いまいちばん「意識高い」ひとはみんな「リベラルが嫌い」なんじゃないですかね。
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「リベラル≒意識高い系」より(一周回って)「リベラル嫌い」な俺の方が「意識高い」というスーパーロジカルシンキング。
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定義問題になるんだが、政治的にリベラルな立場をとっているひとが、政治を離れるとリベラルが嫌いという可能性は十分にあるわけだよね。
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巨人ファンと阪神ファンが対立している問題状況で、巨人ファン(あるいは阪神ファン)の一人が自分のポジションを離れて中立的な立場から問題状況を眺めるというのが、いわゆるリベラルな態度のことですよね。経済的な格差があれば再分配で、信仰の対立があれば公私二元論(政教分離)で応答する。
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自分のポジションを離れて中立的な立場から眺める仕草は「上から目線」とか「意識高い系」と非難されそうだし、巨人ファン(あるいは阪神ファン)というポジションにどっぷり浸かっている人から見れば、裏切り者に見えるかもしれない。だからリベラルな態度はどっちのポジションからも嫌われる。
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ひとは誰もが何らかのポジションに収まっているわけだし、他人に嫌われる不自然な「リベラルな態度」なんてとりたくないというひとの方が間違いなく多い。 にもかかわらず「リベラルな態度」をとったほうがいいと、ひとはどういう場合に判断するんですかね。
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問題は、この定義で、実際にリベラルを自称したり、他称されたりしている政治家の立場をどのぐらい説明できるかということになるんだが……。
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戦後のある時期まで「リベラル」な政治家はどちらかといえば与党の側にいたんじゃないんですかね(経済的自由主義を唱える「反共」の立場)。
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