日本の政治家は自分の事ばかり優先して
毎週行われる動物の殺処分と言う残酷な行為を
廃止しようと国に働きかけようとしません!
現在の社会が如何に命を大切に扱わなくなっているか?!
殺処分を廃止出来ない政治家たちは辞職せよ!
命の大切さを政治家 仕事の中で、嫌な仕事は沢山あるでしょうが、私の場合、その中でも一番嫌な仕事をしてきました。
2000年に定年退職しましたが、この仕事のことは、一生忘れません。
涙が出た言葉「犬殺し」
昭和40年、私は世の中に役立つ仕事をするため、獣医職として都庁にはいった。
しかし、拝命したのは「狂犬病予防員」。名前はかっこいいが、ようは野犬退治人でした。
動物の命を助けるため、獣医になったのに動物の命を奪う仕事に従事することになった。
捕獲人が自転車で引っ張るリヤカーについてまわった。ガネという針金で作った投げ縄のようなものを犬の首にかける。
暴れる場合は針金を締めて一時的に窒息させおとなしくさせリヤカーに入れる。
時には暴れて噛まれることも多かった。
さらに飼い主が見つけて駆けつけてくる事があるが、保健所で手続きをしないと返せない。
怒鳴ったり、泣いたりは日常茶飯事で、たまには金銭を握らせる人もいるが、取り合わないと暴力を振るわれる。
「犬殺し、犬殺し」と子供がついてまわる。
時には石を投げられる。
私も20歳代の血気盛んなころであったので、怒鳴りかえす事もあった。
「動物の命を救うため獣医師になったのに、なんで動物の命を奪う仕事をやらなければならないのか」と何度も涙を流しました。
もっと可哀想なのは、リヤカーを引っ張る捕獲人でした。
当時の若輩の私には分かりませんでしたが特殊な身分組織だったようです。
ですから家族には仕事の内容を話さない。
珍しい職場だから、よく取材申し込みがあった。でも誰も応じない。
狂犬病の恐ろしさ、身勝手な飼主を減らす宣伝になると、半ば強制的に取材させる。
しかし、顔写真を絶対にとらせない。顔写真を取らせたくない仕事とは、何と哀しい職業なのでしょうか。
印象に残るのはAさんで、もと海軍の潜水艦乗務員でして、戦時中に撃沈された真っ暗な狭い潜水艦から助け出されたことから閉所恐怖症になり、以来屋根の下で仕事が出来なくなってしまった。
頑丈な体の持ち主でしたが、「犬殺し、犬殺し」といわれるとリヤカーを放り出し近くの酒屋に駆け込み、ぐいぐいと酒をあおってしまう。
その間、私はリヤカーの側で呆然と立ち尽くしていました。
酔眼朦朧となった彼は私の胸倉をつかんで泣くのです。「俺は犬ころしか」。私も一緒に泣きました。
彼をなだめて保健所に帰ると、課長や所長にくってかかるが皆逃げてしまう。 やおら、彼は、バットを持ち出し、保健所の窓という窓を壊し始めたのです。それも泣きながらです。
彼も私も、動物をいじめるために保健所に勤めたわけでなく、辞令一枚で身勝手な人間の尻拭いをするはめになったのです。
心から動物を愛しているものが、動物を殺す仕事をしなければならない事は、残酷で悲惨です。 いつも捕獲する犬が可哀想で堪りませんでした。
人間の身勝手な不道徳で年間50万の命が殺されている。 「読売新聞;編集手帳(2000・5・29)(概略)
殺伐とした風景である。
頭上を着陸態勢の旅客機がかすめる東京湾埋め立て地に、東京都動物保護相談センターがポツンと立つ。
ここでは,遺棄された犬や猫が連日数十匹、ガス室で致死処分されている。
取材した記者は、命あるものが訴える“最後の目”の哀しさを言う。
全国で年間50万匹が処分され、バブル絶頂期には70万匹を超えた。
動物と人間の究極の関係といえば、動物行動学の先駆者、コンラート・ローレンツ博士が有名で、名著「攻撃―悪の自然誌」によると、残忍とされるオオカミには実は掟があり、首の後ろの急所をみせて、恭順の意を示した相手には絶対に攻撃しない。
他の鳥類でも同じことが幅広く観察されるということである。
博士の結論はむしろ動物の世界に、騎士道に近いものがあり、人間の方こそ不道徳なのだという。
著書は「人間とは何か」を考えさせる哲学書の趣がある。
身勝手な人・不道徳な人は、動物が好きになれば飼い、嫌になれば捨てる。
捨てられたり、持ち込まれた犬が入った檻が、一日一日ガス室に向って動いてゆく。
ある期間(1週間)でガス室に入れられ、殺される。
ナチのアウシュビッツ収容所と同じである。猫は、麻の袋に入れられ、ガス室に放り込まれる。
広場では、捨てられた子犬をサークルに放ち遊ばせながら貰い手が来るのを待っている。
大半の子犬が引き取り手がなく同じガス室に送られる運命にある。
ガス室に入る直前の犬達の目は、理不尽な死を察知して、恐れ・恨みに満ち、哀しさなどという感情さえも超越した目をしている。
