SS自作スレまとめ/とある天使の灰姫遊戯(シンデレラストーリー)/第四章

第四章 羽ばたく者たち Cinderella_March



 最近あてにならなくなったと噂の学園都市の天気予報。

 美人のお天気お姉さんが笑顔で伝える週間予報は、ビーズのアクセサリーみたいに「晴」のマークを並べていた。

 当たればいいな、と土御門舞夏は思う。

 その日、その時のために一生懸命に頑張ってきた人達のことを、彼女は知っていたから。

 ふと目に入った、盗聴受信機の隣に置かれている亀形卓上デジタル時計が、相も変わらずのん気に表示する日付は、

「あさってからかー」

 学園都市統括理事会主催、全学園都市所属校参加の長大規模文化祭、『一端覧祭(いちはならんさい)』。

 開催は明後日に迫っていた。





 生粋の学園都市っ子である(らしい)上条当麻には記憶喪失を抜きにしても実感の湧かない話なのだが、吹寄制理ら中途編入組が言う所によると、どう見ても普通平凡でしかないこの高校も少なからず学園都市所属校でしかありえない特徴を持っているらしい。

 一例を挙げるなら、今彼らがいるこの体育館もそうなのだとか。

 奥のステージや両サイドのバスケットゴールなどの設備はさして変わらないのだが、まず広さが違う。小規模な能力演習などを行う都合上、床は「外」の一般的な物と比べて1.5倍は広い。また建材も遥かに頑丈な物になっているのだが、これは学園都市内のほぼ全ての建築物がそうであるため割愛する。

 この広いスペースのおかげで大勢のお客さんに見てもらえる、とは吹寄と小学校からの付き合いだという言祝の弁だ。

 そう、舞台演劇「シンデレラ」は、この場所で行われる。

 とっぷりと日が暮れた放課後。上条達演劇班のメンバーは、本番同様の舞台を使った立ち稽古のために体育館に集合していた。

 演劇練習もそろそろ大詰め。各人最終調整の段階に入っている。

 居残り上等。今夜は寝かさないぜダーリン、な意気込みでやってきた上条当麻だった。

 のだが。

「………………つーか、おかしいだろ絶対! どうして俺が並べてんだ観客席用パイプ椅子を一人で倒置法!」

「ですー。上条ちゃーん、小萌先生もちゃんと手伝ってますよー?」

「ああすいません言い直します。――どうして俺が並べてんだ観客席用パイプ椅子を四捨五入して一人で倒置法!」

「上条ちゃーん! 小萌先生が四以下ってどういう意味ですかー!?」

 そんなこと言われてもナー、と上条はそっぽ向いて疲れた顔をする。彼が両手でパイプ椅子を四つ運んでいる間に、小萌先生は両手で一つをえっちらおっちらと抱えているのだ。当麻比二十五パーセントなら四捨五入されても仕方ないと思う。

 体育館の鍵を首から紐で下げているちびっ子教師、月詠小萌はプンプンという擬音が聞こえてきそうな怒り方をしていた。生徒だけで放課後に学校の施設を使うことはできないので、自ら引率を買って出てくれたのが小萌先生だ。感謝の意は尽きないが、それでもからかわれてしまうのがこの人の人徳(?)だった。

 ふと見回せば、あんまり先生いじめるなよー、と口パクしてくる言祝と目が合った。しばらく出番はないから会場整備の手伝いでもしろと俺の尻を蹴飛ばしてくれた人の言える台詞ですか、と上条も口パクで返す。

 現在体育館にいるのは言祝栞監督を筆頭に、補充メンバーの上条達五人、素人同然の彼らを厳しくも優しく指導してくれた演劇班の先輩達が二十人くらいと、ほっぺたをまん丸に膨らませている小萌先生だけだ。

「大体、おかしいと言うのなら今の上条ちゃんの格好以上におかしいものはこの世にありません! 何なんですかその乙女の夢殺し(ドリームブレイカー)!! 新技ですか? 新必殺技ですかー!?」

「うるせえ新技とか言うな! おかしいとか見苦しいとか見たら呪われそうとかそこらへん百も承知でやってんだからいっそ褒めてくださいな!!」

「上条ちゃんの“それ”が褒めるに値するなら今日の黒板消し当番の人は人間国宝ものですー! どこの誰ですかXY染色体持ち(じゅんせいだんし)に“ドレス着せようなんて言い出したのは”!!」

 遠くの方で黒髪ショートの監督少女がこっそり手を上げた(ちなみに黒板消し当番とは、小萌先生の授業の前と後に黒板を綺麗にしておく係のこと。全クラスに存在)。



 しかし今さらそんなことを言われても本当に今さらである。上条は一割の勇気と九割の諦観で袖を通したシンデレラドレス(大)を見つめた。

 幾度も念動力による脱ぎ着せを行ったため、無理に引っ張られた布の合わせ目がほつれたりしている。特に悲惨なのが右の長手袋だ。何度着させようとしても必ず失敗してしまうので、自然と酷使させられたのだ(幻想殺し(イマジンブレイカー)のことは一応説明したが無視された)。

 椅子並べの作業には邪魔になるので長いスカートは捲り上げられ布の紐でまとめられている。下に履いているのは体操服の短パン。極めつけは頭にかぶった馬の着ぐるみの頭部(のみ)。

 まさしく生きた人外魔境。街に出るだけで警備員(アンチスキル)に射殺されても文句が言えない程の不条理の塊である。一人(四捨五入で)で働かなければならないのも当然だ。こんなもん誰も係わり合いになりたくない。乙女の夢殺しは上条が今まで経験した不幸の中でも十指に入ることだろう。

「でもまあ今回は俺だけの不幸じゃねえぞ。俺みたいな野郎に何度も何度もドレスを着付けなきゃならなかった演出効果の奴らも道連れさぁ! く、くく、くはははははははははははははははは!!」

「あああ。上条ちゃんがどんどん後ろ向きに壊れていっているのですよー」

 教育に携わる者としてどう対処すればいいのか、でもやっぱりこれ以上あれと関わるのは自分も嫌だ、などと小萌先生の心境は揺れ動く。誰かに助けを請おうにも、神すら見捨てた理不尽空間にあえて踏み込もうとする猛者はいない。

 ――いや、いた。

 体重の軽さを感じさせる足音を引き連れて、命知らずな天使様がやってくる。

「問一。手伝うか?」

 言わずと知れた我らが主役(プリマ)、サーシャ=クロイツェフのご登場である。

 ロシア人シスター改めロシア人女子中学生(偽)は、舞台上で着替えなければならない都合上、インナーとしてバレエの練習用のレオタードを身に着けていた(提供者は土御門舞夏。兄に贈られた物だが結局一度も使わなかったらしい)。本番ではこの上にみすぼらしいワンピースや例のドレスを着ることになっているのだが、今はぶかぶかのジャージを羽織っている。

 上条はサーシャよりもむしろ袖が余り気味なその上着の方を見て、

「手伝ってくれるのも嬉しいけど、そのジャージを返してくれた方が上条さん的感謝の念が五割増しですよ?」

「却下。これがないと体温を維持することが困難になる。それにもし返したらトーマは着替えてしまうのだろう? シオリから、ありがたいのでもう少しそのままにしておいてくれとも言われている」

「それ『在り』『難い』でイコール『珍しい』って意味ですから!」

「残念」

「誰が教えたー!!」

 思わず絶叫する乙女の夢殺し上条当麻。少年漫画に毒されつつある禁書目録に引き続き、このゴーストバスターも順調に世俗にまみれつつある。

 そこへ〔「サーシャちゃーん、そろそろスタンバイお願ーい」!〕という天の声。

「ん。――謝罪一。手伝うことは出来なくなった。申し訳ない」

「……いいけどね。何だろうあの監督から感じる地味な悪意は」

「私見一。毎度きちんとリアクションをしているトーマにも責任はあると思われる。正直シオリの思考は理解できなくもない。――ああ、そうだ」

 どした? と上条が顔を向けると、サーシャは表情変化の乏しい顔に僅かながらはにかみの色を見せて、

「着付けの練習を手伝ってくれたことを感謝する。あれほど嫌がっていたというのに。…………元々これを言おうと思って来たのだった。では」

 そのまま、奥のステージへと駆けて行った。

 上条はポカーンとその背中を見送る。

 同じような顔で横から見ていた小萌先生が一言。

「いい子ですねー」

 解釈はいろいろ出来るだろうが、上条も概ね同意見だった。

 たまたま盗み聞きしてしまった被服室での言祝との会話以降、サーシャの雰囲気は確実に良い方向に変わりつつある。

 さっきみたいな冗談を言うようになったし、今舞台に立っているのを見ても、かつてのようなぎこちなさは微塵も無い。

 そして極たまになのだが、行動宣言(コマンドワード)を使わずに話すことがある。

 インデックス曰く、「心に確固たるものを持ったゴーストバスターなら行動宣言は必要ない。ただ、そこまでに至れる者はとても少ない」とのこと。

 上条にはサーシャが何を思って言葉使いを変えたのかはわからない。けれど、もしも彼女がこの演劇を通して、彼女にとってプラスになる何かを得ることが出来たというのなら、それは結構、悪くなかったりするんじゃないかと、思ったり思わなかったりするワケでして。

 ………………………………………………………………………………………………………………………………あれ?



(――何だろう、長年かけて積み上げられてきた不幸センサーが唐突にカタストロフ級のバッドエンドフラグを感知した気がする。この直感(センサー)正直あてにならないんだけど、でも今回は違うっぽい。何か、何かキーワードみたいなもんとニアミスしたんだ。思い出せ上条当麻、ここに至るまでの己の思考を……!)

 記憶のサルベージ。しくじれば死だ。

 適当にすっぱ抜いた単語を慎重に吟味していく。

 解釈。同意見。盗み聞き。ふいんき。冗談。微塵。行動宣言。インデックス。ゴーストバスター。至れる――

 待て。

 インデックス?

 その時、耳鳴りのように遠くから響いてくる音があった。



 ――――とーーーーおーーーーまーーーー………………



 ズバッ!! と上条は首の筋を痛めかねないくらいの勢いで体育館の壁に取り付けられた大きなアナログ時計を探す。

 黒い長針と短針が指し示す時刻は、知らぬ間に午後八時を回っていた。

 首筋を嫌な汗が伝う。

「まずい……っ! 買い置きの菓子類パン類魚肉ソーセージ類を持ってしても最終下校時刻から三時間が限度だったか! しかも今日に限っては緊急時の避難場所である小萌先生の家も留守! 飢えた野獣と化した銀髪シスターが襲撃に来ることは自明の理だ! ――警報ーッ! 警報ーッ! 総員、直ちに練習を中断して近くのコンビニで食い物を買占め「とーーーーーーおーーーーーーまーーーーーーッ!!!!」

 外へ通じる扉が弾けるように開いた直後、言祝監督の音声増幅(ハンディスピーカー)もびっくりの雄叫びを伴って、猛烈な勢力を持った空腹台風一号が上陸した。





 飛び込んできたインデックスが上条を見つけるまで一秒。並べられたパイプ椅子を蹴散らして最短距離で脳天に噛み付くまで十四秒。力一杯歯を突きたててから上条の着ている服(ドレス)に気付き悲鳴を上げて飛びずさるまで三分四十五秒。いち早く事態を把握したサーシャが「説明一。彼女は私の友人です」と周囲に話して回るのに二分。女子生徒達からお菓子をお裾分けしてもらいインデックスが人心地つくまで四分。

 都合十分ほども暴れまわった末に空腹台風はようやく沈静化したのだが、着ぐるみごしに気を失うほど強く噛み付かれた上に倒れたパイプ椅子の下敷きになっていた上条が救出されたのは、練習再開からさらに二十分も経ってからのことだった。

「……どうして。どうしてこの世界は俺にばかり無闇に厳しいんだ」

「とうま、とうま。見て見てこのアメ舐めてると色が変わるんだよ!」

「やかましいわこの暴食シスターッ! またしても一瞬で皆に受け入れられやがって。てゆうかこの学校の防犯システムはどうなってんだ」

 ブツブツ言いながらも律儀にインデックスが崩した椅子を直している上条当麻だった。

 ちなみに今の服装は学校指定体操服の上下である。シスター台風の被害に遭いぼろ切れと化したシンデレラドレス(大)は芦田先輩が持って帰った。もう使う予定のない衣装を機械的に修繕しようとしていた先輩の背中には、流石の不幸マスター上条当麻も掛ける言葉がなかった。

 演劇班のメンバーの間を一巡りして戻ってきたインデックスは、両手に溢れるほどのお菓子を貰ってきていた。彼女は上条を手伝うわけでもなく、そこらへんの椅子に腰掛けてお裾分けの品に舌鼓を打っている。棒付きのアメをしゃぶり終えると、インデックスはふと気付いたように、

「とうま、とうま。どうしてサーシャがとうまの『じゃーじ』を着てるの?」

「班内最高権力者によるささやかな嫌がらせだよ」

 上条はむき出しの二の腕をさすりながら答えた。体育館というのは木張りの床や広い空間などの要素が組み合わさって、凶悪に冷え込みやすい場所である。しかしだからこそレオタード一枚のサーシャに「ジャージ返して」と強く言うことも出来ないのだが。あんなドレスでも着てないよりはマシだったかもしれない。

 インデックスはポテトチップスの袋を力任せに破こうとしながら、

「権力者って、しおりのこと?」

「ん? 知ってるのか?」

「私は一度会った人の顔と名前は絶対に忘れないもん。この前の『うちあげー』で覚えて、さっきも挨拶しに行ったよ。なんか悔しがってたけど。『もうちょっと早く来てくれれば演目変更してでもスカウトしたのに!』って」

「……あーやっただろうなー言祝なら」

 困った具合に捻じ曲がった信頼がそう確信させる。

 気になるのは、言祝にとっての『もうちょっと』がどのくらいであったかだ。まさか昨日ということはあるまいが。



「何だよ。妙な所に突っかかるなインデックス」

「べっつにー。とうまは二十四時間全国どこでもとうまなんだなって思っただけ」

「は? 当たり前だろそんなこと」

 少しだけご機嫌ナナメになった白シスターの相手をしながら、上条は椅子並べを続ける。

 その内怒りも持続しなくなったのか、インデックスは時折ステージの方に目をやって、御伽の世界を舞うように演じる赤い少女を嬉しそうに眺めていた。





 時計の針が逆L字を示そうとした頃、言祝が班のメンバーを舞台前に集合させた。

 監督少女は掌で台本をパンッと叩き、

「はい、今日の練習はこれでお仕舞いです。皆さんご苦労さまでした。それで明日のプレ公演のことなんだけど」

「待ちなさい」

 当然のように告げられた台詞に対し、吹寄制理がすぐさま聞き返した。

「栞。プレ公演なんて今始めて聞いたんだけど。明日の予定は最後のリハーサルじゃなかったの?」

 その場の全員の意思(張本人である言祝と見学者扱いのインデックスは除く)を代弁する。

 そう問われるのは予想済みだったのだろう、むしろ得意げに監督少女は言い放った。

「うん。だからそれにウチの全校生徒と招待校の代表者さん達なんかを呼んでみようかっていう話。それだけ観客がいたならもう公演と題しても、いやいやちょっと謙遜してプレ公演でーみたいな」

「予想通りの返答をありがとう私達の監督サマ」

 吹寄はジト目で呆れたように息をついた。その後を継いで姫神秋沙が挙手をする。

「でも。どうして急にそんなことに?」

 これの答えも至極あっさりと。

「いや、急にってほどでもないんだけど。ほら、私達の公演って、最終日の一回だけじゃない。自分達の出し物なり係なりの都合で見に行けなくなるのが嫌だって要望が前々からあったのですよ。やっぱり身内の人達には出来るだけみてもらいたいし、それならいっそ別の日に一度やっちゃえばいいかなって」

「それが明日っていうのは十分急な話だぞ」

 上条はボソッとつっこんだ。

 言祝は、まあまあ、と手を振って、

「で、ここからが本題なんだけど。――皆がやりたくない、出来ないっていうのなら、私も無理にとは言わない。というか、言えない。不出来な舞台をお客さんに見せるわけにはいかないもの。だからよーく考えて、そして答えてね。プレ公演、やる?」

 スイッチが切り替わったかのような真面目な顔で言った。

 どよめきが生まれる。

 全員が真っ先に胸に抱いたのは、大なり小なりの不安だった。

 余りにも急な舞台。練習は十分積んだつもりでいる。が、今日は気付いていなくても明日なら気付ける問題点がまだあるのではないだろうか。

 挙げろというのなら不安要素はいくらでもあった。

 演技は完璧か。衣装は万全か。照明は完全か。演出は万端か。

 己が為せることよりも、為せないことの方を大きく感じてしまう。

 しかし、しかし彼らは解っているのだろうか。

 もしもここで怯えて引き下がってしまったら、本番当日にも同じことをしてしまうに違いないということに。

 だからこそ、言祝は今この時にこの問いかけをあいたのだということに。

 大丈夫、きっと上手くいく――そんな言葉では意味が無い。

 必要なのは、明日の安心ではなく今日の決心。

 それを叶えられる言葉は、



「――私は、やりたい」



 聞こえた。

 金色の髪と、水色の瞳の少女。

 やれる、でもなく、やるべき、でもなく、少女はやりたいと言った。

 その言葉にうなづき、続く者がいる。

 分厚い黒マントを制服の上に羽織った魔女。

「シンデレラが。舞踏会に行きたいと望むなら。それを叶えるのは私の役目」

 さらに、樹脂素材でできたレイピアを提げた王子は、

「だったら、最高のパーティーを用意するのが私の役目ね」

 そして、馬の着ぐるみ(頭部のみ)をかぶった二人組みが、

「エスコートは」

「僕らの仕事やね」

 カッコつけた斜めのポーズのまま他人には不可聴の怪音波を受けて吹き飛ぶ。

 俺は、私は、と次から次に手が上がり、やがて気合の歓声となった。

 夜中ですよー静かにしなさーい! と負けないくらい声を張り上げた小萌先生に皆で笑う。突然の盛り上がりように半ば呆然としていたインデックスも、こっそり近づいてきた言祝に何やら耳打ちされて顔をほころばせた。

