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(cache) 存在論の選択可能性?
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存在論の選択可能性?
熊本大学フィールドシンポジウム「自然と文化のインターフェイス」に寄せたコメント
はじめに、2009 年 12 月 19 日開催のシンポジウム「自然と文化のインターフェイス」にコメンテータ
としてお招きいただいたことに感謝したい。当日のシンポジウムでは、若手の研究者中心の刺激
的な発表の数々におおいに啓発され、人類学の未来に対する明るい確信のようなものを感じるこ
とができた。自然と社会(文化)を対立する 2 領域ととらえる考え方から距離を置き、ヒトの多様な生
活実践の中に、世界そのものがいかに多様な姿で立ち現われるかを具体例に即して明らかにし
つつ、世界のあり方そのものの多様性、ヒトと世界の関係性の多様性、上記の自然/社会の二項
対立からは零れ落ちてしまうこうした多様性に注目するというその基本方向は、まさに人類学の王
道とも言うべきものだ(註1)。すばらしい。
しかし同時に、こうした方向性を打ち出す際に発表者の多くが、濃淡の違いはあれ共有している
かのように見えた姿勢のなかには、私にある種の危うさのようなものを感じさせるものが含まれてい
たのも事実でる。当日のコメントではその点の確認が中心となったせいで、不本意ながらやや否
定的な色彩を帯びてしまった。私が気になった点というのは次の3つである。(1)非西洋社会に注
目しつつ人と世界との関係性の多様性を指摘することが、近代西洋批判という構図をとってしまい
がちに見えたこと。(2)その多様性が多様な世界観(シンポジウムではしばしば「存在論」という言
い方がなされていたが)、つまり世界がどのようになりたっているかについて人々がもっている「理
論」あるいは「考え方」の多様性という形に集約されて提示されがちであったこと。そして、この二
つと密接に関係しているのだが、(3)こうした多様性を呈示する他者たちがロマン化され、近代西
洋にとっての一種の望ましいオルターナティヴとして眺められがちであったこと。
これのどこがいけないのかと訝る向きもあろう。そもそもこれらは、文化人類学がある時期まるで自
分たちの専売特許であるかのように振り回していた得意技の一部ではなかっただろうか。もちろん
1980 年代の人類学的他者表象批判以来、人類学者たちは、文化的他者を西洋近代の対極とし
て表象し、西洋近代を批判するアレゴリーとしてロマン化してしまうことには、かなり慎重になって
いる。にもかかわらず、それが人類学の先端的な試みのなかについ顔を覗かせてしまうとすれば、
それは人類学者の根強いオリエンタリズムのせいだという以外の同様に根深い理由があるかもし
れないのだ。
共通了解
人類学の作業についての共通の了解事項を確認し、人々の生の「実践」と、それを取り巻く「世
界」と、人々が世界について抱いている「信念」との関係についての、おそらくはあまり異論が出な
いだろうと思われるいくつかの前提を提示することから始めたい。
人類学の対象と課題については、一橋大学社会人類学のホームページが私が以前学生向け案
内に書いたものをほぼそのままの形で掲載してくれているので、そこから引用しよう。
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「地球上のさまざまな場所で、人間はさまざまに異なる境遇の下で生きている。人類学の中心的な
関心のひとつは、自分のものとは異なるこのようなさまざまな境遇の下で生を営むということがどう
いうことであるのか、という問である。人間にとっての<境遇=世界>は単に人々の外部に、人々
の実践とは独立に存在するわけではない。それは当の人々の実践によっても生産され、更新され
再生産されている。つまりそれは人々の適応実践の(所与の)条件であると同時に産物である。」
(一橋大学社会人類学共同研究室: 2008 括弧内は筆者による補足)動物行動学と進化論の分
野でも「ニッチ構築」として主題化されつつある見方である。それによると生物体は環境に適応す
る一方で、環境をいくらかは自ら構築する。たとえばビーバーのダム作りは同時に、ダムや巣、変
化した川を「受け継ぐ」次世代のビーバーに影響を与えているのであり、こうした意味で、生物学
的進化においてもこうした「ニッチ構築は、進化における一種のフィードバック」となっているので
ある(Laland & Odling-Smee 2001)。もちろん人間の場合、その生の実践が「ニッチ構築」である度
合いは、ビーバーなどの比ではない。さらに人間の場合には、「この<境遇=世界>に棲みつく
