【あの時・西武伝説の走塁】(1)駆け出しのスコアラーがもたらした貴重な情報
1987年の日本シリーズは、西武が巨人を4勝2敗で下して日本一に輝いた。11月1日に行われた第6戦の8回2死一塁から、後に語り継がれるプレーが生まれた。「単打で一塁走者が生還」。巨人史上最高の助っ人と言われたクロマティの緩慢な守備のスキを西武が突いた、セオリーを超えた走塁だった。「伝説の走塁」と言われるこのプレーからちょうど30年。改めて当事者たちの証言で振り返る。
◆日本シリーズ第6戦(1987年11月1日・西武球場=観衆3万2323人)
巨 人 000 000 100―1
西 武 011 000 01×―3
(巨)●水野、鹿取―山倉
(西)〇工藤―伊東
[本]清家1号(水野・3回)原2号(工藤・7回)
ネット裏で腰を浮かしかけた男がいた。「まさか…本当に回すんか?」。視線の先、細身の背番号5が、スピードを緩めず三塁を蹴った。晩秋の西武球場は、見たこともないプレーに一瞬戸惑い、数秒のち、爆発的な歓声に揺れた。
2―1と西武が1点リードで迎えた8回裏、2死一塁だった。3番・秋山幸二が左中間に痛打し、中堅手・クロマティが山なりの送球を内野に返す。三塁コーチャーの伊原春樹が風車のように勢いよく腕を回し、一塁走者の辻発彦が、一気に本塁へ突入した。
ネット裏の男は根本隆という。「シングルヒットで一塁走者が生還」。球史に残る走塁の端緒は、当時33歳だった西武のスコアラーがもたらした。
約1か月前の9月30日。キャップを目深にかぶった根本は単身、超満員のナゴヤ球場のネット裏に潜り込んだ。目当ては中日―巨人戦。日本シリーズで間違いなくぶつかるであろう巨人への、偵察要員第1号だった。その年の西武は、阪急との優勝争いがもつれ、007の動き出しは、巨人より約2週間遅れた。「勝ったときに(情報が)絶対必要になる。行っていいですか」。西武もマジックが1ケタになろうかというタイミングで、自ら名乗り出た。
根本は現役時代は投手である。打撃投手も兼任していた。西武時代の清原和博に信頼され、専属で11年間も投げ続けた。84年に引退し、当時は転身3年目。「まだ本当の駆け出しだった」。ノウハウをたたき込まれ、独り立ちして間もなかった。「当時の森(祇晶)監督から言われた。頭を真っ白にして、先入観をなくして相手を見ろ、と」。ビデオなどもまだ発達しておらず、目と野球観に頼る部分が大きい時代である。教えを反すうし、試合前のシートノックに目を凝らした。
外野にノックが飛び始めると、中堅・クロマティの動きに眉をひそめた。「タラタラ打球を追っかけていって、フワッと内野に返す…なんじゃあこりゃあ、いいかげんにせえよ、と。それくらいのレベルだった」。試合でも、動きは変わらなかった。
巨人打線は左腕・近藤真一に4安打完封負け。試合後、新聞記者たちに囲まれた。「巨人は左に弱いのでは」「(先発していた)槙原の印象は」。そんな質問を巧みにかわしつつ、最大の収穫を報告書に書き込んだ。「クロマティの守備は非常に緩慢。中継もまずい」。ただ、この時点では、世紀の走塁を生む情報になろうとは想像もしていない。(太田 倫)=敬称略=
◆根本 隆(ねもと・たかし)1954年6月14日、千葉県生まれ。62歳。銚子商2年時の1971年夏にエースとして甲子園8強、3年春は同4強。日本石油を経て、74年ドラフト1位で大洋(現DeNA)に入団。78年トレードで西武へ移籍し、84年に引退。現役通算113試合で7勝14敗2セーブ、防御率5.08。現在は千葉・柏市に拠点を置く社会人の軟式野球チーム「AKIRA」で特別コーチ、スコアラー。右投右打。
あの時