力までもっていたのである。
もう一つ、日本と西洋で、逆転しているのは、自我である。
日本では、抑制されるべきものであった自我が、西洋では、もちあげられる。
自我は、すべて神からの賜物であるとするキリスト教から、産み落とされた。
聖書によると、自然も他の生物も、神がじぶんに似せてつくった人間に与え給うた生活資材で、したがって、征服も略奪も、神の御心にかなっている、ということになる。
この自己中心的な世界観から、自我や人権思想がうまれた。日本で、人権といえば、泣くも子も黙る風潮だが、もともと、これは、キリスト教の教義で、神権政治や専制政治、絶対主義が滅びてからでてきたのが、民主主義である。
西洋は、すすんでいるのではなく、世界戦争に勝ったキリスト教文明が、他の文明を隅におしやっているだけで、日本には、人権や民主主義以前に、人々が自然と共存して、仕合わせにくらせる神道という大思想があった。
それを象徴しているのが、宮中祭祀で、人間は、心を浄めて、大自然と共存する以外、仕合わせに生きることはできない。
だから、本居宣長は、ふしぎは、ふしぎのままでよろしき、といったのである。
ふしぎを、そのまま、みとめることによって、人間の賢しらをこえた、大きな知恵につつまれる――というのは、この世界にあるありとあらゆるものは、奇異にささえられ、奇異の投影であるが、その奇異は、神の御仕業(みしわざ=古事記)なので、ふしぎという通路をとおって、われわれは、神々とともにあることができる――というのである。
奇異の頂点は太陽で、お天道様の下に存在するものは、人間をふくめて、すべて、奇異である。天地があり、禽獣草木が生をいとなみ、人々が出遭い、万物が移りかわってゆくすがたは、けっして、理屈では説明がつかず、もののあはれ(安波礼)として、そっくり、うけとめるほかない。
現代の日本人が、天皇の文化=神道を再発見すると、ボランティアなどという西洋のことばを聞いただけでうかれだす、原のようなばか学者は、少なくなるのである。
2008年05月26日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(22)
●雅子妃は離婚して民間人に戻るべき
小和田雅子という一女性によって、二千年以上つづいてきた天皇家の祭祀が、平成の世で、途絶えかねない事態になっている。
公務サボタージュどころか、天皇家が主催する宮中祭祀に、平成十五年以降、皇太子妃として、一度も参列していないのである。
天皇の最大の任務で、日本の伝統のいしずえである宮中祭祀に無関心な女性が、一二六代皇后になれば、皇室のあり方が、根本から問われることになり、天皇体制にとって、先の「皇室典範」改悪以上の危機となる。
雅子妃の問題は、病気や個人的な事情によるものであろうか。
皇太子妃なったほどの女性が、気まぐれから、祭祀や公務をサボタージュして、天皇家の歴史に泥を塗っているとは、とうてい、考えられない。
成婚から皇室の伝統破壊、皇太子の洗脳にいたるまで、一連のかなしむべき事態は、一族揃って創価学会のコントロール下にあり、反日思想にこりかたまった小和田一族による確信犯的な謀略と、巷間、噂されている。
事実ならば、雅子妃は、皇太子と離縁して民間人に戻り、徳仁親王殿下は、責任をおとりになって、皇太子の座を、皇太弟の秋篠宮文仁親王に譲られるべきであろう。
さいわいにして、文仁親王と紀子妃のあいだには、悠仁親王というお世嗣がおられる。
紀子妃は、平成十九年から二十年まで、天皇が251回、皇后が一八八回、つとめられた公務に一七六回、参列されており、わずか一八回の雅子妃よりも、よほど、皇后になられるべき資格をおもちである。
病気と称して、公務や宮中祭祀をサボった翌日、いそいそとジュエリー展(平成18年/インドネシア大統領の宮中晩餐会欠席)や父母会(胡錦濤主席の宮中晩餐会欠席)へでかけ、私的外出をのべ100回以上もくり返している雅子妃とは、そもそも、資質が異なる。
小和田家は、雅子妃の父親、恆が、大鳳会(外務省の創価学会集団)と関係が深く、宮内庁からの情報によると、雅子妃の妹夫婦は、正式な学会員である。創価学会は、家族を折伏できないのは信心が足りないせいとされて、学会内で高い地位がえられない。
その意味では、恆も、妻の優美子も、当然、信者と考えられる。
これで、雅子妃が、宮中祭祀に、一度もでなかった理由が、明らかであろう。
創価学会は「神社を祀る日本は呪われた国」「神社に参拝すると一族が地獄に落ちる」という教えをふれまわっているカルト教団である。小和田一族は、雅子妃が、神道の最高神主である天皇が主催する宮中祭祀に参列すると、池田大作の怒りにふれて、仏罰が下ると思いこんでいるのなら、何をか言わんやである。
中国への土下座外交を定着させた小和田恆は「日本はハンディキャップ国家なのでふつうの国になれない」「永久に中国へ謝罪すべし」「東京裁判は正しかった」「首相の靖国参拝は誤っている」など公然と言い放つ反日外交官で、外務省チャイナスクールをとおして中国に忠誠を誓い、創価学会の池田大作を崇める売国奴である。
小和田家とは、いったい、どんな家系なのであろうか。
小和田家には、恆の祖父、小和田金吉以前の系図や墓がない。士分以上であれば、考えられない。雅子妃の母親、江頭優美子も、水俣病という日本最大の公害事件をおこしたチッソ株式会社の社長・江頭豊の娘である。
ちなみに、江頭豊は「貧乏人が腐った魚を食って病気になった」「(水俣病は)身体障害者のいいがかり」「原因がチッソでも社会的責任はない」と主張して、水俣病の解決を遅らせた張本人である。
昭和天皇も、皇太子の小和田家との婚姻には反対で、故後藤田正晴も「皇居にむしろ旗が立つ」と猛反対した。むしろ旗といったのは、独自の情報チャンネルから、小和田家の素性や謀略に気がついていたからであろう。
お妃候補から削除されて、皇太子も了承されたにもかかわらず、皇太子と雅子妃との再会を工作したのが、元外務次官で、恆の息がかかった柳谷謙介といわれる。雅子妃を皇太子妃に推した外務省グループのリーダー格だが、かれらが、大鳳会やチャイナスクールとつながっていたのは、疑う余地がない。
再会後、皇太子が、雅子妃に直接電話して、宮内庁が困り果てたという。私心をはたらかされたのである。皇太子との婚姻が発表されたのは、その直後である。
一連の出来事が<朝敵>による破壊工作員であったのら、彼女の背後には、天皇制度の崩壊を虎視眈々とにらむ、中国政府と創価学会、外務省チャイナスクールを中心とした売国奴グループの存在があるということになる。
小泉首相の「皇室典範改悪」も、裏でうごいたのが、霞ヶ関の反日・創価学会系のグループで、その中心に小和田恆がいたとつたえられる。
徳仁天皇・雅子皇后が誕生すると、左翼や媚中派、創価学会、改革・革命主義らによってふたたび「女系女性天皇」論がもちあげられて、反日マスコミが、愛子内親王が皇位につかれず、悠仁親王が次期天皇というのでは「雅子さまがおかわいそう」というキャンペーンをはれば、「女系女性天皇」が蒸し返される可能性がきわめて高い。
皇室の権威や尊厳は、万世一系の男性男系にあり、皇太子妃や女系女性天皇は、もともと、皇位の系列から外れている。
アメリカ大統領が最敬礼するのは、天皇陛下とエリザベス女王、ローマ法王の三人である。そのエリザベス女王も、天皇陛下と同席するときは、上座を譲る。男系の万世一系が、国際儀礼上、女王の上位であることをわきまえているからである。
ローマ法王が外国を訪問した際、慣例として、その国の元首が法王を訪ねる。例外が天皇である。ヨハネ・パウロ二世が日本を訪問した際も、教皇が皇居に出向いて昭和天皇に表敬している。
国際儀礼上、天皇陛下は、世界一の高位にある。だが、女性天皇の場合、ヨーロッパ王室は、正式の天皇とはみとめず、晩餐会でも、末席となる。
ヨーロッパの王室は、女性の王位継承や財産相続をみとめないフランク王国の「サリカ法典」にもとづいているからである。万世一系同様、男系をとっているヨーロッパ王室も、女帝は緊急措置にすぎず、男系が絶えると、廃絶される。げんに、モナコ公国は、男子の世継ぎが誕生しなかった場合、フランスに吸収される約束になっている。
徳仁親王が、こういう事実を見ず、雅子妃にひきまわれて、皇室外交を口走るようでは、天皇になる資格を欠いている、といわざるをえない。
イギリスでも、皇太子が皇太弟に王位を譲ったケースがある。
エドワード八世に代わって王位についた弟のジョージ六世である。
ヒトラーやムッソリーニが台頭して、ヨーロッパが風雲急を告げていた1936年、イギリスで、王位にあったエドワード八世が、ウォリス・シンプソン夫人と恋に陥った。純潔をもとめられる王室の妃に、未亡人は、みとめられない。王冠をとるか、恋をとるかの選択を迫られたエドワード八世は、恋をとって、このとき、王位をジョージ六世に譲った。
ジョージ六世は、いまにつたわる名君で、1940年のロンドン空襲で命を落としかけたときも、ロンドンから離れず、ドイツ軍のイギリス本土への侵攻にそなえ、拳銃を片手にバッキンガム宮殿にとどまり、ドイツ空軍によって破壊された国内を訪問して国民を慰め、勇気づけた。
王は、私心を捨て、国のため、国民のために尽くすべしというのが、イギリス王室の伝統で、六世が56歳の若さで死去したのは、病弱をおして、激務にのぞんだからだとつたえられる。
わが皇室も、これに倣って、徳仁親王は、皇位継承権を文仁親王へお譲りになって、雅子ともども、海外でお暮らしになってはいかがといいた。
外務省の反日グループ「小和田一派」の謀略にひっかかり、邪恋で、私心があってはならない皇位の尊厳を汚したのであれば、皇祖皇宗は、けっして、お赦しになるまい。
由々しいことに、最近、雅子妃のボイコットを理由に、宮中祭祀の廃止を主張する言説がでてきた。
次回は、この言説の誤りと、神道における祭祀のすがたについて、のべよう。
小和田雅子という一女性によって、二千年以上つづいてきた天皇家の祭祀が、平成の世で、途絶えかねない事態になっている。
公務サボタージュどころか、天皇家が主催する宮中祭祀に、平成十五年以降、皇太子妃として、一度も参列していないのである。
天皇の最大の任務で、日本の伝統のいしずえである宮中祭祀に無関心な女性が、一二六代皇后になれば、皇室のあり方が、根本から問われることになり、天皇体制にとって、先の「皇室典範」改悪以上の危機となる。
雅子妃の問題は、病気や個人的な事情によるものであろうか。
皇太子妃なったほどの女性が、気まぐれから、祭祀や公務をサボタージュして、天皇家の歴史に泥を塗っているとは、とうてい、考えられない。
成婚から皇室の伝統破壊、皇太子の洗脳にいたるまで、一連のかなしむべき事態は、一族揃って創価学会のコントロール下にあり、反日思想にこりかたまった小和田一族による確信犯的な謀略と、巷間、噂されている。
事実ならば、雅子妃は、皇太子と離縁して民間人に戻り、徳仁親王殿下は、責任をおとりになって、皇太子の座を、皇太弟の秋篠宮文仁親王に譲られるべきであろう。
さいわいにして、文仁親王と紀子妃のあいだには、悠仁親王というお世嗣がおられる。
紀子妃は、平成十九年から二十年まで、天皇が251回、皇后が一八八回、つとめられた公務に一七六回、参列されており、わずか一八回の雅子妃よりも、よほど、皇后になられるべき資格をおもちである。
病気と称して、公務や宮中祭祀をサボった翌日、いそいそとジュエリー展(平成18年/インドネシア大統領の宮中晩餐会欠席)や父母会(胡錦濤主席の宮中晩餐会欠席)へでかけ、私的外出をのべ100回以上もくり返している雅子妃とは、そもそも、資質が異なる。
小和田家は、雅子妃の父親、恆が、大鳳会(外務省の創価学会集団)と関係が深く、宮内庁からの情報によると、雅子妃の妹夫婦は、正式な学会員である。創価学会は、家族を折伏できないのは信心が足りないせいとされて、学会内で高い地位がえられない。
その意味では、恆も、妻の優美子も、当然、信者と考えられる。
これで、雅子妃が、宮中祭祀に、一度もでなかった理由が、明らかであろう。
創価学会は「神社を祀る日本は呪われた国」「神社に参拝すると一族が地獄に落ちる」という教えをふれまわっているカルト教団である。小和田一族は、雅子妃が、神道の最高神主である天皇が主催する宮中祭祀に参列すると、池田大作の怒りにふれて、仏罰が下ると思いこんでいるのなら、何をか言わんやである。
中国への土下座外交を定着させた小和田恆は「日本はハンディキャップ国家なのでふつうの国になれない」「永久に中国へ謝罪すべし」「東京裁判は正しかった」「首相の靖国参拝は誤っている」など公然と言い放つ反日外交官で、外務省チャイナスクールをとおして中国に忠誠を誓い、創価学会の池田大作を崇める売国奴である。
小和田家とは、いったい、どんな家系なのであろうか。
小和田家には、恆の祖父、小和田金吉以前の系図や墓がない。士分以上であれば、考えられない。雅子妃の母親、江頭優美子も、水俣病という日本最大の公害事件をおこしたチッソ株式会社の社長・江頭豊の娘である。
ちなみに、江頭豊は「貧乏人が腐った魚を食って病気になった」「(水俣病は)身体障害者のいいがかり」「原因がチッソでも社会的責任はない」と主張して、水俣病の解決を遅らせた張本人である。
昭和天皇も、皇太子の小和田家との婚姻には反対で、故後藤田正晴も「皇居にむしろ旗が立つ」と猛反対した。むしろ旗といったのは、独自の情報チャンネルから、小和田家の素性や謀略に気がついていたからであろう。
お妃候補から削除されて、皇太子も了承されたにもかかわらず、皇太子と雅子妃との再会を工作したのが、元外務次官で、恆の息がかかった柳谷謙介といわれる。雅子妃を皇太子妃に推した外務省グループのリーダー格だが、かれらが、大鳳会やチャイナスクールとつながっていたのは、疑う余地がない。
再会後、皇太子が、雅子妃に直接電話して、宮内庁が困り果てたという。私心をはたらかされたのである。皇太子との婚姻が発表されたのは、その直後である。
一連の出来事が<朝敵>による破壊工作員であったのら、彼女の背後には、天皇制度の崩壊を虎視眈々とにらむ、中国政府と創価学会、外務省チャイナスクールを中心とした売国奴グループの存在があるということになる。
小泉首相の「皇室典範改悪」も、裏でうごいたのが、霞ヶ関の反日・創価学会系のグループで、その中心に小和田恆がいたとつたえられる。
徳仁天皇・雅子皇后が誕生すると、左翼や媚中派、創価学会、改革・革命主義らによってふたたび「女系女性天皇」論がもちあげられて、反日マスコミが、愛子内親王が皇位につかれず、悠仁親王が次期天皇というのでは「雅子さまがおかわいそう」というキャンペーンをはれば、「女系女性天皇」が蒸し返される可能性がきわめて高い。