適応実践は、他の人間たちとのつながりと相互行為」を通して展開する「言語・記号システムを介
した想像的ではるかに錯綜した仕方でそれ自身の<境遇=世界>の生成と再生産に関与する実
践となっている。」(前掲ウェブページ)
人々が自分の境遇=世界をどのように思い描いているかは、その世界に対する棲みつきのシス
テマティックな実践の不可分の構成要素である。その世界をどのような世界として思い描いている
か、つまり、そこではどのようなことが起こり、どのような存在者たちがおり、何が問題であり、いかな
る危険があり、どのような報償があるか、何が可能で何が不可能だとされているか、これらは人々
の実践のシステムに深くかかわっている。ふつう人々は、存在していると考えている危険を回避し、
手に入るに違いないと思っている報償を求め、可能だと考えられている行動を試み、不可能だと
思われている事柄にははじめから手を出そうとはしない。人々が自分たちの世界についてもって
いるこうした諸々の想定は、まさにそこでの人々の実践を大きく左右しているのである。
そしてこうした実践が、人々の境遇=世界を改変・更新し、あるいは再生産する実践でもあるのだ。
あらゆる実践には、予想通りのあるいは予期に反したさまざまな結果が伴う。それは人々にさまざ
まな利得や損失をもたらす。そのなかで当初の想定や前提の正しさが確認されるかもしれないし、
逆に当てにできると思っていたものが当てにならないとわかったり、前提としていた事柄がその不
確実さを露呈したりするかもしれない。このように人々は実践を通じて、世界に働きかけそれを更
新・改変・再生産すると同時に、世界についてのさまざまな想定を確認したり修正したりしながら、
境遇=世界に対してチューンあわせを行っているのである。
人類学の作業とは、まさにこうしたプロセスを明らかにし、そのことによって異なる多様な境遇=世
界における生のあり方を解明していくことだと言えるだろう。
信念と世界<の中での/に対する>実践との連動関係
上記のとりたてて斬新でも奇抜でもない当たり障りのない見方において、とりわけ強調しておきた
いのは、世界についての諸々の信念と、世界に対する棲みつきの実践とのあいだに不可分で緊
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密な連動関係があるという捉え方である。
存在論と呼ぶにせよ、世界観と呼ぶにせよ、そうした信念群を相手にするとき、我々はそれらを得
てして、一種の理論的な構築物に見立ててしまいがちである。世界について観察し思弁する精神
活動は、しばしば世界<の中での/に対する>実践から身を引いた活動であるかのように描かれ
ている。世界についての諸々の信念は、そうした精神活動の産物として眺められることになるので
ある。世界についての記述としての正確さ、真偽がそこでの中心問題であるかのように捉えられる
ことになる。これが信念の問題が知識の哲学の中で扱われる通常の構図であった。しかしそのとき、
そうした信念群が、実践システムの中に組み込まれている無数の賭けの要素と結びついていると
いう事実はしばしば忘れられることになる(註2)。
そもそも「信じる」という言葉をこうした命題的対象との関係でつい考えてしまうこと自体が、一種の
思弁的バイアスである。言うまでもなく「信じる」という言葉は、命題以外のさまざまなものを目的語
にとる。私は特定の友人Aを信じたり信じなかったりできるし、金よりも愛を信じたりできる(?)が、
こういった表現をいちいち命題を目的語にとる表現に言い直してみる必要はない。金と愛のどちら
を信じようかと悩んだ末に、やっぱり「愛だろ、愛」と結論する、その際に私は命題のことなどまるで
考えていない。こうした例では、「信じる」とは単にそれを「当てにする」ということを意味している。
友人Aを信じるとは、自分のこれからのさまざまな目論見のなかで彼を当てにできるという判断で
あり、彼の積極的な支援とは言わないまでも、裏切ったりしないことを勘定にいれてよいということ
である。金より愛を信じるとは、自分の幸福な未来にとっては愛を当てにした方が良いと判断する
ということである。特定の命題を目的語にして、それを信じるとか信じないとか言う際には、その命
題の真偽についての判断が問題になっているのだと普通は考えられている。まさにその通りなの
であるが、ここでも実は同じことが問題になっているのだとわかる。真である命題とは、結局それが
述べている事実を当てにして行動してよい命題にほかならず、偽である命題とは、それが述べて
いる事実を当てにしてはならない命題――まさにそれは世界についての誤情報なので、それを当
てにして行動したりするとたいへんなことになる――のことに他ならないからである。つまり「信じ
