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先生へのインタビュー(12)井上 明敏 先生 後編

『先生へのインタビュー』今回は、造形芸術科専任教員・研究室主管補佐・井上明敏先生へ続編です。

全編では、学生時代のお話や日本画への道などをご披露頂きました。今回は学園にまつわるお話や、制作についてお伺いしたいと思います。

 

 

武蔵野美術学園学園新聞

井上 明敏(いのうえ あきとし)先生

 

 

―井上先生が学園に勤務されるようになったのはいつ頃でしょうか?また、教壇に立たれていた中で、印象に残るエピソードがありましたらお聞かせください。

 

 井上:フランスの彫刻家の巨匠のひとりブールデルの優秀な弟子であった清水多喜示先生が初代学園長になられ、油絵科(昼間部/夜間部)版画科開設され、その翌年に彫塑科もできました。日本画科は学園創設の12年後の1981(昭和56)年から始まり、今年で35年、私がお手伝いするようになったのは1年後の冬期公開ゼミナールからだと思いますので、今年で34年、自分が1番学園で古い講師だと言う事を今回認識しました。私が来た時は2代目学園長の三雲祥之助先生が学園長で、3号館4階教室(現342)が先生の作品庫になっていて閉ざされていました。

 学園でのエピソードひとつ目ですが、3代目の学園長の日本近代洋画界で抽象画家の巨匠、山口長男先生の思い出があります。先生が死去され学園3号館のホールで、棺を運び入れて告別式が盛大に取り行われ、教職員、在校生、卒業生でお見送りをしました。そのホールで当時は毎年卒業式も行っており、沢田俊一(自由美術)、柳沢達男(春陽会)、藪野健(二紀会)、久野和洋(立軌会)、酒井信義、比田井希仁(自由美術)、土屋禮一(日展)、小川正明 他の先生方と学生の前で、卒業証書授与時に山口先生が代表者ひとりひとりの生年月日を読み上げられ、多くが高齢の女性方だったので会場中クスクス笑いが起きたような和やかな雰囲気でした。

 ふたつ目は、もう5〜6年前に日本画の作品展示会の講評会で、専門課程の20歳代の女性の作品に、土屋禮一先生が「絵の深さが足りない」と、その方がすぐに先生に「絵の深さはどうしたら出ますか」と質問、先生もまた即に「僕達は絵を描く技術だけじゃなくて、これまで生きてきた中での苦しみ、悲しみ、喜びと言った人生の経験も使って描いているので、あなたもこれから一生懸命生きて、絵を描いていけばきっと深みが出せるようになります。」と、その生徒と先生のやり取りはその後、いつも私の制作の中での励まされる出来事になっています。「人生の経験も使って描く」、これ程熟年の方々が多い学園生に、ぴったりの勇気を与えてくれる言葉はないと思っています。

 

 

―井上先生が制作される時に大切にされている事はありますか?

 

 井上:先ず小下図を作る事です。自分は自分が思うところの具象をめざしています。色々写生したいしたものからまたそのための情報や資料を見て、小下図を描くというより、練ると言った方が正解だと思います。これに相当に時間をかけます。私の現在の師匠のひとり大野百樹先生(95歳)は「小下図でしっかりつかんでおく(細かく描くという事ではない)と大下図や本画で迷わない。」とよく言われました。大下図に描きだして二転三転するひとは小下図でつかんでないからだと。また私は父から習った構図法の画面分割線を必ず利用します。3分の1、5分の2、7分の1とか。

 昔はその中にあてはめるように作っていたこともありますが、現在は描いてからトレペで小下図にあてて、チェックし、いい位置に配置しています。

 51年も前に出版され、未だに読まれている名著と言われる「黄金分割」。美術出版社(1965年初版)の著者である柳亮がフランスから帰って、黎明会と言う構図法の勉強会を定期的に開いていて、各界の画家が聞きに来ていた。入江観先生(春陽会)もそのひとりですが、多くの作家を育てました。その会の記録係りを父はしていましたし、実家にその資料がたくさん残っています。

 

 