皇室の権威や尊厳は、万世一系の男性男系にあり、皇太子妃や女系女性天皇は、もともと、皇位の系列から外れている。
アメリカ大統領が最敬礼するのは、天皇陛下とエリザベス女王、ローマ法王の三人である。そのエリザベス女王も、天皇陛下と同席するときは、上座を譲る。男系の万世一系が、国際儀礼上、女王の上位であることをわきまえているからである。
ローマ法王が外国を訪問した際、慣例として、その国の元首が法王を訪ねる。例外が天皇である。ヨハネ・パウロ二世が日本を訪問した際も、教皇が皇居に出向いて昭和天皇に表敬している。
国際儀礼上、天皇陛下は、世界一の高位にある。だが、女性天皇の場合、ヨーロッパ王室は、正式の天皇とはみとめず、晩餐会でも、末席となる。
ヨーロッパの王室は、女性の王位継承や財産相続をみとめないフランク王国の「サリカ法典」にもとづいているからである。万世一系同様、男系をとっているヨーロッパ王室も、女帝は緊急措置にすぎず、男系が絶えると、廃絶される。げんに、モナコ公国は、男子の世継ぎが誕生しなかった場合、フランスに吸収される約束になっている。
徳仁親王が、こういう事実を見ず、雅子妃にひきまわれて、皇室外交を口走るようでは、天皇になる資格を欠いている、といわざるをえない。
イギリスでも、皇太子が皇太弟に王位を譲ったケースがある。
エドワード八世に代わって王位についた弟のジョージ六世である。
ヒトラーやムッソリーニが台頭して、ヨーロッパが風雲急を告げていた1936年、イギリスで、王位にあったエドワード八世が、ウォリス・シンプソン夫人と恋に陥った。純潔をもとめられる王室の妃に、未亡人は、みとめられない。王冠をとるか、恋をとるかの選択を迫られたエドワード八世は、恋をとって、このとき、王位をジョージ六世に譲った。
ジョージ六世は、いまにつたわる名君で、1940年のロンドン空襲で命を落としかけたときも、ロンドンから離れず、ドイツ軍のイギリス本土への侵攻にそなえ、拳銃を片手にバッキンガム宮殿にとどまり、ドイツ空軍によって破壊された国内を訪問して国民を慰め、勇気づけた。
王は、私心を捨て、国のため、国民のために尽くすべしというのが、イギリス王室の伝統で、六世が56歳の若さで死去したのは、病弱をおして、激務にのぞんだからだとつたえられる。
わが皇室も、これに倣って、徳仁親王は、皇位継承権を文仁親王へお譲りになって、雅子ともども、海外でお暮らしになってはいかがといいた。
外務省の反日グループ「小和田一派」の謀略にひっかかり、邪恋で、私心があってはならない皇位の尊厳を汚したのであれば、皇祖皇宗は、けっして、お赦しになるまい。
由々しいことに、最近、雅子妃のボイコットを理由に、宮中祭祀の廃止を主張する言説がでてきた。
次回は、この言説の誤りと、神道における祭祀のすがたについて、のべよう。
2008年05月14日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(21)
●「右翼論」その3/結果論的"善"であらねばならない任侠右翼
農本主義や大アジア主義、国家社会主義に立つ伝統右翼は、戦後、GHQの弾圧やスポンサーだった保守政界や軍部、旧財閥の解体によって、事実上、壊滅した。
右翼が国政や軍事、クーデターにかかわった時代は、敗戦によって、こうして、終わりを告げ、戦後日本は、共産党や組合運動の躍進によって、急速に、左傾化してゆく。
GHQが、当初、めざしたのは、要人追放や財閥解体、農地改革などで旧体制を破壊する事実上の敗戦革命で、当時、GHQは、プレスコードや検閲、神道指令から、戦時教科書の黒塗り、武道の禁止、茶道の古書までを焚書にする、徹底的な文化破壊をおこなった。
のちに、GHQは、ソ連・中国の脅威に気づき、急きょ、左翼路線を変更することになるが、それまでは、軍国主義をささえた右翼勢力が、GHQの最大の掃討目標だったのである。
旧体制の組織や団体がGHQの標的になったなかで、任侠系の右翼団右翼が生き残ることができたのは、暴力団組織という独自の資金源をもっていたからである。
任侠系の右翼団体は、戦後、うまれたわけではない。近代になって、自由民権運動や社会主義思想がさかんになってくると、危機感をつのらせた政府・公権力が、反政府運動の取り締まりに任侠団体を利用し、任侠団体も、その多くが、政治結社を名乗った。
代表的なのが、原敬首相と床次竹次郎内相の提唱で結成された博徒と土建系任侠の全国的組織「大日本国粋会」(顧問・頭山満)で、国体護持と共産化の阻止を掲げて、労働争議介入やストライキ破りなどに、暴力的な直接行動をおこなった。
任侠系の右翼は、伝統右翼とちがって、思想的な背景や含蓄があるわけではない。
政治家や軍人、財界がこの任侠右翼を利用したのは、体制側にとって、かれらが、結果論的に"善"だったからである。
政治や軍事は、結果論の世界である。たとえ、動機が善であっても、結果が悪では、政治は乱れ、戦争では負ける。悪知恵や謀略などの悪しき動機が、結果として、安全や平和をまもるのが権力のリアリズムなのである。
一方の動機論は、結果に責任をもたない女・子どもの発想で、たとえていえば、憲法九条や絶対平和主義が、これにあたる。
反体制側が、任侠右翼を無知でやくざな暴力集団=悪とみるのは、女・子どもの動機論に立っているからで、男・大人の結果論に立つ体制側にとって、任侠右翼は、体制の防人=善である。
右翼論の根底にあるのは、この「結果論的善」で、任侠右翼が、反体制派にとって恐怖の対象で、かれらが、体制の防波堤、社会の防腐剤となれば、それで、十分に存在価値があり、学識をひけらかして正論を語るだけのインテリ右翼は、かえって、有害ということになる。
任侠右翼が躍進してきたのが、60年安保闘争だった。
昭和二七年のサンフランシスコ平和条約締結によって、日本は、独立した。
だが、政治的には、社会党などの左翼の勢力がつよく、日本共産党も、第六回全国協議会(六全協/1955年)以降、議会への大量進出をはかり、議会内革命が懸念される情勢が生じてきた。
左翼対策に、任侠右翼を利用しようとしたのが、吉田茂内閣で法務総裁を務めていた木村篤太郎である。
1960年の日米安保条約改定で、政治的混乱が予想されるなか、警察力の整備に不安を抱いた木村は、20万人暴力団を組織化して共産主義勢力に対抗するべく、右翼の大物、児玉誉士夫に相談をもちかけた。
この結果、テキヤ系組織は東京街商組合・日本街商連盟、博徒系組織は、日本国粋会を結成して、暴力団の組織化(愛国反共抜刀隊構想)がすすめられた。この構想は、吉田の承認をえられなかったものの、このとき木村は、37の右翼団体を糾合して、安保闘争にそなえる。
安保改正の1960年、アイゼンハワー大統領の訪日反対の大規模な反対運動を阻止するため、岸信介首相は、木村篤太郎と、当時の自民党幹事長・川島正次郎に、ヤクザ・右翼の動員を命じている。
このとき、児玉は、警視庁と打ち合わせて、稲川会五千人、松葉会二千五百人、飯島連合会三千人、国粋会千五百人、義人党三百人、神農愛国同志会一万人を「警官補助警備力」として、東京・芝の御成門周辺に配置することをきめている。
これに前後して、血盟国事件の井上日召や浜口雄幸襲撃事件の佐卿屋留男らの護国団が音頭をとった「全日本愛国団体連合会」(全愛会議)をはじめ、「大日本愛国団体連合・時局対策協議会」(時対協)、「青年思想研究会」(青思会)、自民党議員も多く所属する保守主義者団体「日本会議」などが、次々に結成された。
50年代の砂川闘争、新島闘争、60年代のハガチィー事件、安保闘争など、左右陣営の衝突が激化するなか、60年には、安保闘争で樺美智子が死亡、浅沼稲次郎社会党委員長が右翼のテロで倒れ、岸信介首相も、右翼に刺されて、瀕死の重傷を負うという事件がおきる。
この60年が、左右両陣営にとって最大の山場で、その後、安保の岸内閣から所得倍増の池田勇人内閣へ政権交代がおこなわれると、社会の関心は、政治から経済へ移り、任侠右翼は、次第に、存在理由を失っていく。
70年代にはいると、政府や警察当局は、用済みとなった任侠右翼にたいして、暴力団のレッテルを貼って取締りを強化、なかには、解散に追いこまれた団体もでた。
任侠右翼は、もともと、博徒やテキヤ、やくざで、かれらを体制の番兵として利用したのは、権力である。使用済みになったからといって、切り捨てるのは、権力側の都合によるものだが、任侠右翼も、高度成長、とりわけ、バブル経済時には、総会屋や金融機関、不動産や建設業者と結託して、大きなしのぎをえた。
任侠右翼に、もっとも、勢いがあったのは、この時期で、やくざ世界では、企業舎弟という新語がうまれたほどである。
やがて、バブルが崩壊する。戦後の経済復興期に、労働運動を妨害するなど、一貫して大企業の側に立ち、企業の裏活動をささえ、もちつもたれつ関係を築いた任侠右翼にとって、バブル崩壊と暴対法の施行、総会屋への取り締まり強化は、大きなダメージとなった。
以後、任侠右翼は、資金源も闘争目標も失って、長い低迷期にはいる。
かつて、体制側にとって結果論(体制の守護)的善で、反体制側にとって動機論(反体制派への妨害・反社会性)的悪だった任侠右翼は、いまや、時代の変化にともなって、その在り方をかえなければならない時期を迎えているように思われる。
というのは、かつて任侠右翼は、反共の砦として、存在価値があったが、現在、反共というスローガンは、すでに、無効になりつつあるからである。
右と左の闘争は、すでに、決着がついている。日本人は、だれも、中国や北朝鮮のような国を理想と思っていない。そこで、旧左翼は、共産主義からコスモポリタニズム(無国籍主義)や反日主義へのりかえ、攻撃目標を、政体(政治)から国体(天皇体制)へきりかえてきた。
左右対決という図式が消え、代わりに、愛国主義と反日主義という新たな対決の図式がうかびあがってきたのである。
たたかいの場が、政治やイデオロギーから、国体や文化論へと移ってきた。
ということは、運動の転換期がきたということである。
政治は、選挙民や論壇系の政治評論家にまかせ、右翼は、国体のことだけを考え、行動すべきということであって、このうごきをつかまなければ、必要悪としての任侠右翼の存在価値が、なくなる。
社民党や日本共産党、自民・民主党の左派は、日本をよい国にしようとして、政治活動をしているのであろうか。
否である。政権をとって、国体を変更することがかれらの目的で、その兆候が、道州制の導入や皇室典範の改悪、人権法・フェミニズム法・外国人参政権法などで、自虐史観や媚中外交、戦争謝罪、歴史の共通認識などは、すべて、そのためのプロパガンダといってよい。
日本を、共産党や民社党、自民・民主党左派、左翼出身の官僚のいうとおりにかえていけば、日本は、もはや、日本ではなくなる。ということは、かれらが血眼になって、やろうとしているのは、政体の変更ではなく、国体の変更だったのである。
旧態依然として、右だ左だといっていると、右翼は、反日主義=国体変更主義の戦略に気づかないまま、取り残されて、近い将来、日本は、小泉純一郎が端緒を切った「国体変更計画」にのみこまれることになるだろう。
かつて、右翼は、国家の危機に体を張った。そのときは、左右陣営の対立という図式がはっきりとしていたため、迷うことなく、必要悪=結果論的善の存在になりきれた。
だが、現在は、国家の危機がどこからきているのか、ひじょうに、わかりにくくなっている。
はっきりといおう。現在、日本が直面している国家の危機は、国体、三島由紀夫が「文化防衛論」で指摘した、日本精神が脅かされているところから生じている。
三島は「文化防衛論」で、こうのべた。
われわれは自民党を守るために闘うのでもなければ、民主主義社会を守るために闘うのでもない。……終局、目標は天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するような政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。
なぜなら、われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本文化伝統をかけて戦わなければならないと信じているからである。
右翼が、何をまもり、何のためにたたかうのかをわきまえたとき、かれらは、ふたたび結果論的"善"となるのはあるまいか。
農本主義や大アジア主義、国家社会主義に立つ伝統右翼は、戦後、GHQの弾圧やスポンサーだった保守政界や軍部、旧財閥の解体によって、事実上、壊滅した。
右翼が国政や軍事、クーデターにかかわった時代は、敗戦によって、こうして、終わりを告げ、戦後日本は、共産党や組合運動の躍進によって、急速に、左傾化してゆく。
GHQが、当初、めざしたのは、要人追放や財閥解体、農地改革などで旧体制を破壊する事実上の敗戦革命で、当時、GHQは、プレスコードや検閲、神道指令から、戦時教科書の黒塗り、武道の禁止、茶道の古書までを焚書にする、徹底的な文化破壊をおこなった。
のちに、GHQは、ソ連・中国の脅威に気づき、急きょ、左翼路線を変更することになるが、それまでは、軍国主義をささえた右翼勢力が、GHQの最大の掃討目標だったのである。
旧体制の組織や団体がGHQの標的になったなかで、任侠系の右翼団右翼が生き残ることができたのは、暴力団組織という独自の資金源をもっていたからである。
任侠系の右翼団体は、戦後、うまれたわけではない。近代になって、自由民権運動や社会主義思想がさかんになってくると、危機感をつのらせた政府・公権力が、反政府運動の取り締まりに任侠団体を利用し、任侠団体も、その多くが、政治結社を名乗った。
代表的なのが、原敬首相と床次竹次郎内相の提唱で結成された博徒と土建系任侠の全国的組織「大日本国粋会」(顧問・頭山満)で、国体護持と共産化の阻止を掲げて、労働争議介入やストライキ破りなどに、暴力的な直接行動をおこなった。
任侠系の右翼は、伝統右翼とちがって、思想的な背景や含蓄があるわけではない。
政治家や軍人、財界がこの任侠右翼を利用したのは、体制側にとって、かれらが、結果論的に"善"だったからである。
政治や軍事は、結果論の世界である。たとえ、動機が善であっても、結果が悪では、政治は乱れ、戦争では負ける。悪知恵や謀略などの悪しき動機が、結果として、安全や平和をまもるのが権力のリアリズムなのである。
一方の動機論は、結果に責任をもたない女・子どもの発想で、たとえていえば、憲法九条や絶対平和主義が、これにあたる。
反体制側が、任侠右翼を無知でやくざな暴力集団=悪とみるのは、女・子どもの動機論に立っているからで、男・大人の結果論に立つ体制側にとって、任侠右翼は、体制の防人=善である。