 言祝栞は思う。やはりこのメンバーにして正解だったと。

 演技は完璧か。衣装は万全か。照明は完全か。演出は万端か。

 不安は尽きない。

 しかし。

 心意気なら、満タンだ。

                    ◇   ◇



 学園都市二大祭事の一つ、全学合同大規模文化祭、一端覧祭。

 開催をいよいよ明日に控え、学園都市の全学校は授業を取りやめにして準備を行っている。

 大覇星祭のように他校と点数を競いあうといったことはないが、店の売り上げや展示の客入りが多ければ多いほど今後のステイタスになる。そのため学生達の気合の入れようはすさまじかった。

 そんな祭の直前に特有の緊張感に包まれた、ここ第七学区のとある場所にこじんまりとした喫茶店がある。

 小喫茶「かるでら」。

 「開店」の札がやや見えにくい場所にあり、時には喫茶店だと気付かれずに通り過ぎられてしまうこともあるような地味な店だ。しかし格安で質の高いコーヒーや、名物のパイに惚れ込んで足繁く通っている客も少なからずいる。いわゆる隠れた名店という奴だった。

 ただし今日に限っては近所の学校が会場校に選ばれたらしく、その準備に追われているためか昼を過ぎても客足はほとんどない。今店内にいるのはマスターとバイトのウェイター(学生。一見爽やかな好青年だがこの時間にバイトなんかしているあたりある意味で将来有望)を除けば午前中からずっといる男性客が一人だけだった。

 窓際のテーブル席に陣取って、コーヒー一杯でねばり続けているその男は、一見したところでは学生にも教師にも見えない。この街でそれ以外の人種というと研究者くらいしかいないのだが、それこそ一番似合っていない。

 恐らく二十代中盤。学生ではありえない年齢だが、教師にしては纏う雰囲気が剣呑に過ぎる。服装はどこにでもあるような秋物のシャツとズボンだが、サイズがだぼだぼだ。またネックレスには小型携帯扇風機を四つもぶら下げている上に、髪はジェルか染料で固められて毬栗(いがぐり)みたいになっている。スニーカーの靴紐はなぜか1メートルほども垂らされており、廊下側にまで出てきていた。誤って踏んでも気付かれない長さだ、とマスターとウェイターは囁きあう。

 だが、“感心はその程度で終わってしまう”。

 この街で教師にも学生にも研究者にも見えない人物がいれば、それは立派な不審人物だ。極めつけに怪しげな長袋(槍でも入ってそうな長さだ)を携えているとなれば、善良な一般市民はすぐさま警備員(アンチスキル)に通報するべきだろう。

 しかし、マスターもウェイターも全くそんなつもりになれず、「まあそんな人もたまにはいるかな」ですませてしまう。怪しさを打ち消すほど存在感が薄い男だった。

 ――正確には意識して存在感を薄くしていたのだが。完全に消し去るのではなく、最低限度に知覚させることで、駅ですれ違う人の顔のような「その他大勢」に混じることで他者に記憶させないようにする技術。

 戦闘の中よりも社会の中で効果を発揮する技である。そして男はそれを呼吸のように自然に行っている。

 謎の、そしてその謎を感じさせない男はただソファに深く腰掛けて、パラパラと一端覧祭のパンフレットをめくっていた。

 彼が持つのは学園都市内の全会場校を網羅した完全版ではなく、第七学区に限定された縮小版である。

 それを気だるげな眼差しで眺めながら、男は誰かを、あるいは何かを待っているようだった。



 チリリリリーン……という涼やかな音が鳴った。



 音の出所は店の入り口にかけられた小さな鈴だ。こんな日に喫茶店を訪れる酔狂な客が他にもいたのか、と図らずとも店内の人間の感想が一致する。

 控えめにドアを開けて入ってきた客は、またも男性で、またも異様だった。

 身に着けているスーツは葬式帰りかと思えるほどの黒尽くめ。更に見上げるほどの巨躯であった。一人目の客も長身の部類に入るが、明らかにこの男の方が体格がいい。年齢はそういくつも違わないだろう。糸のように細められた目はどこを見ているのか定かではないが、かもし出す雰囲気は不思議と落ち着きを感じさせる。右手には大きめのボストンバッグを持っていた。



 早速暇を持て余していたウェイターが応対する。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

「いえ、待ち合わせをしていまして」

 二人目の客はちらり、と窓際の男を見る。最も瞳が見えないほどに目を細めたままなので、あくまでそれらしい挙動をしたということだが。

 ウェイターは、おかしな話もあるものだ、と思いながら黒尽くめの男を席まで案内する。

 一人目の客はパンフレットを閉じ、テーブルを挟んで向かいに座る黒尽くめの男をしげしげと眺めた。

 ウェイターがカウンターに戻ったのを確認してから、長袋の男は口を開く。

 その口調は待ち合わせをしていた仲にしては、刺々しい。

「なあお兄ちゃん。俺の記憶が正しけりゃ、俺はお前さんの顔も見たことがないんだが」

「奇遇だな。私もだ」

 拍子抜けするくらい正直な答えだった。長袋の男の眉間に皺がよる。

「じゃあ何か。男相手のナンパか。そいつぁお断りなのよな」

「これまた奇遇だ。私もそのような趣味は持ち合わせていない」

「…………、ああ分かった。喧嘩売りに来たのかお前さん」

 長袋の男の目つきがさらに険しくなる。気の弱い者なら失禁しかねないほどの殺気が真正面に放たれる。

 しかし黒尽くめの男はわずかに怯みもせずに、細められた――長袋の男はここで初めて気付いたが、彼は目を細めているのではなく完全に閉じていた――目を向けて、

「その通りだ」

 と答えた。

「単刀直入に尋ねる。ここ数日、学園都市第七学区でこそこそとよからぬ動きをしているのは貴様だな?」

「………………………………、」

「何をたくらんでいるのか知らないが、不愉快だ。即刻消え失せてもらおうか」

 断言。ファーストコンタクトが最後通告とは理不尽にも程がある。が、黒尽くめの男の表情にはいささかの冗談も含まれていなかった。

「……、」

 長袋の男は沈黙し、観察し、熟考し、

「はぁ~~」

 嘆息した。

 この上なく気だるげに、長袋の男は言う。

「お兄ちゃん。俺だってまあ、あんまり褒められたことしてるわけじゃないって自覚くらいあるのよ。でもそれを他人にどうこう言われるのはまた別の問題な訳でな。第一、“こそこそ何かやってるのはお互い様だろうに”。折角これまで見逃して来てやったのを自分から喧嘩降りかけて無駄にするかね普通」

「――ほう」

 黒尽くめの男の手が横に置いたボストンバッグの口にかかる。ほぼ同時に長袋の口紐もほどかれていたが。

「警告だけで済ませてやってもいいと思っていたが……そういう訳にもいかなくなった」

「俺はそれでも構わんのだがね。でもお前さんが俺やこの街にいらん迷惑かけようって言うのなら、放ってはおけんなあ」

「は。よく言う。どちらのことだというのだそれは」

 そこで会話が途切れた。

 瞬間、戦場が発生する。

 戦闘を望む者が複数居れば、どこであろうとそこは戦場になるのだ――



「失礼します」



 と、動きだす直前に横からウェイターの声が割って入った。いつの間にかカウンターから戻ってきていたのだろう、地面と平行にした掌の上に色々な物が載せられたお盆がある。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 爽やかな営業スマイルを向けられて、黒尽くめの男は一瞬反応に詰まる。

「あ、い、いえ。何かおすすめのようなものはありますか?」

 寿司屋じゃねぇんだから、と長袋の男が小声で言うのを閉じた目で牽制。ついでに一杯飲んだら表出てヤルぞこら、とも伝えておく。

 長袋の男は可笑しげに口元を吊り上げて笑った。了承の意味を込めて。

 ウェイターはそんなやり取りが行われているとは露知らず、変わらぬ営業スマイルで、

「そうですね。本日のおすすめはパンプキンパイとシナモンティーでしょうか。珍しい薔薇の形をした角砂糖もございます。さらには」

 お盆から水の入ったコップ、おしぼり、黒い石のナイフを順に手にとって、

「魔術師の方限定で、全身をバラバラにするサービスも行っております」

 直後。

 窓から注ぐ遠い星の光を集めて、物質分解の魔術が発動した。

 部品(パーツ)に分解され崩れ落ちるテーブルセット。

 それに巻き込まれる前にそれぞれ逆方向へ大きく飛びのいた二人の男は、床に着地するなり全く同時にこう叫んだ。

「「何者だ!」」

 瓦礫の向こう。

 爽やかウェイター――その皮を被っていた少年は石のナイフを手の中で幾度か回転させると、

「何者って、貴方達に言われる筋合いは無いとおもいますが。それにしてもおかしな話もあったものです。まさかこんな何の変哲もない店に魔術師が“三人”も集まるなんて」

 魔術師。

 その言葉に今さらながら男達の背筋が冷える。

 科学至上の学園都市の正逆に位置する世界の住人。それが魔術師だ。

 この少年“も”そうだというのか。

 だが、と長袋の男は恐怖と共に戦慄する。数時間同じ店の中に居たにも関わらず、互いの素性に自分だけが気付けなかった!

 この街にいてもおかしくない学生の身分を装っていたことを差し引いても、「魔」の気配を隠すことにかけては少年の方が上手であるようだった。

 また、ふと店の奥に目をやってみると、マスターが眠るようにカウンターに突っ伏している。さっきの魔術を目撃されることを恐れての少年の仕業だろうが、それすらも不可認の内にやってのけたとは、想像を絶する力量である。

 長袋の男は少年の『役割』を推察した。

「お前さん。暗殺者か」

「いえいえ。とっくに廃業して今はしがないスパイですよ。自分みたいな容姿の人間は、この街に入り込む分には重宝されましてね」

 ナイフの切っ先は右と左、二人の男の間を油断なく揺れ動く。

 すぐに追撃してこない所を見ると、先ほどの物質分解は連発が出来るタイプの魔術ではないらしい。あるいは制限のようなものがあるかだ。その隙に男達は己の獲物を準備する。

 長袋から引き出されるのは、波打つ刃を持った西洋風の長剣――フランベルジェ。

 ボストンバッグから取り出されるのは、小型の弓が機巧(からくり)で取り付けられた篭手。

 男達が装備を整えるのを、少年は黙して許した。余裕からかそれとも時間稼ぎのためか。

 どちらにせよ、武器を下ろさないということは、

「お前さんも混じりたいってことだな?」

「ええ。是非。……自分は静かに日々の暮らしを過ごしていきたいと思っているのに、何故かいつも邪魔が入るので少しムシャクシャしていたところです。それに貴方がたのような輩を見過ごしておくと、申し訳の立たない人が近所にいますしね」

 黒石のナイフが掲げられる。照準は少年の真正面。窓だ。

 長袋の男――もとい長剣の男は野蛮な笑みを見せて獲物を振り上げる。

「ははは。そういや俺の知り合いにもおるのよな。あんたらみたいなのを見かけたら後先考えずに殴りかかりそうなのが。祭りの前だ、余計な気苦労かけさせんよう骨を折っておくのも大人の責任かもしれんわな」

 黒尽くめの男――もとい篭手の男は静かに機巧を動かし弦を巻き上げる。

「奇遇が多いな。私の恩人もこの街にいる。もし彼が貴様らのことを知れば……いや、ここで終わらせれば済むことだ」

 そこで会話は終わった。

 刹那の後。

 閃光と白氷と烈風、三種の力で窓ごと喫茶店の壁が吹き飛ばされたのを合図に、戦場が始まった。















 さて。
 関係ない話はこのくらいにして、そろそろ本筋に戻るとしよう。




 という訳で。否も応も無く到来した一端覧祭イヴ。

 運営委員達の涙ぐましい努力によって完成した「準備作業人員振り分け表ver.最終決戦」に従い、学生達は八月三十一日と書いて「なつやすみのしゅくだい」と読んだあの日を思い起こさせる勢いで動き回っている。

 招待校の生徒達もそれぞれの出展物を持ち寄り、設営やら何やらを始めている。三角テントの屋台から教室内展示まで出し物は多種多様だ。グランドの真ん中にはとある大学の研究チームが製作した「全長五十メートルの人型ロボットの右掌」が天に向かって五指を広げている。全ての会場校にランダムに配られたパーツを合体させると一体の巨大ロボットが出来上がる、という振れ込みだが、「股間」や「左足首内バランサー」などを引き当ててしまった学校では展示するかどうかいまだに決めかねているらしい。

 さて、そんな祭り当日にも負けないほどの喧騒から取り残された唯一の場所、旧校舎一階の図書室に上条当麻はいた。

 見渡すがぎり本、ほん、HON。上から下まで固そうな革表紙で埋められた本棚の列に挟まれて、上条は生理的な恐怖を感じた。彼は自宅の本棚に漫画しか入れていない人間である。

 だがしかし、そんな上条の手には十数冊の本の題名(タイトル)が記されたメモ用紙が一枚。これら紙束のジャングルからご指名のモノを見つけ出すのが本日の彼の使命だった。

「…………鬱だ。やっぱインデックスに声かけるべきだったか」

 探し物、それも本の類であるならまさに彼女の出番だ。機動少女カナミン全話全台詞暗記なんて無駄なことに使っている完全記憶能力をちっとは有効活用しやがれと言いたい。

 しかし、上条さんちの白シスターことインデックスは現在、小萌先生に連れられて、のどじまん大会の会場を下見に行っている。何故この組み合わせなのかと言うと、ぶっちゃけ小萌先生の名前で申し込んでいるからだった。提出した申し込み用紙の隅には「共演者一名」とこっそり書き添えられているとか。

 ちなみに、インデックスが当たり前のように校内にいることについては、上条はもう気にしないことにしていた。今回に限っては安請け合いした手前もあり、小萌先生が一応の保護者という立場になってあれこれしているらしいが。

「かみやんくーん。進んでるー?」

 ふと聞こえてきた声に振り向くと、上条ともう一人をここに引っ張ってきた張本人、言祝栞が通りががったところだった。両手で古新聞の束を抱えているせいで、鼻の上の眼鏡がずれているのに直せていない。

「これからだこれから。……つーかさ、言祝。俺らってここでこんなことしてる暇あるっけ?」

「開場は他の所の準備が終わってからだし、着替えやお化粧も一時間もあれば十分だし。無理に舞台設営に付き合って怪我でもされたら、そっちのが迷惑なのですよ。どーせ他にやることないんだから、若干遅れ気味な図書委員会主催のフリマの準備を手伝ってくれてもいいでしょー?」

「フリーマーケットとは名ばかりの、利用頻度の低い余剰本の一斉処分だろうが。大体準備が滞ってたのって、お前が監督業にかまけてたからだって聞いたし。それになんだその古新聞。売るのか?」

「うん。一束百円で」

「……需要あるのか?」

「委員の先輩達によると、意外に。スクラップ用とかペットのトイレ用とかで。あと――千枚通しで突き刺しても悲鳴を上げないっていうのが裏の売り口上なんだって」

「準備だけだからな! 絶対売り子はやんねぇぞ!!」

 上条はかなり本気の悲鳴を挙げた。外部からは隔離され得体の知れない実験を日々繰り返している学園都市。ストレスのたまる奴だってそりゃあいるだろうが、千枚通しでストレス解消を図るような人間とスマイル0円したくない。

 言祝はなんでかくすくす笑いを洩らすと、古新聞の束を抱えなおしてこちらに背を向けた。

「それじゃ、しっかりねー。あそうだ。確かそこらへんにヌードフォトの図鑑があったと思うから、作業の妨げにならない程度なら読みふけってもいいよ?」

「やるかッ!」

「とにかく、主演女優も文句言わずに働いてるんだから、かみやんくんも馬車馬らしく働きなー」

 言うだけ言って去っていく監督少女。いったい何しに来たのさ。

 上条はその後しばらくメモ用紙とにらめっこしていたが、ふと言祝の最後の台詞が気になった。

「…………そういやあっちは進んでんのかな?」





 言祝が近くにいないのを確認してから、本棚の間を抜け出す。

 適当に歩き回っていると、目当ての姿は案外簡単に見つかった。

 長机と椅子が複数並べられた閲覧ブースの近く。窓の下に備え付けられた背の低い本棚の並び。ウェーブがかった金髪と赤を基調とした他校の制服は見間違えようがない。

 サーシャ=クロイツェフはそこにいた。

 床にペタリと女の子座りして、何やら背表紙とにらめっこしている。

 じっと。

 じーっと。

 じーーーーーーーーーーーっっと。

 ……………………………………………………。

 作業は進んでないっぽい。

 あまりにもにらめっこが長いので、上条は不思議というか不安になってくる。

(日本語の題名が読めない――ってことはないよな。台本は読めてるし。てことは…………手に取ることも出来ないような本だとか?)