なんともやりきれない気持ちになります。
動物管理所の獣医師は、何年経ってもこの目には耐えられないという。」 誰も好き好んでガス室のスイッチを押す仕事を望んではいない。 ただ、使命感で涙をのんでしているのです。
それでも、近頃はスイッチを押すだけですが、昔は、獣医師が檻に入り一頭一頭硝酸ストリキニーネを打つのです。
犬達は一瞬、硬直し、目を引きつらせ痙攣して死んでゆきます。
とても辛い精神的にまいってしまう仕事なのです。
身勝手な飼い主に見捨てられた、かわいそうな犬を、使命感とやらにやっと支えられながら、硝酸ストリキニーネを注射して犬を処分する。 尾っぽをふって、こびていた犬の眼がギューとつりあがり一瞬恨めしそうな目になり、硬直して痙攣しながらばったりと倒れ死ぬ。 本当に嫌な気分でした。
動物愛護センター。 名前と裏腹に動物の命を処分するセンターでした。
使命感で犬を殺しましたが、あの嫌な気持ちは、一生消えないでしょう。 「勘弁してください、人間の身勝手を許してください」。
人間は、身勝手なものです。 動物を玩具と同じにもてあそび、飽きたらポイと捨ててしまう。
その犬が街中を闊歩するだけで、狂犬病の危険があるとして捕獲する。
狂犬病はとっくに日本では撲滅されているのに、犬を特に危険という対象に入れて殺す。 犬は本来、人に従順な動物なのです。 ほとんどの咬傷事件は人間が犬に対し何か攻撃あるいは敵対行動した結果なのです。
原因のほとんどが人間側にあるのです。
動物は、虐めや攻撃にさらされると、咬むのが本能なのです。 それを、人間の敵としてみなす。 日本は動物に対し未だ野蛮な国家なのです。
タイでは、国王の命令で、野犬は去勢され麻薬犬として訓練されます。 また、麻薬犬になれない犬は、去勢後、徘徊していた故郷に戻され、人間社会と一緒に過ごします。
殺されることはありません。
タイでは、徘徊している犬を、誰も怖がったり攻撃したりしません。 ですから、犬もおとなしく、地域の人々と一緒に社会の一員としてのんびり暮らしています。
こんな、すばらしい国家があるのです。
函館保健所の野犬銃殺、他の自治体でも似たように、捕獲箱の貸し出し、野犬の毒殺処理、捕獲そして処分などなどの野犬掃討が、条例という人間の勝手な言い分で犬を殺し続けています。 日本は、物質的に豊かですが、心は貧しい国です。
殺すついでに野良猫も他の動物も殺しを申し受ける。 動物愛護がきいてあきれる。
これに便乗して、野犬、野良猫、有害鳥獣などの有料捕獲箱の貸し出しの会社まである。 会社のうたい文句は「快適な環境をサポートする商品の紹介」とあります。
これを読んでいる貴方が、もし犬に生まれてきていたなら、どう思うでしょうか。 人間は、それほど偉いのでしょうか、尊いのでしょうか、そして、犬の命は下品なのでしょうか。 宇宙の創造主が与えてくれたこの命は、犬であれ人間であれ尊いはずです。
犬と、仲良く暮らせる、真の動物愛護の日本はいつ来るのでしょうか。 特別区の保健所は犬の処分受付をやらない
都の保腱所が特別区に移管されたとき、犬の登録事務しか移管されなかった。 犬の処分事業は誰もやりたくない仕事だから、東京都に残されたのです。
また区の職員は、犬の登録事務の仕事というと絶対といってよいほど嫌がりました。
「不要犬は、保健所に持ってゆく」とよく言いますが、都の23区では扱ってないことを、ほとんどの都民が知りません。 東京都内に置き忘れられたような「仕事の内容を家族に話せない」という哀しい東京都の職場が、今でも野犬捕獲や不要犬の処分事業をしています。
新宿にそびえる都庁庁舎の立派な机にお座りの管理職の人たちの多くが、このような手を合わせたくなるような貴重な職種を知る人は少ない。 狂犬病に噛まれ、また粗悪なワクチンの副作用で精神病院に収容された人もいました。 保健所勤務では、医療業務関係の保健婦さんたちには、勲章が授けられることがありますが、精神病院に収容されるまで仕事をした職員には、何もありませんし、闇に葬られてしまっている。
動物の生命を重んじない不道徳な人間たちの尻拭い 動物をいじめて気を晴らす者さえいる。 子猫をボールのかわりにしてキャッチボールしたり、子犬の頭をバットで撲ってみたり、猫の頭を切り落とし公衆便所の便器に放り込んだりするなど鳥肌が立つ残虐な行為をする者がいる。
少年期の動物虐待と、その後の凶悪犯罪に因果関係があるとの調査も海外にある。 人間の身勝手で、命ある動物の命をもてあそんでいいものだろうか。
東京湾埋め立て地の東京都動物保護相談センターでは、今日も身勝手な人間のために動物の命が消えてゆく。 そして、そこで働く職員の悲哀は増すばかりである。
