殺戮本能を呼び覚ますこの言葉に、君は抗えるか。
映画「虐殺器官」を観ました。
「屍者の帝国」「ハーモニー」の惨状、途中で制作会社のマングローブが倒産するという災難から、上映前自分の周囲では「今度こそいけるか」「今度もダメか」という相反する感情が渦巻いておりましたが、試写会に参加したSF界隈の「原作のある部分がオミットされている」「どこが素晴らしいのかボカされた曖昧な賞賛」などのドラゴンボールエヴォリューションを観た後の鳥山明のような感想、虐殺器官コラボラーメンで徐々に暗雲が立ち込め。
決定的になったのは公開前にアップされた映画評の「エピローグが削除されている」という文言でした。
『虐殺器官』のエピローグは、『虐殺器官』という作品を印象づけるもので、そう簡単に削除していいものではないのです。
当然騒然となる界隈。
しかも直後にリアルフィクション(「ファウスト」などでラノベが評論界隈に注目されていた頃に行われていた、ラノベ作家をハヤカワに呼んでSFを書かせるやつ。伊藤計劃のための捨て石だったという結構失礼な言論も見受けられる)および伊藤計劃の旗振り役を務めてきた塩澤編集長の「エピローグはある」という発言が投下され、SF界隈は――一夜のうちに混乱の渦に叩き落された。
えーと、ちゃんとエピローグはありますよ。ご安心ください。>『虐殺器官』
— 塩澤快浩 (@shiozaway) 2017年2月2日
自分は、結局「屍者の帝国」と「ハーモニー」をリアルタイムで観られなかったこともあって、「最低でも死に水くらいは取っておくか」という気持ちで映画を観に行くことにした。面白ければ儲けもので、まあひどくても話のタネにはなるだろうし、最初からハードルを下げて原作未見者の気持ちでいけば楽しめるのではなかろうか……と。
しかし、甘かった。
エピローグがあるとかないとかそういうこと以前に、映画としてすごくつまらなかった。
まず「世界観や設定を全部セリフでする」というバケモノの子戦法が採用されており、会話シーンでひたすら登場人物の顔をアップにするという芸のない演出もあってとにかく苦痛だった。ハーモニーだってカメラグルグル回すとかもうちょっと工夫してたのに!
登場人物1のアップ「世界観の説明」
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登場人物2のアップ「世界観の説明」
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登場人物1のアップ「世界観の説明」
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登場人物2のアップ「世界観の説明」
監視社会の下りとか「計数されざる者」の下りとか本当にこういう感じで進むからな!アサイラム映画の水増し日常パートかよ!
この映画では「虐殺の文法」の表現のためにジョン・ポールが影分身したり声にエコーがかかったりする。いくらなんでもそれはないだろうと思った。当該シーンで爆笑したもん。
ジョン・ポールはやはりニンジャなのでは……!?
あと何かにつけて空を映しすぎ。1回2回くらいならまあ……と思ったが、何回も何回も場面転換で空が映るため流石にクドかった。
作画やキャラデザは、まあハーモニーよりは良いかなといった感じ。
フライングシーウィードなどのメカ群がウネウネ動くところはカッコよかった。
ただやはり中途半端に写実的な画風にせずもうちょっとredjuiceの絵に似せてくれという気持ちはあった。
本作品はR15指定であり、人間が顔に穴を空けられて殺されるシーンがいっぱいあるが、だいたい暗いところで殺されるのでそんなにグロくはなかった。
そのせいもあって、序盤のスパイ映画的なノリは良かったが、その後の戦場映画としてのシーンはあまり迫力がなかった。一大スペクタクル戦争映画ではないから、戦車ドカーン!飛行機ボカ―ン!戦艦バシャーン!みたいなノリにはなりようがないが、せっかくR指定をいただいたのだから、グロシーンをもっと強烈にしても良かったのでは。
声優は、中村悠一や三上哲などの洋画吹替の常連勢は雰囲気にあっていてよかったが、サイコパスやマーリンみたいなうさん臭さのジョンポールとか石川界人とかはちょっと芸がなかった。
原作からオミットされた部分だが、やはりプライベートライアンを観てピザ喰うシーンと母親の下りとエピローグを削ったのは悪手だった。
プライベートライアンはアメフト中継に差し替わっていて、「プライベートライアンのグロい戦場映像をピザ片手に楽しく観る」というシーンの意味合いが喪失していたのが残念だった。
クラヴィスの母親に関しては一切触れられず、言語へのフェティズムもなんとなくといった感じでしか描写されていなかった。そのため、クラヴィスに対する印象が「文系のエリート兵士」というモブみてえに薄っぺらいものに転じていた。
エピローグの「虐殺の文法が世界中に広がる」というのは、一切描写されなかった。
藤原とうふ店もなかった。
ときメモもなかった。
全体的に、薄っぺらかった。
ただ「虐殺器官」の表層をなぞって、「あーきちんと再現しないと信者がうるさいだろうなあ」「これは言葉ではっきり言っとかないと観客は理解できないだろうなあ」と思いながら台詞を機械的に落とし込んで作ったみたいな映画だった。
世界観をすべて台詞で説明するくらいなら、怒られること覚悟で言葉ではなく「映像」として虐殺器官の世界観を表現してくれたほうが良かった。
「来いよクラヴィス!これが『虐殺の文法』だーーっ!!!」とか言いながらロボバトルを繰り広げる極上爆音映画とか、i分遣隊がカスタマイズされたバイクやダンプに乗ってステゴロで戦う応援上映映画とかのほうが遥かに良かった。
ただ、かなり良いところはあって、それは
もう伊藤計劃以後は終わりなんだ
と強く実感することが出来たというところだった。
全部アニメ化して、そのどれもがぱっとしなかったことで「伊藤計劃」への幻想を祓い落とし、日本SFにかけられた「伊藤計劃以後」という呪いはこれで解けるのだ!
これからは伊藤計劃を日本の文学の歴史のどこに位置付けるのか考えるゲームをせず、毎月のように出るSF小説や映画やアニメと向き合えるようになるのだ!
これを観るくらいならドクター・ストレンジやキングスマンを観てと思う。
でも、不本意な形ではあれど、この映画で伊藤計劃以後を解呪できたことは本当に嬉しい。
ラブライブ二次創作は伊藤計劃トリビュート作じゃあないんだよ。
『虐殺器官』はトランプを予言していた、じゃあないんだよ。
伊藤計劃以後は死んだ!もういない!
これからはラノベSFとかバンバン楽しもう!