第一章 翼なき者たち Red_Angel
一端覧祭。
それは全学合同大規模体育祭「大覇星祭」と並び称される、学園都市のもう一つの目玉イベントである。
「一端(花)」、つまり隅っこに咲く一輪の花までご覧あれという意味で名づけられたこのお祭りは、ようするに大覇星祭と同じく全学合同で行う文化祭だ。学区ごとに四~五校を会場として選出し、そこに各学校の代表がそれぞれ出し物を持ち寄って発表する。巷に溢れたSFXとは比較にならない正真正銘のSience‘non’Fictionを駆使した演劇や映像作品の完成度は、名前だけの名作映画など軽く凌駕する。
大覇星祭ではどうしても体育会系(スポーツエリート)校に水を開けられてしまう文系の学校では、最初からこちらに比重を置いて準備している場合もあるのだ。
しかし、会場が限定されている以上一校ごとに振り分けられるスペースと時間はあまり大きいとは言えず、加えて代表選出制であるため、展示、劇や演奏の発表、模擬店などで参加する者以外は大抵ヒマになる。そういった生徒は、のんびり祭りを見て回ったり、大覇星祭で疲れた体を労わるのが常だ。
規模こそ大きいものの学校ごと、学生ごとの負担は少なく、それでいてしっかり楽しめるというのだから申し分ない。他の学校との交流にもなるし、財布と相談にはなるが、開催中の三日間、学業を忘れて遊び倒すことができる。
外来の客も受け入れてはいるが、一端覧祭はあくまで学生たちが楽しむためのイベントなのだ。
「……………………そんな謳い文句を信じていた頃が私にもありました」
学園都市の高校生上条当麻は、両手一杯に木材を抱えたままぐったりとつぶやいた。
時刻は午後四時。一日の授業が終わって家路につく生徒の波に真っ向から立ち向かうように、上条はふらふらと自分の高校を目指す。
形も大きさも様々な木材を一まとめにして持つのにはかなりの集中力と体力が要る。そのどちらも尽きかけていた上条だったが、ふとこぼれた声には先行する人間を振り返らせるだけの大きさがあったらしい。両手でペンキ缶をいくつか吊り下げたその人物はため息混じりに、
「上条。――そんっなに一端覧祭の準備のために汗水流して働くのが不満?」
吹寄制理。
背中まで届く長い黒髪、制服の上からでもわかる出るとこ出ているスタイル。美人といって差し支えないルックスの持ち主だが、心底不機嫌そうな表情がまるごと全て台無しにしていた。彼女は制服の上から薄手のパーカーを羽織っており、その背中と左腕には一月前に見たものと三文字だけ異なる言葉がプリントされている。
一端覧祭運営委員。
上条はよたよたと歩きながら、
「不満っていうんじゃなくてさー。ただあれだけ大覇星祭(おおあばれ)した後なんだからもう少しくらいインターバルがあってもよかったんじゃないかと上条さんは思うわけですよ」
「何を今さら。毎年大覇星祭の後には一端覧祭と決まっているでしょう。貴様は小学校の頃から学園都市にいるんだからもう慣れっこなんじゃないの?」
う、と上条は言葉に詰まった。
諸事情あって、上条は記憶喪失なのである。人生の大半をこの街で過ごした生え抜きの学園都市っ子でありながら、イベント事などの思い出はさっぱりない。
上条はなんとかそれを悟られないようにしようと、
「それでもなー、なんか今年は特別ハードだったような気がする。そういや吹寄は中学からだっけ?」
「まあね。でもどうでもいいでしょそんなの。皆待ってるんだからとっとと帰るわよ」
「…………、」
吹寄は上条に目もくれずすたすたと歩いていく。
これで結構馴染んできたと思えるのが吹寄制理のすごい所である。
以前なら問答無用で「どうでもいい」と言われていただろうが、最近はその前に一応「まあね」が付くようになった。だからどうしたと言われればそれまでだが、たとえ小さくてもこの一歩は偉大な一歩であると上条は信じたい。
上条は吹寄の数歩後ろをえっちらおっちら歩きながら、
「それにしても、まさかウチの高校が会場に選ばれるなんてなー」
「大覇星祭で暴れすぎたもの。注目も浴びるわ」
「吹寄もまた運営委員に立候補するし」
「日射病で倒れたりで、ちょっと不完全燃焼気味だったから」
「小萌先生がステージのトリを引き当てたりしたしな」
「頑張らないとね」
「ところでどうして俺が材料の買出しに名指しでつき合わされたのでせう?」
「男子でジャンケンしたところでどうせ負けるのは貴様でしょう。省ける手間は省かないと」
「…………、」
この一歩はどこへ続く一歩なんだろうとか思いつつ、上条は木材の束を抱えなおした。ささくれだった部分が腕の肌に当たって地味に痛い。衣替えまだかなーあれそういや冬服ってどこにあるんだろう? と考えていると正面から誰かが歩いてくるのが目に入った。
上条たちよりいくらか年下に見える外国人の少女だった。
インデックスと同い年くらいだろうか? 体格(スタイル)もどっこいどっこいに思える。しかし、どこかの女子高のものらしき制服に身を包んだ少女の髪はゆるくウエーブのかかった金髪だった。大きな水色の瞳は上条たちを見ることなく彼らの後方――つまり前方に向けられている。彼女も買出しの帰りなのか、両手で大きな手提げ袋を持っていた。持ち手の紐や袋の布の伸び具合からすれば、中身はかなり重いものらしい。行き先が真逆でなければ――そしてこの荷物がなければ、手伝ってあげようかと思うくらいに。
「……上条」
と、吹寄は唐突に、
「貴様、道を歩いている時でさえ新たな攻略(ルート)の捜索に忙しいようね」
「え、えー! 振り返りもせず何を言い出すんですか吹寄サン! ただ俺はちょっとあの子の持ってる荷物が重そうだなーと思っただけで!」
「それよ! そんな浮ついた考えを脊髄反射で実行に移すものだから『親切からフラグが始まる男』と呼ばれるのよ貴様は! そーかそんなに荷物を増やしたいんだったらこのペンキ缶も持ってなさいそらそらそら!」
「うお! 角材の先端に絶妙なバランスで缶がのっかっている……! ってこのままじゃ俺は一歩も動けないのですが!?」
知るか馬鹿! と何故か一層不機嫌さを増した吹寄は、それでもちゃんとペンキ缶を回収してくれた。うう、と涙ぐみながら崩れかけた木材の束を抱えなおしたときには、ちょうど例の金髪少女とすれ違うところだった。あれほど無駄に騒いでいた上条たちに目もくれず、少女は黙々と歩きさってゆき、
ポトリ、と手提げ袋から何かを落としていった。
「「………………、」」