武蔵野美術学園学園新聞

 

武蔵野美術学園学園新聞

井上明敏先生「午前2時の今日のわたくし」

120号の鉛筆と着彩の小下図 40.5×27cm(踏継展出品作品)

 

春の公募展搬入日の徹夜明けの朝、自宅の中で鳥かごの良く鳴いていたカナリヤを、可愛がっていた野良猫の「ざぶとん」(名前)が襲った事件を絵にしました。題名は当時この曲をかけながら描いていた矢野顕子の「ラーメン食べたい」の曲の入ったCDの中より頂きました。

 

 

武蔵野美術学園学園新聞

 

武蔵野美術学園学園新聞

井上明敏先生「大黒埠頭」

院展 本画172×217cmの小下図23.2×29.2cm

 

同じ写生場所を縦、横に構図を考えました。

 

 

―井上先生は長く吉祥寺付近にお住まいだと伺っています。吉祥寺の魅力、お勧めなどございましたら是非、教えてください。

 

 井上:自分は実家の小金井から、吉祥寺駅経由にてバスで都立高校に通っていました。その後26年前に結婚でき三鷹に住み出しました。最寄りの駅が吉祥寺です。また父が武蔵美短大通信教育の絵画の講師を都庁に務めながら許可をもらって務めていました。よく数日、遅くまでかかりながら作品を添削し、できた作品を巻いて母がこの吉祥寺の校舎の中にある通信本部まで届けていました。それに何度か同行したことがあります。ですから約50年近く前は、サンロードの通りが唯一でした。それでもパラパラですが商店があって、まだアーケードもない時から、吉祥寺の変貌・発展を見てきましたが、すごく面白い街だと思います。

 JR中央線快速で新宿まで約15分、京王井の頭線急行で渋谷駅まで約19分という都心に近く、駅のそばにセントラルパークとは言いませんが、木々の中を巡る池一周コースに朝夕大勢のランナーが走る事ができる適度な広さの動物園(昔は女子刑務所だったらしい)を持った井の頭公園のある町、吉祥寺。昨年、象のはな子が亡くなり、その動物園が今忘れられているのではと思うのです!!

 東京オリンピックや豊洲市場移転問題で出てくる巨額費用の何分の一でいいのです。象、ライオン、トラ、キリン、カバ、サイ…といった大型の動物の補充、数年前に老朽化で壊され無くなった南国の野鳥が飛んでいた温室の再建を都にお願いしたいです。京都の岡崎公園の中にあるコンパクトで充実した都心型動物園のようになったら、ジブリ美術館(公園に隣接する)と共に、3つの大きな目玉になり、お客さんも増え、吉祥寺がさらに魅力ある町に発展すると思います。

 

 吉祥寺周辺の、食を中心に具体的にお店をいくつか紹介します。

 

◎パン屋 高級ではなく、広島・福山・鞆浦の湾岸にある逗留中のジブリの宮崎駿さんがよく買いに来るという村上製パンのようなどの菓子パンも100円少し超えた位で販売しているような….があくまでも理想。

 

・トーホーベーカリー 三鷹市下連雀1丁目1-9-19ドミールM/定休日:日曜日・祝祭日第3月曜日/営業時間:AM7:00〜PM7:00まで/サラダ・ピーナッコッペ140円他。

 

・クラウンベーカリー 武蔵野店   【旧店名】 ラ・クルシェット

武蔵野市中町1-9-5 第1中央ビル 1F/(月〜土)8:00〜19:30

(日・祝)9:00〜19:00/第3日曜定休/喫茶あり。

 

 

◎ラーメン 駅前ハーモニカ横丁の「珍来亭」には、ここのラーメンを食べに、俳優の佐藤慶も通っていた。今は居酒屋風になってしまい足が遠退いてしまいましたが、自分もよく好きで行っていた。

 

・真風(まじ)

