どうも。ひつじ田メイ子です。
何となくここ数日。
特別な事件あったというわけでもないのですが、心がざわついております。
色んな場面を見て、聞いて。
人間関係って難しいな…とヒシヒシと感じてしまうというか、ぐるぐる考えていました。
好きなのに、相手へ思いがうまく伝わらない感じをどうしたらいいのか、考えていました。
解決には至ってないのです。
私のただのぼやきです。
全ては自分の欲望
例えば、私は誰かが傷ついていたときに、「助けたい」「元気になってほしい」と思うことがある。なぜ助けたいと思うのか。
見ていると自分も辛くなるから、相手のことが好きだから・・・色々な理由があると思う。
でもそれは相手のためじゃない。
突き詰めると、自分のためにやっているのだと私は思う。
もちろん、言葉をかけるのは、相手を愛するがゆえの行動なのだけど。
でも、思った反応が相手から返って来なくて傷ついてしまう時があるのは、自分のためでもあるからだと思う。
むしろ、完全に相手のためなのだと思うことは、互いの溝を深めてしまうことに拍車をかけてしまうのではないかと思う。
色んな生い立ちの人がいて、兄弟であろうと性格が別物になるように、自分と全く同じ考え方の人間はこの世に存在しないと思う。
どこまで行っても、個人は個人で。家族だろうと他人。
約束された永遠は存在しないし、未来は常に不確定である。
冷たく切り捨てているわけではなくて、「同じではないのだ」という前提から物事を始めないと、色々なところで悲しい食い違いが大きくなってしまう気がする。
同じではないから、言葉を使って、歩みよりたいと願うのではないだろうか。
分かりたいという欲求。分かられたくない拒絶。
相手の気持ちを分かりたい、という感情が湧き出るときがある。
相手の奥底の部分を理解して、相手の思考を想像して、痛みを感じられる人間になりたいと思う。
相手の痛みに気づけずに、無意識に傷つけてしまうことを恐れる。
相手と一心同体になりたい。
心理的にも物理的にも、自分が一番近い場所にいたい。
独占欲に近いものかもしれない。
相手の悲しみも痛みも、全てを知りたいと思う。
そのために、相手の些細な言動や行動に注意深く見守り、そのひとつひとつに対して意味づけをしたくなる。
もっと理解したい、ひとつになりたいという心が肥大していく。
でも、多くの場合は、どこかで違いは出てくる。
それは生きてきた環境や、見てきたものが違うから、仕方のないことなのだと思う。
違いを埋めようとすればするほど、相手との違いが気になってしまい、理解できない自分に落胆してしまったことがあった。
でも、反対に誰にも理解されたくない日もある。
私の何が分かるの?この辛い気持ちなんて、誰にも分かるはずがない。
「大丈夫だよ」とか、「あなたは本当はとても恵まれてる」とか「わかるよ」と慰められる日もある。
でも、そんなことは私がいま感じている痛みとは、なんの関係もない話だ。
自分が大丈夫じゃないから、落ち込んでいる。
自分が恵まれないと感じているから、悩んでいる。
わかるよと言われても、同じ経験をしていないのにわかるはずがない。
痛みを相手に簡単に想像されて量られてしまうことは、苦しんでいることが他愛もないことだ侮られた気がする。
しまいには、相手の不安そうな顔が自分を責めているようにすら見えてくる。
優しい言葉をかけてくれる人に対して、好意をまっすぐに返せない自分に苛立ってくる。
とても理不尽なことに、相手をうっとおしくすら感じる。
どんなに優しくて包みこむつもりの言葉を与えてもらっても、傷ついている心には、そんな風に乱反射して歪んで届いてしまう時がある。
相手が本当に自分のことを思って言ってくれているとは頭で理解していても、心の処理が追いつかず、相手を自分が見えない範囲まで追い出してしまいたくなる日がある。
我がままだと、分かっているけど、放っておいてほしい。
そんな、荒々しい自分になってしまう日もある。
私はとても我が侭で、いつも矛盾している気持ちを抱えている。
快か不快かで判断しているという話