る」ということにおいては、命題の真偽についての認識的な判断の問題よりは、実践において何を
「当て」にしてよいかという、あらゆる実践系が抱え込んでいる「当て込み」の問題の方がむしろ核
心なのである。そしてあらゆる「当て」は原理的には「はずれ」うる可能性をもっているので、それら
はつねに一種の賭けの問題でもある。
言うまでもないことだが、あらゆる行動、実践は世界についての実にさまざまな事実を「当てこん
で」なされている。我々自身がそれらを「信念」として意識の対象にもっているかどうかにはかかわ
らず、きわめて単純な行為ですら、実に多くの事柄を――しばしば何の証明も保証も前もって与
えられていないのに――当てにしてかかっている。まな板の上でキャベツを刻む手馴れた作業で
すら、キャベツが目をそらせた隙に逃げ出したり、まな板が忽然と姿を消してしまったりすることが
ないという事実、その他無数の事実を当て込んでいるし、生まれたばかりの赤ん坊も空気の存在
を思いっきり当て込んで無邪気に泣き声をあげる。ユクスキュルが紹介しているダニの人生は、ま
さに世界がある特定の特徴をそなえていてくれることを完全に当て込んだうえに成り立っている。
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そしてユクスキュルも言うように、それはほとんど博打のような賭けを含んでいる(ユクスキュル
2005: 序章)。もちろんここには個々の個体による主体的な賭けなど存在していない。あらゆる生
物の生の実践は、自然選択(淘汰)のダーウィン型アルゴリズムを通じて積み重ねられてきた、世
界についてのそこそこうまく当たった「当て込み」の上に成立しているのである。
言うまでもなく我々はダニの信念について語るわけにはいかないし、空気の存在に関して赤ん坊
がもつ信念についても語るわけにはいかない。赤ん坊は生まれた瞬間から、空気の存在を当てに
した活動――呼吸――を行うが、もちろん何らかの信念によってそうしているわけでもなければ、
空気の存在について前もって保証をあたえられているわけでもない。キャベツを刻むという単純な
行為が当て込んでいるさまざまな事実について、それらをキャベツを刻む私の信念だと考えること
も的外れであろう。それらを実践のなかに埋め込まれた信念として語ることすら、不適切に転倒し
た比喩である。むしろ世界についての所謂「信念」の方が、あらゆる生の実践がその上になりたっ
ている、世界についての諸々の「当て込み」のなかの特殊な部分集合なのであり、ヒトにおいて際
立ってきた、そのギャンブル性がより可視化した領域を指す概念なのである。
実践システムは、世界についてのさまざまな事柄を当てにして、あるいは踏まえて展開している。
しかし、それら生の実践が当てにしてかかっている世界の諸状態が、まさに当の実践システムそ
のものによって作り出されているという場合――人間にとっての世界はその度合いが強いのだが
――事態は複雑である。他の生物についても「ニッチ構築」という形でそれは姿を見せる。特定の
植物の葉を食べてしか生育できないある種の昆虫の幼虫は、自分が孵化する場所がそうした食
物の真只中であることを当てにしきったところからその生を始めるのであるが、それは親がまさに
わざわざそうした植物の葉に卵を産み付けるということによってかろうじて保障されている。あなた
は誰か特定の友人を「信じて」いるかもしれないが、その友人が信じられる友人――当てにして良
い存在――になるために、あなた自身が何を行ってきたのかを(あるいはその他のあらゆることを)
思い起こしてみれば、人間におけるニッチ構築の複雑さの一端がわかるだろう。しかし極端に単
純化して考えるなら、それは二つの要因に分けることができるかもしれない。実践の帰結としての
(1)利得のマトリクスと(2)真理化である。
我々が世界についてもっているさまざまな観念――世界はしかじかの存在からなり、かくかくのこ
とが可能であり等々――とは、我々が生の実践を営む上で、世界はそうであるはずだと当て込ん
でいるもろもろの事柄以外のなにものでもないのであるが、それらは具体的な実践を通じてのフィ
ードバックにより不断の検証にさらされている。ある当て込みに基づいた実践がうまくいくかどうか、
それがいかなる損得をもたらすかは、それが引き続き信念として保たれるか否かを左右する大き
な要因のひとつである。うまくいかなければ、当て込みのどれかが間違っていたのかもしれない。
うまく行っている限りは、もろもろの当て込みは正しかったのであろう。しかしこの利得のマトリクス
以外にも、重要な要因がある。もし私が「周りの人々は皆悪人で、私に敵意をもっている」という信
念を仮に持ってしまっていたとすると、私は周囲の人々が示す好意に疑いの目をむけ、人を信じ
ず、打ち解けず、出し抜かれないように先手を打って他人につけこもうとするかもしれない。しかし
