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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

産んでなんて頼んだ覚えはない!自体は正論だが。

言論


あとで読む

正論は時に人を深く傷つける

f:id:zetakun:20170205015501p:plain

先日(かなり前の話)だが、塾で中学生の生徒がこのような話を持ち掛けてきた。

「『産んでくれって頼んだ覚えはない』は反論できないですよね」と。

そういえば、ドラマでもマンガでも小説でも(時たま現実でも……)、子どもが親に対して言う一種の殺し文句と化しているなあ、と思った。

もし私が親なら首根っこ掴んで「じゃあ今すぐ楽にしてやろうか」なんてもちろん言いはしないが、どんな気持ちなんだろうか。

 

私は親じゃないから気持ちはわからないし、産んでくれ云々という感想を持ったことがないからわからないし、しかしそんな歳でもないからわからない。

要するによくわからんのだ。

 

※元ネタはなんJ民による「無知の知」コピペより。一部伏字にしている。

46 名前:風吹けば名無し@\(^o^)/ :2015/08/21(金) 08:23:01.66 id:Dk4EAcfQ0.net
うーん・・・
嫁がおらんから嫁を強〇された気持ちはわからんけど
女でもないから嫁の気持ちもわからんわ
弁護士でもないからわからん

http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1440112721/46/

 

彼にこう尋ね返してみた。質問を質問で返すこと自体、到底塾講師がやっていい行為ではないのだが、この質問は私の処理の範疇を超えていたからだ。

「それで、〇〇くんはそう考えたことがあるの?」

「言ったことがあります」

 

まあ、この瞬間、ああダメだと私は思った。

私は質問に対する答え方をいくつか用意していたが、そのどれもが今や有効でないことに気が付いてしまった。本当は「そういう風に言っちゃう子どもになった時点でちょっと危ないよね」と思っていたが、実際に言っちゃったとなれば口にするわけにもいかず……。

考える時間が欲しい、と言って、お開きになったわけだが。

 

「産んでくれなんて頼んだ覚えはない」の使用方法

子どもが親を詰るときに使う一種の定型句だが、どういう文脈で使うかどうか考えてみる。ドラマや漫画やアニメの見すぎだろうか、しかもかなり古いやつ、

 

恐らくだが、

親「アンタなんか産むんじゃなかった!!」

子「産んでなんて頼んだ覚えはない!!」

という、いわば不毛中の不毛、かのゴルバチョフが髪の毛を後頭部で巻いて逃げ出すレベルで不毛な言い合いの最中に使われるのではないか、と推察する。

 

もしそうでなかったなら、

子(人生について悩む)「産んでなんt」云々(でんでん)

の文脈中で使われているだろう。

 

このように不幸な使われ方をしているのは間違いない。

 

ぐうの音も出ない正論な件

「産んでくれなんて頼んだ覚えはない」であるが、これはぐうの音も出ない正論だと思われる。セイロンノイミハヒトニヨッテチガウ論法の人が現れそうなので書いておく、ここでの正論とは「論理的に真である文章」だ。

 

だって自分の心か、もしくは親にでも尋ねてみるといい。

まさしく『頼んだ覚えはない』はずだ。

つまり、「このりんごは赤だ!」以上に正しい文章だということになる。

下手すれば、「1+1=2」ぐらいに正しい文章なのかもしれない。

正しさの尺度を測るのはナンセンスだからやめておくが、この世で命を授かるとき、自ら望んで産まれてくるものはいない。それは「産む」という言葉が「産まれる」という自動詞になって使われていることからもわかるだろう。英語でもbe born(生まれさせられる)だ。

生まれることが本当に心からの望みならば、「生まれる」なんて自発的・受身的表現を使ったりしない、もっと別のスバラシイ表現にするはずだ。

「這い出てくる」とかね。(すばらしくない)

 

さて、先生怒らないから手を挙げてください。自分が親に頼み込んで産まれてきた人!

と聞けば、誰も手を挙げない。こういうのってだいたい先生が犯人なのだが、先生だって望んで生まれてきたわけじゃない。

「産んでなんて頼んだ覚えはない」は正論なのだ。

 

隠された意味

語用論という学問がある。言葉が発話者の間でどのように用いられているかを研究する学問である。面白い例を一つ挙げてみよう。

 

母「のば太ー、ちょっとおつかい行ってきてちょうだい」

のば太「えー、今雨だよー?

 

(電話にて)

母「今、外はどう?」

のば太「今雨だよー?

