「よろしければご試着していただけますので」
私たちはこの言葉に、今までどれだけ苦しめられて来たでしょうか。服の値段を見ようと思ってタグを探せば「よろしければご試着していただけますので」素材を確認しようと洗濯表示を見れば「よろしければご試着していただけますので」なんとなく店をふらふら歩いているだけでも「よろしければご試着していただけますので」
この心無い言葉に私たちは傷つき、時に涙し、苦渋を舐め続けて来ました。呪術的パワーすら帯びた「よろしければご試着していただけますので」は悪魔<デーモン>の言葉です。
ここ日本において、デーモンと言えばデーモン小暮閣下である、とするのは決して強引な論だと私は思いませんが「よろしければご試着していただけますので」は、閣下の格言たる「お前を蝋人形にしてやろうか」とも比肩しうるほどの威力を秘めた言葉です。
洋服屋が日本に伝来したのは明治時代。せいぜい100余年の歴史しか持たぬ洋服屋が発する言葉が、10万年を越える遥か悠久の時を生きる閣下によって、幾千もの言霊の中から紡ぎ出された「お前を蝋人形にしてやろうか」と肩を並べる時、私は畏れにも似た感情を禁じ得ないのです。
その時でした。
私は、自分の脳裏に、まさに悪魔的としか言いようの無い発想が浮かんだことを、ここで正直に告白しなければいけません。「しなければいけません」なんて言い方をすると、私が何者かに告白を強制させられているかのような印象を受けるお方もいらっしゃるかもしれませんね。でもね。その時の私にとっては、強制と同じようなものだったのです。だって、思いついてしまったのだから。人が絶対に踏み越えてはならない境界線を越えるような行いを。
「よろしければご試着していただけますので」と「お前を蝋人形にしてやろうか」
ここに今ある2つの言葉を混ぜ合わせる。
この考えが浮かんだ時の私の気持ちがあなたに分かって?私が最も忌み嫌い父の仇のように蔑んでいた言葉と、私に生まれて初めてヘッドバンギングの楽しさを教えてくれた言葉。そんな対極に位置する2つの言葉を一つに混ぜ合わせる。
つまりは「よろしければ蝋人形にしてやろうか」
その一文が頭を駆け巡った時に、私は恐怖と喜びがない交ぜになったような、これまで一度も経験したことが無い心持ちになりました。いいえ、ここまでお話をしておいて隠し立てをする必要はありませんね。恥も外聞も無く告白させてもらえば、その時の私の身体には変化が起こったのです。
有体に言えば、濡れていました。
後にも先にもそんなことは一度きりでした。私だって、もうカマトトぶるような歳じゃないのだから、決して人様の前では言えないような(そして主人には言えないような)経験の一つや二つだってあります。
でも。だからって。頭に言葉が浮かんだだけでなんて……。
私は再びショップ店員のことを考えました。いつも打ち捨てられた能面のような薄ら笑いを顔に貼り付けながら、考えなしに「よろしければご試着していただけますので」と私に近寄って来る量産型のショップ店員たち。販売ノルマを達成したいのですか?前月未達で上司から叱責されたのですか?私が、そう心の中で蔑み、愚鈍とすら思っていたショップ店員たち。モノトーンを基調としたクリーンカジュアルを、足元のニューバランスで着崩したショップ店員たち。
――もしもあの人たちが「よろしければ蝋人形にしてやろうか」と私に囁いて来たとしたら。
TOMORROW LANDのショップ店員が発する「よろしければ蝋人形にしてやろうか」には、言葉の持つ不気味さを覆い隠すような品性があるに違いない。
Ron Hermanのショップ店員が発する「よろしければ蝋人形にしてやろうか」にはカリフォルニアの太陽と海の匂いがするに違いない。
Yohji Yamamotoのショップ店員が発する「よろしければ蝋人形にしてやろうか」には山本耀司の匂いがするに違いない。
甘美……!!
