一、御述作の背景本抄は文永八年五月十六日に認められた御書とされています。御真蹟は現存せず、「国家謗法之事」の異称があります。対告衆 南部六郎殿とは、波木井実長のことです。波木井実長は甲斐源氏の系を引く南部三郎光行の六男で、南巨摩郡の波木井に住していたので波木井殿と称されていました。 宗史上の一大事件である、日興上人の「身延離山」は、この波木井実長が民部日向の教唆により退転し、四箇の謗法を犯したことに起因します。「身延離山」の真相は、日蓮正宗の僧俗が、必ず知っておかなければならない重大事件です。富士学林から発行された『日興上人身延離山史』は、文献資料を正確に判読し、真実を鋭く見ほどいた本ですので熟読するとよいでしょう。 背 景佐渡御配流を赦免になった日蓮大聖人様は、第三度目の国諫を、幕府の代表者たる平左衛門尉に対して行いましたが、遂に用いられませんでした。そこで大聖人様は波木井実長の所領である身延山を隠栖の地と定めて、ここで九ヵ年の歳月を送られ、一期御化導の整足御本懐成就を期されたのです。大聖人様が一期御化導の最も大事な時期にあたり、その地を身延に選ばれた理由は、波木井実長が古くからの大聖人様の檀越で、しかも強信者であったから、かというと実はそうではありません。佐渡御配流中である文永十年の『波木井三郎殿御返事』の、
(聖典 五六〇頁)
(聖典 五九六頁) すなわち大聖人様の一期御化導の最大事である、三大秘法の随一本門戒壇の大御本尊の建立、並びに日興上人への血脈相承、更には、重要御書の著述、諸弟子方の養成等、令法久住・広宣流布の基盤が悉く整えられたのが身延山の九ヵ年間でした。 このように日蓮大聖人様が晩年の御化導を心安く成就あそばされることができたのは、波木井実長の外護が大きかったことも事実ですが、その陰には実長の初発心の師である日興上人の教化善導が存したのです。 二、本抄の大意はじめに譬として、眠っている師子は手を触れなければ怒ることはなく、流れも竿を立てなければ波は立たないことを挙げて、謗法も破折しなければ留難が起こることはないという道理を示して、逆に謗法破折には必ず留難が起こることを明かされます。次いで、南岳大師の『安樂行儀』を引いて、留難を恐れていつわり親しむのみで謗法を破折しないならば、今はよくとも、堕地獄を免れることはできないと説かれます。また誹謗正法の者には親近すべきでないことを『十輪経』、及び『弘決』の文を引いて明かされています。 更に、謗法について「内外」の二種類があるとされ、外とは社会全体の謗法であり、内とは国家の中心である為政者の謗法であると説かれ、この内外の二つの謗法を禁止しなければ、宗廟社禝の神々に捨てられて国家が必ず滅ぶと、「神天上の法門」を述べられています。 最後に、伝教大師の『守護国界抄』の、国に謗法があれば民の数が減って国力が衰え、家に正法を尊崇する修行があれば七難を退けることができる、との文を引かれて、この謗法厳誡とは、国家、為政者の上のみでなく、各自においても分々の意義があることを示されています。 拝読のポイント波木井実長に与えられた御書はわずかに四、五篇にすぎません。しかし、本抄の神天上法門といい、また『南部六郎三郎殿御返事』(御書 680頁)の、日蓮大聖人様御内証所具の妙法蓮華経の法体の御内示や、爾前権教の得道について弟子方に聞くようにとの御教示といい、いずれも後に実長が犯した「一体仏造立」「念仏への施」「神社参詣」等の謗法に対応することには、不思議な因縁を感じさせられます。波木井実長が、大聖人様からこのような御指南を賜わっていたにもかかわらず、民部日向の教唆によるとはいえ、四箇の謗法を犯すに至った信心の弱さを、私たちは決して他人事のように考えてはなりません。 宗祖日蓮大聖人様をはじめ奉り歴代の御法主上人の御指南、殊に時の御当代御法主上人の御指南に対する、信伏随従の信心がなかったならば、その結果は波木井実長と大同小異となることは疑いないからです。 本文には、「宗廟社禝の神に捨てられ」と「神天上法門」が示されています。「宗廟」とは、伊勢大神宮を指しますが、本来天子の祖先の霊を祭った宮殿、〝みたまや〟のことです。「社禝」とは、土地の神と五穀の神のことですので、「宗廟社禝の神」とは、天神と地神(地祇=ちぎ)であり、いわゆる諸天善神のことです。 本抄等では、衆生が邪宗・邪義を信仰すれば、諸天善神は守護をやめて、天に上ると説かれます。これは、日本古来の神に対する通念では、神は天上に住まれると考えられていることから、神々が衆生を見捨てて守護をやめて本土に帰ることを、神が天に上ると表現しているのです。 これに対し『報恩抄』では、「寂光の都にかへり給いぬ」との仰せが拝されます。この御指南について日寛上人は『報恩抄文段』に、
つまり、仏法の本義からいえば、神とは本仏所具の本有の十界中の天界等であり、仏の神力(じんりき=たましいのちから)にほかなりません。したがって、神の守護がなくなるとは、謗法により本仏の御威光が遮断されることであるといえるでしょう。 事実、農作物の不作による本年の米価等の異常な高騰は、まさに「社禝の神」に捨てられた姿です。その原因は、まさしく池田創価学会の大謗法にあるといえるでしょう。 日目上人は申状に「なかんづく我が朝は神州なり、神は非礼を受けず」(聖典五七〇頁)と仰せられていますが、諸天善神の好むところの「正直」が、国中の謗法のために忘れ去られ、不正直の風潮が一国に蔓延しています。これはまさに、「宗廟の神」に捨てられる所以といえましょう。 今日、不正直な為政者たちの腐敗堕落は国家的危機の招来を予感させ、誇り高き日本国民の嘆きとなっています。そして多くの識者が指摘するように、日本支配の野望を秘めた池田大作の私党である某党が、権力を求めて節操なく変身することが、今日の政治混乱の元凶となっているのです。 『立正安国論』に
(御書 241頁) 結 び本抄の御指南により現在の状況を照らし見るならば、創価学会の狂乱した怨嫉誹謗の姿は、まさしく日顕上人猊下が、その謗法を厳しく指摘破折されたことにより起こっていることが歴然としています。また私たち各自にも謗法破折の修行のあるところには、分々に諸難が惹起しています。これらは日蓮正宗の僧俗の信行が、日蓮大聖人様の御意にかなうものであることの証明なのです。 もし、学会等の謗法の圧力を恐れて破折をしないならば、留難は起こらないでしょう。しかし、そのような臆病な信心では宿業打開も、まして即身成仏は思いもよらず、かえって謗法の者と共に地獄に堕ちる結果となるのです。 六百億遍の唱題行を成就した今日、全国の法華講衆の胸中には地涌の眷属の尊い命が涌き出ずるがごとく広がっています。 さあ、いよいよ信心に住した唱題行を根本に、慈悲の折伏に邁進していこうではありませんか。 |
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