※みんな知ってるけど書いちゃうね。
あれは「僧」だからなのです。
野球部に入ることは野球社会に入ることであり、俗世と縁を切ることである。高校生であれば、家から出て合宿所に暮らす。十代なかばで家族とことなる生活を営む。
野球部員同士で同じ釜の飯を食い、同じ湯に浸かり、同じ時間帯に布団を敷いて寝る。
同じ釜で炊いた大量のご飯を食す。米飯を異に詰め込む。
この環境は強豪校育成に不可欠である。「還俗」すると野球は不可能なのだ。
そしてこのシステムは実は全部日本の仏教僧育成システムと同じなのである。
仏教は厳しく、野球も厳しい。仏教は人の死をみて「○○さんに教えてもらった」「○○さんが自分に諭してくれた」と、死んだ人物の魂の救済よりも生きている我々へと波及する効果について語るのだが(この部分、キリスト教と全然違いますね)
野球も同じである。あの競技はくそ暑い中「水も飲まずに(※前世紀)」ピッチャーとか何イニングも投げて故障して、毎回敗退する県が出て、白いユニフォームが泥で汚れて、休み期間なしで決勝に行くほど毎日の試合になって、
あれが冷暖房完備の室内球場で涼しい顔で行われていたら私たちは「何か違う」と感じているだろう。
甲子園球場は東京ドームではない。東京ドームと同じ構造にする予定もない。そういうことなのである。
※仏教は厳しいです。天国を想定しない。「できるやつはできる。できないやつはできない」で終わってしまう。救済はない。身も蓋もないのである。しかもできないのは実行者自らに責任があるからである(できないやつはできないやつそのものに責任がある(←これは因縁の渦中にある人々にはそうとは言えないのだが・・)。
一度知ってしまったら縁を切れない。知ることは関係を持つことである。つまり責任を持つことである。
俗世間では「因縁(因と縁。因は当該素子が外部に作用を与える機能を持つことであり、縁はその素子が他の素子と空間的・時間的に接触する機会を持つことである)」により支配されるのだが、サンガ(僧社会)においては、俗世との因縁を切っているので、因縁の輪廻から切れているので、とりあえず個として全部できることがスタートである。
違うよ。毎日砂や泥で汚れるので髪伸ばしてたら洗うのが非常に面倒くさいからだよ。