なんて甘美。様々なショップ店員が発する「よろしければ蝋人形にしてやろうか」を思い浮かべては、私は自分の表情が緩むのを止められませんでした。そんな子供がするような空想ごっこを私は、ただただ続けていたのです。
いくらかの時間が過ぎた頃、私はある予兆を感じました。最初は靄が掛かるようだった空想が頭の中を去来するたび、それらがぶつかり合い、混ざり合って、人の形を成そうとしていることを。<それ>にハッキリとした輪郭が生まれ、色が付き、匂いすら感じられるほどになったころ、私はそれが何なのかに気付きました。いえ、気付かないわけがありません。だってあんなに特徴的なフォルム……。
閣下。
聖飢魔Ⅱのボーカル担当であり、悪魔教の教祖。そして私の初恋の、相手。デーモン小暮閣下が目の前に姿を現したのです。
私の前に姿を現し、グハハハハと笑う閣下は、私のことをまるで赤子を見るような目で見ながら、ふところから丸い物体を取り出して、言いました。
「ここに林檎がある」
!!!
――それはダメ。絶対にダメなやつ。
私の思いとは裏腹に、閣下は言葉を発することをやめませんでした。
そう、閣下が喋り出したのは、聖飢魔Ⅱのミサで行われる<あの掛け合い>の冒頭部分…。
「この林檎は名を紅玉(こうぎょく)と呼ぶ。しかし、青森県南部および岩手県地方では違う呼び方をするらしい」
――やめて!それ以上続けないで!
――カンペも見ずにそんなにスラスラと話さないで!これまで何度そのMCをして来たの!
「何と呼ぶか知っているか?」
閣下は明らかに私にレスポンスを求めているけれど、コール&レスポンスは、レスポンスが無ければ成立しません。だから、ここで私が無言を貫き通せば、このMCは続きません。そう思った私は歯を食いしばり、拳を岩のように固く握りました。
――耐えるんだ。
私はそう心に念じながら、時が過ぎ去るのをただじっと待ち続けました。
すると閣下は唇を尖らせ、挑発的な笑みを浮かべながら「ん?ん?」と言いながら私に一歩また一歩と近づいてきたのです。
「何と呼ぶか知っているか?」
――ダメ。言ってはダメ。
「知っているか?ん?」
――ダメ。
今や、閣下と私はキスができるほど近い距離で顔を見つめあっています。時間が止まるような感覚。私は息もせずに無限とも思えるその時間を過ごしました。
と、それまで微動だにしなかった閣下が、急にカっと目を見開くと同時に大きくを息を吸い込みました。
「紅玉のことを青森県南部および岩手県地方では何と呼ぶか知っているかー!!」
閣下は私の顔に唾を飛ばさんかと言う気迫でもって、いつものミサと同じテンションで、私にもう一度問うたのでした。
――私もう、ダメ。
「知らなーーーい!!!」
まるでそれまで豪雨に耐えていたダムが決壊したかのように、私は絶叫に似た声でレスポンスを返していました。
「知りたいかーー!!」
「知りたーーい!!」
私の口からは、霊が憑依したイタコのように無意識に言葉が吐き出されていました。
VHSが擦り切れるほど何度も見たあのやり取りが、今私の目の前で繰り広げられているのです。
「そうか知りたいか!では教えよう。青森県南部及び岩手県地方ではこの紅玉をなんと……満紅と呼ぶのだ」
……言ってしまった。であれば、私はあの反応を返さなければいけません。
「えー」「うっそー」「やだー」「ばっかー」
でも。でもまだ大丈夫。
だってただの林檎の品種の話なんだもの。青森県南部及び岩手県の方言の話なんだもの。自分を落ち着けようと、そんなことを考えていた私を嘲るかのように閣下はMCを続けました。
「男子だけに聞く。お前たちがその目の前にあれば食べたくなるもの。それはなんだ!」
……。
大丈夫、今ここには私しかいない。レスポンスを返す男性信者などいないのだから。
「思春期の頃にその存在を渇望し、今も隙あらばしゃぶりつきたいと思っているもの。それはなんだ!!」
……。