その結果として、私の周囲の人々は私を嫌い、避けるようになるので、それを見た私は、自分の当
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初の信念が正しかったとますます確信することになるだろう。明らかにこのような信念を持っている
私は、善人が大半を占める社会空間では「損」をする(註3)。しかし私はその信念をますます強め
るだろう。ある信念にのっとった行動の結果が、当初の信念をこうした形で検証してしまうプロセス
を、ウィリアム・ジェイムズはそのプラグマティズムの議論の中で「真理化」の過程と呼んでいる
(James 1955)。この仮想的な事例からもわかるように、真理化のプロセスは、利得のマトリクスとは
独立に、信念の更新や再生産に寄与しうる。もしある社会空間において、特定の信念群が広く流
通しているとすれば、それはその社会空間において生起している生の実践を通じて批准され、実
践の中に深く埋め込まれ、連動しているのだ。
まとめると次のようになる。(1)ヒトをはじめとするすべての生物の生の実践は、それが生きる世界
に対する適応=チューン合わせの実践であり、同時にニッチとしてそうした世界の構築に寄与す
る実践である。(2)いかなる生の実践も世界についての無数の「当て込み」の上になりたっている。
つまり世界がどのようであるかについての無数の賭けの上に成立している。多くの生物において
は、それはダーウィン型アルゴリズムによって選別された分の良い賭けの集積として実現している。
(3)いわゆる世界についての「信念」(存在論、世界観等々)は、(2)のような命題化されない実践
そのものの中に内在する当て込みの上に、ヒトが言語を介してさらに付加した当て込み、世界がど
のようなものであるかについての賭けである。ヒトの生の実践の多くは言語を介してプログラムされ
ているが、「信念」はそれらと連動している。
帰結
人々が世界についてもつ観念を、実践から独立した理論的な精神の制作物とみなすかわりに、
実践を基礎付けると同時に、実践によって不断に批准されねばならない「世界に対する当て込み
=賭け」ととらえ、それゆえ実践と不可分に連動したものとして捉える必要があるという、上記の考
え方にもし同意していただけるとすれば、次のことが帰結されるだろう。
(1)分析概念の相対化の必要性
異なる境遇=世界に生きる異なる人々の生のあり方を理解するために用いられる分析概念や記
述概念は、その都度チューンしなおされる必要がある。その意味で、シンポジウムの発表者の皆
さんが取り組んでいる、社会/自然のような二項対立の枠組みを批判的に再検討することはおお
いに望ましい。
二項対立という世界の捉え方そのものが、理解の道具としては取り扱い注意な道具であることは
いうまでもない。世界中いたるところでヒトは自分の周りの世界を理解するのに、さまざまな種類の
二項対立図式に訴えている。二項対立はある意味ブレインフレンドリな道具であり、とりあえずそこ
で生きていくうえで必要にして十分な程度の現実理解が手に入る便利な道具である。もちろん現
実がそんなに都合よく二分できるような形で成立している保証などないので、けっこう荒っぽい道
具ではある。ブレインフレンドリな調性をもった音楽だけを聴いていても満足のいく音楽経験は得
られるが、お世辞にもブレインフレンドリとは言いがたい無調的な音楽に苦労して付き合ってみる
ことで拓かれる音楽経験が、よりニュアンスにとんだ音楽空間を捉えさせてくれることも確かである。
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同様に脱・二項対立的な(やや扱いにくい)道具を練り上げて、より繊細な現実理解を手に入れよ
うとする方向は、試みる価値がある。
しかし前節での前提を認めるとき、より深刻な問題がこうした二項対立的な荒っぽさの水準以外の
ところにあることがわかる。ブレインフレンドリであるにせよないにせよ、我々が世界を理解する際
に駆使している概念道具が、たいていの場合、私たち自身の生の在りよう、世界に対するチュー
ニング合わせの実践に最適化した道具でもある、という問題である。したがって、他の生の在りよう、
それによって構築されたニッチについて記述・理解するのには、必ずしも適していないということが
ありうるのである。分析し記述するための概念は、デチューンし、他者の世界と架橋可能な形で再
チューンされなければならない。これは口でいうほど簡単な作業ではない。
自概念を相対化することを通じて多様性を提示するというこの作業こそ、現代人類学が営々と取り
組んできた作業なのであり、安易な普遍性の調達によって手放してしまってはならない人類学の
