Number43 - theorystudy

社会人五年生。日々の勉強ブログ。

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現代の神経症的人格3

2012-03-06 19:45:55 | カレン・ホーナイ

●第十章 権力と威信と所有物獲得への努力

p148
不安への防御を得るための手段として、情愛獲得の努力がしばしば用いられる。しかし、権力と威信と所有物獲得への努力も、同じ目的のために用いられる。・・・情愛の獲得は、他人との接触を強化することによって、安全を手に入れるが、権力・威信・所有物獲得への努力は、他人との接触を弱め、自己の立場を強化することで、安全を得ようとするものである。

P149 力への神経症的な努力は、不安と憎悪と劣等感から生まれる。定言的な言い方をすれば力への正常な努力は強さから生まれ、神経症的な努力は弱さから生まれる。

p150
これらの目標への努力を生み出す諸条件が何であるかを調べてゆくと、この努力が、普通、情愛の獲得によって不安から身を守ることが不可能だと分かった後に、始まることがわかる。

P152 権力への衝動は、第一に、前に述べた不安の基本要素のひとつである無力さへの保護として役立つ。・・・現実に弱くなればなるだけ、彼は少しでも弱さに似た行為を、ますます懸命に避けるようになる。
・・・第二に、権力への神経症的衝動は、自分がつまらぬ人間だと感じたり、そのように取り扱われる危険に対する防御として役立つ。

p153
彼は人間を「強者」と「弱者」にわけ、前者を賞賛し、後者を軽蔑する。・・・彼は、自分が、神経症を一人で治せないことについても、自分を軽蔑する。

p153
この衝動の、最も頻繁な表現形式を二、三記しておこう。
第一に、神経症的な人間は、自分および他人を規制したいという欲望をもつ。自分が率先してはじめたのではないことや、自分が承認しないことは、何ひとつ、起きてほしくない。規制へのこの欲求が少し弱い場合には、個人は、他人に対して意識的には完全な自由を与え、好きなことをさせるが、その代り、一切合切を報告してくれることを望み、何か一つでも知らせがないと、ひどくイライラする。

p154
神経症的な女性は、彼女がひかれた相手の男性が彼女に恋をすると、とたんに嫌悪を感じることがある。

p154-155
力を求める神経症的人間の持つ別の特色は、自分の思うとおりにことを運ばせたいとい言う欲望である。




P155-156 神経症的な女性は、あらゆる弱さを軽蔑するために、弱い男性を愛せない。しかし、同時に、相手が自分の意のままになることを常に期待するから、強い男性を愛することもできない。彼女たちがひそかに求めるのは、超人的に強い弾性でありながら、同時に喜んで彼女たちの言いなりになる弱い男性でもある存在なのである。

P159 権力への神経症的衝動の持つ主要な特色は、必ずしも、他人に対するあからさまな敵意という形をとることは限らない。社会的に価値のある形や、人情味のある形などに偽装されて、たとえば、他人に忠告を与える態度とか、他人の世話をしたがる傾向とか、率先してことにあたったり、指導する行為などとなって現れることも多い。

P161彼にできるのは、他人を指導するか、あるいは、全くなすすべを知らず依存的で無力に感じるかのどちらかである。・・・しかし、自己を無力だと感じることは、実は、支配を確実にし、自分が指導できないことについての怒りを表出するための回り道なのである。・・・自分の無力さを鞭に使って他人を自分に奉仕させ、果てしない注意と助力とを要請する。

P162 患者は二重の満足を味わう。まず、自分を全く無力な存在として提示することで、患者は分析医を働かせ、自分に奉仕させ、一種の勝利を収める。と同時に、この作戦は、分析医自信の内部に無力感を引き起こしやすい。患者は、神経症のゆえに建設的な支配ができないから、分析医自信に無力感を抱かせることで、破壊的な支配の機会をつかもうとするのである。

P164 屈辱感を味わう→他人に屈辱感を与えたい欲望を抱く→報復を恐れる。ゆえに屈辱に対して過敏となる→ますます他人に屈辱感を与えたくなる、といいう悪循環を経て、強化されている。・・・屈辱に対するこうした過敏さが生み出す制止は、他人が屈辱として受け取るかもしれないことを、一切避けたいという要求の形をとることがある。神経症的な人間は他人を批判したり、申し出を断ったり、使用人を解雇することが、全然できなくなって、思いやりが多すぎたり、丁寧すぎる人間に見られたりする。
 他人に屈辱を与えたいという欲求は、他人を賞賛する傾向の蔭に隠されることもある。屈辱と賞賛は全く逆の行動であるから、他人を賞賛することは、他人に屈辱を与えたいという欲求をつぶしたり隠したりする最良の方法となる。

P169 神経症的な女性は、好きでない男性に対しては率直で自然に行動できるが、自分を好きになってもらいたいと望む男性に対しては、恥ずかしがったり、硬くなったりする。相手の情愛を得ることが、彼女には何かを奪うことを意味するから、制止がはたらくのである。

P170 彼は自分の人生が本当に自分の人生なのだということがはっきりわかっておらず、人生をよくきるも悪く生きるも、彼次第であるのに、何が起きようと自分の関わり知らぬところだといわんばかりに、また、良いことも悪いことも彼に無関係に、外界から彼の人生に入り込んでくると思っているかのように、そして、自分は他人から一切の良いことを受け取り、悪いことがおきたら他人を非難する権利をもつと思っているかのように生活する。

P171 非難を武器に使って相手を脅かし、相手に罪悪感を抱かせて、その結果相手を利用するのに成功する。

p218
神経症の患者は、あたかも、分析医が裁判官で自分が犯罪人ででもあるかのごとく振る舞い、そのために、分析療法に協力することを非常に困難に感じる。分析医が、彼の心理状態の解釈をすると、それをすべて、自分に対する非難告発と受けとる。たとえば、分析医が彼の防衛的な態度のかげに、不安がひそんでいるのだと説明すると、「どうせ私は臆病者ですから」と答えたりする。彼が他人に近寄ろうとしないのは拒否されるのを恐れるからなのだと説明すると、自分だけがいい子になろうとしていて申し訳ないなどと答える。何事をも完全に行おうとする強迫的な衝動も、大半は、このような非難回避の要求から生まれるのである。・・・罪悪感は、劣等感と同じく、好ましいものではない。にもかかわらず、神経症的な人間は、これから逃れたいとは全然望んでいない。それどころか、自分に罪があるのだと主張し、そんなことはないと幾ら伝えても、受け付けない。

p220
また、神経症的な人間が、無意識においては、自分が値打ちのない人間だとは思い込んでいないという事実からも、彼らの自己非難が、必ずしも罪悪感の現われとは決まっていないのではないかと考えられる。罪悪感にとっぷり浸っているように見える場合でも、他人が彼らの自己非難を本気で受け取ろうとすると、ひどく怒ることさえある。
今、右に述べたことは、フロイトがメランコリアにおける自己非難を論じたときに指摘したことにつながる。すなわち、罪悪感は表明されているが、罪悪感に伴うべき卑下感が欠如しているという矛盾である。神経症的な人間は自分が値打ちのない存在だと主張しておきながら、同時に、他人からの思いやりや賞賛を強く要求し、また、どんな些細な非難も受け付けようとはしない。

p221
罪悪感と思われているものを注意深く検討し、その真正さを確かめてみると、罪悪感のように見えるものの多くが、実は、不安か、あるいは不安に対する防衛の表出に他ならないことが明らかになる。

p223
罪悪感は非難の恐れの原因なのではなくて、逆にその結果なのではないかと考えられる。・・・大げさな非難の恐れは、盲目的に全人類に適用されることもあれば、友人にだけ適用されることもある。もっとも、普通、神経症的な人間は、友人と敵とをはっきり区別できない。

p226
第二に、彼は、自分が弱く、不安定で、無力な存在だと感じていること、自己主張ができず、不安が強いことを隠したいと欲する。そのために、強そうな「前面」を作る。・・・彼は、弱さは卑しむべきものだと考える。・・・彼は本来、自分自身の内部の弱さを卑しみ、この弱さが暴露したら他人も同様に自分を卑しむに違いないと信じているから、自分の弱さを必死になって覆い隠そうと努める。

p227
罪悪感と、それに伴う事績とは、非難の恐れの結果であり(原因ではない)、さらに、この恐れに対する防衛なのである。罪悪感は、安心感をもたらし、本来の問題から注意をそらすという、二つの目的を果たす。第二の目的は、隠されるべきものから注意をそらしたり、あるいは、逆にそれを誇張して真実性を少なくすることによって、達せられる。

p228
自己非難は、他人による非難の恐れから自己を守るだけでなく、他人から「そんなに自分を責める必要はない」という意見をひきだすことによって、安心感をもたらす。他人がいない場合にでも、自責は、神経症的な人間の自分に対する尊敬の念を強めることによって、安心感をもたらす。なぜなら、自分を責めるということは、自分が非常に厳しい道徳観念を持っていて、他人なら見過ごしてしまうような欠陥についても、自分を責めていることを意味し、それゆえに、自分はすばらしい人間なのだとさえ感じることが可能だからである

p231
病気が困難の回避に役立つことは、周知の事実である。神経症的な人間は、自分が事態に対照すべきであるのに、恐れのゆえにそれをせずに逃げているのだという事実を、病気になることで、認めずにすむ。・・・病気がありがたいのは、病気になれば、いかなる行為も取れなくなるために、自分が臆病者だと自覚せずにすむからである。
あらゆる種類の非難に対する、重要な防衛の最後のものは、犠牲になっているという感情である。神経症的な人間は、自分が犠牲になっていると感じることによって、他人を利用しようとする自分自身の傾向への非難を避ける。ひどく無視されていると感じることによって、自分の独占欲への非難を封じる。他人が自分を援助してくれないと感じることによって、他人を敗北させようとする自分の傾向を覆い隠す。このように、犠牲になっていると感じる戦略は、事実、もっとも効果的な防衛である。

p232
彼は、変革しなければならなくなるのをひどく恐れ変革の必要性を確認することからしり込みする。そのためのひとつの方法は、自分を非難すれば勘弁してもらえるとひそかに信ずることである。・・・罪悪感につかる場合には、態度を改めるという困難な作業を避けているのである。態度を改めるより、ただ後悔しているほうがずっと楽なのである。・・・自己非難は、他人を告発する危険を避けるのにも役立つ。他人を責めるより、自分を責めるほうが安全に見えるからである。


p238
神経症的な人間が、他人への批判や非難を表出するのは、絶望的になったときである。もっと厳密に言えば、非難を表出しても、もう失うものは残っていないと感じるときである。どんな行動をとっても、拒否されるだけだと感じるときである。

p240
神経症的な人間は、自ら苦しむことによって、非難の権化になろうとする。効果的に恨みを表出し、かつ、自分がいかにも哀れな犠牲者のように見えるから、自己満足感も味わう。
悩み苦しむことが、どのぐらい効果的に非難を表出するかは、非難することへの制止の程度による。恐れがそれほど強くない場合には、悩みや苦しみが劇的に提示される。こういうばあい、非難は「みてごらん、あなたのおかげで私はこんな苦しい目にあっている」という形をとる。

p248
神経症的な人間は、ディレンマに陥っている。彼の欲求は、不安によって作り出されており、しかも、他人への思いやりによって制約されていないために、非常に強く勝つ無条件的である。だが、他方においては、彼が自発的な自己主張にかけており、もっと一般的には、基本的な無力感があるために、これらの要請を表出する能力は非常に損なわれている。・・・・苦しむことと無力であることが、情愛や援助や規制を獲得するための主要な手段となり、しかも彼は、他人が彼に向かってするかもしれない要請のすべてを回避できるのである。

p251
苦しむことは苦痛であるが、過度の苦しみに身をゆだねることは、苦痛への麻痺財として役立つということである。

p252
マゾヒズム的傾向の公分母は、自分が本質的に弱いという感情である。この弱小感は、自己に対する態度、他人に対する態度、運命一般に対する態度の、すべてに認められる。簡単に言えば、自分が無意味な存在であるという、あるいは自分がろくに存在もしていないという根深い感情である。どんな風にでもそよぐ葦になったような感情である。

p253
自分が本質的に弱いという感情は、実は、ぜんぜん事実ではないのだ。弱さと感じられ、弱さのように見えるものは、弱くなろうとする傾向の結果に過ぎない。自分の感情の中で自分の弱さを無意識的に誇張し、自分が弱いのだと執拗に主張する。

p254
患者が自己批判をする場合、これは、彼が他人の批判を予期し、それを自分の意見と採用することで、自分には他人の判断に前もって屈服する用意があるのだと、示そうとした結果であることが多い。

p255
この惨めさへの耽溺は、苦痛を和らげただけではなく、実際に快感を伴うものであった。

p255
惨めさの中に身を沈めることによって満足を得るのは、自分をより大きなものの中に喪失させ、事故の独自氏絵を解消し、疑惑や葛藤や悩みや限界を持つ孤独な自己から逃れだすことによって満足を得ようとする一般原則の表出である。

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現代の神経症的人格2

2012-03-06 19:45:23 | カレン・ホーナイ

●第七章 情愛への神経症的要求の他の特徴


P102-103
情愛への神経症的要求に認められる特徴の第一は、強迫性である。・・・簡単な言い方をすれば、これは、神経症的な人間いとって、情愛の獲得が、ぜいたくでもなければ、新たな力や喜びの源泉でもなく、生きるための必要条件なのだということである。この違いは、「私は愛されることを望み、愛されることを楽しむ」というのと、「どんなことをしてでも私は愛されねばならないI must be loved at any cost」というのとの違いである。

p103
神経症的な人々は、彼らの存在と幸福と安全とが、すべての人に好かれることにかかっているかのように感じ、行動する。

p104
独りになると何となく気持ちが落ち着かず、居心地が悪いという程度から、ひどい恐怖をかんじるところまで、程度に差異こそあるが、いずれにせよ、独りでいることができないという態度についてである。

P104-105
情愛への神経症的要求の焦点が、夫とか妻とか、医師とか友人など、一人の個人にあわされることもある。この場合には、その個人の献身や関心、友情、あるは「その場にいてくれること」までが極端に重要性を帯びる。しかし、この重要性は矛盾を含む。神経症的な人間は、いっぽうでは、他人の関心と存在とを求め、嫌われるのを恐れ、他人がそばにいないと、無視されたように感じる。しかし他方では、彼は自分にとってこれほど大切な相手と一緒にいて、全然幸福ではない

p106
情愛に対して支払われる代価は、相手への屈従と情動的依存という形をとることが一番多い。屈従的な態度は、相手に絶対反対しないとか、相手を批判しないとか、ひたすら献身的につくすとか、あるいは、賞賛と従順など、さまざまな現れ方をする。

P107 個人は、例えば、自分がその情愛を望んでいる相手が糖尿病の研究に関心を持っているから、自分も糖尿病になりたいと望んだりする。つまり、この病気になれば、相手の関心が得られるだろうと期待するのである。

p107-108
 他人に依存している人間は、強い不満と不快感を抱くものである。彼は自分に自由がないことを、相手に屈従しなければならぬことを、恨みがましく思う。しかし、相手を失うのが怖くて、屈従しつづける。こうした事態の原因が自分の不安にあることを知らないから、彼は、相手が勝手に自分を服従させたのだと考えやすい。しかし、彼には相手の情愛がどうしても必要だから、彼は、自分の恨みや不満を抑圧しなければならない。抑圧された恨みや怒りは、あらたな不安を生み出し、その結果、さらに安心感が必要となり、彼は、ますます相手にしがみつく結果になる。

p109
転移は、分析医に対する患者の非合理な反応の総体を意味するべきで、情動的依存だけにこの概念を使うのは、厳密に言うと正しくない。


P110 情愛への神経症的要求の第二の特徴は、飽くことのない貪欲性である。・・・温かみと信頼性のある雰囲気の中に成長する健全な子どもは、自分が愛されていることを確信して言えるから、愛情の証拠を絶えず必要とはしないし、時折必要とする援助が得られれば満足するものである。

p110-111
貪欲な態度は、さまざまな現れ方のすべてと、その制止とを含めて、「口唇的」態度と呼ばれる。・・・我々が現在問題にしている依存要求や、情愛要求のすべての根源と本質とが、口唇的欲望にあるという証拠はない。

P112 貪欲な人は、自分自身で何かを創造する能力が自分にはないと信じているために、自分の要求を充たすのに、外界に頼らなければならない。それでいて彼は、他人が誰も自分のために何一つしてくれないと思い込んでいる。

p115
これら三つのグループの異なった態度を要約すると、グループⅠ情愛への飽くことのない要求、グループⅡ情愛への要求と一般的貪欲さとの交替、グループⅢ情愛への顕在的要求の欠如と一般的貪欲さ。あとのグループほど、不安と敵意が激しい。

p115
情愛への飽くことのない要求が、どのような現れ方をするかについて、考察しなければならない。この要求は、主として、嫉妬と、無条件の愛に対する要請という、二つの形をとる。
正常人の嫉妬は、誰かの愛を失うかもしれないという危険に対する、適切な反応であるが、これと違って、神経症的な嫉妬は、そのような危険に全然比例していない。それは、他人や他人の愛を所有できなくなるという、ひっきりなしの恐れに規定されており、それゆえに、その他人が他の何事に関心を持つことにも耐えられないのである。・・・この場合のモットーは「私のことだけを愛さなければいけない」である。

p116
「先生が私に親切にしてくださるのはよくわかっています。しかし先生は、他の人々にも同じように親切になさるのでしょうから、私に対する親切は何の意味もないのです」という意味のことも口にする。情愛は、他人と共有しなければならないとなると、たちまち値打ちがなくなるのである。

p116
精神分析学での分権では、小児期の嫉妬と成人の嫉妬との関係が、成人の嫉妬は小児期の嫉妬の「反復」であるといった具合に、漠然と記述されていることが多い。「反復」という用語の意味するものが「大人の女性が夫に嫉妬しているのは、彼女がかつて母親に対して同じように嫉妬したからである」ということであるなら、これは誤りだと私は考える。両親や兄弟と子どもとの関係に認められる激しい嫉妬は、後年の嫉妬の原因ではない。洋二の嫉妬と後年の嫉妬とは、同じ根源(基本的不安――訳者)から発生するのである。

p117
情愛への飽くことのない要求が、おそらく嫉妬よりももっと激しい形をとるのが、無条件の愛に対する要請the quest for unconditional loveである。この要請が意識に現れる最も普通の形は、「私が行っていることではなく、私のあるがままの姿を、愛してほしいI want to be loved for what I am and not for what I am doing」という願いである。

p117
かかる要請は、第一に、自分の方がどんなに挑戦的にでても、それにかかわりなく愛してもらいたいという願望を含む。この願望は、安全の保証を求めるものである。なぜなら、神経症的な人間は、自分が敵意と過大な要請とに満ちているという事実にひそかに「気づいて」おり、それゆえに、この敵意が相手に知れたら相手が身をひくか、怒るか、報復的になるという、現実的でもっともなおそれを抱いているからである。このタイプの患者は、「好ましい人間を愛することは、はなはだ容易であり何の意味ももたない。愛は、どんな厄介な行動にも耐えられる能力を証明するものでなければならない」などという意見をよく述べる。

p118
無条件の愛に対する神経症的な要請は、第二に、こちらからお返しすることなしに、愛してもらいたいという願望を含む。
・・・無条件の愛に対する要請は、第三に、相手は何も利するところもないが、それでも愛してもらいたいという願望を含む。

P118-119
情動的には、治療代の支払いを、分析医が彼らに関心を持たぬことの証拠とみなす。この種の人々は、他人に贈り物をすることが下手である。贈り物をすると、自分が本当に愛されているのかどうかわからなくなるからである。

p119
無条件の愛への要請は、第四に、犠牲を払ってまで愛してもらいたいという願望を含む。・・・これらの犠牲は、金銭や時間であったり、信念や人格の高潔さだったりする。・・・他人のすべてを残酷に容赦なく無視し、無条件の愛を要請する行動には、情愛への神経症的要求にかくされた敵意が、何よりもはっきりと表れる。
他人を徹底的に搾取しようと、意識的に決意している、吸血鬼型の正常人と違って、神経症的な人間は、自分が搾取的であることを、全然自覚していないのが普通である。

p120
神経症的な人間は、自分のこのような要請に、何らかの正当な根拠――たとえば、自分が病気だから他人の犠牲を必要とするなどーーを与えねばならない。

p122
神経症患者が拒否に対してどのように敏感であるかを記述するのは難しい。・・・自分の要求に相手が応じてくれないこと、つまり、神経症的人間の要請がそっくりそのまま受け入れられ、満たされるのでない事態においては、彼らは常に、直ちに自分が拒否されたのだと感じる。

●第八章 情愛獲得の方法と拒否への敏感さ
p124
・・・このタイプの人々は、愛情関係において、ひどく苦痛な依存に陥る危険が、特にある。・・・同じタイプの男性は、神経症的な女性が近づくとたちまち身を引く。この拒否に対して、女性は激しい敵意をもって反応するが、相手を失うのを恐れて、これを抑圧する。女性のほうが身をひこうとすれば、今度は、男性が彼女の歓心を買う努力を始める。そこで、女性は敵意を抑圧するだけでなく、これを相手に対する強い献身によって覆い隠す。すると今度は、男性が身を引き、彼女は拒否されたと感じ、再び右のような段階をへて、結局、相手への愛を強化する。彼女はしだいに、自分が征服不可能な「大情熱」に取り付かれていると確信するようになる。拒絶の恐れは、「臆病」という範疇に属する一連の激しい制止を生むわけである。臆病さは、個人が拒絶に会うのを防ぐ、防衛体制のひとつである。こういう人々は「なんと言っても誰も私を好きでないのだから、私は、すみっこに小さくなっている方がいい。そうすれば、せめて拒絶だけは受けずにすむ」と自分に言い聞かせているようなものである。こうして、個人は、拒絶を恐れて、自分が他人の関心を求めているのだということを表明しなくなるから、情愛の要求の充足は著しく妨げられる。さらに、拒絶されたという感情がかきたれる敵意は、不安を始動し、増強さえする。こうして悪循環が確立し、個人はこれからなかなか逃げられなくなる。


p124-125
情愛への神経症的要求の、さまざまな帰結によって形づくられる「悪循環」を、大雑把に図式化すると次のようになる。不安→情愛への過度の要求(これは無条件の愛を独占したいという要請を含む)→これらの要求が満たされないために生ずる拒絶されたという感情→拒絶に対する反応としての激しい敵意→情愛を失うことの恐れと、そのために敵意を抑圧する必要性→対象のない怒りが生み出す緊張→安全感への要求の増大・・・こうして、不安に対して自己を守るはずの手段が、同時に新たな敵意と不安を作り出すのである。

p125
この悪循環とその結果のすべてを明るみに出すことが精神分析の主要な作業の一つである。神経症の患者自身は、悪循環の正体を理解できない。彼自身は、自分がどうしようもない事態にとらえられているという感情の形で、悪循環の結果を意識するだけである。

p126
情愛獲得の方法を大別すると、「買収」、「同情への訴え」「正義への訴え」「おどかし」である。・・・これらの様々な方法は、その一つだけが用いられるとは限っておらず、いくつもの方法が同時に用いられたり、交互に使われたりする。

p126
神経症的な人間が、「買収」によって情愛を獲得しようと試みる場合、そのモットーは、「私はあなたをとても愛しています。だからお返しに私を愛してください。そして私のためにすべてを犠牲にしてください」である。我々の文化において、この手段が男性よりも女性によって使われることが多いという事実は、女性がその下に暮らしてきた条件による。何世紀にもわたって、愛は女性専門の人生分野であっただけでなく、女性が望むものを入手するための主要な、あるいは唯一の道であった。

p127
自分が相手を愛しているという主観的確信は、特に女性にとって、自分の要請を正当化する。

p127
(同情)情愛獲得の第二の手段は、相手の同情に訴えることである。神経症的な人間は自分の悩みや無力さに、他人の注意をひこうとする。この場合のモットーは、「私は苦しみ無力なのですから、愛してくれなければいけません」である。それと同時に、悩みは彼らが過度の要請をすることを正当化もする。・・・同情への訴えの影には、自分がほかの方法では他人の愛を獲得できないのだという確信が存在する。この確信は、合理化されて、情愛の不信という形をとったり、特定の事態において、情愛がほかの方法では獲得できないのだという確信の形をとったりする。

p128
「私は苦しみ無力なのですから、愛してくれなければいけません」である。

p129
正義への訴えにおいては、モットーは「私はこれだけあなたのために尽くしました。あなたは私に何をしてくれますか?」である。・・・私がいま述べているのは、意識的に打算的な人々のことではない。相手からの御返しを、意識的に期待することなど、考えても見ない人々のことである。彼らの強迫的な気前のよさは、魔術的身振りであるといった方がよいかもしれない。つまり、彼らは、他人からしてもらいたいことを、他人に対してするのである。彼らが無意識裡にお返しを期待していることは、彼らの落胆の仕方が異常に激しいことから見ても、明らかである。時には、彼らは、一種の精神的賃借の帳簿をつける。・・・彼らは他人の恩を着るようになることを極度に恐れる。他人を本能的に自分に照らして判断するから、他人から恩を受けたらお返しを求められて搾取されるだろうと恐れるのである。

p130
彼らは他人の恩をきるようになることを極度に恐れる。他人を本能的に自分に照らして判断するから、他人から恩を受けたら御返しを求められて搾取されるだろうと恐れるのである。

p130-131
正義への訴えの中に敵意が含まれているときに、これが最もはっきり現われるのは、要請が、損害(と考えられたもの)の賠償という理由で、なされる場合である。モットーは「あなたのおかげで、私は悩み苦しみ損害をこうむりました。だから、あなたには、私を援助し、世話し、支持する義務があります」である。この作戦は、外傷神経症において用いられるのと似ている。

p132
個人が脅かしを情愛獲得の手段に使う場合、脅かしは相手を傷つけるぞという形もとるし、自分を傷つけるぞという形にもなる。

p132
神経症者は、苦しむことによって他人への非難を表出し、要請を行い、しかも、そのことを自覚せず、したがって自分が間違ったことをしてはいないのだという勘定を維持できるという理由から、時には、かなりひどい苦しみという代償でも、喜んで払う。



p133
神経症的な個人が相手をおどかすのは、そうすれば、相手が自分の養成に応じてくれると思っているからである。だから他の方法で要請が満たされる希望がある間は、おどかしの手段を用いない。この希望が失われると、絶望感と報復欲求の圧力下に、思い切った行動をとるのである。

●第九章 情愛への神経症的要求における性の役割

p134
情愛への神経症的要求は、しばしば、異性への性的愛着や性的満足への飽くことのない飢餓感という形をとる。この事実が存在するがゆえに、われわれは、情愛への神経症的要求という現象全体が、・・・実は安全感を求める要求によってではなくて、リビドーの不満足によって、生み出されているのではないかという疑問に、答えておく必要がある。
フロイトなら、この疑問に対して「その通り」と答えるはずである。・・・しかしこの考えは、ある前提の上に立っている・・・愛情が、性衝動の制止された、あるいは「昇華」された表出であるという考えである。

p135
我々は、性欲が情愛や愛情なしに存在すること、情愛や愛情が性的感情なしに存在することを知っている。・・・我々が観察できるのはーーーこれはフロイトによる発見の結果であるがーー性的要素が、母子間の愛情の中に存在する場合もあるということだけである。

p139
性的要求が強迫的な特性を持つこと、ならびに、相手の選び方が全く無差別であることが、共通点である。

p140
性関係は、彼らにとって特定の性的緊張の解消を意味するだけでなく、人間的接触を得る唯一の手段でもある。個人が、他人の情愛を獲得することがほとんど不可能であると思い込んでいる場合、肉体的接触が、情動的関係の代償になることがある。その場合、性が他人との接触を得る、(唯一ではないにしろ)主要なかけ橋となり、そのために、法外な重要性を持つようになる。

p143
「光るもののすべてが黄金ではない」ように、「性の如く見えるもののすべてが性ではない」のである。性と見えるものの多くが、実は性とほとんど関係のない、安全への欲望の表出である。この点を忘れると、性の役割を不当に過大評価する結果になる。

p144
われわれの文化において、性が演じる役割についても、意見がまとまってくる。われわれは、自分たちが性に対して寛大な態度を持っていることを、誇りにし、満足を覚えている。たしかに、ヴィクトリア時代に比べれば、この変化は好ましいものである。

p145
フロイトの偉大な業績の一つは、性に正当な重要性を与えたことである。しかし、細部においては、フロイトは、本来複雑な神経症的条件の表出、主として、情愛への神経症的要求の表出であったものを、性的現象と解釈した。

p146
私の意見によれば、エディプス・コンプレックスは、一次的過程ではなくて、種類を異にするいくつもの過程の所産である。それは、親が性的な色彩をおびた愛撫を与えることや、子供が親の性行為を目撃することや、親の片方が子どもを盲目的な献身の対象にすることなどによって、刺激される、比較的簡単な反応である場合がある。しかし、もっと複雑な過程の所産である場合もある。前に述べたように、エディプス・コンプレックスの温床となるような家庭条件においては、普通、子供の中に強いおそれと敵意がかきたてられ、その抑圧の結果、不安が育つ。こういう場合に、子供が不安からの防御を求めて、親の片方にすがりつくために、エディプス・コンプレックスが生じるのだと私は考えたい。現に、フロイトが記述したような、完全な発達をとげたエディプス・コンプレックスは、無条件の愛への過度の要請や、嫉妬や独占欲や、拒否に対する憎しみの反応など、情愛への神経症的要求が持つ特徴の、すべてを備えている。したがって、こういう場合には、エディプス・コンプレックスは神経症の原因ではなくそれ自体神経症的症状の一つだということになる。

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現代の神経症的人格

2012-03-06 19:44:51 | カレン・ホーナイ

現代の神経症的人格 / ホーナイ [著] ; 我妻洋訳. - 東京 : 誠信書房 , 1973.
The neurotic personality of our time
Karen horney

●まえがき
p
私の関心の対象は、特定の神経症ではなく、その現れ方に差異はあっても、現代の神経症的な人物のほとんどすべてに共通に認められる性格構造の考察であった。

p-p
・・・後年の反応を幼少期の反応の反復にすぎないとみなすのは、正しくないと考えている。幼少期の体験と後年の葛藤との関係は、単純な因果関係を主張する精神分析が考えているより、はるかに複雑であることを私は明らかにしてみたい。

p
後年の障害は、幼少期の体験だけによって生じるわけではないのである。

神経症が偶然的な個人の体験によってのみ生ずるのではなく、われわれが住んでいる特定の文化の条件によってもひきおこされることが理解される。

神経症的性格特徴の形成に際して、不安が決定的な役割を果たすことを強調する。

p
精神分析学の本質が、無意識の過程の役割、および、それが表出される仕方についての根本的な考え方と、無意識の過程を意識化する治療方法とにあると信ずるものとにとっては、私の提出するものは精神分析学である。

p-
私の解釈にはアドラーが主張したいくつかの点に似たところがある。しかし、根本的に、私の解釈はフロイト理論に基づいている。事実、アドラーは、心理的過程についてのどんなに生産的な洞察でも、それが偏った仕方で、かつ、フロイトによる基本的な発見に基づかずに追及された場合、不毛なものに終わるという好例である。

p
本書は、神経症的な人間自身にとっても何らかの役にたつはずだと、私は思っている。
神経症的な人間が、心理学的思考を自分自身の内部への不当な侵入であり、押し付けであるとして反対しないなら、彼は自分自身の苦しみと悩みの故に、複雑な心理過程について、健康人よりも鋭く精密な理解ができるはずである。残念ながら、自分が置かれている状態について本を読んだだけでは、神経症は治らない。神経症的な人間は、本書に書かれていることの中に、自分自身よりも周囲の人のことをずっと容易に認めるかもしれない。