 そんなのあるだろうかと考えて、一秒でエロい方向に思考が飛んだことに罪はないと信じたい。ブンブン頭を振って考えを切り替えようとするが、言祝ならさっきのこともあるし反応(リアクション)見たさにそんな指示を出すこともあるかもなんて思ったり思わなかったり思ったり。

「――いやいやいや、何をためらうことがある。コーコーセーの余裕を見せろ上条当麻!」

 高らかに小声で宣言し、忍び足でサーシャに近づいてゆく。

 よっぽど目の前のものに心奪われているのか、彼女が気付く気配はない。

 残り三歩、二歩、一歩の所でストップ。金髪の頭越しに本棚を覗き込んだ。

 そこには。

「……!? ま、まさかこれは……!?」

 そう、それは日本が誇る名作童話。夏の読書感想文にもピッタリの、

「『桃太郎』じゃねーかっ! ってか今気付いたけどここって絵本・児童書のコーナー!?」

「はっ」

 反射的なツッコミを入れたせいでサーシャに気付かれた。ビクゥッ! と猫のように小さな背中が跳ねる。

 赤シスターは混乱した顔でこちらと本棚を交互に見比べると、

「――――――――!!」

「待て! どこからともなく釘打ち機(ハスタラ・ビスタ)を抜くな! 図書室(こんなところ)で乱射したら蔵書が全部肉抜き加工されちまいますぞ!? ほ、ほら! 入り口横の掲示板にも貼ってあるだろう図書室利用規則第一条『本は大事に扱いましょう』!!」

「第二条。『図書室の中ではお静かに』」

「口封じ!?」

 荒ぶるゴーストバスターの射線から必死に身をそらしつつ平謝りを重ねること約十分。

 諦めたのか疲れたのかはともかくとして、サーシャは何とか釘打ち機を下ろしてくれた。

 上条は長机の下から椅子を引き出し、すがるように座りながら、

「ハァ、ハァ、ハァ……。なあサーシャ。落ち着いた所で聞くけど、お前どうして絵本の本棚見て固まってたんだ?」

「……………………、」

 女の子座りから正座に移ったサーシャはそっぽ向いて答えてくれない。さて心なしか顔が紅潮しているように見えるのは怒りゆえか、それとも。

「……まあ言いたくないのなら、無理にとは」

 重い沈黙に耐え切れず、上条は逃げるようにそう言った。

 しかし沈黙に耐え切れなかったのは彼女も同じだったようで、かすれるほどの小声で、

「……自白、一」

「自白て」

「ならば解答一。………………その、……読んでも、いいのかと」

 は? と上条は予想外の答えにぽかんとする。絵本を読みたがるサーシャというのが全くイメージできていなかった。

 もしかして懐かしいお話でもあったのかしら、と考え直すと、

「んー、まあいいんじゃないか? 仕事に差し支えない程度なら」

「問一。本当に?」

「えーと、たぶん」

 その後、問十八まで繰り返し尋ねられたが、上条が十九回目の許可を出すと一転してサーシャの表情が輝きだした。

「宣言一。では遠慮なく」

 くるりと身を回すと、彼の見る前で本棚に“両手”を伸ばし、



 ごそっ、と。

 一段丸々抜き出した。

「――――多っ!? サーシャお前そんな腕がプルプルするほど頑張らんでも! てゆーかまさかそれ全部読む気か!?」

 読欲少女と化したサーシャには上条の叫びは届かない。ロシア成教秘伝っぽい体さばきで絵本を床の上に縦に積むと、一番上にあった本を引っつかみ広げて読み始めた。ちなみにまた女の子座りになっている。

 何というか、集中力が尋常ではない。一ページ一ページを目に焼き付けるくらいに見つめ、しかし急ぐことなく、余韻を楽しむほどの時間をかけて読み進めていく。

 本職のシスターに対してこう言うのもおかしな話だが――神聖さを感じるほどだった。

 当然、上条はほったらかしである。

「うーむ……」

 居候の赤シスターの意外な一面を知り、感動だか動揺だかよく分からない気持ちでうなる上条。

 家の本棚を埋めている少年漫画にも、インデックスがしきりに勧める機動少女モノにも大した興味は示さなかったのだが。一体これらの絵本のどこが彼女の琴線に触れたのだろうか。

 とにもかくにも、上条がこれまで見てきた「サーシャ=クロイツェフ」という人物像からはかけ離れたことばかりで……………………いや、そうでもないか。

 思いつきはそのまま口をついて出る。

「サーシャ。お前、実は童話とか絵本とか大好きだろ」



 ………………………………………………………………………………………………………………ビキ。



 ロシア人シスターへの効果は抜群だ。おまけに追加症状で凍りついたように動かなくなる。

 そこへ追い討ち。

「考えてみれば当たり前だよな。喜び勇んでシンデレラの役を引き受けるような人間が、童話嫌いなわけがない。確かインデックスもそれっぽいこと言ってたし。『ロシア成教のゴーストバスターとしては一歩引かざるをえないけど、本人は好きそう』とか」

 プルプルと震える手が、ゆっくり床に置かれた鉄塊(くぎうちき)に伸びている。しかし、上条はもう脅えたりしない。

 なぜなら、たぶん、サーシャは、

「だから、最初に灰姫症候(シンデレラシンドローム)の話をした時に“怒って”たんだろ。大好きな童話の物語が悪用されて、危険な魔術の媒介にされていることが許せなくて」

「――――――――――――――――、」

 ピタ、と手が止まる。

 上条は思った。やっぱり、と。

 サーシャと初めて会った日。

 学園都市に潜む危険を語る彼女に感じた何とも言えない違和感。その正体。

 数日とはいえ共同生活をし、演劇という活動を通じてそれなりの関係を作ることが出来た今ならわかる。

 あの時、彼女は静かに怒っていたんだ。

 大好きな童話を利用し、汚して、災いの運び手に貶めたまだ見ぬ敵に対して。

『灰姫症候』と、そんな名で呼ぶことも苦しかったに違いない。

 上条にだって、そういうものはある。奪われたり傷つけられたりしたら、どうしようもないほど腹が立つであろうもの。

 例えば、土御門や青髪ピアスのような悪友。吹寄制理や姫神秋沙のようなクラスメイト。インデックスや御坂美琴のような友人。両親や、これまで知り合ってきた魔術サイドの面々も。

「思い出」のない上条当麻にとって、それらこそが自分を支えてくれる最も確かなものだから。

 きっとサーシャにとってのそういう存在が、絵本だったり童話だったりしたんだろう。

「もしかしたら、言祝にはわかってたのかもな。図書委員の勘で。だから初対面でスカウトとか無茶して――いやまあ無茶苦茶なのはいつものことか。とにかくサーシャが童話好きだって感じて、だからお前も引き受けようって思ったんだろ?」

「回答一。少しだけ、違う」

 サーシャは少し落ち着いた様子で、上条の想像を大筋で認める意味のことを言った。あくまで目を合わそうとはせずに続ける。

「補足一。私が演劇をやってみたいと思った最大の理由は、演目がシンデレラだったから」

「ん? 一番好きなお話だとか?」

「逆に問十九。シンデレラはハッピーエンドで終わる物語か?」

「えー……うん。そりゃあな」

「回答二。だから」

「は?」

 意味はわからなかったが、そう言ったサーシャは上機嫌で、あえて追求するほどのことでもないか、と上条は疑問を胸にしまった。

 再び楽しそうにページをめくり始めた少女を眺めながらボーっとする。窓から差し込む日の光があったかでああ今日はなんて平和なんだろう痛いのとか怖いのとか厄介なのとか痛いのとか面倒なのとかもないし――

 ゴス。

「なにサボってんの」

「……打撃は話しかけた後にすべきだと言い残して上条さんは落ちます」

 後頭部に何やらとっても硬くて重いものによる衝撃を受け、上条の意識は闇に沈んだ。最後にかすむ目に見えたのは、『極厚 ただそれだけのこと』という題名のハードカバー本を装備した無敵の図書委員の姿だった。

 学園都市最強の超能力者(レベル5)を右腕一本で殴り倒した男に本一冊で地べたを舐めさせた暫定学園都市最強の少女は、児童書コーナーに打ち立てられた絵本の塔と、その横で脅えたように首をすくませている金髪少女を捉え、

「ふーん」

 反応が薄いのが逆に怖い。

 これまでの経験上(主に班の男子達が叱られているのを観察していた経験)、ここは素直に謝るしかないとサーシャは判断した。

「……謝罪一。申し訳ない。すぐに片付ける」

「よろしい。あ、でもその前に」

 立ち上がろうとしたサーシャを制し、言祝は絵本の塔からさっと赤い表紙のものを一冊抜き出した。手品師か、あるいはソムリエのような手業である。

 そしてその絵本を赤い少女の胸の辺りに差し出す。

「問二十。これは」

「栞さんオススメの一冊。流石にこれ全部読まれると時間なくなっちゃうからね。今はこれだけで勘弁してくれる?」

「あ……」

 笑みと共に差し出された絵本を、サーシャは見つめた。

「……ありがとう」

「いえいえ。これも図書委員としての勤めなのですよ」

 にこにこしっぱなしの言祝の手ごと、サーシャは絵本を受け取った。

 上条は後頭部をさすさすしながら起き上がると、

「何だろうなーこの扱いの差は。俺っていつの間にか『どれだけ強烈にツッコんでもノープロブレム』なキャラになってないか……?」

 ぶつくさ言いながら女の子達の手元を覗いてみる。

 言祝が選んだのは、大きな赤い枕を抱いて眠る小さな女の子の絵が表紙に書いてある本だった。

『ぬくぬく、ぐうぐう』という題名を頭の中で読んだ時、

 つぶやきを聞いた。





「――――見つけた」





 え? という声が喉から出るよりも早く、

 ダダダダダダッ!! という炸裂音を立てて連続発射された五寸釘が彼らに近い窓を数枚まとめて破壊した。

 釘の一本一本に仕込まれた術式の効果なのだろう、ガラス片は落下するまでの間に粉末状になるまで自動的に粉砕されていく。そのため破壊の範囲に反して生まれた騒音は静かなものだった。

「な――――!」

 硝砂の降る中、上条の悲鳴は声にならない。

 何者の仕業か――そんなのは決まっている。

 何故こんなことを――そんなのは本人に確かめるしかない。

 ようやくまともな思考が出来るようになった時には、すでに遅かった。

 枠だけになった窓から二人の少女が身を乗り出している。

 正確には、金髪の少女がぐったりした黒髪の少女を抱きかかえたまま外に飛び出そうとしている。

「――っ! 待て、サーシャ!」

 叫びより速く、伸ばした腕よりも疾く、金髪の少女は飛び降りてしまう。

 ここは一階。どれだけ運が悪くても足首を捻るくらいだろうが、しかし当然金髪の少女はそんな間抜けなことはせず、人一人抱えているとは思えないほどの速度で走り出す。

 一歩目からトップスピード。二人の背中は見る見る内に遠ざかっていく。

「やばいっ!」

 慌てて上条も窓枠に足をかけた。一息に飛び降り、後を追って駆け出す。

 耳の奥に響いている、あのつぶやき。

 見つけた、と。

 あれは間違いなくサーシャの声だ。

 ならば何を見つけたのかは考えるまでもない。

 絵物語を梯子にし、災いを振り撒く呪いの魔術、『灰姫症候』。

 サーシャ=クロイツェフの本来の任務は、それを見つけ出すことだったのだから。

 偶然言祝の指先と接触し、彼女の中に『灰姫症候』が宿っていることを感じ取ったのだろう。

 魔術師ならば絶対にわかる、と以前インデックスも言っていた。

 シンデレラの物語を知る者なら、誰が宿主になっていてもおかしくない、とも。

 だけど、

 なんで、

 なんで、今日、この時に……!?

「くっそったれぇ!!」

 中庭まで来たところで完全に見失ってしまう。

 サーシャと言祝が初めて出会った場所。一端覧祭当日には休憩所として開放される予定で、準備中の今はベンチが並べられているくらいで誰もいない。

 神様の奇蹟(システム)すら打ち消せる右手を持つ少年、上条当麻は、今という時ほど運命の神(カミサマ)をぶん殴りたくなったことはなかった。

 十三年前。

 ロシアの片田舎に暮らす彫金師の夫婦が、金の髪とサファイアの瞳を持った赤ん坊を授かった。

 その子に与えられた名は、サーシャ。

 少女は両親の愛情を一身に受け、何の問題も無くすくすくと成長していった。

 しいて問題だった点を挙げるならば、幼児用の娯楽が少なかったことだろうか。

 彼女の生まれた町では昔からロシア成教の影響力が強く、特に『幽霊(ゴースト)』の発生原因に成りうる童話や迷信の類は厳しく制限されていたのだ。

 人形などの玩具も、形状、モチーフ、魔術的符号の有無など幾重にも審査がなされた物しか持つことを許されず、夜眠る前にベッドの中で寝物語をすることすらままならない。

 この村の出身者であるサーシャの母は多少の残念さを感じながらも当然のことと受け止めていたが、しかし父は外から来た人だった。そして、幼い頃両親に絵本を読んでもらったことを覚えている人だった。

 ゆえに彼はこう思った。この子には、自分が読んで聞かせてやりたいと。

 それから父は他の町に行く都合が出来るたびに、本屋を巡って何冊もの絵本を買いつけた。

 ロシア語のものはシスター達に見つかりやすいと思ったので、知人のつても頼って出来るだけ外国の絵本を求めた。

 当然書かれている文字は全て外国語だ。仕事一筋で生きてきたせいで学のなかった父には、一冊を読むために三冊は辞書が必要だった。

 それでも、父は来る日も来る日も愛する娘に絵物語を語って聞かせた。

 初めは古くからの風習を破ることへの躊躇いや世間体から否定的だった母も、だんだんと夫の想いを理解し、家事の合間を縫っては丁寧なロシア語訳を作るようになる。

 毎夜両親が語ってくれる幻想世界に、幼いサーシャは夢中になった。



 それはまるで『絵に描いたような』、幸せな家族の肖像。



 四歳になる頃には、サーシャはすっかり夢見がちな女の子になってしまっていた。

 ガラスの靴を履き、ピーターパンに手を引かれ、天空の城にたどり着き、人魚やカボチャが祝う輪の中、王子様とダンスを踊る――

 一日の大半をそんな空想に費やすようになっていた。

 両親も変わらずに可愛い娘を愛していた。

 そして、サーシャの五歳の誕生日。

 両親が死んだ。

 サーシャが殺した。



                   ◇   ◇



 すれ違う人の体に触れぬよう、触れられぬよう、注意して走る。

 腕の中、気を失っている少女の顔は安らかに眠っているようにも見えた。

 しかし、サーシャは覚えている。ガラスを砕いた時と、当身を入れる寸前の二度、少女の表情が恐怖に歪んだのを。

「……お父さん(パーパ)みたいには、いかないね」

 感傷は一瞬。それ以上は、心が耐えられない。

 もう二度と、父が自分を寝付かせてくれることはないのだから。



                   ◇   ◇



 誕生日プレゼントは新しい絵本だった。

 主人公が悪い竜や魔女を倒し、恋人と結ばれるというありがちなストーリーだったが、この絵本ではお姫様側が主人公で、助けられるのが王子様だった。

 イラストのお姫様がちょっぴり自分に似ている気がして、サーシャはその絵本をとても気に入った。

「めでたしめでたし」と父が言って、物語は終わったが、サーシャはまだまだ物足りない。母に読んでもらい、もう一度父に読んでもらい、二人で同時に読んでもらい――

 そして、お姫様が五回目の魔女退治に挑もうとしている時、

「あれ?」

 ページをめくってくれていた父の手が止まっていた。

「パーパ? どうしたの?」

 幼いサーシャは背後の父に振り向いた。

 その時、彼女は父が組んだ胡座の上に座っていた。父の大きな腕に抱かれていると、吹雪もおばけも怖くなかった。

 ――あかい、にじ?

 真っ赤な、気が遠くなるほど真っ赤な円弧が空中を横切っている。

 最初はワインの栓が開いたのかと思った。

 次は手品かと思った。

 ぐらっ、と父の体が傾いで、ようやく、



 おびただしい量の血液が、父の首から噴き出しているのだとわかった。



「ひっ」

 悲鳴は喉の奥で詰まり、外には出てこない。

 仰向けに倒れた父の膝から転がり落ちても、まともに息をすることもできなかった。

「……ひゃっ……はっ…………お、おくすりだっ。ほうたい、まかなきゃ! マーマ! マーマ!」

 流出した血液は致死量をとっくに超えていたのだが、五歳になったばかりの子供にそれを判断できようはずもない。

 膝小僧をすりむいた時や、はさみで手を切ってしまった時のように、母が薬を塗ってくれれば大丈夫。

 そう思った。

 けど。

 ――ドサッ。

 小麦粉の袋が床に落ちるような音。

 見ると、服の胸の部分を深紅に染めた母が倒れていた。

「……マーマ?」

 返事はない。

 ――もう。

「マーマ! マーマ! パーパ! パーパ!」

“それ”を理解できない幼子は、幾度も幾度も物言わぬ両親の肩を揺らす。

 怖い、とか、悲しい、とか、そんな単純な感情さえ湧いてこなかった。

 あまりに唐突で。

 意味が分からなくて。

 泣くことも出来ない。

 ねえ、どうしたの?

 なんで起きないの?

 疲れてるの?