右翼論の根底にあるのは、この「結果論的善」で、任侠右翼が、反体制派にとって恐怖の対象で、かれらが、体制の防波堤、社会の防腐剤となれば、それで、十分に存在価値があり、学識をひけらかして正論を語るだけのインテリ右翼は、かえって、有害ということになる。
任侠右翼が躍進してきたのが、60年安保闘争だった。
昭和二七年のサンフランシスコ平和条約締結によって、日本は、独立した。
だが、政治的には、社会党などの左翼の勢力がつよく、日本共産党も、第六回全国協議会(六全協/1955年)以降、議会への大量進出をはかり、議会内革命が懸念される情勢が生じてきた。
左翼対策に、任侠右翼を利用しようとしたのが、吉田茂内閣で法務総裁を務めていた木村篤太郎である。
1960年の日米安保条約改定で、政治的混乱が予想されるなか、警察力の整備に不安を抱いた木村は、20万人暴力団を組織化して共産主義勢力に対抗するべく、右翼の大物、児玉誉士夫に相談をもちかけた。
この結果、テキヤ系組織は東京街商組合・日本街商連盟、博徒系組織は、日本国粋会を結成して、暴力団の組織化(愛国反共抜刀隊構想)がすすめられた。この構想は、吉田の承認をえられなかったものの、このとき木村は、37の右翼団体を糾合して、安保闘争にそなえる。
安保改正の1960年、アイゼンハワー大統領の訪日反対の大規模な反対運動を阻止するため、岸信介首相は、木村篤太郎と、当時の自民党幹事長・川島正次郎に、ヤクザ・右翼の動員を命じている。
このとき、児玉は、警視庁と打ち合わせて、稲川会五千人、松葉会二千五百人、飯島連合会三千人、国粋会千五百人、義人党三百人、神農愛国同志会一万人を「警官補助警備力」として、東京・芝の御成門周辺に配置することをきめている。
これに前後して、血盟国事件の井上日召や浜口雄幸襲撃事件の佐卿屋留男らの護国団が音頭をとった「全日本愛国団体連合会」(全愛会議)をはじめ、「大日本愛国団体連合・時局対策協議会」(時対協)、「青年思想研究会」(青思会)、自民党議員も多く所属する保守主義者団体「日本会議」などが、次々に結成された。
50年代の砂川闘争、新島闘争、60年代のハガチィー事件、安保闘争など、左右陣営の衝突が激化するなか、60年には、安保闘争で樺美智子が死亡、浅沼稲次郎社会党委員長が右翼のテロで倒れ、岸信介首相も、右翼に刺されて、瀕死の重傷を負うという事件がおきる。
この60年が、左右両陣営にとって最大の山場で、その後、安保の岸内閣から所得倍増の池田勇人内閣へ政権交代がおこなわれると、社会の関心は、政治から経済へ移り、任侠右翼は、次第に、存在理由を失っていく。
70年代にはいると、政府や警察当局は、用済みとなった任侠右翼にたいして、暴力団のレッテルを貼って取締りを強化、なかには、解散に追いこまれた団体もでた。
任侠右翼は、もともと、博徒やテキヤ、やくざで、かれらを体制の番兵として利用したのは、権力である。使用済みになったからといって、切り捨てるのは、権力側の都合によるものだが、任侠右翼も、高度成長、とりわけ、バブル経済時には、総会屋や金融機関、不動産や建設業者と結託して、大きなしのぎをえた。
任侠右翼に、もっとも、勢いがあったのは、この時期で、やくざ世界では、企業舎弟という新語がうまれたほどである。
やがて、バブルが崩壊する。戦後の経済復興期に、労働運動を妨害するなど、一貫して大企業の側に立ち、企業の裏活動をささえ、もちつもたれつ関係を築いた任侠右翼にとって、バブル崩壊と暴対法の施行、総会屋への取り締まり強化は、大きなダメージとなった。
以後、任侠右翼は、資金源も闘争目標も失って、長い低迷期にはいる。
かつて、体制側にとって結果論(体制の守護)的善で、反体制側にとって動機論(反体制派への妨害・反社会性)的悪だった任侠右翼は、いまや、時代の変化にともなって、その在り方をかえなければならない時期を迎えているように思われる。
というのは、かつて任侠右翼は、反共の砦として、存在価値があったが、現在、反共というスローガンは、すでに、無効になりつつあるからである。
右と左の闘争は、すでに、決着がついている。日本人は、だれも、中国や北朝鮮のような国を理想と思っていない。そこで、旧左翼は、共産主義からコスモポリタニズム(無国籍主義)や反日主義へのりかえ、攻撃目標を、政体(政治)から国体(天皇体制)へきりかえてきた。
左右対決という図式が消え、代わりに、愛国主義と反日主義という新たな対決の図式がうかびあがってきたのである。
たたかいの場が、政治やイデオロギーから、国体や文化論へと移ってきた。
ということは、運動の転換期がきたということである。
政治は、選挙民や論壇系の政治評論家にまかせ、右翼は、国体のことだけを考え、行動すべきということであって、このうごきをつかまなければ、必要悪としての任侠右翼の存在価値が、なくなる。
社民党や日本共産党、自民・民主党の左派は、日本をよい国にしようとして、政治活動をしているのであろうか。
否である。政権をとって、国体を変更することがかれらの目的で、その兆候が、道州制の導入や皇室典範の改悪、人権法・フェミニズム法・外国人参政権法などで、自虐史観や媚中外交、戦争謝罪、歴史の共通認識などは、すべて、そのためのプロパガンダといってよい。
日本を、共産党や民社党、自民・民主党左派、左翼出身の官僚のいうとおりにかえていけば、日本は、もはや、日本ではなくなる。ということは、かれらが血眼になって、やろうとしているのは、政体の変更ではなく、国体の変更だったのである。
旧態依然として、右だ左だといっていると、右翼は、反日主義=国体変更主義の戦略に気づかないまま、取り残されて、近い将来、日本は、小泉純一郎が端緒を切った「国体変更計画」にのみこまれることになるだろう。
かつて、右翼は、国家の危機に体を張った。そのときは、左右陣営の対立という図式がはっきりとしていたため、迷うことなく、必要悪=結果論的善の存在になりきれた。
だが、現在は、国家の危機がどこからきているのか、ひじょうに、わかりにくくなっている。
はっきりといおう。現在、日本が直面している国家の危機は、国体、三島由紀夫が「文化防衛論」で指摘した、日本精神が脅かされているところから生じている。
三島は「文化防衛論」で、こうのべた。
われわれは自民党を守るために闘うのでもなければ、民主主義社会を守るために闘うのでもない。……終局、目標は天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するような政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。
なぜなら、われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本文化伝統をかけて戦わなければならないと信じているからである。
右翼が、何をまもり、何のためにたたかうのかをわきまえたとき、かれらは、ふたたび結果論的"善"となるのはあるまいか。
2008年05月07日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(20)
●「右翼論」その2/極右のテロリズムと極左のゲバルト
日本の極右を定義することはむずかしい。
左翼過激派、極左のように、戦略として、暴力主義を唱える団体はなく、革マルや中核派、革労協に匹敵する戦闘的な団体や組織があるわけではないからだ。
右翼思想は、思想の練磨から奉仕活動、直接行動まで、幅が広い。
おだやかな愛国思想からテロリズムまでが、一本の糸でつながっており、一介の草莽の士が、突如、直接行動にでるという事態も、ありうるのが、右翼のすがたなのである。
その右翼のなかで、極右といえば、行動右翼をさす。
行動右翼には、伝統(組織・神道)右翼と任侠(やくざ一家・暴力団系)右翼の二つの系統があり、そのうち、極右のレッテルを貼られているのが、街宣車をもち、街頭で宣伝活動をおこなっている任侠右翼とよばれる団体である。
伝統右翼のうち、組織右翼は、思想的には、頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの国家・国権主義に立ち、現在は、三島由紀夫を慕う民族派グループが、その流れをくんでいる。
五・一五事件、2・26事件に関与した国家社会主義の大川周明や北一輝、血盟団事件の井上日召らも、伝統右翼にくくられるが、一部の軍人と組んで、権力闘争にかかわったことから、右翼というより、むしろ、ウルトラ国家主義者といったほうがいいように思う。
神道右翼は、蓑田胸喜、葦津珍彦らの思想家から、終戦直後、14名が天皇陛下に敗戦を詫びて割腹自殺した大東塾の影山正治までを擁する大山脈で、現代の右翼思想の一つの潮流をなしている。
任侠右翼は、60年安保の際、共産主義革命に危機感を背景にうまれた団体で、多くが暴力団系の政治結社である。反共を旗印にしているところから、全愛会議(全日本愛国者団体会議)や児玉誉士夫系の青思会(青年思想研究会)、愛国党の赤尾敏らと共通点をもつ。
全愛会議や児玉誉士夫系右翼については、次回、「戦後の行動右翼」で詳しくのべる。
極右を定義することはむずかしい、とのべたのは、極右という存在はなくとも、内部にテロリズムをかかえている右翼は、ときと場合によって、突如、極右へきりかわるからである。
いいかえれば、右翼は、テロをおこなうことによってのみ、極右となるのである。
極左は、暴力=ゲバルトを恒常的な手段とするが、右翼は、その必要に迫られたときにかぎって、テロという非常手段をうったえる。それが極右で、極左のように、暴力主義を目的化しているわけではない。
日本の右翼は、左翼とちがい、権力志向をもっていない。
政権奪取のためのクーデター、あるいは、保守政党が政権をとるための前衛的な役割を担っているわけでもない。
極右=テロは、国体を危機から救うための自己犠牲で、「一殺多生」というテロリズムの論理には、自死という、究極の無私の精神がともなっている。他人の生命を奪ったからには、みずからも、生命を絶つのが右翼のテロで、権力闘争のため、政敵を殺傷する左翼のゲバルトとは、本質的に、異なる。
右翼テロが、美学となりうるのは、目的を果たしたあと、潔く散ってゆくからで、生きのびれば、ただの殺人者である。
テロは、法治国家の基準からも、人道的見地から見ても、狂気の妙汰ので、犯罪行為である。
その右翼テロが、日本の風土で、殺人と区別されてきたのは、無私という、人為がおよばない領域の行動だったからで、たとえ、それが狂気であっても、人間をこえているテロリストに、この世の法律や善悪をあてはめることはできない。
一方、暴力革命をとおして政権をとろうとする極左のゲバルト殺人は、敵対する勢力の殲滅や粛清が目的で、かれらは、みずからの権力欲のため、多くの人々を犠牲にする、ただの殺人者である。ちなみに、極左の内部闘争によるテロの犠牲者は、百人をこえているが、犯人は、ほとんど逮捕されていない。
テロリズムの原義は、権力による恐怖政治である。だが、日本の極右テロは、権力側に恐怖心をあたえる逆テロリズムで、標的は、我欲のために国益を害い、国体を危うくする政・官・財界の売国的指導者である。
といっても、右翼テロの動機は、政治にかかるものではなく、あくまで、国体防衛で、拠って立つところも、国体である。国体は、政体とも、国家ともちがい、それ以前の、歴史や民族という根源的なものにかかわっている。
政治には、まがりなりにも、一般投票という制度があり、有権者である国民は、投票をつうじて、政治に関与できる。その意味で、国家も政治も、国民の前にオープンになっている。
ところが、その政体の土台となっている国体は、国民の手の届かないところにある。
国体の維持という国是がまもられているかぎり、国体が、国民の手の届かないところにあっても、不都合もない。
だが、為政者や権力をもつ者が、国体を破壊しようとした場合、国民には、それを阻止する手段がない。
国体の変更はゆるされない。現在というこの一瞬しか生きていない者、一過性の権力にすぎない政治は、歴史に根ざしている国体を変える権利がなく、その資格もあたえられていないからである。
その国体が、権力の座にある者の私心や私欲によって、毀損され、破壊されようとしたとき、身をもって、無防備な国体をまもるのが、右翼である。
右翼は天皇の防人――というのは、売国奴から国体をまもれるのは、理論上、右翼しかいないからである。
テロ事件が発生すると、識者は、「民主主義の危機である」「民主主義の世の中でテロはゆるされない」と口を揃える。
だが、民主主義は、専制政治や独裁、全体主義よりましというだけで、けっして、理想的な体制ではない。むしろ、民の独裁なので、民や資本を味方につけると、どんなこともできる暗黒性をもっている。
資本やマスコミは、民主主義の名のもとで、独裁者のような力をもち、国民は、これに対抗する意思も手段ももちえない。民主主義の基本である多数決も、少数派の排除という不条理をともない、格差社会や衆愚政治をうみだす。
民主主義は、専制政治にたいするアンチテーゼなので、理論上、国家理性=国是が制限される。人権を最大の価値として、国権を危険なものとする民主主義においては、革命権までがみとめられているので、反政府運動や左翼の政治活動にたいする取り締まりもゆるやかで、むろん、中国のように、治安をまもるための予備拘束のようなことは、不可能である。
つまり、民主主義は、左翼による革命、および、右翼による反革命の危険性にたいして無防備な制度で、けっして、安全でも平和的でもない、むしろ、危なっかしい仕組みなのである。
革命権をみとめる民主主義において、資本とマスコミ、左翼、官僚の天下となるのは、現在の日本を見ればわかるとおりで、無防備な国体は、これまで、左翼陣営の最大の攻撃目標にされてきた。
革命・国家転覆・国体破壊という超法規的な戦略をもつ左翼に対抗できるのは、テロという、法を超越した行動論理をもつ右翼だけで、だからこそ、民主主義のなかに、存在が許容されている。
民主主義においては、左翼運動ばかりか、大資本の横暴、マスコミの言論暴力、官僚の過剰権力がゆるされる。右翼テロは、これを制御する手段として、存在する。民主主義が国体を否定する方向へ傾いているぶん、非合法の右翼テロが突出するのは、合法、非合法を別にして、政治力学的なバランスなのである。
テロは、民主主義の敵なのではなく、民主主義だからこそ、テロが存在する。
テロの恐怖がなければ、左翼・資本・マスコミ・公権力だけが肥大して、民主主義の矛盾に、国家や国体が、ねじ切れてしまうことになる。
右翼の存在価値は、恐怖にある。その恐怖は、その行動原理が、法をこえているところからでてくる。