●第一章 神経症の文化的、心理学的意味
p5
社会学者がくりかえし主張してきたこと、すなわち、「人類のすべてに当てはまる心理状態などというものはない」ということを、確認しなければならないのである。


p6
フロイトは、人間の諸特徴を生物学的に備わった欲動によって説明したが、理論において、また、特に実践において、かれは、神経症の理解には個人の生活の諸条件、特に幼児期における情愛の影響についての、詳しい知識が不可欠であるという意見を強調した。

p7
我々の文化においてしばしば認められる本能的欲動や対象関係を、フロイトは、生物学的に決定された「人間性」であるとか、(生物学的に規定された前性器的諸段階とか、エディプスコンプレックスなど)変更不可能な状況から生じるものと考えていた。

私は今、神経症には、正常なものからの逸脱という意味が含まれているとのべた。この基準は、非常に重要である。だが、これだけでは十分でない。個人は一般の行動型から逸脱し、しかも神経症にならぬことがある。最少限度の金を稼ぐためにしか働かない芸術家は、神経症患者であるかもしれないが、あるいはそうではなくて、生存競争の波に巻き込まれるのを懸命にさけているのかもしれない。

p8
神経症とは何であるかを述べるのは、決して容易ではないのである。・・・症状が全く存在しない場合もあるからである。

神経症の中に認められる特徴が、二つある。それは、反応におけるある種の硬直性と、潜在能力と実際の業績の不一致である。たとえば、正常な人は、疑い深くなるべき相応の理由があるときにだけ、疑い深くなる。神経症的な人は、それを自覚しているかどうかは別として、つねに、どんな事態においても、疑い部会。

p9
才能があり、それを伸ばすための外的な好条件もそろっているのに、個人が非生産的に終わっていれば、それは神経症に原因がある。・・・神経症的な人間は、自分で自分の邪魔をしているような人物である。

p9-10
すべての神経症に共通する本質的な要因が一つある。それは、不安と、不安に対して作り上げられた防衛である。・・・神経症の過程を始動させ、動き続かせるモーターは、この不安である。
・・・不安とか恐れとかーーしばらくの間、この二つの用語を同じ意味に使っておこうーーどこにでも見られるし、不安に対する防衛にしてもそうである。・・・不安とそれに対する防衛が、正常な場合も異常な場合も似ている

p11-12
差異は、自覚の程度とか合理性の度合とは無関係で、次の二つの要因から成り立つのである。
第一に、・・・神経症的な人間は、ひとつの文化の成員に共通する恐れを経験するだけでなしに、彼の個人的生活の条件(それは一般的条件と編み合わされている)のゆえに、質的にも量的にも、文化の型からは逸脱した恐れを持っているのである。

p12
第二に、・・・・健康な人間は、彼の文化のなかでやむをえない程度にしか、悩まない。これに反して、神経症的な人間は、つねに、普通の人よりはるかに苦しみが多い。

p13
神経症の記述が特に困難なのは、心理学的方法だけでも社会学的方法だけでも、満足な回答がだせず、私が現に行ったように、その両方をかわるがわる用いなければならないからである。

p14
神経症には、もう一つの本質的特徴がある。それは、葛藤する諸傾向であって、神経症的な人間自身は、この傾向が存在することを、あるいは、少なくともこの傾向の内容が何であるかを、自覚していない。しかも患者は、これら葛藤する諸傾向に、折り合いをつけようと自動的に努力をする。神経症の不可欠の構成要因として、フロイトがいろいろな形で強調したのは、この第二の特徴であった。

神経症的葛藤は、文化的葛藤より鋭くかつ程度が激しいのである。

p14-15
神経症とは、さまざまなおそれと、恐れに対する防衛と、葛藤しあう諸傾向に折り合いをつけようとする、さまざまな試みとによって、生み出される心理障害である。そして、実用的理由から、この心的障害が特定の文化に共通する型から逸脱したときにだけ、これを神経症と呼ぶがよい。


●「現代の神経症的人格」について論じる理由
p18
人格がゆがんでも損なわれてもいない人間が、葛藤に満ちた状況に置かれたとき、この外的条件への反応として神経症が生じる場合がある。・・・あとに、私はこの種の単純な「事態神経症」の構造について、略術するつもりである。この種の神経症は、神経症的人格と関係ないし、特定の困難な事態への適応が、一時的に欠如しているにすぎぬから、本来、われわれの主要な関心ではない。

p18
私が本書で神経症と言う言葉を使うとき、それは「性格神経症」つまり、主要な障害が性格の歪みにあるもののことである。この種の神経症は険悪性(潜行性)の慢性の過程の結果であり、しかもこの過程は原則として、個人の幼児期に始まり、程度に多少の差はあるが個人の人格構造の多くの部分が関与する。

p19
性格形成は、症状より遥かに重要である。なぜなら、人間の行動に影響を与えるのは、性格であって症状ではないからである。神経症の構造についての知識が増加し、症状が消えても神経症が治癒したとは限らない・・・比喩的にいえば、神経症の症状は、火山そのものではなく、その噴火であり、病因である葛藤は、火山のように、個人の奥深くかくされていて、個人自身にも知らされていないのである。

p20
私が考えている神経症の類似点は・・・・障害の原因となった諸経験にあるのではなくて、現に個人を動かしている葛藤そのものに認められるのである。

神経症の完全な理解のためには、乳幼児期の体験にまでさかのぼって調べることが必要なのは確かだが、こういう発生論的方法を一方的に使うと、問題は混乱するばかりで少しも明らかにならないと私は考える。

p21神経症の力動的中心をなすもろもろの葛藤の内容と、その間の関係とは、すべての患者を通して、本質的に同じであることを発見した。精神分析治療における私の経験は、患者以外の人々や、現代文学作品の主人公を観察することによっても、確かめられた。
・・・この問題が、われわれの文化の中の正常な人間を悩ましている問題と、単に量的にしか違っていないことが、明白になる。

私は、神経症的な人間が、本質的な特徴を共有しているだけでなく、これらの根本的な類似点が、本質的に、今日のわれわれの文化の中に存在するさまざまな困難によって生み出されているのだと主張したい。

p22
根本的な葛藤の類似点は、態度の類似点にも表れるし、態度なら表面的観察によって調べられる。「表面的観察」というのは、すぐれた観察者が熟知している人々(たとえば彼自身、友人、家族成員、同僚など)について、精神分析方法を用いずに発見できるものを意味する。
・・・表面的に観察できるさまざまな態度を、大雑把に分類すると次のようになる。第一に情愛の授受に関する態度、第二に、自己評価に関する態度、第三に、自己主張に関する態度、第四に、攻撃、第五に、性。

第一の態度についていえば、現代の神経症的人間に著しい特徴は、彼らが、他人の承認や情愛に過度に依存していることである。

p22-23
我々は誰でも、われわれが好きな人物に好かれたいと望むが、神経症的な人間の場合、好意や情愛に対する無差別の飢餓感があって、当の相手を自分が好きであるかどうか、相手の判断が自分にとって重要であるかどうかは問題にならないのである。

p23
彼らは、他人が自分の情愛欲求を考慮してくれることを過度に強要するくせに、他人への思いやりには全く欠けている。こうした矛盾は、常に表面に出ているとは限らない。たとえば神経症的な人間が、誰かに対して過度の思いやりを持って、何かをしてあげたいと熱心に望む場合もある。だが、こういう場合、その行動は強迫的であって、自発的なこころの暖かさから発していないことはすぐわかる。

p23-24
第二の特徴は、他人への依存に反映する内的不安定感である。劣等感と無能感は常に認められ、これが、自分には才能が内だとか、自分は馬鹿であるとか、魅力がないとかいう確信など、さまざまな形をとって現われる。しかもそれが事実無根の場合もある。・・・これとは逆に、自己拡大への補償的要求や、われわれの文化において威信の象徴になっているあらゆるもの(金銭、骨とう品、古い家具、女性、有名人との付き合い、旅行、すぐれた知識など)を見せびらかして、他人を感心させたいという強迫的な傾向によって、劣等感や無能感が隠されている場合もある。・・・両者が併存するのが普通である。

p24-25
第三の、自己主張に関する態度には、顕著な制止が見られる。・・・自己の立場を守ることにさえ制止が働いていて、神経症的な人間は、攻撃に対して自己防御ができず、また他人の要求に応じたくない時、相手に向かって「いやです」といえない。さらにまた、自分が何を欲しているのかを知ることにも、制止が働いているから、彼らは物事を決定したり、意見をまとめたり、自分のために願望を表現することに、非常な困難を感じる。

p25
第四の、攻撃に関する障害というのは、自己主張の態度とはことなり、他人に反対したり、攻撃したり、非難したり、侵害したりする行為、または一切の敵対行為に関する障害である。この種の障害は、二つの全く違った形をとる。その第一は、攻撃的、支配的、搾取的な行動をとったり、威張ったり、人をだましたり、あらさがしする傾向である。

p26
第二の形のいては、障害が全く逆に表出され、表面に現れたところでは、だまされたとか、支配されているとか、叱られたとか、押しつけられたとか、辱められたなどと、すぐ感じやすい傾向となる。

p26
第五の、性に関する障害は、大雑把にいうと、性的活動への強迫的な要求と、性的活動における制止とに分けられる。

p26
これらの障害が一見ばらばらで無関係に見えながら、実は構造的につながりあっていることがわかるのである。


●第三章 不安

P29 つまり、恐れは個人が直面する危険につりあった反応であり、不安は、危険に不釣合いな反応、あるいは想像された危険への反応である。
・・・反応が危険に釣り合っているかどうかの判断が、特定の文化の中に存在する常識によってなされるという点である。

p30
高いところに来ると、彼らの中にはいきたいという願いと、何らかの理由で、高所から身を投げたいという誘惑との葛藤が、かきたてられるのであり、この葛藤が不安を生むのである。

P30 恐れと不安は、どちらも危険につりあった反応ではあるが、恐れの場合には、危険が明瞭に客観的なものであり、不安の場合には、危険が隠れており主観的である。

p33
不安という情態に含まれたある種の要素が、個人にとってとくに耐えがたいことがある。それの一つは、無力感helplessnessである。非常な危険に直面したときに、積極的になり勇気を持つことはできる。しかし、不安の状態において、個人が感じるのは無力感であり、現に個人は無力なのである。権力や支配権、事態を統御しているという観念などが、重大な理想である人間にとっては、無力な状態に置かれることは特に耐えがたい。

p33
不安に含まれた別の要素は、それが非合理に見える点である。・・・もっぱら知的な規制の仕方をするよう自動的に自己を訓練してしまった人々には、非合理的な要因に規制されることが、特に耐えがたい。

P34 
不安の第三の要素は、この非合理性とある程度結びついている。不安は、非合理であることを通して、我々内部の何かが破損しているという無言の警告と、それゆえに、我々内部の何かを修繕したほうが良いという挑戦状の意味を持つ。我々が、意識的に挑戦状を受け取るわけではない。・・・我々の文化においては、不安から逃れる主な方法が四つある。それは、不安を合理化すること、否定すること、麻痺させること、および、不安を掻き立てそうな一切の志向と感情と衝動と事態とを避けることである。

p34
我々の文化においては、不安から逃れる主な方法が四つある。
それは、不安を合理化すること、否定すること、麻痺させること、および、不安をかきたてそうな一切の思考と感情と衝動と事態とを避けることである。

p35
第一の方法、すなわち「合理化」は責任回避を最もよく説明する。合理化は、不安を合理的な恐れに変化させるところには荒く。・・・自己内部の何かを変えるべきだという挑戦を認めて受け入れる代わりに、責任を外界に転嫁し、それによって自分自身の神経症的要求に直面するのを避けている。

p36
不安から逃れる第二の方法は、不安の存在そのものを否定することである。この場合、不安に対しては、それを否定するーーつまり意識からしめだすーーことだけが行われる。震え、発汗、心気高進、窒息感、頻繁な尿意、下痢、嘔吐など、不安や恐れの身体的付随現象や、精神領域では、落ち着けないとか、せかされているとか、何もできないとかいった感情などはすべてそのまま残る。

P38 不安が否定されても、人格の本質的力動構造は少しも変わらない。のみならず、現存する障害の顕著な現れが消えると同時に、神経症的な人間は、障害を取り除くことへの誘因をも失ってしまうのである。

p38
神経症的な人間が敵意を持っていることは事実だが、不安の故に憶病さを克服しようと試みるから、攻撃を実際よりおおげさに表出することになるのである。この天を見逃すと、不安克服のあがきを真正の攻撃と間違う危険がある。

p38
不安から解放される第三の方法は、これを麻痺させることである。これは、意識的に行われることもあり、文字通り、アルコールや麻薬の接種によって行われる場合もある。

P40 たとえば、パーティに出かけると、人に無視されるのではないかという恐れを持つ少女は、自分は社交が好きではないのだと無理に信じて、パーティを一切回避することがある。

p47
不安が、本質的に主観的な要因を含むおそれであることを知った。

p48
怖れの場合、危険は現実に存在し、無力感は現実に基づいている。不安の場合、危険は個人の心の中の要因によって生じたり、拡大されたりしており、無力感は個人の態度に基づいている。
そこで、不安における主観的要因とは何かという質問は、もっと限定されてくる。すなわち、強大な危険が迫っているという感情、および、それに対して自分が無力だとい言う態度は、いかなる心的条件によって生み出されるのであるか?

p48
フロイトは、不安にかかわる主観的要因が我々自身の本能的衝動であるという、決定的な発見をした。

p50
いろいろの種類の敵対的衝動が、神経症的不安の主要な根源なのである。

p50-51
敵対衝動が不安の主要な原因であると私が行ったことの理由を説明するためには、手紀伊の抑圧が生み出す心理的帰結について、少し詳しく考察する必要がある。
敵意を抑圧するというのは、闘わねばならぬ時に、あるいは少なくとも闘いたいと望む時に、何も化もうまくいっているのだからそんな必要はないのだと「思いこんで」、闘わぬことである。そこで、このような抑圧の当然の帰結として、自分が無防備だという感情が生まれる。もっと正確にいえば、すでに存在している無防備感が強化される。個人の利益が実際におかされそうになっているときに、個人の敵意が抑圧されれば、他人は彼を好きなように利用できる。

P52 Cは、Gが自分の親友であると信じつづけた。・・・疑惑と怒りを抑圧したために、Cは重要な問題に関して、Gが友人であるどころか彼の敵であることに気づけなかった。自分がGに好かれているのだという妄想にしがみついていたために、Cは、自分の利益を守るための戦いを放棄した。彼は、自分の大切な利益が犯されていたのだということにさえ気づかず、それを守るために闘うことができず、Gによって弱みにつけいれられる結果になったのである。
・・・抑圧によって克服される恐れは、敵意を意識的に抑制することによっても克服される。だが、抑圧は、反射のように自動的に生ずる過程であるから、敵意を抑制するか、抑圧するかの選択の余地は個人にはない。特定の事態において、自分が敵意を持っているという自覚が個人にとって耐えがたい場合、抑圧は自動的におきる。

P53 敵意の自覚が個人にとって耐えがたくなるのは、敵意の対象である人物を個人が愛していたり、必要としている場合とか、敵意を引き起こした理由を、個人が知りたがらぬ場合とか他人への敵意を自己内部に認めることが恐ろしい場合などである。こうした事態においては、敵意を抑圧するのが、安心感を持つためのもっとも手っ取り早い方法である。

・・・最も安全な方法とは限らない。抑圧の過程によって、敵意―――その力動的性格を示すには、「激怒rage」といった方がよいーーは、意識からは取り除かれるが、それによって消滅してしまうわけではないからである。個人の人格の文脈から切り離され、そのために自我の規制下から離れ、激怒はきわめて爆発しやすく、噴出しやすい、したがって行動に表出されやすい情態として、個人の内部を循環する。抑圧された情態は個人の人格の文脈から切り離されることによって、驚くほど広範な領域を占めるようになるために、その爆発性は著しく増大する。

p53-54
個人が自己内部の怒りを意識している場合には、その拡散を三つの仕方で防ぐことができる。第一に、特定の事態における現実の条件を考慮することによって、個人は、敵(または敵と思われる人物)に対して、できることとできないこととを見定められる。第二に、怒りの対象である人物を、個人が日ごろから賞賛したり好んだり、あるいは必要としている場合には、怒りはおそかれはやかれ、この人物に対する個人の感情の総体の中に統合されてしまう。第三に、個人がその人格に応じて、どのような行動が適切か適切でないかを心得ている場合には、このこと自体が敵対衝動を拘束する。

P54 抑圧された敵意は、人格から分離されたために、時間がたつに連れて外部の事情によって強化されるのが普通である。例えば、高い地位にいる従業員が、自分に相談なしにことを運んだ部長に対して腹を立てた場合、もしこの怒りを抑圧してしまえば、部長はひきつづき、彼に相談なしでことを運ぶ可能性が高い。そうすれば、彼の怒りは絶えず生じ、強まってゆくことになる。

p55
敵意を抑圧すると、その結果、個人は、自分の内部に自分が規制できぬ著しく爆発しやすい情態が存在することに「気づく」。・・・個人が自分の内部に抑圧された情態が存在することに「気づく」となぜ言えるのか?それは、意識と無意識とが、はっきりと二つに分かれた別の過程なのではなくて、サリヴァンが講義の中で指摘したように、あるのはいくつもの意識のレベルだからである。・・・だが、それだけでなく、個人は意識の深層において、その存在を知っているのである。最も簡単にいえば、これは、われわれには結局のところ本当の自己欺瞞はできないのだということ。・・・今後は、われわれが自己内部の過程を「自覚せずに知っている」場合、「気づくregister」という用語を使うことにする。

p56
この危険な情態を取り除きたいという強い要求が生まれる・・・そこで、第二の、反射ににた過程が働きだす。すなわち、個人は、その敵対衝動を外界に「投射」する。・・・個人の敵意が投射される相手は、当然、個人の敵意が本来向けられている人物のはずである。そこで、この人物は、個人の心の中でおそるべく強大な存在となる。

P56 投射は、その副次的機能として、自己正当化の要求にも役立つ。「私が、だましたり、盗んだり、搾取したり、卑しめたがったりしているのではない。他の人々が私にそういうことをしたがっているのだ」

P57 投射の過程は、別の過程によって支えられることもある。――報復の恐れが抑圧された衝動を捉えるのである。・・・抑圧された敵意が作り出すこれらの過程は、不安という情態を生む。現に、抑圧が生み出す状態は、外部から襲ってくる圧倒的に強大な危険と感じられたものに対する無力感であり、これは不安の特徴そのものである。

p57-58
ことがやっかいになる理由の一つは、抑圧された敵対衝動が、しばしば、本来の相手ではない別のものに投射されるところにある。・・・不安が敵意の本来の相手である人物から切り離される理由は極めて明らかで、不安が、実際のところ、親や夫や友人その他近い間柄の人物にかかわっている場合には、権威や愛情や信頼のきずなが存在し、そういう相手が自分に敵意を持っていると想定することが難しいからである。


P60 敵意と不安の関係は、敵意が不安をつくりだすということにつきるのではない。過程は逆にもはたらく。そして、脅かされているという感情に基づく不安は、防衛としての反作用的敵意をかきたてやすい。恐れも同じく攻撃性を書き立てるから、この点、不安は恐れと違わない。反作用的敵意が抑圧されれば、これも不安を生み出すから、こうして循環過程が作り出される。敵意と不安が相互作用をお粉に、相手を作り出し強化しあうからこそ、神経症患者の中には、かくも莫大な量の苛酷な敵意が存在するのである。

p60-61
私の方法論は、フロイトがとった立場とはいくつもの点で異なっている。
フロイトは不安について、相前後して二つの異なった考えを提出した。最初の考えは、簡単にいえば、不安が衝動の抑圧によって生ずるというものであった。・・・彼の二番目の考えによれば不安は、それを発見したり追及したりすると、外的な危険を招く可能性がある衝動についての恐れによって生み出される。
・・・不安についての私の見解は、不安の全体像を把握するには、フロイトの二つの考えを統合する必要があるという確信に基づいている。そのために私は、第一の概念を全く生理学的な基盤から解放して、第二の概念と結びつけた。不安というものは、衝動についての恐れから生ずるのではなくて、抑圧された衝動についての恐れから生ずるのである。

p62
その表出が外的危険を招く恐れのある衝動なら、どんな衝動でも不安の原因になるというフロイトの意見そのものに、私は反対しない。性的衝動がこの種の衝動であることも確かである。ただし、これは性衝動に対してきびしい個人的または社会的禁忌があるために、性衝動が危険なものである場合に限られる。・・・文化的条件から離れた性衝動そのものが不安の源泉であるとは、私には考えられない。しかし、敵意、あるいはもっと正確には、抑圧された敵対衝動は、不安の源泉となると私は思う。

p62
私がフロイトと同意しない第三の点は、フロイトが不安がまず出生にあたって生じ、その後も去勢恐怖など、もっぱら幼児期にだけ生じ、後年に起きる不安は、幼児的なままにとどまったこれらの反応に基づいていると考えた点である。

p63
我々は、幼児期において特に不安を抱きやすい。これは疑いない事実である。子どもは、有害な影響に対して比較的に無力であるから、これは当然のことといえる。事実、性格神経症患者の場合、不安の形成は常に幼児期に始まっている。あるいは、少なくとも私が基本的不安と呼ぶものの基礎は、幼児期に出来上がる。だが、フロイトは、さらに成人の神経症における不安も、本来それを引き起こした過去の条件と、いまだに結びついているのだと考えた。たとえば、大人の男性が、多少形は変わるが、少年の時と同じように、去勢恐怖に悩まされているというのである。確かに、小児的な不安反応が、適当な刺激を受けて、後年、昔と同じ形で再発することも稀にはある。だが、われわれが成人の神経症において発見するのは、言葉で表せば「反復されたもの」ではなくて、「発達したもの」である。神経症の発達過程が、分析によって十分に理解できる事例においては、幼少期の不安から成人期の障害までの反応の連鎖が、発見できることがある。したがって、後年の不安には、幼児期に存在した特定の葛藤によって条件づけられた要素も、他の要素に混じって含まれている。しかし、不安全体が幼児期の反応そのものなのではない。成人の不安を幼児期の反応そのものだと考えては、二つの異なったものを混同し、幼児期に生じたにすぎぬ態度を、幼児的態度だと誤解することになる。不安を小児の反応と呼ぶくらいなら、それを小児における早熟な成人の態度だというほうがまだましかもしれない。

●第五章 神経症の基本的構造

p66
精神分析学的文献において慣例になっているほどには、私が幼児期に言及しないのは、私が他の精神分析学者のように、幼児期体験を重要視しないためではない。私は本書において神経症的人格の現在の構造を取り扱っているのであって、こうした構造が出来上がる原因となった個人の過去の体験を問題にしているのではない。それゆえに幼児期体験にあまり言及しないだけのことである。

p67-68
根本的な害悪は、いつでも本当の暖かさと情愛genuine warmth and affectionとの欠如である。子どもは、内心で自分が望まれ愛されていると感じる限り、唐突な離乳とか、時折の体罰とか、性体験とか、しばしば外傷的とみなされているものに、多く耐えられるものである。いうまでもなく、子供は、愛情が本物か贋者かを、敏感に感じ取る。贋の表示には、だまされない。子どもが十分の暖かさと情愛とを享受できない場合、その主な理由は、両親が神経症であるために、温かさや情愛を与えられぬことにある。私の経験では、温かさの根本的欠如は、カムフラージュされていることの方が多く、親は一生懸命子どものためを思っていると主張する。将来における激しい不安定感の基礎を、何にもまして作り上げる雰囲気は、いわゆる「理想的」な母親の教育理論や、「心配しすぎ」や、自己犠牲的な態度によって、かもし出される。
さらに、両親の側には、子供の敵意をかきたてずにはおかない、さまざまな行為や態度が認められる。たとえば、他の子どもへのエコひいき、根拠のない非難、過度のあまやかしから嘲るような拒否への、予測しがたい変化、約束の不履行、そして、一時的な思いやりのなさから、子供の最も正当な要求に対する絶え間ない干渉(たとえば友人関係を妨害し、子供自身の思考を馬鹿にし、芸術や、スポーツや、機械に対する子どもの興味とその追求を邪魔するなど)にいたるまでのさまざまな段階の態度、要するに、意図的にではないにせよ、結果として子どもの意志を台無しにするような親の態度である。

p68
時折罰を受けても、子供が日ごろから愛されていると確信し、罰が正当なものであって、親が子供を傷めつけたり、いやしめるために行っているのではないと感じる限り、子供はそのことで傷つかない。・・・欲求不満そのものが敵意を生み出すかどうかという質問には、解答がだしにくい。だが、大切なのは、欲求不満そのものなのではなく、それがどういう仕方で子どもに課せられるかである。

p69
嫉妬は、大人にとっても子どもにとっても、恐るべき憎悪の原因になる。キョーダイ間の嫉妬と、片方の親への嫉妬とが、神経症的なこどもにおいて重要な役割を果たすこと、および、それが後年の生活に長く影響を与えることには、全く疑いがない。では、どういう条件が、この嫉妬心を生み出すのであろうか。

p69-70
この現象(エディプスコンプレックス)が、現代の神経症的人間の中に、しばしば観察されたので、フロイトはこれを普遍的な現象であると考えた。・・・こうした普遍化に、実は問題がある。・・・異文化はいうまでもなく、われわれの文化においても、フロイトが考えたほどそう頻繁に生じるという証拠は、ないのである。

p70
今まで論じてきたような種類の雰囲気を作り出す両親は、通常、自分自身の人生に満足しておらず、満足のゆく感情関係や性関係を持たず、そのために、子供を自分たちの愛情の対象にしがちである。彼らは、情愛への要求を、子供の上になげかける。彼らの情愛の表出が、常に性的な色彩を帯びるとはかぎらないが、いずれにせよ、著しく情動の濃度の高いものである。

P71 子どもの性格形成にとって有害なのは、不服や異議を感じたり表現したりすることではなくて、逆にこれを抑圧することである。批判や講義や非難を抑圧することから生ずる危険はいくつもあるが、そのひとつは、子どもが一切合切を自分のせいにして、自分は親の愛にあたいしないと感じることである。・・・このような雰囲気の中で育つ子どもが、敵意を抑圧するのは、無力感、恐れ、愛情、罪悪感などのためであり、これらの原因は、様々な組み合わせではたらき、その影響力も様々である。


P72-73
有害な条件下に育つ子どもたちの場合、その無力性は、脅かしや、赤ん坊扱いや、子どもを情動的依存状態にとどめておくことなどによって、人為的に強化される。子どもが無力にさせられればさせられるほど、親への反抗を感じたり示したりしなくなるし、それだけ反抗が延期もさせられる。こうした事態においては、根底的感情、あるいはモットーとでもいうべきものは「私は貴方を必要とするから、敵意を抑圧する」である。・・・子どもがおびえればおびえるほど、敵意を表さなくなり、敵意を感じさえしなくなる。この場合のモットーは、「私はあなたがこわいから、敵意を抑圧する」である。
愛情が敵意抑圧の理由になることも或る。特に本当の情愛がかけている場合、親は、どんなに子どもを愛して言えるかとか、徹底的に自分を犠牲にして育てているとか、大げさな言葉を使うことが多い。子どもは、・・こうした愛情の代用品にしがみつき、従順であることによって得られる報酬を失うまいとして、反抗を控える。この場合のモットーは、「私は愛情を失うのが怖いから敵意を抑圧する」である。

p73
我々の文化においては、子供は普通、敵意とか反発心を抱いた場合、罪悪感を感じるように育てられている。子どもは、親に対して怒りを感じたり、これを表出したり、親の決めた規則を破ったりした場合、自分がくだらないだめな子どもなのだと、自分から考えるように育てられている。

P74 モットーは「敵意を抱いたら悪い子になるから、私は敵意を抑圧する」
・・・私の考えでは、小児期の不安は、神経症の必要条件ではあるが十分条件ではない。子どもが幼い中に環境が変わるとか、有害な影響を中和するような何らかの条件が生ずるなど、有利な要因が加われば、初期に不安があっても、神経症にまでいたらずに済むように思われる。しかし、生活条件が不安を減少させる性質のものでなければ(実際にはこの方が多い)、不安は持続するだけでなしに、のちに考察するように、次第に増大し、神経症を構成するすべての過程を始動するようになる。

p74-75
敵意と不安という反応が、子供にこうした反応を強いた環境に限られるか、あるいは、それが他人一般への敵意と不安とに発展するかでは、大きな違いがある。
たとえば、子供が幸いにも、愛情豊かな祖母とか、理解ある教師とか、よい友達などに恵まれていれば、これらの人々との体験のおかげで、子供は、すべての人間から悪いことばかり予期するまでにはいたらない。・・・子供が隔離され、親以外との人間と自分自身の経験を持つことを妨げられれば、妨げられるほど、このような傾向はひどくなる。


P75 自分は大事にされているのだという幸福な確信をもっていないから、本来は害のないからかいでも、残虐な拒否として受け取る。他の子どもたちより容易に心が傷つき、自分を守ることも下手である。・・・これらの要因は、「自分が敵意に満ちた世界でたった独りで無力である」という感情を作り出し、これを助長する。・・・この態度そのものは、神経症の本質をなすわけではないが、神経症が極めて発達しやすい温床となる。この態度は、神経症において基本的な役割を果たすから、私はこれに「基本的不安the basic anxiety」という特別の名称を与えた。これは基本的敵意と分けがたく混じり合っている。

p76
基本的不安は、現実の事態に何ら特別の刺激がなくとも存続する。神経症の全体像を、一国家における政治的変動事態にたとえるなら、基本的不安と基本的敵意とは、政府に対する根底的な不満と抗議に似ている。

p76
単純な事態神経症の場合、基本的不安は存在しない。事態神経症の本質は、個人的関係に障害がない個人の、実際の葛藤事態に対する神経症的な諸反応である。つぎに、しばしば精神療法の対象になる事態神経症の一例をあげる。
45歳の婦人が、夜になると心気高進が激しくなり、不安が強くなり、ひどく汗をかくと訴えた。・・・彼女は、心の温かい率直な人物と見受けられた。彼女は、20年前、彼女自身の意志よりはむしろ周囲の事情から、25歳も年上の男性と結婚した。彼女は、大変に幸福な結婚生活を送り、性的にも満足し、三人の子どもも健やかに育った。・・・だが、7カ月ほど前に、彼女と同年配の、感じの良い独身の男性が彼女に特別な関心を示すようになってから、彼女の神経症が始まった。彼女は、年老いてゆく夫に怒りを感じたが、夫に怒りを感じるなどということは、彼女の精神的背景と社会的背景からすると、絶対にゆるされるべきではなかったし、結婚生活は根本的に調和したものであったから、これを完全に抑圧したのである。数回の面接における治療的援助によって、彼女は、葛藤事態に直面し、それにより不安からのがれることができた。

p77-78
事態神経症は、健康な人間が、それ相応の理由で、葛藤事態を意識的に解決できない場合に、つまり、葛藤の存在と特性とに直面できず、そのためにはっきりした決定ができない場合に、生ずる。これら二種類の神経症の大きな差異は、事態神経症がはなはだ治療しやすい点にある。・・・患者と事態を話し合って、その理解を深めることで、症状が消失するだけでなく、障害の原因も取り除かれて、治療が成功する。ほかの事例では、環境を変えることで障害が取り除かれ、治療が成功する。

p78
このように、事態神経症においては、葛藤事態と神経症的反応との間に、妥当な関係があるが、性格神経症には、この関係がないように思われる。基本的不安が存在するために、ほんのわずかの刺激が、激しい反応を引き起こすのである。

p78
基本的不安をおおまかに記述すれば、自分を虐待し、だまし、襲い、辱め、裏切り、嫉妬する外界に、自分がただ独り、弱小で、無力で、見捨てられ、危険にさらされている、といった感情である。

p78
神経症の場合には、基本的不安や基本的敵意の存在が自覚されていることは、めったにない。

P79 彼女には、自分が全ての人間を怖がっていることなど想像もつかず、不安とは何のことかわからないと私に語った。すべての人間に対する基本的な不信が、「人間は誰でもいい人たちばかりだ」という皮相な確信によって覆われ、個人が、基本的不信を抱きながらも、他人とうわべだけは友好的な交際を続けることもある。人間全てに対する根強い軽蔑感が、他人をすぐ誉める態度によってカムフラージュされることもある。

p81
健康に成熟した個人は、こうした人間の弱点に対して無力感helplessnessを抱くことはないし、神経症的人間の基本的態度に特徴的な「無差別性」も認められない。健康な個人は、幾人もの人々に対して、まじりけのない友情や信頼を抱く能力を保持する。こうした違いは、おそらく健康な人が不幸な体験を、それを克服できる年齢になってからもったのに反し、神経症的な人は、もっと初期の全く無力な時代にこれにめぐりあったため、不安を抱くようになったことによるのだろう。

