岐阜命のビザ、八百津から世界へ 記憶遺産登録へ高まる期待
第二次大戦中に約六千人のユダヤ人難民を救った外交官の杉原千畝(一九〇〇〜八六年)。八百津町が集めた「命のビザ」など杉原千畝にまつわる資料が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶(世界記憶遺産)」に登録されるか、今年夏ごろに結果が出る。地元では関係者らが膨らむ期待を胸に、地道な顕彰活動を続けている。 冬空の下、山あいで静かに春を待つ棚田。どこか懐かしいこの風景が、「千畝」の名の由来ともいわれる。千畝の両親が生まれ育った八百津町の北山地区。「千畝さんは誇り。もっとたくさんの人に知ってもらえたら、ありがたい」。千畝の母の実家に住む親類の岩井直樹さん(64)は目を細めた。 千畝が国内で有名になったのは没後。とりわけ地元では「八百津で生まれ育った偉人」として、町が一九九二年にビザのモニュメントなどを設けた「人道の丘公園」を造り、顕彰を始めたのが大きな後押しになった。 町は命日の七月三十一日に合わせて毎年、平和を願う短歌大会をはじめとしたイベント「杉原ウイーク」を続けてきた。公園内に二〇〇〇年に完成した杉原千畝記念館には、国内外から延べ三十万人以上が来訪。昨年は、千畝にゆかりのある横浜市など全国三カ所でシンポジウムも開いた。 登録対象のビザは国内候補に決まった当時は一通しかなかった。町は海外の所有者らと交渉し、四十七通に増やして昨年五月、ユネスコ本部に本申請した。町の担当者は「二十五年間の取り組みの一つの成果になれば」と登録実現に期待を寄せる。 しかし本申請後、研究者らが戸籍の記録から「千畝は現在の美濃市で生まれた」と主張。町は昨年末、日本ユネスコ国内委員会の求めに応じ、「生誕地の八百津」としていた申請書の三カ所を「出身地」と書き換えた。 「千畝が町民の誇りであることに変わりはない。功績を踏まえて平和や人権、勇気を持つことの大切さをより広く伝えていきたい」と、町の担当者は強調する。 「祖父はいつも『人の役に立ちたい』と話していた」。町と連携するNPO法人「杉原千畝命のビザ」(東京)副理事長で、千畝の孫の杉原まどかさん(50)は振り返る。 本格的に講演活動を始めて六年目。これまでに各地で四十回ほどを重ねた。「最初の二年くらいは、ほとんど依頼がなかった」と関心の高まりを喜び、「祖父の思いや行動を伝え続けることができれば、きっと世界の平和につながるはず」と願っている。 (平井一敏)
<杉原千畝(すぎはら・ちうね)> 税務署員だった父親の転勤に伴い岐阜、三重県などで幼少時代を過ごし、名古屋市の旧制・愛知県立第五中(現・県立瑞陵高校)卒業後、早大高等師範部(現・教育学部)に入学し中退。1924(大正13)年、外務省に入省。40年、ナチス・ドイツの迫害から逃れ、リトアニアの日本領事館に押し寄せたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給した。47年に帰国し、外務省を退職。イスラエル政府は85年、命懸けでユダヤ人を救った人をたたえる「諸国民の中の正義の人賞」を贈った。 PR情報
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