Archive(アーカイブ)普賢岳チャリティライブ
Archive(アーカイブ)とは、書庫、記録保管所の意である。(ウィキペディアより)
スタジオでこの言葉を使う場合、文字通りスタジオの記録(様々な音源)を保管することなのであるが、実質的には、古くからの音源(4/1アナログテープ、カセットテープ、DAT、MD他、様々なメディアに記録された音源)をデジタルでPCに取り込み、HD等のデジタルメディアに変換して保管することを意味する。
そこから更にマスタリング等の作業を施して残すものもあるだろう。
弊社でも当然とっくにこの作業に着手しなくてはならなかったのであるが、ごく一部を除き大部分(膨大な数のDAT、4/1オープン、カセットテープ)が手つかずの状態に置かれていた。(何たる怠慢)
今年は弊社法人化なんと20周年であるし(設立は27年前)、僕は今年で生まれ変わったので、こんな怠慢は許されない。
という訳で(ようするに暇っつーこと?)、今日から(思いついたが吉日、もしくは、善は急げ!!)、アーカイブ作業に取りかかった。
さてその第一弾は、1994年3月13日、長崎市公会堂にて行われた『普賢岳チャリティーコンサート』を、DATにライブ収録 したもの。(PHOTO)120分テープ3本、トータル4時間越えの大コンサートだった。
光栄にも、不肖、私めが、レコーディングエンジニアを担当させて頂いた。(ありがとうございます!!FM長崎様)
このライブ、 泉谷しげる氏を旗ふり役に、集まったアーティストの豪華なこと!!!
横道坊主、花田裕之、山下くみこ、さだまさし、忌野清志郎、 大友康平(ハウンドドッグ)、浜田省吾、吉田拓郎、南こうせつ、小田和正、伊勢省三、井上陽水、・・等・・・
という、恐らく、僕が生きている間には二度と経験不能と思われる、とてつもないメンバーが集った。
今から16年も昔のこと、僕もまだ怖いモノ知らずのバリバリの30代。依頼を受けて、当然二つ返事で引き受けた。ところが、なんとテクニカルミィーティングが行われたのが、本番前日の夕方という慌ただしさというより、むちゃぶり。しかも、出演者も完全には決定していなかった。
(実際、井上陽水さんはギリギリまで到着できるかどうか分からず、本番始まってからの到着だったような記憶がある)
それに、まずは、これだけのライブ録音を賄うだけの機材が揃うかどうかが大問題だった(何せ前日だから!!)。
結局我が社だけでは賄えず、何とか地元のPA屋さん(=サウンドプロさん。ありがとうございました田島さん!!)の協力で、夜中の12時過ぎまでかかって、プランを立てながら機材を集め、しかも、初めて使う機材は仕様書を見ながらプランを練り直したりして、本当に大変だった。若かったな〜(バカだったな〜)・・・
で、当日、朝9時入り。スタッフ総出で、せまーい三角部屋(知ってる人は知ってる、長崎市公会堂のせまーい部屋。) に、機材を詰め込み、積み上げ、ケーブルを這わせ・・・・
そうこうしているうちに、回線チェックになり、そのままリハーサルに突入。
それがなんと、バンドマスターに吉田拓郎(ベース・・何故?)、エレキギターギター・伊勢省三、アコースティックギター&バイオリン・さだまさし、アコースティックギター・南こうせつ&泉谷しげる&忌野清志郎、ドラムに大友康平&浜田省吾のツインドラム、ピアノ・小田和正という超豪華メンバーに寄るスペシャルバンド。このバンドで、それぞれがソロボーカルをとる。
(※個人的には、かつて愛奴?(あいど)というバンドでドラムスを担当し、吉田拓郎のバックもつとめたという浜田省吾のプレイを期待したのだが、過ぎ去った年月は、彼からすっかりドラマーとしての技量を奪い去ったのか、ドラムサウンドの殆どは、アマチュアバンド 時代ドラムを担当したと言う大友康平のものだった。・・・かなり、ちゃんとしていたばい。)※敬称略
とはいっても、普段はそれぞれが大将な人たちの上、得意でない楽器もある。中々まとまらないのがチョーオモロかった。
特にバンマスのワンマンぶりは群を抜いていたな〜(俺そんなのできねぇ、を連発するわ、カポつけてベース弾くわ・・・)
殆ど、高校生のアマチュアバンドと変わらない。すいません(誰に?)