P81 基本的不安は、情動的孤立を意味し、それは自己弱小感と同時に起きるから、余計耐えがたい。また基本的不安は、自信の基礎の弱体化を意味する。基本的不安は、他人に依存したいという欲求と、他人に対する根強い不信感と敵意とのゆえに依存不能との間の葛藤の胚芽を内に秘めている。基本的不安は、個人がその本質的な弱さのゆえに、一切の責任を他人に負わせ、保護され、世話されたいという欲望を持ちながら、他方では、基本的敵意のゆえに、このような欲望を充たすべくあまりにも他人不信が強すぎることを意味する。そして、いずれの場合にも、結果的には、個人は安心感を得るために、エネルギーの大半を消耗しなければならない。

P82 個人が、基本的不安から身を守るために試みる主な方法が4つある。すなわち、情愛と屈服と権力とひきこもりである。
第一に、何らかの形で情愛を獲得することは、不安に対する強力な防御になる。モットーは、「あなたが私を愛するなら、私を傷つけはしないだろう」である。
第二に、・・・屈従の態度が、制度や人物に結びついていない場合には、あらゆる人間からの要請に屈従し、怒りを買うようなことは一切避けるといいう一般化された形をとる。このような場合には、個人は自分自身の要請をすべて抑圧し、他人についての批判を抑圧し、自己を守ることなく他人の酷使するにまかせ、無差別に他人に力を貸す。個人は時には自分の行為の根底に不安があることを自覚せず、自分の行為が、没我や自己犠牲の理想に基づくと信じており、極端な場合には自分自身の欲求を一切放棄したりする。・・・モットーは、「私が屈従すれば私は傷つけられずにすむだろう」である。

P83 個人はいかなる情愛も信じられないから、彼の屈従行為の目的は、情愛の獲得ではなくて、保護の獲得にある。人によっては、徹底的に屈従しないと安心感をもてぬ者がある。こういう個人は、不安が著しく強く、他人の情愛への不信があまりにも激しいため、情愛の可能性などは一切考えに入らないのである。
 不安から身を守る第三の試みは、力による。すなわち、現実の権力や成功や、あるいは、財産、賞賛、知的優越性などを、勝ち取ることによって、安全感を得ようとするものである。この試みにおけるモットーは、「私に力があれば、私を傷つけられるものはないであろう」である。
第四の防御手段は、ひきこもりである。・・・自分の物資的要求や精神的要求に関して、他人から独立することである。

P84 精神的要求に関しての、他人からの独立は、例えば、情動的に他人に無関心になり、他人によって傷つけられたり失望させられた入りしないように試みることで、得られる。自分の情動的要求を枯渇させるのである。このような無関心のひとつの表れは、自分自身を含めて、何事をも本気に受け取らない態度である。・・・ひきこもりの方法と、屈従や屈服の方法は、両方とも、自分の欲求を諦めるという点で共通している。しかし、自己の欲求の諦めは、屈服の方法にとっては良い行いをし、他人の欲求に応じて安全感を売るためであるが、ひきこもりの方法においては良い行いをするという考えは全く存在せず、自己の要求の諦めは、他人から独立するために他ならない。この方法におけるモットーは、「私がひきこもれば何者にも傷つけられないであろう」である。

p85
これらの防御手段は、快感や幸福への欲望充足の必要に促されるのではなく、安心感への要求によって促されるものなのである。

P85-86 激しい根本的不安からの解放感と安心感とは、ひとつの方法だけでなく、互いに両立しないいくつもの方法によって同時に追求されることの方が多い。そのために、神経症的な人間は、全ての人に愛されたいと望み、他人の全てに屈従しようとする欲求に駆り立てられながら、同時に、自分の意志を他人に押し付け、人々に無関心であろうとする要求に駆り立てながら、人々の情愛を渇望することになる。このように、どうにも解決のしようがない葛藤が、神経症の力動的中心をなすことが、最も多いのである。
最も頻繁にぶつかりあう試みは、愛情獲得への衝動と、権力獲得への衝動である。

p86
私が記述した神経症の構造は、神経症が主として本能的衝動と社会的要請(または超自我におけるその表象)との葛藤の結果であるという、フロイトの説と原則的に矛盾するものではない。しかし、個人の衝動と社会的圧力との葛藤が、すべての神経症にとって不可欠の条件であることは、私も認めるが、これだけが十分条件であるとは思われない。個人の欲望と社会的要請とのぶつかりあいは、必ずしも、神経症を生み出すとは限らない。・・・個人の欲望と、社会的要請との葛藤が、不安を生み出し、この不安を軽減しようとする試みが、さまざまな防御傾向を発達させる場合にだけ、神経症が生み出されるのである。

●第六章 情愛への神経症的要求

p91
神経症において、実際に最大の役割を果たす二つの衝動についてこれからさらに詳しく論じたい。それは、情愛への要求と、権力と規制への要求である。

P92
神経症的な個人が漠然と感じていることを、あえて言葉にしてみると、だいたい次のようになる。
「私は何も欲しくない。ただ、人々が私に親切にしてくれて、序言を与えてくれて、私が貧しく、無害で、さびしく、他人を喜ばせよう、他人を傷つけまいと、懸命に鳴っているのを、理解してくれればそれでいい。」
当人が自覚したり感じたりするのは、これだけである。自分の傷つきやすさや、潜在的な敵意や、強引な要請が、どんなに他人との人間関係を損なっているか、彼は自覚していない。

P93 神経症的な個人は、他人を愛することができず、しかも、他人の愛情loveを強く必要とするジレンマに陥っており、しかもそのことを知らない。

P93
愛の能力が完全に欠けている人間でも、折々情愛深くなれることがある。大切なのは、情愛がどのような態度から発するかである。情愛affectionが、他人に対する根本的に肯定的な態度の表出であるか、それとも、たとえば、相手を失いはしないかという恐れや、相手を自分のいいなりにしたいという欲求などから、生まれたものであるか。言い換えれば、表面に現れた態度は判断の基準にならないのである。

p93
愛loveが何であるかを述べるのは、非常にむつかしいが、何が愛でないか、どんな要素が愛とは異質であるかは、はっきり述べることができる。

p94
相手に対して完璧であることを容赦なく求めたり、「不完全なるものに災いあれ」といった調子で、敵意にみちた要請をするのは愛ではない。
・・・個人が、相手を何らかの目的のための手段に使っている場合、・・・・これも我々の考える愛とは相いれない。

P95 愛と、情愛への神経症的要求との違いは、愛において情愛の感情が第一義的であるのに対し、情愛への神経症的要求においては、安心への要求が第一義的で、愛しているという錯覚は二次的でしかないという点にある。


p95-96
彼らが自覚するのは、自分が誰かを好きであり、信頼しており、あるいは、その人に夢中になっているということだけである。しかし、彼が自発的な間と思い込んでいるものは、自分に示された好意への感謝とか、何らかの人物や事態によってかきたてられた、希望や情愛の反応にすぎない。

P96 患者は、この人物を愛しているのだと錯覚する。このような期待は、患者が、権力のある著名人や、自分より自信を持ち、しっかりして言えると思われる人物から、親切にされるだけでもかきたてられるし、誰かから(愛とは無関係に)性的に接近されることによっても、書きたてられる。・・・このような人間関係の多くが、愛のカムフラージュの下に続けられる。つまり、実際には個人が自分の要求充足のために、相手にしがみついているのにすぎないのに、自分が相手を愛しているのだと主観的に信じるのである。自分の感情が混じりけのない情愛なのだという確信が、あてにならない証拠に、個人は自分の願いがかなえられえないとなると、たちまち相手に対して憎しみを抱く。我々が考える愛の本質である、感情の信頼性と確実性とが、情愛への神経症的要求には全くかけるのである。

p96-97
愛の能力の欠如の最後の特徴は、・・・相手の人格、特性、限界、要求、願望、発達などを、完全に無視することである。そうした態度が生じるのは、神経症的な人間が、不安の故に、相手にしがみついているためでもある。おぼれそうになって他人にしがみつく人は、他人が自分を抱えて泳ぐ能力があるかどうかなど、考えないものである。他人を無視することは、他人に対する根本的な敵意(そのもっとも普通な内容は軽蔑と嫉妬である)の表出でもある。

P97 神経症的な人間の保護手段が、情愛への衝動である場合、彼は自分に愛の能力がないことを、めったに自覚しない。そして、自分が他人を必要としていることを、自分が特定の個人や人類全体を愛しているしるしなのだと誤解する。

p98
彼は、自分の欲する情愛を手に入れることに、少なくとも一時的には成功することがあるが、実はその情愛を受け入れることはできない。・・・どのような情愛にであっても、神経症的ない人間は、表面的な安心感や幸福感さえ感じるが、心の奥底では、これを信じないし、新たな不信や恐れさえ抱く。彼は、誰も自分を愛することはできないのだと確信しているから、他人の情愛など信じない。自分は愛されることがないのだという感情は、意識的な確信となっている場合も多く、これは、どんな現実の体験によっても覆すことができない。

P99 他人を本当に好きになれる人なら、何の疑いもなしに、他人が自分のことを好きになってくれると信ずるものである。不安が本当に根深い人は、他人が提供する情愛を、不信を持って眺め、その裏に何か悪巧みが潜んでいるに違いないと直ちに思い込む。・・・相手が情愛をあからさまに示すと、あざけられているように受け取る。

p99-100
こういう人間に、情愛が提供されると、不信がわくだけでなく、強い不安もかきたてられる。他人の情愛に身をゆだねるのは、あたかもクモの巣にひっかかることであり、他人の情愛を信ずるのは、あたかも人食人種の中にいて油断することであるように、感じられるからである。

p100
他人が自分に情愛を抱いているという証拠がわかると、依存の恐れが掻き立てられることがある。すぐ後に述べるように、他人の情愛なしに生きられぬ人にとっては、情動的依存は本当の危険を意味するから、わずかでもそれに似たものが生じると、心の中に必死の抵抗が起きる。

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女性の心理その2

2012-03-06 19:44:37 | カレン・ホーナイ
p248-249
彼女たちにとって、性交渉がいかに重要であるかは、彼女たちの様々な行動の中に常に一巻して、性交渉をもつ可能性をたえず確保しておこうという努力が認められることからも理解できる。こうした努力は、売春婦になるという空想と、結婚したいという願望と、男になりたい欲求という三つの形をとる。この三つは本来はまったく異質のものであるが、根本的な動機が共通しているために、かわるがわる生じるのである。というのは、売春婦になるという空想と結婚願望は、いつでも男を手に入れられる状態にいたいという願いが表れているし、男でありたい願望、あるいは男に対する憤りは、男はいつでも好きな時に性交渉をもてるという考えからきている。

p252-253
彼女たちは、女性としての自分がうけた侮辱に駆り立てられて、時には直接的に、また時には間接的に、正常でないことへのおそれを通じて、自己の女性的能力を自分自身に証明しようとする。しかし、たちまち自己卑下が頭をもたげてきて、決してこの目標を達成させないために、否応なしに次々と関係を変えていくしか証明のてだてがない。彼女たちの男性への関心は、たとえ相手の男性を熱烈に愛していると思いこむ場合でも、その男を「征服する」と、つまり、その男が情動的に彼女たちに依存するようになると、たちまち消失してしまうのが普通である。
転移の特徴として既述したように、愛情を用いて人を依存させようとする傾向には、もう一つの原因がある。それは、依存こそ、どんなことがあっても絶対に避けなければならない危険なものであり、愛情や一切の情動的結合は最も依存を生ぜしめるものであるから、避けなければならない害悪なのだと告げる不安のことである。いいかえれば、依存の恐れとは、恋に落ちれば失望や屈辱を味わうという深い恐れである。この屈辱は、彼女ら自身が小児期に体験して以来、自分のかわりに他人に負わせてやりたいと願っているものである。後々までこれほどの傷つきやすさを残し続ける本来の体験は、おそらく、男性によって生ぜしめられたのであろうが、結果として生じた行動は、男女両方にほとんど等しく向けられる。例えば、贈りものを使って私を自分に依存させようとした患者はある時、男性を自分に恋させて、勝利をおさめることの方がやさしいから、男の分析医につくべきだったと残念がったことである。
・・・彼女たちは、傷つくのを恐れるあまり、情動的な依存から自らを守ろうとするのである。
さらに別の例では、この防衛機制は、相手に対する自分の依存度よりも、相手の自分に対する依存のほうを強くしておこうとする、強引な、あるいは用心深い態度の形をとる。そして、相手が自立のきざしを少しでもみせると、かならず、意識的または無意識的なはげしい憤怒の反応があらわれる。
このように種々の原因をもつ彼女たちの男性に対する移り気な態度は、さらに彼女たちの根深い復讐の欲望を満たすのにも役立つ。この復讐の欲求は、幼児期の敗北に根差すもので、男を意のままにして、かつて自分が捨てられ拒否されたと同じように、男を捨てたり拒否したいという欲求なのである。これまでにのべたことからあきらかなように、彼女たちが適切な対象の選択をする見込みは大変乏しい。というよりは皆無である。つまり、彼女たちは一つには他の女性との関係についての理由と、また一つには彼女ら自身の自尊心に関連した理由とから、盲目的に男性にとびつく。さらに、ここであつかった事例の三分の二においては、適切な対象を選択する確実性は、小児期における競争の中心人物であった父親への固着によって、一層減少していた。最初、これらの事例からは、彼女たちが実は父親なり父親像を求め続けているのだという印象を受けた。そしてその後、彼女たちがやつぎばやに男性と別れるのは、男たちがこの理想像と一致しなかったためか、あるいは、もともと父親に向けられていた執拗な復讐心の対象に彼らがなったためだと解されたのである。実際、個の固着は、多くの場合に障害を悪化させていた。しかし、それが、この種の生涯を発生させる特定要因でなかったことも確かである。とにかく、ここで取り上げた事例の約三分の一は、強さの点でも特徴の点でも、通常の父親固着となんら変わりがないのだから、これは目下のこの特別な問題の力動的な中核であるとはいえない。

p256-257
結婚すれば、彼女らの抑圧された野心は、しばしば夫に転移され、今度は夫の成功を同じような激しさで要請する。しかし、この野心の転移は部分的にしか成功しない。なぜなら、彼女たちは対抗的態度を持ち続けているため、無意識的には夫の失敗を待ち望んでいるからである。夫に対してどちらの態度が優勢になるかは、彼女らの男性に対する態度如何によって決まる。いずれにせよ、結婚当初から夫が彼女らにとって、競争相手とみなされる場合には、彼女たちは性愛における競争を避けるのとおなじように、夫に対して深い憤りを抱きながら底知れぬ無力感におちこむのである。


p260
別の事例では、基本的な期待が、男に養われている女や、男に仕事を助けてもらっている女に対する羨望という形をとっていた。そして、男から、支持や贈りものや、子供や性的満足や、精神的援助や道徳的支持をうけとるなど、同じ意味の空想が豊富に認められた。これに相当する口唇定ディズム的な空想も夢に現れた。二つの事例においては、患者が、独力では何もできないことを強調して援助を求めようとした当の相手が父親であった。
彼女たちの態度全体の力動的構造を変えるためには、彼女らが「もし私が自然な方法で父の愛情(すなわち男の愛情)を手に入れられないのなら、無力な自分をわざと見せつけることで、男からむりに愛情を獲得してやる」という期待を、秘かに抱いていることをあきらかにする必要がある。このひそかな期待は、いわば相手のあわれみに訴える呪術的な懇願であり、このマゾヒズム的な態度は、神経症的にゆがんだ異性獲得手段として機能をもっている。

p262
愛を獲得しさえすれば幸福になれるのに、その幸福は決して訪れないようになっているのだと思い込む。そして、自己の能力についての自信はかぎりなく消失してゆくのである。
恐らく読者は、ここに述べた型の女性がこれほど極端な形でではないが、今日少なくとも中流階級の知識層に頻繁にみられることに気づかれたと思う。これが社会的理由、つまり、女性の仕事領域が狭められているという理由による意見を、私はこの論文のはじめに述べた。しかし既述してきた事例においては、個人の神経症的葛藤はあきらかに個人の不幸な発達史によってひきおこされている。

p252-253
私の意見では、マゾヒスティックなパーソナリティにおける表面的構造は、おもに次のように輪郭をもつ。
・・・マゾヒスティックな人間は、安心感をうるために人に愛されようとする。マゾヒスティックな人間は対象の決まらぬ漠然とした不安を持っているから、たえず他人の関心や情愛の証を必要とする。しかも、その証をごく一時的にしか信じないから、他人の関心や情愛への欲求は極端に大きい。彼は、一般に他人との関係において、極めて情動的である。例えば、他人が自分に必要な安心感を与えてくれると考えるから、簡単に人に愛着を抱くし、それでいて期待するものを手に入れることは絶対にないから、簡単に他人に幻滅を感じる。「偉大な愛」への期待とか幻想もしばしば重要な役割を演じる。性は愛情獲得の最もありふれた手段の一つであるから、マゾヒスティックな人間は性を過大評価し、性が人生のあらゆる問題を解決すると言った幻想にしがみつく傾向が強い。これらの傾向を個人がどこまで意識しているか、またどこまで実際の性関係をもてるかは、これらの傾向について個人の「制止」の程度如何による。性関係をもったり、もとうと試みる場合には「不幸な愛」がしばしば生じ、捨てられたり、失望させられたり、辱められたり、ひどい扱いを受けたりする。・・・個人は普段、自分が無能で人生が残酷なのは変えようもない事実なのだと感じているが、精神分析が示すように、実はそれは事実なのではなくて、そのようなみかたや捉え方を強いる頑固な傾向が、彼の中にあるからなのである。

p285
自ら選んで敗北する傾向は、必然的に敵対感情を生むが、この感情も表出されない。なぜなら、表出すれば、他人に愛されて安心感をうるという主要な不安防御手段を失うおそれがあると、考えられるからである。弱気や苦しみは、すでにいろいろな機能を果たしているが、こうしてさらに、敵意の間接的な表現手段としても役立つのである。

p290
要約すれば、女性のマゾヒズムの問題は、女性の解剖学的―生理学的―心理学的特徴に内在する要因にのみ関連しているのではない。マゾヒスティックな女性が特に育つ文化複合体や社会組織によって、重大な影響を受けるものとして考察されなければならない。これらの二種類の要因群のそれぞれの重要性は、われわれの文化とはいちじるしく異なるいくつかの文化領域において、妥当な精神分析的な基準を用いた人類学的調査の結果をみないと、ただしい評価はできない。ただし、この問題について解剖学的―生理学的―心理学的要因の重要性が、何人もの学者によって、過大評価されてきたことは明白である。


p294
(1)少女は昇華された活動に没頭するようになり、性愛的領域に対して嫌悪を抱くようになる。
(2)少女は性愛的領域に専念するようになり、(男の子に夢中になる)、仕事への関心や能力を失う。
(3)少女は情動的に「冷淡」になり、「どうでもよい」という態度を身につけ、何事にも無気力になる。
(4)少女は同性愛的傾向を発展させる。

p297
彼女たちはみな、男女を問わずすべての人間に反感を抱いている。しかし男性に対する態度と女性に対する態度とには、違いがある。男性に対する反感は強さや動機づけに個人差があり、比較的たやすく表出されるが、女性に対する反感は徹底的には快適な敵意であり、そのために心の奥深くに隠されている。彼女たちはその存在に漠然と気づくこともあるが、敵意の実際の広がりや、激しさ残忍さ、より深い意味を自覚することは絶対にない。

p298
彼女たちが、女性に対して極端な敵意を抱くのはなぜであろうか。彼女たちの生育史を調べても十分な説明はつかない。彼女たちが、暖かさや保護や理解に欠けていた母親や、兄(弟)を偏愛したり、性的潔癖さについての厳しすぎる要求をした母親に対して非難の感情を抱いていることは、生育史から明らかになる。これらは大体において事実である。しかし、現在彼女たちが意識的に感じている母に対する疑惑や反抗や怒りの総量に比べて、この女性一般に対する憎悪は比較にならぬほどはげしく、この二つが不釣り合いだということは、彼女ら自信も感じているのである。

p300-301
恐れには、まさに次のような意味がある。「私は母やほかの女に残酷な破壊的空想を抱いているのだから、私もまた彼女たちにより、破壊されるのではないかと恐れなければならない」『目には目を、歯には歯を』である。
この同じ報復の恐れがあるからこそ、彼女たちは分析医に気安く接しえないのである。意識の上では、現に分析医の公正さや能力を確信するにもかかわらず、内心では、頭上にぶら下がった剣がいつか必ず落下してくるはずだと心配し、分析医が意地悪く、故意に自分たちを苦しめたがっているのだと、感じないではいられない。彼女たちは、分析医を不快にする危険と、自己の敵対的衝動を露呈する危険との間の、狭い道を歩んでいかねばならない。
たえず致命的な攻撃を受けないかと恐れている彼女たちが、自分自身を防御せねばならないと切実に感じるのは当然である。彼女たちは分析医を回避したり、分析医の意図を壊そうとする。だから表層にあらわれる敵意には、防御の意味が含まれている。同じく母親に向けられた憎しみも、ほとんどは、母親に対する罪悪感及びこの罪悪感と結びついた恐れを、母親に対して攻撃的にふるまうことで防御しようとする意味を含んでいる。

p302
彼女たちが競争を回避せざるをえないのは、小児期に母親や姉との間に、特別に強烈な競争を経験したからである。母親や姉に、競争心を抱くのは自然な成り行きである。これらの患者においては、次のような要因によって、この過程がはなはだしく激化されている。すなわち、早熟な性的発達や性意識、自慰の発達を阻害した幼少期の威嚇、夫婦間の不和、その結果娘が親のどちらか一方の味方になることを強いられる事態、母親によるあからさまな拒否や偽装された拒否、父親の愛情過多な態度(それは娘に対する偏愛から露骨な性的態度まで、さまざまなものがある)などである。こうした事実を概括すれば、つぎのような悪循環が生じていると言える。つまり、母親や姉への嫉妬と競争、そして空想の中に表出される敵対的衝動、その結果生じる罪悪感と攻撃や処罰をうける恐れ、ついで防衛的な敵意、さらに強化された恐れと罪悪感。


p303
彼女たちは、女性的役割があまりに葛藤に満ちているため、それを避けようとする。そして、しばしば男性的衝動を育て、男性との関係の中へ競争的傾向をもちこみ、女性と競争するかわりに、男と男性的分野で競争する。男性的役割が彼女たちにとって非常に望ましいものになると、彼女たちは男性に強い嫉妬を感じ、男性の才能をけがしがちになる。
このような精神構造をもった少女が思春期に達すると、何が生ずるか。思春期にはリビドー的緊張が増す。性的欲求が強くなり、当然、罪悪感や恐れなどの妨害を受ける。実際に性的体験を持つ可能性によって、これらの葛藤はさらに強化される。この時期に初潮がおきると、自慰によって自分が損傷をこうむったのではないかという恐れをもつ少女にとっては、出血が、実際に損傷が生じた事の証拠として受け取られる。月経についての知識は役に立たない。知的理解は心の表層にあり、恐怖は深層にあって、両者は触れ合うことはない。事態は悪化し、欲望と誘惑が強まり、恐れもまた強まる。
我々は、意識的な不安の重圧下には、長く生きられないようである。「本当の不安に襲われるぐらいなら、死んだ方がましだ」と患者はいう。

p304-307
第一のグループの少女は、他の女性との競争を完全に回避し、女性的役割をほとんど完全に避けることによって、恐れから自分を守る。彼女たちの競争的衝動urgeは、もともとの土壌から引き抜かれて、精神的分野に移植される。最善の人格、最高の理想、あるいは最良の学生であることを求めて争う。この競争は男性を求める競争からずいぶん隔たっているため、恐れもまた非常に弱められる。
この解決方法はきわめて過激であるから、一時的には非常に役にたつ。彼女たちは、何年もの間、きわめて満足する。しかし彼女が男性と接触をもつようになると、とくに結婚すると、抑圧されていた要素が働きだす。満足や自信はかなり急速に崩壊し、それまで満足し陽気で有能で自主的だった少女が、強い劣等感に悩み、たやすく抑うつ的になり、結婚生活への積極的な態度を避ける不満の多い女性にいっぺんする。性的には不感症であり、夫に対しては愛情ある態度のかわりに競争的態度をしめす。
第二のグループの少女は、同棲への競争的態度を放棄しない。他の女性に対する対抗心にかりたてられて、彼女は機会あるごと、他の女性を打ち負かそうとする。その結果、第一のグループの少女と対照的に、対決の決まらぬ不安を持つ。この不安を防ぐため、彼女は異性にしがみつく。・・・彼女たちにとって男性というものが、安心感を与えるだけの存在であることがあきらかになる。・・・彼女たちは性欲についてあまりに罪悪感や恐れがあるので、満足な男性関係がもてない。だから安心をうるためには、たえず新しく男を征服するしかない。
第四のグループの潜在的同性愛の少女は、同性に対する自分たちの破壊的敵意を過補償することで、問題を解決しようとする。「私はあなたが嫌いでない。愛しているんです」。憎悪を、完全に盲目的に否定しているといってもよいであろう。これがどの程度まで成功するかは、個人的要因による。彼女たちは意識的には魅力を感じる少女に、夢の中では、極端な暴力や残忍さをしめす。他の少女たちとの関係を持つのに失敗すると、絶望のどん底に突き落とされ、しばしば自殺さえしそうになる。これは、攻撃性が彼女ら自身にふり向けられるからである。
第一のグループと同様、彼女たちの女性としての役割を完全に回避するが、ただ違うのは彼女らのばあい、自分が男であるという妄想をはっきりとつくりあげるのである。性以外の領域では、男性との関係には葛藤がみられない。第一のグループがすっかり断念するのに対して、彼女たちは異性愛的関心のみをすてる。
第三のグループの少女がとる解決方法は、他グループと根本的に異なる。他のグループはすべて何かあるもの、例えば業績とか男とか女とかに情動的にしがみつくことによって安心感を獲得しようとするが、第三のグループは「情動的にかかわりあいになるな。そうすれば傷つけられることはないだろう」と、情動生活の発達を阻止して、恐れを消滅させようとする。

p307
予防と治療
啓蒙は知的レベルで受け取られ、深く閉ざされた幼児期の恐れには達しない。予防は、人生の第一日目から始めなければ効果がない。予防の目的は子供を恐怖でみたすのではなく、勇気と忍耐のなかで教育することだと定式化してもいいだろう。

p305
治療についていえば、軽度の障害なら、生活環境が好転すれば治る。ここで述べたような明確なパーソナリティの変化には、精神分析のような精緻な集団をもった精神療法者しか近づけない。単一の神経症的症状とちがって、これらの障害はパーソナリティ全体における不安定な基礎を示しているからである。けれどたとえそうであっても、我々は生命自体がより良き治療者であることを忘れてはいけない。

p311 
神経症的愛情欲求のすべての表れのうちで、私は、わたしたちの文化で非常にありふれているものを強調したいと思います。それは愛の過大評価です。私が特に挙げたいのは、自分たちを愛し、ともかく自分たちの面倒を見てくれる人に献身してもらわないかぎり、不幸に感じ、不安定感を味わい、抑うつ的に感じる神経症的な女性のタイプです。私はまた、結婚したいという願望が強迫的な性質を帯びる女性を挙げます。彼女たちは、自分たち自身絶対に人を愛することができず、また男性との関係が悪名高いほどなくても、ちょうど催眠術をかけられたかのように人生のこの一点――結婚することーーを凝視し続けます。このような女性は、創造的な潜在力と才能を発達させることができません。

p311
神経症的愛情欲求の貪欲さは、無条件な愛の欲求としても現れます。それは、「私がどんな行動をしても、あなたは私を愛してくれなければなりません」という形で言い表されます。

p313
またその後これらの関係が内部的な理由のため弱まると、これらの人は飽くことなく食べ始め、20ポンド(約9キロ)ほど体重が増えることがあります。彼らが新しい愛情関係を結ぶとこの体重増加は消失し、サイクルは何度も繰り返されます。

p313-314
神経症的愛情欲求の別の徴候は、拒否に敏感なことです。これは、ヒステリーの特徴を持った人によく見られます。彼らは、あらゆる種類のことを拒否とみなし、はげしい憎しみで反応します。私の患者の一人は、一匹の猫を飼っていました。この猫は、彼が愛情を示しても反応しないことがありました。あるとき彼は憤慨して、この猫を壁に投げつけました。これは、どんな型の拒否にせよ、拒否によって引き金を引かれた憤慨の典型的な例です。

p317
神経症的な人は一般に、自分が愛することができないことを自覚していません。・・・「私は、他人のために者を手に入れるのは気が楽です。しかし私は自分自身のためにそうすることはできません」。これは、彼が信じているように、他人の世話をする母性的な態度の為ではなく、別の因子のためです。それは権力への渇望のために引き起こされることもありますし、自分が他人に有用でないなら、他人に受け入れられないのではないかという恐れの為に引き起こされることもあります。さらに、彼の心には、自分自身のために何かを意識的に欲したり、幸福になったりすることに逆らう制止が深く根を下ろしています。これらのタブーは上述の理由から神経症的な人が時に他人おために何かをすることができるという事実といっしょになって、自分は愛することができるとか、実際に深く愛しているという幻想を強めます。彼はこの自己欺瞞にすがりつきます。そのわけは、それは彼自身の愛情要求を正当化する重要な機能をもっているからです。もし彼が自分は元来他人の面倒などちっとも見ていないのだということに気づくなら、他人からそんなにたくさんの愛の要求をすることはできないでしょう。

p319
親しみは、精神分裂病に近い症例ではおもい不安を引き起こすことがあります。分裂病について非常にたくさんの経験をもっている私の友人の一人が、ある患者のことを話してくれました。この患者はときどき余分の面談を要求しました。私の友人は当惑した顔をし、予約帳をみ、最期にぶつぶつ不平を言うのが常でした。「いいですよ。そうしなければならないのならいらっしゃい」友人はこのようにふるまいました。彼は、親しさが、これらの人々に不安を引き起こすことを知っていたからです。これらの反応は、神経症でも起こります。

p320
この愛の恐れはーーどんな形のものにせよーー詳細に論ずる価値があります。本質的にこれらの人は、自分自身をすべて閉ざして、この上なく大きい生きる恐れーー基本的不安――に対して自己を防ぎます。また彼らは、控えめにして安心感を維持します。
問題の本質的な要素は、彼らの依存の恐れです。これらの人は実際他人の情愛に依存していますから、また呼吸をするために酸素が必要なようにかれらは依存を必要としていますから、悩ませる依存関係におちいる危険は実際非常に大きいのです。彼らは他人は自分に対して敵対的だと確信していますからなおさら、どんな形の依存も恐れるのです。
私たちはしばしば、同一人が人生の一時期には、完全に、どうしようもなく依存し、別の時期には、依存にわずかでも似ていることを全力を尽くして避けることを観察します。

p324
増大した愛情欲求は、実際にリビドー現象なのかどうか尋ねなければなりません。フロイトは肯定的に応えるのが常でした。というのは、彼にとって愛情は、それ自体目標を制止された性欲だからです。

p325
神経症的愛情欲求の貪欲性を強調するなら、この現象全体は、リビドー理論のことばを使うと、「口唇愛的固着」か「退行」の一表現になります。この概念は、非常に複雑な心理現象を生理学的因子に進んで還元することを前提にしています。私は、この仮説は支持できないだけでなく、心理現象の理解をさらにもっと困難にするものだと思っています。

p326-327
神経症的愛情欲求は、分析医に対する性的誘惑の形で表れるのがたいへん多いです。患者は、自分が分析医を恋していることや自分がある種の性的関係を望んでいることを、行動を通じてか、夢の中にあらわします。愛情欲求が、主として、あるいはもっぱら、性の分野に現れる場合もあります。この現象を理解するには、性欲は必ずしも真の性的欲求を示しておらず、他の人間との接触の一つの形式を示していることを忘れてはなりません。私の経験によると、神経症的愛情欲求が性的な形をたやすくとればとるほど、他の人との情動関係はそれだけ妨げられます。性的空想や夢等が分析において早くあらわれるときには、私はそれを、この人は不安でみたされており、他の人との関係は貧弱だという信号とみなします。このような場合には、性は他の人へのごくわずかの橋の一つ、あるいはおそらく唯一の橋なのです。

p329
最後に、私は基本的不安の増大といっているものは何かを簡単にお話ししたいと思います。それは、「被造物の不安」の意味で、普遍的人間的な現象です。神経症者では、この不安は増大します。それは簡単にいうと、敵意にみち、圧倒するような世界での無力感と記述できます。