根本伝統であると私は考えている。繰り返しになるが、私が本シンポジウムの基本的な方向性に
全面的に賛成であるというのは、こうした自概念に対する批判的な再検討という点においてであ
る。
しかしこのことを、他者にみられる多様性をオルターナティヴとして提示したり、ましてや他者をロ
マン化し、それによって西洋近代を批判することと混同してはならない。
そもそも非西洋的な他者をロマン化し、同時に西洋的自己を批判するというその仕草自体は、18
世紀以来の近代西洋内部のゲームだったのであり、それ自体すぐれて近代西洋的所作だという
ことを、あらためて指摘する必要はなかろう。人類学もその流れを汲んでいたことは確かであるが、
21世紀の人類学がいまさらこの古臭いゲームを先導してみせる必要があるだろうか。とりわけ当初
より、この自己反省ゲームが純粋に知的な満足において遂行され、めったに実践的な帰結を伴う
ことがなかったことを想起するとき、他者の生のありようを理解しようとする人類学にとって、それは
むしろ落とし穴のようにしか見えないのである。それは実際、大真面目な実践を帰結することはま
ずありえない。他者の生の在りようを可能なオルターナティヴとして提示するといっても、それがも
し本気で森の中でサルを狩る生活を勧めているのだとすれば、とたんに誰もがそっぽを向いてし
まうだろう。本気で提案しているのではないとすれば、では、それはいったい何なのだろう。他者の
生の在りようをノスタルジックにあるいはロマンティックに肯定し、自分たちの暮らしを存分に反省し
たあとで、何事もなかったかのように車のエンジンをかけ、暖房の効いた部屋に戻って大画面のT
Vのスィッチを入れるというのであれば、むしろ反省の一瞬は、再び安心して今の自分たちの生の
ありように埋没していくための一種の禊に過ぎなかったのだとすら思えてくる。これが18世紀以来
のこのゲームの効用だったのだ。なぜそんなことになってしまうのかは、前節で指摘した前提の、
もう一つの当然の帰結である。
(2)オルターナティヴ提示の誤謬
ヒトをはじめとするあらゆる生物の実践系は、彼らの環境世界について実に多くの事柄を当て込
み、前提としたシステムになっている。世界がどういう特徴を備えているかについて実践システム
があてにしている多くの事柄のいくつかは、人間の場合、社会空間を流通する一群の信念という
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形で存在している。人々の存在論、あるいは世界観はそうしたものの一部である。思考の対象物
となることなしに実践のシステム自体の中にいわば埋め込まれてしまっている、環境世界に対する
無数の想定と同様に、こうした信念群や存在論なども、実践システムに連動し、切っても切り離せ
ない形で結びついている。しかし、もしそうだとすれば、そうした信念群や存在論を、それが連動し
ている実践システムからは独立に、衣服を着替えるように気軽に取り替えるというのも無理な相談
だということになる。オルターナティヴとして提示しようにも、それはそもそも意思的な選択の対象
にはなりえないのである。
よく言われるように、人は意志によって何かを信じることなどできない。1000 万やるから信じろと言
われても、あるいは信じないと殺すぞと脅されても、信じられないものは、いくら信じようと意志して
みても信じるようにはなれない。信念というものが、われわれの生きる実践が世界について当てに
し、前提としていることに他ならないからである。ポケットに 1000 円しか入れていないときに、ポケッ
トの中に 1 万円が入っていると信じようとしたところで無駄である。実践と緊密に連動し、それに埋
め込まれているからこそ、単に頭で考えて選んで信じるようにはなれないのである。
もちろん、信念と呼ばれうるすべてのものが、実践系とこうした密接な連動関係にあるというつもり
はない。もしアルファ・ケンタウリの第 4 惑星にヒト型生命体が存在しているに違いないと、なぜか
信じ込んでしまった人がいたとしても、この事実を踏まえることによって、そうでない場合と比べて
どのような実践上の差異が生まれるかはあまり明らかではない。宇宙人が存在すると考えようと、
存在しないと考えようと、その人の生活に大きな違いは生じない。もちろん宇宙人がおり、地球を
侵略しようとしており、実は隣のおっさんがそれだ、というあたりまで信じ込んでいると――そもそも
なぜその人がそんなことを信じるようになったのかは謎であるが、ウィリアム・ジェイムスが言うように、
信念の起源そのものはどうでもよい問題であり、それを解明することに大きな意味はない。大事な
のはそうした信念を持つことによって、いかなる帰結が生じるかだとジェイムズは言う(James
1956:17)――ことはかなり厄介で、隣家に面した家の壁にアルミフォイルを張りまくったり、隣家に
