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【満州文化物語(42)】「アバウト」でいいのだ! 赤塚不二夫、古谷三敏、ちばてつや…みんな満州でおおらかに育った

【満州文化物語(42)】「アバウト」でいいのだ! 赤塚不二夫、古谷三敏、ちばてつや…みんな満州でおおらかに育った

赤塚不二夫さん 

「なるようになるさ」

 赤塚不二夫の人気漫画『天才バカボン』のパパのキメセリフは「これでいいのだ!」。父親が満州で憲兵や警察官をしていた関係で少年時代を過ごした赤塚の性分もどこか大陸的だ。

 『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』でこう語っている。《中国人が「メーファーズ」と言うんだよ。「しようがない」という意味。…なんでいい加減でいいのかね、と言うと、大陸育ちというのは、そういう土壌があるんだって》

 《満州育ちっていうのは、なんか適当で、アバウトで「どうでもいいや」「なるようになるさ」って生きてきちゃった…せこせこした生き方より、おもしろくて、のんびりした連中が好きなんだ》

 赤塚のフジオプロで長く仕事をした古谷三敏(80)にも似た思いがある。父親は奉天の繁華街で有名な割烹すし屋を経営。女優の田中絹代や横綱の双葉山も来店し、繁盛していたが、店の2階で開帳していたばくちが摘発され、夜逃げ同然で北支へ。波瀾万丈の少年時代だった。

 「この時代の体験というのはやっぱり影響してますよ。何があっても動じない。(漫画の)締め切りも怖くない。生活が切羽詰まっても平気。悩み方のリズムが違うんです」

 フジオプロには、満州や中国からの引き揚げ者が多かった。北見けんいち(76)や『総務部総務課山口六平太』の高井研一郎(昨年11月、79歳で死去)、横山孝雄(79)もそう。北見によれば「まったくの偶然。フジオプロに入ったころ、『僕も満州なんですよ』と言ったら、『そこまで合わせなくてもいいよ』って大笑いされた」と振り返る。

 新京で食堂を経営していた北見の母親は「堅苦しい日本がイヤで、満州にあこがれた」という。彼らの父祖は一様にスケールが大きい大陸に夢を描き、一旗挙げようと、海を渡ってきた人たちだ。その血は、子供たちである彼らにも脈々と受け継がれている。

 森田拳次(77)は「地平線を見ると、なぜか心が和む」という。森田は同じく大陸育ちの映画監督、山田洋次(85)の人気映画シリーズ「男はつらいよ」を手伝ったことがある。「山田監督の映画には北海道あたりの地平線がよく出てくるでしょう。(山田監督にも大陸のイメージが)潜在的に残っているような気がしますね」

 森田は30代のとき、人気漫画家の座をなげうって、米ニューヨークへ渡る。大胆な行動も満州育ちの血が騒いだゆえか。漫画家に限らず、芸術家・文化人に満州育ちが多いのも偶然ではないかもしれない。

赤塚とちばはお隣さん

 ちばてつや(78)の父親は奉天の印刷会社に勤務していた。赤塚とは同じ小学校で自宅もすぐ近所。ただし、それが分かったのは、戦後一緒に現地を再訪したときである。

 ちばの漫画家としての原点も満州時代にあった。

 約155万人(終戦時、軍人・軍属を除く)いた満州の日本人の運命が一変したのは昭和20年8月9日、ソ連軍(当時)の侵攻によってである。それまで戦争の影も薄く、内地(日本)に比べて、まだ食料や物品があった満州は殺戮、略奪、レイプといった非道な行為によって、地獄の底へと突き落とされる。

 日本の敗戦が濃厚になると、中国人や朝鮮人らも日本人に襲いかかってきた。奉天のちばの一家は、印刷会社で父の部下だった中国人の好意で屋根裏部屋に匿(かくま)ってもらい、息を潜めた暮らしを続ける。もしも、バレたら中国人の元部下にも迷惑がかかる。だが、幼い弟たちが泣いたりして、おとなしくしていない。

 「だから、僕が絵を描いて紙芝居のようにして弟たちに見せたんです。父の印刷会社にあった紙に鉛筆やクレヨンでイソップやアンデルセンの童話をアレンジして描く。『次はどうなるの?』って喜んでくれるのがうれしくてね。後から思えば、あの体験が漫画家としての原点だったかも」

「死」が身近にあった

 終戦から引き揚げまで、辛酸をなめた満州の日本人。満足な食べ物もなく略奪や暴行におびえる毎日。子供だった漫画家たちや彼らの弟妹が残留孤児になってもおかしくはなかった。

 北支で終戦を迎えた古谷は、父親から手榴弾の安全ピンの抜き方を教えてもらう。「アメリカ兵が上陸してきたら、手榴弾を抱いて相手に飛び込め、というわけです。子供だから警戒されない、1人は殺せるって…。結局、そんな場面には至りませんでしたが」

 ちばは、自分の作品の中に満州での体験や光景を知らず知らずのうちに織り込んでいることが多い。代表作『あしたのジョー』に朝鮮戦争で悲惨な体験をした韓国人ボクサーが出てくる。そのシーンを描くときもそうだった。

 「満州から引き揚げてくるときは、『人の死』が身近にあった。極限状態に追い込まれた人間を描こうとすると、そのころをふっと思い出しながら描いているんです、無意識にね」

 森田は、奉天で元日本兵らが公開処刑されるシーンを目撃した。

 「子供は見ちゃいけないと止められたけど、人垣の隙間から見ました。銃声がしたかと思うと、(日本兵の)首がガクっとなって、血は見えなかった。ああ人ってこんなに簡単に死ぬんだなって思いましたね」  終戦時に4歳だった北見も、翌年引き揚げるまでに「人が死ぬのをたくさん見た」という。北支の古谷は昭和20年に、満州のちば、森田は北見と同じく21年に引き揚げている。極限状態に耐え抜いた経験は人間を強くするのだろう。

 ちばはいう。「あれだけの悲惨な体験をしたことによって、吹っ切れたというか、死ぬのが怖くなくなった気がしますね。(売れないときに)どんなに貧しくたって、あのときに比べたら耐えられる、大丈夫だって思えましたから」

           =敬称略、隔週掲載。

      (文化部編集委員 喜多由浩)

          ◇

 ●赤塚不二夫 昭和10年、満州国・古北口生まれ。終戦時は奉天在住。代表作は「天才バカボン」「おそ松くん」など。平成20年、72歳で死去。

 ●古谷三敏 昭和11年生まれ。奉天で育ち、後に北京、北戴河へ。代表作は「ダメおやじ」「寄席芸人伝」など。

 ●ちばてつや 昭和14年、東京生まれ。奉天で育つ。代表作は「あしたのジョー」「のたり松太郎」など。

 ●森田拳次 昭和14年、東京生まれ、生後間もなく奉天へ。代表作は「丸出だめ夫」「ロボタン」など。

 ●北見けんいち 昭和15年、新京生まれ。母親が食堂を経営。代表作に「釣りバカ日誌」など。 

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