人々の間で情報が円滑にやり取りされることの価値を重く見た判断というべきだろう。

 検索サイトに約5年前の逮捕歴が表示される男性が、その削除を求めた仮処分事件で、最高裁は訴えを退ける決定をした。

 容疑は児童買春という強く非難される行いで、今なお公共の利害にかかわる。最高裁はそう指摘したうえで、このケースでは、削除してプライバシーを守る利益が、検索結果が提供される必要性を明らかに上回るとはいえないと結論づけた。

 注目すべきは、決定が検索サイトを「情報流通の基盤」と位置づけ、「検索結果の提供は事業者自身による表現行為の側面をもつ」と述べたことだ。社会インフラとしての同サイトの意義を評価し、検索結果の削除に高いハードルを課した。

 この判断は一方で、事業者に大きな責務を負わせるものということもできる。

 検索結果を提供する行為も、憲法が定める表現の自由のひとつの形態として、一定の保障を受けることがはっきりした。そうであれば、正当な削除要請には、これまでにも増して誠実に対応しなければならない。

 グーグルやヤフーなどの事業者は、決定がもつ意味をよく理解し、公共財として、より適切な運営を心がけてほしい。

 今回の事件は、さいたま地裁が15年に「人は『忘れられる権利』をもつ」との判断を示し、削除を命じて話題になった。だが最高裁は言及しなかった。

 忘れられる権利は欧州で生まれたが、国内での議論は深まっていない。公人の犯罪歴や不適切な言動をはじめ、たとえ本人の望みに反しても、社会で共有すべきものは少なくない。

 権利として認めた場合、どんなメリット・デメリットがあり、世の中にいかなる影響が及ぶか。具体例の集積や学説の進展を見ながら、慎重に考えを固めていくべき事柄だろう。

 名誉やプライバシーの保護と表現の自由との調整は、長年の難しい課題だ。ネット時代に入り、悩みはますます深い。

 忘れてならないのは、民主社会の維持・発展には人々が自由に情報を発信し、アクセスできる環境が欠かせないということだ。今回の最高裁決定が改めて示すところでもある。

 このおおもとを押さえたうえで、うそのニュースやヘイトスピーチのように民主主義の土台をゆるがしかねない情報や、他人の人格を不当に傷つける表現行為は、市民が主体的にチェックし、取り除いていく。その地道な積み重ねを大事にしたい。