運命ってなんだろうと思いつつ、横で『これがカミジョー属性の底力ってわけね』などと半眼でつぶやいている吹寄に脅えつつ、しかし落し物に気づかずに行ってしまいそうな少女を放っておくこともできずに『親切からフラグが始まる男』上条当麻は遠ざかりかけた背中に声をかけた。
「あのー、何か落としましたけどー?」
金髪少女はぴた、とビデオの停止ボタンを押したみたいに立ち止まった。
上条は落し物を拾ってあげようとして――両手とも塞がっていることを思い出し、それでもとりあえず何を落としたのかくらい確かめようと視線を下げ、
どう見ても「バールのようなもの」です。本当にありがとうございました。
上条は一瞬硬直した。
いやいや一端覧祭の準備中なんだから釘抜き(バール)なんて珍しくもなんともないですよ? トンカチノコギリヌカにクギ。最終日のステージで演劇をすることになっている上条のクラスでは、大道具係の生徒が毎日遅くまでトントンカンカンと音を鳴らしている。それにしても脳から送られてくるこの危険信号はなんなのだろう。七月以前の失われた記憶ではなく、ここ二ヶ月間の記憶が警鐘を鳴らしていた。
見覚えがあるのだ。このバールに。
芋の蔓を引くように、次々と映像が浮かんでくる。
ちぐはぐになった世界。
降り注ぐ星々。
巨大な、余りにも巨大な翼を広げた『とある存在』――
上条は顔を上げ、振り向いた金髪少女の顔を見て呟いた。
「……ミーシャ?」
直後、上条の足元に連続して五寸釘が打ち込まれた。
「うおおおおお!?」
いきなりのことに腕の中の木材を下ろすこともできず、上条は恐怖のコサックダンスを踊る。死に物狂いで釘が飛んでくる方を見やると、袋を地面に落としストッパーの外された全自動デザートイーグル型釘打ち機「ハスタラ・ビスタ」を構えた金髪少女がいた。ガガガガガガとけたたましい音を立てて乱射される釘は、命中すれば確実に上条の足をアスファルトに縫い止めるだろう。
「ちょ、今、今つま先かすった! そして吹寄はどうしてそんな冷たい目で俺を見る!? 助けて運営委員サマ!」
「女性絡みで、貴様が正しかったことが一度でもあった?」
きびしー! と絶叫しつつ、上条は踊り続ける。赤い靴を履かされたカーレンの気分だった。
やがて弾槽――そう呼んで差し支えあるまい――が空になったのか、金髪少女は釘打ち機を下ろした。地獄の針山もかくやという有様になった歩道で、少女が呟く。
「問一。何故私を男性の名前で呼ぶのか。容姿体型が理由であるのならすぐさま神の御許に送るが」
その言葉の意味を理解するために、上条は思考をフル回転させる。
思い出すのは板ガムをもむもむ噛んでいた姿。下着みたいな服を着て、羽織ったマントの中には幽霊退治用とかいう怪しげな拷問器具で一杯だった。目の前の少女に、イメージの中で前髪を下ろさせ赤いフードをかぶせてみて、上条はこの少女が「御使堕し(エンゼルフォール)」の騒動の時に出会ったロシア人シスターであることを確信した。
――いや、正確にはこの少女の『外見』を持つ者に出会っていたことを思い出した。
「あーそっかそっか。ミーシャってのは『中身』の方の名前だっけ。じゃあお前は………………あれ?」
「解答一。サーシャ=クロイツェフ。……なるほど。ブラザー土御門から聞いた話を統合してみるに、貴方が上条当麻か」
うなずく。それで金髪少女――サーシャはようやく怒りを収めてくれたようだった。上条はそろりそろりと釘の刺さっていない地面を探して体勢を立て直す。
改めて見ると、サーシャは夏休みの海で見たミーシャ=クロイツェフとほとんど同じ容姿をしていた。地球に住む全ての人間の『外見』と『中身』をランダムに入れ替える大魔術「御使堕し」の影響を受けていたのだから当然といえば当然だ。違うのは前髪で目が隠れていないことと、服装くらいか。髪型はまだ気分の問題で済むかもしれないが、
「ん? でも確かサーシャ=クロイツェフってのはロシア成教のシスターだって聞いたような。なんで学園都市の学校の制服着てんの?」
「問二。ロシア人が日本の学校で勉強してはいけないのか?」
は? と上条が返答に詰まると、
「追加説明一。ロシア国籍を持つ者が日本の学校に入学してはいけないという法律は露日どちらにも存在しない。私がロシア成教のシスターであることについても同様。貴方の発言は勉学の自由と信教の自由を侵害するものと受け取って構わないか?」
「え!? そんな深い意味で言ったつもりはなかったんだけど! ただ魔術(そっち)側の知り合いを見かけた時には毎回毎回ろくでもない事件が起こってるもんだから、そんな中サーシャがごくごく平和的に一端覧祭の準備をしていたことが不思議に思えたんだって!」
「私見一。おそらく貴方の期待には沿えることだろう」
てことはやっぱりなんか起きてるんですねー! と上条は大空に向けて叫んだ。腕の中の木材と地面の釘がなければこの場でのた打ち回っていたかもしれない。
とその時、これまで傍観していた吹寄が会話に参加してきた。
「よく分からないけど、とりあえず上条の知り合いってことなのね?」
「うー……そうとも言えるようなそうとも言えないような……」
「どうなの?」
訂正。吹寄が尋問を開始した。
しかし、なんとも答えにくい質問である。
上条が知っているのはサーシャの『外見』だけであって『中身』とは初対面だ。しかしこうして会話していると、まるっきり「ミーシャ=クロイツェフ」と変わらないような気がしてくる。おそらく「ミーシャ」の方が「サーシャ」を真似ていたのだろうが……。
サーシャは困っている上条に近づき、小声で、
「(問三。この状況はあれか。痴話喧嘩なのか?)」
「(ぶほっ!? い、いきなり何を言い出しますかサーシャさん!)」
「(私見二。あの少女は恋人に自分の知らない女性の知り合いがいたことに憤慨しているようにしか見えない)」
「(いや吹寄はいつもあんな感じだから。あと一応年上相手に『少女』とか言うのやめような。んでもって吹寄は魔術とか一切関係ない人間なんでそこんとこ特にヨロシク!)」
「(解答二。……了承した)」
サーシャは上条から離れ、吹寄の方に向き直った。なんとなく只者でないことを雰囲気で察したのだろう。吹寄の表情が若干真剣なものになる。
「宣言一。貴方の質問にお答えしよう」
サーシャはよく通る声で言う。彼女の背中を見ながら、上条はサーシャがどんな風に説明するのか少し不安になってきた。なにせサーシャの方は上条との面識はまったくないのだ。なんだか土御門から話を聞いてるみたいなことを言ってたけどどうなんだろう?
