所領を失った幼い藤原惺窩は、これを不服として髪を剃り、妙寿院 舜(みょうじゅいん しゅん)と号して仏門に帰依します。
けれど、後に、自分の非を悟り、還俗して儒教を学びました。
この時代、日本国内はまさに戦国末期です。
日々干戈の音が絶えず、文教はおろそかにされました。
そういう時代にあって、藤原惺窩は、もっぱら道を唱え、後世の文学の祖となる道を選んだわけです。
秀吉が関白となった頃、藤原惺窩は秀吉に呼ばれ、詩を献上するのですが、二度目に呼ばれたときには、病を理由に、これを断っています。
「なぜ断るのですか?」
といぶかる弟子に、藤原惺窩は、
「君子であれ小人であれ、各々には党があります。
同じ党でないのに交わっても、
交わることはできないものです。
私が秀次殿に交わったとしても、
結局は交わりきれないし、
後に悔いが残ることはあきらかです。
ですから、再見しないのです」
と答えたそうです。
どういうわけか、秀次がこの話を聞きつけ、藤原惺窩にたいへん腹を立てているということが噂になります。
そこで藤原惺窩は、名古屋に身を隠します。
ところが、別な事情から太閤秀吉が、諸侯を引き連れて名古屋に来てしまうのです。
このままでは殺されかねないと思った藤原惺窩は、家康に庇護を求めます。
家康は、藤原惺窩を礼を尽くして迎え、またこのときに小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)が藤原惺窩の門人となります。
小早川秀秋は、生来の豪傑でしたが、藤原惺窩の前では、常に粛然としてかたちをあらためて、礼をとったと伝えられています。
小早川秀秋は、秀吉の正室の”ねね”の兄の五男ですから、秀吉からみたら従兄弟にあたります。
けれど後の関ヶ原の戦いでは家康側に付き、東軍に勝機をもたらした大名として知られます。
この時代、宋学を講ずるものとしては僧玄恵がいましたが、まったく学派としてふるわず、そこに藤原惺窩が朱子学を講ずることで、次第にその門人は勢力を増し、林羅山や山崎闇斎らが、藤原惺窩の門を出て、自ら私塾を始めるように成ることで、朱子学がその後、おおいに流行することとなりました。
このことについて、山崎闇斎が真鍋仲庵(まなべちゅうあん)に書いた書のなかで、次のように述べています。
「朱子学の書が日本に来て数百年が経過し、玄恵法印が始めてこれを正の学問としましたが、それはまだ仏教の延長線上のものとしての朱子学でした。
ところが一条兼良が出て程朱学(儒教の宋学派)の新釈を出し、慶長、元和の頃に藤原惺窩が出てこれを尊ぶことで、はじめて朱子学は世の中心となる学問となりました」
ある日、直江兼続が、藤原惺窩にひと目会いたいと行ってきました。
ところが藤原惺窩は、これを拒んで「不在」と答えました。
使者は三度やってきたのですが、藤原惺窩は拒否しました。
けれど、その三度目のとき、藤原惺窩は、
「もし、次にまだやってくるようであれば、お会いしましょう」
すると翌日も使者がやってきました。
ところがたまたまこのとき、藤原惺窩は不在でした。
直江兼続は悄然として、
「余、先生を見ることを願っていましたが、
お会い出来なくて残念です。
今日、余は会津に帰らなければなりません。
もうお会い出来る機会はないでしょう。」
と述べて、帰っていきました。
しばらくして帰宅した藤原惺窩は、これを聞いて、
「まだ遠くまでは行っていないであろう」
と、直江兼続を追いかけ、大津あたりでこれに追いついて、両者は面談しました。
直江兼続は大いに喜び、次のように言いました。
「余は、ほんものの道に就こうと思い、お伺いしました。
ただひとつ、教え乞いたいことがあったからです。
それは、いまの世の中において、
絶えるものを継ぎ、傾くものを助けるということは、
これはすべきことなのでしょうか。
それとも、そうすべきではないことなのでしょうか」
藤原惺窩はこれに黙って答えず、表に出るとため息をついて述べたそうです。
「直江殿でさえ、どの覇主に属すべきかと悩まれる。