しかししかし、それぞれの存在感たるや、当たり前だがとてつもなく、それぞれの持ち歌で一声発するだけで、一瞬にして世界が一変する様は圧巻だった。
その上、予想外のスーパープレイが聞けたり(小田和正さんの神の声コーラス!!!!!)
とにかく、リハのほとんどを、このスーパーセッションバンドに費やした。要するに練習していた。(笑)
(何と恐ろしいことに、結局、セットリスト(曲目表)等は一切来なかった。つまり、スーパースター軍団の気の向くまま、ということ。分かっていたのは出演順のみ。)
しかし、僕は、結構楽観的に構えていたのを良く覚えている。
そんなことより、こんな仕事をできる喜び(幸せ)の方が遥かに大きかったし、何といっても、すべてのアーティストの曲のほとんどをリアルタイムで知っている世代であるという強みがあった。
つまり、何が来ても、最初のワンフレーズで対応できる自信があったのだ。(若さゆえ!!)
ただ、不安だったのは、テレビ局が用意してくれたモニター用のTVが10インチのちっこいヤツで 、ステージ上の様子がよく見えなかったことだ。(これは最後の最後で、僕が唯一しでかしたチョンボに繋がる)
そして、いよいよ開場。待ちかねたファンが一斉に駆け込んできてあっという間に満席。そりゃそうだ、こんなメンツが一同に会するなんて、しかも、長崎に、・・・あり得ないもんね。
泉谷さんの登場で、一気にクライマックス。そのまま怒濤のエンディングまで突っ走ったのだった。。。。
※PHOTOは、この時、打ち上げ会場にて頂いたサイン。色紙を持っていなかったので、10インチオープンテープの箱に書いてもらった。社宝です。(よく見ると、二枚目に不適切な言葉が見える。横道坊主の義人の仕業やね)
誰もが素晴らしかったが、特に印象的だったのは、一人で約1時間も暴れまくってくれた故・忌野清志郎さん。
一人で、アコースティックギター一本で、会場全体を登場と同時に興奮のるつぼに叩き込み、緩急自在に引きずり回した。
曲も、決してテレビでは聞けない危ない内容のものばかりで、会場は爆笑の連続だった。
音楽界は、本当に惜しい人を失ったと思う。(心よりご冥福お祈り致します。合掌。。)
内容に関する話しは尽きないし、肝心の音源をここにアップする訳にも行かないので、ここらで終わりにして、いつものように、僕らしい話題で閉めよう。
そう、当日、どんなセッティングでこの大仕事に挑んだか、覚えている限り記そう。
まず、卓は、Sound Tracks Solo-Midi 32inとSound Craft VENUE 32inの2台。
インプットは、マイク、ライン、エフェクト全部で64in、フルに使ったと思う。
エフェクトは、リバーブにSONY DSP R7、ROLAND RSP550、DEP-5 、の3台。Rolandの2台をドラムに、それ以外は、全部R7で賄ったと思う。DELAYにSDE3000、2000、の2台(これは殆ど使わなかった)、NOISE-GATEにBEHRINGER XR2000を2台(二人のドラムのタムのみに使用)、COMPにBEHRINGER MDX2000×1、DBX 160x×2、Drawmer DL-221×1 YAMAHA GC2020BII×1 EQにYAMAHA Q2031A、これくらいか? とにかく、コンプが足りなくで往生した記憶がある。
(結局、グループを1ch、リードボーカル専用に用意して、160Xをインサートし、リードホーカルを担当するマイクを、その都度放り込むという荒技で対処した。)
しかし、(Sound Craftを除き)なんとまぁチープな機材。よくがんばったよ! 俺!!(誰も褒めてくれないので自画自賛)
マスターテレコは、Sony DAT TCD-D10 PROIIを2台。つまり、アンビエンス(会場マイク)を含めて、2トラック一発録音を意味する。当時、これが地方の普通だった。(マルチ録音なんて予算的にまったく無理だった)
