【あの時・西武伝説の走塁】(3)クロマティには響かなかった指導

2017年2月6日13時4分  スポーツ報知
  • 2回1死二塁、ブコビッチの中飛を返球するクロマティ。緩慢な送球で二塁走者・清原の生還を許した

 ◆日本シリーズ第6戦(1987年11月1日・西武球場=観衆3万2323人)
巨 人 000 000 100―1
西 武 011 000 01×―3
(巨)●水野、鹿取―山倉
(西)〇工藤―伊東
[本]清家1号(水野・3回)原2号(工藤・7回)

 巨人側から見れば、中堅手・クロマティの守りは、ジレンマの産物だった。チームとして決して手をこまねいていたわけではなかった。

 当時ヘッドコーチを務めていた国松彰が振り返る。

 「本当の大怠慢。性格だよね。クロマティは、日本の野球を上から見ているというところがあったから…。戦力として非常にいい結果を出しているから、働いてもらわないといけない。かといってチームの和を乱すような怠慢プレーも困る。一番のクスリは試合に出さないこと。でも、それはなかなか…。勝たないといけないから、ジャイアンツはね。難しいところやねえ」

 来日4年目の助っ人は、87年まで3年連続3割をキープ。この年も3割、28本塁打、92打点。3年連続V逸の雪辱をもくろむ王巨人にとって、そのバットは必要不可欠だった。国松はシーズン中、マンツーマンで食事に連れ出し、諭そうとも試みた。

 「ファンも見ているし、チームメートが一番見ているんだ。だから(緩慢な守りは)勝つためには絶対許されない」。言葉を選んで語りかけたが、クロマティは「OK、OK」と軽く返事をして話をすり替える。「いくら言ってもダメ、と思った。あきらめてはいけないんだろうけどね、指導者としては」。かすかな悔恨がこもっていた。

 シリーズ前、王監督は「クロマティにもカットプレーを徹底させる」と宣言した。通訳だった田沼一郎は守備練習の際、コーチ陣とともに動いた。「すぐプレーを止めて『今のは動きが遅かった』『カットまでの球が悪かった』って。本人は分かっているよ、みたいにオーバーにやることもあった。ことさら思い切りボールを投げたりね」。そして、クロマティは時折、つぶやくのだった。「Same old story…」。またかよ、という意味だ。

 87年の巨人は強打を武器に独走し、タイトなゲームも少なかった。セ・リーグのチームがこの穴を積極的に突いてこなかった裏側には、そんな背景もある。

 それでも、第6戦で、ほころびを食い止めるチャンスはあった。2回1死二塁。ブコビッチの中堅への大きなフライで、二塁から清原がタッチアップ。クロマティの緩い返球を読んだ伊原が突入を指示したが、清原は三本間で一度、ちゅうちょした。走り直しての本塁突入は成功し、先取点。ただ巨人側には単なる暴走と映った。ここで「狙われている」と気づく者がいれば、辻を止めることができたのかもしれないのだ。(太田 倫)=敬称略=

 ◆ウォーレン・クロマティ 1953年9月29日、米フロリダ州マイアミ生まれ。63歳。外野手。米大リーグのエクスポズで活躍後、84年に巨人入りして3度のリーグ優勝に貢献。首位打者を獲得した89年にはMVPにも輝く。91年退団。92年の引退後は米独立リーグなどで監督を務めた。巨人での通算成績は779試合、打率3割2分1厘、171本塁打。左投左打。

あの時
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