 そっか。わたしが何回も絵本を読んでとせがんだから、二人とも疲れちゃったんだ。

 じゃあわたしも寝よう。

 明日になったら、きっと元気になってるよね。

 また絵本を読んでくれるよね。

 わたし、この絵本とっても気にいったよ。

 パーパ。マーマ。

 大好きだよ。

 そうして壊れかけた心を抱いて、眠りにつこうとしたサーシャは、

「………………え?」

 見た。

 部屋の中央。

 誰もいなかったはずの場所に、たたずむ人影。

 夜の闇より暗い黒衣。

 手には肉を切るのに使うくらいの大きな包丁。

 赤く塗られた刃。

 まるで絵本の中から抜け出したかのような、「悪い魔女」の姿を――



                   ◇   ◇



 走って、走って、走って、着いた。

 校内で唯一、邪魔が入らずに魔術が行える場所。

「――ふう」

 少しだけ肩の力が抜ける。

 何とか『灰姫症候(シンデレラシンドローム)』を逃がさずにここまで来れた。サーシャの魔術師としての感覚が、自分と言祝の間で交互に転移を続けている存在を感知している。

 後は予定通りに――――

「………………っ!」

 目の前に“何か”が立っている気がして、サーシャは首を跳ね上げた。

 しかし、確かに“何か”がいたはずのそこには、ただ氷のように冷たい風が流れているだけだった。



                   ◇   ◇



『幽霊』は人間を殺さない。

 これは魔術世界では常識として知られている事柄だ。

 当然と言えば当然だろう。外からの認識によってのみ存在を維持できる『幽霊』が観測者を殺すということは、比喩でもなんでもなく身を削る行為だ。

 しかし、だからと言って彼らが無害な存在であるという訳では決してない。

 逆説的に、“彼らは自分を広めるためなら殺人以外はなんでもするのだ”。

 家具や建物の破壊、それらによる負傷者の発生はとても軽んじられるものではない。少し知恵をつけた『幽霊』ならば、あえて半死半生で見逃し、自分の恐ろしさを大勢の人々に伝えさせることもする。

 その中で、『幽霊』の目的に関係なく死者が出る事態になることも珍しくない。大体は、パニックという形で。

 ゆえにロシア成教『殲滅白書(Annihilatus)』は三大十字教宗派最強の誉れ高い物理威力を持って、日夜彼らと戦っているのだ。



 閑話休題。



 常識には必ず抜け穴があるものだ。

『「幽霊」は人間を殺さない』ということについても例外ではない。

 彼らによる能動的な殺人が行われるケースが、たった一つある。

 その『幽霊』が“成体”となっている場合だ。

 数百人規模で数百年単位、誤認が凝り固まって信仰にまで昇華された場合、『幽霊』は成体になると言われている。

 成体はそれ以上の成長を求めない。むしろ、現在の純度を維持するために自分を認識していない生命体を駆逐しようとする傾向があった。

 つまりはそれが、『幽霊』による能動的な殺人が行われるたった一つのケースなのである。

 条件上、都会部よりも外界から切り離された辺境地域で発生する可能性が高く、古い土着信仰にある土地神や守り神のいくつかはこの『成体幽霊』であると判明している。

 異邦人を遠ざけ、執拗な厳罰をもって古代より君臨してきた神様の有り難みのかけらもない正体だ。

 ただ、前述した通りこれには数百人規模の観測者と数百年単位の観測時間が必要になる。

“たった一人の五歳の少女によって”同じことが引き起こされたなんて、誰も信じられなかった。

 ゆえに、半ば冗談のような形で、少女にはある符丁が与えられることになる。

 空想の中から『幽霊』を超える災厄を招く者。

 最も愛する者を最も愛する物によって失わせた愚者。

『悪魔憑き』の二つ名を。



                   ◇   ◇



 言祝の体を固い足場にそっと寝かせる。

 左手は彼女の右手を握ったままだ。まだ放すわけにはいかない。

 片手で儀式の用意をするのは面倒だが、やれないことはないだろう。

 むしろ少しくらい時間をかけたほうが、気持ちを落ち着けるのに役立つ。

 しかし、人間、落ち着いてしまうと、余計なことにまで考えが及ぶようになってしまう。

 ――ああ。

 何をしているんだろう、私は。

 今日は皆で劇をする。

 たったそれだけでよかったはずなのに。



                   ◇   ◇



 両親を失い、サーシャは天涯孤独の身の上になった。

 そんな彼女を引き取ったのは、彼女の村に駐在していたロシア成教の司祭アレクセイ=クロイツェフだった。

 サーシャ=クロイツェフ。

 それが彼女の名前になった。

 その後、当初は物盗りの犯行と思われていた両親の死が、教団の調査により実はサーシャの呼び出した『悪魔』の仕業だったとわかると、アレクセイは少女に一つの問いかけをする。

 ――ご両親の所に、行きたいかい?

 要は、これからも生きるか、ここで死ぬかを決めさせようとしたのだ。

 サーシャの親を殺した『悪魔』は、まだ彼女の中に眠っている。天賦の才によるものか、絵本に心身ともに密接して育ったことによるものか、サーシャの精神には完全な『悪魔』の設計図とでも呼ぶべきものが刻み込まれていると判明した。

 数百人数百年分の模範解答(ショートカット)だ。

 その設計図通りに天使の力(テレズマ)が組み合わさったとき、『悪魔』は現実に出現し、サーシャ以外の人間を手当たり次第に殺そうとする。

 単純な話、そんな物騒な“怪物”はすぐに殺してしまえという声がロシア成教の上の方で挙がったのだ。

 しかしそれに対して、『悪魔憑き』を貴重な能力と見て彼女を聖人に指定し、綿密に調査・研究すべきだという声もあった。

 両者の意見は永遠に平行線を辿るもの。よって、最終的な判断は『悪魔憑き』の現在の保護者である司祭アレクセイに委ねられることとなる。

 そして彼は、本人の意思をまず尊重しようとした。現在の彼女の周囲を取り巻く状況、彼女自身の危険性などをじっくりと長い時間をかけて説明した。

 心苦しくはあったが、両親の死の真実も、出来る限り分かりやすく説明した。

 だが――サーシャは、本当に、ただの五歳になったばかりの女の子だった。

 いきなりこの身に『悪魔』が宿っているなんて言われても、そいつが両親を殺したなんて聞かされても、そのせいで大人達が自分をどうこうしようなんて企んでると語られても、

 理解しきれるはずがなかった。

 でも。

 ――ご両親の所に、行きたいかい?

 死ぬ、ということが。

 カリンカの花の色に身を染めた両親に繋がることだというのなら。

 そんなのは御免だと思った。

 大好きな両親に会いたくなかったわけではない。

 だがその時のサーシャは、ただただ死ぬのが怖かった。





 少女の意思を聞き届けたアレクセイは、まず、サーシャにロシア成教内での仕事を与えることにした。

 第一の理由は、彼女の能力を調べたいと思っている連中に手出しさせないようにするため。

 例えどれだけの宗教的魔術的意味があろうとも、サーシャを功名心と知識欲に凝り固まった狂信者どもの慰みものにするつもりは、アレクセイにはさらさらなかった。先んじて責任のある役職につかせ、確かな成果を出すことが出来れば、連中も強引な真似はやりにくくなるはずだから。

 第二の理由は、サーシャの現在の状態を見るに見かねたため。

 最後にもらった絵本を抱きしめ、しかし決して開きはせずに、一日中部屋の隅でうずくまっている。誰かが言わなければ食事も摂らない。元々小柄だったのが一層やせ細ってゆく。

 無理もないことではあるが、一生そうして生きていくことも出来るはずがない。無理にでもなんでも体を動かすことが必要だった。 

 第三の理由は、『悪魔憑き』を押さえるため。

 今は姿を潜めていても、またいつどこでサーシャの『悪魔』が具現化するかはわからない。万が一の備えは絶対不可欠だった。

 シスターとしての修行は、この上ない精神修練になる。

 幸いというべきか、アレクセイの持つパイプですぐに回せる上、精神修練も出来る仕事が二つ見つかった。

 サーシャにはまた二つの道が与えられることになる。

 ゴーストバスターとなり様々な迷信や『幽霊』を打破し続けることで、『悪魔憑き』に呑み込まれない強さを求める道。

 彼ら用の武器・道具を作成する魔術技師(エンジニア)になり、「想像力」を「創造力」に転化することで『悪魔憑き』を弱めてゆく道。

 迷わず彼女が選んだのは前者だった。

 彫金師だった父の仕事によく似た魔術技師というものに心引かれはした。

 けれども。

 世界中にはいろんな迷信や童話があって、それらが『幽霊』として現実に出てきているのなら、一つくらいは“自分を救ってくれる物語”があるかもしれないと思ったから。



                   ◇   ◇



 寒い。

 震えるほど寒い。

 温もりを与えてくれるものなんて何一つない。はるかかなた、決して届かない所にしか。

 ここは幸福からの最遠点。

 そんな場所に自分は望んで来たのだと思うと、少し笑えた。



                   ◇   ◇



 結論だけ先に言えば、そんなものありはしなかった。

 殲滅白書に入り、訓練を終え実戦に出るようになって三年。

 出逢った『幽霊』はひどいものばかりだった。

 子供をさらうピーターパン。

 呪いを唄う人魚姫。

 火を点けて回るマッチ売り。

 小人も妖精も、兎も狐も、ネズミも小鳥も、花も人も、あらゆる『幽霊』は他人を傷つけて自分を広めることしか考えていなかった。

 そんな「物語」に絶望して、否定して、破壊して――繰り返し。

 次は、次こそはと意気込んで出向いて、それでも得たものは落胆のみ。

 父に読んでもらった絵本の登場人物と戦うのは特に辛かった。でもそれ以上に、読み聞かせてもらっていた時には幸福な結末(ハッピーエンド)だったお話が無残な最低の結末(バッドエンド)に変わってしまっているのを見るのが苦しかった。

 どんなに頑張っても、待ち受けているのは最悪のエンディングで。

「めでたしめでたし」と、それだけが聞きたかったのに、出来なくて。

 だから。

 そう、だから。

 サーシャ=クロイツェフは、一度でいいから、誰かに「めでたしめでたし」を言ってもらいたかった。

 幸福な結末が、見たかった。



                   ◇   ◇



「――――けど」

 気付いてしまったんだ。

 目を背けていたことに。

「私だった」

 幸福な結末を壊していたのは。

 彼女さえいなければ、両親が死ぬことはなかった。

 彼女さえいなければ、義父が厄介者を抱え込むことはなかった。

 彼女さえいなければ、『悪魔憑き』が生まれることはなかった。

 彼女さえいなければ、何事もなく今日の演劇を行うことが出来た。

「悪い魔女」は私だった。

 被害妄想と。子供の僻みと。笑はば笑え。

 きっと何があっても、どんなに頑張っても、自分はこんな風にしか生きられないのだから。





 彼女は知らない。

 はるか彼方で息切らせ走っている者がいることを。

 そんなことはないなんて優しいだけの言葉じゃない、本当の幸福な結末をくれる人がいることを。

 しかし、彼はあまりに遠く。

 最後まで間に合う奇蹟は起きずに、儀式の準備は整った。

上条当麻の右手には幻想殺し(イマジンブレイカー)なるチカラが宿っている。
それが異能の力であるのなら、超能力でも魔術でも、神様の奇蹟(システム)すら問答無用で打ち消せる脅威の能力。
しかし――胸中で毒つく。探し物には全く役に立たないチカラだ。
上条は経験上、こういう場合には足を使うしかないと分かっていた。
だが、間の悪いことに今は一端覧祭の最終準備の真っ最中。
「わぁっ! 化学部の特製染料缶がひっくり返った!」
「郷土研究会のオブジェも踏み抜かれてるわ!」
「あっちでは校長先生御用達の焼き鳥屋台が倒壊してるぞ!」
廊下も校庭も、展示や出店に使うあれこれで溢れていて、うまく間を走り抜けようとしても腕がぶつかり足がぶつかり。その度に怒られ殴られ生傷まみれになりながらもしかし上条は止まらない。
ひたすらに走る。
走る。
そうして走り続けて――いつの間にか中庭に戻ってきてしまっていた。気づかぬうちに校舎内は一周してしまったらしい。
少女達を見つけられないまま。
「はぁ……はぁ……くそっ!」
激しく動悸する胸を押さえる。
落ち着け。冷静になれ。
チリチリとうなじを焦がす原因不明の危機感を強引に飲み下す。
だがほんのわずかに温度を下げた脳が弾き出してくれたのは、『そもそも彼女らがまだ学校内にいるとは限らない』という今さらの現実だった。
思いついてしまったことを半ば後悔しながらも、上条は考える。
(小萌先生に頼んでセキュリティの記録を見せてもらえば……いやだめだ。今から先生を探して頼み込むのは時間がかかり過ぎるし、それで校内にいないってことだけわかってもあまり意味がない。第一ウチのセキュリティはインデックスにすらあしらわれるような代物だし――あ)
ふっと。
浮かんだ名前に閃きが走った。
インデックス。
サーシャと共に『灰姫症候(シンデレラシンドローム)』を捕まえる計画を立てていた彼女なら……?
上条はばたばたと制服を探り、携帯電話を取り出した。あれだけ走り回ってよく落とさなかったと小さな幸運に泣きそうになる。
ボタン一つで本体が開く。液晶に光が灯った。電話帳機能を呼び出して目的の番号を探す。
五十音順の「あ」行――を素通り。
次の「か」行をめくってめくって、ようやく見つけた。
小萌先生。
一端覧祭準備を円滑に行うために、吹寄が至急製作したクラスの連絡網の中に含まれていたのだ。しかし全員で携帯番号を教えあっている時に「あれー? 上条ちゃんは先生の番号知ってると思ったんですけどー。確か夏休みにかけてきたことありましたよねー?」「え?(何のことですか? とか言えねぇよなぁ)いやぁうっかり登録し忘れてて」「そうなんですかー。うっかりさんですねー。……あれ? そもそも上条ちゃんに教えた記憶がないような……」などという記憶喪失少年にとってはやばすぎる一幕もあったのだが。
インデックスに直接電話しても、またつながらないに決まっている。だが今日に限っては、確実に電話に出てくれる人が彼女の傍にいた。
ワンプッシュでコール。四回目でつながった。
『はいはーい。その番号は上条ちゃんですねー? 何かありましたかー?』
「小萌先生! すいませんけど緊急事態なんでインデックスに代わってください!」
『は、はいー?』
切羽詰った大声が返ってくるとは思っていなかったのか、困惑気味な声が聞こえた。しかしそこは問題児ばかりを担当してきた歴戦の教師(つわもの)月詠小萌。状況は掴めずとも雰囲気を察してくれたらしく、すぐに聞きなれた白シスターの声が聞こえてきた。
『とうま? 私だけど。緊急事態って何? ……ま、まさかさっき見つけたお好み焼き屋さんが先行発売始めたとか!?』
「面倒だからツッコミなしで結論だけ言うぞ。『灰姫症候』が見つかった」
『――――――――っ』
電話越しに緊張感が共有されたのを感じる。
一呼吸を挟んで、インデックスは真剣な声音で問いかけてきた。
『とうま。詳しく話して』
上条はさっきまでに起こったことをかいつまんで説明した。
インデックス達が教室を出た後、言祝栞に首根っこを掴まれて図書室に連れて行かれたこと。何故かそれにサーシャもついてきて、三人でフリマの仕度をしていたこと。言祝とサーシャの手が偶然重なった瞬間、『灰姫症候』の魔力を感知したらしいこと。最後に、どういうわけかサーシャが言祝を気絶させて、図書室の窓を破壊して飛び出していってしまったこと。
口に出して話している間に、上条は自分で違和感のようなものを感じた。
だがまずは状況説明が優先だ。一通り語り終えるのに二分程度かかった。
「……こっちから話せるのはこんくらいだ。インデックス、あいつらがどこに行ったかわかるか?」
返答は少し遅れた。
『予想はつく、けど』
「本当か!? なら」
『でも、とうまはそれを聞いてどうしたいの?』
え? と意気込みかけた体が押し留められる。
携帯電話の向こうから聞こえてくる声は、どこか焦りを隠しながらもひどく平らだった。
“まるでそれが真実なんだと自分に言い聞かせているように”。
『サーシャに与えられた任務は「灰姫症候」の確保と、それを学園都市に放った魔術師の捕縛あるいは撃破だよ。そのためにあの子は私達の所に来たんだから。探索の魔術を使う時に傍にとうまがいたら、成功するものも成功しないでしょ? だからとうまを置いていったんじゃないかな。それなら追いかけて追いついても、サーシャには迷惑なだけだよ。それでも行くの?』
しかし、言われてみれば彼女の言い分はもっともだった。
幻想殺しは上条の意思に関係なく、触れた『異能の力』を消し飛ばしてしまう。『灰姫症候』の宿主、または魔術に使う道具や陣に小指がかすっただけでも台無しにしてしまいかねない。
偶然訪れた二度とは無いチャンスを守り通すためにサーシャが飛び出していったのなら、上条が動くことは害にこそなれ利する所はない。
「――――――“いや”」
だが、上条には別の確信があった。
「もしそうなら俺に一言『離れていてくれ』って言えばいいだけだろ。ステイルが姫神の治療をした時だってそうだったしな。事情は分かってるんだから、触るなって言われたら触らない。ついてくるなって言われたら素直に待ってる。第一、窓ぶち破って飛んで行くのはいくらなんでも不自然だろ」
『……うーん……でも』
「それにだ」
遮って続ける。
先ほど気づいた違和感の正体。
「……あの時、俺にはサーシャが“逃げ出した”ように見えたんだ。幻想殺しとか謎の魔術師からじゃない。サーシャにとってもっと恐ろしい何かから」
それは想像に過ぎなかったが、きっと当っている。
走る背中と、逃げる背中。
それを見分けられるくらいには、うぬぼれかもしれないけど、彼女に近づけたと思っていたから。
インデックスの沈黙は長かった。
およそ一分。白いシスターが、最も認めたくなかった言葉を吐き出すために要した時間だ。
『とうま』
「おう」
『……サーシャを、止めてあげて。たぶん、すっごく馬鹿なことをやろうとしているはずだから』

