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僕はケツ毛抜き依存から脱却したい。

ネタ

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僕は、ケツ毛抜きをやめられなくて困っている。

 

つい先日、ケツ毛を抜くのが気持ちよくて仕方がない、ケツ毛を抜くとこんなにいいことがあるとケツ毛抜きを啓蒙する記事を書いたばかりである。

stockeizoku.hatenablog.com

「なんだ少し前までお前は嬉しそうにケツ毛を抜いていたじゃないか、抜きたいのか抜きたくないのか、お前の気持ちはどっちなのだ」と僕のために親切に考えてくれる方もいるかもしれないので答えておくと、僕の気持ちは確固として前者である。僕はケツ毛を抜きたいのだ。

ケツ毛を抜くのは気持ちがいい。ケツ毛を抜くと抜いた分だけケツから毛が無くなるのだ。何を当たり前のことを言っているのかと思われるかもしれないが、誰だって綺麗なもの・整頓されたものが好きなはずである。乱雑よりも整頓を好むのが人間の性だ。だから僕がケツ毛の生い茂った汚らしいケツよりも、ゆで卵の表面のようにつるんと滑らかなケツを好むのも当然の話だ。

 

ケツ毛を抜いている限り僕には未来はない

じゃあ、そんなケツのミニマリストである僕がどうしてケツ毛抜きから卒業しようとしているのか。先日くつろいでケツ毛を抜きながらテレビを見ていた。途端、テレビのシーンが暗転し、スクリーンには下半身裸でピンセット片手にケツ毛を抜いているみじめな姿をした僕が映っていたのだ。いい大人がみっともない恰好をしてケツ毛を抜いているという事実。今でこそ若さ?のおかげでなんとか変人くらいで留まっていられるものの、5・60のおっさんがケツ毛を抜いてたらたとえ家の中であろうと事案になりかねない。ケツ毛を抜く癖から脱却したい。一生懸命にケツ毛を抜いている姿は見るに堪えないほど滑稽だ。ケツ毛を抜き続けている限り僕には未来はないのだ。

 

「禁ケツ毛抜き」ではなく「減ケツ毛抜き」を

ケツ毛抜きから卒業したい気持ちはある一方で、やめてしまえばこれまで注いできた努力が霧散水泡と化してしまう。そこで考えたのが、一切禁止するのではなく回数を減らすというものだ。今では週一の頻度でケツ毛抜きを行っているが、これを月に一度まで減らすのだ。これなら定期的にケツ毛が抜かれるため、肛門が生い茂ったケツ毛に覆い隠されることはない。妙案である。

実はこの着想、先日訪れた大室山から得た。大室山を始め、多くの山では毎年春先に火入れを行うことにより、山中の植物成長をリセットし森林への遷移を阻害しているのだという。

世の中どういった知識や経験が役立つかわからない。一見無関係に思えるようなことにも繋がりや意味を見出すことができるのだ。まさか自分にもセレンディピティが備わっているとは思ってもみなかったが。

stockeizoku.hatenablog.com

 

依存について知る

 

ケツ毛抜きの頻度を減らそうと考えたのはいいが、問題は簡単ではない。恐らく僕はケツ毛抜き依存症だ。つまり、頻度を減らすためには自身の依存症と向き合う必要があるのだ。だが、僕はあまりにも依存について知らなすぎるため先に定義を明らかにしておこう。

 

依存症(いそんしょう、いぞんしょう、英: dependence)とは、世界保健機関の専門部会が提唱した概念で、精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う特定の行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める抑えがたい欲求である渇望が生じ、その刺激を追い求める行動が優位となり、その刺激がないと不快な精神的、身体的症状を生じる精神的、身体的、行動的な状態のこと。

依存症 - Wikipedia

 

なるほどなるほど、単純に対象が好きで仕方がない状態とは明らかに違う。僕はケツ毛抜きを行わないとなんだかムズムズしてくる。ケツ毛が伸びてくると歩いている時に肛門のあたりがモソモソしているのを感じるのだ。自分の身体が汚くなったような気がして落ち着かなくなる。上の定義でいうと僕は明らかに依存症だ。

 

依存から脱却する方法とは

僕がケツ毛抜き依存症であることが判明した。じゃあ、どうやってその依存から抜け出せばいいのかというと、物理的に不可能にする・代替行為を用意するといった2つの方法がある。1つずつ見ていこう。

 

物理的に不可能にする

毛抜きを隠すあるいは捨ててしまうという手段をとれば、ケツ毛抜きを行うのはほとんど不可能になる。自分の指だけで抜くという方法もあるが、あまりにも効率が悪いし、ケツ毛がある程度の長さまで伸びていなければ相当な難易度になる。やってみればわかると思うけれど、ケツ毛抜きは生易しいものではないのだ。

 

代替行為を用意する

依存症とはモグラ叩きのようなものらしい。ある欲求を無理矢理押さえ込んだとしても、他の形で欲求が表れてくるようだ。これを言葉の通りに受け取ると、依存症は対象が変わるのみで簡単に治すことはできないようだ。

そこで有効なのが代替行為である。依存対象に対する欲求が高まった時に異なる対象を敢えて見つけるのだ。例えば、禁煙したい人がタバコを吸いたくなった時にはガムを食べるようにして欲求を他の形で解消させるのだ。

できれば代替行為は近いほうがいいだろう。アルコール依存であれば異なる種類の飲み物がいい。全く違う行為の場合、代替として成り立たない可能性があるからだ。僕のケツ毛抜きの場合は・・・

他の箇所の毛を抜くというのは肉体的にも精神的にもよろしくないので却下だし、食べ物や飲み物を使うというのもそっちの依存症になったら大変だ。行うのにコストが掛からず多少の快感が伴う行為・・・ということで指の骨を鳴らすことにした。もちろん骨を鳴らす行為も依存症になれば困るだろうが、ケツ毛抜きほどではない。こうして少しずつ依存のランクを下げていければ依存症も寛解するだろう。

 

 

おわりに

こうして僕のケツ毛抜き依存症脱却の方針が決まった。自分の習慣や生活を変えることは容易ではないが、一つ一つ地道に出来ることからやるしかないのだ。

 

本記事が皆さんのケツ毛抜き依存からの脱却に役立てば幸いです。

 

stockeizoku.hatenablog.com

 

ではさいなら!

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