P282 特にマゾヒスティックな人間は、安心感をうるために人に愛されようとする。マゾヒスティックな人間は対象の決まらぬ漠然とした不安をもっているから、絶えず他人の関心や情愛の証しを必要としる。しかも、その証をごく一時的にしか信じないから、他人の関心や情愛への欲求は極端に大きい。P283 したがって、彼は一般に他人との関係において、きわめて情動的である。例えば、他人が自分に必要な安心感を与えてくれると考えるから、簡単に人に愛着を抱くし、それでいて期待するものを手にいれることは絶対にないから簡単に他人に幻滅を感じる。「偉大な愛」への期待とか幻想もしばしば重要な役割を演じる。

P311 神経症的愛情欲求の貪欲さは、無条件的な愛の欲求としてもあらわれます。それは、「私がどんな行動をしても、あなたは私を愛してくれなければなりません」という形で言い表されます。これは、特に分析の初めには重要な因子です。私たちはそのとき、患者は挑発的な仕方で振舞っているかのような、あるいは一時的な攻撃性からでなく、むしろ「私が憎らしい振る舞いをしても、P312 先生は依然私を受け入れてくれるでしょうか」と嘆願しているかのような印象をうけます。・・・無条件的な愛の欲求は、自分が相手に何かを与えなくても愛されたいという要求として現われます。それは「何かをくれる人を愛するのは簡単です。しかし先生がお返しになにかもらわなくても、私を愛しているかどうか見せてください」といっているかのようです。

P314 彼らは、あらゆる種類のことを拒否とみなし、烈しい憎しみで反応します、私の患者の一人は一匹の猫を飼っていました。この猫は、彼が愛情を示しても反応しないことがありました。或る時彼は憤慨して、この猫を壁に投げつけました。これは、どんな形の拒否にせよ、拒否によって引き金を引かれた憤慨の典型的な例です。

P316 愛――すなわち、自己中心的暗方法で自分自身のためにあらゆるものをとっておくかわりに、人々にか、主義にか、観念に自発的に尽くす能力です。神経症的な人には一般にこの能力がありません。

P317 神経症的な人は一般に、自分が愛することができないことを自覚していません。つまり彼は、愛することができないことを知っていません。しかし自覚の度合いはさまざまです。・・・欲見られるのは、自分は大恋愛家で、人のために尽くすとくに強い能力を持っているという幻想を持って生きている神経症者です。彼は私達にこう請合うでしょう。「私は、他人のために者を手に入れるのは気が楽です。しかし私は自分自身のためにそうすることはできません」。

P318 実際に拒否されたり、拒否されていると思うと、このタイプの神経症者の人ははげしい敵意をいだきます。拒否の恐れと拒否に対する敵対的な反応は、彼をますますひきこもらせます。はるかにおもくないケースでは、親切にされたり、親しくされると、神経症的な人はしばらく快適に感じます。もっとおもい神経症者は、人間的な温かみはどんな程度のものにせよ受け入れることができません。彼らは、飢えていますが、手を背中で縛られている人になぞらえられます。彼らは、自分は愛されることはありえないのだと確信しています。この確信は揺るがすことができません。次は、その一例です。私の患者の一人は、ホテルの前に駐車したいと思いました。ドア・マンが彼を手助けするためにやってきました。しかしこの患者はドア・マンが近づいてくるのを見て思いました。「ちぇ。おれはまずいところに駐車したのに違いない。」P319 あるいは一人の若い女性が彼に親切にすると、彼は彼女の親切を嫌味と解釈するでしょう。みなさんがご存知のように、貴方がこのような患者をまじめにほめるとーー例えば「貴方は知性的です」というとーー彼はあなたが治療的な配慮から振舞っていると確信するでしょう。・・・どうか愛と性を混同しないでください。女性の患者がかつて私にいいました。「私はセックスについては恐れをいだいていませんが、愛はとても怖いのです」。

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女性の心理

2012-03-06 19:44:09 | カレン・ホーナイ
女性の心理 / ホーナイ [著] ; 安田一郎, 我妻洋, 佐々木譲訳. - 東京 : 誠信書房 , 1982.6. - (ホーナイ全集 / ホーナイ [著] ; 我妻洋, 安田一郎編 ; 第1巻).


p29
あらゆる学問やあらゆる評価のように、女性の心理もこれまで男性の立場からだけ見られた。男性のこの支配的地位のために、女性に対する男性の主観的な感情関係は客観的な妥当性を獲得した。実際デリウスによると、女性の真理は、男性の願望と幻滅の沈殿物であった。

p29
女性は男性の願望に自分を合わせ、自分の適応が自分の本質だと思った。つまり、男性の意志が自分に要求するとおりに、自分自身を満たし、見ている。あるいは、無意識的に男性の思考の暗示にかかった。

p220-221
今日女性が自分の能力を思いのままに発揮しようとすれば、外部からの反対と戦い、同時に女を性的存在としてしか認めない伝統的女性観が、彼女自身の内部に作り出している抵抗とも戦わなければならない。
現在すでに自分の職業をもちながら、その代償として女らしさを放棄することも望まない女性は、みなこの葛藤に直面しているといっても過言ではないだろう。

p222
これらの婦人たちにとって男性との関係が非常に重要であるにもかかわらず、彼女らが満足な男性関係を少しも長続きさせたことがないという事実しか、わからなかった。満足な関係をもとうとする彼女たちの努力は、まったく失敗におわるか、さもなければ、相手の男性か彼女ら自身かによって破られるつかの間の関係が何回か生じるにすぎなかった。さらに、その男性関係には、しばしば相手がだれでも構わないという無差別さが認められた。

p223
分析活動をある程度つづけてみてはじめて、私はこの問題の中心が愛情の制止にあるのではなく、彼女たちの男性への関心があまりにも強すぎるところにあるのだと、比較的問題のはっきりした事例にあって気付いた。彼女たちはまるで「私は男をもたないといけないのだ」という執念にとりつかれているようであった。・・・問題は愛情生活を軽視しすぎるところにあるのではなく、あまりに重視しすぎるところにあったのである。

p232-234
女性への対抗心が持続するだけでなく、男性の獲得という(すさまじい憎しみに色どられた)戦いの目的が放棄されていないから、事実上、対抗心は鋭くなり、一層激しくなる。こうして、この憎しみについての不安や報復の恐れはあっても、戦いをやめさせようとする動機は存在しない。それどころか、戦いを続けていくことに対する興味すら存在する。対抗心から生じたこの女性への法外な憎しみは、転移場面では、性愛以外の領域において表出されるが、性愛領域にも投射の形をとってはっきりとあらわれる。というのは、もし(女性)の分析医は男性関係の邪魔をするというのが、患者の基本的な感情である場合、患者の無意識にとっては、母親は単に患者の女性としての発達や女性的領域での成功を許さない存在になっているからである。
これを基礎にしてはじめて、女性分析医への抵抗の手段として、患者が男性に関心を示すことの意味が完全に理解できる。彼女たちの意図は、嫉妬深い母親や姉に、男をつくったり手に入れたりできる自分を見せつけて、腹いせにすることにある。しかし、これをやり遂げるには、やましさや不安に悩まされるという代価を払わなければならない。

p234
転移の中には、患者の他の生活領域で生じた事がらが常にきわめて明白に、そのままの形で再現されるのである。

p235
これらの患者たちは、いずれも小児期に父親


p174-175
両親に対する母親自身の態度が、子供に対する彼女の態度の中に反映して生じる葛藤を問題にしたい。実例として挙げるのは、私のもとへやってきた当時三十五歳の婦人である。彼女は、学校教師で、理知的な、才能に恵まれた印象深い人柄の持ち主であった。全体として非常に安定した人にみえた。彼女には二つの問題があり、一つは、夫が彼女を裏切って他の女性と関係していたとわかって罹った、軽度の抑うつ症であった。彼女自身は教育や職業柄、きわめて品行方正な人物だったが、他人に対しては、寛容な態度を持つようになっていたので、夫に対して自分が当然抱いた敵意を、彼女は意識的に受け入れることができなかった。けれども、夫への信頼を失ったことで、彼女の人生観は影響をうけ、不審の網の目にとらわれてしまった。彼女のもう一つの問題は、十三歳になる息子のことであった。この子は強度の強迫神経症にかかり、不安状態に苦しんでいた。

p176
生徒たちに対する彼女自身の感情が性的なものであるのがあきらかになった。教え子の一人は、彼女が分析を受けている都市まで追いかけてきた。そして彼女は、現にこの二十歳の青年と恋におちた。・・・・この彼女の恋情が、実のところその青年自身にむけられたものでないとわかった。この青年やそれ以前の青年たちが、彼女にとって、父親の代償であるのは、かなりあきらかであった。身体的にも精神的にも、彼らは一様に彼女の父親に似た特徴をもっており、彼女の夢の中では父親と重なって、同一人物としてたびたびあらわれていた。
彼女は、青年期に自分が父親に対していだいたかなり激しい敵対心の奥に、父親への深く熱烈な愛情がひそんでいたのを意識化するようになった。父親固着の患者の場合、年長の男が父親を連想させるので、年長者につよい好意を示すのが普通である。

p177
これらの教え子は、父親への彼女の愛情が転移した二番目の人物にすぎないことがあきらかになった。この愛情が最初に転移したのは、彼女の息子に対してであった。彼女は自分の心が近親相姦的な愛情対象に集中するのを避けるために、愛情をさらに息子から、息子と同年輩の青年たちへと転移したのである。教え子に向けた愛情は逃避であり、父親の第一の化身である息子への愛情がとった第二の形態であった。・・・夫もまた、彼女より年下のずっと弱いパーソナリティの持ち主であって、夫のとの関係も、実に明瞭に、母親―息子的性格をもっていた。息子が生まれるとすぐに、夫への結びつきは情動的重要性を失ってしまった。

p178-179
私は、父親への愛情が子供に転移したこのような例を五例暑かった。普通、父親への感情は復活しても、無意識裡にとどまる。息子への感情が、性的な性質のものであることに患者が気づいていたのはニ例だけであった。それも通常、意識されていたのは、母親―息子関係に高度の情動的なものがこめられているということだけである。この親子関係の特徴を理解するには、関係本来の性質上、それが病的なものであらざるをえないことを了解しておく必要がある。幼児期の父親との関係が転移されるのは、近親相姦的な性的要素だけではない。これに、かつてこれらと必ず結びついていた敵対的な要素も加わる。嫉妬や欲求不満や罪悪感によって不可避的に強い感情が生じるから、その結果、ある程度の敵意感情が残存するのもやはり避けられない。もし父親に対する感情が、そっくりそのまま息子に転移されれば、息子は愛情だけでなく、古き敵意の対象ともなる。原則として、この愛情と敵意はともに抑圧されるが、母親が息子について過度に心配する態度を見せるという形で、この愛憎間の葛藤が意識に上る場合がある。この種の母親たちは、子供の周りには常に危険がみちみちており、幼い彼らがいつ病気になるか、伝染病にかかるか、事故にあうかわからないと、大げさな怖れをいだいて、その世話に夢中になる。先に話した婦人の場合も、自分の息子が数限りない危険にさらされていると信じて、その世話にすっかり没頭することによって、自分自身を内心の葛藤から守っていた。彼女は息子がまだ小さい頃には、身の回りのものすべてを消毒しないと気が済まなかった。息子が大きくなってからも、その身辺にごく些細な変調が生じても彼女は必ず学校を休んで家にとどまり、一生懸命世話をやいていた。

p179
こういう母親たちが息子のことを心配しすぎるのには、さらに別の理由がある。彼女らの愛情には、禁じられた近親相姦的な愛情の特徴がそなわっているから、彼女らは自分の手元から息子が連れ去られるのではないかという恐れを、絶えず抱くのである。

p180-181
父親固着の事例のいては、母親と娘との間に嫉妬が存在する為、ことがさらにこじれる場合が多い。母親と成熟していく娘との間に、ある程度の競争があるのは自然である。しかし、母親が自分自身のエディプス状況のために、娘に対して極端な対抗心を抱いている場合には、この競争はグロテスクな形をとり、娘がまだ赤ん坊のころから始まる。母親は子供をあれこれとおどしたり、つとめて馬鹿にしたり、けなしたり、また娘が魅力的に見えるのを妨げたり、男の子と会うのを邪魔したりする。そして、そこには常に、娘が女性として成長するのを妨げようとするひそかなねらいが隠されている。このようなさまざまな外的行動の背後に、嫉妬がひそんでいえることを探知するのは、必ずしも容易ではないかもしれないが、その全体的な心理機制は一つの単純な基本構造からなっているので、詳しく述べる必要はない。
女性が父親に対してではなく、母親に対して特別に強い結びつきを感じる場合に生じる、もっと複雑な解決方法を考えてみよう。私が分析したこの種の事例には、常にある種の特徴がめだっている。典型的な例をあげると、娘は母親に脅かされるとか、父親や兄との間柄において徹底的な失望や幻滅を体験したとか、何らかの理由があって、はやいうちから自分自身の女性的世界を嫌悪するようになることがある。幼いころに性的体験をもって、それが彼女をおびやかす性質のものだったりすることがある。あるいは兄の方がずっとかわいがられていたことを発見したりする。
こうした経験のすべての結果として、彼女はもってうまれた性的役割に情動的に背を向けてしまい、男性的傾向や男性的空想を育てるようになる。いったん男性的空想が心の中に育つと、もともとの男性への憤りに加えて、男性への競争的態度が生じる。こうした態度を身に付けた女性が、結婚生活に不向きなのは明白である。彼女らは不感症で、満たされることがない。彼女たちの男性的傾向は、例えば他人を支配したいという願望の中にあらわれてくる。こういう女性が結婚して子供ができると、子供に大げさな固着を示すようになりやすい。これはしばしば「鬱積したリビドーが子供に結び付けられている」といわれる。この言い方は正しいけれど、そこのどのような独自の過程が進行しているのかを少しも明らかにしていない。

p181-182
男性的傾向は、女性の支配的な態度や子供を完全に制御したいという欲望の形をとる。あるいは、これを恐れるあまり、かえって子供たちに対して放任的態度をとる場合もある。この二つの両極端のどちらか一方が、表にあらわれる。彼女は、子供の問題に首をつっこんで容赦なくせんさくするか、あるいは、そこに含まれているサディズム的傾向をおそれて、あえて干渉しようとせず、子供の言いなりになる。女性的役割に対する不満や憤りの故に、子供に向かって、男はけだもので、女は受難も動物だとか、女の役割はいやな哀れなものだとか、月経は病気(「女ののろい」)で、性交は夫の快楽のいけにえになることなどと教える結果になる。こうした母親たちは性的なものが少しでも子供にあらわれると我慢できない。娘だと特にそうだが、息子の場合でも、非常に多くの母親がそうである。
こうした男性的な母親たちは、別の母親たちが息子に向けるのと似た過度の固着を、娘に対して見せるようになることが非常に多い。娘の方も、それに応じて、強すぎる固着を母親に向けるものがきわめて多い。娘は自分自身の女性的役割から疎外され、結局あとになって、男性との正常な関係を達成するのが困難になってしまう。

p182-183
かつて、父親とか母親に向けられていたこの過去の幼児的おそれが自分自身の子供たちに転移され、子供について強度の、しかも漠然とした不安定な感情を生むことがある。これは複雑な理由から、とくに米国の親についていえると思える。親はこの怖れを主に二つの形であらわす。彼らは、子供たちに非難されるのをひどく恐れ、飲酒、喫煙、性的関係など自分たちの行いが、子供に批判されないかと心配する。あるいは、自分たちが子供に対して正しい教育やしつけをしているかどうか自身がなくて、たえず思い悩む。それは、子供に関するひそかな罪悪感のためであり、親はその罪悪感から子供に非難されないように、甘やかしすぎてしまうか、さもなければあからさまな敵意を向ける。つまり、攻撃を本能的に防衛手段として使用するようになる。
問題はまだ論じつくされていない。母親自身の親との葛藤から生じる、多くの間接的な問題がある。私の目的は、子供が過去の両親像をそっくりそのまま再現し、再現された像がかつて存在したのと同じ情動反応を強迫的に刺激する様を、明確にさせることであった。

p235-236
彼女たちの生育史にはきわめて規則的に生じ、かついちじるしく明白な感情に特徴づけられた一つの要因が認められる。すなわち、これらの患者たちは、いずれも小児期に男性(父親とか兄)を奪い合って、きわめてしばしば(十三例中七例)、姉がいろいろな手段によって父親のお気に入りになるという、陽のあたる場所を占めていた。姉が兄を独占していた事例が一つ、弟の愛を独占していた事例も一つある。一人の患者の場合、父親のお気に入りだった姉は、患者よりはるかに年が上であったため、幼い妹が父親の関心を引くのをとくに妨害する必要がなかったものと思われる。この患者を例外として、あとの患者たちはみな姉に対し激しい怒りをもっているのが、分析によってあきらかになった。怒りは二点に集中している。第一は姉や父親や兄や、後には他の男性たちを、上手く獲得するために使った女性的な媚びに向けられる。その怒りがあまりに強いため、患者は長期にわたって女性的な媚びに抗議しつづけ、そのために患者の女性的な技巧を完全に拒否することになり、自分自身の女性的魅力の発達が妨げられる結果になる。

p237
彼女たちはみな小児期を通じて、男の注意を獲得しようと、はじめから望みのない、あるいは結局は敗北に終わる激しい対抗心を体験している。父親を競って敗北する体験はいうまでもなく、家族状況の中で娘がたどる典型的な運命である。ただし、これらの事例では、母親が姉に性的に状況をすっかり支配していたり、あるいは父親や兄の側に特別な幻想が喚起されているため、対抗が一層激化し、特殊な彼女たちに典型的な結果が生じるのである。

p238-239
勝利を占めた競争相手に対するこの憎しみがたどる道はつぎのいずれかである。もし憎しみの大部分が前意識の域にとどまるなら、性愛面での失敗は他の女のせいにされる。憎しみがもっと深く抑圧されると、失敗の理由は患者自身のパーソナリティの中に求められる。すなわち、抑圧された憎しみが罪の感覚を生み、それと結びついた自虐的な不満が現れる。転移においては、これら二つの態度が交錯する様相や、一方が抑圧されると他方が自動的に強化される過程が、明白に観察される。母親なり姉なりへの怒りが抑制されると、患者の罪悪感は増大する。患者の自責が弱まると、他の人間に向けた怒りが激しくなる。患者にとっては、自分が不幸なのはだれかのせいなのである。つまり、悪いのが自分でないなら、他人が悪いはずである。もし他人が悪くないのなら、自分が悪いのである。これら二つの態度のうち、悪いのは自分なのだという感情のほうがはるかに強く抑圧されている。

p241-242
さらに別の防衛は、男性でありたいという願望の形をとる。ある患者は、見るからに男っぽいしぐさをしながら「女としては、私には何のとりえもありません。しかし私が男性であったなら、ずっとうまくいくんです」といった。第三の最も重要な防衛手段は、それでも自分は男性をひきつけることができるのだと証明することである。ここでもわれわれは、同じ種類の情動にでくわす。男なしでいたり、男と交渉をもったことが一切なかったり、処女のままであったり、未婚のままでいたりするのは、すべて恥辱であり、人から軽蔑されるもとであるという感情。讃美者であれ、友人であれ、恋人であれ、夫であれ、ともかく男性をもっているということは、女性が「正常」であることの証拠なのだという感情。それゆえに、男を追い求める必死の努力。根本的には、彼女にとって、相手はただ男でさえあればいいのである。もし相手が、彼女のナルチシズム的な満足を強めてくれるような性質をそなえているなら、それはそれで一層結構である。そうでないばあいには、種々の点で彼女の水準にひどく劣る男性を、彼女が無差別に相手にしている点がいちじるしく目立つことが多い。
しかし、この努力もまた、衣服の場合と同じく失敗に終わる。少なくとも、男性関係を持つことで、自分を女性として優れているのを立証することは、失敗に終わる。なぜなら、彼女たちは、つぎつぎと男をひきつけてうまく恋仲になっても、何かと理由をつけてその成功を認めないからである。例えば、その男の周りに女がいなかったので、私を恋するようになったにすぎないとか、この男は大した人間ではないのだとか、「とにかく、私が無理矢理彼をひきずりこんだのです」とか、「彼が私を愛しているのは、私がただ頭がいいからなのです」とか、「いろいろと私が役立つからにすぎないのです」などというのである。

p244
幼少期に母親とか姉に対して向けられた破壊衝動は、無意識の中では、依然として弱まることなく、確実に作用し続けているわけである。メラニー・クラインは、この破壊的衝動の重要性を非常に強調した。この破壊的衝動が、悪化し激化した競争心であり、これが患者の心を平静にさせないのだと解釈すると、理解しやすい。母親に向けられた衝動は、元々次のような意味を持っている。「あなたはお父さんと性交してはならない。お父さんの子供を産んではいけない。もし産んだりすると、あなたはひどい傷をうけて二度と産めなくなる。そして、永遠に無害な存在にされてしまうだろう」。・・・「自分が母を苦しめ傷つけたいと願う場面と同じ状況に自分がいることになったとき、母親に願ったことがそのまま、自分にもふりかかるのではないか」と恐れねばならない。

p245-246
全ての患者が男に対する破壊的衝動をも抱いている。これらは、夢の中では去勢衝動としてあらわれ、実生活の中では、他人を傷つけたいという願望や、あるいはそれに対する防衛という形をとる。しかし、こうした男性に対する破壊的衝動は、自分が正常でないという観念とあきらかにわずかしか接続していないので、男性に対する破壊的衝動が分析過程において解明されても、通常、抵抗はほとんどあらわれず、臨床像はまったく変化しない。他方、女性(母親や姉妹や分析医)に向けられた破壊的衝動があきらかにされ再現されると、不安は消滅する。逆に、不安が強すぎて、破壊衝動と結合した強い罪悪感が処理できない場合には、不安はいつまでもつづく。

p246-247
本来私は、患者たちが自分は正常ではないという観念をもちつづけるのは、彼女らが自分たちは男性的なのだという錯覚をいだき、それと同時に、自慰により陰茎を喪失したと考えたり、陰茎が生じるかもしれないと思いこんだりした結果、恥辱感を味わうからであると考えていた。私は彼女たちが男を追いかけるのは、一つには女性であることを補償的に強調するためと、もう一つには、自分が男になれないのなら、男性によって補完されたいと願うためだと考えていた。しかし、前述してきたように事態の経過がみせる力学から判断すると、自分が男性的なのだという空想は、力動的に有効な作用をみせておらず、前述したように、女性に対する対抗心に根差す二次的傾向の表出にすぎず、同時に、男として生まれてこなかったことに関する、不当な運命や母親に対する(さまざまに合理化された)非難であり、あるいは女性的な葛藤の苦痛からの逃避手段を、夢や空想の中に作り出そうとする要求の表現であると、私は確信するようになった。



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心の葛藤

2012-03-06 19:43:37 | カレン・ホーナイ
今日の読書。
「心の葛藤」

心の葛藤 / ホーナイ [著] ; 我妻洋, 佐々木譲訳. - 東京 : 誠信書房 , 1981.3. - (ホーナイ全集 / ホーナイ [著] ; 我妻洋, 安田一郎編 ; 第5巻).
Our inner conflicts


P24 人々のほうに動く、人々に対して動く、人々から離れるという三種の主要な道筋
人々の方に動く場合、子どもは自分自身の無力さを受け入れ、他人に対して疎隔感や恐れを抱きながらも、他にの情愛を獲得することに勤め、他人に頼ろうとする。そうすることによって、子どもは他人と一緒にいることに安心感を抱ける。M沿い家庭内に対立があれば、子どもは一番力の強い家族員かグループの側につく。彼らに追従することによって所属感や被指示感が得られ、自己の弱小感と孤独感が軽減される。
人々に対して動く時、子どもは周囲からの敵意を当然ことと考えて受け入れ、意識的、無意識的にその敵意と戦う決心をする。子どもは、自分に向けられた他人の感情や意図を、絶対に信用しない。あらゆる方法で反抗し、自己防衛と復讐のために、強者となって他人を打ち負かしたいと望む。
人々から離れる場合、子どもは所属することも戦うことも望まず、他人から離れていることだけを望む。子どもは、自分には他人と共通点も少なく、他人から理解もされないと感じる。そして、自然や玩具や本や夢を使って、自分だけの世界を作り上げる。
・ ・・第一の態度では無力感、第二では敵意、第三では孤独感である。

【人々の方に動く指向性】
P33 彼は、他人の期待や、彼が他人の期待だと思い込んでいるものに応じようとして、ほとんど自動的に努力し、そのために自分ノ本当の感情が何であるのかがわからなくなってしまう。

P34 彼は自己犠牲的な、他人への注文の少ない、利他的な人間になる。追従的な、思いやりの過剰な(彼に可能な範囲内でだが)、やたらに同情や感謝をする寛容な人間になる。そして、自分が、心のそこでは他人をそれほど尊重してはおらず、寧ろ他人のことを偽善的な我利我利亡者だと考えがちであることは全く気づかない。・・・彼は「私は全ての人間が好きだ。人間は皆親切で信用できる」と思い込んでいる。

P35 個人は自分が無力であることを自分にも他人にも率直に認める。それが、夢の中で劇的に強調されることもある。個人は相手の心を動かしたり自己を防衛する手段として、無力さをしばしば利用する。「私は弱くて無力な人間なのだから、私は貴方を愛し、保護し、赦さなければならない。私を見捨てては鳴らない」というわけである。

P36 典型的な特徴は、他人の評価どおりに自己を評価する、無意識的傾向である。彼の自己評価は、他人の承認と否認と他人の情愛の有無とに応じて、上がったり下がったりする。従って、拒否はどのようなものであっても、彼にとってはまさに破局である。・・・右の頬を打たれて彼が左の頬をも差し出すのは、ある種の神秘的なマゾヒズム的欲どうなどではなく、彼の内的前提を基礎にしていえば、それが彼にできるただひとつの行為だからである。

P37 彼らを分析すると、強く抑圧された様々な攻撃傾向が発見される。他人への過度な期使いとは全く裏腹に、他人に対する冷淡な無関心、反抗的態度、他人に寄生して搾取しようとする無意識的傾向、他人を統制し操作しようとする性向、他人を追い越し勝利を勝ち取って他人に復讐しようとする冷酷さが、認められる。

P39 個人は攻撃的傾向とはおよそ正反対の態度をとり、自分が何かを自分ノために望んでいると見られるような行動は一切とらず、他人の要求は決して拒絶せず、相手が誰であっても常に好意を寄せ、自分はいつも目立たぬように後に控えている。

P40 追従型の諸特徴は、大抵二重の動機を持っている。例えば、追従型の人間が他人に従属するのは、軋轢を回避し、他人との調和を成就するためであるが、これは同時に、他人を凌駕したいという要求を意識から跡形なく除去するためである。また、他人に利用させることに甘んじるのは、自分が親切で人のいいことを示すためであるが、これはまた、他人を搾取したいといいう彼自身の願望から目を背けておくためである。


P41 追従型の人間はしばしば愛の獲得こそ、努力に値する唯一の目標であり、生きがいだと考える。・・・愛だけが神経症的要求の全てを充足させる唯一の方法なのである。

P42 「私は弱く無力だ。この敵意に満ちた外界に一人ぼっちでいる限り、無力な私は危険に怯えなければならない。しかし、もし誰よりも私を愛してくれるひとが見つかれば、その人が私を守ってくれるから、私はもはや危険ではなくなる。その人と一緒にいれば、私が頼んだり説明しなくても、私の欲しいものを理解して与えてくれるから、私は自己主張をする必要がなくなる。事実、私の弱さは私にとって有利な条件になる。なぜなら、その人は私の無力さを愛し、私はその人の力にすがれるようになるからだ。自分だけのために何かを自発的に行うことは私にはできないが、その人のためにやるのであれば、いやその人の希望の応じて自分ノためにやるのであっても、積極的にできる」・・・「私には孤独は耐えがたい。誰かと一緒でなければなにをしても楽しくない。」

【人々に対して動く指向性】

P55 追従型が様々に分岐した欲動を融合させてくれるものとして、愛に期待をかけるように、攻撃型は承認に期待する。

【人々から離れる指向性】

P60 特徴は、自己からの疎外、すなわち、情動的体験に対する感受性の鈍磨、自分が何であるのか、何を愛し、憎み、望み、願い、恐れ、憤り、信じているのかわからなくなった状態である。

P61 彼らは、人生一般に対してと同じく、自分自身に対しても傍観者的態度を持っている。・・・最も重要な点は、彼らが、自分自身と他人との間に情動的な距離を保ちたいという内的要求を持つことである。より性格にいうなら、彼らは愛や戦いや協力や競争など、他人との情動的な係わり合いは、一切回避し様と、意識的、無意識的に決心している。

P62 何人にも、何ものにも、愛着を抱かず、自分にとって不可欠なものは一切創らないという離反型の人間の基本原則

P63 第二の目だった要求は、プライバシーへの要求である。・・・離反型の人間は、他人からなれなれしく仲間内扱いをされると、ひどく腹を立てることがある。自分の内部に踏み込んでこられたように、感じるからである。彼は害して独りではたらき、眠り、食べるのを好む。追従型とは正反対に、どのような体験でも他人と共有するのを嫌う。他人にかき乱されるのがいやだからである。

P65 世間一般が受け入れている行動基準とか伝統的な価値体系に応じて行動することが、彼には我慢がならない。いざこざを避けるために表面だけ同調することはあるが、心の中では頑固に一切の慣習的な規則や基準を拒否する。
 離反と優越とはほとんど常に結びついている。

P66 自分はほかの人々と違った重要な存在だ、という感情がなければ、おそらく孤立には耐えられないであろう。・・・具体的な失敗体験や内的葛藤の増大によって優越感が一時崩れると、離反型の人間は孤独に耐えられなくなり、必死になって情愛や保護を求める。この種の同様は、彼の生活しの中にしばしば現れる。・・・年をとるにつれ、自分ノ夢が実現していないことを悟る。そして、孤独に耐えられなくなり他人との親密さ、性関係や結婚を求める強迫的な欲動のとりことなる。愛してさえもらえるのなら、どんな屈辱も甘んじて受ける気持ちになる。

P67 追従型の人間なら、相手に対して「彼は私に好意をもつだろうか」と問いかけ、攻撃型の人間なら、相手が「どれくらい強い競争相手か」「果たして自分の役にたつだろうか」と考えるところを、離反型のにんげんは、相手が「私の邪魔をするだろうか」「私に影響を与えたがっているのだろうか。それとも、私をほおっておいてくれるだろうか」といいうことに、まず関心を向ける。

P76 もし愛と独立のいずれかを選ばねばならぬとしたら、彼はためらいなく独立を選ぶ。

P79 離反に含まれる神経症的傾向は、他の神経症的傾向と同じく、機能しつづけている限り個人に安心感を与えるが、その機能が停止すると逆に不安が生じる。離反的人間は、他人との間に距離を保ている限り、比較的安全だと感じている。しかし、何らかの理由で魔法の円が破られると、彼の安全感は脅かされる。