魔術の準備は整った。
足元に石灰で描かれた円が一つ。直径はサーシャが両手を広げたよりも少し長いくらい。円の内側には掌大の何かの紋様が複数、これも石灰で描かれている。
正確な数は十二。真上から見たなら歪な時計盤のように見えるかもしれない。方位は各時刻に対応しているものの、中心からの距離がちぐはぐだからだ。
「魔力パターンを手がかりにして術者の居場所を突きとめる魔術」というと、大覇星祭の時に土御門が使った「理派四陣」があるが、それとはまた違った系統の探索魔術である。
「理派四陣」系は「魔力の送受信」を逆探知して術者を見つけ出すものなので、『灰姫症候(シンデレラシンドローム)』のような完全に術者の手を離れた『零時迷子(ヌーンインデペンデンス)』には使えないのだ。
だが、それでも『灰姫症候』が故意に産み出された魔術であるのなら、術者の固有魔力パターンというものは必ず内在している。サーシャが準備した魔術は対象の魔力パターンに干渉する魔力の波を空間に流し、その反響を捕らえて場所を探るものだ。イルカや潜水艦が行う超音波探知に近いものがある。
更に今回はインデックスの持つ「神殿」の知識も取り入れられていた。
陣とそれと同心の半径数十キロメートルの領域を簡易的にリンクさせ、十二個の紋様に相当する座標に波の受信源を作る。内と外の現象を等しくする「神殿」の効果だ。あとは三点計測の要領で目標を補足できる。
とは言え建築物や街の人の存在をまるっきり無視した簡易リンクであるため、「理派四陣」ほど正確な位置座標は得られない。それでも探索領域の広さでは圧倒的に勝っていた。相手がどれだけ遠くにいるか分からない以上、最も求められる性能はそれである。
仮につけた名は「零時の鐘(ロンドベル)」。硝子の舞踏会を終わらせる鐘の音だ。
「………………ふう」
薄い胸に手を添え、一息。簡易リンクは成功。後は呪文(スペル)を唱えながら十二個の紋様を学園都市の対応する位置に仮想設置してゆき、“最後に陣の中に魔力の共鳴波を打ち鳴らせばいい”。「神殿」の中で響いた音は「神殿」の外でも大気を震わせる。
それで終わりだ。
もう決めたのだから、迷いは無い。
「……………………、」
意識のない言祝栞の体を抱いて陣内に入る。
円の中央に立ち、定められた手順に従い魔力を精製。呪に乗せて空(くう)に送る。
「――、一つ。火の粉の雪の中」
ポゥ、と紋様の一つがこもった光を放った。
時計盤の一時に対応する位置だ。
「二つ。二人の血の泉」
二時。
「三つ。禊も血の中で。四つ。黄泉路の花畑」
三時。四時。
――本来の、インデックスが考えてくれた呪文とは異なる呪文が紡がれる。
重々しい数え歌は、何よりも如実にサーシャの心中を表していた。
だけど、それでも。
「五つ。いつしか山の下。六つ。骸の丘の上」
五時、六時――
「七つ。涙も血を吐いて。八つ。社(やしろ)を火が舐める」
七時、……八時。
と。



「そこまで」



背後から発せられた誰かの声に、サーシャはドキリとして呪文を止めた。
この場所に人がいないこと、たどり着くのも容易ではないことは確認済みだ。
加えて知らない声。だが、知っている。
この感覚は覚えている。
懐かしさなど微塵もないが、確かに記憶の中に刻み込まれている。消せない傷として。
“居ないはずのナニカが居る”不条理を。
「――、は」
呼吸が浅くなる。
間違いない疑いない相違ない。後ろには“あれ”がいる。
でも……でも、でも!
“あの日の悪魔はしゃべりかけてきたりはしなかった”!!
「…………、」
振り向く勇気はない。ただ動揺で術が解けないようにするので精一杯。
それでも、見てしまう恐怖と見えないままでいる恐怖では、後者の方が強かった。
じりじりと足をずらして体をひねる。
「あなたが……、何をするつもりなのか、なんとなくわかります。……そして、それを止められるのは、あの人だけだってことも……」
“悪魔”が語る。
人間のフリをした声で。
じりじりと足をずらして体をひねる。
「……だから。あの人がここに来るまでは……私が時間を稼ぎます」
“悪魔”が語る。
人間のような声で。
じりじりと足をずらして、そうしながら問う。
「問一。――お前は、何だ」
思っていた以上にかすれた声しか出なかったが、“悪魔”には届いたようだ。返事が来る。
それと同時に振り向ききった。



「私は……貴女の友達の、友達です」



“悪魔”は語る。
人間の声で。
触れれば融けてしまいそうなほど儚く、しかし強い芯を持って立っている、氷の華のような少女がそこにいた。

吹寄制理は苛立っていた。
プレ公演開始まであと何時間も無いというのに、監督と主演女優と端役一名が見つからないのだ。しかもここぞと思って訪れた図書室ではどういうわけか中庭に面した窓が数枚、粉と微塵になるほどに砕け散っていて、たまたま居合わせた生活指導の災誤先生に「これ。掃除しといてね」とにこやかに言い渡されてしまった。
硝子の粉は室内にはあまり飛び散っていないのがせめてもの救いだったが、中庭は本気でやるなら園芸業者を呼ばなければならないかもしれない。素手で触ると危険なので軍手を何枚も重ねてはめ(こういう時こそ学園都市製インチキ科学アイテムの出番ではなかろうかと思いながら)、積もりに積もった硝子の粉をスコップでかき集めていく。
「あーーーもう! 恨むわよ栞! 憎むわよ上条当麻! 一人で無関係な顔してんじゃないわよサーシャ!」
ここにはいない友人達に届けと、虚空に呪いを吐き続ける吹寄。
その姿を彼女について来たがために掃除につき合わされる羽目になった青髪ピアスと姫神秋沙が流し目で見ていた。
背の高い似非関西人は排水溝からのかき出しを担当し、「祭の準備→動きやすい服装で→じゃあ普段着を」の三段論法により巫女装束を身に纏っている少女は図書室内の掃除を任されている。
「吹寄さん。荒れてるね」
「いやーあの人はいつもあんなもんやで」
「カルシウムが足りてないのかも。確か彼女は錠剤を持ち歩いていたはずだけど」
「あーそれな? あんまり関係ない思うで。昔クラスの三馬鹿(ボクら)で吹寄の手持ちの錠剤を全部それっぽく加工したヨーグレットとすり替えてみたことがあるんやけど、三日間バレへんかったし。まあ四日目には廊下に並ばされて尻叩きやったけどな」
「…………。そんなことばかりされてるから。飲んでも飲んでも足りなくなっちゃったんだね」
空っぽの窓枠ごしにそんな会話をしながら、姫神は窓の下に据え付けられた本棚の天板を右手に持った小さな箒で掃く。同時に左手にはちりとりを構え、天板の端から落とした粉を集めていく。
この本棚は、段に貼り付けられた名札によると絵本のコーナーらしい。そして、何故かある一列の中身だけがごっそりと抜き出され近くの床に積み上げられていた。
後でこれらの絵本も点検しなければ、と姫神は考える。ページの間に硝子の粉が挟まりでもしていたら大事だ。
「あれ?」
と、姫神は床の一点に目を留めた。
絵本のタワーにほど近い、薄く硝子の砂が広がっているあたり。まるで数年ぶりにタンスを動かした時のように、ぽっかりときれいな床が覗いている場所があった。
形は長方形。大きさは――ちょうど大き目の絵本くらい。
「……また。あの人は。面倒なことに巻き込まれているみたいね」
ふぅ、と一息。
とある白シスターならば、ここでなりふり構わずあの少年を追いかけるのだろうが、姫神秋沙は違った。彼女は相手を信じて待つタイプの女性なのである。
もっとも、自分が行っても何の役にも立たないことを重々承知しているからでもあるのだが。
「それにしても。今回のフラグは。サーシャなのか言祝さんなのか」
そこだけはどうしても気になる複雑な乙女心であった。
すると姫神の独り言が聞こえたらしい青髪ピアスが窓枠の向こうから顔を見せた。
「あれ? 姫神さん知らんの?」
まあ転入生やしなぁ、と勝手に納得のポーズをしていたりするのだが、姫神にはわけが分からない。
「何のこと? 青髪君」
「せやからあたかもそれがボクの本名であるかのよーに馴染まんで欲しいんやけど。……まあええわ。あのな、今言祝にかみやんフラグが立つかもて心配しとったやろ?」
「――。いえ。そんなことは」
「ええってええって照れんでも。つつき所はわきまえとるから。やっぱいじめるんやったらかみやんやもん。」
青髪ピアスはそう言って片手をひらひらさせた。



口ではいじめると言いながら気の良さそうな笑顔を浮かべる彼に、姫神はふと、かつてインデックスが語っていたことを思い出す。
『とうまの場合、いろんな人を守るから分かりにくいかもしれないけど、それであいさを守るって気持ちが薄らぐ事だけは、絶対にない。あいさを迷惑だなんて思うはずがない。その程度の人間なら、とうまの周りにあんなに人が集まってくるはずがないもの。とうまはそういうことを口にしない人だし、みんなも黙っているから、絆の繋がり方がいまいちはっきりしないんだけどね。もしも全部の絆が分かったとしたら、結構すごい広がり方をしているのかも』
青髪ピアスも、その不思議な絆の一枝なのだな、と何とはなしに思った。
「…………それで。私が何を知らないって?」
「うん。てっとり早く言うなら姫神さんの心配は無用っちゅうこと。言祝にかみやんフラグが“改めて”立つゆうことはあらへんから」
え? と言い方にひっかかるものを感じて首を傾げる。青髪ピアスは人差し指を上向きにピンと立て、
「やからな、“もう立っとるねん”。中坊ん時になんかあったらしいで。ボクは高校からの友達やから詳しゅうは知らんけどな」
「……………………。」
ぱちくり、と姫神の目が丸くなる。先ほどの回想がすぐさまフラッシュバック。
『とうまの場合、いろんな人を守るから――』
青髪の言う“なんか”もそういうことだろうと予想は出来るが、
「で。でも。言祝さんは。そんな風には見えなかったけど」
「んー。そりゃ一口に好き言うてもいろんな好きがあるし。言祝の場合は『誰かええ人とくっついて欲しい』いう感じの好きみたいやねん。なんとゆーか、惚れとるからこそ自分は身を引くとゆーか」
その気持ちは、理解できなくは、ない。
姫神自身、似たようなことを考えていた事もあったからだ。
でもそれは。
(自分に自信が持てなくて。自分では彼の隣に居られないと。その資格はないと思った時の。逃げの論理)
上条に特別な思い人がいるのなら、また話はちがってくるだろうが、姫神の知る限りではそんな気配は無い。
そう思えばこそ、常にクラスの先頭に立ち、大胆不敵とも取れる立ち振る舞いで驀進していた言祝栞という人物像には当てはまらない気がする。
しかし、所詮姫神と言祝はまだ一、二ヶ月の付き合いだ。積極的に話すようになったのなんて演劇班に入ってからのことである。たったそれだけの期間で相手の人柄を決めつけてしまうのは失礼というものだろう。
だからそういうこともあるかもしれない、というくらいに思っておくことにする。
「あ。もしかして。初め上条君をシンデレラにしようとしたのは」
「多分やけど、吹寄とくっつけようとしたんちゃうかな。かみやん王子で吹寄シンデレラやったら、絶対吹寄は嫌や言うやろーし」
確かに急遽配役を変更したにしては、上条用のシンデレラドレスが既に出来上がっていた辺りに計画的なものを感じないでもなかった。周りが『言祝栞ならやりかねない』というムードだったので、姫神としてはそれに流されていた分もあったのだが。
だとすると、今度はどうしてあっさりと計画を撤回してサーシャをスカウトしたのか、という疑問が浮かぶ。
青髪ピアスに尋ねても、頼りなく肩をすくめるだけだった。
「案外、似合いそうやったからとちゃう?」
果たして“何”が“何”に似合うという意味なのか、深く考えての台詞ではないようだったので、姫神はそれを軽く聞き流した。

判断は迅速だった。
サーシャは言祝の体を左手一本で抱き上げると、右手で図書室から唯一持ってこれた霊装――デザートイーグル型釘打ち機・ハスタラビスタを抜く。
直属の上司であるワシリーサが「美少女と大きな銃の組み合わせって萌えない?」などと言い出したせいでサーシャの基本装備となってしまったこの銃だが、最近ではそれなりに愛着を持つようになっていた。とある少年のせいで使用頻度が極端に上がったからでもあるのだが。
殲滅白書において、対幽霊戦闘の鉄則として叩き込まれたのは次の三つ。
耳を貸すな。
容赦をするな。
記憶に残すな。
一つ目は余計な認識は敵を強めてしまうため、二つ目は確実に倒したと「自覚」するため、三つ目は万一の復活を阻止するために決められたルールだ。
ゆえにサーシャはその『幽霊』の――『悪魔』の言葉を聞かない。
撃ち殺すことに躊躇いもしない。
そしてすぐに忘れよう。
氷の華に似た少女の姿も、意味の分からない言葉も、全て。
肩、ひじ、手首を意思のラインで直結。理想的な射撃体勢に移行するのに瞬きほどの間も必要ない。
「“解体一、ニ、三”」
トリガーを引くと同時に一声。上条への威嚇に撃つのとは違う正真正銘サーシャ=クロイツェフの魔術が発動する(もっとも上条の場合、ただの釘の方が致命傷になりやすいのだが)。
ガッガッガッ、と三連続で炸裂音が飛ぶ。
図書室の窓ガラスを砂に変えた攻性術式『棘姫(いばらひめ)』だ。無論命名したのはワシリーサである。
冷たい風を切り裂いて進む魔術の釘は、ひどくあっけない音を立てて全弾『悪魔』に突き刺さった。
額に一発。喉に一発。心臓に一発。狙いに寸分の狂いもない。
「…………、」
手ごたえあり。
人体急所を狙う理由は単純。“こちらが弱点だと思っている場所は実際に弱点になるからだ”。
我思う故に彼あり。この原則を戦闘に応用した結果である。
その代わり、イメージした場所以外に攻撃が当ってしまった場合のデメリットもある。百発百中で当たり前。そういう意味で、今回の攻撃は申し分なかった。通じた。決まった。確信を得られる。



――――でも。
――――『幽霊』ごときと戦うための戦術が、
――――あの『悪魔』に通用するのか?



そう、思ってしまったからかどうかは確かめようがない。
けれど結果として、
“サーシャの魔術は全く効果を発揮しなかった”。
「……………………え?」
芯を抜かれたような声が漏れる。それくらい目の前の光景には現実味がなかった。
サーシャが撃った釘は、確かに『悪魔』に命中した。
狙い通りの必殺の軌道で。
なのに、『悪魔』は何事もなかったかのようにこちらを見返してきている。
いや、本当に何事もなかった訳ではない。
信じられないことだが、サーシャの目が確かなら、この『悪魔』は“砕けた額と喉と胸を一瞬で復元したのだ”。
まるでビデオの巻き戻しみたいに。距離があるため明確なプロセスまではわからなかったが。



『悪魔』の少女は髪の乱れをほんの少し気にするそぶり“だけ”して、
「この程度の攻撃は……私には通用しません。私を殺すなら、今の二三○万倍は必要ですよ……?」
諭すような哀れむような声色が癇に障る。
けれど勝ち目がなくなったのは事実だ。絶対の確信を持って放った攻撃が破られたということは、“それ以降の攻撃はどう間違っても通用しなくなったということ”。
それはつまり観測・被観測の相対関係が上下関係に変わってしまったことを意味する。
対幽霊戦闘における最悪のシチュエーション。
この瞬間、サーシャ=クロイツェフが『悪魔』に打ち勝てる可能性は、完全に潰えた。
「……………………………………………………………………………………、」
なんて、無様。
迅速な判断?
馬鹿を言うんじゃない。単に怯えて来るな近寄るなと子供のように暴れただけじゃないか。
――コツ、コツ、と乾いた足音を立てて、『悪魔』の少女が近づいてくる。
何のために。
何のために苦しい訓練と辛い実戦を重ねてきたのか。
――コツ、と足音。
子供のように暴れただけ。
結局、私は、パーパとマーマを失ったあの日から何一つ変わってはいなかった!
――コツ、と足音。
「来るな……」
銃を持つ手が震えているのが分かる。
照準なんてとても合わせられないだろう。
けれど、それ以外に何が出来る?
無力な子供にすぎないサーシャ=クロイツェフに。他に何が出来る?
――コツ、と足音。
「来るなぁぁぁぁぁっ!!」
引き金が絞られた。何度も何度も狂ったように。
出鱈目に飛ぶ茨の釘。その内の一本が、たまたま偶然『悪魔』の頭に命中した。
無意識にでも組んでいた術式の効果が、間近に迫っていた『悪魔』の頭蓋を砕き散らす。
そして、サーシャは“見た”。



彼女の術式で吹き飛んだ『悪魔』の頭。
人間なら眼球と骨と肉と脳髄が詰まっているはずの場所には――何もなかった。
見るもの全ての視線を吸い込み、奪わずにはいられないほどの、伽藍堂だった。

マトリョーシカ、というおもちゃがある。
大きな人形の中を開くと一回り小さな人形が入っていて、それを開くとまた……というものだ。
『悪魔』の頭は、そのマトリョーシカの一番外側の人形だけを持ってきたかのように“何も入っていなかった”。
まともな中身が詰まっていることを期待していたわけではなかったけれど、あまりに現実とは認めにくい光景に、サーシャは呆然としてしまう。
「……ふふ」
半分だけ残った右目と、半分だけ残った唇で、『悪魔』は笑みを作った。
「あまり……怖がっている、感じじゃないですね。こういうの、慣れてるの……?」
ゆっくりと顔面に開いた穴が塞がっていくのを見つめながら、サーシャはふらふらとうなづいていた。戦う相手の言葉に反応するなど、ゴーストバスターとしては落第だ。
『悪魔』はもう一歩サーシャに近づき、
「でも、普通の人には……怖いんだろうね。こんな――化け物みたいな体は。怯えて、避けて、それが当然だと思う。…………でも、居たの」
歪な顔の、歪な笑み。
人とは思えぬその有様に、サーシャは不覚にも、
「私を、友達だと言ってくれる人達が」
“彼女”を、綺麗だと思った。
触れれば解ける儚さを、愛おしいと感じてしまった。
「だから……ね? 貴女も大丈夫だよ」
「……わ、私は」
「私と違って、貴女はあの子の傍に居られてるじゃない。それに他にもたくさんの人達が貴女のことを想ってくれている。だから、少なくとも私よりは大丈夫。想うことに……想われることに、怯えないで。そういうのは……えっと」
しばらく言葉を選ぶように間を置くと、彼女は腰をかがめてサーシャに視線の高さを合わせた。
「もったいない……よ?」
雪解け水が大地に染み入るように、その言葉はサーシャの中に入ってきた。
怯えないで、と。
何もかも分かっていると言う様に。何もかも分かっているでしょうと言う様に。
彼女が、つ、と背後を向いた。変わった事はない様にサーシャには思えたが、
「もうすぐ……あの人が来る」
「……、」
誰のことを指して言っているのか、即座に分かった。
おそらくインデックスがこの場所を教えたのだろう。幾度となく話し合って決めた場所だ。サーシャがここにいると予想できないはずがない。
けど、
「どうすれば……いいの?」
すがるような問いかけが唇からこぼれた。
しかしその時にはもう、“体育館の屋上”にはサーシャと気絶したままの言祝以外に“人間”の姿はなかった。