武蔵野市吉祥寺南町2−6−2/平日(昼)11:30〜14:00(夜)18:00〜、土・日・祝(昼)11:30〜14:00(夜)18:00〜 ※すべてスープがなくなり次第終り。/8〜10人入ればいっぱいの店。豚骨を使用しているそうですが、店の外も中もスープ作りの独特の臭みはせず。鯛塩850円他。近年1回食べて忘れらない味、土日の昼は列が出来ている。

 

 

◎洋食 

・ラ・クール    カフェ 武蔵野市吉祥寺本町2-11-9 プラタ高橋ビル2F/11:00〜22:30/年中無休/ナポリタン900円/チキンライスのオムライスは18:00以降のみサラダ・スープ付きで1,050円。

 

 

◎魚料理

魚初   武蔵野市吉祥寺南町3-7-1/日曜休み/鮮魚屋、煮魚、煮物。

 

・里の宿(魚初系列店) 武蔵野市吉祥寺南町1-28-5 107MAC吉祥寺コート 1F/(昼)11:30〜14:30(夜)17:00〜21:00/日曜休み/本日の魚定食20種類 約1,000円。知っている方しか本当に来ないような、でも夕方になるとファンが集まってきて客の切れ目がない。約14名位しか入れない。

 

・鮮魚屋(魚初系列店) 武蔵野市御殿山1-4-18/17:00〜23:00/魚料理中心の居酒屋、煮魚の汁丼500円、裏メニューの海鮮チャーハン他/年中無休/カウンター席。店の真ん中が調理場、いつも混んでいる。

 

◎古本屋 

・よみた屋  武蔵野市吉祥寺南町2-6-10/10:00〜21:00/年中無休/店頭の移動式の書棚4列(5m位)この部分が超目玉。毎日少しづつ内容が新しくなっていて、売れない本ははずされていく。出張買取を行っているのか、ちょっと間を置いてのぞくと、元の所有者が文学好き、理系好き、美術好き、辞典好きの方とわかる。オール100円。豪華文学全集のバラ本(3,000円〜5,000円)も、人気作家の1,500円前後の単行本も、2,000円以上で会場で販売していた。(神田の本屋で安くて700円くらいのもの)展覧会図録、マニアックな本まですべて100円。こまめに、でも久しぶりに、あまり期待しないで行くと、いい色々な分野の、掘り出し物に出会うかもしれません。

 

 

―学園もあと1年余りとなってしまって残念ですが、専任教員として、主管補佐として今後の造形芸術科をどのようにしていきたいですか?

 

 井上:そうですね。あと1年余りになってしまい大変残念です。勿論、造形芸術科のために、全力を尽くしていきたいと思いますが、まずは、学生の皆さんが今一番気になっているであろうことをお話したいと思います。12月6日の「平成30年度以降の学園運営等について」説明会についてです。

 今を遡ること2ヶ月前の10月に、学園長、事務室長、事務室長補佐、専任教員と副手が出席する学園長会議にて、閉校に伴い学生の皆さんが不利益にならないように、閉校後も授業の延長を受講できる対象者のリストを示されたことを記憶しています。副手の皆さんは、17時以降だからと退出させられたので、見ていないと思いますが…。

 

―そうですね。でも後ほど先生方に伺いました。

 

 井上:また、総務から柴田先生を通して研究室側に「延長プランを出来るだけ短縮できないか」と、延長計画案の作成依頼が7月頃ありました。そのような中、11月末日に、「アトリエエビスに学園事務室長が訪れ、学園生の受け入れとその際の授業料等の便宜を図る依頼があった」との情報が入ってきて、研究室一同驚きました。12月6日の説明会では、渋谷のオープンセミナーに1室を借りている田中千代学園の名前も登場し、この2ヶ月で閉校に伴う授業延長プランは取りやめて、説明会の資料に書かれている他校斡旋に切り替えたことが分かり、失望しました。法人側は「在学生について、延長はしないが対応はしましたよ」ということなのだと。

 今年度4月からのオープンセミナーの一部を、田中千代学園の一室を借りて行うという話も、始め私は大学側が許可しないと思っていましたので、許可になったときは驚きました。その下見会の時に丸亀学園長より、田中千代学園の理事長は武蔵美の先輩・後輩で、懇意にしている方だと伺い、私を含め参加した4名に紹介されました。そのことも考慮すると田中千代学園が斡旋先の大きな柱であえることが分かります。

