日本サッカー協会元会長 岡野俊一郎氏死去
日本サッカー協会の元会長で、2002年のワールドカップ日韓大会の成功に尽力した岡野俊一郎さんが、2日、肺がんのため都内の病院で亡くなりました。85歳でした。
これは、日本サッカー協会が明らかにしました。岡野さんはサッカーの元日本代表選手で、引退後は日本代表のコーチを務め、1964年の東京オリンピックでは日本のベスト8進出、1968年のメキシコオリンピックでは日本サッカー界初となる銅メダルの獲得に貢献しました。
その後は、日本代表の監督も務めたあと、1998年には日本サッカー協会の第9代会長に就任し、2002年のワールドカップ日韓大会の成功に尽力しました。また、IOC=国際オリンピック委員会の委員として日本のスポーツの振興にも力を注ぎ、2012年には文化功労者にも選ばれました。
サッカー協会によりますと、岡野さんは胸に悪性の腫瘍が見つかり、療養していましたが、2日午後11時前、都内の病院で肺がんのため亡くなったということです。
その後は、日本代表の監督も務めたあと、1998年には日本サッカー協会の第9代会長に就任し、2002年のワールドカップ日韓大会の成功に尽力しました。また、IOC=国際オリンピック委員会の委員として日本のスポーツの振興にも力を注ぎ、2012年には文化功労者にも選ばれました。
サッカー協会によりますと、岡野さんは胸に悪性の腫瘍が見つかり、療養していましたが、2日午後11時前、都内の病院で肺がんのため亡くなったということです。
田嶋会長「世界に扉を開いている方」
日本サッカー協会の田嶋幸三会長は、去年11月に入院先の病院で岡野さんと話をしたということで、「これまでのサッカーの話やこれからのこと、いろいろ話を伺いましたが、ご自分の死期を意識されているような話しぶりで、一抹の寂しさを感じました」とコメントを出しました。
そのうえで、「若いころ、サッカーの勉強をしていると、必ず、岡野さんが訳された文献にあたり、岡野さんのお名前を見るたび、日本サッカーの国際的な窓口であり、広く世界に扉を開いている方だと思っていました。心からのご冥福をお祈りします」とコメントしています。
そのうえで、「若いころ、サッカーの勉強をしていると、必ず、岡野さんが訳された文献にあたり、岡野さんのお名前を見るたび、日本サッカーの国際的な窓口であり、広く世界に扉を開いている方だと思っていました。心からのご冥福をお祈りします」とコメントしています。
川淵最高顧問「日本サッカーの誇り」
岡野さんの次にサッカー協会の会長に就任した川淵三郎最高顧問は、日本サッカー界初の外国人コーチで、「日本サッカーの父」と言われるデットマール・クラマー氏の通訳も務めた岡野さんの姿を紹介し、「東京オリンピック、メキシコオリンピックともにクラマーさんの教えはすべて岡野さんを通じて、われわれ選手に伝えられました。そういう意味で、『日本サッカーの伝道師』と言えるでしょう。日本サッカーの誇りと言うべき方でした」というコメントを出しました。