ダッシュダッシュさらにダッシュ。
上条当麻はまだ走っていた。
長時間の、それも混雑した中での全力疾走に、息は上がりまくっている。だがさっきまでとは違い、今ははっきりとした目的地があった。
側頭部に押し当てた携帯電話から白シスターの声が聞こえる。
『空想(イメージ)を現実に持ってくる魔術ってあるよね? あるの。三沢塾で錬金術師が使った黄金練成(アルス=マグナ)はその究極。で、私とサーシャで体育館に仕掛けようとしていた魔術はそれの応用版。“空想に沿う物を現実の中から選出する”術式なんだよ。数百人の観客が一斉に硝子の靴に注目した瞬間に発動させて、学園都市全域から「灰姫症候(シンデレラシンドローム)」を洗い出す計画だったんだよ』
「おいおい! 演劇を観に来る客には学生もいるんだぞ? それこそ三沢塾みたいなことになるんじゃないのか!?」
『そこらへんは大丈夫。観客の人達の空想を大気中のマナに一度転写して、そっちを使う手はずだから。魔術を使わせるんじゃなく、かけるだけだから超能力者でも問題ないよ』
「そうか? 本当にそうか? ……ん? 待てよ。その魔術、仕掛けるのはいいけどどうやって起動させるつもりだったんだ? お前と俺は魔術使えないし、サーシャに至っては舞台上だぞ」
『他に学園都市に潜入してるっていう人にお願いするつもりだったんだけど……指揮系統が違うのか全然連絡つかなくて。もし前日までに捕まらなかったら、イギリス清教かロシア成教から暇な人を適当に派遣してもらうって話になってたの』
「えらく行き当たりばったりだな……ともかく、その魔術の設置予定場所だったのが体育館の屋上なんだな?」
『そう。空想の収集、起動のタイミング合わせ、あと部外者が立ち入りにくいとか、色々条件を考えて決めたの。だからサーシャが何かしらの魔術を行使しようとしているなら、あそこが一番都合がいいはずだよ』
それだけ聞ければ十分だ。どうせ他にあては無いのだから、全額そこに賭けるしかない。
私は私に出来る事をやるから、というインデックスの言葉にうなづきを返して、通話を終える。
「にしても……ええい! すみませんそこ通してください! 通して!」
人波を縫って走るのはかなり体力と集中力を消耗する。しかしそれ以上の現実問題として、
(体育館に着いたとして……屋上までどうやって登る!? 垂直飛びで届く高さじゃない。舞台袖の梯子は大道具や器材で埋まっちまってるだろうし、壁をよじ登るのは時間がかかり過ぎる!)
初めからそういう場所を選んでいるのだから仕方ないと言えば仕方ないが、いざ追う立場になると面倒この上なかった。
ちんたらしている時間も惜しいが考えてる時間も惜しい。目的地に近づけば近づくほど思考に回す余裕が消えていく。
やがて組み立て中の神輿の向こうに、体育館の青い屋根が見えた。
気のせいか、赤い制服も覗いたような気もする。あれ、どっちかっつーと青かったような……?
近くに立てかける梯子でもあればと思い周囲を見回すが、生憎どれも使用中だった。
「くそっ! なんかないか、なんか!」
体育館に着くまでに屋上に登る方法を見つけられなければ、もう間に合わない予感がする。
ここまで散々遠回りしてしまったのだ。これ以上のロスは確実にまずい。
しかし近くには梯子はおろか踏み台に使えそうな物すらもなく――



「おーいかみやーん! 皆の土御門さんが帰ってきたぜよー!」



その時、走る上条の真正面から能天気な謎口調が飛んできた。
“まるでたまたま通りがかったかのような”気楽さで、クラスの三馬鹿(デルタフォース)最後の一人、土御門元春が体育館玄関前に立っている。
「てめえ土御門! こんな時にお前どこに――」
上条は怒声を上げようとして、思いとどまる。
そうだ。もうこれしかない。
上条は疾走のスピードを上げながら、
「土御門! 疑問を持つな! 何も言わず俺に合わせろ! 『空』!」
駆ける勢いに乗って、謎の言葉が飛ぶ。
上条の言葉の意味を理解したのか、土御門のサングラスがきらりと光った。
遅れてやってきた金髪チェーンは素早くその場で倒立すると、両肘と両膝を曲げて全身のバネを溜める。
そして叫ぶ。
「『愛』!」
聞こえたと同時に上条はジャンプ。土御門が空へと向けた足の裏に乗っかるように。
出来上がるのは大空へ羽ばたく準備だ。
これぞ伝家の宝刀(マンガでよんだだけ)!
「「『台風』!!」」
一気に体を伸ばした土御門を発射台にして、上条はさらに高く高く飛び上がる!
目指すは――
砲弾じみた勢いで屋上に現れた少年を、サーシャは立ち尽くしたまま見上げていた。
口だけが無意識に呪文の続きを唱えている。
「九つ。今宵彼が来て……」
ザザザザッ! という激しい音を立て、少年が着地する。
肩で息をしながら、汗だくになりながらも視線は揺るがず。
その姿はまるで絵本の主人公のようで。
主人公みたいで。
主人公らしくて。
――ああ。そうだ。
「十で。――とうとう幕が開く」
呪文がまた変わる。
赤い少女の全身に血が巡る感覚が甦る。
銃把を握る手に力が戻る。
役目を果たそうと思った。
シンデレラを演じる役者としてではなく、
全てを台無しにした「悪い魔女」として。

能力を使用した授業を行うことを前提に設計された体育館は、一般のそれより遥かに頑丈な骨組みとただっぴろい空間を持っている。そのため屋上もかなり広く、上条が着地した玄関側の端からサーシャの立つ魔法陣まで三〇メートルくらい距離があった。
風に揺れる金の髪。拳銃型霊装を握り締めた制服シスターの足元には、言祝栞が倒れている。
とりあえず間に合いはしたらしい、と上条は安堵した。
その一瞬の油断を、突如放たれた爆音とそれに伴う釘の乱打が貫く。
「うおっ!? は! おうわっ!?」
上条は思わずのけぞったが、初めから当てるつもりはなかったのだろう。十数本の釘は上条の前方二メートルくらいで横一線に屋上の床に突き刺さり、コンクリートをバレーボール大の円形に消失させた。砂と散った建築材の名残が宙を舞う。
境界線を引かれたみたいだ、と上条は思った。その考えをぐっと飲み込み、叫ぶ。
「おいサーシャ! 何の真似だ!」
「自明のはずであるが回答一。邪魔をしないでもらいたい。これはロシア成教とイギリス清教が下した最重要指令である。貴方の右手は儀式の妨げになると証明済みのはず」
返事は即答。それほど大きな声でもないのにここまでしっかりと聞こえるのは、演劇の練習の成果か。
と、息をつぎ、
「宣告一。それ以上近づいた場合、実力で排除する」
持ち上げられた銃口がピタリと上条を照準した。
石膏で固めたような無表情は、一人の少女としてではない、「魔術師」サーシャ=クロイツェフとしての顔なのだろうか。
本来なら対人で用いるべきではない凶悪すぎる術式が少年に向けられる。
しかし上条はその程度で怯んだりはしなかった。銃と向き合うプレッシャーなどおくびにも出さず、声を張り上げる。
「ふざけるな! インデックスから話は聞いた。その『零時の鐘(ロンドベル)』っていう捜索術式は、“一人じゃ使えないもの”なんだろうが!」
右の足を前に出しかけ、
「『灰姫症候(シンデレラシンドローム)』から術者の魔力を抜き出す役と、魔法陣を保つ役の二人が必要な魔術なんだろ。本当なら教会からの応援要員を待って、演劇に乗じた『灰姫症候』の走査術式を終えてから使う予定だったから。“お前が焦って無理矢理やろうとしても”、成果なんかでやしないんだ。だから、」
ダン! と再び足元に打ち込まれた釘弾に止めさせられる。
前を見やると、やはり貼り付けたような無表情がそこにあった。
「宣告二。次は無い」
「サーシャ! 人の話を聞いてんのか!?」
「回答二。問題なく。続いて回答三。貴方の今の発言は作戦中断の理由にならない。単独で『零時の鐘』を行う方法は存在する」
なんだって? と上条の思考が凍る。
サーシャは与えられた台本を棒読みするかのように淡々と、
「補足一。用は魔法陣――『神殿』内に『灰姫症候』に含まれた魔力を波長として放てばいいだけ。わざわざ丁寧に解析せずとも、私の攻性魔術で破壊し、その際に生じる魔力の残響現象を活用すればいい」
上条は基本的に科学側の人間だ。魔術側の用語を用いられても理解しきれない。それでも聞きかじりの知識で何とか意味を捉えようとする。
要は、鍵のかかった宝箱のようなものか。
中身が何であるのかを調べなければならないが、自分には鍵開けの技術もそのための魔法も使えない。箱は完全に密閉されていて、揺らしても音の一つもしない。
ではどうすればよいか。
サーシャはこう言ったのだ。
“宝箱ごと叩き壊し、散らばった破片から推察すればいい”と。
肝心なのは「中身を手に入れる」事ではなく、「中身を調べる」事なのだから。
それを現在の状況に照らし合わせた時、壊される「宝箱」とは、
「――――――っ! 言祝ぃ! 起きろぉぉ!」
そこまで考えが及んだところで、上条の硬直が解けた。声の限りに倒れたままの言祝栞に呼びかける。だが、いつもは頼んでも黙ってくれない行動派文学少女は、まるで置物のように身じろぎすらしなかった。
「くそ、こんなときだけ物静かになってんじゃねぇよ!」
無茶な文句を言いながら、上条は走り出す。激しい足音に無機質なカチャリという金属音が混じって聞こえた。
「宣告三。次は無いと言った」
ダン! という強い音に釘弾がはじき出される。
左の太ももを狙ったその攻撃を右へステップしてかわした。
上条は再びダッシュしようとしたが、その矢先にまた左足を狙われてやはり右へ飛ぶ。
転がり、進み、避け、かすめ。
気づいた時には、まっすぐ走っていたはずなのにかなり屋根の端の方まで追いやられていた。
(まずい……。俺を近寄らせないためだけじゃない、俺の右手(イマジンブレイカー)を使わせないための誘導か!)
右へ右へと避け続ければ、当然サーシャの側へは左半身が向くことになる。右手に宿るどんな異能も問答無用で打ち消す力、幻想殺しで防御させないための戦術だ。
だが、頭ではそうと分かっていても体は勝手に避けてしまう。これらの釘が図書室の窓ガラスや体育館の屋根を塵に変えたのを目の前で見ているし、そうでなくとも五寸釘が高速で飛んでくれば普通は怖い。
『確実』に仕留める。そのためだけにロシア成教が研鑽を重ねてきた心理誘導戦術の一つである。
(止まるわけにはいかない。だからってこのままじゃ、いずれは屋根の端から転げ落ちちまう。開き直って右手を盾にして突撃しても、美琴の電撃の槍と違って腕に向かって飛んでくれるわけじゃないし、もし“魔術のかかっていない”ただの釘を撃たれたらアウトだ)
位置関係が致命的なものになる前に打開策を見つけなければならない。上条は走り転げながら頭の中に優先事項とそのための手段を並べ立てていく。
今一番しなければならないこと――決まっている。サーシャの魔術を止めることだ。
そのためにすべきこと。上条当麻の勝利条件。
――条件一。『零時の鐘』の魔法陣を幻想殺しで破壊する。
屋根に白い線で描かれた円と紋様。あれらが『零時の鐘』であることは間違いない。ならばあれらの線を右手で撫でるだけで効果を消すことが出来るはずだ。
――条件ニ。『零時の鐘』の起動に用いるあの銃型霊装を幻想殺しで破壊する。
「宝箱」を壊すために、サーシャは魔術で攻撃すると言った。それを使えなくさせれば、少なくとも儀式を中断させられるはず。
――条件三。言祝を確保し、幻想殺しで『灰姫症候』を破壊する。
これはある意味最後の手段だ。確実に『零時の鐘』を中断させられる代わりに、『灰姫症候』を学園都市に放った魔術師を捕まえる手がかりがなくなってしまう。そうなればイギリス、ロシア両宗派から責任を問われるのはもちろん、正体不明の魔術師を野放しにしてしまうことになる。
――条件四。術者であるサーシャ自身の意識を断ち切る。
……出来ればやりたくない。それに、やるならば最初からサーシャのみを狙わなければならないだろう。迷っている間にズドンだ。
これは全ての条件にも言える。一から四のどれかに失敗したからといって、別の目標に移る余裕は恐らくない。狙いは一つでなければならなかった。
(――どうする!? 魔法陣か、霊装か、言祝か、サーシャか!)
上条当麻は全力で走りながら全力で思考する。だが極度の緊張に暴走しかけている脳は全く関係のない記憶を走馬灯のように流していた。
サーシャとの出会いを思い出す。インデックスとの顔合わせを思い出す。言祝の無茶なスカウトを思い出す。吹寄達のふざけた裁判を思い出す。演劇班の人達との練習の日々を思い出す。小萌先生の気配りを思い出す。



――――――あの子達を、お願いします。



いつか何処かで聞いたことのある、控えめな少女の声が回想に混じって聞こえた気がした。
その瞬間。
上条は全てを理解した。
インデックスの知識、上条の記憶、サーシャの言動。
“それらの中にただ一つの嘘もないのなら”。
「狙うべきは…………あそこだッ!」
決断は一瞬。想いは一心。行動は一歩。
少年は全身に働く慣性を根性で跳ね除け、右に傾いていた体勢を強引に立て直す。
そして、
“おもむろに目を閉じ”、何の小細工もなくまっすぐに突撃する――!
「ッ!」
サーシャの顔色が変わった――ような気がした。
「……くっ!」
いつ飛んできたのかも分からない釘が、左のふくらはぎを浅く裂いた。が、無視。
ただ網膜に焼き付いている光景だけを頼りに走る。走る!
そう、なまじ銃が見えているから無意識に体が身構えてしまい、サーシャの腕の動きに反応して回避をしてしまうのだ。その刹那の恐怖こそが最大の敵。
目を閉じれば『いつ撃たれるか分からない』。それは即ち恐怖の均一化であり、とっさの回避を行わずにすむ。
あと必要なのは、多少の傷を無視できる覚悟だけ。
是が非でもサーシャを止めるという、シンプルな心意気だけだ。
普通の戦闘では不利にしかならない選択。だがこのような“自身の認識能力を変化させることで相手の優位を封じる”戦法が用いられる戦場は、存在する。
対幽霊戦闘、だ。
もちろん上条がそうだと知っていたわけではない。だがサーシャはよく知る戦術が自分に向けられたことと、肉を裂かれる痛みにも怯まず走り続ける少年の異様な迫力に二重に動揺してしまった。
その結果、銃撃がほんの少しゆるんだ。
上条はそのわずかな間隙を惜しむことなく前進に費やす。
記憶にある赤い少女の位置まで、残り三歩。
サーシャは魔法陣の中から動かず、射撃に徹していた。つまり、術者は儀式の最中に陣の外に出ることは出来ないのだと見ていい。
だから移動している可能性はない。まっすぐ走り続けるだけで辿り着ける!
左ももをもう一発釘弾がかすめた。しかし少年は止まらない。止まる訳が無い。
記憶にある赤い少女の位置まで、残り一歩。
上条は目を開ける。
怯えたような、それでいて何処か覚悟を決めたような顔がそこにあった。
(やっぱりな)
確信する。“この少女は魔術師なんかではないと”。
ただそう振舞おうと演技していた役者に過ぎない。上条にも見破られてしまうような大根役者だったが。
けれど。
「お前の役は……『魔法使い(それ)』じゃねぇだろ!!」
下半身はほとんど使わず、腰の捻りと肩の回転で右手を“撃ち出す”。
五指は拳を作らず、大きく開かれている。
交錯の時は一秒もなかっただろう。
それで閉幕(カーテンフォール)だ。