右翼テロが、法をこえているのは、一過性の政体ではなく、永遠の国体に拠って立っているからで、右翼テロが、神の領域というのも、命を捨てて、国体をまもるには、無私でなければならないからである。
極左の暴力主義と極右のテロは、じつは、もっとも遠いところにあったのである。
日本の極右を定義することはむずかしい。
左翼過激派、極左のように、戦略として、暴力主義を唱える団体はなく、革マルや中核派、革労協に匹敵する戦闘的な団体や組織があるわけではないからだ。
右翼思想は、思想の練磨から奉仕活動、直接行動まで、幅が広い。
おだやかな愛国思想からテロリズムまでが、一本の糸でつながっており、一介の草莽の士が、突如、直接行動にでるという事態も、ありうるのが、右翼のすがたなのである。
その右翼のなかで、極右といえば、行動右翼をさす。
行動右翼には、伝統(組織・神道)右翼と任侠(やくざ一家・暴力団系)右翼の二つの系統があり、そのうち、極右のレッテルを貼られているのが、街宣車をもち、街頭で宣伝活動をおこなっている任侠右翼とよばれる団体である。
伝統右翼のうち、組織右翼は、思想的には、頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの国家・国権主義に立ち、現在は、三島由紀夫を慕う民族派グループが、その流れをくんでいる。
五・一五事件、2・26事件に関与した国家社会主義の大川周明や北一輝、血盟団事件の井上日召らも、伝統右翼にくくられるが、一部の軍人と組んで、権力闘争にかかわったことから、右翼というより、むしろ、ウルトラ国家主義者といったほうがいいように思う。
神道右翼は、蓑田胸喜、葦津珍彦らの思想家から、終戦直後、14名が天皇陛下に敗戦を詫びて割腹自殺した大東塾の影山正治までを擁する大山脈で、現代の右翼思想の一つの潮流をなしている。
任侠右翼は、60年安保の際、共産主義革命に危機感を背景にうまれた団体で、多くが暴力団系の政治結社である。反共を旗印にしているところから、全愛会議(全日本愛国者団体会議)や児玉誉士夫系の青思会(青年思想研究会)、愛国党の赤尾敏らと共通点をもつ。
全愛会議や児玉誉士夫系右翼については、次回、「戦後の行動右翼」で詳しくのべる。
極右を定義することはむずかしい、とのべたのは、極右という存在はなくとも、内部にテロリズムをかかえている右翼は、ときと場合によって、突如、極右へきりかわるからである。
いいかえれば、右翼は、テロをおこなうことによってのみ、極右となるのである。
極左は、暴力=ゲバルトを恒常的な手段とするが、右翼は、その必要に迫られたときにかぎって、テロという非常手段をうったえる。それが極右で、極左のように、暴力主義を目的化しているわけではない。
日本の右翼は、左翼とちがい、権力志向をもっていない。
政権奪取のためのクーデター、あるいは、保守政党が政権をとるための前衛的な役割を担っているわけでもない。
極右=テロは、国体を危機から救うための自己犠牲で、「一殺多生」というテロリズムの論理には、自死という、究極の無私の精神がともなっている。他人の生命を奪ったからには、みずからも、生命を絶つのが右翼のテロで、権力闘争のため、政敵を殺傷する左翼のゲバルトとは、本質的に、異なる。
右翼テロが、美学となりうるのは、目的を果たしたあと、潔く散ってゆくからで、生きのびれば、ただの殺人者である。
テロは、法治国家の基準からも、人道的見地から見ても、狂気の妙汰ので、犯罪行為である。
その右翼テロが、日本の風土で、殺人と区別されてきたのは、無私という、人為がおよばない領域の行動だったからで、たとえ、それが狂気であっても、人間をこえているテロリストに、この世の法律や善悪をあてはめることはできない。
一方、暴力革命をとおして政権をとろうとする極左のゲバルト殺人は、敵対する勢力の殲滅や粛清が目的で、かれらは、みずからの権力欲のため、多くの人々を犠牲にする、ただの殺人者である。ちなみに、極左の内部闘争によるテロの犠牲者は、百人をこえているが、犯人は、ほとんど逮捕されていない。
テロリズムの原義は、権力による恐怖政治である。だが、日本の極右テロは、権力側に恐怖心をあたえる逆テロリズムで、標的は、我欲のために国益を害い、国体を危うくする政・官・財界の売国的指導者である。
といっても、右翼テロの動機は、政治にかかるものではなく、あくまで、国体防衛で、拠って立つところも、国体である。国体は、政体とも、国家ともちがい、それ以前の、歴史や民族という根源的なものにかかわっている。
政治には、まがりなりにも、一般投票という制度があり、有権者である国民は、投票をつうじて、政治に関与できる。その意味で、国家も政治も、国民の前にオープンになっている。
ところが、その政体の土台となっている国体は、国民の手の届かないところにある。
国体の維持という国是がまもられているかぎり、国体が、国民の手の届かないところにあっても、不都合もない。
だが、為政者や権力をもつ者が、国体を破壊しようとした場合、国民には、それを阻止する手段がない。
国体の変更はゆるされない。現在というこの一瞬しか生きていない者、一過性の権力にすぎない政治は、歴史に根ざしている国体を変える権利がなく、その資格もあたえられていないからである。
その国体が、権力の座にある者の私心や私欲によって、毀損され、破壊されようとしたとき、身をもって、無防備な国体をまもるのが、右翼である。
右翼は天皇の防人――というのは、売国奴から国体をまもれるのは、理論上、右翼しかいないからである。
テロ事件が発生すると、識者は、「民主主義の危機である」「民主主義の世の中でテロはゆるされない」と口を揃える。
だが、民主主義は、専制政治や独裁、全体主義よりましというだけで、けっして、理想的な体制ではない。むしろ、民の独裁なので、民や資本を味方につけると、どんなこともできる暗黒性をもっている。
資本やマスコミは、民主主義の名のもとで、独裁者のような力をもち、国民は、これに対抗する意思も手段ももちえない。民主主義の基本である多数決も、少数派の排除という不条理をともない、格差社会や衆愚政治をうみだす。
民主主義は、専制政治にたいするアンチテーゼなので、理論上、国家理性=国是が制限される。人権を最大の価値として、国権を危険なものとする民主主義においては、革命権までがみとめられているので、反政府運動や左翼の政治活動にたいする取り締まりもゆるやかで、むろん、中国のように、治安をまもるための予備拘束のようなことは、不可能である。
つまり、民主主義は、左翼による革命、および、右翼による反革命の危険性にたいして無防備な制度で、けっして、安全でも平和的でもない、むしろ、危なっかしい仕組みなのである。
革命権をみとめる民主主義において、資本とマスコミ、左翼、官僚の天下となるのは、現在の日本を見ればわかるとおりで、無防備な国体は、これまで、左翼陣営の最大の攻撃目標にされてきた。
革命・国家転覆・国体破壊という超法規的な戦略をもつ左翼に対抗できるのは、テロという、法を超越した行動論理をもつ右翼だけで、だからこそ、民主主義のなかに、存在が許容されている。
民主主義においては、左翼運動ばかりか、大資本の横暴、マスコミの言論暴力、官僚の過剰権力がゆるされる。右翼テロは、これを制御する手段として、存在する。民主主義が国体を否定する方向へ傾いているぶん、非合法の右翼テロが突出するのは、合法、非合法を別にして、政治力学的なバランスなのである。
テロは、民主主義の敵なのではなく、民主主義だからこそ、テロが存在する。
テロの恐怖がなければ、左翼・資本・マスコミ・公権力だけが肥大して、民主主義の矛盾に、国家や国体が、ねじ切れてしまうことになる。
右翼の存在価値は、恐怖にある。その恐怖は、その行動原理が、法をこえているところからでてくる。
右翼テロが、法をこえているのは、一過性の政体ではなく、永遠の国体に拠って立っているからで、右翼テロが、神の領域というのも、命を捨てて、国体をまもるには、無私でなければならないからである。
極左の暴力主義と極右のテロは、じつは、もっとも遠いところにあったのである。
2008年04月27日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(19)
●「右翼論」その1/右翼がまもるべきは国体の永遠性
右翼といっても、日本と欧米では、根本思想が異なる。
ヨーロッパの右翼がもとめるのは、現実世界にある政治権力である。
一方、日本の右翼は、悠久の歴史という時間の経過が刻みこまれている国体の護持を使命とする。
国体は、天壌無窮の神勅(日本書紀)にもとづいて「神の御子孫たる皇孫が、天地の果てることの無きが如く、統べ治め給う永遠の国土」のことで、政治や政体は、国体の上にのっている一過性の権力機構にすぎない。
永遠の国土、というのは、易姓革命によって、存亡流転してきた中華王朝にたいする反対概念で、聖徳太子が、隋の皇帝に送った親書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と、万世一系の皇統を太陽にたとえた故事からもわかるとおり、このことばは、日本の国体が永久不変であることをあらわしている。
国体の永遠性は、神道から生じたもので、論拠を立てて、言挙げすべきことではない。
どんな民族も、神話をもっており、その神話は、何ものにもかえがたいので、日本の右翼は、身をもって、国体をまもってきたのである。
特攻隊の遺書に、国体のすがたをいいあてたものがあるので、紹介したい。
生を享けて、二三年、私には私だけの考え方もありましたが、それは、もう無駄ですから、申しません。特に善良な大多数の国民を欺瞞した政治家たちだけは、今も心にくいような気がします。しかし私は、国体を信じ、愛し、美しいと思うがゆえに、政治家や統帥の輔弼者たちの命を奉じます。
実に日本の国体は美しいものです。
古典そのものよりも、神代の有無よりも、私は、それを信じてきた祖先達の純心そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。
国体とは祖先達の一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国の最善至高なるものが、皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。(後略)
名をも身をも さらに惜しまず もののふは 守り果さむ 大和島根を
国学院大学の学徒動員で、階級は予備少尉。山口輝夫という二三歳のこの特攻隊員が命を捨てて、まもろうとしたのは、日本の国体であって、東条内閣でも、所属する海軍でもなかった。
日本の右翼が、政権奪取をめざさず、国体の護持だけに使命感をもちつづけてきたのは、政治権力によって国の根幹をかえてきたユーラシアの国々とは異なり、日本の国柄が、国体という神話や歴史、文化、習俗という永遠の基盤にあって、権力は、一過性の政治機構にすぎなかったからだった。
国体という観念のない欧米では、右翼という呼称は、ファシスト政党など、政体内の反民主主義グループをさすことが多い。政体内の勢力である以上、政権奪取をめざし、当然、選挙にも出馬する。
ヒトラーのナチス党も、ワイマール憲政下の民主選挙で、第一党に躍り出て、政権をとった。欧米の右翼は、ナチズムの流れをくむ超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)や民族の優位性を叫ぶ民族主義的な政党活動であって、もとめるのは、あくまでも、政治権力である。
ヨーロッパで、国体の観念が育たなかったのは、国家がイコール境界線で、古代の神々が、キリスト教に滅ぼされたからである。
境界線をもたない島国で、太陽を絶対存在(太陽神ではない)とする神道という雄大な宗教観のもとで、異文化・異教を呑みこんできた日本では、力の論理による抗争や政治ではなく、和を土台にした国体運動によって、国が治まってきた。
これは、日本独自の文化体系で、祖先は、この国体をまもるため、命を投げだしてきた。
日本の右翼が、街宣と称して、宣伝カーで軍歌を流し、日の丸を振り、政策を訴えるのは、本来、筋がちがう。選挙に出て、議席を確保するという使命がない以上、右翼の活動は、政治活動ではなく、国体運動でなければならないからである。
国体運動というのは、文化・伝統防衛で、畢竟、天皇をまもることである。
かつて、火焔瓶闘争をおこない、トラック部隊(資金調達)を組識して、暴力革命を志向した共産党が第六回全国協議会(六全協)の後、議会内革命へ路線変更して「天皇制反対」のスローガンを捨てた。
日本共産党は、革命という国体変更を諦めて、政権奪取へむかったのである。
日本の右翼も、政権を狙うのなら、日本共産党と同様、路線変更して、ヨーロッパ型の右翼へモデル・チェンジをしなければならないが、そのとき、右翼の存在価値はなくなる。
日本の右翼は、権力志向をもたないことで、国体の守護者たりえている。
権力を志向すれば、権謀術数や利害、損得などの一過性の世界にまきこまれて、俗化される。この現実主義によって、右翼の存在価値がなくなってしまうのは、恐怖というインパクトが消えるからである。
右翼の恐怖は「歴史からの報復」という側面をもっている。
この国をつくり、まもってきたのは、いま生きている人間ではない。過去に、多くの人々が流した血の上に国体が築かれている。その国体を、現在を生きているにすぎない者たちが、じぶんたちの都合や理屈によって危うくしたとき、歴史から報復をうけるのは、当然である。
歴史に消えていった死者は、何もできない。
だが、右翼は、過去の人々の意思を継いで、現在を生きる国体の守護者である。
だから、権力者や国体破壊者は、右翼がこわいのである。
現在という一過性を生きているにすぎない人間が、じぶんの信条にしたがって、歴史や伝統、文化を破壊し、死者たちの魂をふみにじって恥じないのは、この国から、国体をまもるという右翼思想が、根こそぎ、消えてしまったからである。
万世一系という2000年の伝統を破壊しようとした有識者会議のロボット学者が「歴史や伝統などは勘案に値しない」と言い放った。その六十年前、「万世一系の美しい国体をまもるため」といって、三千人に近い若者が、特攻機にのりこんで散華したことを思うと、ゆるされるべきことばではない。
国体は、政治や権力、利害や打算どころか、現実からも切り離されて、過去から現在へつながる線上にただよっている。蒙古軍とたたかった武者も、203高地で戦死した兵も、特攻隊も、すべて、この国体のために、散っていった。
国体は永遠なので、一過性の政治や法どころか、生死までをのりこえる。
かつて、右翼がこわかったのは、国に殉じた愛国者の代理人という立場に立ったからで、かれらのなかで、燃えたぎっていたのは、ことばや理屈ではなく、情であり、祈りであった。