P83 他人との安全な距離を保っておく限り、他人との関係で煩わされる必要はないし、他人から離れてさえいれば、こうした関係での障害に煩わされる心配もない。・・・離反から抜け出すつもりはないのだから、事態を解決する必要などない。・・・ただし、彼は人間関係を含まないような真空状態の中では、誰も決して成長できず発展も遂げられないという事実を無視し、それを認めることを長い間拒んでいるのである。


P88 理想化された自己像は、真の理想に比べて静的である。理想化された自己像は、個人が努力して達成しようとする目標ではなく、崇拝の対象となった固定観念である。真の理想は本来動的であって、人々に理想に近づこうとする努力をさせる。・・・真の理想は人を検挙にするが、理想化された自己像は人を傲慢にする。

P149 一般に、神経症的な人間は、無視や屈辱や嘲笑を恐れるあまり、他人から離れ、他人に敵意を抱く。しかし、さらに重要なのは、この恐れが、恐れに悩む人間たちをどこまでも無力にしてゆく点である。彼らは、他人から何かを期待することも、自分に高い目標をかすることも、全くできない。彼らは、何らかの点で自分より優れていると思われる人々には、決して近づけない。実際には、何らかの役に立てる場合にでも、彼らは意見を述べようとしない。例え想像力的能力をもっていても、これを発揮しようとしない。自分の魅力を高めたり他人に自分を印象付けたり、より高い地位を得ようとしたりといったことは、一切行わない。こうした行為のどれかを試みたいという誘惑に刈られると、失敗してさんざん嘲笑されるに違いないという恐れに囚われて、しり込みしてしまう。そして彼らは控えめな威厳の中に、逃げ込むのである。

P182 神経症的な人間は、一時的に幸福感を獲得しても、様々な傷つきやすさや恐れのゆえに、その幸福感はあまりにも簡単に壊れてしまう。

P183 神経症的な人間は、外的な変化によって、幸福な世界が実現するのを期待するが、事態が新しくなっても、彼は相変わらずの自分自身と神経症とをそこに持ち込んでいる。

P199 サディズム的な人間は、他人、特に自分の相棒を奴隷にしたがる。奴隷にされる犠牲者は、願望も感情も自発性もなく、主人に対してどのような要求も抱かない。超人の奴隷でなければ鳴らない。

P200 サディズム的な人間は、二人の関係が、相棒にとって保ち甲斐のあるものでありつづけるよう、最小限の報酬を相手に与える。相棒の要求の一部をかなえてやる。ただし、相棒を心理的に生存可能な最低限ぎりぎりのところにおいて、それ以上には要求をかなえてやらない。
 サディズム的な人間は、相手に対する独占欲が強く、相手に対して侮蔑的であるために、相手を他人から孤立させてしまう。
 相棒は、追従型の人間で、棄てられるのを恐れていることが多い。だが、自分自身のサディズム的欲動を深く抑圧し、そのために無力になっている場合もある。

P201 サディズム的欲望が、すべて、相手を奴隷扱いにするわけではない。別の種類のサディズムは、楽器を演奏するように、相手の情動を操作することに満足を見出す。

P206 フロムによれば、サディズム的な人間は、自分が愛着を抱く相手を破壊し様とは欲しないが、自分自身の人生を主体的に生きることができないので、相手を共棲的存在のために利用しなければならない。

P210 彼は、悪くなることに成功し、一種の絶望的な喜びを抱きながら悪にふける。

P212 サディストの人格の全細胞に毒薬のように染み込んでいる復讐心について
 サディストが報復的であり、報復的であらざるを得ないのは、自分への激烈な軽蔑を外部に向けるからである。・・・彼は、一切の絶望の源が、自己内部に存することを理解できないために、自分が絶望しているのは、他人が悪いからだと考えなければならない。他人が彼の人生を駄目にしたのであり、他人がその償いをしなければならない。彼らがどんな目に会おうとも、それは、自業自得なのである。何よりもこの復讐心が、彼の中の同情心や哀れみを殺してしまう。

P213 彼が他人をみじめにするのは、それによって自分の不幸を緩和するためである。・・・サディズムは絶望から生じる。・・・他人を侮蔑すれば、耐えがたい自己軽蔑が軽減されるだけでなく、優越感もいだける。他人の人生を意のままに動かせば、他人に対して賢慮ッ区を用いるスリルを味わえるだけでなく、自分ノ人生の異議の代用品も手に入れられる。・・・復讐の戦いにおける勝利へのこの渇望こそが、おそらく彼のもっとも強烈な動機なのである。

P214 サディズム的な人間の情動生活は、空虚である。怒りと勝利感以外の情動は、ほとんど全部が枯渇している。いわば内面で死んでしまっているから、生きていると感じるためには、これらの強烈な刺激が必要なのである。・・・自分の情動的要求に他人を奉仕させる力を奪われてしまうと、彼は、自分がみじめで無力な存在になったと感じる。

P215 彼が目標を追求する時の無謀さは、絶望のあまり生じた無謀さである。彼には、失うものはもう何もない、どう転んでも、何かが得られる。この意味で、サディズム的な努力は、積極的な目標をもっており、回復の試みとみなされなければならない。目標がこれほど熱烈に追求されるのは、他人に勝つことによって、サディズム的人間が自分ノ敗北感を除去できるからなのである。

P216 報復を恐れる不安の発生。・・・彼は、他人が自分のことを、できれば「ひどいめにあわせたい」と思っているに違いない。それが当然だと考える。そして、だからこそ、絶えず攻撃にでてそれを防がねばならないのだと考える。

P217 我々は、サディズムが思い神経症の最終段階であることを、忘れてはならない。

P218 追従型は愛情という無意識の口実の下に、相棒をとりこにする。・・・攻撃的なタイプは、サディズム的傾向を全くあからさまに表出する。・・・離反型の個人のサディズム的傾向の表出の仕方は、驚くほど控えめである。彼はひそかに、他人を挫折させる。

P219 他人を搾取したい衝動と逆の態度をとれば、自己卑下の傾向が前面にでてくる。そして、個人は、願望を一切表明しないばかりか、願望を持とうとさえしなくなる。他人に虐待されても手向かわず、他人に虐待されたとさえ感じなくなる。他人の期待や要請の法が、自分のものより正当でかつ重要だと考え勝ちになり、自分の利益を主張するよりは、他人から搾取されるほうを選ぶ。こうした個人は、いわば腹背に敵を受けている。彼は自分自身の搾取衝動に怯えているが、同時に、自己主張のできない自分を臆病と断じて、さげすむ。そして、他人から搾取されるとーーそういう事態は当然生じるがーー解決不能なディレンマに囚われ、抑うつ症状か、何らかの機能障害に悩まされる。

P220 同様に、他人を挫折させる代わりに、彼は、自分が他人を失望させていないか、他人への思いやりや寛大さに欠けていないかと、過度に心配する。・・・反射的に自分を悪者にして、やたらと相手に許しをこう。相手を批判しなければならないときには、考えられる限りおだやかな形で行う。・・・しかし、彼は屈辱に対しては過度に敏感であり、耐えがたい苦痛を味わっている。
他人の情動をもてあそぼうとするサディズム的衝動が深く抑圧されていると、個人は、他人をひきつける力が自分には全くないという感情を抱く。・・・分析療法の期間中に、患者が自分の恋愛関係の全体像を無意識にゆがめていたことが、次第に明らかになる。・・・醜いアヒルの子は、自分に他人をひきつけたいという欲望と、そうする能力があることを、自覚する。だが、他人が彼の求愛を本気にして、これに応じると、途端に、憤りと侮蔑をこめて相手に背を向けてしまう。

P221 明らかにサディズム的な人間は、攻撃型に属するのが普通だが、逆のサディストは概してまず追従型傾向を主として発達させる。彼は、幼児期に特にひどい仕打ちを受け、力づくで他人に屈従させられた可能性が強い。彼は、自分の感情を偽り、圧迫者に対して反抗する代わりに、これを愛するようになることがある。成長してからはーー多分、思春期頃にーー葛藤が耐えがたいほど激しくなるので、彼は離反に逃げ込む。しかし、失敗にぶつかると、もはや象牙の塔に孤立しているわけに行かなくなる。そこで、以前の依存状態に逆戻りするようにも見えるが、ひとつだけ以前と違うところがある。彼の情愛への要求は、絶望的なほど激しくなっているので、のけものにされないためなら、彼はどんな犠牲でも喜んで払う気になっている。しかし、誰かの情愛を獲得する見込みはきわめて少ない。以前から存在する離反への要求が、誰かと親しくなりたいといいう彼の願望を、絶えず妨害するからである。この葛藤に疲れ果てて、彼は絶望しサディズム的傾向を発展させる。しかし、人々を求める要求が執拗に存続するために、彼は自分のサディズム的傾向を抑圧するだけでなく、それらを隠すために全く逆の態度をとらなければならない。

P222 こうした個人にとっては、他人と一緒に居ることは緊張のもととなる。彼はぎこちなく、固くなる。自分のサディズム的衝動とは、全く逆の役割を、絶えず演じる必要に迫られる。そして当然のことながら、自分は人間が好きなのだと本気で思い込むようになる。だから、自分に他人への感情などほとんどなく、あってもそれがどんな性質のものかわかっていないという事実を、分析療法の場で自覚すると、非常なショック受ける。・・・他人への肯定的な感情が始まるのは、彼がサディズム的衝動を自覚して克服し始める時である。

P223 彼はマゾヒズム的であるかのような印象を与える。しかし誤解を招きやすいので、代わりにこの現象に含まれている諸要素を記述するほうがよい。逆のサディストは、自己主張が広範囲にわたって制止されているために、いつでも他人から不当な扱いを受けやすい。しかし、それに加えて、彼は、自分の弱さに腹を立ててもいるから、おおっぴらにサディズム的行動をとれる個人に、賞賛と嫌悪とを同時に抱きながら、魅力を感じる。一方、おおっぴらにサディズム的な人間のほうでも、彼の中に進んで犠牲になろうとするものを感じ取って、彼に惹かれる。こうして、彼は、自らを搾取や挫折や屈辱の中に置くようになる。しかし、彼はそれを楽しむどころか、そのために苦しむのである。

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神経症と人間の成長

2012-03-06 19:42:59 | カレン・ホーナイ
一番最初に読んだホーナイの本。
この本に出会えてよかった。

神経症と人間の成長 / ホーナイ [著] ; 榎本譲, 丹治竜郎訳. - 東京 : 誠信書房 , 1998.6. - (ホーナイ全集 / ホーナイ [著] ; 我妻洋, 安田一郎編 ; 第6巻).

P202 キルケゴールによれば、自己の喪失とは、「死に至る病」であり、絶望である。それは自己の存在を意識できないことに対する絶望であり、あるいは、自分自身であろうという意志をもてないことへの絶望である。

P203 この疎外は同じく強迫的な過程を通じて拡大するが、これは真の自己から離れ去ろうとする能動的な動きとして記述できる。・・・神経症者は自分が感じるべきものを感じ、望むべきものを望み、好むべきものを好む。言い換えれば、「べき」という欲動の専制によって、現在の自分とは異なった何かに向かって、あるいは自分が持つ可能性とは違った何かに向かって熱狂的に駆り立てられる。そして想像力の中で彼は別な自分になる。

P205 自分自身から隔てられ疎遠になるという神経商社の主観的感情に他ならない。精神分析を通じて彼は、自分について知性的に語る事柄のすべてがじつは自分や自分の生活とは何のかかわりもないことに気づく。自分が語ったことは、自分のほとんど知らない誰かのことであり、その人についての話としては興味深いが、自分の生活とは無縁だったことに気づくのである。・・・だから彼は「実感」を持たずに自分のことを話、全く同様に実感がないまま仕事をし、友人とすごし、散歩し、女性と練るのである。自分自身への彼のかかわりは非個人的なものになっており、人生全体への彼の関わりも同様である。

P207 自己についての真の感情は力を失い、減少し、時には消え去っている。要するに自尊心が感情を支配するのである。

P208 自尊心が優勢に鳴ればなるほど、感情反応は自尊心だけをよりどころにして表現されるようになる。それはまるで真の自己を防音室に閉じ込めて、自尊心の声だけを聞いているかのようだ。このとき、満足感も不満も、落胆も意気盛んな気持ちも、他人の好き嫌いも、感情は主として自尊心の反応となる。

P210 神経症者の中には活発な感情の動きを示して偽りの自発性を見せるものがいる。彼らは容易に熱中したり絶望するし、すぐ興奮して愛したり起こったりする。だが、そうした感情は何ら心のそこから出てきたものではない。・・・自己疎外があるために、彼らは状況の要請に応じてカメレオンのようにパーソナリティを変えることができる。彼らは生活の中で常に何らかの役割を演じて見せるが、自分が優れた役者のように芝居をし、その役割にみあった感情を表しているだけということに気が付かない。・・・彼らは内的命令に従って感じるべきことを自動的に感じているに過ぎない。

P215 自分のことは自分で決めるように任されると、途方にくれてしまう。・・内部に事故方向付けの力がないことが彼らの「従順さ」の本質的な要因であるわけだが、このことは後に内面的な自律を獲得するための闘争が始まるとき明らかになる。この過程で生じる不安は、週間になっている他人への援助を放棄し様としながらも、まだ自分自身を信用できずにいるという状況と関連する。

P219 自己に対してどんな責任も引き受ける能力がないということは、自己疎外全体の一表現に他ならない。

P277 彼は、意識の上でも他人よりも優れているとは感じてはならないし、他人に対してそのような感情を示してもならないのである。反対に、彼は自分自身を他人に従属させ、他人に依存し、他人の機嫌を取ろうとする傾向を持っている。もっとも特徴的なことは、無力さと苦しみに対する態度が自己拡張タイプのそれとは正反対であることだ。こうした情態を嫌悪するどころか、彼はそれを育み、知らず知らずの内にそれを誇張するのである。従って、他人の態度の中に称賛とか認知といった彼を優位な立場に立たせるような何かが現れると、どんな場合でも彼は不安に陥るのだ。彼が切望しているのは援助であり、保護であり、献身的な愛なのだ。

P279 完全に合法的な要求をする場合ですら、彼は他人を不当に利用しているかのように感じてしまうのだ。そして彼は要求を控えてしまうか、要求するとしても、申し訳なさそうに良心のとがめを感じながらそうするのである。実際に彼に依存している人々に対してすら、彼は無力であるかもしれない。そのため、彼らが彼を侮蔑的な態度で扱ったときでも、彼は自分自身を守ることができないかもしれない。・・・彼は無防備で、しばしば相当後になって初めてそのことに気づき、それから自分自身や搾取者に対する激しい怒りの反応を示すのである。

P285 自分自身のためと鳴ると何をするにしても意欲を削がれてしまう一方で、彼は、他人のためとなれば自発的に何事も行うばかりか、献身、寛大、思いやり、理解、同情心、犠牲の究極的な体現者であるべきだという内的命令に従うのである。実際、彼の考えでは、愛と犠牲は緊密に結びついているのである。愛のためには全てを犠牲にすべきなのだ。――愛とは犠牲である。

P287 反抗したいという願望が愛情を受けたいという欲求と戦っていた数年間が過ぎると、彼は敵意を抑制し、闘争心を放棄してしまい、愛情に対する欲求が勝利をとげてしまったのである。

P288 自己消去タイプは彼の幼児期の発達から生まれてきた欲求を自己理想化によって解決するのである。しかし、彼はひとつの方法でしかそうすることができない。彼の理想化された自己像は、主として、無私的、善良、寛大、謙虚、高徳、同情心などの「愛される」性質の混合物である。無力、苦悩、殉死もまた二次的に称揚される。

P293 彼は、受け入れられ、認められ、必要とされ、望まれ、好かれ、愛され、評価されているという感じを他人から与えてもらうことによって、自らの内的な立場を強めてもらおうと他人の助けを求めるのだ。彼の救いは他者にある。

P297 愛なくしては、彼および彼の人生には価値も意味もないのである。それゆえ愛は、自己消去的解決策の本質的な部分なのである。・・・彼は、心のそこで愛による救済を期待している。

P298 神経症は常に起こることだが、欲求は権利主張へと変化してしまう。・・・「私には、愛され、情愛を受け、理解され、同情される権利がある。私は、様々なことをしてもらう権利を持っている。自ら進んで幸福を追求する権利ではなく、どこからともなく幸福に転がり込んできてもらう権利をもっているのだ」

P304 報復的な怒りを表現する彼のもっとも特徴的な仕方は、またもや苦しみを通して怒りを表現するという仕方である。彼が持っているあらゆる心身の症状によって、または虚脱感や抑うつ感によってますます激しくなる苦しみの中に、怒りは吸収されうるのである。・・・(その苦しみには)怒りを吸収し他人に罪を感じさせるという機能(がある)

P307 完結に言えば、彼の苦しみは他人を非難し、彼自身を容赦するのだ。

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精神分析とは何か

2012-03-06 19:42:20 | カレン・ホーナイ
今日の読書。「精神分析とは何か」
すっごい難しい。


精神分析とは何か / ホーナイ [著] ; 我妻洋, 川口茂雄, 西上裕司訳. - 東京 : 誠信書房 , 1976. - (ホーナイ全集 / ホーナイ [著] ; 我妻洋, 安田一郎編 ; 第7巻).


p12
精神分析はもともと、治療方法としてはじめられたものであって、正しく用いられれば、最初から心の苦痛を和らげる過程として、継続的に効果を持つ。医者が患者を「統合」することなど決してないのであって、寧ろ患者が神経症的混乱から自己を解放するようになると同時に、彼自身の内部の建設的な力が働きだして、彼を人間として成長せしめるのである。

p13
経験豊かな分析医は、助言したり、教えようとはしない。彼の意図は、患者に自己表出を促し、心を次第に開かせ、それを通して患者が、自分が実際にどんな生活を送っているかを理解し、感じ取れるように援助するところにある。

p15
「なぜ精神分析が必要なのか」という質問に対して、分析医は次のように応えるだろう。「なぜなら、精神分析は個人の意識下の生活すべてを作りあげている未知、未婚の暗黒大陸の内部へ通じる小径に光を投げる、最初の医学体系だからである。精神分析の援助によって、個人は自分の生活の暗黒領域に触れ、深層に隠された強さや弱さの源泉を知ることができるからである。また精神分析は、パーソナリティ障害の原因となっている後天的な無意識の葛藤や他の要因を明らかにし、消去し、創造的・建設的な生き方への潜在能力を明らかにし、解放することに最も効果的な方法だからである」と。

p17-18
症状は葛藤する諸傾向を自覚せずにいるための自己欺瞞的な策略であることを、われわれは念頭におく必要がある。従って、患者は症状を除去してほしいと依頼はしても、実は心底では、症状が取り除かれてしまうのを恐れてもいる。精神分析は、本来、症状をただちに除去しようとするものではない。むしろ、症状が全人格を構成している不可欠な重要な要素であることに注意深く留意し、症状が神経症の体系のなかで、防御的な目的とか、無意識的な機能を果たしている点を十分に理解し、各症状が何を表出しようとしているのか、患者に何を意味し、どう役立っているのかを、明確に理解しようとするのである。

p21
人生の初期における個人の症状や神経症的な生活パターンは実は人生の問題を解決して、健全な成長を遂げ、自己表出をしようとする個人の最初の試みだったのである。

p22
大切なのは、分析の目標が個人の弱さを露呈させることではないという点である。啓示が進むと、究極には、その人の強さが出現するのである。個人の弱さと考えられたり、感じられたりする諸要素は、常に二次的なものであり、個人の本来の根本的な強さと独特の潜在能力とをかくしたり、おおったりしている網でもあり、もつれであり、防衛なのである。精神分析は、このように葛藤に満ち浪費的な生活パターンから個人のエネルギーを解放するのである。

190
ところで、分析医が患者の性格をある程度理解したとして、分析医が患者の自己理解を助け、またそうして得られた洞察を基に自分を変えてゆくのを手伝うにあたって、個の理解の成果をどのように活用すればいいのだろうか。まず第一に、分析医は患者が報告したことを解釈する。つまり、それがもっていると思われる意味を示唆する。解釈の目的は、無意識の過程を明らかにすることにある。無意識の過程は、愛情や支配や勝利への神経症的要求など、患者の無意識の強迫的要素だったり、また、独立への要求と、同じように強い責任回避の要求との間の無意識の葛藤であったり、あるいは、理想化された自己像を作り上げたり、他人から一定の距離を保ったり、世の中の低い地位に甘んじたり、現実を捨てて空想の中に生きたりして、葛藤を解消しようとする患者の試みだったりする。無意識の過程は、患者の神経症的傾向や、葛藤や、解決への試みが、その実生活や、分析治療の場や、夢の中で、作用する仕方に関連している場合もあるし、患者をして彼独自の神経症的解決方法に執拗にしがみつかしめている内的要求にかかわっていることもある。最も重要なのは、神経症的過程の形成が、患者の生活、自身、幸福、仕事、愛情生活、社会関係の上に、どのようにして強い影響を与えているかである。そして、これらのあらゆる要因が、患者の神経症症状と表面にあらわれた障害をどのようにして生み出し、維持するか<つまり、患者の病的恐怖、不眠症、飲酒、片頭痛、仕事についての制止などへどのように影響しているか〉である。

p193
解釈が、有効であるためには、適切であるだけでなく、時機を得ていなければならない。どんなに適切な解釈でも、時機が悪ければ患者にとって無意味なものになる。場合によっては、毒にも薬にもならない。時によっては、時機尚早な解釈は、いたずらに患者を動揺させ、有害である。

p198-199
「一般的な人間的援助」と私が呼ぶのは、分析医が患者を解釈によってではなく、患者に対する態度を通して援助する方法のことである。このばあいの「態度」とは、相手を理解しようとする意欲、患者の成長に対するたゆまぬ関心、その能力への信頼、患者の悩みに圧倒されることなく、しかも同情をもってこれを観察し、患者のおべっかに動かされたり、攻撃的な要請や敵意にみちた挑戦を恐れぬ毅然たる姿勢などを含む。このような泰殿価値を過小評価する人と過大評価する人がいる。フロイトは、分析医の仕事を主として知的なものと考え、分析のパーソナリティの参加が少なければ少ないほど治療効果は大きいと主張した。この点に関するフロイトの忠告は、分析医は非難をしてはいけないとか、患者の神経症的要請に応じてはいけないという具合に、禁止事項ばかりである。これと全く反対に、分析医が患者にさしのべる友情こそ、人間関係の障害の治療に不可欠のものであると主張する人々もある。こうした意見には、分析医には快く患者にはありがたいが、患者と分析医は共同作業をするために接触しているのだという基本的な命題を曖昧にしがちである。
ここで読者は、患者と分析医との関係は一種の友情関係ではないのかという疑問を持たれるかもしれない。ある意味では、それは、最善の状態においては一種の友情であるが、私はこれを友情とみなすことにためらいを覚える。真の友情に不可欠な、自発性相互性を欠くからである。

p200
患者と分析医との関係は、本質的には機能的なものである。

p203-204
分析医が患者を援助するもう一つの仕方は、患者をあるがままに受容することである、というのはどういう意味か。また、なぜこれが重要なのか。これは科学的客観性を意味する場合もある。フロイトは、分析医が科学者の目で患者を見つめ、価値判断を排除することを期待した。しかし、こういう期待は不自然な事態をつくりださざるをえない。人間の行動や同期が問題になっているときに、自分自身の価値体系を排除できる人間はいないからである。現に、患者自身も、分析医がそのような客観性を保持しているとは信じていないのであって、ただ、治療に必要だからそのようなことをいわれるのだと思っているにすぎない。
あるがままに受容するというのは、寛容な態度を意味することもある。多くの患者が自責の念を抱いているから、分析医が寛容であることは、むろん、重要である。患者の中には、分析医の寛容さをみせかけのものにすぎぬと思うものもあるが、分析医は患者の理解に努めているのだから、その寛容さは本当のものである。
患者をあるがままに受容するというのは、分析医が患者を、発展過程にある一人の人間とみなして関心を持ち、患者の前進的な動きをすべて歓迎するという意味でもある。このような態度が、どんなに貴重であるかについて、読者の理解を助けるために、あるいは読者にとって意外であるかもしれぬことを述べよう。分析の開始に当たっては、患者は、一般に、自分のあるがままの姿には関心を持っていない。彼は常に、自分のあるべき姿に関心を持ち、そうなれない、欠点の多い自分を責めている。だが、その欠点を是正しようとは試みない。むろん、こういう態度は分析されねばならない。だが、患者を助けて自分の現実の自己に建設的な関心を持つようにさせるのは、患者のあるがままの姿と、彼の持つ可能性に対する、分析医のたえまない関心なのである。
分析医が、このような肯定的な態度をとれるのは、患者の内部に建設的な力があって、これが最終的には、彼をして、神経症的葛藤を解決させるのだと信じているからである。

p231
分析が終わっても、全ての問題が解決したわけではなく、これから克服していかなければならない問題が残っていることがあるというと、それでは話が違うという人がある。私の患者の中にも、私が今後も自己分析を続けていかなければならないと指摘するとひどく動揺したものが多い。彼らは、分析終了と共に万事が「完成」することを期待していたからである。悩みや葛藤が全然なく、創造と生活享受の能力が絶対的となる平穏な天国に到達できると期待していたからである。・・・・人間としての個人の成長は、個人が生きる限り続きうるし、また続かねばならぬ一つの過程である。従って、自分を知る手段としての精神分析は、本質的には終結することのない過程なのである。

p234-235
分析が終わると、どのようによくなるのかの箇所
①まず第一に、患者は、生活目標を明確にさせ、自分自身の持つ価値をはっきりと認識していなくてはならない。
②第二に、患者は現実にしっかりと立脚していなくてはならない。すなわち、自分についての非現実的な理想像を実現しようとして努力したり、自分を超人的な存在だと空想するのをやめて、ありのままの自分を直視し、自分が現実に何になれるかを見極めることに関心を持つようになっている必要がある。
③最後に、患者は自分の問題の解決に努力し続ける意欲を充分に持っていなくてはならない。つまり、漠とした絶望感や、その絶望感の結果生ずる私には何もできないと言った無力感を克服していなくてはならない。

P10 神経症的障害の発見が困難なのは、本人たちが人生に対する強迫的な態度を性格上の美徳に変形させて、自らをごまかしている場合も多い。例えば、ネガティビズム(訳注 緊張病症状郡の一つで、すべてのことを拒否し、これに反対する態度や身振りをする病的な行動を言う。例えば、口を開くように命ずると固く閉じ、手をとろうとすれば、引っ込める)的な反抗や反対が、たくましい個人主義や独創性と間違えられて賞賛を受けたり、自発的でない従順さが忠誠心の表れと見違えられる。P11 相手の要求をはっきりと拒否する能力の欠如が博愛主義や親切心と間違えられ、自己の意見をもてないことが寛容さや寛大さととられる。一つのことに精神を集中し、関心を持続し、これをやりぬく能力の欠如が、多芸多能の証拠として賞賛され、他人と性的に親密になることへの恐れは、貞節さとしてたたえられる。

P15 「なぜ精神分析が必要なのか」という質問に対して、分析医は次のように答えるだろう。「なぜなら、精神分析は、個人の意識下の生活のすべてをつくりあげている未知、未踏の暗黒大陸の内部へと通じる小径に光を投げる、最初の医学体系だからである。
精神分析の援助によって、個人は自分の生活の暗黒領域に触れ、深層に隠された強さや弱さの源泉を知ることができるからである。また精神分析は、パーソナリティ障害の原因となっている後天的な無意識の葛藤や他の要因を明らかにし、消去し、創造的、建設的な生き方への潜在能力を明らかにし、開放することに最も効果的な方法だからである。」と。

P16 患者が自分の内部の力を発見し、本当の自己と本当の感情と、変化や成育への本当の能力を初めて正しく評価できるようになるのは、彼が自覚を増してゆく過程、すなわち、分析医との個人的な関係を媒介にして現れてくる。さまざまな葛藤と態度と感情とに直面してゆく、もがき苦しみの情動的過程struggling emotional processを通してなのである、と。

P17 精神分析は、症状を直ちに除去しようとするものではない。むしろ、症状が全人格を構成している不可欠な重要な要素であることに注意深く留意し、症状が神経症の体系の中で、防御的な目的とか、無意識的な機能を果たしている点を十分に理解し、各症状が何を表出しようとしているのか、患者に何を意味し、どう役立っているのかを、明確に理解しようとするのである。

P19 また、分析を受けに来る人々の中には、これまで何の疑いも抱くことなく、絶えず従順に、忠実に、追従的に、生活してきたものもある。彼らは他人から期待されたことは何んでもするが、本心から他人に協力することは決してない。彼らは無意識のうちに分析医にも同じように振る舞い、つまり、分析過程で現実に何の積極的な努力もしないくせに、そのお返しに、当然、奇跡的な治療を期待していいのだと感じる。

P21 人生の初期における個人の症状や神経症的な生活パターンは、実は人生の問題を解決して、健全な成長を遂げ、自己表出を行おうとする個人の最初の試みだったのである・・・神経症がひどくなればなるほど、表面に現れたその個人の像は、人間らしさに欠けたものとなる。真の個人は、複雑にからみあい、もつれあった神経症的葛藤と、その原因と結果との網の目の中に見失われてしまう。

P24 悲しみや苦しみを感じる勇気や強さがなければ、真の悦びを感じることはできないのである。

P52 パーソナリティは、環境の諸条件に反応しながら、構造化してゆく。この「構造」という考え方は、原子がほかの物体との関係において、構造を維持し、機能を発揮しようとする、力や要素によって構成されているという、物理学者の原子構造についての考え方にいくらか類似している。

P58 後まで持続する劣等感は、自己がひどい危険にさらされているという感情にその源を持っている。こういうばあい、子供は自分が無力であり、周囲から見捨てられ、孤独で、孤立しているという感情を抱く。信頼できる人は誰もおらず、全世界が自分に敵対していると感じる。そして、子供は、当然、外界に対して敵意を抱く。このように、無力感、孤立感、敵対感がある状態は、基本的不安と呼ばれる。基本的不安は、神経症的過程を進行させる原動力である。基本的不安をやわらげるために、子供は自分の資源やエネルギーを動員し、そして、彼の他人に対する態度や行動は、自己の安全を保証するために、修正される。

P65 アーニー・パイルは、敵の砲火にさらされた兵士たちが、炸裂する砲弾の音に反応する様子を次のように書いている。「音は一種の恐怖を生み出すが、それは単に、驚きというものではない。それは、きわめて強度の絶望が混乱したものである。」兵士がこのような状況で無力であるのと同じように、神経症的な人は本質的に無力であるーー外界の敵意を払いのける手段を、実際に、何も持っていないからである。

P67 われわれが確認しているところでは、神経症的な個人は内面の葛藤を解決するために、四つの試みをする。すなわち、(1)神経症的諸傾向の中に一つを優位にする、(2)内的な問題を外在化する、(3)理想化された自己像を作り上げる、(4)他人との情動的関係から離脱する。

P68 他人への順応と依存が主要傾向となっている人は、自分の権利を守るために戦うこともできない。

P69 内面の問題の外在化とは、個人が他人の困難や悩みや弱点ばかり注目することで、自分自身の神経症的諸傾向や葛藤を自覚せずにすんでいることである。こういう個人は、普通、自分の環境が混乱し、世界の調子が狂っていると感じる。そしてそのことに、病的な満足を味わうこともある。

P76 神経症的傾向が増すにつれて、個人は次第に自分自身から疎外され、だんだん、自分が自分でないような感じが強くなる。安全という唯一の目標に向けて、彼をかりたてる力のとりこになっているために、人生に一定の進路を保つことができず、自分が本当のところ何を望んでいるのかもわからない。
絶望があまりにも深いため、個人は、完全に諦めに身を委せて、ひっそりと暮らし、そのことに一種の安心感さえ抱くことがある。個人は自分の運命を「受け入れる」が、彼が現実に持っている十分な能力と豊かな本性を喪失してしまう。P77 また、絶望感や諦めのゆえに、苦々しい思いや運命への怒りが生じ、その怒りが、積極的に生きて人生を楽しんでいる人々に向けられる場合もある。また、失われた自己感を、わずかでも取り戻そうとして、個人が復讐心に燃え、破壊的、サディズム的になる場合もある。このようなサディズム的傾向は、陰に陽に他人に向けられるばかりでなく、自己に対しても向けられる。