そのために謀ろうとする。
いったい誰が民衆の困窮を思いやろうとするのであろうか」
同じ時代に、藤原惺窩と同様の才学があると自負する者がいました。
その者が、藤原惺窩をなじって、次のように言いました。
「藤原惺窩は、はじめは仏門を奉じ、いままた儒者となる。
これは、真理を捨てて俗に帰したことにほかならないではないか」
藤原惺窩は答えました。
「真も俗も、仏教上の概念であって、俗というのも、
単に自分でそのように言うにすぎないものです。
たいせつなことは、天の理に基くことです。
では天の理とは、いかなるものでしょうか。
そしてその理は、真なのでしょうか」
藤原惺窩は、父の死後、弟の為将を新たな当主に擁立して、自らは儒者としての道を歩みました。
けれど、そうしながら冷泉家の再興に尽力し、自身は冷泉家の当主の座には就かなかったけれど、息子の為景を、次の当主にしています。
元和5(1619)年死去。
享年59歳でした。
実は、この藤原惺窩によって戦国末期に儒教が再び見直されるようになり、江戸時代を通じて武士の学問といえば、儒教を指すようにまでなっていきました。
藤原惺窩の最大の功績は、それまで死に体であった儒教を、新たに忠孝の道として日本的価値観に基いて再構築した点にあると言われています。
だからこそ藤原惺窩の儒教は、広く日本国内で中心となる学問にまで発展して行ったのでした。
ただ、上に述べた直江兼続との邂逅にもあるように、儒者というのは、もったいを付ける風があり、会いたいと言えば、会わない。
欲しいと言われれば、あげない。
実は、人の上に立つ者には、日々、様々な要求が行われるわけです。
その要求のすべてを満たすことなど、到底できることではないから、もったいをつけて、一度ならず三度まで拒否をし続け、それでも要求するものについて、これを受け入れ、対応する、ということが、儒教の道理のようになっている節があります。
これは、実はいまでもその風はあって、役所などに何かの要求を行うと、役所は、必ず、まず拒否をします。
そうしておいて、各方面その他、強い力を持って要求してきたものだけに反応する。
これは現実によくあることです。
何が大切か、何を軸に判断するかではなく、上に立つ者は、常にそうしてもったいをつけなければならないというのが、もともとの儒学ですから、そのような弊が出てしまうわけです。
ただこのことは、価値観を失って、力関係と利害得喪だけによって衝動的に人が人を殺し合うという戦国社会にあっては、すくなくとも、もったいをつけている間は、戦乱にならずに済むわけです。
藤原惺窩は、そうした儒学と、国風化にある民をこそ「おほみたから」とする日本的価値観との間で揺れながら、儒学という学問の日本的に受け入れられる面だけにスポットライトをあてて、武力より学問、力より知恵という時代を切り開こうとしました。
藤原惺窩がそのような道に進むことを選んだ背景には、やはり敬愛した父が、理不尽な暴力によって殺害されたという幼い日の事件が、生涯を通じて影を落としていたのかもしれません。
そもそも戦国時代がなぜ起きたのかといえば、足利将軍家が、将軍職という天皇の部下という地位にありながら、明国の肯定から「日本国王」の称号を得たことによります。
つまり、交易という利益利得のために、国に二君をつくってしまったのです。
これによって価値観が混乱し、結果として、力こそが正義となり、武力と乱暴が支配する世の中がおよそ百年続いてしまったわけです。
それでも、この時代に来日したザビエルの書などを見ると、
「私がこれまで見てきた諸国の中で、日本はもっとも清潔で治安が良い」と記しているわけです。
これは民度の高さです。
そしてその民度の高さは、儒教によってもたらされたものでも、仏教によってもたらされたものでもなく、実は、日本古来の日本的伝統文化から生まれて来ていたものでした。
藤原惺窩の最大の功績は、儒学にある様々な思考を、ただ漫然と受け入れたのではなく、日本的価値観に沿った部分をこそ儒学の本質として取り入れようと図ったことによります。