そして金髪シスターは吹寄の目を見て、
「解答三。彼とは夏の海でゴムをもらった関係だ」
刹那、場の空気が音を立ててひび割れた。
サーシャは自分の発言の問題に気づかずきょとんとしているし、吹寄はなんだか顔を真っ赤にしてプルプル震えているし、ついでに二人とも後ろでそれはゴムじゃなくてガムだからー! と叫んでいる上条の声は聞いていない。
「こ、の、」
吹寄は血管が浮き出るほど強く右拳を固めて、
「人類の恥めーーーっ!!」
木材の束を貫き、怒れる少女の拳が哀れな少年のどてっぱらに突き刺さった。
夕焼けが学園都市(まち)を染めるころ、上条は家路に着いていた。
あの後、ボロボロにされながらも吹寄の誤解を解いた上条は(間違いの意味を知ったサーシャによる八つ当たり追撃はあったものの)、もう一度木材を買いに行かされた(粉砕した当人にそれを命令されるのは理不尽だと思ったが)。
余計に余計な手間を重ねて木材を大道具係の生徒に届け終わり、その後も下校時刻になるまで作業をしていたのだ。
大道具係他何名かの生徒は残業組としてまだ作業を続けるらしい。その中にやけにやる気に満ちた青髪ピアスを見つけて上条はかなり驚いたのだが、
『なあカミやん。僕は気づいてしまったんや。看護婦さん婦警さん女教師さん、職業萌えは数あれど、いまだかつて大工さん萌えを唱えた男はおらへんかったということに。でも想像してみぃ? 夢のマイホームを建てるために清らかな汗を流して働く女の子を。ノコギリの刃で切ってもうた指を「失敗しちゃった……」とかいいながら涙目でくわえる美少女の姿を! どうやカミやん、これを聞いてもまだ居残りせんと帰るなんて言えますか!?』
上条は無言で彼の背後を指差した。そこには運動系クラブから寄りぬかれた筋骨隆々の大道具係たちがポージングつきで青髪ピアスを待っていた。
あれからどうなったのか、上条は想像さえしていない。とにかく一端覧祭の準備は滞りなく進んでいると言える。
もし上条にとって問題があるとすれば、それは、
「問一。貴方の居住地はこの近くなのか?」
校門を出たところからずっとついてきているこのロシア人シスターだろう。
いや、正確にはホームセンターで木材を買い直している時からサーシャは上条の後ろを歩いていた。教室までついてこられたりしたら吹寄なり青髪ピアスなりに何を言われるかわかったものではなかったので、校外で待っていてもらったのだが。
上条は少し歩幅を緩めて、
「そうだけど。何、疲れた?」
「解答一。問題ない。この区画の建物がそれほど立派でないのが気になっただけ」
「……放っといてください」
もともと上条の高校は「極めて特徴のない一般的な学校」である。最近はその域を脱しつつあるようだが、それですぐ学生寮が豪華になるわけはない。
女の子を連れて家に向かうというと普通ならばドキドキイベントの一つも起こりかねない状況だが、上条の生まれ持った不幸はそんな甘い希望など前提から粉々にしてしまっている。
狭い裏路地に差し掛かったところで、上条は聞いてみた。
「あー、ところでサーシャ」
無表情ではないが今一つ感情の読み取りにくい顔に薄い疑問の色が浮かんだのを確認して、
「そろそろ教えてくれねーか? 今学園都市で何が起きてんだよ」
「私見一。その質問はこれで七回目だと思われるのだが」
「いーから教えろ」
「解答二。その質問に今答えることはできない」
サーシャは先の六回と同じく、淡々とそう言った。
ホームセンターでも道端でも校門前でも上条は同じ質問をしたが、帰ってくるのも同じ返答ばかり。正直上条としては、事情のわからないままサーシャを“彼女”と引き合わせるのは気が進まないのだが、
(でも土御門の紹介ってことだし……………………………………よし、あてにならない)
上条の隣人、土御門元春は魔術サイド、科学サイドの両方に精通した多角スパイという超絶隣人である。
サーシャが言うには、彼女を学園都市に招き入れ、制服身分証明その他の世話をしたのは彼であるらしい。
今回の事件とやらが「魔術」サイドの問題であるなら、仲介役として土御門の名前が挙がるのもわからないでもない。しかし上条が「あてにならない」と考えてのは彼の人格を鑑みてのことである。
土御門は目的のためなら手段を選ばない。“たとえどれだけ自分を傷つけても”最良の結果が得られる道を選択する。
そして、その手段には種々様々な“嘘”も含まれる。基本的にいいやつなのだが、うかつに現状だけで判断するとどんなどんでん返しが待っているかわからない。それが土御門元春という男だ。
今日、上条が買い出しに出るまでは衣装係としてテキパキ働いていたはずの土御門だが、サーシャと会って戻ってきた時にはすでに早退していた。サーシャに適当な情報を与えた罰として(ついでにストレス解消として)二、三発殴ってやろうと思っていたのだが。しかし逆に言えばこれは、土御門がこの件に関わっていることの証明でもある。
(とりあえず、何が出てきても驚かない覚悟は必要だな。ま、神裂に学生服着せて突撃とかさせなかっただけマシだろ)
とても十八とは思えないウエスタンルックサムライガールを思い出し、上条はこっそりため息をついた。
そうこうしている間に、上条の住む学生寮が見えてきた。 直方形のコンクリート建築。こう言ってはあれだが、確かに立派そうには見えない。
「私見二。取り越し苦労であればそれに越したことはない」
不意にサーシャが口を開いた。上条は思わず振り返る。
重そうな手提げ袋を揺らしながら、サーシャは続ける。
「補足説明一。ロシア成教がイギリス清教に禁書目録の閲覧を要請したのは、今私が知っている未来予想が杞憂であることを証明したいがため。最も、要請が通った時点ですでに異常事態であるとも言える」
上条は告げられた言葉を吟味する。
そう、サーシャが上条についてきた理由は禁書目録――あの十万三千冊の魔道書の知識を得るためだ。
力ずくで奪いに来たのならば、上条は例え相手が年下の女の子であろうとも本気で殴って追い返すだろうが、今回はそうはいかない。サーシャの所属するローマ成教は、正当な手続きをもってイギリス清教から許可を得たらしいからだ。
どんな皮肉だ、と上条は思う。常に世界中の魔術師から注目されている“彼女”の周りで魔術的事件が起こったなら、それだけで幾多の魔術結社が動き出す切欠に成り得る。しかしイギリス清教からの正式な任務を全うできなければ、“彼女”は学園都市にいられなくなるのだ。
きっと“彼女”は泣くだろう。その事実は有り難く、その結果はあってはならない。
となると、あとは上条が死ぬ気で頑張るしかないのだが……
ちら、と見たサーシャの手提げ袋。やたら重そうな中身の全てが大工道具に見せかけた拷問器具だというのだから(まあ青髪ピアスは喜ぶかもしれない。くわえた指についた血はサーシャのものではなかろうが)、これほどの装備が必要と予想される事態がもし「取り越し苦労」でなかった場合どんなことになるのか。
(つーかあれですよ。もしかしてサーシャが派遣されてきたのって、この時期なら大工道具持って街を歩いてても不自然じゃないからとかそんな理由なんでは。それよりもこのまま“あいつ”と会わせたらめでたく紅白シスター対決ということになるのか。いやサーシャは今学生服だし決して断じてかろうじてまたあの衣装に着替えて欲しいなんてそんなふしだらかつ不健全な考えは浮かんでおりませんうわなんかど壺にはまってきた気がする!?)
