「君は、成果を求めようと、
好んで才気ある者を用いる。
しかしそれが誰から見ても公正なものでなければ、
かえって人はこれを不信に思う。
才気とは、不信を招かないことにあります。
徳のある者を得ることは、
かえって佞臣への戒めにもなるものです。」
小倉三省は、父の死を嘆いて病となり、承応3(1654)年にわずか51歳で、兼山よりも10年早く、この世を去りました。
一方、兼山は、藩主が亡くなったあと、佞臣によってその地位を追われ、蟄居処分となり、そのわずか三日後に病死と伝えられています。
おそらくは、腹を召されたのであろうと思います。
野中兼山は、土佐の総奉行として、自らの身を捨てて土佐の発展に尽くしました。
それは、土佐藩が持つ、山内家の武士たちと、前藩主の長宗我部家の武士たちとの間に深い確執があり、そうした中にあって、短期間のうちにどうしても、この両者を和合させ、かつ、土佐の経済的発展のための基盤を整備しなければならないという、極めて困難な役回りでした。
混迷を極める藩内で、それは少々強引であっても、実現しなければならないことでしたし、野中兼山は、その立場でした。
しかし短期間に成果を挙げようとすれば、いきおい、その目的ごとに「成果を出せる人」を登用することになります。
しかし「成果を出せる人」というのは、必ずしも人格円満な人ばかりではありません。
すべてが野中兼山ではないのです。
中には相当癖のある人であっても、あるいは癖のある人だから登用しなければならないこともあります。
けれど、そういう人は、目的のために手段を選ばず、「結果は出せる」けれど、「徳が少ない」ことも多いものです。
そしてそうした人物の登用は、組織に短期の成果はもたらすけれど、長期的には微妙な亀裂や誤解、歪み、あるいは不満を募らせます。
そしてひとたび組織内の風向きが変わると、その「結果は出せる」けれど、「徳が少ない」人たちへの不満が、それらを登用した兼山に、すべてのツケとして回ってくるのです。
「そんなことに構っていられない」というのが、兼山の立場です。
兼山は、実績をあげることを期待されて登用されているからです。
もし、不首尾に終われば、腹を斬るどころでは済まされない。
藩がお取り潰しになる危険さえはらんでいるのです。
しかし、それでも、「使う人には、もっと注意を払わなければならない」と小倉三省は、兼山に語っているのです。
このことは、西洋的実力主義、成果主義」と、日本的経営組織の違いにも通じるものということができます。
日本的組織では、なによりもまず人々の理解と合意の形成を優先します。
より良い結果を、全員の合意と努力のもとに実現しようとするのです。
そして合意の形成後は、集団としての強制力をもって結果を出していきます。
要するに、出発に際して、目的地を奈良にするのか、京都にするのか、その合意の形成のためにはたっぷりと時間をかけるし、話し合うし、みんなの気持ちが京都に偏れば、トップは、俺は奈良が良いと、逆の方向に振ってみたりといったことを繰り返します。
大石内蔵助は、討ち入り前に芸者をあげて遊び回りましたが、要するに「御家老殿がその体たらくなら、ワシは討入は辞めた」と去っていくような者なら、討入の仲間として不適格であるという見極めを、ここで行っています。
上が討入をするというから付いていきます、というような考えでは、討入などもってのほかなのです。
自らの意思で討入を果たそうとするするものだけにメンバーを絞る。
そのためには、内蔵介は、良きリーダーであってはならないのです。
なによりも、全員の決意を固める。
どうしてもついて来れないものは、切るという選択もありますが、その選択をするためには、先に、やはりブレないだけの全員の合意が必要なのです。
そして合意の形成が強固なものになれば、そこから以降は一切の甘えも妥協も許さず、命がけで目的に向かって邁進する。
懇談会では、往復ビンタはあたりまえ。
わずかな責任で腹を切らされることさえもあたりまえ、となります。
これは、合意形成段階ではないからです。
実行段階では、一切の甘えは許さない。
それも日本的組織です。
これに対し、合意形成のプロセスを飛ばして、単に個人の資質や実力だけに成果を求めるのが西洋式組織です。
