第1章 タイムスリップ
転落
差し入れで届いた手紙の封筒を鼻にくっつけて、大きく息を吸いこんだ。
ほんの少しでも、シャバの世界の匂いを感じ取りたいのだ。
差出人が、かつて俺が使い走りにしていた杉作くんだとしても結構だ。
むさ苦しい男の送った手紙でも、自由に満ちあふれたシャバからの贈り物には違いない。
俺は藤田優作。N刑務所の独居房に収監されている。
ヒルズ族で最も有名だった、IT企業ネクサスドアの元社長だ。
開発した携帯ゲーム「鳩ゲー」で一発当て、株の売買やM&A、事業多角化でどんどん、会社を大きくした。
ネクサスドアの時価総額は、最高時で1兆円以上になった。
毎晩のように高級クラブを貸し切って経済界のセレブたちとパーティ三昧。高級ドンペリをバシャバシャと混ぜ合わせ、一気飲みした。
牛丼屋に行くような感覚で三つ星級の会員制レストランに行きまくり、贅沢なディナーを腹いっぱい詰めこんだ。
海外ブランドの数十万円する服を買いあさり、ジャージのように着つぶした。
CAやモデルや、テレビに出ている人気アイドルと、日替わりでセックスしまくった。
もともと俺は北関東出身の、高卒の田舎者だった。山手線西側の駅からだいぶ歩く、辺鄙な町のボロいアパート暮らしだった。
それが、ある男との出会いを機に、ベンチャー起業家に転身した。
わずか3年ほどで、六本木ヒルズの高層階に暮らすようになった。
社長時代の部下は5000人以上。ビジネスで打った手は、ことごとく当たった。
うなるほど、腐るほど、呆れるほどの大金持ちになった。
俺はメディアに出まくった。そしてバッシングされまくった。
〝拝金主義者〟の象徴として、大人たちに嫌われた。
しかしIT革命の巨大な追い風に乗り、新世界を切り拓いていく、若い世代のカリスマとして熱狂的な人気を得た。
俺は、時代の寵児だった。
それが今では、暖房も冷房もない、水さえ好きな時間に飲めない刑務所に暮らしている。
薄っぺらい灰色の囚人シャツとパンツを穿いた、封筒の匂いを必死に嗅いでいる懲役囚だ。
なぜこんなことになったのか──。
ビジネスで勢いづいた俺は数年前、ラジオジャパンの株を買った。そして筆頭株主になった。
ラジオジャパンが見なし親会社となっている、ヤマト・ザイケイグループを支配するためだ。
本丸は、ヤマトテレビ。俺は、日本に5つしかないキー局のテレビ局をひとつ、丸ごと買収しようとしたのだ。
その計画は、株バトルで勝ち、うまくいきかけた。
しかしヤマトテレビはMSCB(修正条項付新株予約権付社債)で資金を調達して、ネクサスドアの買収に対抗。ヤマトのトップと裏で協議して、俺は金で手打ちすることにした。
買収の取り決めは白紙に戻し、俺とヤマトグループは形上、和解した。
だが直後に、証券取引法違反の容疑で、ネクサスドアに東京地検特捜部の捜査が入った。
そこから俺の転落は始まった。
世間の強烈なバッシング、マスコミの攻撃、検察の執拗な追及……成り上がったスピードと同じぐらい、いやそれ以上の速度で、俺はころげ落ちた。下り坂は直角の崖みたいだった。
俺は徹底抗戦を試みた。どの容疑も検察のでっち上げだ。
悪意まみれの起訴状は、俺を捕まえて実績にしたい、検察の功名心で固められた無理筋のロジックで埋まっていた。くじけず、徹底抗戦を続けた。しかし部下だった数人の連中の裏切りが決定的だった。
藤田優作は金儲け主義に走るあまり、違法なマネーゲームに手を染めた、拝金主義の極悪人。このレッテルを、裁判ではひっくり返せなかった。
俺の罪状は、主に証券取引法違反。
そして懲役2年6ヶ月の実刑が言い渡された。
自業自得と言えば、それまでだが……あの男を思い浮かべると、苦い気持ちになる。
ビジネスを始めたのも、うまくいったのも、ヤマトグループの買収も、予期しない転落も、全部あの男──堀井健史の企てだった。
俺はあいつをオッサンと呼んだ。
オッサンは、さびれたゲームセンターで遊んでいた俺を拾い上げ、ビジネスのイロハを叩きこんだ。自分は表には出ず、最短の速さで確実に、俺という手駒を使って、ヤマトグループを窮地に陥れようとした。
もっと正確に言おう。ヤマトグループの実力者で、ヤマトテレビの社長だった門田哲郎の破滅を狙っていた。
門田は、オッサンの実の父親。
オッサンは、自分の母親を捨て、権力を取った門田に、復讐するつもりだったのだ。
俺はスケールのでかい、父子ゲンカに巻きこまれたというわけだ。
それで20代最後の貴重な時間を、刑務所で過ごさなくてはいけないのは、割に合わない。
俺は堀井を、オッサンを恨んでいる……かというと、うまく言えない。
あの男に対する俺の感情は、複雑すぎる。
俺に高い部屋からの景色を、贅沢の蜜を、ビジネスの神髄を、”拝金”の生き様の本質を教えてくれた。
感謝とも言えないし、恩でもない……あえて表現するなら、忘れるのに時間のかかる、年上の知り合いだ。
オッサンが何度も口にした言葉。
Good‐Buy。Good‐By。
その言葉が俺とオッサンの、金と虚飾にまみれながらも切れなかった、憎しみと信頼が半々の、特別な関係を象徴しているようだった。
恨んでいないし、憎んでもいない。
刑務所から出て、シャバの暮らしに戻っても、二度と会うことはないだろう。
だいいち収監されてから、あいつとは音信不通だ。それでいい。オッサンはオッサンで、好きなように生きていけばいいと思う。
そう考えていたのだが……。
杉作くんから届いた手紙には、予想しない一文が書かれていた。
〈藤田さん。堀井さんから、連絡がありました。
「優作が出所したら、大きな仕事を頼みたい」と……〉