「問二。貴方はさっきから何を興奮しているのか?」
「ぐはっ!? すみませんすみませんこの通りですからあの赤い靴コサックダンスだけは勘弁してください!」
いきなり平謝りしだした上条に面食らったのか、サーシャは大きな目をさらに見開き、
「……私見三。この街にはおかしなしゃべり方をする人間が多いという事前情報は正しかったようだ」
「…………てめぇにだけは言われたくないと上条さんは締めくくります」
感心しているのか呆れているのかわからないサーシャの台詞を、上条はぐったりと受け流した。取り立てて特徴も何もない玄関を抜けて建物の中に入る。
しかし、エレベーターに向かおうとしたその時、
「私見四。確かにこの問題は靴にまつわるものではある」
「…………は?」
さりげなく付け加えられたその言葉こそ、どういう意味を含んだものだったのか上条にはさっぱりわからなかった。
ついでに。建物の影から清掃ロボットに腰掛けたメイド服少女がじっと見つめていたことも上条にはずっぱりわからなかった。少女の右手には通話モードの携帯電話。
開錠。開扉。開口。閉口。
淀みなくプロセスが進んだ結果、上条は銀髪シスターに脳天をかじられた。
「うおおおおおっ!? イ、インデックス。何故お前サマはドア開けたところで待ち構え学校から帰宅した家人さんにお帰りのカミツキ攻撃を仕掛けますか!? 犬歯、犬歯がつむじにピンポイントで刺さるっ……!」
「まいかから電話があったんだよとうまがまた女の子連れ込んだって今夜はお楽しみかちびっこ二人相手なんてかみじょうとうまもやるなって言われたんだよもうとうまのばかばかとうまばかばかとうまばかとうま!」
「ばかが多いだろ絶対! それに一応言っとくけど今回はお前の客だから!」
「リセットして私見一。『今回は』という発言から察するに、そのくらいの罰は受けておいたほうがいいかと」
「事態をややこしくするようなこと言いながら一歩後ずさるなサーシャ。ほれインデックスもいい加減降りろ。このままだと話もできないし」
上条の上半身にしがみつき断続的に噛み付いていた少女は、その言葉でしぶしぶと床に降りた。
サーシャとほぼ同じ背丈の小柄な体を白地に金糸で彩った修道服で包んだ銀色の髪の少女。
彼女こそが、一度見たものは決して忘れない完全記憶能力を持ち、その小さな頭に十万三千冊もの魔道書を丸暗記しているある意味核爆弾などよりよっぽどぶっそうな存在――名をインデックスという。
もろもろの事情あって絶賛居候中の彼女はたいそうご立腹らしい。
インデックスは触れるだけで火花が飛びそうなほどのイライラを隠しもせずに、サーシャと上条を見比べて、
「とうま。私のお客さんってどういうこと?」
「あー、それも説明するけど。とにかく上がらねえか? 玄関で立ち話もなんだろ」
うう、と不満そうな顔をしながらも、インデックスは部屋の中へと駆けて行った。冷蔵庫を開ける音が聞こえたから、一応おもてなしをするつもりなのかもしれない。
上条は背後のサーシャに向き直り、
「えーと、とにかく上がってくれ。狭いところだけど。あ、靴はそこで脱いでくれよ?」
「解答一。了解した。自分の身は自分で守ることにする」
こいつら俺のことをどんな目で見てやがる、と上条は思ったが、怖い答えが返ってきそうだったので口には出さなかった。
案内がいるほど広い部屋でもないため、特に何も言わずリビングに向かう。床にはいろいろなもの(主にインデックスが読んだまま放置している漫画や雑誌)が散らかっていたが、お客様は気にした風もない。邪魔な場所にある何冊かを適当に片付けて、二人は部屋の真ん中に置かれた背の低いガラステーブルの前に座った。
そこへインデックスがお盆に麦茶の入ったグラスを三つ乗せてやってきた。科学音痴のインデックスはいまだに電子レンジは使えないが、冷蔵庫はただの「中が冷たい箱」だと割り切れば怖くないらしい。グラスをテーブルの上に並べると彼女も座った。紅白シスターが向かい合い、彼女らの間に上条がいるという構図である。
まだ痛む頭をさすりながら、上条は麦茶を一口飲んで喉を潤した。
「えーと、インデックス。この人はロシア成教のシスターのサーシャ=クロイツェフ。お前に聞きたいことがあってはるばる来たらしい」
続いて反対側を向き、
「んでサーシャ。こいつがお探しの禁書目録――インデックスだ。ちゃんと会わせたんだから、いい加減何が起きてるのか教えてくれよ?」
制服シスターは答えず、じっと銀髪シスターを見ている。対する側も上条の説明ではまだ納得がいかなかったらしく呪いのこもった視線で睨み返していた。
インデックスが鼻で笑った声を出す。
「ふん。ロシア成教の人間が何の用? 言っておくけど他宗派の人間に魔道書の知識を与えることは禁じられてるんだから」
「解答二。まさしく私は禁書目録の知識を求めてここにやって来た。そしてそのための許可もイギリス清教から取り付けている」
え? とインデックスが目を丸くした。しかし困惑した顔を向けられても上条にはどうすることもできない。サーシャがそうだと言い張っていただけで、具体的にどんな「許可」とやらをもらってきたのかは知らされてなかったからだ。
サーシャはごそごそと床に置いた手提げ袋を探り、何か小さな物を取り出してテーブルの上に置いた。
「証明。イギリス清教最高主教(アークビショップ)ローラ=スチュアートよりお預かりしたものだ」
それは上条もそろそろ見慣れてきたもの――十字架だった。
一口に十字架と言っても宗派ごと、用途ごとに様々な種類が存在するらしい。科学寄りの上条には全く見分けがつかないのだが、しかしサーシャの取り出したそれにはなんとなく見覚えがある気がした。
そう。「法の書」をめぐる事件の時、一人の修道女の命をつないだ十字架に似ている気がしたのだ。
