源義経は平家を滅亡させ、鎌倉幕府を樹立させた大功労者です。しかし、兄・源頼朝の追討軍によって命を奪われます。
義経は、一ノ谷の崖を、わずか七十騎とともの駆け下り、平家の大軍を敗走させます。その後も次々に平家軍を打ち破り、壇ノ浦で平家を滅ぼしました。
最大の功労者ともいえる義経でしたが、勝手な振る舞いが多く、徐々に頼朝からの信頼を失っていきます。
とくに朝廷から義経が官位を受けたことが、頼朝の信頼を完璧に砕きました。兄の頼朝に断りもなしに、勝手に義経が官位を手にしたことは、鎌倉政権の基盤を崩しかねない行為だったからです。
義経は朝廷にまるめこまれ、鎌倉政権と対立するよう仕向けられたのかも。後に義経は鎌倉を訪れようとしましたが、鎌倉へ入ることが許されませんでした。
義経は、朝廷と組んで鎌倉政権と敵対するつもりはなく、ただ単に思慮が浅いだけだったのかもしれません。
土地を守るために東国の武士は戦った
そもそも関東の武士が源頼朝を旗頭にして、平家と戦ったのは、自分たちの土地を守るためでした。
当時、東国の豪族(有力地主)の立場は、複雑で不安定でした。豪族の所有する土地が寄進地系荘園だからです。
土地の実質上の所有者である豪族や有力農民は、国司からの過剰な年貢の取立てを防ぐため、力のある貴族に自分の土地を寄進しました。貴族からの保護を受けるためです。
そうなると、国司も年貢を要求したり、余計な口出しができなくなります。
しかし、やがて貴族や国司、近隣の豪族との争いが絶えないようになります。豪族や有力農民は、いつしか武装して自分の土地を守るようになったのです。
そんな状況の平安時代末期、平家追討の綸旨(りんじ)が朝廷から下されます。
これを関東の豪族や有力農民は、チャンスととらえたのです。伊豆に流罪されている源氏の嫡子・源頼朝を旗頭にして手柄をたてれば、自分の土地所有権が安定すると考えました。
平家を滅ぼし鎌倉政権ができると、功のあった豪族や有力農民の土地が同政権下で正式に認められました。
貴族や国司、近隣の豪族との争いも減少したのです。国司という行政官の力も弱まり、幕府が各地に置いた守護大名や地頭が台頭してきます。
朝廷は鎌倉幕府が邪魔だった
鎌倉幕府は朝廷や貴族からみたら邪魔な存在でもありました。寄進地系荘園が減少しため、貴族の収入が減ってしまったからです。
そこで朝廷は、義経を頼朝から離反させ、鎌倉政権を弱体化させようと考えたようです。しかし、義経は奥州の地で鎌倉武士団によって、命を奪われました。
これで頼朝は一安心しましたが、朝廷はその後も鎌倉幕府を打倒するため、策謀を重ねます。
しかし頼朝の亡き後、鎌倉幕府を潰そうとした後鳥羽上皇は、流罪されます。
そして朝廷は、幕府に対抗する力を失います。それを切っ掛けに、幕府の支配は東国だけでなく、西国まで広がりました。
ひとこと
いつの時代も利害に関する争いは、無くならないものですね(●´I`●)