今年東京都は、白書のなかで都の公務員の事なかれ主義からの脱却と自主努力の向上を訴えていますが、都の公務員の中でも家族に「仕事の内容を話せない」という哀しい職場があることを都知事は知っているのでしょうか。 「犬殺し」と罵倒される職員は、我慢に我慢を重ね、忍耐と使命感で本当によくやっています。 動物の生命を重んじない不道徳な人間達の尻拭いを一生懸命やっています。
大切な家族の一員 私は小学生のころ犬を貰い受けました。 この子犬を溺愛し、いつも行動はこの犬と一緒でした。
その犬から人間以外の動物の生命の大切さを教えてもらった。
それ以来、私には犬のいない人生は考えられなくなってしまい、以来6匹の犬の世話をして命をみとりました。
現在でも、犬と同じ屋根の下で暮らしていますので世話はとても大変です。
しかし、それらの犬から与えられる心の安らぎは計り知れない。
2004、6、4 下記の黒い彼女スコッチテリア(ココ)は、永遠の旅路にたってしまいました。 4月に悪性の乳がんと診断され、手術も不可能になり、闘病生活を2ヶ月あまりしました。
おなか全体にガンが現れ、肉芽と血液にまみれた患部を消毒と薬を塗るのですが、痛いのを我慢するのです。
でも、彼女の眼から涙が流れるのです。それを見ると私も涙がぼろぼろとでました。
5月に入ると、直腸にガンが現れ、排便も困難になり、肛門を押して何とか排便させました。
とうとう、肺に転移して、呼吸のたびに血液が飛び散るのです。 それはそれは壮絶な闘病で、家族一同涙を流し看病しました。
それでも私を追うのです。
立ち上がろうと懸命になるのです。
だから、手がすれて血がでてきました。
下段の写真は、ココが死ぬ一週間前に大好きな運動公園にいったものです。 その後、私は、彼女のそばに布団をしいて、手を握って看病しました。
最後は、6月4日の夕方に娘が買ってきた大好きなケーキを一口たべてから、ふーとあの世に旅立っていきました。
家族は、大声で泣きました。
アメリカとカナダのチャンピオンの血を受け継ぐスコッチテリアのココアストーリア、11年9ヶ月、沢山の安らぎと、幸福を授けてくれてありがとう。 本当にありがとう。安らかにねむってください。合掌。
下の段の写真は、最愛の、この子達(クロ、チーコ、ロッキー、マミ、トトロ、ココ)がねむる仏壇です。 そして、一体一体丁寧に彫った仏像は、天国にいった、この子達を形どっています。
捨て犬のポインターのクロ、交通事故に会っていたワイヤーテリアのチーコ、ヨークシャーテリアのロッキー、置き去りにされたホワイトテリアのマミ、トリミンング中に落とされ脚を折って売り物にならないヨークシャーテリアのトトロ、スコッチテリアのココ。 ほとんどの犬が不幸な環境にいたのを、引き取ってきたものです。
現在は、ビション・フリーズの小太郎だけがいます。 彼は、アカルスという病名で1年以上も店の奥の檻に入れられ、薬殺の運命にありました。
そこで、ひきとりました。
狭い檻の中で、1年以上も見向きもされない子でしたので、少々難しい性格ですが、甘えん坊の白い美しい子です。
2005・3・16.、新しい家族が増えました。 岐阜の郡上から空輸されてきたウエスティです。
どうも、早くから親から離されたらしく、ときどきプッツンします。 とりあえず、織田信長の小姓の欄丸にちなんで、「ラン丸」とつけました。とても、活発で、小太郎が、もてあましています。
これからの生活が楽しみです。 東京都衛生局・獣医衛生課が発行した「動物愛護読本」ぼくは飼い主(タロがおしえてくれたこと)の最後のページ・保護者の方へから 「動物の生命をいつくしみ、やさしい心を育てることは、ひいては、人の尊重ということにも通じると思います。
動物とのふれあいを通して、動物愛護の精神が育つように、おりにふれて、お子さんを指導してあげてください。
また、動物を飼うことは、その動物に対しても社会に対しても「責任」を負わなければならない、ということ、そして、そのためには正しい飼い方が必要であることなどを教えてあげてください。 ただ、子供には社会的に全責任を負う能力はありませんから、「子供がせがんだから」、「子供が世話をすると約束したから」というような言い訳は通用しないでしょう。 その意味で先にあげた「責任」とは、保護者の方の責任であると言えるのではないでしょうか。
人と動物の調和のとれた社会を実現するためには、動物を飼う人たちが、正しい飼い方をすることが、その第一歩なのです。」 動物の世界は騎士道に近いものがあります。
動物の命を軽視する人間の方こそ不道徳というのは、明らかに正しい。
人の命、動物の命、諸々の生物の命は尊い。
これを忘れた現代人は、死後どこに行くのだろうか。 合掌
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