 造形芸術科をどうしていきたいかという質問ですが、この、12月6日の学園長側から出された形、方向性に対し、造形芸術科の学生の皆さんにとって幾つか心配な点があるので申し上げたいと思います。

 

―お願いします。

 

 井上:第一に、学園長と事務室が進めているこの計画、他校斡旋について、造形芸術科研究室の講師、副手は誰も関与していません。

 

―そうですね。柴田先生以下、どなたもご存じなかったようですし、私たち副手も同じく寝耳に水でした。

 

 井上:第二に、説明会に配布された「田中千代学園」の資料では、4日制、2日制の新設課程とその募集定員という入れ物は分かりましたが、その内容、どのような指導スタッフがどのような授業をするのかが何も書かれていません。事務室長によれば「私達もまだ何も決まっていないので分からない」とのことでしたが、私達が何か商品を購入するときに、外見だけでなく性能も十分に検討しますよね。

 

―おっしゃるとおりです。

 

 井上:第三に、配布された資料では、田中千代学園の来歴について、1972年町田市に田中千代学園短期大学の開設までしか書かれていません。しかし、学生から指摘され、自分もインターネットで調べましたが、ウィキペディアによれば、2010年3月末でこの短大は閉校しており、現在同法人が経営する教育機関は専門学校田中千代ファッションカレッジのみです。さらに、2009年に学校職員から労働審判、2012年には卒業生に学校側の債務不履行を巡って訴訟を起こされています。これにも驚きました。確かにこれを資料に掲載したら、田中千代学園の印象は悪くなるでしょう。でも、この点について、丸亀学園長は誰よりもご存知だと思うので、事実は事実として説明するべきだと思うし、この部分をあえて掲載せず、配布するという行為、そしてその後は個人面談で進めるという密室性の中、学生の皆さんにとって、不利益にならないようにと祈るばかりです。(学生より質問が無かったから、あることについては話さなかった、と言ったような)

 

―不利な話は書きたくないのは分かりますが、隠されている情報がある方がむしろ不安ですよね。

 

 井上:その通りです。第四に、配布されたアンケートについてです。私は今年度4月より渋谷の田中千代学園の一室を借りているオープンセミナーの授業のために定期的に出向いています。確かに、渋谷と原宿の中間の立地、建物も築20年と、今の学園と比べ素敵な校舎であることは認めますが、洋裁学校のため、筆洗用の水を流す場所が教室にはないのです。建物内には3階まで水回りがなく、4階に洗い場があるだけです。教室は1階なので、外の駐車場脇の清掃用水場よりバケツで水を汲んで対応しています。

 また、私のセミナーは木曜午後で、長谷川先生とも話しているのですが、田中千代学園の学生をほとんど見かけません。早い時点で、この学校は学生数が少ないので、教室を学園のオープンセミナーに貸してくれたのだという事が理解出来ました。

 この2点から次の事が言えます。現在の田中千代学園は、平成30年以降、「260名近くの武蔵野美術学園生を、わざわざ新設課程を作って入れる空間が、既にある経営状態の学校」と想像出来るわけです。また、美術学校の実技が出来る教室には、流しは各階にそれなりの量が必要で、「設備を新たに作らなくてはならない」ということです。

 そのために田中千代学園側としては、新課程を開設するか否か、ある程度の入学見込み人数を早く知りたいのではないでしょうか?そこで、皆さんに配布されたアンケートの結果が重要になってくると思います。平成30年以降閉校になれば、もうバックに武蔵野美術大学はありません。今度は田中千代学園の経営陣が学校運営にあたります。武蔵野美術学園閉校にあたっての救済措置や慈善事業ではないのです。確実に営利的判断が重視されると思われます。そして、経営コンサルタントである丸亀学園長が田中千代学園にどのように関わるのかも充分に考慮し、アンケートに対応して頂きたいと強く思います。