情も祈りも、死を超越しているので、生にしがみついている者たちは、かれらの言動に震えあがったのである。
その右翼が、政治論争や政権奪取に目の色をかえたら、国体を忘れたただの政治屋にすぎないものになり、こわいどころか、滑稽である。
右翼のこわさは、生死をのりこえた思想を、身をもって体現させるところにある。
本物の右翼にとって、テロリズムは、タブーではない。
といっても、このテロリズムは、政争による暴力とは、まったくの別物である。
政争によるテロは、気狂いに刃物であって、戦前の三月事件や十月事件、永田鉄山を斬殺した相沢事件は、議会を無力化して、軍の独走をまねいた愚行で、あれがなかったら、日本の戦争は、まったく、ちがったかたちになっていたであろう。
右翼は、徹頭徹尾、国体守護の立場に立つ。
かつて、大東塾という右翼団体は、景山正治塾頭以下、十四名が、天皇陛下に敗戦を詫びて、集団で、割腹自殺をとげた。自死をもって、国体の守護神にならんとしたのである。
右翼は、天皇に還るほかない。天皇の防人となる。天皇の権威をまもることが、国体護持の王道であることを自覚するほかに、右翼は、右翼たりえない。
右翼論について、次回は、極右と極左、戦後右翼と順を追ってにのべてゆきたい。
右翼といっても、日本と欧米では、根本思想が異なる。
ヨーロッパの右翼がもとめるのは、現実世界にある政治権力である。
一方、日本の右翼は、悠久の歴史という時間の経過が刻みこまれている国体の護持を使命とする。
国体は、天壌無窮の神勅(日本書紀)にもとづいて「神の御子孫たる皇孫が、天地の果てることの無きが如く、統べ治め給う永遠の国土」のことで、政治や政体は、国体の上にのっている一過性の権力機構にすぎない。
永遠の国土、というのは、易姓革命によって、存亡流転してきた中華王朝にたいする反対概念で、聖徳太子が、隋の皇帝に送った親書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と、万世一系の皇統を太陽にたとえた故事からもわかるとおり、このことばは、日本の国体が永久不変であることをあらわしている。
国体の永遠性は、神道から生じたもので、論拠を立てて、言挙げすべきことではない。
どんな民族も、神話をもっており、その神話は、何ものにもかえがたいので、日本の右翼は、身をもって、国体をまもってきたのである。
特攻隊の遺書に、国体のすがたをいいあてたものがあるので、紹介したい。
生を享けて、二三年、私には私だけの考え方もありましたが、それは、もう無駄ですから、申しません。特に善良な大多数の国民を欺瞞した政治家たちだけは、今も心にくいような気がします。しかし私は、国体を信じ、愛し、美しいと思うがゆえに、政治家や統帥の輔弼者たちの命を奉じます。
実に日本の国体は美しいものです。
古典そのものよりも、神代の有無よりも、私は、それを信じてきた祖先達の純心そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。
国体とは祖先達の一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国の最善至高なるものが、皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。(後略)
名をも身をも さらに惜しまず もののふは 守り果さむ 大和島根を
国学院大学の学徒動員で、階級は予備少尉。山口輝夫という二三歳のこの特攻隊員が命を捨てて、まもろうとしたのは、日本の国体であって、東条内閣でも、所属する海軍でもなかった。
日本の右翼が、政権奪取をめざさず、国体の護持だけに使命感をもちつづけてきたのは、政治権力によって国の根幹をかえてきたユーラシアの国々とは異なり、日本の国柄が、国体という神話や歴史、文化、習俗という永遠の基盤にあって、権力は、一過性の政治機構にすぎなかったからだった。
国体という観念のない欧米では、右翼という呼称は、ファシスト政党など、政体内の反民主主義グループをさすことが多い。政体内の勢力である以上、政権奪取をめざし、当然、選挙にも出馬する。
ヒトラーのナチス党も、ワイマール憲政下の民主選挙で、第一党に躍り出て、政権をとった。欧米の右翼は、ナチズムの流れをくむ超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)や民族の優位性を叫ぶ民族主義的な政党活動であって、もとめるのは、あくまでも、政治権力である。
ヨーロッパで、国体の観念が育たなかったのは、国家がイコール境界線で、古代の神々が、キリスト教に滅ぼされたからである。
境界線をもたない島国で、太陽を絶対存在(太陽神ではない)とする神道という雄大な宗教観のもとで、異文化・異教を呑みこんできた日本では、力の論理による抗争や政治ではなく、和を土台にした国体運動によって、国が治まってきた。
これは、日本独自の文化体系で、祖先は、この国体をまもるため、命を投げだしてきた。
日本の右翼が、街宣と称して、宣伝カーで軍歌を流し、日の丸を振り、政策を訴えるのは、本来、筋がちがう。選挙に出て、議席を確保するという使命がない以上、右翼の活動は、政治活動ではなく、国体運動でなければならないからである。
国体運動というのは、文化・伝統防衛で、畢竟、天皇をまもることである。
かつて、火焔瓶闘争をおこない、トラック部隊(資金調達)を組識して、暴力革命を志向した共産党が第六回全国協議会(六全協)の後、議会内革命へ路線変更して「天皇制反対」のスローガンを捨てた。
日本共産党は、革命という国体変更を諦めて、政権奪取へむかったのである。
日本の右翼も、政権を狙うのなら、日本共産党と同様、路線変更して、ヨーロッパ型の右翼へモデル・チェンジをしなければならないが、そのとき、右翼の存在価値はなくなる。
日本の右翼は、権力志向をもたないことで、国体の守護者たりえている。
権力を志向すれば、権謀術数や利害、損得などの一過性の世界にまきこまれて、俗化される。この現実主義によって、右翼の存在価値がなくなってしまうのは、恐怖というインパクトが消えるからである。
右翼の恐怖は「歴史からの報復」という側面をもっている。
この国をつくり、まもってきたのは、いま生きている人間ではない。過去に、多くの人々が流した血の上に国体が築かれている。その国体を、現在を生きているにすぎない者たちが、じぶんたちの都合や理屈によって危うくしたとき、歴史から報復をうけるのは、当然である。
歴史に消えていった死者は、何もできない。
だが、右翼は、過去の人々の意思を継いで、現在を生きる国体の守護者である。
だから、権力者や国体破壊者は、右翼がこわいのである。
現在という一過性を生きているにすぎない人間が、じぶんの信条にしたがって、歴史や伝統、文化を破壊し、死者たちの魂をふみにじって恥じないのは、この国から、国体をまもるという右翼思想が、根こそぎ、消えてしまったからである。
万世一系という2000年の伝統を破壊しようとした有識者会議のロボット学者が「歴史や伝統などは勘案に値しない」と言い放った。その六十年前、「万世一系の美しい国体をまもるため」といって、三千人に近い若者が、特攻機にのりこんで散華したことを思うと、ゆるされるべきことばではない。
国体は、政治や権力、利害や打算どころか、現実からも切り離されて、過去から現在へつながる線上にただよっている。蒙古軍とたたかった武者も、203高地で戦死した兵も、特攻隊も、すべて、この国体のために、散っていった。
国体は永遠なので、一過性の政治や法どころか、生死までをのりこえる。
かつて、右翼がこわかったのは、国に殉じた愛国者の代理人という立場に立ったからで、かれらのなかで、燃えたぎっていたのは、ことばや理屈ではなく、情であり、祈りであった。
情も祈りも、死を超越しているので、生にしがみついている者たちは、かれらの言動に震えあがったのである。
その右翼が、政治論争や政権奪取に目の色をかえたら、国体を忘れたただの政治屋にすぎないものになり、こわいどころか、滑稽である。
右翼のこわさは、生死をのりこえた思想を、身をもって体現させるところにある。
本物の右翼にとって、テロリズムは、タブーではない。
といっても、このテロリズムは、政争による暴力とは、まったくの別物である。
政争によるテロは、気狂いに刃物であって、戦前の三月事件や十月事件、永田鉄山を斬殺した相沢事件は、議会を無力化して、軍の独走をまねいた愚行で、あれがなかったら、日本の戦争は、まったく、ちがったかたちになっていたであろう。
右翼は、徹頭徹尾、国体守護の立場に立つ。
かつて、大東塾という右翼団体は、景山正治塾頭以下、十四名が、天皇陛下に敗戦を詫びて、集団で、割腹自殺をとげた。自死をもって、国体の守護神にならんとしたのである。
右翼は、天皇に還るほかない。天皇の防人となる。天皇の権威をまもることが、国体護持の王道であることを自覚するほかに、右翼は、右翼たりえない。
右翼論について、次回は、極右と極左、戦後右翼と順を追ってにのべてゆきたい。
2008年04月21日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(18)
●楠木正成と西郷隆盛がめざしたもの
右翼という名称は、フランス革命時、議長席の右方に、王政派やファシスト党が席を占めたことに由来する。
革命派や改革派が左翼とよばれるのも同様で、議席が、議長席の左方に位置していたからである。
ヨーロッパの場合、イデオロギーによって、右と左が分かたれる。
だが、日本では、事情が異なる。左が社会主義やマルクス主義でも、右は、かならずしも、イデオロギーに縛られているわけではないからである。
戦前や戦中、右翼といえば、国家主義のことで、その国家主義にも、北一輝や大川周明の国家社会主義から、頭山満が率いる玄洋社などの大アジア主義、それに、国粋主義という三つの流れがあり、それぞれ、別個に活動をおこなっていた。
なかでも、異色だったのが、天皇を戴いた革命運動の国家社会主義で、イデオロギーとしては、右翼より、むしろ、左翼に近かった。
国家社会主義は、2・26事件で壊滅するが、東条英機の「統制経済」や「国家総動員法」も、一種の官僚社会主義で、戦後、この全体主義が、そっくり、ひきつがれて、現在の永田町・霞ヶ関体制になったことに、多くのひとは、気がついていない。
頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの大アジア主義は、孫文らとむすんで、アジア解放という大戦略を立てた。だが、政府の協力がえられず、結局、これも、途中で挫折を余儀なくされた。
残ったのが、国粋主義で、これが、現在の右翼へ、細い糸で、つながっている。
国粋主義にたいして、マスコミは、「狂信的」という形容詞をつけたがるが、国の歴史や文化、習俗、伝統を保守しようとする考えは、本来、自然にして、常識的なもので、どこの国も、国家の中心に"国粋"というスピリットをすえている。
孝明天皇は、国粋主義者であらせられ、尊皇攘夷も、もとをただせば、国粋主義である。
幕末から明治維新にかけての闘争は、佐幕と勤皇、開国と攘夷、公武合体と倒幕、文明開化と士族の反抗と、すべて、国粋主義をめぐって生じたといってよいが、結局、勝ったのは、開明派だった。
西洋文明の移植という方法で、近代化をめざした明治政府にとって、国粋主義は、国策を妨害する邪魔者で、是が非でも、取り除かなければならない目の上のコブだった。
だが、国粋主義がめざすところは、「歴史の連続性」にあり、この国粋主義が排除されると、歴史が断絶して、やがて、国家は、求心力を失って、ばらばらになる。
日本は、戦後、アメリカ民主主義とソ連のマルクス主義をうけいれて、事実上の文化的植民地となった。明治維新につづき、ふたたび、歴史の断絶をおこなったわけだが、その結果、日本は、国家中枢を官僚と反日勢力が握る、外国のような国になってしまった。
皇室典範を改悪しようという有識者会議の議長が、伝統や歴史などカンケーないと言い放って、どこからも批判が出ないような国が、はたして、本来の日本のすがたといえるであろうか。
さて。歴史上、「歴史の連続性」という思想に殉じた大人物が、二人、いる。
楠木正成と西郷隆盛である。
この二人には、いくつか、共通点がある。
一つは、二人が旗印に掲げた銘に、いずれも「天」の文字があることである。
「敬天愛人(あいしん)」(西郷隆盛)
「非理法権天」(楠木正成)
儒教における天も、高天原の天も、一過性の地上の価値や出来事をこえている。
天は、永遠という「歴史の連続性」を暗示しているのである。
そういう観点に立つと、二人の行動の謎が、徐々にとけてくる。
二つ目の共通点は、敢えて、決戦と敗死をえらんだことである。
歴史という長いスパンで見ると、妥協して、いっとき、生きながらえるより、大義(歴史の連続性・国体護持)ために散るほうが、はるかに大きな価値がある。
たとえ、国が方向を誤っても、それを正そうとしたじぶんが、どのような思想に立って、戦場で散ったか。それが、後世につたわれば、日本は、ふたたび、天道へもどれる、という希望と確信が二人を死地へむかわせたのではないか、というふうに、わたしは、考えている。
正成は、後醍醐天皇へ、足利尊氏との和睦を進言している。天皇が尊氏を許して、尊氏を征夷大将軍に任じれば、天皇親政・律令体制の復古はならなくとも、歴史の連続性は、まもられる。
だが、正成の真意を理解できない後醍醐天皇のとりまきの公卿らは、正成を嘲っただけだった。
そのあと、正成は、わずか7百騎を率いて、湊川で、数十万の尊氏大軍勢とたたかって散るが、このとき、「七生報国」ということばを残している。
七回生まれかわる七生は、個人や地上の出来事をこえた、歴史のことにほかならない。
そして、国というのは、政権を手にした幕府=権力ではなく、天皇=国体である。
正成の天皇に対する忠は、個人崇拝ではなく、国体護持という歴史の連続性へのつよい意思のあらわれで、それが、国粋主義の本質といってよい。
西郷隆盛も、西南戦争のさなか、山県有朋の自刃勧告にたいして、堂々たる決起の大義を書き送り、味方には――
「一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候也」
と檄をとばした。
安堵というのは、歴史が、われわれの正しさを証明するであろうから、安心しろという意味である。
江戸城の無血開城、朝鮮の平和外交(武力による征韓論は板垣退助の意見で、西郷は、みずから使者に立つという外交路線を主張した)など、徹頭徹尾、流血を避けてきた西郷が、西南の役で、徹底抗戦をえらんだ理由が、これである。
