(cache) 「読む」とはいかなる営為か 「百学連環」エッセンス版|読書人
哲学からサブカルまで。専門家による質の高い書評が読める!
~毎週金曜日更新~
  1. トップページ
  2. >
  3. 書評
  4. >
  5. 書評
  6. >
  7. 「読む」とはいかなる営為か 「百学連環」エッセンス版
書評
第3158号 2016年9月30日 新聞掲載

「読む」とはいかなる営為か 「百学連環」エッセンス版

「百学連環」を読む
山本 貴光(三省堂)
昨年、山本貴光さんと二度ほどトークイベントをご一緒した。ひとつは対談(東京堂書店/のち本紙掲載)、もうひとつは鼎談(ゲンロンカフェ/動画有り)だったのだけれど、例によって油断するとわしゃわしゃっと相手を急かしかねないしゃべり方をしてしまう僕とは対照的に、山本さんはひとつひとつ精確な単語を選択するリズムで観客に語りかけ、ときに小さな咳払いや逡巡の短い沈黙も挿入しつつ(それが要所に踏み入る前のブレスを聴く者に与える)、縷々開陳されるその博覧強記ぶりだったり、下準備の周到さだったり、訊き巧者ぶりだったり、誠実さだったり(声色の良さだったり)、とにかく彼のたたずまい全体に、会場にいあわせた多くの人間がすっかりやられてしまって、ぱたぱたと山本ファンへと生成変化を遂げていく数々の瞬間が両イベントともに壇上からはっきりとうかがい知れた。何より隣に座る僕が早々にファンと化していたのだった。本書にはそんな山本さんの「たたずまい」とその秘密がこれまでの著作以上の解像度で再現されている。どういうことだろうか。この点にフォーカスしてみよう。

「百学連環」は明治期の思想家・西周が「エンサイクロペディア(Encyclopedia)」に充てた訳語である。現在では「百科全書」「百科事典」などと訳されもするのは周知のとおり。しかし、それでは汲み尽くせず霧散してしまう原語に近いニュアンスが当初のこの造語にはしっかり畳み込まれていた。まさに、学術全域の連関的な配置のあり方(=マップ)やそのダイナミズムを表現する。詳細を知れるのは「百学連環」と題された文書によって。これは一八七〇年に私塾で行なわれた西周の講義を門下生(永見裕)が筆録したものであって、西自身の手になる文章ではないものの、当時の問題意識を現在に伝える貴重な資料だ。その本編の前に置かれた「総論」パートが今回の本の題材となる。「百学連環」エッセンス版といっていい。

一五〇年ほど前の、三〇頁に満たない文章、それをA5判四五〇頁たっぷり投入して読み解いていく(附録資料も七〇頁続く)のだから、「精読」と形容する以外にない――「あとがき」では「遅読」「復読」という表現が使われる。タイトルが示すとおり「百学連環」の解読に課題を限定している……かに見えてじつのところ、解読作業を進める山本さんの頭の働かせ方の軌跡を実況中継式に進行形で記録することによって、“「読む」とはいかなる営為か”を読者に体感的に理解してもらう点にも課題が設定されているのだろう、冒頭一文目から順に原文を数行ずつ引用した直後に、新たに作成した現代語訳を逐一照応させ、先に進む前に必ず立ち止まり、あたりをきょろきょろ見回しては思考を派生、関連する知識や文献や思考のフレームを状況証拠のように次々と差出すと、ときに単語単位で語源へと遡りつつ、周辺情報がさらなる補足情報を引き連れてきて、そのたびにどんどんと話が逸れていき、行論が分岐に分岐を重ねるものだから一体どこまで連れて行かれるのかと思えば、それが本筋にくるっと舞い戻ってきたり後続する章の重要な伏線となっていたりと、総体で円環が形成される。まさしく、「百学連環」に相応しい構造を一書が備える。

なかんずく読書や学習や調査に関するテクニカルなアドバイスや、考えるためのヒント(「疑問」を読書の動力とせよ)など、もう「百学連環」そのものではなく、解読中の山本さんに関するメタ批評が随所に埋め込まれていて、その集積が教養論を併走させもする。つまり、二重三重のミッションが入れ子状に着手されるマルチタスク型の記述になっているのだなんていってみてもいい。読者に「みなさん」「いかがですか」「××ですね」と語りかけ(イベントでも山本さんはそうだった)、「百学連環」の理路を読者と一緒に巡回していく、そのガイド的な記述のスタイルは、ずいぶん柔和な「です・ます」調の選択も手伝って、山本さんの講読授業でも覗いているかのようなライブ感を醸成する(一五章構成は大学の半期の講義を想起させる)。「「「講義録」の講義」録」なのだ、これは。

そうした再帰性の導入(「「解釈」の解釈」の解釈……)こそが学問の通時的な成立要件なのであってみれば、今回こうやって入手困難なテキスト「百学連環」を復刻し、しかも現代語にコンバートしたうえで、入念な解説を付す試みがなされたことは大変に意義深い。物理的な散逸や言語的な変成が解釈のリレーを阻害する要因となりうるからだ。明治期の小説はすでに「古典文学大系」に格納され、文学に限らずあらゆるジャンルの名著たちが現代語訳を要請する時代に僕たちは生きている。それを「教養の崩壊」と嘆いてみてもはじまらない。言語的ギャップが拡大し、取りかえしがつかなくなるその前に、せめてリレー可能なプラットフォームを粛々と整備しておく作業は転換期に生きる者たちの使命にほかならない。その使命の共有は僕たちを一五〇年前の西周たちへとつなぐ。

学術や知をとりまく制度的枠組が劇的な変動期を迎えており……とは再々論議される現場の主題ではあるけれど、これとてたかだか数十年単位で考えるから危機感がいやましにつのり続けるだけのことであって、本書が強調するとおり、来し方をより広いスケールで捉えるならば現在の学問領域の境界条件など変化の途上にあるかりそめのものにすぎないことはあきらかである(学問全体をトータルで捉えなおす態勢は、ジャンル不問で文体分析してみせた前著『文体の科学』にも通じる)。今般の大学改革問題に求められるのは、ありえたかもしれない別の線引きを過去に遡行しては何度でもシミュレートしてみせる構想力なのであって、既存の諸領域を自己目的的に横断する企画力などではもはやないはずだ。それは転倒でしかない。その意味でも、暗礁に乗りあげた「大学論」を次のフェーズに移行させるうえで不可欠の仕事を西周/山本貴光は実行している。

――などと書くまでもなく、大学関係者は山本さんに学部の教養講義(むろん文理問わず)を依頼して、そのたたずまいを学生たちに触れさせるといいんじゃないかな。
このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事の中でご紹介した本