 質問の趣旨とは少し離れてしまったかもしれませんが、今、専任、造形芸術科の主管補佐としてというより、一人の講師として、造形芸術科の学生の皆さんに申し上げたいことをお話しました。

 

―有難うございました。それでは、学園廃校に関して、なにかコメントがあればお聞かせ下さい。

 

 井上:武蔵美の大先輩に、廃校の件をお話しした時「武蔵美は最初の帝美(帝国美術学校)の時からいつもずっとゴタゴタしているんだ。井上君、足を突っ込まない方がいいよ。それよりも絵を描いた方が」と、言われました。この事態は、武蔵美創立の時からのお家芸だったのか、と!!

 武蔵美は、私立の中でも経営良好と言われ、創立88年[1929(昭和4)年創立]を迎える大きな組織です。今年度4月の入学式後の廃校説明会で、木村常務理事が「通信教育部の都心への移転を考えていて、吉祥寺キャンパスはその資金作りのために売却も選択肢にある」と明確に発言がありましたが、土地売却と学園廃校は深く結びついていると思います。既に吉祥寺キャンパスの土地は資金作りの担保物件になっているか、数年後の売却の契約が済んでいるかも知れません。

 私の恩師・塩出英雄先生(名誉教授・4代目学園長)、私の父・井上孟(帝美卒・通信教育課程講師)の二人とも、この吉祥寺キャンパスで学び、創立から6年後の1935(昭和10)年の上野毛移転の分裂騒動(同盟休校事件・多摩美の創立)では、塩出先生は除名処分(後に無効になった)、父の下宿は一時反対運動の事務所になりました。今回の売却を知ったら、大変悲しむでしょうし、生きていたら都心移転反対の急先鋒を担ったと思います。そのような先輩たちの気持ちを思うと、私は学園の廃校と吉祥寺キャンパスの売却両方に強く反対です。このことを全武蔵美関係者、小平キャンパスの学生、そして学園も含め吉祥寺キャンパスで学んだ学生の皆さんに私が話せる情報、疑問、心配をお話ししたいと思います。

 研究室の参考図書「武蔵野美術大学60年史」を読んでいると、どこかで聞いたような話が、読めば読むほどに現在の吉祥寺キャンパスで生じていることとダブってしまうのです。

 廃校説明に来られた木村理事は、学園に2日制があり、2年の就学で本科1年分と同等になること、本科、2日制ともに、基礎、専門、研究の3課程あることも知らなかった、と言われました。そのような方々が、本当に正しい情報に基づいて、学園の廃校についてきちんと議論して決定されたのでしょうか。6代目の磯辺辰夫学園長が、情熱を持った学生が多くいた夜間部を就任後すぐに廃止されたときも、是非現場を見てとの懇願を無視されたことを思い出します。学園廃校と深く関係している吉祥寺キャンパス売却は、校舎の老朽化とかバリアフリー化が不可能だからというような理由ではなくて、通信教育部の学生数の落ち込みと関係があると思います。でも、都心に移転すれば通信の受講生が増加するという保証はどこにもないし、借金だけが残る可能性もあります。その責任は誰が取るのでしょうか。きっと誰も取らないし、取れるはずもないと思うのです。そんな中、学園だけが犠牲になるというのは悲しいことです。

 自分は大学院修了後、すぐに武蔵野美術学園に勤務しました。41年、武蔵美に関わってきましたので、恐縮ですが偉そうに申し上げたいと思います。本来、武蔵美は「三本の柱」を大事にしてしっかりやっていくべきです。その三本の柱、「大学、通信、学園」の内、学園を失うわけですが、大学は少子化の影響で受験生が激減し、通信教育は4年制発足当初の4500人から現在は2000人と減少しています。これからの高齢化社会、そして多様な選択肢が望まれる社会の中、それに対応した学校である学園こそを、大切にしていかなければならなかったのではないかと思うのです。