政府が、日本の西洋化というまちがったみちをえらび、その誤りに気づかぬまま滅びるより、われわれが、ここで政府軍とたたかって、歴史に敢闘の足跡を残せば、いつか日本は、その過ちに気づくであろうというのである。
西郷の心根をもっともよく知る勝海舟は「西郷さんは、じぶんの思想を歴史にゆだねた」と評したが、江藤淳も、『南洲残影』にこう書いている。
明治維新の目的は、無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。
ところが天子をいただく明治政府は、何をなしたか。
みずからすすんで、西洋を真似て、無道の国への道を歩みはじめているではないか。
国家をまもらんとした西郷が、なぜ、国家を代表する政府に叛旗を翻したか。
国家とは――その時代に存在している政府や国民だけのものではないからである。
過去、現在、未来と連綿とつづく垂直的なるもの(歴史の連続性)、それこそが、西郷のまもらんとした国家であった。
明治政府は、垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。
歴史を切断する勢力とは、断固として、たたかわねばならない。
これが、西郷の思いではなかったろうか。(大意)
日本の右翼が、政治闘争を志向せず、政権をめざさないのは、もとめ、まもるべきものが、国体=歴史の連続性にあるからで、そこが、政権をめぐって、権力闘争へ走るヨーロッパの右翼と異なる。
わたしは、右翼と称する人々が、政治問題を語るのをにがにがしく思っている。右翼が目をむけるべきは、歴史の連続性であって、政治という一過性の問題は、政治家と選挙民に、まかせておき、政治家が、国を売るような誤りを犯したら、そのときは黙って、その過ちを贖わせればよいのである。
次回は、右翼の在り方について、思うところをのべよう。
右翼という名称は、フランス革命時、議長席の右方に、王政派やファシスト党が席を占めたことに由来する。
革命派や改革派が左翼とよばれるのも同様で、議席が、議長席の左方に位置していたからである。
ヨーロッパの場合、イデオロギーによって、右と左が分かたれる。
だが、日本では、事情が異なる。左が社会主義やマルクス主義でも、右は、かならずしも、イデオロギーに縛られているわけではないからである。
戦前や戦中、右翼といえば、国家主義のことで、その国家主義にも、北一輝や大川周明の国家社会主義から、頭山満が率いる玄洋社などの大アジア主義、それに、国粋主義という三つの流れがあり、それぞれ、別個に活動をおこなっていた。
なかでも、異色だったのが、天皇を戴いた革命運動の国家社会主義で、イデオロギーとしては、右翼より、むしろ、左翼に近かった。
国家社会主義は、2・26事件で壊滅するが、東条英機の「統制経済」や「国家総動員法」も、一種の官僚社会主義で、戦後、この全体主義が、そっくり、ひきつがれて、現在の永田町・霞ヶ関体制になったことに、多くのひとは、気がついていない。
頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの大アジア主義は、孫文らとむすんで、アジア解放という大戦略を立てた。だが、政府の協力がえられず、結局、これも、途中で挫折を余儀なくされた。
残ったのが、国粋主義で、これが、現在の右翼へ、細い糸で、つながっている。
国粋主義にたいして、マスコミは、「狂信的」という形容詞をつけたがるが、国の歴史や文化、習俗、伝統を保守しようとする考えは、本来、自然にして、常識的なもので、どこの国も、国家の中心に"国粋"というスピリットをすえている。
孝明天皇は、国粋主義者であらせられ、尊皇攘夷も、もとをただせば、国粋主義である。
幕末から明治維新にかけての闘争は、佐幕と勤皇、開国と攘夷、公武合体と倒幕、文明開化と士族の反抗と、すべて、国粋主義をめぐって生じたといってよいが、結局、勝ったのは、開明派だった。
西洋文明の移植という方法で、近代化をめざした明治政府にとって、国粋主義は、国策を妨害する邪魔者で、是が非でも、取り除かなければならない目の上のコブだった。
だが、国粋主義がめざすところは、「歴史の連続性」にあり、この国粋主義が排除されると、歴史が断絶して、やがて、国家は、求心力を失って、ばらばらになる。
日本は、戦後、アメリカ民主主義とソ連のマルクス主義をうけいれて、事実上の文化的植民地となった。明治維新につづき、ふたたび、歴史の断絶をおこなったわけだが、その結果、日本は、国家中枢を官僚と反日勢力が握る、外国のような国になってしまった。
皇室典範を改悪しようという有識者会議の議長が、伝統や歴史などカンケーないと言い放って、どこからも批判が出ないような国が、はたして、本来の日本のすがたといえるであろうか。
さて。歴史上、「歴史の連続性」という思想に殉じた大人物が、二人、いる。
楠木正成と西郷隆盛である。
この二人には、いくつか、共通点がある。
一つは、二人が旗印に掲げた銘に、いずれも「天」の文字があることである。
「敬天愛人(あいしん)」(西郷隆盛)
「非理法権天」(楠木正成)
儒教における天も、高天原の天も、一過性の地上の価値や出来事をこえている。
天は、永遠という「歴史の連続性」を暗示しているのである。
そういう観点に立つと、二人の行動の謎が、徐々にとけてくる。
二つ目の共通点は、敢えて、決戦と敗死をえらんだことである。
歴史という長いスパンで見ると、妥協して、いっとき、生きながらえるより、大義(歴史の連続性・国体護持)ために散るほうが、はるかに大きな価値がある。
たとえ、国が方向を誤っても、それを正そうとしたじぶんが、どのような思想に立って、戦場で散ったか。それが、後世につたわれば、日本は、ふたたび、天道へもどれる、という希望と確信が二人を死地へむかわせたのではないか、というふうに、わたしは、考えている。
正成は、後醍醐天皇へ、足利尊氏との和睦を進言している。天皇が尊氏を許して、尊氏を征夷大将軍に任じれば、天皇親政・律令体制の復古はならなくとも、歴史の連続性は、まもられる。
だが、正成の真意を理解できない後醍醐天皇のとりまきの公卿らは、正成を嘲っただけだった。
そのあと、正成は、わずか7百騎を率いて、湊川で、数十万の尊氏大軍勢とたたかって散るが、このとき、「七生報国」ということばを残している。
七回生まれかわる七生は、個人や地上の出来事をこえた、歴史のことにほかならない。
そして、国というのは、政権を手にした幕府=権力ではなく、天皇=国体である。
正成の天皇に対する忠は、個人崇拝ではなく、国体護持という歴史の連続性へのつよい意思のあらわれで、それが、国粋主義の本質といってよい。
西郷隆盛も、西南戦争のさなか、山県有朋の自刃勧告にたいして、堂々たる決起の大義を書き送り、味方には――
「一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候也」
と檄をとばした。
安堵というのは、歴史が、われわれの正しさを証明するであろうから、安心しろという意味である。
江戸城の無血開城、朝鮮の平和外交(武力による征韓論は板垣退助の意見で、西郷は、みずから使者に立つという外交路線を主張した)など、徹頭徹尾、流血を避けてきた西郷が、西南の役で、徹底抗戦をえらんだ理由が、これである。
政府が、日本の西洋化というまちがったみちをえらび、その誤りに気づかぬまま滅びるより、われわれが、ここで政府軍とたたかって、歴史に敢闘の足跡を残せば、いつか日本は、その過ちに気づくであろうというのである。
西郷の心根をもっともよく知る勝海舟は「西郷さんは、じぶんの思想を歴史にゆだねた」と評したが、江藤淳も、『南洲残影』にこう書いている。
明治維新の目的は、無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。
ところが天子をいただく明治政府は、何をなしたか。
みずからすすんで、西洋を真似て、無道の国への道を歩みはじめているではないか。
国家をまもらんとした西郷が、なぜ、国家を代表する政府に叛旗を翻したか。
国家とは――その時代に存在している政府や国民だけのものではないからである。
過去、現在、未来と連綿とつづく垂直的なるもの(歴史の連続性)、それこそが、西郷のまもらんとした国家であった。
明治政府は、垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。
歴史を切断する勢力とは、断固として、たたかわねばならない。
これが、西郷の思いではなかったろうか。(大意)
日本の右翼が、政治闘争を志向せず、政権をめざさないのは、もとめ、まもるべきものが、国体=歴史の連続性にあるからで、そこが、政権をめぐって、権力闘争へ走るヨーロッパの右翼と異なる。
わたしは、右翼と称する人々が、政治問題を語るのをにがにがしく思っている。右翼が目をむけるべきは、歴史の連続性であって、政治という一過性の問題は、政治家と選挙民に、まかせておき、政治家が、国を売るような誤りを犯したら、そのときは黙って、その過ちを贖わせればよいのである。
次回は、右翼の在り方について、思うところをのべよう。
2008年04月16日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(17)
●権威と権力を合体させた維新政府の過ちとその呪縛(続)
革命やクーデター、倒幕(反政府)闘争がめざすのは、すべて、権力の奪取である。
したがって、そこに大義がなければ、叛乱とみなされる。
大義というのは国体のことで、国体護持の意思がはたらいていなければ、どんな理由があろうと、政治闘争は、私利や権力欲にとりつかれた亡者の私闘、叛乱にすぎないものとなる。
そこに、歴史上の覇者が、朝廷に、錦の御旗や詔勅、官位をもとめた根拠がある。
いくさや政治権力の行使は、私利や権力欲のためではなく、国体のためである――。
したがって、詔勅や官位を戴きたいと。
歴代の覇者は、国体の護持を天皇に誓って、いくさをおこない、幕府をひらいたのである。
国体は、歴史や文化、国の繁栄や民の幸までを包含している。
天皇は、その国体の象徴である
だから、権威なのであって、私闘や権力欲と皮一枚で接する権力とは、無縁である。
一神教のもとにあるのは、権力だけである。ローマ法王庁も、権力を絶対化する役割を担っただけで、権威たりえなかった。歴史や文化、民の幸までをふくむ国体という観念がなければ、権威はどこからもうまれず、権威の裏づけをもたない権力は、暴力装置でみずからを絶対化するしかない。
したがって、ヨーロッパ(ユーラシア)では、権力闘争がはてしなくつづく。
現在の戦争なき状態――バランス・オブ・パワーは、一神教世界の平和なのである。
国体というのは、この世は神の国(高天原)の延長という、神道の世界観である。
キリスト教やマホメット教では、真実が神の国にある。仏教は来世、儒教は天に真実がある。いずれも、この世を仮の世界とみるニヒリズム(虚無主義)であって、現世に神をみいだす国体という観念は、一神教からは、けっして、でてこない。
日本人が、古代から、国体意識をもちえたのは、神道の国だったからで、日本の文化や習俗、心のありかたまで、すべて神道的価値観に根ざしている。
西洋文明と日本文化は、根本がちがうので、すりあわせることができない。
西洋の学問をした者は「日本人は権利意識が乏しい」という。だが、ヨーロッパでたたかいとらなければならなかった生きる権利は、日本では、和の心や相身互いの精神で手にはいった。
権利意識など必要がなく、そんなことをいいだせば、かえって、和の心がそこなわれることになる。
明治維新は革命だった――というのは、その変革が、神道文化へのキリスト教文明の接ぎ木だったからである。
じじつ、明治維新は、日本史では例がない、ヨーロッパ型の権力闘争だった。
神道的価値観から一神教的価値観への大転換をもたらしたのが、権威と権力の一体化である。
孝明天皇は、討幕派に転向した岩倉具視に毒殺されたという説が根強い。
最近、発見された主治医(伊良子光順)の日記にも「急性薬物中毒」と記されている。
一介の公卿にすぎなかった岩倉具視が、孝明天皇が崩御された翌年、若き明治天皇を立てて王政復古(大政奉還)を実現させ、一躍、維新政府の中枢にのしあがってゆくことができたのは、天皇(権威)を政府(権力)のトップにつけるという、大革命をやってのけたからである。
そこで、日本の伝統的な政治システム=権威と権力の二元体制は、終わりを告げた。
大久保利通や岩倉具視ら、明治政府の首脳がめざしたのは、明らかに、ヨーロッパ型の政体で、このとき、国体も、事実上、崩壊した。
明治政府は、日本文化の廃棄と西洋文明の導入を宣言して、文明開化を国是とした。
森有礼文部大臣は、国語を英語に代えるように主張し、葛飾北斎ら日本の美術品はタダ同然で海外に売り払われた。武士は野蛮で、鹿鳴館文化というヨーロッパの猿真似が上流ということになり、このとき、皇室の正装や正餐も、洋式となった。
当時、日本で、近代化が可能だったのは、文明開化の号令があったからではなく、日本の国体が磐石で、とりわけ、江戸時代の知的水準が、西洋文明を理解して、再生産できるほどに高度だったせいである。
遣唐使の廃止によって、国風文化が栄えたように、日本には、他国の文化や文明を吸収して、さらに発展させる潜在能力をもっている。
科学の利器である文明は、文化革命をおこさずとも、知的水準が高ければ、うけいれることができる。
知的水準が高い文化の受け皿も、また、国体である。明治政府が、政体や文化、文明をヨーロッパ化する方法をとっていなければ、近代日本で、江戸の文化と西洋の文明が調和した第二の国風文化がうまれていただろう。
ところが、明治政府は、それに気づかず、鹿鳴館文化や武士の廃絶というヨーロッパの模倣に走ったばかりではなく、このとき、皇室の王室化という、国体の変更をおこなった。
そして、使節団を率いて、欧米を視察した岩倉具視や大久保利通は、文化や国体の担い手だった武士の廃絶に反対した西郷隆盛を西南の役で討ち、日本文化の否定、日本のヨーロッパ化を国是に、世界へのりだしてゆく。
明治維新後、富国強兵をスローガンした国造りは、一応の成功を収め、日本は、世界の烈強と肩を並べるまでになった。だが、これは、西欧化が成功したのではなく、前述したとおり、江戸の文化レベルや髷を切って軍人や官僚となった武士の精神性が高かったからである。
日清・日露戦争に勝利できたのも、たたかったのが、戊辰戦争を体験した幕末の武士だったからで、当時は、まだ、江戸時代の遺風が十分に残っていた。
その後、第一次大戦における勝利やシベリア派兵などをとおして、日本は、国際社会で大国に列されるまでになった。