P77 彼は、神経症的満足が味わえなくなるのではないか。例えば、理想化された自己像が壊されたり、理想化された自己を想像することから得られる満足感が失われたりしないかと恐れる・・・内面の均衡が普通、極めてあやふやで絶えず支持と安定を必要とするから、彼は感情的に動揺するのをいつも恐れている。

P81 神経症的な人々の中には、これまで述べてきたような、明白な障害を真拓もっていないものもいる。そこで読者は「そういう人でも神経症的なのだろうか」という疑問を持たれるであろう。そういう人は、いわば「上手に神経症的」なのである。そのような人でも、性格にはきわめて明白な矛盾が見られるし、人間関係にもはなはだしい逸脱がある。しかし、そういう障害に対して上手に眼をつむり、葛藤の偽りの解決法によって上手に事に対処し、外部からの障害にも内部からの障害にも悩まされないように、上手に生活しているのである。

P238 彼女は自分が多くの事態において、他人の虫の良い要求を甘んじて受け入れることに気づいた。そして、そのような事態において自分が本当は激しい怒りを抱いていたことを発見した。この怒りは意識下に抑圧されて、代わりに激しい疲労感だけが自覚されていたのであった。自分の怒りを自覚するようになっても、当初はそれに時間がかかった。例えば、彼女は真夜中になって突然、眼が覚め前の日、自分を不当に取り扱った相手に対して激しい怒りを抱いている自分を発見することがあった。P239 彼女はまた、自分が相手に対して自己主張ができたときには、そのような怒りを感じないことも発見した。
さらに彼女は、自分の怒りが、ずうずうしい相手に対してだけでなく、それにもまして自分自身に向けられていることに気づいた。彼女は、「いいひとたち」に対する自分の態度が変化したことに気づいたとき、自分の怒りの性質をさらにはっきりと理解した。以前の彼女には、誰でも無差別に好きになる傾向があったが、今では、自分に取り入ろうとする相手のやり口を十分に警戒するようになり、心の中で彼らを「靴ぬぐい」とよんで、彼らの「へつらい」に対する軽蔑心を表出した。このように遠回りをしたけれども、彼女は、自分が自分自身の「へつらい」の態度に対して、怒りと侮辱感を抱いていたことを自覚したのであった。

P249 自分がこのような虫の良い期待を抱いていたことを自覚し、その期待を捨てたとき、彼女はようやく、自分のためになる努力が自由にできるようになった。



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精神分析の新しい道

2012-03-06 19:41:24 | カレン・ホーナイ
今日の読書。
「精神分析の新しい道」。
意味のある箇所を抜粋する。




精神分析の新しい道 / ホーナイ [著] ; 安田一郎訳. - 東京 : 誠信書房 , 1972.6. - (ホーナイ全集 / ホーナイ [著] ; 我妻洋, 安田一郎編 ; 第3巻).



p65
フロイトは、神経症患者の抵抗できないくらい強い欲求を本能とみなし、環境の影響は本能的な欲動に空間的な形式と強さを与えるだけだと考えた。これに対して、私が上に概略述べた概念によると、これらの欲求は、本能的なものではなくて、困難な環境をうまく処理したいという子供の欲求から成長したものだ。フロイトは、この欲求の強さを基本的・本能的な力のせいにした。ところが私は、この欲求の力が強いのは、この欲求が、その人に安全だという感じを与える唯一の手段だからだと考えている。

p71
私の経験によると、両親に対するよ幼児性の愛着の大部分はーーそれは、大人の神経症患者の分析であておから明らかになったがーーこの部類(エディプスコンプレックス)に入る。しかしこれらの愛着の力動的な構造は、フロイトがエディプスコンプレックスとして考えているものとは全く違っている。この愛着は、主として性的な現象というよりむしろ、神経症的葛藤の早期のあらわれである。

p151
誰かが私に、「あなたはフロイトの発見の中で、何が一番価値があると思いますか」と尋ねるなら、私はためらわずこう言わねばならない。「分析者と分析の状況に対する患者の情動反応は治療に利用できるというフロイトの発見です」と。

p163
分析者は小児期における重要な人の役割を演じているから、彼自身のパーソナリティは、できるだけ排除すべきだという。フロイトの言葉を使うと、分析者は「鏡のよう」であるべきだ。

p249
フロイトが陰性の治療反応についての彼の理論の中でくわしく述べているように、彼は、無意識的罪悪感を重症の神経症の治癒をはばむ障害物とみなした。しかし私の解釈によると、患者が自分の問題に真の洞察をえにくいのは、彼が完全だと思われたいという強迫的な欲求を持っているため、外見上は、中に入り込めない態度をとるからである。

p250
必要なことは、まず第一に、「君は自分自身に不可能なことを要求しているのだ」と彼に教えてやることであり、第二に、「君の目的と君のしたことは形式的だ」と彼に悟らせることである。完全という外観と実際の傾向との間のこの分離は、暴露されなければならない。彼は、自分の完全癖的な欲求の厳しさに問題があることをしらなければならない。この欲求のすべての結果は、慎重に究明されなければならない。彼に質問し、彼について何かを発見したいと思っている分析者に対する彼の実際の反応は、分析されなければならない。彼は、その欲求を作り出した因子やその欲求を持続させている因子を理解しなければならないし、その欲求が果たしている機能を理解しなければならない。最後に彼は、そこに真の道徳的な問題が含まれていることを知らなければならない。このやり方は、通例のものより難しいが、治療の可能性については、フロイトの見方よりも悲観的でない見解を与えてくれる。

p289
神経症のこの解釈からすると、次の二つの治療の進め方は間違っているように思われる。一つは、最初に特別の性格構造を把握しないで症状像を直接理解することである。単なる状況神経症の場合、現実の葛藤に結びついて発生した症状に直接取り組むことができることもある。しかし慢性の神経症では、われわれは、最初はどちらかといえば症状像はぜんぜん理解できない。というのは、それは現存している神経症的紛糾の究極の結果だからである。たとえばわれわれは、一人の患者は梅毒恐怖症、第二の患者は再発する食欲障害、第三の患者は心気症的な怖れを示す理由がわからない。分析者は、症状は直接理解できないこととその理由をしらなければならない。一般に、症状を直接理解しようとする試みはなんであれ、失敗であることがわかるし、また少なくとも時間の浪費である。心の隅に症状を置いておいて、性格傾向を理解し、症状が明らかになってからそれを取り上げる方が良い。

p291
フロイトと私の違う点は、神経症的傾向を認めてから、フロイトはまずその起源を調べるが、私はまずその実際の機能とその結果を調べる。しかしこの二つのやり方が目指す意図は同じである。すなわち神経症的傾向がその人をつかまえている力を弱めることである。

p315
フロイトが繰り返し言ったことは、やはり真理なのだ。すなわち、神経症がすみやかに治癒する可能性は、病気の重さと比例するのだ。

p316-317
しかし患者はいつ自分の発達を自分自身の手に取り戻すことができるのか。この疑問は、精神分析療法の究極の目標についての疑問と同じである。私の判断によると、患者を不安から解放させることは、目的に対する手段にすぎない。その目的とは、彼に再び自発性を獲得させ、彼自身の中に価値の尺度を発見させ、自分自身であるという勇気をえさせることである。

P77 他人を愛することができないくせに他人から愛されたいこと。=ナルシシズム

P78 ナルシシズムを発生的ではなく、その実際的な意味に関連させて考察するなら、私の判断によると、それは本質的に自己のインフレーション(膨張)と記述されなければならない。

P79 ナルシシズム的傾向の発達を一番根本から助長する因子は、子どもが他人から疎外されることであるらしい。一方疎外とは、不平と恐怖によって呼び起こされたものである。その結果、他人との積極的な精神的紐帯は薄くなり、彼は愛する能力を失う。

P80 子どもは、愛されるため、受けいられるためには、他人がこうあって欲しいと自分に期待しているとおりにしなければならないという感を抱くようになる。

P81 子どもがこのような悲酸な条件のもとで人生に対処するいくつかの方法がある。すなわち規準(超自我)に反抗的に同調することによって。自分自身を控えめにし、他人に依存することによって(マゾヒズム的傾向)。自己膨張によって。

P82 彼は、友情と愛情は客観的な態度、あるいは批判的な態度さえ含んでいるという事実を理解しなくなる。盲目的な賞賛を書いているものは、彼にはもはや愛情ではない。

P88 ナルシシズムは自己愛のあらわれではなくて、自己からの疎外のあらわれである。寧ろ平易な言葉を使うと、彼は自分自身を見失ったために、また見失った限り、彼は自分自身についての幻にしがみついているのだ。

P124 鬱積し、抑圧された敵意を持った神経症的な人にとっては、どんな種類の自己主張もーーシガレットとマッチがほしいといいう願望を示すような自己主張――実際攻撃的な行為を示しているかもしれない。だから彼は、マッチをくれと頼むことができないのかもしれない。しかしこれから、全ての攻撃性――あるいはむしろ私はこういうべきだろうーーすべての自己主張は、目標を制止された破壊性だと結論を下してもいいのか。私には、どんな種類の自己主張も、人生と自己に対する、積極的で、のんびりとし、建設的な態度であるように思われる。

P194 フロイトが正しく指摘しているように、不安は恐れと違って、危険に対する無力感がその特徴である。
神経症的不安のなぞは、不安を引き起こす危険が明らかにないこと、あるいは外見上の危険と不安の強さがとにかく不釣合いなことである。

P195 フロイトの節を手短に言うと、危険の源は、本能的な緊張の大きさ、あるいは超自我の処罰する力である。危険の対象は自我であり、無力感は自我の弱さと自我がイドと超自我に依存していることからきている。

P203 基本的不安は、それ自体、神経症的な症状である。それは、両親に対する依存と両親に対する反抗の間の葛藤の結果生まれる。両親に対する敵意は、両親に依存するため抑圧されねばならない。・・・敵意の抑圧は、人を無防備にする上で役立つ。というのは、それは、彼が戦うべき危険を見失わせるからだ。もし彼が敵意を抑圧するなら、それは、ある人が彼をおびやかしていることに、彼がもはや気づいていないことを意味する。従って彼は、警戒すべき状況にいるのに、服従的で、従順で、友好的に振舞うらしい。この無防備性が、抑圧されたにもかかわらず存在している報復の恐れと結びついて、潜在的に敵意のある世界に生きている神経症患者の基本的な無力感を説明する強力な因子のひとつになる。

P207 一定の神経症的なタイプの人は、特別融通の利かない高度の道徳規範を固執しているように思われる。・・・彼らは一連の「すべきだ」「とねばならない」によって支配されている。

P241 精神分析の文献では、罪悪感という用語は、無意識的な罪に対する反応を示すために用いられるときもあれば、処罰されたいという欲求と同義に用いられる時もある。
・ ・・罪悪感は、真の感情であることもあるし、ないこともある。罪悪感が本物か偽者かについての重要な規準は、それに改善したいとか、よりよくしたいという真面目な願望が伴っているかどうかである。

P244 彼らの自責の念は、相手から受ける非難の先手を打つひとつの試みだし、また自分で自分を非難して、他人が自分を非難しないようにしようというーーさらにもっと言うと、自分自身に対する厳しさを示して他人をなだめ、安心を得ようというーーひとつの試みである。

P249 彼の神経症的な自責は、実際の本能に近いような正確さで、現実に弱点であるものを避ける。事実、自責のほかならぬ機能は、現実の欠陥を直視しないようにすることである。自責は、現存する目標へのおざなりな譲歩であり、自分は結局悪くないし、また良心のとがめを感じるから自分は他人よりすぐれているのだ、という単なる安心の手段である。それは、体面を保つ手段である。というのは、もし彼が実際改良したいなら、また改良する可能性があるなら、自責に時を費やすことはないだろう。

P256 私が自己拡張の傾向と記述したナルシシズム的傾向とは逆に、このマゾヒズム的傾向は自己縮小の傾向がある。ナルシシズム的な人は、自分のよい性質や能力を自分自身と他人に対して誇張する傾向がある。ところがマゾヒズム的な人は、自分の不完全さを誇張する傾向がある。

P257 マゾヒズム的な人は、自分自身で何もすることができないと感じ、相手からあらゆるものーーー愛情、成功、威厳、配慮、保護――が手に入るものと思っている。彼の期待の性質は寄生的である。しかし彼はこのことを気づいたことはないし、またそれは、彼が表面的には慎み深く、相手が自分ノ期待を充たす上に、現在も将来もふさわしい人手ないことに気づかないほどである。

P258 彼は、自分は運命の手にある無力な玩具だと感じるか、あるいは運命によって定められていると思い、自分ノ運命は自分自身の手にあるという可能性を見ようとしない。

P259 このように潜在的に敵意のある世界で、無力に感じて、依存することは、危険の真っ只中で無防備に感じることと同じだ。この状況に対処するマゾヒズム的な方法は、誰かの慈悲にすがることだ。マゾヒズム的な人は、時刻の権利と独立を、強力で、攻撃的な民族に譲り渡し、こうして保護を手に入れる。
 神経症患者の心では、この過程が忠誠、献身、あるいは大きな愛情の外観をしばしば呈することである。しかし実際には、マゾヒズム的な人は、愛することができないし、相手か、誰か他の人が自分を愛していると信じてもいない。献身という旗の下に現れることは、実際には、不安を和らげるために相手に真にすがりつくことである。これから、この種の安全の不確かな性質と、見捨てられるという決して消えることのない恐怖が生まれる。

P261 彼らは、おれは「どうだってかまわないんだ」という信念をもっている。

P262 自分は劣等感を持っていると思っている。この劣等感は、自己主張を避ける彼の傾向の原因より寧ろ結果である。

P263 神経症的な人が欲しているのは、無力感でなくて(最も無力感は、彼が望んでいるものをなんでも達成させてくれる価値ある戦略手段だが)控えめと依存である。そしてそれさえ、その結果手に入る安全感をえたいばかりに欲しているのだ。弱さは、彼が選んだコースの、欲してはいないが避けられない結果である。

P265 マゾヒズム的な人は、安全のために「どうでもかまわないんだ」という信念を微動だもさせないが、他人が自分を無視したり、ないがしろにするしるしをちょっとでも見せると過敏になり、激しい怒りでそれに反応する。しかしこの怒りは多くの理由から外に現れない。・・・自分が誰かにとって大切な人間だということを認めることができないからだ。

P268 患者は、みじめさと無力感を示して、何かを手に入れるという典型的な戦略を発揮している。

P270 マゾヒズム的な人の敵意は、防御的なものだけではない。それはしばしばサディズム的な性質を持っている。他人を無力にし、他人を苦しめることによって満足を得る人は、サディズム的である。サディズム的な衝動は、弱い人、抑圧された人、言ってみれば奴隷、の復讐心から生まれる。弱い人や抑圧された人は、自分も他人を自分ノ欲望に従わせることができると思いたいし、自分が彼らにどんないやなことをしても、彼らは自分にぺこぺこするはずだと思いたい。

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参考文献

2012-03-06 19:13:57 | 修士
<参考文献>
・日本語以外の言語で原著が書かれている文献で、日本語訳のみを参照した場合は日本語のタイトルのみ、日本語訳と原著を参照した場合は、双方を記してある。
・本論のなかで記されている引用文が、必ずしも邦訳の通りであるとは限らない。

Judith Lewis Herman  Trauma and recovery 1992(中井久夫訳 『心的外傷と回復』増補版 みすず書房、1999)p.140
Karen Horney The neurotic personality of our time  1937(我妻洋訳 『現代の神経症的人格』誠信書房、1973 )
Karen Horney Our inner conflicts 1945(我妻洋、佐々木譲訳 『心の葛藤』誠信書房、1981)
Karen Horney Neurosis and human growth 1950(榎本譲、丹治竜郎訳『神経症と人間の成長』誠信書房、1998)
Karen Horney Are you considering psychoanalysis? 1946(我妻洋、川口茂雄、西上祐司訳『精神分析とは何か』誠信書房、1976)
Karen Horney New ways in psychoanalysis1939(安田一郎訳『精神分析の新しい道』誠信書房、1972)p.319-320、p. 334-335
アルバート・エリス著 国分康孝監、国分久子他訳『神経症者とつきあうには 』川島書店 、 1984
A.アドラー著 岸見一郎訳『人はなぜ神経症になるのか』春秋社 、2001
C.ピーターソン, S.F.マイヤー, M.E.P.セリグマン著 津田彰監訳『学習性無力感 : パーソナル・コントロールの時代をひらく理論 』二瓶社、2000  p. 145
エーリッヒ・フロム著 懸田克躬訳『愛するということ』紀伊国屋書店、1981
エーリッヒ・フロム著 安田一郎訳『権威と家族』青土社、1977、p140-169
F.パッペンハイム著 粟田賢三訳『近代人の疎外』岩波書店 、1960
G・アラン著 仲村祥一, 細辻恵子訳 『友情の社会学』世界思想社、1993
J.ボウルビィ著 黒田実郎他訳 『分離不安』岩崎学術出版社、1991
J.ウォルピ著 『神経症の行動療法 : 審判行動療法の実際』黎明書房、2005
M.スコット・ペック著 氏原寛, 矢野隆子訳『愛と心理療法』創元社、1987
マイケル・ルイス著 高橋惠子監訳 『愛着からソーシャル・ネットワークへ : 発達心理学の新展開 』新曜社、2007
ニニ・レイク, マリアンネ・ダヴィットセン=ニールセン著 高橋克依, 新井典子, 五十嵐美奈訳 『癒しとしての痛み : 愛着,喪失,悲嘆の作業』岩崎学術出版社、1998
ピーター・ローマス著  鈴木二郎訳 『愛と真実 : 現象学的精神療法への道』 法政大学出版局 、1980
スティーヴン・A・ミッチェル著 池田久代訳『愛の精神分析』春秋社、2004
サーシャ・ナクト著 山田悠紀男訳 『マゾヒズム : 被虐症の精神分析』同朋舎 , 1988.3.
S・フロイト著 安田一郎訳『失語症と神経症』誠信書房 , 1974.
テリー・M・リヴィー, マイケル・オーランズ著 藤岡孝志訳『愛着障害と修復的愛着両方 : 児童虐待への対応 』ミネルヴァ書房、2005
V・E・フランクル著 『意味による癒し:ロゴセラピー入門』春秋社、2004
V・E・フランクル著 宮本忠雄, 小田晋訳 『神経症 : その理論と治療』みすず書房、 2002
ビヴァリー・ジェームズ編著 三輪田明美, 高畠克子, 加藤節子訳 『心的外傷を受けた子どもの治療 : 愛着を巡って』 誠信書房、2003
池田勝徳著 『疎外論へのアプローチ : 系譜と文献』ミネルヴァ書房 1991
伊藤美奈子, 宮下一博編著 『傷つけ傷つく青少年の心』北大路書房、2004
緒方明著 『アダルトチルドレンと共依存』 誠信書房、1996
鈴木國文著 『神経症概念は今』金剛出版、1995
小此木啓吾著『現代の精神分析』日本評論社 , 1998.4
小此木啓吾編集代表 『精神分析辞典』岩崎学術出版署,2002, p238-240
小西・南出康世編集主幹 『ジーニアス英和辞典 第4版』大修館書店,2006
小西友七, 南出康世編集主幹 『ジーニアス和英辞典 第2版』大修館書店, 2003
高橋三郎・花田耕一・藤縄昭訳 『DSM-Ⅲ 精神障害の分類と診断の手引き』医学書院,1982
高橋三郎・大野裕・染矢俊幸 『DSM-Ⅵ精神障害の分類と診断の手引き』医学書院,1995
吉田城著『神経症者のいる文学 : バルザックからプルーストまで』 名古屋大学出版会 ,1996
米倉一良著 『カレン・ホーナイにおける人間研究(1)』、『経済理論』第193号 p 16-46, 1983年5月
米倉一良著 『カレン・ホーナイにおける人間研究(2)』、『経済理論』第195号 p 64-92, 1983年9月
米倉一良著 『カレン・ホーナイにおける人間研究(3)』、『経済理論』第196号 p 56-68, 1983年11月

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終章 神経症言説における結論とさらなる問い

2012-03-06 19:13:34 | 修士
終章 神経症言説における結論とさらなる問い
ようやく我々は終章に辿り着いた。これまで辿ってきた長い長い道のりを振り返ってみよう。この最終章では、これまで考察した神経症構造の総括を行う。神経症とは、いかなる存在なのか。彼の存在は何を意味し、どういった問題を我々に提起するのか。神経症構造を研究するということは、「誰」にとっての「どんな」意味があるのか。本研究の可能性と限界について論じてゆく。

 第1節 総括
 我々はこれまで、神経症者の情愛希求における疎外と無力感の在り方をおってきた。その始まりはいつだって「愛されない」という経験であった。彼が想起する追憶の中で、情愛に満ちた対象関係を構築することに失敗した惻隠たる経験が確かに存在する。彼の生存を左右するであろうこうした晦冥は、彼に情愛と名づけられた光を求めさせる。そうして彼は、避けることができなかった外傷を、誤って愛と呼ぶ。
「愛されない」経験は、主体に憎悪を抱かせる。しかし、情愛と憎しみの拮抗の中で、神経症者は情愛の方を選択する。その結果、彼は自己消去というある種精神的な自殺にも見える葛藤解決策を採用してしまう。彼は降伏により幸福を得ようとする。
そして「愛してほしい」という規範的かつ強迫的な情愛希求は、「嫌わないでください」という形態をとって、他者に表現される。しかしそれは、現実の自己を疎外しなければ可能にはならない。現実の自己は、彼によって「愛されない」人物であるとのラベルをはられ、地下深くに幽閉されている。「私は愛される人間である」という命題は既に引き裂かれている。その現実の自己の代替として、彼は他者に愛されるであろうと彼が推測する、理想化された自己像をつくりだす。そうして彼は、自分自身の役を演じるようになる。他者が見ることができる彼は、彼ではなく別の誰かなのである。自分自身という見知らぬ誰かなのである。彼は自分に間隙を感じている。
そうした神経症構造の中で、彼は「力」を持つ「主体」を「無」くす。それは致命的な喪失である。「力」とは、信頼の力であり、愛する力であり、存在する力なのだから。
こうして彼の中で無力感が生まれる。初め、主体はそれを飼いならし、あるいは共存しているかのようにみえる。しかし、その主従関係はいずれ逆転の時を迎える。自分自身と一体になれず、あらゆる仮面をかぶり続けねばならぬことに、彼は違和感を覚える。無力は「私」の中で溶解、凝固し、「私自身」を代わりに生きるようになる。無力が「私」を生きるのである。神経症者にとって、「私は無力である」という命題は、翻訳不能なトートロジーである。それでは言葉が重複している。「私」とは、すでに「無力」であるのだから。だから彼にとって、無力へ肉薄することはほとんど命がけである。なぜなら悪しき無力は対象ではなく、生の目的、そして主体そのものであるからだ。無力においてしか存在を経験できない人間は、脱却の意志と可能性を持つことはないかのように見える。無力の解剖は、解剖の無力を誘発するかのようにみえる。
しかしそれは、許しがたい忘恩と罪ある無関心である。筆者がここで提出したこれらのといは、常に緊急のものなのである。愛情が重要であるのは、それが今日失われているあらだ。諦観を、許すことはできない。
神経症者を見ていると、確かに彼は易傷性が高いと思えるかもしれない。彼は虐げられることを欣喜し、雀躍する。虐げられることによってできたなら、彼はその傷も愛おしく思う。それは、他者からの外傷的ではあるが、確かに自分にかえってきた反応なのであり、その傷が、彼の次なる求愛手段となりうるのだから。それは確かに彼に苦痛に満ちた葛藤を与えるだろう。我々は、神経症が彼に課す様々な内的矛盾をこれまでにみてきた。撞着の狭間で彼が持つのは、服従という快楽と、苦痛がまぶされた安逸と、懐疑に満ちた信頼と、愛によく似た憎悪である。
しかも悲劇は縷々として続いてゆく。その他者を尊重する性質から、彼の服従や自己消去や降伏に対して、「やさしさ」などという美しい名を与えることはできない。それは、他者を疎外するという意味で、やさしい暴力なのであるから。他者から疎外されることは、自己疎外を生み、自己を疎外することは、また別の他者を疎外することに帰結する。神経症は自己再生産する。
こういった、彼らが防衛として作り出した神経症的パーソナリティは、その複雑さゆえに、冗長的でもどかしく、それゆえに曖昧で無意味であるかのように見えるかもしれない。しかしそこには、無意味さゆえに持つことができる意味があるのだ。彼は傷病兵である。しかし、傷痍してはいるが、確かに彼は彼の戦いを闘う兵士なのだ。傷がもたらす痛みは、彼が彼自身を埋葬することを拒否した確かな証なのだ。彼の「真の自己」は抑圧され、確かに機能不全の状態におかれているかもしれない。しかし彼の「真の自己」が逓減し、消滅したわけではない。抑圧は消去ではないのだから。彼の現実の自己は、少しばかりながら彼に彼を生きることを許してくれたのだ。彼の痛みが、その証である。神経症とは、彼が彼の血で買った鎧なのである。彼は自分を守ろうとしているのである。生き(残)ることを選択したのである。――神経症。それは、形容矛盾ではあるが、正常な病理なのである。
彼を取り巻く神経症的世界は、確かに外傷的であるかもしれない。しかし同時に、治癒の力がそこには宿っている。すべて他者が、彼を愛さないわけではない。希望は残存している。神経症の発動回避に成功した人間が確かにいるのだから。
畏懼と虚偽に満ちた彷徨の果てに、彼は一体何に帰るのか。それが、友愛なのである。神経症の不在は疎外を疎外することに成功し、別個に存在する一人称と二人称は世界に帰属し、やがて「われわれ」になるだろう。主体の中に根をはって膠着している理想化された自己像、「私は愛される人間である」という自己像の地位罷免は、愛されているという確信の形態を取る安心感によってなされるのである。


 第2節 結論と意義
我々はこれまで、一貫して神経症論の考察を行ってきた。その考察を踏まえて、本論文で筆者の下す結論は以下の通りである。すなわち、「愛されない」経験が、神経症発症の十分条件にはならないということ、そして、神経症構造における自己疎外は他者疎外も生産してしまうということ、そして何よりも、神経症における最大の苦痛、この無力感こそが神経症に完全に巣食われてはいない証なのだということ、この三点である。
当然のことながらこれらの異義が目指すところは、ホーナイの誤謬を批判するということではなく、その理論を補完し、発展させ、現代の神経症構造の快癒を目指すことにつきる。それは、ホーナイの生涯の研究を貫いている、「人は変わることができる」という信念を継承するものでもあるのだ。
そして本論におけるこうした研究は、すなわち社会学的視点からの神経症へのアプローチという代替を用意することができる。つまり、神経症と神経症の温床を用意する社会的な条件とはいかなるものなのか、というアプローチの仕方を、である。神経症概念を分析・研究するにあたっては、それが心因性の「病理」現象である以上心理学と社会学の双方の視点が必要となる。加えて、神経症概念は、それ自身に関する言説および対抗言説の可能性をすべて汲みつくしてしまったわけではない。本研究の位置づけは、こうした双方の視点、特に後者の視点を、神経症概念ひいては社会科学に提供し貢献することである。これは今後の筆者の課題でもある。もちろんそれは、社会的条件のみに着目するということを意味してはいない。これまでみてきたように、神経症という主観的現象は、主観的現象であるという事実にとどまることなく、その現象が起こる社会構造の本質的特徴を反映する。こうした社会構造の、神経症概念という視座を通じての社会学的解明が、本研究の担うひとつの意義である。
半世紀前の米国における研究ではあるが、しかしながら、ホーナイのそれは現代日本に応用できるだけの基盤と質を備えていると筆者は信じている。そして上に掲げた意義は、本研究における最大の課題であるとの自負がある。

 第3節 さらなる問い
1)愛情とは何か――対称物を受け入れるということ
これまで追ってきた、神経症の構造解明。我々は、そこからあぶりだされる別の問いを見つけることができる。
神経症は、換言すれば愛の問題であった。「愛されない」経験が、主体に愛を求めさせ、その希求が神経症となり、結果として自他ともに愛することができなくなる。それでは、この「愛」とはいったい何なのか。
愛とはなにか、などというこの老いた古いに応えることは困難を極めるかもしれない。しかしそれは、神経症者たちの悲しい言葉たちからその鍵を見つけてくることができると筆者は考える。
神経症者たちは、他者を愛するために、他者から愛するために、「愛とは異質」であると彼が判断するものをすべて殺害してきた。それは敵意であったり、憎悪であたり、悲しみであったり、嫌悪であったりした。しかしながら、そうしたものを排除したところに愛は存在しない。愛情とは、愛情とは、敵意や憎悪、悲しみや嫌悪を一切含まない感情ではない。それらを包み込んでもなお、受け入れたうえで、誰かを愛するということなのである。
神経症は愛の問題である。この命題の帰結として、その次なる問いとして、筆者が提示したいもの。それは、どのようにしたら愛とは対称的な感情たちを、愛は受け入れることができるのだろうか、という問いなのである。
さらに論を進めよう。筆者は、愛情が愛情loveたる条件として、平等性と任意性という二つの条件を提示した。「平等性とは、自己主張と他者尊重のバランスがとれた、水平的で静やかな対称性、それはヒラエルキーや権威の問題が意味をなさないような結びつきであり、また任意性とはその対人関係にどこまでコミットするかを、その対人関係にかかわる個人が、自身で自由に選択できるという意味である」と記した。問題は、この自己主張と他者尊重のバランスをとることなのだ。つまり、筆者がここで指摘したいことは、他者を尊重する際に、自己の側に発生する可能性のある、あるいは反対に自己を主張する際に、他者の側に発生する可能性のある、敵意や悲しみを、その二人がどのようにして愛の中に受け入れるのか、という問題なのである。
神経症の考察の結果、我々に見えてくることは、こうしたバランスをとることは、いかにして可能なのだろうか、という問いなのである。
神経症の側から見える愛情とは、確かに一見平穏であるかのように見えるかもしれない。しかし、平穏であるということは、戦闘がない、ということではない。つまり、affectionではない愛情であったところで、そこには自己主張も他者尊重もあるのだから、敵意や憎悪との戦闘がないわけがないのである。平穏とは、ただ単に戦闘がないことではないと筆者は考える。戦闘はあった上で、それに勝利することが、ここでは重要なのである。それも、愛とは対称の感情たちを、殺害することなく受け入れる、という形で勝利しなければならないのである。勝利は愛の完結を意味し、自己主張と他者尊重のバランスに彼は成功するであろう。もしかしたらバランスを取るということが生きるということなのかもしれない。
問題は、その勝利は、バランスをとることは、愛の中に対称物を受け入れることは、いかにして可能なのだろうか、ということである。こうした問いに答えることができれば、神経症構造の中に見られる常住坐臥の謙遜と絶対的な服従などといった、愛とは反対のものを排除しようとする神経症的態度は排除されうるだろうし、疎外を引き起こすことのない健康な愛情の培養可能性も担保できるであろう。

2)人生そのものが持つ希望と可能性
もちろん、こうしたことは、何もカウンセリングルームの中に自閉して問題にされるものではない。ホーナイもそれには同意してくれるであろう。彼女は、――これは分析療法に関しての言葉であるが――人生そのものが治療者なのだ、という意味のことを述べている。

「幸いなことに、分析療法だけが内的葛藤を解消する唯一の手段なのではない。人生それ自体が、きわめて有効な治療者なのである。さまざまな種類の体験の一つが、人格の変化をもたらすのに十分役立つことがある。それは、真に偉大な人物に接して鼓舞されることであったり、共通の悲劇に出会って他人と親しくなり、自己中心的な孤立から抜け出せることであったり、気の合った仲間ができて、他人を操ったり避けたりする必要が減ることであったりする」(Horney 1945=1981:249-250)

