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【プロ野球】

歴代のG戦士を鍛えた 巨人の多摩川グラウンド

2017年2月7日 紙面から

多摩川での引退試合後、長嶋監督(右)と握手をする西本。後方左端が中日・中村、その右が与田(1995年1月21日)

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 かつて野球選手が汗を流し、技を磨き、心と体を鍛えた場所には、その数だけのドラマがある。スポーツ4紙の選考委員会が独断で野球殿堂入りを決める第2回のテーマは野球遺跡、略して「球跡」。巨人の多摩川グラウンド、ヤクルトの選手らが自主トレで訪れる権現温泉、護摩行でおなじみの最福寺を選出した。 (文中敬称略)

◆西本聖  耐えた思い出が強かった

 1955年6月から長らく、巨人の専用練習場および2軍本拠地だった多摩川グラウンド。東京の高級住宅街・田園調布のすぐそばにある河川敷のグラウンドで、ON、V9メンバーら歴代のG戦士たちが汗を流し、鍛えられ、一流選手になっていった。そんな多摩川で育った一人が、巨人、中日などで通算165勝を挙げた西本聖(60)だ。

 松山商からドラフト外で75年に入団。2軍だった最初の2年は多摩川が“職場”だった。「よく走ったというか、走らされた。楽しい思い出よりも苦しい思い出、耐えた思い出が強い」。合宿所は現在と同じ川崎市多摩区にあった。そこからバスで1時間ほどかけて行くのだが、「行きは気が重かった」。

 プロ1年目、75年のオフのことは特に印象に残っている。長嶋茂雄監督1年目だったチームは最下位。若手を鍛えようとなり、西本ら6〜7人が多摩川に集められた。「12月に入ってすぐ、毎日徹底的に走らされノックを受けた。休みはなく、12月28日まで練習が続いた。よく地獄の伊東キャンプというけど、それに負けないすごい練習だった」。新投手コーチ・杉下茂が陣頭指揮を執る中、懸命に食らい付いた。

 こういった多摩川での日々が、西本の原点となった。さらには、西本の強烈な負けじ魂も、ここで植え付けられた。

 プロ入りしてすぐのこと。ブルペンで同期のドラフト1位・定岡正二のピッチングを、首脳陣が見ていた。「次は自分を見てほしい」と思った。だが、コーチは定岡を見終わると、西本の横を通り過ぎていった。「初めて、みじめな悔しい気持ちになった」。それでも心は折れなかった。「これが現実。自分はドラフト外。でも練習して力を付けていけば見てくれる。『定岡に追いつけ、追い越せ』。そういう気持ちが芽生えた」という。

 周りに建物のない河川敷は、「冬はすごく寒いし夏はすごく暑い」。つらいときにちょっと隠れる場所もない。そんな環境でストイックに練習した。苦しいときは「定岡に勝ちたい」と鼓舞しながら…。3年目から1軍に定着、80年代は江川卓とともに2枚看板としてチームを支えた。

 そんな西本のプロで最後の舞台も多摩川。現役引退翌年の95年1月21日、仲間たちがこの思い出の場所で、手作りの引退試合をしてくれた。既に引退していた定岡、巨人の桑田真澄や川相昌弘、中日の与田剛や中村武志、松山商時代の仲間も集まってくれ、7イニングのサヨナラゲームに登板した。

 最終回には、駆けつけていた長嶋が打席に。「あぁ、長嶋さんが立ってくれる。すごく幸せな気分になった」。ボテボテの三塁ゴロに打ち取り、長嶋が全力疾走し、三塁の桑田は一塁へ悪送球。そのすべてがうれしい思い出だ。「多摩川は自分を成長させてくれた場。現役の時はつらい思い出ばかり。でも最後は幸せな引退試合。ドラマだよねぇ」。多くのG戦士の汗が染み込み、思いが詰まっている。多摩川からはい上がり、ゴールを迎えた西本にとっても、かけがえのない場所だ。 (井上洋一)

<西本聖(にしもと・たかし)> 1956(昭和31)年6月27日生まれ、松山市出身の60歳。右投げ右打ち。松山商からドラフト外で75年に巨人入団。シュートを武器に活躍し、80年から6年連続2桁勝利。89〜92年は中日、93年はオリックス、94年は巨人に在籍し、この年限りで現役引退。81年に沢村賞、89年に最多勝を獲得。通算165勝128敗17セーブ、防御率3・20。引退後は阪神、ロッテ、オリックスなどでコーチを務めた。

 

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