だが、当時の日本は、維新政府の犯した大きな間違いに、まだ気づいていない。
権威としての「現人神」と統治者としての「大元帥」の合体というヨーロッパの王制的権力が、どんなに危険性をひめているかついて、何も――。
大正デモクラシーをへて、昭和にはいると、国体を変更したツケが、徐々に、まわってくる。
権力が暴走するのである。朝廷のもとで自粛していた歴代幕府とはちがい、畏れるべき天皇をわがものにした政府、とりわけ、軍部は、自己制御の能力を失って、怪物的権力を増殖させてゆく。
そして、日本は、戦争のための戦争という、西洋型の戦争へふみこんでゆく。
大東亜戦争は、ヨーロッパ型の帝国主義にのったもので、日本は、蒋介石の中華民国やアメリカとたたかう必要など、みじんもなかった。
政府(権力)が、天皇(権威)から政治をあずかるという二元的な政治システムが機能していたら、冷静な判断がはたらいて、戦線は、満州国の建設と南方の資源を握っているヨーロッパ列強との対決にとどまり、支那やアメリカとの開戦には、ブレーキがかかったはずである。
支那戦線の拡大や真珠湾攻撃には、常識で考えて、何一つ、合理的根拠がなかった。
だが、天皇が、大元帥として、権力の側におかれていたため、政府と軍部が天皇をとりあうという事態が生じ、結局、天皇をとりこんだ軍部がファッショ体制を敷いて、日本は不合理きわまりない、対支・対米戦争へつきすすんでゆく。
幕末の争乱期、討幕派の志士らは、天皇を"玉(ぎょく)"とよび、「玉をとったほうが勝ち」と公言してはばからなかった。
先の大戦でも、同じ論理のもとで、軍部が天皇をとりこんだ。
天皇に主権(政治権力)があると定めた統帥権をタテに、天皇を大元帥に戴いた軍部が政党や議会をおさえ、その一方で、現人神として奉った天皇の威を借りて、国家総動員法を敷き、陸・海軍の兵士を不合理なたたかいに駆りたて、無計画に戦線を拡大させるのである。
天皇が、権力にとりこまれたため、政治を監視する権威が不在となって、国家が危殆に瀕した。
それが、前回、冒頭でのべた、天皇の戦犯問題と国体(皇室)の危機の真相である。
一五〇年前、明治政府が犯した過ちは、払拭されたのであろうか。
否である。それどころか、日本は、その禍根をいまもなおひきずっている。
それが、保守精神の欠如である。
じぶんの頭で、国益や国是、国の誇りについて、自主的にモノを考えられない政治家や官僚が、アメリカや中国という"玉"をとりあい、いわば、大国の虎の威を借りて、親米や反米、親中などの旗をふりまわしている。
かつて、天皇の権威を借りて、国内で権力を奪い合った陸軍統制派・海軍英米派とすこしもかわらない。
保守は、国体の基盤に立つ、ということである。
政治家は、国益と国是のためにはたらき、国民やマスコミは、愛国心や公徳心を大事にする。それが、しぜんなすがたで、何ものからも支配されていないことが、保守精神なのである。
保守精神は、民族や国家の歴史、文化の総体たる国体に拠って立つ。
じぶんのうまれた国土、同胞、歴史、文化に心をおくことによって、はじめて、独立心や誇り、自信がうまれる。国体は、そういう情緒をとおしてあらわれるもので、国体を捨てて、じぶんの国に罵詈を浴びせ、アメリカに平伏し、中国に媚びるのは、日本を西洋より劣った国と見て、自国の歴史や伝統、文化の破棄を主張した岩倉欧米使節団のようなもので、始末に負えない。
国家は、権力という現実主義に、国体は、保守という情にささえられている。
自国の国体を愛することが第一で、そうすると、変革することより、変革しないことのほうに、現在より過去のほうに、より高い価値があることが、わかってくる。
それが、保守主義である。
国体の西欧化に反対して、西南戦争をたたかった西郷隆盛は、保守主義をつらぬいて殉死した。
現在の保守主義の欠如は、万世一系の天皇を政治的に利用している憲法をもち、天皇を権威として立てられない政治的風土と、西欧化(アメリカ化・グローバリゼーション)のなかにあって、国体意識を血肉化できない社会的風潮によって生じた、とわたしは、思っている。
革命やクーデター、倒幕(反政府)闘争がめざすのは、すべて、権力の奪取である。
したがって、そこに大義がなければ、叛乱とみなされる。
大義というのは国体のことで、国体護持の意思がはたらいていなければ、どんな理由があろうと、政治闘争は、私利や権力欲にとりつかれた亡者の私闘、叛乱にすぎないものとなる。
そこに、歴史上の覇者が、朝廷に、錦の御旗や詔勅、官位をもとめた根拠がある。
いくさや政治権力の行使は、私利や権力欲のためではなく、国体のためである――。
したがって、詔勅や官位を戴きたいと。
歴代の覇者は、国体の護持を天皇に誓って、いくさをおこない、幕府をひらいたのである。
国体は、歴史や文化、国の繁栄や民の幸までを包含している。
天皇は、その国体の象徴である
だから、権威なのであって、私闘や権力欲と皮一枚で接する権力とは、無縁である。
一神教のもとにあるのは、権力だけである。ローマ法王庁も、権力を絶対化する役割を担っただけで、権威たりえなかった。歴史や文化、民の幸までをふくむ国体という観念がなければ、権威はどこからもうまれず、権威の裏づけをもたない権力は、暴力装置でみずからを絶対化するしかない。
したがって、ヨーロッパ(ユーラシア)では、権力闘争がはてしなくつづく。
現在の戦争なき状態――バランス・オブ・パワーは、一神教世界の平和なのである。
国体というのは、この世は神の国(高天原)の延長という、神道の世界観である。
キリスト教やマホメット教では、真実が神の国にある。仏教は来世、儒教は天に真実がある。いずれも、この世を仮の世界とみるニヒリズム(虚無主義)であって、現世に神をみいだす国体という観念は、一神教からは、けっして、でてこない。
日本人が、古代から、国体意識をもちえたのは、神道の国だったからで、日本の文化や習俗、心のありかたまで、すべて神道的価値観に根ざしている。
西洋文明と日本文化は、根本がちがうので、すりあわせることができない。
西洋の学問をした者は「日本人は権利意識が乏しい」という。だが、ヨーロッパでたたかいとらなければならなかった生きる権利は、日本では、和の心や相身互いの精神で手にはいった。
権利意識など必要がなく、そんなことをいいだせば、かえって、和の心がそこなわれることになる。
明治維新は革命だった――というのは、その変革が、神道文化へのキリスト教文明の接ぎ木だったからである。
じじつ、明治維新は、日本史では例がない、ヨーロッパ型の権力闘争だった。
神道的価値観から一神教的価値観への大転換をもたらしたのが、権威と権力の一体化である。
孝明天皇は、討幕派に転向した岩倉具視に毒殺されたという説が根強い。
最近、発見された主治医(伊良子光順)の日記にも「急性薬物中毒」と記されている。
一介の公卿にすぎなかった岩倉具視が、孝明天皇が崩御された翌年、若き明治天皇を立てて王政復古(大政奉還)を実現させ、一躍、維新政府の中枢にのしあがってゆくことができたのは、天皇(権威)を政府(権力)のトップにつけるという、大革命をやってのけたからである。
そこで、日本の伝統的な政治システム=権威と権力の二元体制は、終わりを告げた。
大久保利通や岩倉具視ら、明治政府の首脳がめざしたのは、明らかに、ヨーロッパ型の政体で、このとき、国体も、事実上、崩壊した。
明治政府は、日本文化の廃棄と西洋文明の導入を宣言して、文明開化を国是とした。
森有礼文部大臣は、国語を英語に代えるように主張し、葛飾北斎ら日本の美術品はタダ同然で海外に売り払われた。武士は野蛮で、鹿鳴館文化というヨーロッパの猿真似が上流ということになり、このとき、皇室の正装や正餐も、洋式となった。
当時、日本で、近代化が可能だったのは、文明開化の号令があったからではなく、日本の国体が磐石で、とりわけ、江戸時代の知的水準が、西洋文明を理解して、再生産できるほどに高度だったせいである。
遣唐使の廃止によって、国風文化が栄えたように、日本には、他国の文化や文明を吸収して、さらに発展させる潜在能力をもっている。
科学の利器である文明は、文化革命をおこさずとも、知的水準が高ければ、うけいれることができる。
知的水準が高い文化の受け皿も、また、国体である。明治政府が、政体や文化、文明をヨーロッパ化する方法をとっていなければ、近代日本で、江戸の文化と西洋の文明が調和した第二の国風文化がうまれていただろう。
ところが、明治政府は、それに気づかず、鹿鳴館文化や武士の廃絶というヨーロッパの模倣に走ったばかりではなく、このとき、皇室の王室化という、国体の変更をおこなった。
そして、使節団を率いて、欧米を視察した岩倉具視や大久保利通は、文化や国体の担い手だった武士の廃絶に反対した西郷隆盛を西南の役で討ち、日本文化の否定、日本のヨーロッパ化を国是に、世界へのりだしてゆく。
明治維新後、富国強兵をスローガンした国造りは、一応の成功を収め、日本は、世界の烈強と肩を並べるまでになった。だが、これは、西欧化が成功したのではなく、前述したとおり、江戸の文化レベルや髷を切って軍人や官僚となった武士の精神性が高かったからである。
日清・日露戦争に勝利できたのも、たたかったのが、戊辰戦争を体験した幕末の武士だったからで、当時は、まだ、江戸時代の遺風が十分に残っていた。
その後、第一次大戦における勝利やシベリア派兵などをとおして、日本は、国際社会で大国に列されるまでになった。
だが、当時の日本は、維新政府の犯した大きな間違いに、まだ気づいていない。
権威としての「現人神」と統治者としての「大元帥」の合体というヨーロッパの王制的権力が、どんなに危険性をひめているかついて、何も――。
大正デモクラシーをへて、昭和にはいると、国体を変更したツケが、徐々に、まわってくる。
権力が暴走するのである。朝廷のもとで自粛していた歴代幕府とはちがい、畏れるべき天皇をわがものにした政府、とりわけ、軍部は、自己制御の能力を失って、怪物的権力を増殖させてゆく。
そして、日本は、戦争のための戦争という、西洋型の戦争へふみこんでゆく。
大東亜戦争は、ヨーロッパ型の帝国主義にのったもので、日本は、蒋介石の中華民国やアメリカとたたかう必要など、みじんもなかった。
政府(権力)が、天皇(権威)から政治をあずかるという二元的な政治システムが機能していたら、冷静な判断がはたらいて、戦線は、満州国の建設と南方の資源を握っているヨーロッパ列強との対決にとどまり、支那やアメリカとの開戦には、ブレーキがかかったはずである。
支那戦線の拡大や真珠湾攻撃には、常識で考えて、何一つ、合理的根拠がなかった。
だが、天皇が、大元帥として、権力の側におかれていたため、政府と軍部が天皇をとりあうという事態が生じ、結局、天皇をとりこんだ軍部がファッショ体制を敷いて、日本は不合理きわまりない、対支・対米戦争へつきすすんでゆく。
幕末の争乱期、討幕派の志士らは、天皇を"玉(ぎょく)"とよび、「玉をとったほうが勝ち」と公言してはばからなかった。
先の大戦でも、同じ論理のもとで、軍部が天皇をとりこんだ。
天皇に主権(政治権力)があると定めた統帥権をタテに、天皇を大元帥に戴いた軍部が政党や議会をおさえ、その一方で、現人神として奉った天皇の威を借りて、国家総動員法を敷き、陸・海軍の兵士を不合理なたたかいに駆りたて、無計画に戦線を拡大させるのである。
天皇が、権力にとりこまれたため、政治を監視する権威が不在となって、国家が危殆に瀕した。
それが、前回、冒頭でのべた、天皇の戦犯問題と国体(皇室)の危機の真相である。
一五〇年前、明治政府が犯した過ちは、払拭されたのであろうか。
否である。それどころか、日本は、その禍根をいまもなおひきずっている。
それが、保守精神の欠如である。
じぶんの頭で、国益や国是、国の誇りについて、自主的にモノを考えられない政治家や官僚が、アメリカや中国という"玉"をとりあい、いわば、大国の虎の威を借りて、親米や反米、親中などの旗をふりまわしている。
かつて、天皇の権威を借りて、国内で権力を奪い合った陸軍統制派・海軍英米派とすこしもかわらない。
保守は、国体の基盤に立つ、ということである。
政治家は、国益と国是のためにはたらき、国民やマスコミは、愛国心や公徳心を大事にする。それが、しぜんなすがたで、何ものからも支配されていないことが、保守精神なのである。
保守精神は、民族や国家の歴史、文化の総体たる国体に拠って立つ。
じぶんのうまれた国土、同胞、歴史、文化に心をおくことによって、はじめて、独立心や誇り、自信がうまれる。国体は、そういう情緒をとおしてあらわれるもので、国体を捨てて、じぶんの国に罵詈を浴びせ、アメリカに平伏し、中国に媚びるのは、日本を西洋より劣った国と見て、自国の歴史や伝統、文化の破棄を主張した岩倉欧米使節団のようなもので、始末に負えない。
国家は、権力という現実主義に、国体は、保守という情にささえられている。
自国の国体を愛することが第一で、そうすると、変革することより、変革しないことのほうに、現在より過去のほうに、より高い価値があることが、わかってくる。
それが、保守主義である。
国体の西欧化に反対して、西南戦争をたたかった西郷隆盛は、保守主義をつらぬいて殉死した。
現在の保守主義の欠如は、万世一系の天皇を政治的に利用している憲法をもち、天皇を権威として立てられない政治的風土と、西欧化(アメリカ化・グローバリゼーション)のなかにあって、国体意識を血肉化できない社会的風潮によって生じた、とわたしは、思っている。
2008年04月15日
保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(16)
●権威と権力を合体させた維新政府の過ちとその呪縛
1945年の敗戦によって、日本は、神武紀元以来、連綿とつづいてきた国体(皇室)の存続が危殆に瀕するという、未曾有の国難に直面した。
天皇の戦犯問題である。
天皇が、東京裁判で裁かれ、あるいは、イタリアのサボイア王家と同様、皇室の解体がおこなわれていたら、国体が崩壊して、日本は、分裂国家か、大国の属国になっていたと思われる。
日本がポツダム宣言の受諾を渋ったのも、国体の護持という確証がえられなかったからで、それが、広島・長崎への原爆投下という惨禍につながった。
そういう事態に立ち至ったのは、明治政府が、権威と権力を一体化させ、天皇を戦争の当事者にしてしまったからである。
ロシア、英国、オーストラリアなどの戦勝国が、天皇の戦争責任をもとめたのも、天皇が、かつての、ヨーロッパの王室と同様、権力者と思ったからだった。
天皇の権威に象徴される国体、その国体の認承によって、権力に正統性があたえられる政体――これが、わが国の二元的な政治システムで、権威たる天皇は、権力である元首や大元帥と、一線が画された存在でなければならなかった。