 

上に挙げた二つの例で、赤字の「今雨だよー?」が異なる使い方をされているのにお気づきだろうか。言葉は同じでも、文脈によって異なる意味を持ちうるのだ。

上ではいわば「雨が降っているからおつかいに行きたくない」という拒絶の意思が含まれており、下は漠然と「雨が降っていることを相手に教えた」というだけだ。

 

上の例と同じことがさっきの正論にも言えるのではないだろうか。

 

生徒(子ども)は、

 

「自分は望んで産まれてきたわけじゃないことを伝えたい」わけではない。

これは文字通りの解釈にすぎず、真意は別にある。

その裏にあるメッセージを暗に伝えているのだと考えられる。

 

つまり「産んでほしくなかった」と。

 

正論だからこそ

親はたぶん、子どもが発したその言葉の裏の意味を読み取った瞬間、心に衝撃が走り、強い呪いの前に石化してしまうことだろう。私ならたぶんそうなる。

やっかいなのは、この言葉を論理で以って説き伏せることができないという点にある。どんなに反論したくても、人間は望んで生まれてこないのだという事実の前にひれ伏すしかない。その言葉には自分だって当てはまってしまうわけだから。

だったらどうするか?残された道は無視か身体への罰か感情論か黙って抱きしめるか、だろう。論理を覆すことができないのなら、そうするほかあるまい。

意外とこういう時子どもにとって一番応えるのは「親が泣くこと」だったり。

あ、ソースはないので信用しなくていいです。

 

子どもだって未熟な人間のひとりだから、売り言葉に買い言葉で、ついつい言ってしまうこともある。中学生ともなれば、どういう言葉を言えば親が反論できないか、どう表現すれば他人が傷つくかぐらいは知っていて、口に出してしまうのだろう。例えそれが本音じゃなかったとしても、発された言葉は空気を媒介して親の鼓膜に入り、心に深く突き刺さる。

反抗期みたいな時期があまりなかったので推測になってしまうが……。

 

そう、事実というのは、時にただの誹謗よりも人を傷つけうるのだ。

 

ただ、この言葉自体は、中学生の一種の「通過儀礼」となっている側面もあると思う。統計がないから何とも言えないが、自分の言葉で親を深く傷つけた例はだいたい誰にでもあるのではないだろうか。特に、反抗期が激しかったような人は。

だからこそ、アニメや小説として反抗期少年少女たちのお決まりのセリフとして、何回もリピートされている。いわば「シンボル」なわけだ。

人間はそういうことを経て、友人や周りの大人との承認ゲームを繰り返しながら、自分というものを確立していくのだから、悪くないとはもちろん言わんが「言うことが絶対悪」まで言い切ってしまうのも極端な気がする。

 

問題なのはこれから話す例だ。

 

「産まなきゃよかった」はタブー

~回想~

私「それで、〇〇くんはそう考えたことがあるの?」

生徒「言ったことがあります」

私「どうして言ったの?」

生徒「喧嘩してて、『産まなきゃいい』と言われたからです」

~回想終わり~

 

実はさっきの生徒だが「産まなきゃいい」と言った原因に、親が最初に「産まなきゃよかった」と言っていたと述べていた。

これに関して言えば、私は親のほうをあまり擁護できない。

 

なぜなら、子どもにしてみれば「産んでくれと頼んでない」のはまさに事実なわけで。生殺与奪は親にまかせっきりなのだから。

子どもの存在を親が無条件に認めるべき!なんて主張はしたくないが、それでも「あんたなんか産まなきゃよかった」と子どもに言えてしまう親がいることに悲しみを隠せない。

 

こんなことを言われたのなら、親によってまさに「産まれさせられた」状態である子どもは行き場のない怒りとショックをどこにぶつければいいのだろう。

子どもにとっては親が全てだ。今あなたがこの世界を認識しているのも、すべてはあなたの母親と父親が愛し合ったからにすぎない。愛の帰結として授かったモノが子どもであり、言い換えれば子どもはそのうちのいかなる過程も自分でコントロールすることはできない。

だから、親が子どもを育てていくのは当然のことであり、親にはそうする責任があると考えられている。

(※事情があってそうできない人を貶めているわけではない。誤解なきよう)

 

そういう状況の中で、親が「産まなきゃよかった」と口にしたらどうなるだろう。

そりゃあ、「じゃあなんで俺を産んだんだよ!」という言葉が出てくるのも無理はないさ。子どもにとってみれば、最初からいらない子だったなら産むなよ、が本音だろう。

 

勝手に自分を孕んどいて産んどいて無責任なこと言うなよという気持ちが例の正論になって析出する。子どもが悪くないわけではないが、親も悪い。

 

もちろん、それが本音の人もいるだろう。世の中広いから。

でも、さっきも言ったが、

本当のことこそが人の心を深く抉る

ことに気付けないようなら、親になるための資格に欠けていると私は勝手に思う。

要は「正しいけどそれ言っちゃあおしめーよ」案件なのだ、これは。

100歩譲って、考えるまではいいとしよう。だがそれを多感な中学生高校生に言うべきではない、と思う。

 

じゃなければ。

親にしてみても、やはり売り言葉に買い言葉でつい口に出てしまったのだろう。

が、子どもはそういう事情を考えるほどまだ発達していない。私が生徒の立場だったら、たぶん真に受けていただろう。

繊細な心が傷ついた後で謝っても、もう遅い。そのころにはとっくに親に対する信頼なんてなくなっている。そんな風になって、家出をして他人の家で住み込みで働く友人を私は一人知っている。なんて壮絶な人生なんだろう。

 

 

親になるってのはすごく大変なのかもなあ、と思わされた一件であった。

ちなみにその生徒さんだが、今は仲直りしているようだ。普通に仲良くしゃべっていたようなので安心した。