鉄以上の強度を持つはずの“銃型霊装”は、砂糖菓子のようにあっさりと幻想殺しによって握り潰されていた。


                   ◇   ◇



ポロポロと、砂の塔のように崩れ落ちていく自らの霊装を、サーシャは戸惑うような視線で追いかけていた。
何故。
どうして。
そんな思考が見て取れる表情だ。
上条は五歩後ろに下がり――“もちろん”サーシャにも言祝にも指一本触れていない――赤いシスターに向き直る。
「問一。なんで銃だけを壊したのか、って顔だな」
返事はなかった。しかし彼女はその代わりに疑問の表情を浮かべたまま見上げてきた。上条はそれに対し、右の人差し指を立てて見せる。
「回答一。まず魔法陣を狙うのは真っ先にやめた。確かに速攻で魔術の発動を止められるだろうけど、やり直しも簡単そうだったから。俺が下で走り回ってる間に準備できた訳だしな」
続けて中指。
「回答ニ。次に切ったのは『灰姫症候(シンデレラシンドローム)』だ。まあそうだよな、作った魔術師を捕まえなくちゃならないんだから、壊すわけにはいかない」
「でも」
サーシャが初めて反論した。青い瞳は感情の乱れに同調し、今にも決壊しそうである。
「私は言った。シオリを撃つと。そう言えばトーマは絶対にシオリを優先すると思ったから。だから、」
「んなこと言ってねぇよ。お前は」
ピシャリ、と突き返した言葉に、
今度こそ、演技という名の仮面は少女からはがれ落ちた。
「…………な、」
上条は口を挟む余地を与えないよう畳み掛ける。
「お前はこう言ったんだ。『「灰姫症候」の魔力を解析する役の人間がいないから、「灰姫症候」そのものを破壊することで解析の手順を省略する』って。――それだけだ。“誰”を撃つかってのは一言も言ってない」
薬指を立て、



「これが回答三だ。銃を壊さなかったら、“サーシャは自分で自分を撃っていた”。『灰姫症候』は今、お前の体の中にある。違うか?」



サーシャはうつむき、唇を固く結んでしまう。
その沈黙は何よりも雄弁だった。
上条当麻は言葉を続ける。幕を引き切るために。
「ふっとな、思ったんだよ。サーシャに本当に言祝が撃てるのかなって。そしたら俺に対しても、絶対直撃しない戦い方をしてることに気づいた。日頃から乱射をかましてる俺にこの調子なら、言祝を撃てるはずがない。……不謹慎かもしれないけどさ、正直安心しちまった」
二つの巨大宗派から与えられた使命と、
たった一、二週間程度の知り合いを天秤にかけてしまうような甘い心の持ち主。
友達を傷つけたくないという意思を最後の最後まで抱いてゆける、弱くて強い女の子。
サーシャ=クロイツェフというのがそういう少女で、本当によかった。
だからこそ上条は――卑怯かもしれないが――迷わず釘の嵐の中で目を閉じることが出来たのだ。
「で、言祝でないのなら何を撃つ気なのかって考えたら一発だった。まさか逃がしてる訳もなし、サーシャ本人の体しかないって」
「もし私が最初からそのつもりだったなら、私は一人でここまで来ればよかったのでは? シオリを気絶させてまで連れてくる必要は全くない」
風に埋もれてしまいそうな、小さな声での反論だった。しかし屋上を流れる風はその声を遮るどころかそっと背中を押すようにして上条の耳まで届けてくれる。
「いや。サーシャは絶対に言祝を連れてこなくちゃならなかった。“俺に追ってこさせるために”」
きっぱりと断言する。実はほとんどがこの会話の最中に思いついたことだったのだが。銃を壊す直前の数秒はほとんど無心だったから、あの瞬間の閃きを言語化しようとすると結構手間取る。
「自分で自分を撃つなんて裏技、必ず成功させる自信はなかったんじゃないか? まあ人肉プラネタリウムになっても平気で魔術を使ってた変態もいるけど、サーシャはあそこまでぶっ飛んでるようには見えないしな。だからもしも探索の魔術が失敗した時、俺やインデックスがお前の『共犯』にされないように。先走ったサーシャを止めようとしていたと、形だけでもそう見えるように。もし言祝を残していったら、俺は『何か考えがあるのかも』って思って、深く考えずに任せた気分になってたかもしれない。そしたら俺達も叱られる――で済めばいいけど――まああんまり良くないことになってただろ」
指を立てていた右腕を下ろす。
そして、
「結局サーシャはさ、全部自分の責任にして、事件を終わらせるつもりだったんだろ?」
上条は、言った。
思ったことを、全て。
考えてみれば簡単な話だったのだ。
上条達は、少女を友達だと思っていた。
少女は、上条達を友達だと思っていた。
ゆえに上条は少女を止めたいと思い、少女は全ての責を負おうと心に決めた。
たったそれだけの、三文芝居。
しかし、上条は自分で気づいていた。この推理の穴を。
「……トーマ。貴方には推理小説の主人公は似合わない」
彼女も同じことに感づいたのだろう、わずかに余裕めいたものが生まれた。
それは、
「貴方が述べているのは全て状況証拠でしかない。いや、それよりも悪いただの願望だ。私の行動に勝手な理由をつけて、貴方自身が納得するための筋書きを作っているにすぎない」
「…………、」
言い返そうとして、言葉に詰まる。
そんなことは分かっていた。
上条にはサーシャが何をしようとしているのかを推測することは出来ても、何故そこに思い至ったかを推察することは出来ない。彼女には彼女の事情があり、思惑があり、思い出があり、それらの中から生まれた結論を理解しようと思うなら、事情を思惑を思い出を全て知らなければならないだろう。しかしそんなことは読心能力でもなければ不可能だ。
理解出来ないものを無理に語ろうとすることを、暴論と呼ぶ。
結局上条の言葉は、彼自身のための、主人公気取りの偽善の押しつけにすぎないのではないか。
(でも、)
ばらばらになったカケラをでたらめに貼り合せたような、歪な仮面に似た少女の顔を見る。
様々な感情が交錯し、どんな表情をしているのか自分でも分かっていないに違いない貌を見つめる。
(お前のその顔じゃ……証拠にならないか?)
ここに鏡があれば見せてやりたかった。もしも演劇がシンデレラでなく白雪姫だったなら、魔法の鏡を用意出来ただろうか。
「貴方に似合うのは――やはり絵本のような、勧善懲悪、荒唐無稽な御伽噺の主役だな」
少女は夢を見るように、夢に浸るように、夢に溺れるように呟く。
「そして、私は『悪い魔女』だ」
もしかしたら、その一言が全てだったのかもしれない。
サーシャ=クロイツェフの迷いも決意も、全てはその一言の中にあったのかもしれない。
そう思った時には――
赤いシスターはまるで敬礼をするように、額に右手を当てた。
「トーマ。貴方は私を直接殴るべきだった。そうすれば、こんな結末は見ずに済んだのに」
え? と問い返す間もなく、滑らかな動作でサーシャの手が何かを引き抜いた。
そんなところから何を?
答えはまたも風が教えてくれた。
ゆるやかになびく金髪。
“ヘアピン”で止められていた前髪が下ろされたのだ。
「――――――あっ!」
サーシャの手の中にあるヘアピンの先端は、鋭く尖っていた。“まるで釘のように”。
「十一。遠いいつかの空で」
『図書室から持ち出せた霊装』は、あの銃一丁のみ。
「十二。自由に飛べたなら」
けれど、『常日頃から身に着けていた霊装』はカウントされない。
『サーシャ』と『ミーシャ』の最もはっきりとした相違点。
何故、そこに考えが及ばなかったのか――!?
「…………アンコール」
その囁きが呪文だったのか、指先でつまむように持たれたヘアピンが鈍い魔力の輝きを放ったように見えた。
細い指が最後の釘を落とす。重力に引かれてまっすぐ落下するその先には、サーシャの足の甲があった。
一瞬で、上条は思い出す。潜伏段階の『灰姫症候』は、発見されるのを防ぐため、自分の靴に所有者限定をかけるだけの効果にされているという話だった。
つまり、破壊するために狙うべき場所は――
飾り気のない上履きは今、まぎれもなく硝子の靴と化していたのだ。
「う――――おおおおおおおおっ!!」
叫びながら、駆け出しながら、上条は絶望的に直感していた。
距離が開きすぎている。足の筋力より重力の方が強い。腕の速さより落下速度の方が速い。
これは、間に合わない。止められない。
この釘は間違いなくサーシャの足を貫く。
脳裏に浮かぶ1フレーズ。
――――最低の結末(バッドエンド)。
それを払ったのは、やはり、また風だった。








  世界中の大好きを集めても 君に届けたい思いに足りない
  体中の愛がうたいだしてる ぼくらの鼓動は全ての始まりだよ ハレルヤ








時間が間延びしたように感じる。実際にはヘアピンが落下するわずかな時間だったはずなのに、歌声ははっきりと聞き取れた。
旋律に気を取られたせいだろう、集中が途切れ、ヘアピンにかかっていた攻性魔術が霧散する。上履きには当ったものの、何の破壊も行わずにコロコロと転がっていった。
上条とサーシャは空を見上げた。そこに誰かがいた訳ではない。しかし、確かにそこにあった。
風が運んできた、白い少女の歌う歌が。




  とんでる鳥にはわからない苦労 逃げだしたい気持ちは足かせ
  けってみたけど まわり続けてる ラールルー地球



  つまんないはずだったDANCE 君となら軽くSTEPふめる
  どーして大地が暖かいんだ




(放送室をジャックして海賊放送……お祭りじゃなきゃできませんよねー)
回転椅子に腰掛けて足をブラブラさせながら、小萌先生は目の前で行われているコンサートを観賞していた。
舞台道具はマイクのみ。出演者は一人。聴衆は恐らく全校生徒。
最初このシスターの少女に「学校中に声を届かせる方法はないか」と迫られた時には仰天したものだが、これほどの歌を特等席で聴けるのなら文句は無い。
祈るように目を閉じ、胸の前で小さく拳を作って歌う彼女の姿は、聖職である教師の目から見ても神聖さを感じずにはいられなかった。
だがそれでいて、ひどく人間らしい感情も伝わってくるのだから、大したものだ。
神様に捧げる歌ではない。手を取り合える誰かのための歌なのだと。
小萌先生は自然に――マイクに届かないように――口ずさんだ。




  ハレルヤ




歌はそこいら中のスピーカーから流れているらしい。誰もが作業の手を休めて聞き入っていた。
上条は嬉しかった。シンプルにそれだけを思う。
きっとこの歌には何の意味もない。
メロディに乗せて『強制詠唱(スペルインターセプト)』を試みるとか、『零時の鐘(ロンドベル)』の魔力拡散波を打ち消す波を作るとか、そんな下心は存在しない。
ただ歌い、ただ届けと。
押しつけじゃなく、あなたが何処で何をしている時にも、私はここにいるんだよと伝えるために。




  世界中の大好きをひきつれて 君に届けたい思いは一つ
  体中の愛がとびだしそうさ ぼくらの鼓動は全てをぬりかえてく ハレルヤ




彼はサーシャに歩み寄った。少女は空を仰ぎながら耳を澄ましている。
その邪魔をしないよう、静かに話しかける。
「いい歌だな」
「………………うん」
「俺達の、友達の歌だもんな」
「………………うん」
「じゃ、ここで回答四だ」
「え?」
「サーシャを直接殴らなかった理由。これから舞台に上がる役者の顔に、傷なんかつけられないだろ?」
「………………うん」
泣いてはいなかった。演技ではなかった。
彼女の今の表情を説明するのに、これ以上の言葉はいらない。




  世界中の大好きを集めても 君に届けたい思いに足りない
  体中の愛がうたいだしてる ぼくらの鼓動は全ての始まりだよ ハレルヤ




 がやがや……ざわざわ……と、人ごみに特有のさざめきが舞台袖まで聞こえてくる。騒がしくはなく、大人しくもなく、これから始まることへの期待感が隠し切れなかった分だけ漏れ出しているような感じだった。
 体育館の入り口には、このイベントの名前がでかでかと書かれたポスターが貼り付けられている。
 生徒代表(プラスα)による演劇『シンデレラ』プレ公演。
 五時開演と告知してあったのだが、四時を少し過ぎたあたりから人が集まり始め、三十分後にはほとんどの座席が埋まっていた。五時五分前の現在では、立ち見客がでるほどになっている。全校生徒全教員に加え、近隣の学生なども集まっているのではないだろうか。
 この公演を見るために、ほかの場所の作業が通常の数倍のスピードで進んだというのは、誇張でもなんでもなかったりする。
 そんな本番直前の舞台裏。
「とうま、とうま。この帽子どう? 似合ってる?」
「いやーしかしすごい混み具合だなー。三〇〇人、いや五〇〇人、いやいやもっとか? そんなに椅子並べたっけかなぁ」
「ねぇねぇとうま、とうまってば」
「あれ? 客席最前列に何やら見覚えのある他校(よそ)の制服が……って美琴と白井!? なんであいつらあんな肘掛とドリンク置きのついた豪華なパイプ椅子に座ってんの!? しかもそれでも不満っぽいし! おのれブルジョワ!」
「…………………………」
「え? 言祝、何だって? かみやんマスク捕獲部隊の士官待遇? 一発ネタじゃなかったのかてか人の知らねーとこで物騒な組織運営してんじゃねーよ! お前の一声でどんだけの戦力が集まるんだ!? あのな、そんな風に考えもなしに勢力を広げてると、その内アステカスマイルに輝き殺されるぞ。あるいは糸目のロリコンに誘拐されるかもしれんし、黒光りしたサンゴが集団で襲ってくるかもってぎゃあああぁぁぁぁぁ……(フェードアウト)」
 場所柄を考慮した慎ましい悲鳴が上がる。ネズミ着ぐるみ(リバーシブルで馬に。芦田先輩渾身の力作)の上条当麻は踏み潰された足の小指をつかんでけんけんしつつ、その少女を睨んで言った。
「インデックスぅぅぅぅ! 何しやがる!(小声)」
 シスター少女は靴の踵を修道服の裾に隠しつつ、素知らぬ顔でそっぽを向く。どこから持ち出してきたのかお嬢様風の帽子など被っていたが、いつものフードの上に乗せているので似合っているとかどうとかいうレベルではない。
 その騒ぎの横で王子様ルックの吹寄が「また上条はあんな小さい子に……」とイライラ呟き、魔女装束の姫神は「まあ。今さらではあるのだけど」とひっそり腹を立てていて、上条とお揃いの着ぐるみを着た青髪ピアスは「あはははー! テンションうなぎ登りやー!」とヤケクソにわめいている。
 なぜインデックスがここにいるのかというと、それはずばり言祝栞が連れ込んだからだった。海賊放送で校内を魅了した美声に監督少女が目をつけないはずがなく、飛び入りでナレーションをさせようと目論んだのである。ちなみにその情報が知れ渡ると観客動員数は一.五倍ほど増えた。
 ちなみに、『灰姫症候(シンデレラシンドローム)』は海賊放送に文句をつけに来た教頭先生に貼り付けた。元々人気のない人だし、機嫌の悪い今は特に近寄る者もいないはずだから、公演が終わるまでは大丈夫だろう。
 さてそんな混迷とした本番直前の舞台裏で、主演女優たるサーシャ=クロイツェフは何をしているのかというと、
「はいどうぞ。サーシャちゃん」
「…………ありがとう」
 缶入り紅茶を差し出してきた言祝と、壁際に並び、それきり何を話すでもなく沈黙を続けている。
 言祝はその後も音声増幅(ハンディスピーカー)で指示を飛ばしたり、上条をおちょくったり(上手く調節してあるので音量に関わらず客席には漏れない。便利な能力だと思う)、自分の分のジュースを飲んだりしていたが、一向にサーシャの傍を離れる気配は無い。
 気まずい、という言葉の意味を嫌というほど実感する。
 何を話せばいいのか、分からない。いや、話せることなど一つもないのだ。サーシャが言祝に返せるのは、亀のような沈黙のみ。
 互いの関係が魔術サイドと科学サイドだから、魔術師と超能力者だからなんてくだらない理由からじゃない。
 任務と友達を天秤にかけてしまったことを知られるのが、どうしようもなく恥ずかしかっただけ。



 でも、このまま黙っているのは、何故か嫌だ。このまま何も言わないまま終わってしまうのは、きっと辛いという確信めいた予感がある。
 この街でサーシャが知り合った人達なら、笑い飛ばしてしまうくらいちっぽけな悩みなのだろうけど、彼女にとっては生まれて初めての苦しみだった。葛藤(ジレンマ)はロシア成教のシスターとして絶対に抱いてはいけない感情だったから。
 揺らぐ心には魔が宿る。それを嫌というほど見てきたはずなのに。
 今、サーシャには自分で自分が分からない。
 何も聞かれないことを言い訳にして、何も言わない。でもどこかで胸の内を明かしたいと思っている。
 責められないことを言い訳にして、謝らない。でもどこかで許されたいと思っている。
 ただ一つ確実に言えるのは、上条の言葉とインデックスの歌に応えたいと思っている自分がいるということだ。
 だからこの演劇だけは全力でやり遂げる。最高の演技を見せる。
 そして、その後は――
 と、
「聞かないのって聞かないの?」
「なっ」
 不意に言祝が口を開いた。思考に埋没していたサーシャは反応できずにおかしな声を上げてしまう。
 それがおかしかったのか、監督少女はくすくすと肩を揺らし、
「まあいいのですけどね。聞かないのって聞かれても聞かないよとしか答えないし、聞かないのって聞かれなくても聞かないんだからかまわないんだけど――」
「待った、シオリ、待って」
 早口言葉のようにまくし立てる言祝を、サーシャは両手を突き出して制しようとする。
 何なんだ、この状況は。
 なんであんなことがあったのに、この人は、この人達はサーシャに笑いかけることが出来るのか。
 責められるのならまだ理解できる。それが一番自然な反応だと思う。
「そうとも限らなかったりするのが、人間の面白いところなのですよ」
「……え!? 今、私、」
「ああ別に読心能力とかじゃないから。サーシャちゃん、きっと自分で思っている以上に考えてることが顔に出やすいよ」
 思いもよらないことを言われ慌てふためくが、それも監督少女の含み笑いを増量させることにしかならない。
 それをひとしきり堪能すると、言祝は空になった缶を床に置き、
「サーシャちゃんはさ、舞台に上がってくれたじゃない」
 まるで過去のことのように言う。
 私達の舞台はこれから始まるのでは、と返しかけて、違う意味なのだと気づく。
 彼女が言っているのは“ここ”ではない。
「どんな事情があったとしても、どんな秘密があるのだとしても、私にとっては私の演劇に参加してくれた“貴女が”サーシャちゃん。」
 誰よりも傍若無人で、誰よりも重責を担ってきた監督少女は、サーシャにしか聞こえない声で、サーシャのためだけに言祝ぐ。