もともと傭兵や奴隷兵を使った戦争があたりまえだった大陸では、合意の形成は必要なかったからです。
逆らうなら、死を与えるだけのことです。
そして死者は、生者のための食料になります。
それだけのことです。
日本には、奴隷兵も傭兵もありません。
全員が、先祖代々同じ村の、子供の頃からの知り合いです。
そこに強制は不可能です。
むしろ、全員の納得と合意の形成こそが大事となったことは、当然の流れということができます。
そしてそのことは、成果を犠牲にしません。
むしろ個人ではできない集団による大きな成果を得ることができます。
そうやって、日本は、様々なものを築き上げてきたのです。
小倉三省が述べているのは、野中兼山が政策を実現するにあたり、その政策によって受益者となる者(それは民も、藩の財政もなのですが)は、たくさんいる。
そういう人たちとの合意形成に、もっと時間をかけるように、そして人材の登用に際しても、その合意形成を大切にするように、ということなのです。
そしてそのうえでなら、どれだけ厳しい処置であっても、構わない。
そのことを兼山に話しています。
こうすることによって、成果は合意者全員のものとなります。
もしかすると手柄は藩の勘定奉行の手柄となったり、他の重役の手柄になったりもすることでしょう。
けれど、
「それで良い」
というのが、小倉三省の言うことなのです。
「成果なんぞ、人にくれてやれ。
それくらいの覚悟を決めてかからなければ、
ただ成果を追うだけでは、
必ず後に禍根を残すぞ」
と、小倉三省は述べていたわけです。
野中兼山は、偉大な人です。
江戸時代前期の人ですが、土佐藩が幕末まで裕福な藩で居続けたのは、すべて、この野中兼山の知恵と実行力のおかげです。
しかし、小倉三省流でいうならば、そうして誰の目から見ても、野中兼山の成果であると見られてしまうことが、逆に問題なのです。
企業などで、ある種の開発を行うとき、やはりそのプロジェクトのリーダーの存在は、きわめて重要なものです。
ひとつのことに本気になって燃えるリーダーがいなければ、プロジェクトは成功しません。
けれど、それがプロジェクトであるならば、その成果は、どこまでも、プロジェクトメンバー全員の成果であり、また、そのプロジェクトを委ねてくれた上司や、役員会全員の成果でもあるのです。
もともと日本語に「リーダー」という言葉はありません。
和訳は、先導者、指導者、首領、ドン、などとなりますが、それらの和訳も幕末以降の英語の翻訳語であって、もともとの日本語ではありません。
言い出しっぺは、あくまで言い出しっぺであって、やるのはみんなです。
そして、何かの事業を行うときには、必ずそれを許可してくれた人がいるわけです。
その許可してくれた人は、その成功に責任を負っている人です。
そして日本的組織においては、その許可してくれた人は、ひとりではなく、多くの場合、かならず複数の意思として、決められています。
そうであるならば、その複数者は、その成功に責任を負っているのですから、当然、その人達への報告と合意が必要です。
こういうことに手を抜かず、きちんとそれができること。
それが、組織でことを行うということなのです。
ここに手抜きがあると、たとえ成果が上がったとしても、かならず後に禍根を残す。
西洋的組織論では、常にリーダーを求め、そのリーダーに反対する者は、常に敵となります。
そして対立が生まれ、敵対的関係が生まれます。
けれど、すべては神々からの預かり物であるという視点に立てば、合意の形成と、その合意者への報告、責任の分担といった、手順が大切になるわけです。
簡単にいえば、故意に意図して組織内に敵をつくるな、ということなのです。
そしてそれが、功をあせるために、そうした報告(これを古い言葉で復奏といいます)のできない者を、配下にして、プロジェクトを任せると、結果としてその禍根は、任せた側が負担しなければならなくなる。
小倉三省が心配したのは、まさにそのことであったのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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