そうだ。私はただやり過ごせばいい。まだ漢字で書いている分には、林檎の品種名と言い張れる。だけど私が仮名でレスポンスをしてしまうのはダメ!その言葉を私に言わせるのはグーグル的にもはてな的にも絶対にダメ!だから私は、絶対にこの時間をやり過ごすの。絶対に。
刹那、それまで薄ら笑いを浮かべていた閣下の表情が、海から潮が引くように真顔になりました。
「それでは女性にだけ質問する」
終わった。
「諸君らが若かりし頃、大切に守り抜き、うーんあの人とあの人のどっちにしようかなーと考えた末についに捧げたもの。それはなんだーー!!」
レスポンスしてはいけない。絶対に。ここで私がその言葉を発してしまうと、各方面に迷惑が掛かってしまう。腸から出かかっている言葉を理性で抑え込むのだ。言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダメ言ってはダ
極度の恐怖と高揚と激情と興奮と悲哀に潰された私は、自分の口からかすかに漏れた「ま」と言う音に似た空気の震えを感じながら、その場で気を失いました…………SEO……不労所得……グーグル…アナリ…ティクス……。
目が覚めると私は家のベッドの上にいました。
寝巻の組下が湿っていたのは、寝汗をかいたからに違いありません。
こげ茶と黒を基調にしたブルックリンスタイルの寝室。いつもの寝室です。私の隣りでは、最近頭に白いものが混じり始めた夫が鼾をかいていました。
呑気なものね。
溜息をついた私は独りごちました。
と、壁に掛けられた時計を見上げると、すでに7時を回っていました。
――いけない!早くお弁当の支度をしなくちゃ!
私は跳ねるようにベッドから飛び起きては台所に向かい、IHコンロの電源を入れました。
今日もいつもの一日が始まるのです。
Epilogue
あの出来事は本当に夢だったのでしょうか?
あれ以来、私はそう何度も自分に問いました。でも、自問自答をするたびに、私は自分のバカな考えに呆れるばかり。
――夢で無ければ一体なんだって言うの?
その日も私は、答えの無い問いを堂々巡りのように続けながら街を歩いていました。
街には微かに春の陽気が感じられ、私はそろそろ春物の準備をしなければいけないことに気付きました。お買い物でもして気分を変えようと言う半ば後付けの理由も手伝って、私は近所のファッションビルに入り、ウインドウショッピングを楽しんだのでした。
いつも私が向かう4階のフロアをあてもなく回っていると、私はふと気づいたのです。
ビームス、エストネーション、ドゥーズィーエムクラス……いつも覗く店々が立ち並ぶフロアの隅っこに、見慣れないショップがありました。
新しく出店したブランドがあるのね。そう思ってよく見ると、そのショップはとても繁盛しており、平日の昼間とは思えない賑わいを見せていました。
――オープニングセールでもやっているのかしら。
私は高鳴る気持ちを抑えきれずにショップの入り口をくぐり、お店のエントランスに置かれた平台に並べられたボーダーのカットソーを手に取ったのです。
すると、私の様子を見た男性の店員さんがすかさず近づいてくるのが、気配で分かりました。ここもすぐに声を掛けてくるタイプのショップかと思った私は、ずっと気づかない振りをするのもバツが悪く、その店員さんの方に顔を向けました。
――またいつものあの接客をするのでしょ。
半ば諦めの気持ちを込めた私の予想とは裏腹に、その店員さんは私の横を通り過ぎるではありませんか。
……声を掛けない?
そう思った矢先、私の耳元で小さく囁く声が聞こえました。
「よろしければ蝋人形にしてやろうか」
そう囁いて、店員さんは、そのままお店の外に出ていきました。名札に小暮と書かれていたように見えましたが、それが錯覚や見違いだったのかどうかを確かめることが、その時の私にはできませんでした。
あれから3年の月日が流れましたが、その後、何度あのショップに足を運んでも、小暮という名札を付けた店員を見ることはついぞありませんでした。
今も私は主人と二人、この街で生きています。