「これ……!」
インデックスはテーブルの上の十字架をパッと手に取った。色々な角度からためつすがめつし、その度に顔色を変えてゆく。
最後には真剣で敬虔なシスターの表情になっていた。
「純銀製の十字(クロス)。血で刻まれたレッドライン。聖ジョージ大聖堂つきの工房による一点もの。……間違いない、最高主教権限の委譲に用いられる勅命十字(クロスオブオーダー)だよ」
そんななんとか鑑定団みたいな解説をされても上条には何がなんだかさっぱりなのだが、ようは日本人に対する黄門様の印籠のようなものだろうか。インデックスの驚き様からすれば、どうやら尋常でないくらい強い権限を持つものらしい。
掴みあげた時とは対照的に恭しく十字架をテーブルの上に戻すと、インデックスは居住まいを正した。
「他宗派にこれを持たせるなんて、よほどの緊急事態なんだね。――うん、わかった。サーシャっていったね。何でも聞いてみるといいかも。ただし」
「保証一。貴方から譲り受けた知識は永久に私の内にのみ留めておくことを約束する。それがイギリス清教から出された条件であるので」
サーシャもまたスカートの裾をなおし、どこで習ったのかきれいな正座をした。狭苦しいリビングを緊張感が満たし、上条は数秒で息苦しさを覚えた。
ロシア成教のシスターはまっすぐにイギリス清教のシスターを見つめて、
言った。
「要求一。『零時迷子(ヌーンインデペンデンス)』について、貴方の知る限りの知識の提供を願う」
「要求一。『零時迷子(ヌーンインデペンデンス)』について、貴方の知る限りの知識の提供を願う」
「…………?」
インデックスは思い切りいぶかしそうな顔をした。驚いているというより、戸惑っているようだ。
上条にはそのヌーンなんとかというものがどういったものなのか見当もつかない。魔術の名前なのか、霊装の類なのか、はたまた術者の二つ名なのか。しかし、いずれにしてもイギリス清教の最高権限を他宗派の一修道女に預けるだけの影響力を持っていることだけは間違いないと思う。
(くそったれめ……!)
冗談ではない。
もうすぐ一端覧祭が始まるのだ。吹寄制理も、青髪ピアスも、姫神秋沙も、他校の生徒たちだって皆一生懸命に準備をしている。大覇星祭の時のような一大事にしてたまるものか。
ガラステーブルの下で、上条は固く右拳を握った。
立ちはだかる幻想(かべ)がどれだけ分厚かろうとも、必ずこの手で殺すという意思を込めて。
固く、強く。
少しして、インデックスは自信なさげにサーシャに問いかけた。視線を天井に向け、記憶と一々照らし合わせるようにしながら、
「『零時迷子』。――あんなしょーもないもののためにイギリス清教とロシア成教が動いてるっていうの?」
ずっさーー、と上条は室内でヘッドスライディングした。ベッドの上で丸くなっていた三毛猫が跳ね上がったが気にしない。飛び起き振り向き問い詰める。
「しょーもな……!? おいこらインデックス、なにか勘違いしてんじゃねぇのかさもなくば覚え違いとか! いきなりしょーもないとか言われたらつい今さっきの俺の決意はどーなるんだよ!?」
話をぶち切られた上のあんまりと言えばあんまりな言い草に、インデックスはちょっとほっぺたをふくらませて、
「そんなこと私に言われても。実際『零時迷子』ってものすごくしょーもない現象なんだもん」
「説明を! 説明をしてくれいつものよーに! さもなくば上条さんは手当たり次第に幻想を殺して回ってしまいますよ!?」
「問一。取り越し苦労ならそれに越したことはないと言っておいたはずだが?」
「そーだけども、そーだけどもこのやり切れない思いはどこに向かえば……!」
上条は床をどかどかと叩いて悔しさを表現する。その姿に紅白シスターは何かしら意見の一致を得たのか、無言でうなづき合った。
インデックスはとあるちびっこ教師の真似をして人差し指をくるくると回す。
「どこから話せばいいかな……。うん、とうまもあのお話は知ってるよね? ものすごく有名な魔術的矛盾を抱えた童話だけど」
「ん……? 童話?」
どうにか座りなおした上条は聞き返す。
インデックスは夢見る少女のように胸元で手を組んで、
「シンデレラ。零時の鐘が鳴っても硝子(ガラス)の靴が消えなかった矛盾を説明してくれるのが、『零時迷子』なんだよ。もともとこれが名前の由来とも言われているしね」
挙げられたのは、日本人なら百人中百人がおおまかなあらすじくらいなら知っているだろうおとぎ話の題名だった。上条は記憶喪失ではあるが一般常識などの「知識」は生き残っているため、シンデレラがどういう話かは知っている。
なるほど、サーシャの言っていた「靴にまつわる問題」というのもうなづけた。
「ってちょっと待て。まさかウォルト=ディズニーやグリム兄弟が実は魔術師で、そいつらが作った魔術だとか言わないよな?」
「…………とうま。いくらなんでもそれはないかも」
「補足説明一。そもそもグリム童話の『灰かぶり姫』に硝子の靴は出てこない。かぼちゃの馬車と共にシャルル=ペローの『サンドリヨン』が初出。それにもともと民間伝承(フォークロア)を編集したものなので、類似した話は中国にだってある」
そう言われても伊能忠敬は稀代の魔術師でしたとか言われたこともあることだし、と上条はぶつぶつと反論したが、聞き入れてはもらえなかった。
インデックスはまた人差し指をくるくると回し、
「それじゃあシンデレラのお話に沿って説明するね。継母や義理の姉たちに虐げられていた美しい娘。灰の山の中で眠らされていたことから『灰かぶり(シンデレラ)』と呼ばれていた彼女は、お城で開かれる舞踏会に行きたかったけれど、継母たちに行かせてもらえなかった。そこで通りすがりの魔術師が術をかけてあげたわけだね。ではかみじょうちゃん。その術がどんなものだったか言ってみて?」