本当は、感情的ではなく冷静で理性的な人間でありたいと思う。
自分の激情で誰かを傷つけたくはないし、操作もしたくないから。
でも、感情はいつも真っ先にやってきて、後から論理を後付けすることも多い。
私は、自分の考え方と逸脱した非常に攻撃的な意見を誰かが述べている時、不快だと感じやすい。
不快だと感じた場合、相手の視野の狭さや非論理性を挙げて、考えを改めて欲しいと思うことがある。
やんわりとした言葉に置き換えて、指摘をする時もある。
その行動が正解なのかというと、よく分からない。
そもそも、論理的であることが正しいと思っていること自体が、私の価値観だ。
他人が非論理的であろうと、私に口出しする権限はどこにもない。
私から見ると違和感がある人でも、その人の中で結論に至った経緯はあるはずだ。
その人の見えてる世界では、それが正しさなのだ。
私が公の場に出す言葉は、客観性や論理性のある意見に見えるように加工しているだけで、少し掘り返すと、自分の感情が深く入り込んでいる主観的な言葉を発している。
私は、自分が不快だと感じてしまうから、相手が間違っていると指摘したいだけなのかもそれない。
完全なる客観的な言葉、理性的な指摘なんて存在しないと思う。
自分にとって好ましいか、好ましくないかから、主張は生まれると思う。
自分がどう思うかだけ。正解も不正解もない。
主語をIに変える大切さ
ブログを書くときになるべく、「私は」という一人称の視点から、書くようにしている。
必要以上に主語を大きくしないように気をつけている。
「日本人は」「女性は」「男性は」という大きい主語は、軽い話題ならば、エンターテイメントとして面白いものだと思う。
でも、真面目な話題の時には使わない。
大きな主語にすればするほど、当てはまらない人は不快に感じやすいと思うから。
なるべく巻き込まないようにしたいと思う。
「私はこう思うのだ」と伝えるだけでいいのだと思う。
その言葉が相手の薬になるのか、相手の毒になるか。
それは発してみないと分からない。
異論を唱えられても、前述したとおり、聞き手にとって自分の発言は好ましくないものだったということだけだ。
しかし、話の受け手に立った時、「あなたのためにしているのだ」という気持ちが見え隠れした時、精神状態によっては辛い日もある。
自分を思ってくれていると思い嬉しいと感じる部分もあるけど。
相手が私のためだと想像しているものは、私にとって私のためではないこともあるからだ。
「私は」から始める言葉の責任は、発言者自身にある。
だから、受け手からすると重さを感じず、負担が少ない。
発言者と受け手の考え方は独立している前提なので、異論も気軽に唱えやすいと思う。
でも「あなたは」「あなたのため」という言葉を含めた時、自分の至らなさを指摘されたような感じで、もどかしく、辛い。
言葉の内容に違和感を感じても、「あなたのため」という善意を見せられると、異論が唱えにくくなる。
だから、私は「私がしたいからするのだ」という心で相手と接することができたらいいのになと思う。出来る範囲で。
そうすることで、お互いが自由のまま動くことができる気がする、
優しい言葉をかけるのも。
心配をするのも。
怒るのも、悲しむのも。
全ては、「私がしたいからしている」
言葉の責任は自分にあると表明することで、相手への愛を示しているつもりだ。
相手には、私の行動や発言を見て、賛同するのか反論するのか自由でいてほしい。
さいごに
自分の心の部分に近いことを吐き出すことは、やっぱり怖い。
正直、こういう記事を書いてしまうと、人の心に良い意味でも悪い意味でも、何かしらの影響を与えてしまうだろうな、と思う。
商品レビューや書評を書いている時の方が、誰も傷つけないし、自分の気持ちとしては楽だ。
でも、私がモヤモヤしたものを吐き出したくて、考えたことを書いてしまった。
自分が書きたいから書いてしまった。
周囲の評価を恐れるのではなく、誰かに責任を押し付けるのではなく。
自分の表したい言葉を、自己責任で発信できる人でいたい。
正しさは、人それぞれの中に存在して、無限に形を変えるものだから。