「……それがお芝居でもいいじゃない。同じ世界(ぶたい)に立ってるってことなんだからさ」



 誰も本音だけで生きているわけじゃない。演技(うそ)もつけば化粧(かめん)もつける。
 でも、だからってありのままを分かって欲しくないわけじゃない。
 矛盾していても、その両方を抱えていくのが人生だ。
 サーシャは悟った。さっきまで、自分は「友達」という「本当」だけを見て悩んでいた。それでは駄目なのだ。今日に至るまでについてきた「嘘」も、全部ひっくるめて答えを出さなければいけなかったのだ。
 魔術師と超能力者という立場の違いを下らないものと切り捨てたことの愚かさをようやく知る。そんなのは身分を偽った「嘘」を誤魔化すための方便だ。
「友達」という「本当」を大切に思うのなら、「彼らから見たサーシャ」という「嘘」も守り抜かなければならない。
 誤解も偽りも、今となっては、手放せないくらい暖かなものになってしまったのだから。
 小さく小さく、言葉がこぼれる。
「………………もう少しだけ、この舞台の上にいてもいいのかな」
「ん? 何か言った?」
 言祝が聞き返してくる。自分が言ったことなどもう忘れてしまったかのような、吹き抜けのようにすっきりとした声で。
 その向こうでは上条達がぎゃあぎゃあ騒ぎながらも最後の準備をしている。これからのために。これまでのために。
(……うん。確かに、もったいない)
 心の中であの『悪魔』に感謝してみたりして。
「別に。少し元気になっただけ」
「それは何よりなのですよ」
 差し出された手を、迷わずとる。
「本当」も「嘘」もまとめて握り締めて。



                    ◇   ◇




 その頃。体育館の屋上。
 どこから登ったのか、土御門元春は屋根の端に腰掛けて遠くを見るような目をしていた。
 彼の尻の下では、今まさに演劇が始まろうとしている。普通ならどきどきわくわくしてもよさそうなものだが……そういう気分ではなかった。
「なんだかにゃー」
「こんなところで何してんだー? 兄貴」
 土御門が振り返ると、これまたどこから登ってきたのか義妹の舞夏がいた。メイド見習いの少女はジュースやお菓子の詰まったバスケットを提げ、ドラム缶みたいな掃除ロボットの上に正座している。この状態で屋上にまで登る方法なんてあるのだろうか。
 が、義兄もこのくらいの不条理には慣れっこなようで、気にした様子もない。
「……ん、舞夏。お前、演劇見に行かなくていいのか?」
「どうせ本公演で売り子するしなー。美味しいものは最後まで残しておくタイプだしー」
 そうか、とだけ答えて土御門は再び遠くを見る目をする。
 どうにも覇気のない義兄を、舞夏は訝しそうに見る。すると、彼がその手に何やら赤いものを持っていることに気づいた。
「何だそれー? …………絵本? 兄貴、まさかとうとうやっぱり児童文学にまで萌えを求めるように」
「淀みのなさが酷いぞ妹よ。――まあ、ちょっとメランコリック入ってるお兄ちゃんを心配してくれるのは嬉しいが」
「いいからはよ言え」
 今度はちょっぴりしょげる妹愛の伝道師、土御門元春。気を取り直して赤い絵本を開くと、表紙の裏側に落書きだらけの折り紙のようなものが貼り付けられていた。
 彼はそれを爪でつまんでピッと剥がすと、二つに四つに八つにと引き裂いていく。
 季節はずれの桜吹雪のように、細かくなった紙片が散っていく。
 最後に手の中に残った細切れを投げ捨てて、ぼそっと呟く。
「『迷子札』。……ウチのお姫様もあのびっくりホルマリンも、もう少しましなやり方があるだろうに……」
「兄貴ー? よくわからんが、ゴミのポイ捨てはいけないんじゃないかー?」
「そうだな。お兄ちゃんは悪いお兄ちゃんだ。だから皆に合わせる顔がなくて、こんなところで黄昏れてるんだ」
 それは彼の偽らざる本音だった。誰に対しても数え切れない嘘をつき続けてきた『背中刺す刃』がこのような弱みを見せる相手は、決して多くはない。
 しかし、舞夏は彼の事情は知らない。知らされていない。彼が滅多に言わない弱音を吐いているのだとしても、それと判断する基準がない。
 ただ、そういう秘密も義兄の一部だと知っているから、舞夏は何も気にすることなくいつものように接する。それが最良なのだと思っている。
「――――ところで兄貴」
「ん?」
「あれは何なんだー?」
 と、舞夏が指差したのは屋上の別の場所。そこにはスーツが所々凍りついた細目の男と特徴的なヘアースタイルに風穴が開いた男とやばい催眠術でもかけられたみたいに目がぐるぐるしている爽やかそうな少年が大の字になって倒れていた。どんなすさまじいバトルを展開していたのか、三人とも息絶え絶えである。
 耳を澄ませば、うめき声に混じってかすれた会話が聞こえてくるような気もする。
「……け、結局貴方がたは何しに来たんですか……?」
「……一端覧祭の前売りフリーパスが一枚しか手に入らなかったので……その、決して彼女のためという訳ではないのだが、確実に当日券を手に入れたく……色々と下調べを。いや、彼女が一緒に祭に行くのをとても楽しみにしていたとか、そのような理由では絶対にないのだが」
「俺はあれよ。とある女教皇(おひと)がご執心の方々が、今度のお祭りでおもしろそうなことやるって聞いてな。忙しいあのお方の代わりに記録映像でもと思ったんだが……どこの学校だか聞くの忘れたんで、早めに来て調べてたんよ。で、あんたは?」
「自分は……ちょっと訳あってこの街の近くに軟禁されてたんです。ようやく開放されたので、以前迷惑かけた人に謝りに行こうと思ったんですが――」
「が?」
「その人、自分に会うなりこう言ったんですよ。『腕の皮くらいいくらでもやるから、ちょっと変わり身やってくれ』と。その日のうちに彼はバカンスに出かけました」
「あー、その顔借り物なのな。爽やかそうなルックスしといて腹黒いなぁそいつ」
「断じて間違っても彼女に責任はない。彼女のためなどではないのだからしかし」
 土御門は激闘の果てに奇妙な友情が芽生え始めている三者をちらっと見やり、
「気にするな。そういう季節なんだ」
「そうかー」
 かなり投げやりな感じに、舞夏はうなづいた。納得した訳ではなかろうが、世の中にはそういうこともあるのだ。
 そして、土御門義兄妹は揃って校庭の方に目を向けた。
 割と無視したかった光景がそこにあった。
 なぎ倒された並木。地面ごとひっくり返された仮設ステージ。『ぐわし』になった掌のオブジェ。エトセトラエトセトラ。
 校門から体育館まで、ほぼ一直線に竜巻でも通り過ぎたかのような有様になっている。ただし、地面に氷柱が幾本も突き刺さっていたり、屋台がネジ一本にいたるまで分解されていたりするのは、通り過ぎたのがまともな竜巻ではなかったことを示しているのかいないのか。
「…………誰がこの後始末を…………」
 公演直前で生徒教員のほとんどが体育館に集まっているため、今のところ騒ぎは起こっていない。しかし、公演が終わって観客達が帰りだす前に、魔術的事象の痕跡は消しておかなければならないだろう。
 決まりきったことを恨めしそうに吐きつつ、苦労性な陰陽師は頭を抱える。結局の所、彼の役回りなんてこんなもんだった。



                    ◇   ◇



 そして時刻は午後五時になる。
 同時に観衆は静まり返り、やがて厳かに幕が上がり始めた。
 白い少女の謳う声が、御伽噺に最初の色を着ける。



「――これはとある時代、とある国の、とある少女の物語。灰かぶりの少女と不思議な魔法使いが出会う時、奇跡の夜が始まります……」



 はじまり、はじまり。

               






行間 三





『彼女』と『彼』が中学二年の時の話だ。
『彼女』は中学から学園都市に転入してきた生徒で、その分能力開発などで他の生徒と開きがあった。
 七年時間割り(カリキュラム)を続けてきた人間と、一年弱しか受けていない人間では差がつくのは当たり前だろう。しかし学園都市という街では子供達にとってあまりに閉鎖的で、偏執的だった。能力の差は地位の差であるとどんな小さな子供でも普通に認識し、そのように振舞っている。
『彼女』がいじめにあうようになるのに、そう時間はかからなかった。
 ――何十年分も進んだ科学技術を有し、誰でも超能力が使えるようになる夢の街。
 絵本や漫画の中にしかないと思っていた楽園。
 子供心に抱いていた憧れは、現実という言葉に完膚なきまでに叩き潰された。
 ここは絵物語のように都合の良いことばかりが並べ立てられた幻想の世界なんかじゃない。痛いことも辛いことも、醜く汚い感情さえも存在するただの現実。
 帰りたい、と。枕を濡らした夜は数え切れない。
 だが、ある日。
 電撃使いの子数人に火花で追い立てられていた時、

「てめぇら! 何してやがる!」

『彼』が現れたのだ。
 レベル0。
 序列で言えば『彼女』よりも格下。何の異能も持っていないはずの少年。
 だけど、その時思った。
 超能力という幻想を身に宿しているこの街の誰よりも、
 何も持たない『彼』の姿の方が、ずっと幻想(ゆめ)みたいだったって。


 久しぶりに開いた古い日記帳の一番初めのページを、『彼女』――言祝栞は愛おしげに指でなでる。
 日記をつけるようになったのは、あの日からだ。『彼』に助けてもらったことが嬉しくて、絶対に忘れたくなくてノートに書き留めた。翌朝になって「彼」のことだけが書かれたノートを見た途端、無性に恥ずかしくなってしまい、熱すぎる風呂を水で埋めるように書き重ねていったのが始まり。
「我ながらウブなことなのですよ。うっかり萌えちゃいそう」
 言祝はその日記帳を自室の机の引き出しに収め、しっかりと鍵をかけた。
 人に見られたくないというのももちろんだけど、あまり身近に置きすぎると、あの日の思い出が風化してしまうと思うから。
「うーん。女の子してるなー、私」
 言祝は実は独り言が結構多い。それがあまり知られていないのは、音声増幅(ハンディスピーカー)で不可聴音に変換しているからだった。というより、練習の為にやっていた行為がそのまま癖になったと言ったほうが正しい。
 次に監督少女が机の上に広げたのは、今日プレ公演を行った「シンデレラ」の台本。
 表紙をめくり、役名と配役が書き込まれたページを開く。
 並べて書かれた役名の先頭。『シンデレラ』の欄には『上条当麻』の名前が二重線で消され、その横の余白に『サーシャ=クロイツェフ』と記入されている。
「……………………」
 結果としては、これでよかったと思う。観客の評判も上々だったし、何より可愛い後輩の願いを叶えてあげることができた。
 それでも、思う所はあったりする。
 あの日、いじめっ子から助けてもらった後、『彼』と少しだけ話をした。
 学園都市の子、それも男の子と二人きりで話をしたのはあれが始めてだった。『外』の学校のことを話すと『彼』はとても面白そうに聞いてくれた。
 そんな中で、どうして学園都市に来ようと思ったのかと尋ねられた時、当時の言祝はこう答えたのだ。

「夢のような場所だって……思ったから」
「夢、ねぇ」
『彼』の反応は馬鹿にする風なものではなく、ただ単に理解できないといった様子だった。
「確かにここには『外』ではありえないようなものが山ほどあるけどさ、“それだけのことだろ”? 塀で遮られていたって、その気になれば歩いてたどり着ける場所でしかない。大げさに憧れたり失望したりするほどのものなんて、初めからこの街にはないんじゃないかな」
「…………」
 それは言祝には、とっくに失望してしまった人間の言葉に聞こえた。
 砂の丘を延々と登り続けるような、緩やかだが終わりのない絶望。
 自分が諦めていることにすら気づけていないのが、なおさら悲劇的だった。
「夢っていうならさ、ほらあるじゃん、『将来の夢』って。そういうもんの方がよっぽど追いかけるべきものだって思うぞ。言祝にはそういうの、ないのか?」
「え……っと、……………………………………………………舞台監督」
「いい夢じゃんか」
 と、言ってくれた。
 瞬間、思いついた。
 助けてもらったお礼に、言祝が出来ること。
「もし、ね」
「うん?」
「もし私が監督になったら、かみやんくんを主役にしてあげるのですよ」

 ――とまあ。そんなこっぱずかしいエピソードがあったのだ。
 とても人には言えない。まるで小学生の恋愛ごっこのような思い出話。
 あれから二年。上条はすっかり忘れてしまったようだけど、言祝はずっと覚えていて、ずっと努力をし続けてきた。
 誰よりも素晴らしい幻想(ゆめ)を持っているのに、それを気づいていなくて、気づいてももらえない彼の為に、彼が主役の物語を用意しよう。
 自分がお姫様でなくたっていい。彼を大切に思ってくれる人を、たくさんたくさん見つけてあげるんだって。
「……、」
 でもそんなのは、“世界で自分だけが彼のことを理解している”という思い上がりに過ぎないと、そのうち気づいた。
 言祝が何をしてもしなくても、上条当麻という人は体当たりで他人と接し続けた。時には対立したり、誤解されることもあったけど、次第に『誰かにとってその他大勢ではない人間』になっていった。
 それは言祝が上条と出会う前からずっとそうだったことで、今も、そして未来でも変わらない彼の生き方だ。
 わざわざ舞台の上に担ぎ上げなくても、上条は大丈夫。だんだんそう考えるようになっていく。
 決定的だったのは、上条がサーシャを連れてきた時のことだ。
 女の直感、とでも言おうか。“サーシャ=クロイツェフはこれからも上条当麻と関わっていく。彼を主人公とした物語のなかで”。そう確信してしまった。
 そして自分が、『上条を舞台の主役にすること』を自分にとってのゴールにしてしまっていたことを悟った。この舞台が終わればハッピーエンドだと、決めつけていた。
 そんな身勝手なエンディングに、これからも『誰かにとってその他大勢ではない人間』になっていく人を引きずりこんではいけない。
 だから。
 ――後のことは語るまでもない。
 満足のいく結果を出せたと思う。三日後の本番にも不安は微塵もない。
 最高の舞台が、上条とサーシャを中心にして出来上がるに違いない。
「だから」
 言祝は思いを言葉に変える。。
 だからこそ、これでめでたしめでたし(エンディング)にはしたくない。
 自分で決めたシナリオに浸るのではなく、これから先の誰にも予想のつかない舞台に出演して(とびこんで)いきたい。
 メガホンで遠くから声をかけるだけの生き方は、もうやめだ。
「つまるところ…………本格参戦なのですよ」
能力を使わなくても誰も聞いていない言葉は、ひそかな宣戦布告。級友達や、それ以外の大勢のヒロイン候補達への。
 恐れも気負いもない。
 女の子は皆、お姫様になるために生まれてきたのだから。



                    ◇   ◇


「…………と、そうだ」
 もう一つ気になることがあったんだっけ、と言祝は我に変える。
 今さらだが部屋の中を見回して、他に誰もいないことを確認。
 空間の中心に顔を向け、“意識して”、適当な言葉を呟く。

 「…………しゃーぶーしゃーぶー(×6)」

 口から出た声は一つ。
 耳に届いた声は“六つ”。
“部屋のあちこちから言祝の声が発せられたのだ”。
「5.1チャンネルサラウンド?」
 いやボケてる場合か。
 気づいたのは学生寮の自室に帰ってきた時。いつものように意味のない独り言を音声増幅で打ち消しつつ呟いていたら、声が変な方向から帰ってきたのだ。
 言祝の音声増幅は、本来自分の顔の前に空気の膜を作り、それを通り抜ける音の音量や周波数をある程度操作する能力だ。
 その気膜を、“何故か好きな場所に複数同時に”作ることが出来るようになっている。今のは顔の前に作った膜(仮に親膜としよう)で不可聴域に変換した声を部屋のそこここに配置した気膜(子膜でいいか)で可聴域に再変換し、更に自分の立っている場所に帰ってくるように指向性を持たせてみたのだ。
 これまでは――少なくとも昨日までは絶対に出来なかったことである。
 空気膜を一つ作るのと二つ作るのでは、思考演算は単純に二倍になるわけではない。音波の相互干渉、空気の密度変化など計算しなければならないことが山のように増える。だから年季の浅い言祝にはこれまで一つしか気膜を作ることが出来なかったのだ。
 それが何故か、超楽勝。まるで設計図が最初から頭の中にあるみたいだ。
 さっきは親一つに子六つの計七つを作ったが、この調子だと子膜は“十二個”くらい同時に作れそうな気がする。数字に特に理由はないけれど。
「しっかし……最近は開発の成績、そんなによくなかったんだけどなぁー」
 眠っていた才能が突然開花した――訳はないか。
 しかし、それにしても急激すぎる変化だ。
 すると、何かきっかけになるようなことでもあったのか。
「そう言えば――」
 昼間、理由はわからないけどサーシャが突然暴れだし、当身をくらって気絶して担ぎ上げられた後(冷静になってみるとすごいことをされたもんだ)、気がついたときには体育館の屋根の上で何やら『魔法陣』のようなものの中に寝かされていたが……
「……まさか、ね。話は聞かないと言っちゃった手前、撤回する訳にもいかないし。なるようになるのですよー」
 宿った“異質”を正しく認識することもなく、言祝は寝間着に着替えるためにクローゼットに向かった。
 図らずも、それが彼女を強引に『上条当麻の立っている舞台』に押し上げることになるのだが、それはまた別のお話。




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