すっかりあの先生の気分らしい。背丈も説明好きなのもそっくりなものだから、上条はまるで教室で授業を受けているような気分になった。
問い自体は「知識」の範疇だし、最近ちょっと聞かされたこともあったので簡単に答えられる。
「ねずみを馬に、かぼちゃを馬車に、みすぼらしい服をドレスに……であってるよな」
「標準的なシンデレラのお話では、そうだね。まあ実際には、それらの周りを魔力物質で覆って造形するなり、見るものに幻を見せる術式をかけるなりしたんだろうけど」
「……そういう言い方をされると身も蓋もないんだが」
黄金練成(アルス・マグナ)やら御使堕し(エンゼルフォール)なんていうトンチンカンな魔術にばかり関わってきた上条にとっては、その程度の魔術はまだ“常識的”と言えるものだ。驚けない裏話ほどつまらないものはない。
しかしインデックスは、む、と眉間にしわを寄せ、
「何言ってるの。本当に身も蓋もなくなるのはここからだよ」
「え?」
「それらの魔術には同じ制限があったよね。深夜零時の鐘が鳴り終わると解けてしまうって」
右手の指を二本立て、
「ある時刻になると解ける魔術の仕組みは大別して二つ。その時間になれば発動する打消しの術式をあらかじめ織り込んでおくことと、注ぎ込む魔力の量を調節して効果の切れる時間を設定しておくこと。シンデレラにかけられた魔術は後者だったんだろうね。そうでないと『零時迷子』は起こらないから」
上条は聞かされた台詞を頭の中で理解できるよう翻訳してみる。
一つ目の方法は、目覚まし時計みたいなものだろうか。あらかじめ設定しておいた時間になればアラームが鳴る→効果が消えるということだ。
なら二つ目の方法は、砂時計に例えればいいだろう。中に入れる砂の量を量ることで、流れきるまでの時間を決めている。
と、ここで上条はインデックスの説明に妙な点があったことに気づいた。
「…………“起こる”? 『零時迷子』ってのは魔術じゃないのか?」
「うん。あくまで偶然発生する現象なんだよ。とても珍しいことではあるから、魔術世界の都市伝説みたいなものだと思ってくれていいかも」
変な例えだけど、とインデックスは自分で笑った。
「それで話を戻すとね。シンデレラは零時の鐘が鳴るなか、大慌てで舞踏会の会場を出た。だけど階段の途中で硝子の靴の片方が脱げてしまったわけだね。拾う時間もなく、立ち去った後に、その靴は王子様に拾われた」
ここでインデックスは自分のグラスを掴み取り、ゴクゴクと中の麦茶を飲み始めた。
しゃべりすぎて喉が渇いたのかなと思っていると、彼女はほとんど空になったグラスを上条に見せ、
「これがその時の硝子の靴の状態だと思って。注がれていた魔力が尽きかけていて、放っておけばそのまま消えるはずだった」
しかし、そうはならなかった。この後王子は拾った硝子の靴を手がかりにシンデレラを探し出す。最低でもその瞬間まで魔術は続いたのだ。このことは誰もが知っていて、そして誰もが一度は疑問に思うことである。
子供なら―また子供に質問されて困り果てた大人なら―愛の奇蹟とかなんとかにしてしまうんだろうが、
「だけどね」
魔術師ならば違う答えを出せるらしい。
インデックスは左手でもう一つ(上条の)グラスを持ち上げ、
「こういうことが起こったんだよ」
もう一つのグラスが傾けられ、
空っぽだったグラス(まじゅつ)に、少しだけ麦茶(まりょく)が注がれる。
「あ……」
ここまでくればもう上条にもわかった。
インデックスは両手のグラスを肩ぐらいまで持ち上げて、
「硝子の靴を拾った王子様の生命力を自動で魔力に変換、吸収して、変化の魔術は消滅を免れたと言われてるんだよ。この瞬間、術式の所有権は通りすがりの魔術師から王子様に移った。魔術師にしてみれば、『あれ? 私の魔術はどこにいったの?』って感じだったろうね」
零時に産まれた魔術の迷い子。
それゆえに、この現象につけられた名は、
「『零時迷子』、か。……そりゃ確かに身も蓋もない話だな。結局シンデレラを探し出すための魔術を王子自身が使ってたことになっちまうわけだ」
「そ。こんな感じで、消滅するはずだった魔術が人から人へ移りわたっていくことを『零時迷子』って呼ぶんだね。何が原因で起きるのかははっきりわかってないんだけど、魔術世界では余り重要視されてない。構成が雑で、極めて弱い魔術でしか起きないし、それに魔術師同士なら全く問題にならないもん」
上条は肩の力を抜いた。
記憶喪失の身では想像することしかできないが、きっと自分も絵本か何かで読んだときに浮かべたであろう疑問をあっさりと晴らされてしまった。
特にこれといった達成感もなく、むしろ読み終わっていない小説の先のページをうっかり見てしまった時のような虚脱感がある。
まあ歴史の真実なんて大体そんなものだろう。歴史学者や文学者がこんな気持ちになる職業なら、絶対にそれらには就くまいと思い、
「………………………………………………………………………………ちょっと、待て」
閃き。
上条はガラステーブルの上に身を乗り出し、
「それ、やっぱり危険じゃないか? 魔術師なら害にならなくても、俺らみたいな超能力者には。体の中の『回路』が違うから、超能力者が魔術使うと肉体が破壊されちまうんだろ?」
例えるなら、直流(でんち)で動く機械に交流(コンセント)をつないだ時のように。
水道管に砂を流した時のように。
規格の合わない体に無理やり魔力を流したために、内側から壊れてゆく人たちを、上条は何度も見たことがある。
魔術の所有権が移るということは、移された側の人間が、次にその魔術を使うということだ。魔術社会では取るにたりない都市伝説(ゴシップ)でも、ここは科学万歳の学園都市。靴を拾っただけで死にかけるような事態なんて特別警戒宣言(コードレッド)ものである。