こうした幸運があればこそ、神経症者はその構造の中から抜け出せずとも、しかし相対化することが可能になるであろう。彼女の研究の全体を貫いているこうした希望は、彼女が修正したフロイトの理論やほかの論者にはあまり見ることができない、ホーナイ独特の希望なのであろう。こうした希望は、必要であると思う。もちろんそれは、ある種の非生産的なオプティミストとして映ってしまうかもしれないし、彼女自身の研究の中にも、ともすれば事実そうなってしまう危険性がある考察も、ところどころに観察できる。しかしながら、彼女は神経症が持つ思い思い悲劇性を忘れてしまったわけではない。
アルベルト・シュヴァイツァーは、かつて、楽観性を「世界と人生の肯定」、悲観性を「世界と人生の否定」と定義した(Horney 1950¬=1998:510より重引)。ホーナイは彼の言葉を用いて、彼女の記した生涯最後の論文を締めくくっている。
「私たちの哲学は、神経症の中の悲劇的な要素を認識してはいても、楽観的な哲学なのである」(Horney 1950¬=1998: 510)。

第4節 おわりに
我々はこれまで、神経症者の壮絶なまでの闘争をみてきた。「愛されなかった」という決定的な経験が、彼を「愛されたい」という激情の中に取り込む。情愛に満ちた関係が、結果ではなく神経症的に目的となることに、その疾患は端を発する。結果、求愛の手段として、神経症者は自己疎外という方法を採用する。犠牲、それは彼にとって情愛の別の名なのだ。「わたし」という主語を徹底的に除去し、そして代わりに、彼は無力感を獲得する。神経症的無力感は壮絶な痛みを伴い、それから逃れようと彼は様々な解決策を講ずるのだった。
同時に、こうした自己疎外という悲劇は拡大する必然性を有していることを我々はみてきた。疎外された自己でもって他者とかかわることは、その他者をも疎外することに帰結する。彼は終末であると同時に起源である。円環は絶命することを常に回避する。
こうした背景を背負い、神経症者は彼の無力感を抱えながらその苦痛を継続させる。彼は他者を愛したり虐げたり、虐げることを愛したりしているのである。それは無力感を彼に再生産させる。
しかし、こうした無力感は悲劇であり救いでもあるのだ。生を諦観しきった主体はそれを感じる必要もない。無力感とは、生の逆説的な形象なのだ。神経症的な内的自己破壊からの生き残った証そのものなのだ。彼は、死と生の中間に存在している。
我々がみてきた、愛が不在する構造と、それを疾患にまで発展させる社会構造はいまだ存在している。神経症という社会現象は、依然として切迫の劇場の中にある。
神経症、それは疎外される「わたし」の問題であり、疎外を生み出す「構造」の問題であり、そしてその構造の一部である「われわれ」の問題なのである。

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第5章その2

2012-03-06 19:12:42 | 修士
第3節 治癒することの条件と結果
 1)ホーナイが設置する条件と結果
それでは、次に治療終結の条件とその結果についてみてゆくこととしよう。終結することは確かに容易ではないにしても、ホーナイは、治療の終結条件として次のものを挙げている。「自分の障害が発生したことに関して、自分自身もかかわっているのだ、ということを検討し、その洞察を自分の人生に適用できるようになったら he can examine his share in the difficulties that arise, understand it , and apply the insight to his life――分析治療を終結させても危険はない」としている(Horney 1945: 240=1981: 250)。
 彼女は神経症者の特徴の一つに、「責任感responsibility」の不在を掲げている(Horney 1950¬:361 =1998:481)。
責任とは、「自分自身と自分の生活に対して単純明快に誠実であること」とされており(ibid., = p. 217)、こうした意味のもとでは、「すべての神経症患者が、責任感を持っているとはいえない」彼女は述べる(Horney 1945=1981: 171)。
 それではなぜ、神経症的パーソナリティの中に責任感が不在しているのだろうか。ホーナイが記述した神経症の概要から背景をみてゆきたい。
 おそらくそれは、神経症者が抱いているある種の「離人感」に由来するものであろうと推察できる。神経症という疾患が、主体に与える最大の苦痛が、無力感であったことをわれわれはこれまでに見てきた。そうした無力感は様々に区分が可能であったわけであるが、それらの共通項として見出すことのでいるものは、まさしくコントロール感覚の不在であった。「自分は自分の人生を動かす力ではないと彼は感じている He has he feeling of not being a moving force in his own life」のであり、そうした感覚が欠如しているという状況は、神経症者にある種の離人感を付与した(Horney 1950¬:166=1998: 213)。「自分が無意味な存在であるという、あるいは、自分がろくに存在もしていないという根深い感情」を神経症者はもっており、それは彼に行為の積極的体現者であるということをやめさせ、挙句の果てには、彼は自分の人生が本当に自分の人生だとはわかっておらず、すべての出来事は彼に無関係であるという認識に帰結する(Horney 1937=1973: 252)。
 こうした自分の人生に対する傍観者的態度が、彼から責任という概念を奪取するのであるということが、神経症の構造から見てとれるであろう。
こうした責任responsibilityを負う能力を回復させることを狙うと同時に、ホーナイは、感情の自発性を促すことも同じく重視している。「愛情、幸福感と悲しみ、恐怖や欲望など、自分の感情を自覚し、それを十分に感じられる状態」と治療目標を定義づけてもいる (Horney 1945=1981: 251)。もちろんそれは、感情の表出だけでなくその統制――抑圧ではない――も含まれていなければならない。
 その結果、神経症者は真の愛情、寄生的でもなければサディズム的でもない愛情loveを手に入れることができるとしている。それは、「それ自体が目的である関係」であり、「経験を共有し、互いに理解し合い、生活を共にし、互いに自己を表出し提示することに喜びと満足を見出す」ような対人関係であるとされている(ibid., = p. 251-252)。
 責任を負う能力と、感情の自発性を回復することによってもたらせるのは、次のような結果である。たとえばそれは無力感や敵意、孤立感の減少であったり、投射や自己軽蔑の消失であったりする。それはすなわち、神経症者が自他に対する関係を改善するということを意味している。
 脱却の結果、患者を待ち受けているのは「自己実現」なのだ。患者は「自分自身の感情、願望、信念をよりはっきりと、より深く経験すること、潜在する力を伸ばし、それらを建設的な目的のために使用する能力を高めること、そして自分自身の決断に対する責任を引き受け、人生において進むべき方向を明確に認識すること」といった事を目的に努力してしかるべき、とホーナイは述べる(Horney 1950¬=1998: 491)。そういった自己実現は、神経症者に「世界への帰属 accept of his place in the world」を与える。「徐々に自分のことをより大きな世界の一部として経験する」ようになるという(ibid., = p. 492)。
しかしながら、繰り返すことになるが、その「世界」がどういった世界であるかによって、その帰属に意味があるか否かが変わってくるであろう。神経症者を愛さない構造、彼を疎外する構造への「帰属」は絶望的ではあるが、最後の希望である無力感をも彼から奪うことに成功してしまうではないか。それは、「成長」と呼ぶに値するのだろうか。脱却は、神経症者だけの問題でもなければ、彼だけの責任であると断定することもできないと筆者は考える。


2)治癒の条件としての安心感
 神経症者の内面に切り込んだ考察を、われわれはこれまで展開してきた。ホーナイをはじめとする先人たちの手助けがあってこそできたことだが、そうした考察を土台にしたとき、筆者は治療の条件としては別のものを提示したいと考えるのである。それは、「安心感」である。
 それは勿論、これまで見てきたような神経症構造内部の、神経症者自身が「妄想し」「すがりつく」対象としての安心感ではない。確かに彼は、「内面の安心感inner security」と、「自己表現できる精神的自由inner freedomをも与えてくれる温かい雰囲気atmosphere of warmth」を、与えてもらうことはかなわなかった(ibid., p18= p.2)。だからこそ、自身を消去してまでそれを求めようとするのだった。しかしながら、消去によって安心感を得ることはできない。自分を愛してくれなかった他者に対する敵意の抑圧や、それによる自他の理想化、他者に対する絶対的服従、疎外と無力感。そういった一連の巨大な犠牲によって得ることができるのは安心のレプリカであり、それは主観的にはまさに安心であるということを踏まえたうえで、しかし結局は「妄想」にすぎないのである。筆者が治療終結の条件として提示したい安心感は、そのような種のものではない。
 安心感が与えられなかったからこそ、つくりだされる妄想としての安心感ではない。そうではなく、筆者がここで提示したいのは、そもそもその要因となった、彼の世界に欠如していた安心感のことである。ホーナイが記した、「自己実現」のために必要な、「内面の安心感inner security」である。
「安心感の獲得」こそが治癒の最大の条件ではないのだろうか。もしそれが担保されなかったとしたならば、神経症者はただ単に彼の最終的帰結であるサディズム的段階を経て、その依存関係から脱出しただけになってしまう。それは別の依存関係へと彼を誘うのである。安心感の不在は、神経症を再び繰り返すという悲劇を次に準備する。彼は「癒される」たびに次の傷におびえるのだから。
内部における神経症的パーソナリティの地位罷免達成は、条件次第では、神経症者にとって全くの無意味なものとして映る可能性があると筆者は考える。「安心感」という条件が担保されていなければ、それは無意味なのだと。「無力な自分」という認識を彼は抱いているのであり、この「無力」という形容詞を消去することは、そのまま彼を「自分」にすることは困難を極めるであろう。その勧告は彼を新たな危殆の濁流へと突き飛ばすこと他ならない。それは別の神経症構造へと彼を誘うのだから。
 「安心」して、「存在」できるということ。それこそが、神経症治癒の条件ではあるまいか。そうした安心感を、彼と他者と、そして彼らの属する「世界」が、共同で築くことこそが、必要なのではあるまいか。それは決して、彼一人の行為であってはならない。そうしてこそ、彼は、神経症の最後の後裔となるべく治癒を目指すのではなかろうか。


3)友愛という結果
 神経症構造から脱却した際、その結果神経症者が手に入れることができるものは、本稿でいうところの愛情loveであると先ほどしるした。それは、寄生的でもなければサディズム的でもない愛情loveであり、「それ自体が目的である関係」であるとともに、「経験を共有し、互いに理解し合い、生活を共にし、互いに自己を表出し提示することに喜びと満足を見出す」ような対人関係であるとされている(ibid., = p. 251-252)。
こうした性質を備える愛は、「友愛」という別の名を持っているのではないだろうかと筆者は考える。
愛には様々な種類がある。親子愛や兄弟愛や恋愛や師弟愛などなど、数え上げればきりがないが、しかしそれらの愛が深まったとき、その底に沈んでいるものは「友愛」ではないのだろうか、と筆者は考えるのである。こうしたことは、ホーナイの記述の中にも時折顔をのぞかせているものである 。彼女自身は友愛について論じてはいないが、重要な概念であると筆者は考えるため、以下に詳しく見てゆきたい。
もちろん、これまで見てきた神経症者と、彼に対峙する他者との関係性の形態は実に様々であった。それは時として親子であったり、兄弟であったり、恋人であったり、友人であったり、教師と生徒であったり、上司と部下であったりした。こうした対人関係における愛情を、「友愛」とすることは一見違和感があるかもしれない。確かにそれぞれの関係形態において、表現として妥当なのは親子愛や兄弟愛などであろう。それは語義的な意味、便宜的な意味においては、筆者も妥当であると考える。しかし、さらに厳密にそうした関係内容を考察したときに、「友愛」なるものが、最も適当ではないかかと考えているのである。
特に親子愛や師弟愛がそうなのだが、こうした名称だと、その内容として上下関係が存在しているとう感じをどうしても払拭できない。もちろん上下関係、権力関係は存在するだろうし、それが「プラス」に「機能」することもあるかもしれない。問題はそうではない場合である。つまり、本論にて一貫して論じているような、外傷的な対人関係に転換するという場合である。「愛」と名づけられている以上、そこに外傷を含んでいいはずがない。本来あるべき姿は、そうではないだろう。外相は不在してしかるべき当のものである。上下関係、権力関係は、筆者は本質ではないし、そうであってはならないと考える。親も、師も、彼らは「わたし」の先を往く者ではなく、共に歩む者なのだから。
以上のように、神経症脱却の結果としての愛についてその本質を考えたとき、親子愛や師弟愛では、その本質が漏れてしまう危険性がある。ゆえに、それを包括するために、筆者は「友愛」という言葉をここで用いたいのである。対象との距離に同意し、水平的で任意性を担保された関係の名として最も適切なものであると考えるからである。ゆえに友愛を基盤に据えた関係において、情愛対象がいわゆる「友人」として同定されることは必ずしもないのである。
以上のような背景から、筆者は、神経症脱却の結果としての愛情に、友愛という名を名付けたい。

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第5章 神経症快癒のための構造的条件とは

2012-03-06 19:12:18 | 修士
第5章 神経症快癒のための構造的条件とは

 第5章では、いよいよホーナイが提示した治療方法について触れ、その意味と限界について論じたい。まずは彼女独自の神経症治療についてみてゆこう。

 第1節 ホーナイの神経症治療方法
ホーナイは晩年の著書で、神経症は「自己および他者との関係における障害」と定義を換言している(Horney 1950¬=1998: 497強調は原著者による)。その障害の結果生み出されるものが神経症的パーソナリティであるのだが、ホーナイが考察とそして治療の対象としているのは、まさにこのパーソナリティである。神経症という障害がパーソナリティの歪みにあるものとホーナイは考えているのである。そこで彼女は、治療すべき対象は神経症を引き起こしているパーソナリティそのものであるとし、それこそが変化すべき対象であるとしたのであった。「治療の目標は、人格内部の諸条件を変化させることでなければならない。神経症患者に自分自身を取り戻させ、自分の本当の感情と要求を自覚させ、自分自身の価値基準を確立させ、自分の感情と確信とに基づいて、人と付き合うようにさせなければならない」と彼女は語っている(ibid., = p.228)。
具体的にみてゆこう。ホーナイの目指す治療とは、神経症をもたらす人格の条件に変化をもたらすことであるが、それは①患者が企てた無意識の解決方法と、②それがパーソナリティに及ぼしている影響を検討すること、そして③葛藤の自覚をすること、によってなされるものであるとされている。「問題の深刻さ」と、「働いている力の強さ」を認識させなければならないと彼女は言う。
 その認識に最も必要な点は、患者に知識を与える、というこの一点につきるとし、知識こそが解決の機会を与えるためであるとホーナイは述べる。彼女自身の体験談を引用しよう。次の文書は、1950年の『神経症と人間の成長Neurosis and human growth』からの引用であり、この著書の内容を1947年そして1948年に社会研究ニュー・スクール(the New School for Social Research)で講演したときの、彼女の経験に関するものである。少々長い文章であるが、以下に引用する。
 
 「この本で論じられている主題について一連の講演をしたとき、九回目の講演を終えた時に、私はいつになったら治療の話をするつもりなのかと尋ねられた。私は、私が話したことはすべて治療therapyと関連があると答えた。起こりうるさまざまな心的な窮境についての知識は、自らの問題を解決する機会をあらゆる人に与えるのである。All information about possible psychic involvements gives everyone a chance to find out about his own troubles. ・・・患者は何を意識しなければならないのかと問われれば、彼はこの本で論じられてきたあらゆることの側面を意識しなければならないとしか、私たちには答えられない」(Horney 1950¬:341=1998:458)。
 
つまり、これまで見てきたような神経症構造内部に存在している種々の要因――「べき」の専制や、神経症的葛藤解決策、自己疎外、自己軽蔑、無力感など――を、神経症者自身が「知り」、意識することが、「治療」に結びつくとホーナイは考えているのである。ここで重要なのは、それではなぜ、「知識」が「治療」を導き出すのか、という点である。この問いに対して、ホーナイは次のように応えている。

「こうした要因すべてを意識するということは、それらについての知識を持つことではなく、それらを経験的に知ることなのである Becoming aware of all these factors does not mean having information about them, but having a knowledge of them」ということなのだ(ibid., p341= p.459 強調は原著者による)。

治療における神経症構造についての「知識」はその対象を「経験的に知る」ことと同義であり、すなわち単なる情報としてのinformationではなく、知識knowledgeを得ることによって、神経症を自らの特殊な問題として引き受けることが患者には可能になると、ホーナイは考えている。ここで着目に値するのは、知識が、informationではなく、knowledgeとされていることであろう。Knowledgeの中身をもうすこし詳しくみてみよう。ホーナイは、それについてこう書いている。「なぜ、患者自身が自分自身の中の力について考えるthinkだけではなく、それらを実感するfeelことが必要なのだろうか。それは、そうした認識は患者にとって現実的なものとはならないし、彼の個人的な所有物にもならないし、彼のなかに根付かないからである。彼はある特定のことを知性intellectによって正しく把握するだろう。だが、光線を吸収しないでただ反射するだけの鏡のように、彼はその『洞察』を自分自身にではなく他人にあてはめるかもしれない」(ibid., p343 = p. 461)。神経症を引き受ける、という意味で、彼女はknowledgeという言葉を用いているのであろうことが、この文章から推察できる。自分の外界にある単なる情報informationであってはならないのだ。そうして引き受ける、ということが経症者に「情動的な経験」を与え、次いで彼は「感情の再体験」をし、神経症からの脱却を望むようになるという(ibid., = p. 460-462)。それは、神経症と神経症的解決策についての知識が、内的な変化を引き起こすためであり、それは主体に自己幻滅をさせると同時にその障害の力を弱めるという働きを持つためである。その結果、神経症者は真の自己が持っている建設的な力を成長させる機会を持つ。(以上Horney 1950¬=1998:458-467要約)
そしてホーナイは、前述した神経症的絶望感が、治療を妨害する最大の要因であるとし、それを麻痺させる誘発因が必要であるとしている。それはつまり、内的自由・内的独立を目指して前進することを神経症者自身が望まなければならないということである。自らが望むためには、「自分が本当に変化できるのだ」という悟り、そして自己疎外の全貌を明らかにし、「支払う代償が高すぎる」との自覚が必要であると彼女は記している。
(Horney 1945=1981: 194.)。患者が必要としなければならない最も重要な知識はまさにこれであろう。そして、そうした「患者の誘発因は、・・・自分を拘束しているものの正体を自覚してゆくにつれ、また、それからの解放感を味わってゆくにつれ、次第に強力になってゆく」(同)のである。
 もちろん治療の際、自らの神経症そのものの克服へ関心が全くない患者も存在すると彼女は記している。なぜなら、彼らは神経症がもたらす「症状」のみを取り除いてほしいがために来院するためである。――神経症そのものではない。こうした無関心の背景には、これまで論じてきたような種々の要因があるため、一つ一つ取り除くことが必要であるとホーナイは述べるが、ここで重要なことは、「患者に自分自身を受け入れさせることaccept himself」であるという(ibid., p236= p.245)。つまり、そうすることによって葛藤自体は変化しないものの、神経症を治癒したいと望み始めると言う(同)。
しかし、彼女は最後にこう付け加える。「こうした目標を完全に達成することは、おそらくできない。」(ibid., = p.253)。これらは目指すべき理想であり、分析医はここに近づく手助けをするだけである、と。「治療」することはできないとホーナイは断言しているのだ。つまり、分析過程で行われることは発達が建設的な方向を取るよう、患者の自己発見と自己実現の手助けをすることであるとされているのだ。ホーナイの治療理論では、神経症を治癒する主体は治療者ではなく神経症者その人なのである。

 第2節 「今のあなたは愛さない」というメッセージ
 しかし、それは神経症にとって、果たして有効な分析方法なのだろうか。本当にそうした治療方法は、快癒を目指すことができるのだろうか。筆者の解答は否、である。その理由は、人格の定義に由来する。
前述したように、ホーナイは彼女の取り扱う神経症を性格神経症のみに限定した。性格神経症とは、性格そのものが症状としての意義を持つ神経症のことである。それは精神内界の無意識的葛藤解決のための妥協形成の役割を果たしていると理解されており、ホーナイはまさにこの性格を変容させることによって治癒を試みた。では、その性格、とはそもそもどういった意味を含有していたのであっただろうか。
さまざまな領域で性格、つまりパーソナリティの研究が行われているが、ホーナイが研究の土台とした精神分析学という領域での定義をここでは援用すると、パーソナリティとは「ある個人の環境・刺激に対する反応様式の総体」とされている。もちろんそれは遺伝的な要因や生物学的要因も絡むものであるが、同時に個人が所属する集団、文化、社会に主としてそれは影響されるものなのである。
 さて、ここで今一度ホーナイの神経症論の中に出てきた、神経症者の持つ幼児期の困難を思い出していただきたい。つまりそれは、両親の患う神経症を背景にした、「本当の暖かさと情愛genuine warmth and affection」の欠如であった。こうした困難により、「自分は愛されない the child feels unworthy of love」と確信するようになり、その確信が、神経症構造を強化する働きを担うのであった。
ホーナイは、治療の際に患者の幼児期におけるこうした経験を、分析の中心に据えることをしない。それは、本来精神力動論的アプローチを取る精神分析学からは離反するような構造を取り、むしろそれは、ロジャーズの来談者中心的アプローチに近しいものであろう。ホーナイは、過去の分析は二次的な価値しかなく、治療に役立つことはないと述べる。つまり、神経症的葛藤の形成条件を見るときにのみ、幼児期にさかのぼって分析することが意味を持つのであるとしているのである。葛藤そのものの解決にはつながらない。それでは、その葛藤の形成条件とはいったいどのようなものであったか。それは今まで見てきたとおり、自己および他者との関係に自由と安全が不在していることである。「子どもは、自分の感情の通りに、他人を好んだり嫌ったり、信頼したりしなかったり、自分の願望を表出したり、自分の願望に抗議したりできない。その代りに、自分を出来るだけ傷つけずに、他人に対処し他人を操縦する方法を自動的に身につける」(ibid., = p. 227-228)。
ここで重要なのは、そうした神経症的傾向や、彼が直面している葛藤は過去の遺物ではなく、「現存する性格構造内の切迫した必要性によって決定されているもの」なのであるとホーナイは述べていることである(ibid., = p.242)。つまり、神経症を形成する温床が、現在も存在しているということなのである。ホーナイ自身も、神経症者は無防備さdefenselessnessがあるがゆえに、しばしば「彼を利用しようとしている人々」の良いカモにされる という意味のことを述べていた。
本題に戻ろう。つまり、そうした神経症的パーソナリティを再生産する構造が外部にあるがために、つまり、「本当の暖かさと情愛」が不在している構造が現存しているがために、彼は神経症的パーソナリティという「救い」にすがりつかなければならないのであって、構造が変化しない限り、パーソナリティも変化のしようがないのではないか、と筆者は考える。
 最大の問題は、こうした外部構造が、患者と分析家の間における治療関係でも構築されうる可能性と危険性が存在しているということである。知識を与え、神経症構造の自覚と脱却の意思を持たせる、ということは治療目標としては適しているものであるし、神経症患者にとっても有益なものであろう。しかしながら、それらはともすれば、「今のあなたは愛さない」というメッセージとして彼に受け取られてしまう危険性があるのだ。つまりそれは、神経症的パーソナリティを継続させ強固なものにするとホーナイが指摘した、「本当の暖かさと情愛」が不在している構造そのものである。
 ホーナイは、幼児期のこういった有害な影響を、中和することのできる何らかの条件が生ずれば、神経症に至ることはないと述べていたことを思い出していただきたい。神経症者が育った家庭には必ず権威的な両親の存在が確認できた。そうした場合、幼い子供である神経症者は、両親に対して一切の主体的な発言に制止をかける。前述した他者の理想化により、両親を完全であると考え、「悪いのは自分であるに違いない」という結論に達する状況下で神経症の発症を抑える唯一の条件が存在する(Horney 1937=1973: 234)。それは、「情愛的に支持」されることであるとホーナイは述べる。「誰かが、新たに身辺に現われて、子供を大切にしたり情愛的に支持してくれる」ことが発症を食い止めるただ一つの条件なのである(ibid., = p. 235)。神経症者が直面してきた葛藤は、正常な(あくまで神経症的ではないという意味である)人間が直面するそれと同じ質のものである。ホーナイは、それに対処できるかできないかが、神経症を発症するか否かの巨大な分岐点であるとし、その分岐点に他者からの情愛的な支持を据えた。「たとえば、子供が幸いにも、愛情豊かな祖母とか、理解ある教師とか、よい友達などに恵まれていれば、これらの人々との体験のおかげで、子供は、すべての人間から悪いことばかり予期するまでにはいたらない」(ibid., = p. 74)。
 治療関係において、こうした質の対人関係こそが、知識を与えることよりも先に構築されてしかるべきものではないだろうか。これらの人々の中に、分析家自身が入るということが、治療の命運を左右するのだから。彼女の持つ、「人は変われる」という信念にこうしたことが加わることが、神経症者にとっては重要ではないかと考える。知識を与えることによって快癒を目指すという方法は、ともすれば神経症構造の温床を新たに作り出すことに寄与し、神経症者の絶望感をさらに強固なものにするという危険性が存在するということを、筆者はここで指摘しておきたい。
 しかしながら、ホーナイは、治療関係において良好な人間関係を、つまり、神経症を食い止めることのできた人間関係を、患者と分析家の間で築くことで治療が可能になるとは考えない。「こうした可能性は、普通に考えられている以上にずっと限られたものである」とし、それを盲目的に信頼するわけにはいかないと記している(Horney 1950¬=1998: 411) 。なぜならば、神経症者は、その諸特徴を対人関係の中に持ち込み、その他者を自らの神経症的欲求を充足させるための手段としてしまうからだとホーナイはいう。充足の結果、神経症の構造自体は一切変化することはなく、しかし対人関係が神経症者自身にとって良いものになるため、個人は比較的神経症的苦痛を感じずに済んでしまう、と彼女は述べる。「外的状況の最良の変化でさえも、それ自体では個人の成長をもたらすことはない。それは、成長するのにより適した環境を与える以上のことはできないのだ」 (ibid., = p.412)。精神内的な要因の力を過小評価するだけであるとホーナイは指摘する。人間関係は重要なものであるが、神経症を根絶やしにするだけの力はないと断言している。ゆえに、彼女が採用する治療方法は前述したような人間関係の重視を欠いたものになるのである。
 繰り返すが、筆者は断固としてこの立場に反対である。ホーナイの残した研究は、神経症概念にとって必要不可欠であり、これまで我々がみてきたような彼女の言葉を見ると、それが神経症者たちにとって意味があるということは明らかである。だからこそ、治療という最後の段階で、こうした決定的な生産、つまり神経症の再生産を生み出してはならないと筆者は考える。こうした人間関係を軽視した上で、治療が可能であるとなぜ言えるのか。その軽視は、神経症者にあたえるinformationを、価値転覆的な知性であるknowledgeに本当にすることが可能なのか。彼に与える考察は、彼を絞殺することにつながるのではないか。ホーナイは、治療にあたっては、分析家が「自分の究極の目標は患者の自己発見を助けることであるという明確なヴィジョン」をもっていなければならず、それはすなわち「分析家自身が建設的な人間」でなければならないということを意味すると記している (Horney 1950: ¬=1998: 468 ) 。それは、彼女の言葉で換言すれば、分析家自身が、「真の自己」でなければならない、という意味であろう。しかし、神経症構造を再生産させるような自己を、真の自己といっていいのだろうか。「真の自己とは、内面にある中心的な力Real self as that central inner force」であり、「成長のための深い源泉をなす力」であると記していたではないか(ibid., p.17= p.1)。
 こうした背景があるゆえに、筆者は、ホーナイの治癒概念には決定的な欠陥が存在しているということを主張したいのである。

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第4章その2

2012-03-06 19:11:42 | 修士
第5節 神経症的有力感――空虚という本質
では、こうした背景を踏まえた上で、本論に戻りたい。以上にみてきたような無力感は、神経症者から見て、神経症者にとって、その本質ともいえる重要な感覚である。それこそが神経症を支える大黒柱なのである。
それでは、その無力感の反意語とは一体何なのだろうか。語義的に妥当であろうと推察されるのは当然「有力感」であるが、筆者は、この有力感をここで反意語として設置することはしない。以下にその理由を詳述する。
ここで一度原点に立ち返ろう。そもそも神経症的人格neurotic personalityとは、「すべての人に愛されたいと望み、他人のすべてに屈従しようとする欲求に駆り立てられながら、同時に、自分の意志を他人に押し付け、人々に無関心であろうとする要求に駆り立てながら、人々の情愛を渇望することになる」人々のことであった(Horney 1937=1973: 85-86)。この屈従が疎外を引き起こし、無力感を引き起こすのである。そうするとその反意語の本質として個人に顕現するであろう基本的態度は、「屈従しない」、ということになる。しかし不服従だけでは、反意語の本質としては不適当であると筆者は考える。その理由を、引き続きホーナイの神経症概念を援用しながら以下に導き出してゆきたい。
ホーナイは、神経症的パーソナリティの最終的帰結が「絶望」であるとし、不服従がその表現であると述べている。少々長い文章であるが、以下に引用したい。
 「神経症的な人間が、他人への批判や非難を表出するのは、絶望的になったときである。もっと厳密にいえば、非難を表出しても、もう失うものは残っていないと感じるときである。どんな行動をとっても、拒否されるだけだと感じるときである。・・・しかし、同時に、他人が自分の絶望の深さを悟り、それゆえに自分を許してcondoneくれることを、ひそかに願いもする」(Horney 1937:253 =1973: 238)。
 こういった不服従の態度を、ホーナイはその攻撃性から「人々に対して動く指向性」と名づけた。これについては、第1章についてその概要を記したが、ここでは第1章よりももう少し詳しく見てゆくこととする。最終的な帰結を迎えたこの攻撃型の人間は、他者が皆自分に対して敵対的であると考え、彼が住む世界では弱肉強食が絶対的な規範となる。彼の中では「怒りと勝利感以外の情動は、ほとんど全部が枯渇している」とされている(Horney 1945=1981: 214)。残された情動は、「空虚empty」である(ibid., p207 = p. 214)。いわば彼は「内面で死んでしまっているhe is so dead」のであるとホーナイは述べている。(同)。そして彼が他人に対して攻撃をするのはその「空虚」を希釈するためであり、対象に対して彼は一切の同情や哀れみの感情を持たないのである。その攻撃対象こそが彼の空虚の原因であると思い込んでいるからであり、それゆえに対象こそがその償いをしなければならず、「彼がどのような目に合おうともそれは自業自得な」のである(ibid., = p. 212)。なによりも、攻撃型の人間の中に存在する「復讐心が、彼の中の同情心や哀れみの心を殺してしまう」のだという(同)。攻撃とその成功は彼にとって「至福」の時である。攻撃の最中、彼の内部では自己軽蔑が軽減されるだけでなく、「優越感」と「有力感」が獲得できる(ibid., = p. 213)。この「勝利」への欲望こそが彼の生きる動機そのものであり、内的空虚の原因となっているのである。
 こうしたサディズム的傾向が前面に出ていることが、ホーナイのいう「人々に対して動く指向性」の主要な特徴である。当然のことであるが、筆者がここで主張したいことは、彼らの持つ攻撃衝動を非難することでは決してない。もちろんそうしたサディズム的傾向は、「人々に対して動く指向性」タイプの人々が対峙する、近しい他者を傷つけることもあるだろう。そういった、サディズム的傾向が当然帰結するであろう結果の悲惨さと痛ましさは、絶対に忘れてはいけないものであろう。しかしながら、そうした結果の責任主体を、ここでいう「人々に対して動く指向性」タイプの人々に帰したいと考えているわけではない。そうではなく、筆者がここで問題にしたいのは、彼らの攻撃衝動の背景には一体何が潜んでいるのだろうか、ということである。
彼らが内に秘めているサディズムは、ただ単に他人を傷つけ、奴隷にしたがるという単なる攻撃欲求などではないと筆者は考える。確かに彼らには攻撃をするにしかるべき理由があるかもしれないし、実際にだから攻撃したい、と望むこともあるだろう。しかしながら、そうした攻撃の持つ機能を考えた時、ホーナイの記した「空虚」の充足、ということだけでは物足りないと筆者は考えるのである。
彼のサディズム的傾向の背景には、救済を求める願いが隠されていると筆者は考える。つまり、内面の情動が空虚しか残らないほどに彼は疲弊しているのであり、それは考えられないほどの大きな痛みであろう。こうした巨大な痛みを背負ったとき、それを軽減させる方法の一つとして、筆者は「共有」が挙げられると考える。つまり、この攻撃型の個人が無意識的に欲求しているのは、すなわち自分の苦しみを他人に分け、そして「共有」してほしいと願っていることなのではないだろうかと考えるのである。彼は、自らのサディズム的傾向のために、弱肉強食の世界に住まざるを得ず、それゆえに孤独である。自らのサディズムにより、他者を苦しませることに成功したなら、その時、彼は独りではなくなる。苦しんでいる人間が自分一人ではなくなるのである。彼の攻撃的態度は、「助けてほしい」というメッセージそのものではないか。
問題はこうした不服従の態度が、「攻撃型」という別の神経症的パーソナリティに回収されてしまっている、ということである。葛藤を抱え、それを解決しようと試み、助けを求めていることがその確たる証拠ではないか。「攻撃型」の不服従の態度は、これまで見てきたような神経症的パーソナリティにおける服従の態度とは正反対であり、その態度に付随する有力感――本質は当然ながら空虚感であるが、表面的に個人が覚える感情は有力感である――は、無力感の反意語として適当であるかのように見える。しかしながら、根本的に害悪である諸葛藤は解決されないまま残存している。それは、屈従的態度が消失するだけであって、結局は不服従という形をとった神経症的パーソナリティに回収されるだけである。
この意味で、有力感は、反意語としては不適切なのだ。不服従という言葉が問題なのではない。そうではなく、上にみたように、この不服従が、神経症的側面を帯びる場合があるという意味で、問題なのである。有力感という言葉の中には、確かに力は「ある」かもしれないし、なおかつ神経症的性質を帯びていない場合もあるだろうと筆者は考える。しかしながら、そうではない場合、つまり、空虚を本質とした有力感をも、それだけでは言葉の意味の中に含んでしまうため、筆者は無力感の反意語として有力感を提示しないということをここで述べておきたい。