 廃校を決められた理事の皆さんひとりひとりに伺いたいのは、ご自身の定年退職後、生涯学習として何かやりたいことを見つけておられますか?ということです。もし、「まだ何も」とお答えになるなら、それは、「生涯学習希望者」を甘く見ていると思います。学園に来ている多くのご年配の方は、若い頃からずっと「絵を描きたい」「美術に関わりたい」というプランを持ち続けている方がほとんどです。また、いろいろな事情で、美術以外の専攻に進学したり、就職してから、どうしても美術がやりたくなった20代、30代の方も大勢いらっしゃいますが、自分で学費を貯め、覚悟を決めて仕事を辞め、学園に来ているのです。いずれの方も、美術に対する情熱や、学習意欲が他では考えられないくらい高いのです。そして、その夢を実現させている老若男女が、半世紀にわたって途絶えることなく、毎年200人以上いて、学園はそれに応えてきたということです。その方々とその歴史を、美術教育を生業にしている武蔵美が、切り捨ててしまって良いのでしょうか?

 思えば、学生二十数名から始まった帝国美術学校、創立直後の多摩美との分裂騒動や、短大開設時の学生と経営陣との摩擦など、法人の学生への対応のまずさは、武蔵美の体質なのでしょうか、いや、このような組織、構造からくるどこにでもある事なのでしょうか。悲しくなる部分はあるのですが、ひとつ言えるのは、ギリギリのところで、先生方も学生達も美術を学べる場を必死の思いで作り、発展させたいと続けて来たということです。それを熱い思いと言ってしまっては、きれい過ぎるのですが、物や施設がなく、お金もなかったのですから、やはり情熱だと思います。今のこの学園廃校、吉祥寺キャンパス売却のことを思うと、豊かさ本体が巨大になってしまった大学関係者の、手を汚さない、めんどうなことにフタをしてしまって逃げてしまう、40年近く前まで武蔵美の先輩達が持っていた情熱も必死さもない、とても安易な結論と行動だと強く思います。自分も武蔵美のひとりとしてこの問題に一体何ができるのか?自問自答して行くしか今はありません。

 

―井上先生、お忙しいところインタビューにお応え頂き有難うございました。これからも学園と造形芸術科を宜しくお願い致します。

 

 

〈インタビューを終えて〉

井上明敏先生、どうもありがとうございました。前後編に分けて大ボリュームでのインタビュー、お疲れ様でした。 先生の作家としてのルーツをお聞きすることができて、大変興味深かったです。また帝国美術学校としての成り立ちから、武蔵野美術学園に至る今日まで、先生が見てこられたこの学園の歴史は、とても貴重なものであったことがわかります。井上先生、これからも宜しくお願い致します!

 

 

〈インタビュー後、井上先生から以下の文章を頂きましたので、掲載させて頂きます〉

 

 前篇、後編と読んでいただき感謝です。最後に私の恩師で前篇にも登場しました4代目塩出英雄学園長(1912-2001)の、ある年の学園卒業式の祝辞を載せてこのインタビューを締めくくりたいと思います。

(中略)奥村土牛先生(1889-1990・101歳没)が、この99年の修行の結果、「やっと、自分の思っていることが、自由自在に描けるようになった」といわれていますけれども、絵の修業というのは困難で、大変奥深いものであります。これを持続して続けていくという事がいちばん大事なことで、道元禅師のお弟子さんたちの学問をすることについての心得というものを書いたものがありますが、それにも、「怠けず続けていくことよりない」といっています。また、釈迦が入滅する前、「いい遺すことないか」と弟子がいったときに、やはり釈迦も「怠らず励め」の、ただそれだけであります。弘法大師は、「ゆめゆめ怠ることなかれ」ということを遺言としています。

すべてのこの仏教の悟りの境界にいるにしても、また絵の道を極めるにしても、いずれも持続して追求する他にはないと思います。今日、皆さんが一応卒業・修了されても、これでいいというものではございません。これから、今日から、改めて画道の深奥(しんのう)を極めるためにも、いっそう終生の勉強を続けていただかなければいけない。健康に注意して、大成されるようにお祈りして(後略)塩出英雄先生聞記「如々庵随聞記」有川文夫:著より

 

カテゴリー:先生へのインタビュー