こうして支那朝鮮における儒教にある、事大主義の臭みや、ただ漫然と上に立つ者だけに都合のよい学問としての儒教を、人の成長のための学問へと昇華させたのです。
従って藤原惺窩の儒学は、それまでの、ただ無批判に受け入れられていた儒教と異なります。
そして異なるがゆえに、ともすれば藤原惺窩は、同じ儒学者の中にあっても、異端扱いされる内容のものでした。
だからこそ、藤原惺窩は、自らの名前を支那風に藤惺窩(とうせいか)と名乗ってみたり、またその日常の服装においても、まるで支那の儒学者かと思わせるような、服装、態度を取り続けています。
これは、今風にいえば、パフォーマンスの一種ですが、既存の儒学との無用な衝突を避けるためには、必要なことであったということができます。
モノ作り国家である日本は、新しいものが好きな民族です。
なぜなら、新しい知恵や観念は、既存のモノを改善、改良することにたいへん役立つからです。
こうした日本人の習慣は、思想の面においても同様に発揮されます。
新しいものが好きなのです。
ですから6世紀における仏教伝来もそうですし、儒教の伝来も同じです。戦前の共産主義もそうですし、戦後の民主主義もそうですが、必ず、これに「かぶれる」人が出てきます。
渡来物を、無批判にただ受け入れようとするのです。
これは、受け入れ段階では必要なことです。
けれど、それを日本的価値観に沿った形に変形させたときに、はじめて、意義のあるものになっていきます。
なぜなら、あらゆる思想、あらゆる物品は、その国の歴史伝統文化に立脚して成り立っているからです。
日本には縄文以来綿々と続く、日本民族としての伝統文化があります。
そして渡来物は、渡来そのものは、簡単にできますけれど、それが消化吸収されて国風化したときに、実は、はじめて、真に役立つものとなります。
日本では、11万年前には、石器が使われ
3万年前には、加工した石器(磨製石器)が使われていました。これは世界最古のものです。
そして1万6500年前には、世界最古の土器がつくられ、
1万3000年前には、人の形をした土偶がつくられ、
1万2500年前には、漆が栽培され、使われていました。
また、熊本にある幣立神宮は、いまから1万2000年前のご創建です。
日本は、とてつもなく歴史の古い国なのです。
そして縄文時代は、1万7000年前から3000年前まで、約1万4000年続いた時代ですけれど、この縄文時代の遺跡からは、いまだに対人用の人を殺すための武器武具が見つかっていません。
そもそも日本人には、「対立」という概念がないのです。
「対立」という文字はあります。
しかしそれさえも、訓読みすれば「ならびたつ」です。
相対して対立して争うのではなく、どこまでも並び立とうとするのが日本人です。
渡来物の多くは、魅力はありますが、排他的で対立的です。
日本人は新しいものが好きですから、はじめ、これをまるごと受け入れようとします。
なかには、「かぶれる」人も出ます。
政治がそれによって引きずられることもあります。
しかしその舶来物、渡来者が、真に人々にとって役立つものとなるには、角がとれた国風化が必要です。
藤原惺窩は、儒教の角を取り、国風化への一歩を記した人でした。
そしてこの藤原惺窩があらわれることによって、儒教は我が国において、支那朝鮮とはまったく別な、日本的学問として発展していくことになりました。
お読みいただき、ありがとうございました。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

- 関連記事
-
血で血を争う戦国時代に道を求めて
儒学を志した事は立派だと想います。
けれど、近江聖人と言われた中江藤樹
のように心の内にある明徳(本心)のままに儒学(陽明学)を説いた心境とは
格段の差があると想います。けれど
時代が戦国乱世という時代が形式と秩序を重んじる朱子的儒学が重んじるられた背景なのかも知れません。