第6節 反意語としての安心感
それではいよいよ本題に入ろう。無力感の反意語とは、それではいったい何なのか。反意語であるためにはどのような条件が必要なのだろうか。
そもそも無力感の背景には「自分は愛されるに値しない」という絶対的確信と、その確信ゆえの情愛に対する異常なまでの執着、そしてその結果としての自己疎外が存在していた。故に、反意語であるためには、そういった神経症的パーソナリティを誘発する一連の諸要因が欠如していなければならないと筆者は考える。
それを前提にしたとき、反意語には何が該当するのであろうか。――筆者はここに、ホーナイの記述の中にあった「安心感」reassuranceを反意語として提示したい。
 第1章にて触れたことであるが、彼女が論じてきた神経症概念の中で、安心感は「自分が確かに他者に愛されているのだ」という確信として登場する。神経症構造を存立、そして継続させるものが基本的不安であったのであり、ゆえに彼らがその安心感に到達することは不可能である。ここで重要なことは、彼らが追い求める「情愛に満ちた対人関係を構築できている」という確信、つまり「安心感」には、無力感の背景に存在していたような神経症的諸特徴が観察されない。「愛されている」という確信があるならば、彼は愛情を乞うための手段である疎外や屈従、犠牲をする必要がないのだから。ゆえに、筆者はここで無力感の反意語として、「安心感」を提示したい。この安心感を再び取り戻すことこそが、次章で取り扱う神経症快癒の条件につながるのである。

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第4章 無力感について

2012-03-06 19:11:10 | 修士
第4章 無力感について
 第4章では、神経症者が抱える無力感について考察したい。「無力感」というこの語感からは、あまり深刻なものを読み取ることが難しいかもしれない。しかし、神経症者はこの無力感に壮絶なまでに苦しみ喘ぎ、耐え忍んでいるのであり、神経症について論じるとき、その核となるであろう重要なキーワードであると筆者は考える。本研究は言うなれば無力感の解剖学(アナトミー)である。神経症構造の中で取り扱われるにあたってそれほどまでに重要なキーワードとなる無力感とは、いったいどのような無力感なのであろうか。以下詳細にみてゆこう。

 第1節 無力感の種類
第1節ではまず、神経症者の抱く無力感の種類を明示しておきたい。神経症者が抱く無力感の内容はホーナイによって実に様々に展開されており、彼女自身はそれを一つの概念として用いている。しかし本研究において取り扱う無力感というキーワードの精度を高めるため、筆者はここで彼女が展開した無力感をさらに細かく区分してみたい。
まずは原語を参照してみよう。ホーナイの研究に出てくる無力感は、以下の六つである。すなわち、①helplessness ②defenselessness ③impotence ④weekness ⑤powerlessnes               s ⑥inertia である。これを、筆者の区分概念に従って、それぞれ種類ごとに分けてみたい。
 ひとつには、外部から襲ってくる危険――と当人にとって感じられたもの――に対しての無防備感という意味での無力感であり、それは前述した基本的不安の特徴の一つである。原語ではhelplessness, defenselessnessの二語があてられている。
二つ目が、主観的に不満足感として現われる無力感である。神経症者は、愛されたいと願う自分の欲求はすべて満たされるべきであると、あくまで無意識下ではあるが、考えている。そうした願いは、彼の自己消去的解決策により抑圧され、その結果そうした欲求は決して充足されることがなくなるのだが、このときに貯蓄される不満足感を、ホーナイは
inertia(辞書的な意味では無力症)と記している。
三つ目が、「変革が不可能である」という主観としての無力感である。つまり、神経症的パーソナリティを発動させるさまざまな諸葛藤を解決したいが、しかしそれがかなわないといった事態に直面した際、「自分には変革する力がない」と彼らが覚える無力感である。もちろんそれは、彼らから見た彼らにとってリアリティーのある無力感なのであり、主観として、というこの筆者の言葉には、客観的に見た場合に変革が可能な事態がある可能性が存在している、という意味が込められている。この主観としての無力感には、原語としてhelplessness、impotenceがあてられている。
最後に、事態 を統御しているという感覚の不在としての無力感を取り上げたい。自己疎外をまさにきたしている瞬間に覚える無力感をここで提示したい。情愛を求めるが故に屈従し、自発的な自己主張が欠如する際に芽生えるような、疎外の必然としての無力感である。これは「変革が不可能である」という認識が伴うという点で、三つ目の無力感と共通しているが、しかしここでの無力感は、原因である葛藤に対してではない、という点で異なっている。つまり、葛藤の結果引き起こされる自己疎外に対しての無力感である。原語ではhelplessness,あるいはweaknesses、powerlessnessがあてられている。
 以上の四つが、ホーナイの神経症概念における無力感の区分であるが、すべてに共通していると筆者が考えるのは、controlの感覚である。自らの神経症、彼が愛したいと願う他者、あるいは、自分の生きる世界に対して、変更を要請するも、要請を受諾するどころか、何の応答も返ってこない状況下に、神経症者は置かれているのである 。そしてこうした関与する可能性すら剥奪された神経症者は、彼が行う「投射」によって、さらにその感覚を強化する。彼はすべてが他人によって決定されていると感じるよう強制されるのだ。この感覚を、神経症者は以下のように表現する。すなわち、「私は自分の意志で動いているのではなくて、人から操られている I am driven instead of being the driver」 (Horney 1950¬:159=1998: 203)。

第2節 絶望としての無力感
 以上が、ホーナイが記した無力感の機能である。ここで一度、そうした無力感の悲惨さがどれほどのものなのかをここで提示し、共有したい。
 ホーナイは、神経症構造の理解のために必要なキーワードの一つとして、「絶望感hopeless / despair」を挙げている。筆者、彼女が取り上げたこの「絶望感」が無力感とイコールで結ぶことが可能であると考えている。
 以下詳細にみてゆこう。ホーナイは、「神経症的障害は、必ず何らかの程度の絶望感hopelessを生み出す」としている(Horney 1945:177 =1981:183)。この原語においてlessの状態におかれているhopeとは何か。ホーナイはそれを、「外的な変化」であると述べている(同)。つまり、神経症者はすべてを外界に投射するため、自分自身の神経症が引き起こすさまざまな苦痛の原因が、主観的には外界にこそあるのだ、と考える。ゆえに、彼が望むhopeことが「外的な変化」となるのは、彼の神経症的哲学における論理的帰結である。しかしながら、彼が採用する自己消去的葛藤解決策により、そうした要請は外界に向かって表明されることを阻止される。ゆえに、その望みhopeは叶うことが決してない。この、ホーナイが言うところの「外的変化」を望み、しかしながらそれがかなえられない、という点において、筆者は無力感と絶望感を同列に用いることが可能であると考えているのである。
より詳細にみてゆこう。神経症者が抱くこの絶望とは、いかなる絶望なのだろうか。
絶望は彼に、「人生によいことなど一つもない、ただ耐えてゆかねばならないのだlife must be endured」という考えをいだかせる (ibid., p182 = p.186)。こうした考えに至るまでには、長い長い過程があるのである。
ホーナイによると、彼の絶望感は、「未解決の葛藤の究極の産物であり、分裂の見られない健全な人格となる望みが全くないことに深く根ざしているhopelessness is an ultimate product of unresolved conflicts, with its deepest root in the despair of ever being wholehearted and undivided」という(ibid.,P183 = p.187)。つまり、「葛藤のとりこになって、それから逃れられそうもないという感情」が、外的変化の不在継続によって植え付けられるのだというのだ(同)。もちろん彼は、そうした葛藤に対処しようとはじめのうちはあの手この手で解決を試みる。しかし、これまで見てきたように、彼の解決策はすべて葛藤を解決することなく必然的に失敗に帰結するようなものばかりであった。そうした「失敗の経験が繰り返され」、そのことが絶望感を強化するとホーナイは記している(同)。「こうした失敗の繰り返しは、個人の気力を奪う」とホーナイは指摘する(ibid., = p.188)。「それは、実験室において、特定の窓口に飛び込むとエサがもらえるように条件づけられたネズミが、繰り返しその窓に向かって飛ぶが、窓がしまっていて開かず、エサにありつけないという状況に似ている」(同)のだ 。
以上がホーナイの考える、神経症者の絶望感についての概要である。彼女の言う絶望とは、すなわち、外的変化が望めないという絶望なのである 。しかし筆者は、そこからさらに絶望についての考察を深めたい。そうすることによって、神経症者の持つ絶望による痛みを描き出したいと考えるのである。
外的変化の不在という絶望。それに加えて筆者がここで提示したいことは神経症者の外における絶望ではなく、――もちろんそれは明らかに存在しているが――神経症者の内面における絶望である。ここで思い出していただきたいことはすなわち、彼が望むそうした外的変化を起こすために、神経症者はどういった行動を起こしていたのか、という点である。外的変化、つまり変化を彼が望むような外界の状況とは、すなわち自分を愛してくれる他者がいない、という状況である。そうした状況は彼に「愛」を必死に乞い求めさせるのであったが、そのために彼は現実の自己を犠牲にしなければならなかった。彼にとって現実の自己とは、愛される性質を帯びたものではなかったためであり、他者が望むであろう自己、すなわち理想化された自己の現実化を、したがって彼は試みるのであった。しかしそれは必ず失敗するものであった。そうした失敗は、すなわち第1章でみてきたような「自己軽蔑」を生み出すのである。つまり、筆者がここで指摘したいことは、彼の絶望は外的変化の不在という絶望だけにとどまらず、理想化された自己が現実には存在しないという意味で、自分自身ではないことの絶望でもある、ということである。あるいは、現実にあるのが理想化された自己ではなく、彼が軽蔑の対象としている現実の自己でしかない、という意味で、自分が自分であることの絶望であるともいうことができるのではないだろうか 。
ホーナイは、こうした彼らの絶望感を、「精神的な死 a psychic death 」と呼び、事態を重く受け止めている(ibid., p185= p.189)。そうした比喩表現を彼女にさせるほど、神経症者の絶望感というのは根が深く、苦しみに満ちたものなのである。こうした絶望感は、彼らに「個人を人生の積極敵な推進者ではなくしてしまう」とホーナイは述べている(ibid., = p.184)。この絶望感こそが、彼らに神経症の治癒は不可能である、という確信を抱かせるのである。ここでいうところの絶望感は、神経症の治療にかかわることでもあるため、この先の絶望感の考察は次章に譲ることとする。

第3節 母としての無力感――異常なのは誰なのか
 1)ホーナイの記した無力感とは
前節では、絶望感とさえ換言可能な苦痛にみちた無力感の様相を追ってきた。第3節では、その無力感がどのような機能を果たしうるのか、という点に焦点をあててみたい。
 まずはホーナイが提示している機能から見てゆこう。彼女自身は、以下の二つの機能を論文の中で記している。それは、愛情希求のための手段としての無力感と、敵意と憎悪の表現手段としての無力感である。
 まずは前者からみてゆこう。神経症者にとっての愛とは、彼が全てを犠牲にしても得たいと考えている至上のものであった。第1章にて少し触れたが、その愛の獲得手段の一つに「無力感」があった。すなわち、「私は苦しみ無力なのですから愛してくれなければなりません」といった形態を取るのである(ibid., p141= p.128)。無力感の持つ第一の機能は、愛情獲得の手段である。
 次に、神経症者が抑圧した「敵意」をここで想起したい。表面的に観察される彼の「穏やか」な態度とは裏腹に、煮えたぎる灼熱の憎悪を彼は持ち続けていたのだった。ホーナイは、この憎悪の表現手段として、「無力感」を取り上げている。つまり、「あなたのせいで私はこんなに無力なのですよ」といった形態を取るのである。第二の機能は、敵意表現の手段である。
 以上が、ホーナイの考える無力感の機能であるが、筆者はこの二つのみの指摘には満足しない。無力感は、これまで見てきたような、神経症構造内部での機能を確かに有しているであろう。それは、神経症を継続させ、強化するという意味で、確かに負の機能と断定することが可能であるかもしれない。しかし筆者は、ここでさらに考察を進め、無力感しかし、正の機能も確かに有しているのだ、という点を指摘したいのである。それは、すなわち、神経症脱却の鍵という機能である。無力感は、否定的な側面だけを有しているわけではないのだ。

 2)母としての無力感
無力においてしか存在を経験することができないその主体にとって、確かにその無力感は苦痛でしかないであろう。自分自身に対して、神経症に対して、他者に対して、世界に対して、こちらから働き掛けたところで応答が一切なく、彼が持つのは残された無力感だけなのである。それは彼の存在を揺るがすほどの苦しみであろう。なおかつ神経症者は、理想化された自己を現実化しようと試みていることを我々はこれまでにみてきた。それは言い換えれば、他者に愛される(であろうと彼が推測する)性質をもった感情は、神経症者自身によって不必要と判断され、疎外、あるいは抑圧、はては消去されるのが常であるということである。無力感そのものもそうだが、それに加えて、無力感という愛さない性質の感情を、現実の自己が抱いているということは、愛されなければならないという至上命令に屈従し続ける神経症者にとって、想像を絶するほどの苦痛であろう。
しかし、である。ここで立ち止まって考えてみたいことは、そもそも、痛みとは何か、という問いについてである。確かに痛みとは、その個体を苦しめるがために、回避されてしかるべき当のものであるかもしれない。しかし、当然のことであるが、痛みがなければ我々はそれを発しているそもそもの原因である傷に気づくことができない。気づくことができなければ、傷は個体を蝕み、果ては生存までをも危うくまでしてしまうではないか。
つまり、痛み――ここでいう無力感――は、その宿主に対する否定的ではあるが確かにフィードバックの形態なのである。つまり、何かを止めるべきであると彼に警告しているのである。彼に対して、「生きろ」と強く命じているのである。その意味で、無力感そのものにはそうした価値が確かにあると筆者は考える。
確かに彼は、ホーナイが言うとおり「戦士fighter」たりえないかもしれない(ibid., p225= p.292)。彼は、強迫的に他者との衝突を回避し、必死に愛されようとすべてに屈従しつづけていた。他者に虐げられようとも、いい「カモ」にされようとも、悲しくて泣くこともできず、きっと愛してくれるだろうという希望にすがりついて、じっと耐え続けていた。確かにこうした彼らの姿は、無防備極まりなく、他者と衝突しようとしていないという点で、戦ってはいないかもしれない。しかし、彼には、残された最後の感情である無力感がある。完全に神経症に巣食われているわけではないのである。ホーナイは、こうした彼らの絶望感を、「精神的な死 a psychic death 」と呼んでいた(ibid., p185= p.189)。しかし筆者は、そのそれが最良の比喩形象であるとは考えない。彼が神経症者であることそのものが、彼の生の証なのだから。
もしも神経症的パーソナリティにおける諸葛藤との対決を避け、闘うことをあきらめたなら、そもそもホーナイのいう基本的不安も発生せず、自己疎外もきたすことなく、そして無力感を抱くこともないであろう。これまでずっと深く考察してこなかったが、神経症者の反意語として用いられている、「正常」者に、括弧が与えられている理由がまさにここにある。つまり、すべてを諦めて闘争を放棄し、神経症を完全に受け入れてしまった主体は確かに、神経症的葛藤もなく、症状もなく、穏便平和に彼の日常を生きることが可能になるだろう。そうした「正常」者は、それは社会適応に「成功」し、神経症のような「病理」現象とは一見したところ無関係のように思える。しかし、「愛されなかった」経験――これは少なからず誰もが、つまり「正常」者もが通る道であろう――は、その経験の主体に「愛されたい」という欲望を産みつけて当然なのである。もちろんそうした欲望を抱かされた主体のそばに、彼を愛してくれる別の他者が存在し、その愛情を彼が受け入れることができたのなら、それは本当に幸いなことである。しかし残念ながら、そうした結末は常に用意されるわけではない。「愛されなかった」経験。それは葛藤を生み、症状を生み、神経症を発症させる準備をする。それはこれまで見てきたように、これ以上はないと思える巨大な悲劇である。しかし、筆者はその悲劇の中に救いを見出している。つまり、それに立ち向かおうとする闘争の意志があるからこそ、逆説的ではあるが、まさに神経症は発症するのである。神経症者は「生きる」ことを選択するのである。生きようとする意志があるからこそ、彼は葛藤し、苦しむのである。彼らは、酔生夢死の人などではない。こうした事実は、神経症者と正常者、病気と健康、狂気と正気といった、対立を失効させる。自分に、他者に、世界に関与しようと、そしてそうしたいと願うからこそ、無力感は発生するのである。そうした願いを持つことができなかった主体は、神経症をすら発症させることができないではないか。生の意志こそが神経症発症を必然とする。――だとするならば、「異常」なのはどちらなのか。神経症が発症していないということは、ともすれば生への意志を手放したことを意味しているではないか。それは死を完遂した、ただの亡骸ではないのか。正常・異常の二分法は本質をとらえることをしない暴力的な区分方法である。神経症研究において最も不必要な思考回路である。
諦観は観念的な死――それが自殺なのか他殺なのかは、現段階では不明である――と同義であると筆者は考える。神経症者は逃走ではなく闘争しているのだ。神経症者はまさに闘っているのである。残された最後の感情である無力感が、まさにその証拠である。救いは、ある。それは主体に無力というアイデンティティを与え続ける「敵」であると同時に、無力ではない主体を生み出す可能性を有した、愛おしい「母」なのである。

3)絶望的希望
 希望は残されている。そう記した。絶望感を覚えるということは、逆説的ではあるが、希望が残存している確たる証拠なのだと。希望がなくなれば、絶望する必要もない。そう筆者は記した。しかしながら、神経症者が抱いている「力」が「無」いという深くしみついた感覚が、残された最後の希望を、悲劇的な希望に塗り替えるのである。希望が残されているということが、神経症者を無力な存在のままにしておくことに寄与しているのだ、ということを筆者は以下にみてゆきたい。
 そもそも、そこに残された希望は、いかなる希望なのだろうか。上にみてきた神経症構造の考察を想起したとき、それはおそらく、「いつか誰かが愛してくれる」という希望である。神経症の核にあるのはいつだって「愛への欲求」であった。彼が希望するのは、「愛」である。
 そうした希望が残存していることは、ここでは問題にはならない。そうではなく、最大の問題は、この希望が他者依存性を帯びたものである、という事実である。神経症者は自発的に、自分で希望の成就をすることを選択しないのである。それは「成長」を志向する真の自己が疎外されているが故であり、自分が世界に関与できる、という信頼を奪った無力感の存在故なのである。ホーナイ自身もそうした特徴を神経症者の中に監察している。「神経症的な人間は、外的な変化によって、幸福な世界が実現するのを期待する」、と(ibid., = p. 183 強調は引用者による) 。この引用文で注目に値するのは「外的な変化」と「期待」という言葉であろう。「外的な変化」を望む、ということは、神経症者の他者依存性を端的に示しているものであるが、ここで重要になるのは、そうした受動的な性質をそもそも希望は本来持たないものであるという点である。希望とは、自然の善を信頼し、目標達成に関するはっきりと認められた成功の可能性という意味を担っているではないか。希望とは、はっきりと能動的なものであると筆者は考える。それは単なる他者依存的な「期待」、などではなく、行為に向かって、その成就に向かって、それらを信頼して世界に働きかける、ということではないか。
 彼の残された希望は、その性質故に、期待という言葉にその席を譲っているのだ。彼の希望はその受動性故に希望であるとは言い難く、受動性故に期待という言葉が適格性を帯びるのである。誰かがいつか、どうにかしてくれるのではないかという――あるいはそれこそ無意識の期待を――彼は持ち続けるのである。ぼんやりとした無力感は、彼が世界に関与できるのだ、という信頼を剥奪し、それゆえ神経症者は、何も信じていないために何も起こすことを望まない。いや、望めないのだ。
 不幸なのは、激痛を伴う神経症的構造の中で、そうした期待を抱き続ける彼の強さであろう。神経症者は「弱さ」を持ち合わせているが、不幸なことにある種の「強さ」をも持ち合わせているのだ。そうした「強さ」故に彼は絶望することすら許されず、「いつか誰かが愛してくれる」という期待――それは希望としての性格を備えていない――を持ち続ける。悲劇はここにも観察される。
無力感は絶望感である。絶望感とは、希望が残っている証である。しかしそれが無力感から発生しているがために、希望は他者依存的な期待という言葉に塗り替えられるそこに無力感を無力感のままにする構造となっているのである。残された希望、それは絶望的な「希望」なのである。
 
第4節 どのような「力」が「無」いと「感」じているのか
無力感こそが神経症構造の形成と継続を成立させている要因であるのならば、それでは、それらを回避できるであろう、無力感ではない感情とは一体何なのか。以下に、無力感の対となる反意語の考察を以下に行ってゆきたい。
 語義の観点から考えれば、「無」力感の反意語なのだから「有」力感となるのが当然であろう。――しかし、それは妥当なのだろうか。
 まずはこれまで考察してきたことをふまえて、そもそも、無力感とは何か、という問いに応えてみたい。無力感という言葉を構成している「無」「力」「感」というそれぞれの言葉を以下に考察してみよう。何が「無」くて、「力」とはいかなる力で、それはどのような「感」覚を彼に与えるのか。まずは便宜的に「力」の内容からみてゆくこととする。

1)どのような「力」か
本論における神経症者が持っていない「力」とは、いかなる力なのだろうか。それはこれまで見てきたような神経症者の屈従の姿から、その本質を抽出することができる。繰り返すが、彼は情愛を乞い求め、まさにそのために屈従の態度を表現し続ける。それは、そういった犠牲なしには他者が自分を「愛してくれる」とは信じていないし、悲劇的なことに事実そうであった経験を持っているからである。神経症という「愛される」性質をはぎ取ったところに存在する、つまりホーナイが言うところの「真の自己」を愛してもらえるなどということは決して信じていないからである。真の自己でもって、他者が、世界が、自分に応答してくれるなどとは信じていないのである。たとえ報酬ではない純粋な情愛を獲得したとしても、彼はまずその他者に対して警戒心を抱く。不信をもって眺め、その後ろに自分を利用しようとする企みがないか、あるいは自分に対する嘲りがないかとさまざまな思考をめぐらせる。神経症者は情愛を信頼できない。情愛を受ける資格が自分にはないという自己に対する信頼喪失。そして対象が情愛を提供するはずがないという他者に対する信頼喪失。彼は二重の信頼喪失の中に独臥している。これらの不信があまりにも激しいため、情愛の可能性そのものを思考から排除する。「愛」された時、彼はその事実を彼の全生命をかけて否定しようと努力する。そうすることの方が、彼にとって「楽」だからである。ここに無力感の悲劇性を帯びた典型的ないし回帰的形態を、我々は垣間見ることができる。
問題は信であり、信のさまざまな形態なのである。神経症の問題は信頼の問題でもあると換言することができると筆者は考える。神経症者には「無」い「力」とは、ここでいう信頼、なのであると、これこそを筆者はここで指摘したいのである。
信頼とは何か。信頼とは、情愛が深化したときの形式である。ゆえに、神経症構造の中で、その主体が「無」くす「力」とは、信頼の力であり、愛する力であり、それはすなわちそこに存在する力であるということが可能なのである。
 信頼から存在というキーワードを、筆者がここで導き出すには理由がある。存在する力、とは何か。きめ細やかな議論をするために、存在する力について触れておきたい。
 ここではいったん、便宜的にホーナイから離れ、1937年に彼女の著書から影響を受けて書かれたとある論文を紹介したい。著者の名前は、かのE・フロムである。1937年(これはホーナイが神経症についての初めての著書、『現代の神経症的人格』を世に送り出したのと同じ年である)、フロムはホーナイの研究を受けて、「無力感について」という論文を記している。それは、ホーナイの研究とは分析の対象において若干質を異にしたものであり、市民社会における神経症を問題にしている。概要を記すと、すなわち、市民社会の子どもが大人から「愛情をこめて育てられていても、実際には本気にとらえられていないということ」が、神経症を引き起こす要因になりうるということ、そして市民社会における大人が、労働の分業により無力感を植え付けられ、「自動人形」にされてしまう、ということを描き出すものであった(以上、E Fromm 1937=1977:140-169 要約)。フロムは、この論文の文末注に、「カレン・ホーナイ『現代の神経症的人格』ニューヨーク、1937年を見よ。この本は、この問題をすみずみまで論じている。」と記しているため、彼がホーナイの神経症研究に影響を受けていたことは疑いようのない事実であろう(ibid., = p.169)。筆者はここで、前述した神経症者が喪失している存在する力、とはいかなるものなのかを描き出すため、彼の言葉を引用したいと考える。フロムは、神経症の被分析者の言葉を考察し、神経症のおける無力感の内容をみごとに描き出している。

「神経症の症例では、無力感の内容はだいたいつぎのように記述される。すなわち『私はなんにも影響を与えることはできないし、何も動かすことができないし、私の意志によって外界か、私自身の中にある何かを変えることができない・・・私は他人にとっては空気なのだ。』」(ibid., = p.142 強調は引用者による)。

着目していただきたいのは、自分を「空気」と表現していることである。この感覚こそが、筆者がここで指摘したい、存在する力が欠如していることそのものなのである。無力感の区分のところで記したとおり、神経症者は、自分が何かに「影響を与えることができる」などとは信じていない。神経症者「いる」けど「いない」。全ては「わたし」抜きに進行してゆくと彼は認識するのだ。こうした無力感は、彼に自分の生に関して「実感」をもたせず、自分自身への彼のかかわりを非個人的なものにしてしまうのである。
上に記した、「私は空気である」というフロムの記述は、すなわちホーナイの論文の中にその帰結を見ることができる。無力感は、神経症者にある種の「離人感」を与える。その様子について、ホーナイは以下のように語っている。「彼は自分の人生が本当に自分の人生なのだということがはっきりわかっておらず、人生をよく生きるも悪く生きるも、彼次第である のに、何がおきようと自分のかかわり知らぬところだといわんばかりに、また、よいことも悪いことも彼に無関係に、外界から彼の人生に入り込んでくると思っているかのように・・・生活する」(Horney 1937=1973: 170)。そうした離人感が以下に強烈なものであったか、彼女は同様に、精神分析療法の中で見出している。すなわち、「精神分析を通じて彼は、自分について知性的に語る事柄のすべてがじつは自分や自分の生活とは何のかかわりもないことに気づく。自分が語ったことは、自分のほとんど知らない誰かのことであり、その人についての話としては興味深いが、自分の生活とは無縁だったことに気づくのである」(Horney 1950¬=1998:205)。
 本題に戻ろう。以上が、筆者がここで提示したい「存在する力」の内容である。神経症者は「愛されなかった」という経験によって、「自分が他者を愛することができて、しかも他者から愛されるに足る人間なのだ」、ということを信頼する力を奪われる。信頼する力の欠如は、愛する力の欠如を意味する。愛の不在は葛藤を生み、それは主体に自己消去的葛藤解決策を採用させるのだった。その策によって、神経症者は、文字通り「自己」を「消去」するのだ。消去されるからこそ、自分を「空気」であると感じ、自分を見知らぬ他人であると確信するのである。
 無力感という言葉を構成している一つの要素、「力」とは、信じる力であり、愛する力であり、それは存在する力をも意味するということを、筆者はここで指摘しておきたい。

2)「感」とは
 問題はここからである。無力感という言葉の最後に付随している、この「感」は、何を意味しているのだろうか。
 そもそも、ホーナイが記した神経症概念の中で、なぜそれは「無力helplessness」ではなく「無力感sense of helplessness」とされているのだろうか。その問いは、筆者が神経症発症の十分条件のところで展開したあの考察と地続きになっている。
 思い出していただきたい。神経症者は、確かに「愛されない」経験をしたかもしれないが、しかしその経験は悲劇的ではあるが単なる必要条件なのであって、決して十分条件ではなかった。「愛されない経験」をして、神経症的パーソナリティをその防衛として身につけてしまった個人が、そのパーソナリティの発動を回避できる場合があることを我々は見てきた。なんら犠牲も献身も屈従もなしに、代償なしの愛を与えてくれる他者が、彼の周りに幸運にも存在したからであり、しかも彼自身、その愛情を受け入れることに成功した。そのような経験は、彼の神経症的パーソナリティ発動を回避させることを可能にしたのだった。
そういった考察を踏まえると、われわれは次の命題にたどりつくことができる。すなわち、神経症者は真に無力であるわけではない、という命題に。「私は空気である」という言葉に現象しているような、自分が無力であるという事実認識は、彼の主観にすぎないのである。彼を空気ではなくする客観的状況は、本当に希少ではあるかもしれないが、確かに存在するのである。

3)何が「無」いのか
我々はここにきてようやく結論に到達した。無力感という言葉が提起する、何が「無い」のか、という問いに応えよう。――存在していないのは、「力」ではなく、「力」を行使する主体なのである。
以上みてきたように、神経症者その人にとっては、確かに「無い」のは、「力」であるかもしれない。そうした主観は、信頼の力を奪い、愛する力を奪い、果ては存在する力まで奪うのである。その強固な主観故に、彼は自身を「空気」であると感じ、自分の生を非個人的なものにまでしてしまう。その主観は筆舌に尽くしがたいほどの苦痛を彼に与えるであろう。しかし、それがあくまで主観であることにこそ、救いがあるのだ。主観であるからこそ、その主観を取り外したところに、「力」を取り戻す可能性と希望があるということができるのである。
さらに言えば、存在していないのは、「力」を行使する主体を支えてくれる、つまり、彼を愛してくれる人々なのだ。それは、現実に実在する人物でもあり、彼が投射によって外界につくりだす人物像でもあるだろう。いずれにせよ、「内面の安心感inner security」と、「自己表現できる精神的自由inner freedomをも与えてくれる温かい雰囲気atmosphere of warmth」の二つを備えた、神経症的パーソナリティの発動を回避させてくれる、優しい他者なのである(ibid., p18= p.2) 。
無力感という、この言葉。それは、存在する力を持つ自己と、それを支えてくれる他者の不在を意味する。しかし、「無力」で言葉が完結していないところに救いがあると筆者は考える。あくまでそれが主観的な側面を持つ無力「感」であるがために、主観の外には、存在する力をもった神経症者と、神経症者を愛してくれる他者の存在を我々は確認できるのである。

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