このテレコは、一台は、クライアントであるFM長崎様の為のもの、もう一台は、セーフティの意味を含めて我が社用に用意した。
あと、全国放送用(ニュース番組用にTBSが来ていた)にステレオアウトを一組 、アーティスト・チェック用(恐ろしいことに、録音は本番終了時にすべてアーティストサイドにチェックされた。怖ーーー!!!)カセットデッキを用意した。
放送は全部オンエアされたので、全アーティストからOKを頂けたと、勝手に解釈したい。
あっ、最後にやっちまったチョンボというのは、アンコールの一曲目で『雨上がりの夜空に』を、清志郎さんを中心にみんなで唄ったのだが、突然途中で、泉谷さんにバトンタッチした。
ところが、泉谷さんの声がものすごく小さい。フェーダーは全員分しっかり上がっている。どのマイクで唄っているのかさっぱり分からない。あわてて、どこにいるのか探しても、TVモニター画面も小さすぎてどこにいるのか分からない。
焦りまくって探しているうちに泉谷さんの部分は終わっちまった。(ここもしっかりオンエアされて、泉谷さんはPAエンジニアも興奮しちまったんだろう?なんて言って下さった。PAではなくRecordingなんすけど・・申し訳ありましぇーん・・・とほほ)
実は、泉谷さんは清志郎さんのマイクで唄っていた。(僕は、当然自分の(泉谷さん自身の)マイクで唄っていると思っていた)
ここに深遠なる理由がある。清志郎さん、全出演者中、最大声量の持ち主で、彼のマイクのゲインは他より相当小さかった。
つまり、他の人が、清志郎さん仕様のマイクで唄うと、当然かなり小さくなるのだ。これが理由だったのだ。 それくらい彼の声量は凄かったんです!!
長々と記してきたが、このライブは、僕にとって、エンジニアとして掛け替えの無い素晴らしい経験をさせて頂けただけでなく、日本の音楽史に残るような一夜に立ち会えた一人の音楽ファンとして、死ぬまで忘れることのできないものになりました。関係者の皆様、本当にありがとうございました。
そして、この素晴らしい1日は、僕の脳みそにも永久にアーカイブされたのだ。チャンチャン!!
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9月 28th, 2010 at 12:25:40
2mixの一発録りですか!、それはものすごいプレッシャー。
今ならPC一台とラック1本もあればマルチ録音も簡単に済むのでしょうが
16年前ですからまだPCもe-mailも普及してない時代ですね。
その頃のMacなんか軽く百万円越えてましたし。
にしても、清志郎さんの生声を一度聴いてみたかったなあ。
9月 28th, 2010 at 16:54:37
2mixには慣れていたからね。でも、ものすごいプレッシャーだったのは事実やね。
でもね、それ以上に楽しかったのも事実なんです。脳から何か出てるのがはっきり分かった・・・・
当時でもアナログ24trだったら用意はできたんだけどね・・・ハナから議題にも上らなかったし、こっちからも提案もしなかった。24trアナログテープ代だけでパンクだもんね・・・・
でもね、だからこそサウンドは鮮烈だよ。
12月 4th, 2010 at 22:55:49
1994年3月13日『普賢岳チャリティーコンサート』の音源をどうしても聞きたいと16年間思っていました。当然かもしれませんが世間に出回ることもなく封印されたままになってます。何とかできないものかと駄目もとでメールいたしました。
12月 15th, 2010 at 11:55:00
Nakata 様
返答が遅くなり申し訳有りません。(以前のページは中々見ないもので)
結論から申し上げて、お気持ちは重々お察し致しますが、私にはどうにもできません。どうにかすると、手が後ろへ回る事になります。
ただ、これは当時、ほぼ全編、放送されました(FM長崎)ので、ひょっとするとけっこう録音されている方もいらっしゃるかもしれませんね。お役に立てなくてすいません。