私が5歳の時に、弟は生まれた。
当時を鮮明に覚えている。
男子の誕生とはこれ程までに大人を喜ばすのかと驚く程、弟は周囲からの祝福を受けていた。父はたいそう上機嫌で、母も満面の笑顔を見せていた。
私と姉は、弟が出来た事はもちろん嬉しいのだが、暫くの間は蚊帳の外にいる気分だった。それでも弟のおかげで冷えきった家の中が明るくなり、普通の家庭のようで嬉しかった。
何しろこの家は、物心ついた頃から普通ではなかった。父は酒ばかり飲んで働かず、家にいれば不機嫌で黙っているか怒鳴っているかだ。夫婦喧嘩で母が暴力をふるわれるのを私達は震えながら見ているしかなかった。そして、常に父に怯えて暮らしていた。
弟の名前は何がいいかしらと、姉と私で赤ん坊の名前をあれこれと考えるのが楽しかった。でも名前はことごとく却下され、いつの間にか決まっていた〇〇という名前を私達は気に入らなかった。
そして赤ん坊のいる暮らしは母を更に忙しくさせ、私達に我慢を強いた。皆が弟ばかりをチヤホヤするので、だんだんそれが面白くないのだけれど、弟は本物の天使のように愛らしかったので仕方ないと思った。
憧れていた、温かで幸福な家庭が、確かにそこにあった。
だけどそんなものは、一瞬で過ぎ去った。
私の家では母が商売をしていたが、父はそれをほとんど手伝わない。そのくせ売り上げが少ないと母を詰っていた。
生活が苦しいので、母は別の場所に店を出すための準備をした。
そして、弟が生まれて1年が過ぎた冬のある日、母はどこかに出かけてしまい、私と姉と弟が家に残された。
私達は父が苛つかないよう、大人しくしていなければならない。
母がいなくて心細くなった私は、姉に何度も「お母ちゃんはどこ?お母ちゃんはまだ帰って来ない?」とべそをかいた。
私があまりにもしつこく言うので、姉はすっかり困ってしまった。もし私が大きな声で泣きだせば、妹を泣かせた罪で父にこっ酷く怒られるのだ。
「お母ちゃんを捜しに行こうか」と、姉が言い、
父と弟は昼寝をしていたので、起こさないようにふたりでそっと家を出た。
メソメソしていた私は、歩いているうちに気が紛れてきた。
けれども二人で母が行きそうな場所を捜し回っても、母は見つからなかった。
「お母ちゃん、もう家に戻っているのかもね」という姉の言葉に頷いて、私達は家に帰った。
母は家にいなかった。そして、弟の姿もなかった。
胸いっぱいに不吉な予感が拡がる。
今までにないような大きな異変が起きたのだと、子ども心に感じとった。
殺気だった父が、玄関で仁王立ちになり
「お前達は今までどこで何をしてきたのか」と怒鳴ったので
「お母ちゃんを捜しに行った。タンポポがお母ちゃんがいないって泣いたから」
そう姉が言うと、父は憎々しげに私を睨みつけた。
暫くすると、母が弟を抱いて家に帰って来た。
弟の手には真っ白い包帯がぐるぐると巻かれている。そして今までに聞いたことがない程の大きな声でギャンギャン激しく泣き叫んでいた。
その泣き声に負けない大声で、父は怒鳴り続けた。
「お前のせいだ。どうしてくれるのか。お前が〇〇を置いて行かなければ、こんな事にはならなかった」
私と姉がいない間に目を覚ました弟は、石油ストーブの上で湯煎をしていた哺乳瓶を取ろうとして転び、火傷を負ったらしい。
ちょうどその時父は、客が来たので店に出ていたのだと言う。
本当の事なのかどうか解らない。
誰もそれを見てはいないのだから。
弟の火傷した手は真っ赤にただれ、包帯を替える度に泣き叫んでいた。
昔の、田舎の治療であるから、チンク油という白いベタベタしたものを塗りたくるだけであった。
「〇〇痛くても我慢してね。これを塗っていれば、きっと元通りの手に治るからね。」
私がそう言っても母は黙っていた。そして暴れる弟を押さえつけチンク油を塗った。
父の怒号は何ヵ月も毎日続き、この先何年も何十年も事ある毎に続く。
母は、弟のケガは自分のせいと自分を責め続けた。
私も、あの時私が我儘を言わないで留守番していたら…と自分を責めた。
もし私と姉がいる時に、ほんの少し目を離した隙にこの事故が起きていたならば、私達は父からどんな酷い目に遭わされただろう。
父は弟を溺愛していた。そしてこの事故の責任を、自分ではない何者かになすり付けずにはおれないのだった。
弟の手の治療は長くかかり、ケロイド状の火傷の痕が大きく残った。
ただれた皮膚が指と指を癒着させて、完全に開かなくなってしまった。
私はよく、弟が寝ている間にその手を触ってまじまじと見た。そして「可哀そうに。ごめんね、ごめんね」と心の中で謝っていた。
「くっついた指を病院で切ってもらおうよ。そりゃ血は出るしまた痛がるだろうけれど。」
母は「そうだなぁ」とだけ言って、悲しそうにするだけだった。
手に大きな傷痕を残したものの、通院の必要が無くなった頃、弟は保育園に預けられた。
母が更に長時間働くためだった。
弟は保育園に預ける度に大泣きするので母も辛いのだが、生きるためには仕方がなかった。
こんなに小さいのに預けるなんて可哀そうだと、私も思った。
それでも弟は次第に保育園生活に慣れて行った。利発で可愛い弟は、保母さん達の間でも人気者であった。
母は度々保育園のお迎えに間に合わなかったので、私が保育園まで弟を迎えに行った。
当時の私は小学校低学年で、今思えば私の親はネグレストだった。
保母さん達からは「えっ?お姉ちゃんがお迎えなの?大丈夫かな?」と言われたが、何故そう言われるのか解らなかった。
弟の帰り支度を待つ間、廊下に張られた園児たちの写真を眺めた。
何かの行事の写真なのだろう。壁にびっしりとある写真には、弟がたくさん写っていた。
弟のアップ写真が他の子達よりもやたらと多いのだ。
私が学校行事でメインになる事は皆無であったから、私の写真はケシ粒のような私が写ったのが2,3枚あるくらいだったので驚いた。
それを母に伝えると
「そうなのよねぇ。いつも保母さん達がね、〇〇をいっぱい撮ってくれるから写真代も高くなって。」
とまんざらでもなさそうに言った。
やっぱり顔が可愛いのは得だ。世の中平等ではないのだ。私も姉も不細工なのに、どうして弟だけがこんなに可愛いんだろう?と不思議であった。
私と姉は醜いアヒルの子。きっと、いつかはきれいな白鳥に…
なれるとは到底思えなかった。
続く