先日劇場公開された『マグニフィセント・セブン』は、素晴らしく個性のある俳優たちによって素晴らしいセブンの面々+エマがとても素敵な映画で、わたしは映画館でこの映画を楽しんだのだけれども、少しモヤモヤしてしまう部分もあって、わたしはそれについて書きたいと思う。正直、わたしの中でこの映画に対する感想といえば「とてつもなく魅力的な俳優たちが演じた、セブン+エマのかっこよさ」くらいしか浮かばないので...楽しかったし好きなのだけど...という気持ちを勝手に書いて整理するための更新です。あらかじめ言っとくと、この映画を褒めている人たちをクサしたいわけでもなく、たしかに魅力的な映画だったし、だけれどもわたしの(たぶんものすごく偏屈な)ものの見方で(了見の狭さと偏屈の合わせ技で)解釈しますということです。
「魅力的な俳優たちがその魅力と力量によってものすごく映画とキャラクターを魅力的に仕上げている」とわたしは思う「マグニフィセント・セブン」だが、革新的な女性キャラクターとして絶賛の声が多いエマというキャラクターも、よく考えてみるとわたしには少し不可解な点がある。わたしにはエマというキャラクターが"TOKEN NEGRO"ならぬ"TOKEN FEMALEという役どころなのではないかと思えるのだ。
"TOKEN NEGRO"というのは、映画やドラマ内の人種の偏りを正すために全員白人のキャラクターの中にいる、ひとりだけ黒人のキャラクターのことである。そして"TOKEN FEMALE"とは、男性キャストばかりの映画やドラマのなかで、女性差別がないことを示すために、唯一登場する女性キャラクターのことである。
そう、たしかにエマの描写は革新的である。彼女は映画中で「タマがある」と評されるほど強く、銃を撃ち、セブンの面々と同じくらいに、ラストの戦闘では活躍する。しかも劇中でも「ズボンを履いた方がいいな」と言われているのに、スカートをはいたまま戦うのだ!かっこいい!スカートを履いていても、女性は強くなれる、戦えるのだ!これはたしかに西部劇に登場する女性表象としては、現代的なものと言えるだろう。
しかしどうだろう、たしかに彼女はスカートを履いたまま銃を撃ち、戦った。しかし彼女の強さは「(肉体的に男性しか所持しない)タマがある」という言葉で男性性に回収されるのではないか。もちろん"Got Balls"というのはイディオムで「度胸がある」という意味ではあるけれども、この語源として「男のみが有している度胸(=タマ)を持っているからという説もあるほどだ。
そして、このスカートを履き、女性なのに男性のようにセブンたちと戦ったエマという女性の表象が革新的である一方で、セブンたちが酒場で交わすジョークの数々は、とても男根主義的で、性差別的である。ジャック・ホーンのシャツを繕って持ってきた女性は「彼と寝たいからだ」とセブンたちに言われていたが、銃を手に戦う女は褒められるが、戦う者のシャツを繕う女性は性的なジョークの対象として、貶められても良いのだろうか?エマを褒めるわたしたちは、彼女の「強さ」をあまりにも一元的な、男性的な「強さ」だけを基準にしてはいないだろうか。彼女の強さがわたしたちに感動を与える一方で、誰かをサポートしようとした女性は、この映画では性的なジョークの対象とされるのである。(とはいえ終始何かに耐えるように涙を溜めた目で戦いに挑むエマというキャラクターはとても魅力的であったことに違いはないけれど)
このように、エマという強く戦うという現代的なテーマを持った女性の存在の一方で、性差別的なジョークが繰り返される様子は、映画の中のモラルコードの不均衡を感じさせる。そこにわたしは大いに混乱したのである。
そして、最後にチザムの命を救うほど活躍したエマは「セブン」の中には含まれない。いくら「タマがあって」「銃を持ち、セブンに劣らないほど戦い」「あの村を守った」エマでさえも、男性7人で構成されたセブンの頭数には入らない。彼女は、映画の多様性を深めるため、に取り入れられたトークンであり、昨今の「フェミニズムのエッセンスが入った映画のヒット」を意識したキャラクターだったのではないだろうか?わたしたち女性は、どんなに強く、スカートをはいて、戦っても、タマがあると評されても、活躍しても、男性中心的な映画の中では、トークンでしかなく、決して「マグニフィセント」には、なれないのである。
(ひとりごと)
元々の映画ありきのリメイクなのだから!と言われればたしかにエマがセブンには入らないことも、西部劇ならではの性差別的ジョークがあることも理解はできる。しかし、役者を変えて同じ設定、同じ価値観の再生産をするのなら、名作と言われる作品をわざわざリメイクする必要があったのだろうか?極端にいってしまえば、わたしはマグニフィセントと呼ばれる7人が、全員女性であるくらいのリメイク作品が見たい。そしてその女性たちは、彼女たちらしく、わたしたちに刷り込まれたステレオタイプ的な男性的強さにも、女性的弱さにも、囚われることはない女性たちであればいいと思うのだ。
(ひとりごと その2)
西部劇を題材にして、強い女性が描かれる映画といえばコーエン兄弟の『トゥルー・グリット』を外すことはできないだろう。父の仇を討つために、ひとり保安官を雇い、そして仇を討つ少女、マティは、それこそエマの前身とも言えるキャラクターではないか。マティもスカートをはき、銃を撃ち、強く復讐を遂げるのである。『マグニフィセント・セブン』には男根主義的な匂いがたしかに存在しますが、『トゥルー・グリット』もマティの復讐を通して、老保安官が自らの男性性を回復する話だとも、わたしには思えるのです。でも、それが女性蔑視というフィルターを通さずに伝わってくる!というわけでみなさん、『トゥルー・グリット』は最高ですよ!!!!
(ひとりごと その3)
セブンが酒場で交わす男根主義的で女性蔑視的な会話を、わたしたちはたくさんの映画で見過ぎてしまっている。だからわたしは、あの場面でセブンたちが「女性蔑視的な会話をしている」ことは指摘できても、代わりになにを話せばいいのか、全く思い浮かばない。討入前夜の士気を高める場面で、女性蔑視ではない会話と言うと、一体彼らはなにを話すのだろう?男性が寄り集まると女性蔑視発言、という映画はもう見飽きた。そろそろ士気を高めるために、結束を確認し、他愛のない話をするために、女をダシに使うことのない会話を、始めても良い頃合いではないだろうか?