1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得したサッカー日本代表のコーチを務め、国際オリンピック委員会(IOC)委員、日本サッカー協会会長などを歴任した岡野俊一郎(おかの・しゅんいちろう)さんが2日、肺がんのため死去した。85歳だった。
東京都台東区出身。生家は明治初期創業の老舗和菓子店「岡埜栄泉」で5代目社長を務めた。都立小石川高から東大でFWとしてプレーし62年、日本代表コーチに就任。英語、ドイツ語に堪能で、後に「日本サッカーの父」と呼ばれた西ドイツ人コーチ、デットマール・クラマー氏の通訳も務め、技術論などの指導を受けた。
64年東京五輪では長沼健監督を支えて日本代表のベスト8進出、メキシコ五輪ではサッカー界初のメダル獲得に貢献した。70~71年に代表監督も務めた後、国内外の豊富な人脈を買われ、日本オリンピック委員会(JOC)理事に就任した。
旧ソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議する米国に同調して日本が80年モスクワ五輪をボイコットした際は、JOC総務主事として柴田勝治委員長を補佐。JOCが財団法人化された際には中心的役割を果たし、専務理事も務めた。90年にはIOC委員に就任し、98年長野五輪招致などにかかわった。
98年、長沼会長の後任として日本サッカー協会会長に就任。史上初の共催となった2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会の成功に尽力した。サッカー情報番組の草分けとして68年に始まった「三菱ダイヤモンドサッカー」の解説者としても親しまれた。12年、文化功労者に選ばれた。