しかしインデックスはあっけらかんと、
「心配ないよ。『零時迷子』の宿主は生命力をほんの少し吸い取られるだけ。体内に魔力の流れをつくるわけじゃないから、超能力者が宿主になったとしても、ちょっと体が重くなるくらいじゃないかな」
それにね、といつの間にか二つとも空になったグラスをテーブルに戻し、
「『零時迷子』って長続きしないの。人から人へ移る条件は元の魔術によるけど、いずれにしろ移動の度に伝言ゲームみたいに効果が歪んでいってしまう。儀式もなしに効果だけが残っていくなんてとんでもなく不安定だからね。そのまま自然消滅しちゃうんだ」
ほんと、なんでこんなしょーもないもののために、とインデックスは説明を打ち切った。
上条は、うーん、とうなる。
聞けば聞くほど、思い浮かぶ感想は彼女と同じだった。
つまるところ『零時迷子』とはひどく弱くなった魔術が偶然持続してしまうというだけの現象で、しかも超能力者にも害がないと保証されてしまったら緊張感を保つ方が難しい。
なぜこんなものに、という疑問を持つと、自然と目は制服シスターに移った。
背筋をピンと伸ばして座るサーシャ=クロイツェフは四つの瞳に注視されても動じることなく、それどころかこんなことを言った。
「問二。貴方の持つ知識がそれで全てなら、次の質問に移っても構わないか?」
へ? と上条とインデックスの声が重なる。
「え、あ、うん。そりゃあ構わないよ。勅命十字(クロスオブオーダー)もあることだし、答えられることなら」
なんとなくさっきので終わりな気がしていたのだろう。銀髪シスターの返事は若干しどろもどろだった。
サーシャは間を置く意味でか初めてグラスを手に取り、唇を濡らす程度に傾けた。
そして言う。
「問三。『零時迷子』の伝達内容に、危険性の高い効果を意図的に付け加えることは可能か?」
ピタ、と。
インデックスの表情が凍った。
それは上条の見る限りでは、戸惑っているのでも呆れているのでもなく、真剣に思考している時の彼女の反応だった。
言葉でなくともオーラが語る。
これはもはや「しょーもない」などと言える状態ではなくなったと。
たっぷり三十秒をかけて、インデックスは答えをまとめた。
「結論だけ言うなら、可、だね」
十万三千冊もの魔道書を抱える少女の本当の役割。
それは、魔道書の記述を吟味し、照らし合わせ、あらゆる魔術的事象への対抗力となること。
「『零時迷子』の宿主になったことは、魔術師なら絶対に知覚できる。その間に明確な変更のイメージを持つことができれば、ある程度なら効果を変更できると思う。儀式抜きのイメージのみってことは、逆に言えば儀式なしのイメージだけでどうとでもできるってことだから」
「感想一。……やはりか」
サーシャは神妙にうなづいた。
置いてけぼりなのは上条だ。シスターたちは何か危機感を共有しているようだが、どれだけ魔術と係わり合いを持っていても結局は素人である少年が横で聞いているだけで理解しきれるほど容易い話ではなさそうだ。
だから二人に尋ねるしかない。飛びかかりたくなるほどの焦燥を必死に押さえて、
「どういうことなんだ? 今の話は一体何がどうやばいんだよ!」
「……シンデレラの話に戻るけど」
インデックスが顔を上げる。
「王子様は拾った硝子の靴を手がかりに、国中シンデレラを探して回ったよね。でもここで、この童話のもう一つの矛盾が浮かび上がってくる」
すなわち、
「どうして硝子の靴はシンデレラにしか履けなかったのか」
上条は押し黙る。
それは足りない頭を必死に回して理解しようとしているからで、それがわかるからインデックスも語るのを止めない。
「魔力物質でコーティングしていたのだとしても、幻を見せていたのだとしても、中身はちょっとボロッちいただの靴だよ。足のサイズが同じ人なんていくらでもいるし、たとえオーダーメイドでも他人が全く履けないなんてことはない」
「それは……最初に魔術師がそういう効果をつけてたからじゃないか? それが残ってて」
「“なんで”? もともと零時になれば解ける予定の魔術に、所有者限定を付与するなんて無意味だよ。硝子の靴が“消えなかったのは”あくまで偶然。とうま、考えてみて? 『シンデレラにしか履けない硝子の靴』を最も必要としたのは誰か」
言われた通りに上条は考える。
そして、考えるまでもなく、その答えはすでに自分で言っていたことに気づいた。
「まさか……王子か?」
うなづきこそが答え。
「硝子の靴に所有者限定をかけたのは、王子様の『これはシンデレラの履いていた靴!』という強いイメージだよ。王子様が靴を拾った瞬間、『古い靴を硝子の靴に変える』魔術は、『古い靴を“シンデレラにしか履けない”硝子の靴に変える』魔術になったの。これはあくまで偶然の出来事だけど、術構成の脳内展開に長けた魔術師なら簡単にやってのけるだろうね。それこそ――『履いた者の足を噛み千切る靴に変える』魔術にだってできる」
「…………、」
黄金練成(アルス・マグナ)、という魔術がある。
完成すれば森羅万象を意のままにできるというとんでもない魔術だが、問題は詠唱呪文が長すぎることにあった。四百年かけても唱えきれるかわからない長大な呪文に、様々な魔術師が様々な手段で挑み、敗れていったという。
その手段の一つに、親から子へ、師から弟子へ呪文の詠唱を引き継がせるというものがあった。一生かかってもできないのなら、他人の二生三生もかければいいと。
しかしこれも失敗する。引き渡していくごとに呪文の意味が歪んでいき、最後には全く別物になってしまったからだ。
――だけど。
もしもその別物に変わってしまった魔術が、それでも何かしらの効果を発揮したら?
もしもその効果が、とても危険なものだったとしたら?
そして、もしも、
危険なまま、引き継がれていってしまったら?