ところが、明治政府は、権威である天皇を<元首・大元帥・現人神>として権力の側にとりこんで政治的に利用した。
そのつけが、一〇〇年後にまわってきたのである。
戦後、劇的なかたちであらわれた天皇体制の危機は、明治維新の段階で、すでに、仕込まれていたわけだが、先の戦争の失敗から現在の社会的欠陥まで、原因をさぐると、すべて、そこへゆきつく。
今回は、2回にわたって、そのテーマについてのべる。
さて。我が国にとって幸運だったのは、GHQ最高指令官・マッカーサーが占領政策に天皇を利用すべく、アメリカ議会や他の戦勝諸国の反対を押し切って、戦犯から除外したことである。
マッカーサーの判断によって、天皇の戦犯問題と皇室解体の危機は、かろうじて、回避されたが、国体の護持が、薄氷をふむような危うさに瀕したことは、日本史上、最大の汚点といってよい。
もともと、日本の天皇制度は、権威と権力を分離することによって、権力の増長を防ぐ歴史の知恵で、だからこそ、日本の国体は、二千年以上にわたって、まもられてきたのである。
薩長閥による明治政府が、この伝統的な体制をこわしたのは、かれらの近代化が、欧化主義だったからで、下級武士にもおよばない低い身分だったかれらに、日本の伝統を重んじる気風は、そなわっていなかった。
明治維新は、きわめて、複雑な構造をしている。
慶応三年(1867年)、十五代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に奉還し、その翌年、官軍が江戸に迫ったところで、勝海舟・西郷隆盛の会談をとおして、江戸城の無血開城までおこなっている。
ここまで平和裏にすすむのは異例としても、これは、日本史にいくたびかあらわれた政権交代劇の一つといってよい。
ところが、官軍は、徳川家と親藩の徹底殲滅をはかって、内戦をひきおこす。
戊辰戦争である。
徳川慶喜は、すでに、恭順の意をしめしており、親藩にも反抗の意図はなかった。あとは、公武合体にしろ公儀政体にしろ、新しい政府をつくるために、英傑が力をあわせればよかったわけだが、薩長がそうしなかったのは、公武合体論の孝明天皇が急死して、「薩長政府」樹立の機運がうまれたからである。
このとき、薩摩や長州は、権力の正統性を顕す錦の御旗をもとめた。
戊辰戦争は、錦の御旗をわがものにしようとする薩長の権力欲によってひきこされたといってよい。
幕末の乱世にあっても、徳川幕府は、天皇から征夷大将軍の官位を戴き、三百年の長きにわたって日本を統治してきた。為政者としての正統性もあり、薩長軍と対抗する戦闘能力も十二分にもっていた。
一方、薩摩や長州が王制復古や天皇親政をうったえても、錦の御旗がなければ、倒幕に大義名分が立たない。当時、薩長軍が、天皇の勅書と錦の御旗を必要としたのは、かれらがめざした倒幕が権力闘争で、事実上のクーデターだったからである。
錦の御旗がなければ、倒幕運動は、ただの叛乱である。事実、薩長の倒幕運動には、関が原で徳川に敗れた両藩の意趣返しという動機が隠れていた可能性がある。
錦の御旗や天皇の詔勅によって、権力に正統性が付与されるというやりかたは、日本の伝統的な政治システムで、足利尊氏が、後醍醐天皇親政に対抗すべく、北朝一代目となる光巌天皇を立てて、室町幕府をひらいたのも、同じ原理である。
明治維新において、薩長(東征)軍が幕府軍を圧倒できたのは、かれらが、錦の御旗を手にしたからだった。一方、朝敵となった幕府軍は、賊軍の汚名を着せられて、ことごとく、敗れ去った。
錦の御旗のもとで、権力を手にした政治権力は、こんどは、権威である天皇の意思にかなう政体を組織して、国家・国民のために、行政組織を合理的に運営しなければならない。
それが、権威と権力、国体と政体の二元論的関係である。
ところが、明治政府は、討幕に利用した天皇を――徳川三〇〇藩候の解体や廃藩置県、廃刀令などの政治改革に利用する。
民の平安や国の繁栄を神々に祈る最高神官として、権力構造と一線が画されていた天皇を現人神として神格化する一方、明治政府は、天皇を元首・大元帥という権力者に仕立て上げたのである。
権威である天皇が、権力へとりこまれると、権威が空白となって、騒乱がまきおこるのは、これまでの歴史がしめすとおりである。
後醍醐天皇の建武の新政を、わたしは、評価しない。
清廉な鎌倉幕府・北条執権を倒して何がおきたであろうか。
南北朝から、内紛がたえなかった足利幕府、足利義満・義正の悪政、応仁の乱から戦国時代をへて、徳川幕府が安定政権を打ち立てるまで、日本は、270年にわたって、暗黒の中世をさまよわねばならなかった。
権威と権力が別々に機能していれば、なかったはずの暗黒の270年だが、明治維新でも、建武の新政と同じことがおきた。
明治政府が天皇をとりこんだことによって、権威が空白となり、あっというまに、軍国主義ができあがってしまったのである。権力を監視する天皇が不在で、現人神が、権力に就けば、その権力が怪物化するのは、必然である。
マッカーサーは、占領統治に天皇を利用した。だが、それは、かならずしも、権威と権力の二元論から外れたものではなかった。天皇は、マッカーサーに「わたしはどうなってもよいが、国民を飢えから救ってもらいたい」といわれ、マッカーサーは、曲がりなりにも、その意にそおうとした。
権威である天皇の祈念が、マッカーサーという権力につうじたのである。
天皇の戦争責任が不問になったのは、本来、天皇は、民の幸を「神に祈る神」(本居宣長)であって、もともと、権力から、切り離された存在だったからである。
新憲法では象徴(権威)となったが、新憲法で規定された天皇の象徴性は、国民の統合であって、国体と明記されていない。
わたしが、憲法を改正して、天皇の条項、および、皇室典範を憲法から外すべきと思うのは、国体が、法や政体の下位におかれると、文化や歴史、国民の幸が、政治権力の下にきてしまい、危険きわまりないからである。
古来にはじまり、武家政治の中世から江戸末期まで、天皇の権威は、国体の象徴としてであって、国体の根拠は、政治力や軍事力ではなく、歴史や文化、なによりも、民の幸せと国家の繁栄におかれている。
国体には、国家の安泰と民の幸という神々の祈りが、すでに、封じ込まれているのである。
お天道様のもとで、人々が、八百万の神々とともに、生産や繁殖に励むことをめざしているのが、神道のもとにある日本の国体で、そのため、天皇は、皇居内で年間三十回にもおよぶ祭}、多くの国事行為をおこなっている。
権力が、国体をまもるということは、国家・国民をまもることで、その規範から外れることがないよう、権力を監視するのが、権威=天皇である。
天皇が国体の象徴、というのは、そういう意味合いからである。
次回は、権力構造という視点から、もういちど、明治維新を見直してみよう。
1945年の敗戦によって、日本は、神武紀元以来、連綿とつづいてきた国体(皇室)の存続が危殆に瀕するという、未曾有の国難に直面した。
天皇の戦犯問題である。
天皇が、東京裁判で裁かれ、あるいは、イタリアのサボイア王家と同様、皇室の解体がおこなわれていたら、国体が崩壊して、日本は、分裂国家か、大国の属国になっていたと思われる。
日本がポツダム宣言の受諾を渋ったのも、国体の護持という確証がえられなかったからで、それが、広島・長崎への原爆投下という惨禍につながった。
そういう事態に立ち至ったのは、明治政府が、権威と権力を一体化させ、天皇を戦争の当事者にしてしまったからである。
ロシア、英国、オーストラリアなどの戦勝国が、天皇の戦争責任をもとめたのも、天皇が、かつての、ヨーロッパの王室と同様、権力者と思ったからだった。
天皇の権威に象徴される国体、その国体の認承によって、権力に正統性があたえられる政体――これが、わが国の二元的な政治システムで、権威たる天皇は、権力である元首や大元帥と、一線が画された存在でなければならなかった。
ところが、明治政府は、権威である天皇を<元首・大元帥・現人神>として権力の側にとりこんで政治的に利用した。
そのつけが、一〇〇年後にまわってきたのである。
戦後、劇的なかたちであらわれた天皇体制の危機は、明治維新の段階で、すでに、仕込まれていたわけだが、先の戦争の失敗から現在の社会的欠陥まで、原因をさぐると、すべて、そこへゆきつく。
今回は、2回にわたって、そのテーマについてのべる。
さて。我が国にとって幸運だったのは、GHQ最高指令官・マッカーサーが占領政策に天皇を利用すべく、アメリカ議会や他の戦勝諸国の反対を押し切って、戦犯から除外したことである。
マッカーサーの判断によって、天皇の戦犯問題と皇室解体の危機は、かろうじて、回避されたが、国体の護持が、薄氷をふむような危うさに瀕したことは、日本史上、最大の汚点といってよい。
もともと、日本の天皇制度は、権威と権力を分離することによって、権力の増長を防ぐ歴史の知恵で、だからこそ、日本の国体は、二千年以上にわたって、まもられてきたのである。
薩長閥による明治政府が、この伝統的な体制をこわしたのは、かれらの近代化が、欧化主義だったからで、下級武士にもおよばない低い身分だったかれらに、日本の伝統を重んじる気風は、そなわっていなかった。
明治維新は、きわめて、複雑な構造をしている。
慶応三年(1867年)、十五代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に奉還し、その翌年、官軍が江戸に迫ったところで、勝海舟・西郷隆盛の会談をとおして、江戸城の無血開城までおこなっている。
ここまで平和裏にすすむのは異例としても、これは、日本史にいくたびかあらわれた政権交代劇の一つといってよい。
ところが、官軍は、徳川家と親藩の徹底殲滅をはかって、内戦をひきおこす。
戊辰戦争である。
徳川慶喜は、すでに、恭順の意をしめしており、親藩にも反抗の意図はなかった。あとは、公武合体にしろ公儀政体にしろ、新しい政府をつくるために、英傑が力をあわせればよかったわけだが、薩長がそうしなかったのは、公武合体論の孝明天皇が急死して、「薩長政府」樹立の機運がうまれたからである。
このとき、薩摩や長州は、権力の正統性を顕す錦の御旗をもとめた。
戊辰戦争は、錦の御旗をわがものにしようとする薩長の権力欲によってひきこされたといってよい。
幕末の乱世にあっても、徳川幕府は、天皇から征夷大将軍の官位を戴き、三百年の長きにわたって日本を統治してきた。為政者としての正統性もあり、薩長軍と対抗する戦闘能力も十二分にもっていた。
一方、薩摩や長州が王制復古や天皇親政をうったえても、錦の御旗がなければ、倒幕に大義名分が立たない。当時、薩長軍が、天皇の勅書と錦の御旗を必要としたのは、かれらがめざした倒幕が権力闘争で、事実上のクーデターだったからである。
錦の御旗がなければ、倒幕運動は、ただの叛乱である。事実、薩長の倒幕運動には、関が原で徳川に敗れた両藩の意趣返しという動機が隠れていた可能性がある。
錦の御旗や天皇の詔勅によって、権力に正統性が付与されるというやりかたは、日本の伝統的な政治システムで、足利尊氏が、後醍醐天皇親政に対抗すべく、北朝一代目となる光巌天皇を立てて、室町幕府をひらいたのも、同じ原理である。
明治維新において、薩長(東征)軍が幕府軍を圧倒できたのは、かれらが、錦の御旗を手にしたからだった。一方、朝敵となった幕府軍は、賊軍の汚名を着せられて、ことごとく、敗れ去った。
錦の御旗のもとで、権力を手にした政治権力は、こんどは、権威である天皇の意思にかなう政体を組織して、国家・国民のために、行政組織を合理的に運営しなければならない。
それが、権威と権力、国体と政体の二元論的関係である。
ところが、明治政府は、討幕に利用した天皇を――徳川三〇〇藩候の解体や廃藩置県、廃刀令などの政治改革に利用する。
民の平安や国の繁栄を神々に祈る最高神官として、権力構造と一線が画されていた天皇を現人神として神格化する一方、明治政府は、天皇を元首・大元帥という権力者に仕立て上げたのである。
権威である天皇が、権力へとりこまれると、権威が空白となって、騒乱がまきおこるのは、これまでの歴史がしめすとおりである。
後醍醐天皇の建武の新政を、わたしは、評価しない。
清廉な鎌倉幕府・北条執権を倒して何がおきたであろうか。
南北朝から、内紛がたえなかった足利幕府、足利義満・義正の悪政、応仁の乱から戦国時代をへて、徳川幕府が安定政権を打ち立てるまで、日本は、270年にわたって、暗黒の中世をさまよわねばならなかった。
権威と権力が別々に機能していれば、なかったはずの暗黒の270年だが、明治維新でも、建武の新政と同じことがおきた。
明治政府が天皇をとりこんだことによって、権威が空白となり、あっというまに、軍国主義ができあがってしまったのである。権力を監視する天皇が不在で、現人神が、権力に就けば、その権力が怪物化するのは、必然である。
マッカーサーは、占領統治に天皇を利用した。だが、それは、かならずしも、権威と権力の二元論から外れたものではなかった。天皇は、マッカーサーに「わたしはどうなってもよいが、国民を飢えから救ってもらいたい」といわれ、マッカーサーは、曲がりなりにも、その意にそおうとした。
権威である天皇の祈念が、マッカーサーという権力につうじたのである。
天皇の戦争責任が不問になったのは、本来、天皇は、民の幸を「神に祈る神」(本居宣長)であって、もともと、権力から、切り離された存在だったからである。
新憲法では象徴(権威)となったが、新憲法で規定された天皇の象徴性は、国民の統合であって、国体と明記されていない。
わたしが、憲法を改正して、天皇の条項、および、皇室典範を憲法から外すべきと思うのは、国体が、法や政体の下位におかれると、文化や歴史、国民の幸が、政治権力の下にきてしまい、危険きわまりないからである。
古来にはじまり、武家政治の中世から江戸末期まで、天皇の権威は、国体の象徴としてであって、国体の根拠は、政治力や軍事力ではなく、歴史や文化、なによりも、民の幸せと国家の繁栄におかれている。
国体には、国家の安泰と民の幸という神々の祈りが、すでに、封じ込まれているのである。
お天道様のもとで、人々が、八百万の神々とともに、生産や繁殖に励むことをめざしているのが、神道のもとにある日本の国体で、そのため、天皇は、皇居内で年間三十回にもおよぶ祭}、多くの国事行為をおこなっている。
権力が、国体をまもるということは、国家・国民をまもることで、その規範から外れることがないよう、権力を監視するのが、権威=天皇である。
天皇が国体の象徴、というのは、そういう意味合いからである。
次回は、権力構造という視点から、もういちど、明治維新を見直してみよう。