向かって劇薬を噴霧したり、となると社会問題である。しかしそんな風にして実践系に組み込まれ
ない限り、ある種の信念は、それらを抱くことも簡単であるし、捨て去り、置き換えることも容易であ
りうる。説得を通じて、あるいは新事実の提示を通してオルターナティヴに乗り換えることもありえる。
しかしそうした信念は、実践システムと連動していないという点で、まさにどうでもよい信念なので
あって、逆に、実践システムに緊密に連動しているような重要な信念や存在論であればあるほど、
それをオルターナティヴとして提示したり、乗り換えようと企てることが意味を失ってしまうのであ
る。
私は焦点を、実践系の方にすえることによって一連の問題を設定しなおすことを提案したい。あら
ゆる実践は、それが行われる環境世界についての多くの「当て込み」を含んでいる。そうしたもの
の一部は言語化され「信念」や命題の形をとるかもしれない。しかしそれらは、あくまでも人々がそ
の生の実践において、世界について何を当てにしているのかにかかわっているのだという、その
基本的な性格を見失ってはならない。それを存在論といった言い方で語ることは、それをなんらか
の理論的精神の産物に見立てることになりかねず、実に危うい。それらを選択可能なオルターナ
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ティヴのように想像できるのは、本来人間の実践的な生のシステムの構成的部分であるそれらを、
そうした実践系とは独立した精神や認識の産物であるかのように考えてしまうからであり、存在論と
いう名づけは、そうした誤認への一歩をすでに含んでいるからである。こうした想像に立脚した浅
薄な西洋近代批判や他者のロマン化は、一種の観念論――実践から遊離した精神の世界の優
位を想定するそれ自身きわめて西洋近代的な世界の見方――だとはいえないだろうか。まさにド
イツイデオロギーにおいてマルクス、エンゲルスがおこなった批判が、そこにはそのまま当てはま
る。
(註1)多様性、多様性と繰り返して煩く感じられるかもしれないが、まさに多様性への着目と、そう
した多様性の説明こそが人類学のアイデンティティなのだと私は考えている。
(註2)以下の議論についてのより厳密で詳細な展開は、浜本 2007, 2008, 2009 を参照されたい。
(註3)もし実際に悪人が大半を占め各人が各人に敵意を抱いていることが普通であるような社会
空間においては、こうした信念を持っている方が、単に真理化の観点のみからだけでなく、利得の
マトリクスの観点からも「うまくいく」ということも指摘しておこう。ある信念の「正しさ」はその信念に基
づいた実践が展開する社会空間の生態学的配置に左右される。浜本 2009 を参照のこと。
参照文献
浜本満, 2009,「進化ゲームと信念の生態学-社会空間における信念の生態学試論2-」,『九州
大学大学院教育学研究紀要』第11号(通巻 第 54 集)pp.125-150.
2008,「信念と賭け:パスカルとジェイムズ-社会空間における信念の生態学試論1-」,
『九州大学大学院教育学研究紀要』第十号(通巻 第 53 集)pp.23-41.
2007,「他者の信念を記述すること」『九州大学大学院教育学研究紀要』第九号(通巻
第52集)pp.53-70.
一 橋 大 学 社 会 人 類 学 共 同 研 究 室 , 2008, 「 社 会 人 類 学 に つ い て 」
(http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/noftuite2.html)
James, W., 1955, Pragmatism, and Other Essays, New York: Meridian Books.
______, 1956[1897], The will to believe, and other essays in popular philosophy, New York: Dover
Publications
Laland, K. & John Odling-Smee, 2001, "The Evolution of the meme" In Aunger ed., 2001:
121-142
Aunger, R., ed., 2001, Darwinizing Culture: The Status of Memetics As a Science, London:
Oxford University Press.
ユクスキュル・J von, 2005,『生物から見た世界』日高敏隆・羽田節子訳、岩波書店
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