「でも、これでもまだ足りない」
え? と上条は聞き返す。
インデックスは――自身全く期待していないような顔で――続けた。
「『零時迷子』に危険な内容を織り交ぜて放すっていうのは、確かにどんな疫病よりも厄介ではある。だけど、どんなに恐ろしい効果でも移らないことには意味を成さないよ。伝達条件を満たさないと」
「伝達、条件? それって重要なのか?」
「うん。『硝子の靴』のケースでは、条件は“手で触れること”だったと言われてる。だからシンデレラよりも前に履こうとした人たちには移らなかったって。それにいくら効果を改変したところで、もともと不安定な現象であることには違いないから、やっぱり移り渡っていくごとに崩壊していくことになるはず。誰にでも宿ることができて、構成も崩れない『零時迷子』なんてあるわけが」
「――通告一。それが見つかったからこそ、その危険性を検証してもらうために私が派遣されてきた」
サーシャの平静な声が、最初の前提にして最後の希望を打ち砕いた。
インデックスはもはや腹をくくったのか、
「やっぱり……勅命十字が出てくるわけだよ。どこで?」
「解答三。それはすでにそちらの彼に話している」
と、サーシャは上条に顔を向けた。
上条は一瞬で理解する。自分が何度も何度も彼女に尋ねた問いかけの解答が、これだ。
右手で顔を覆い、うめく。
「学園都市(ここ)でか」
何故とは言わない。うなずいたサーシャが口を開きかけていたからだ。
制服シスターは淡々と言葉を重ねていく。
「説明一。事の発端は一週間ほど前、学園都市に潜伏させていたロシア成教の諜報員が、偶然『零時迷子』らしき魔術が自分に移ってきたことを認知した。その後伝達条件が満たされてしまったらしく現在の所在は不明。しかし体に残留した術式から分析を試みた結果、その時点での効果と伝達条件は予想がついている」
待つと、サーシャは一呼吸置いてから、
「説明二。効果は『自分の靴に対する所有者限定の付与』。伝達条件は『童話・シンデレラの内容を知る者との接触』であると見られている」
「――――はあっ!?」
上条は思わず大声を上げていた。
シスターたちが驚きの視線を向けてくるが、気にもならない。
だって、いくらなんでも、
「それはつまり、シンデレラの話を知っているだけで、そのけったいな魔術にかかってしまうってことなのか?」
そんな馬鹿な話があるか。
シンデレラは今日日、日本人なら百人中百人がおおまかなあらすじくらいなら知っているだろうおとぎ話だ。世界規模で見ても知らない者の方が珍しいかもしれない。逃れられる者などいはしない。
インデックスは考え込むような仕草をして、
「おそらく伝達条件に効果に合わせたイメージを含ませることで、移動ごとの歪みを予防しているんだね。制限でありながら、その実全く制限されない反則論法(アウトロー)。長期間継続させることを狙ってやってるとしか思えない。でももしそうなら、それは『零時迷子』じゃなく、誰かが作ったまるっきり別の魔術だよ」
サーシャは答える。
「解答四。調査段階では『灰姫症候(シンデレラシンドローム)』と呼ばれていた」
(…………?)
上条はふと違和感を感じた。
『灰姫症候』という名前にではなく、それを口にした時のサーシャの様子に。
しかし尋ねられる雰囲気ではなかったため、代わりに別のことを聞く。
「えっと、まとめるとこういうことか。今学園都市のどこかに『灰姫症候』って魔術が存在していて、そいつは誰彼かまわずどんどん移っていってしまうもので、魔術師ならその効果を危険なものに変えることができる、と」
その媒介となるのは、子供から大人まで誰もが知っている童話だ。
誰もが愛しているおとぎ話が、それゆえに誰にでも牙をむく呪いを運ばされているという現実。
どこのどなたがどんな目的で作った魔術かは知らないが、到底許せるはずはなかった。
「……そういや、結局犯人とかはわかってないのか?」
「解答五。今のところ容疑者らしき人物は見つかっていない。しかし解析班が言うには、現在『灰姫症候』は試験期間中なのではないかと」
無言でいると、サーシャはもう一度唇を濡らし、
「補足説明二。外部との出入りが制限されていて、魔術への抵抗力も乏しいこの街なら、崩壊せず移動が続けられるかどうかの試験がしやすいと。そしてもしそうであるなら、術者は何らかの方法で『灰姫症候』をトレース、観察しているはず。だから何か致命的な異変が起きるか、術者が試験を終え回収しだす前に『灰姫症候』を確保したい。そうすれば逆探知ができる」
「へ? んなことできるの?」
上条が驚くと、サーシャはどこか自慢げに胸をそらし、
「解答六。そのために私が選ばれた。ロシア成教『殲滅白書(Annihilatus)』は『あらざるもの』の探知破壊(サーチ&デストロイ)を専門とする。加えて禁書目録の知識も借りることができるのなら、十分可能だ」
餅は餅屋というやつか、と上条は納得した。それならば自分は役に立てないだろうということも。
上条当麻の右手に宿る力、幻想殺し(イマジンブレイカー)は、触れるだけであらゆる異能の力を打ち消してしまう。
その効果は絶大で、セーブが出来ない。だから破壊でなく捕獲が目的ならば、むしろ上条は近寄らないほうがいい。
それは、ちょっと情けなかった。
インデックスはそんな上条の思いに気づいた様子もなく、空になったグラスを弄びながら、
「犯人も目的もわからないっていうのが一番怖いね。なのに現実に『灰姫症候』はある。今の所は無害な効果だけど、だからって放っておくと――素人のイメージでも場合によっては変化する可能性があるからね――事態は悪化しかしない。先行き不透明な楽観ほどみっともないものはないもん。いつどこでどんな風に爆発するかわからない爆弾を放置しておいちゃいけないよ」
上条とサーシャは同時にうなづきあった。
これは何かが起きてから対処するための戦いではない。何も起こさないための戦いだ。
役立たずが確定している上条だが、それでも何かできることはあるだろう。
使いっぱしりでもなんでもいい。とにかくこの事件は絶対に起きる前に解決させなければならない。
あ、ところで、とインデックスはグラスを戻し、
「ねえサーシャ。できれば私のことはインデックスって呼んで欲しいかも。しばらく一緒にいることになると思うし……ね?」
微笑んで、言った。
サーシャは虚をつかれたように目を丸くする。
しかしそれ以上に上条も驚いていた。
上条の知る限りでも、インデックスの学園都市(このまち)での知り合いはそう多くない。また、その中でも彼女をインデックスと呼ぶものはさらに少ない。
禁書目録としてのインデックスを知らない者にとっては、その名前は趣味の悪いあだ名にしか聞こえないからだろう。かといって他に名前があるわけでもないから、皆、「○○シスター」などと勝手に呼ぶ。
だから敵対していない(ここ特に重要)魔術サイドの人間、それも年齢の近い少女と知り合えたことは、インデックスにとってとても気安いことなのかもしれない。
なんとなく浮かんだのは、彼の名前を何度も何度も呼んでくる彼女のイメージ。暗い夜道と、夏の日と、あと洗面器。
記憶にない幻想(シーン)だったけれど、その中の彼女は呼びかけ、呼びかけられることを喜んでいた。
だから、いいんじゃないかな、と上条は思う。きっといいことなんじゃないかな、と。
やがてサーシャは――もしかしたら照れているのかもしれない――曖昧な表情で、
「……了解。インデックス、貴女の協力に感謝します」
小さく、髪が軽く揺れるくらいのおじぎをした。
さて。ここで一つ明らかにしておかなければならないことがある。
これは上条当麻自身あんまり関係ないことだと思い、黙っていたことなのだが、後々そうも言っていられなくなったことだ。
大した用件ではない。むしろ子供じみた、だけどちょっぴり運命的な。
つまり一体何が言いたいのかというと――
一端覧祭で上条の学校が行う劇の演目が、まさしく「シンデレラ」だったのである。