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【社会】

ハンセン病元患者が相模原殺傷に憤り 78歳平野さん「差別の歴史を今伝えねば」

ソメイヨシノの並木の前で半生を語る平野智さん=東京都東村山市の多磨全生園で

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 一月最終日曜日の二十九日は世界ハンセン病の日。国立ハンセン病療養所「多磨全生園(ぜんしょうえん)」(東京都東村山市)で暮らす元患者の平野智(さとる)さん(78)=愛知県出身=は、初めてマスコミの取材に応じた。これまで固く口を閉ざしてきたが、昨年七月の相模原市での障害者施設殺傷事件に「ハンセン病患者や元患者がされてきたことに通じる」と危機感を覚え、「差別の事実を歴史に残すのが役目だと考えた」と話す。 (塚田真裕)

 平野さんは小学六年の夏休みにハンセン病を宣告された。「友達は誰も寄り付かなくなった」。当時住んでいた愛知県半田市から国立ハンセン病療養所「駿河療養所」(静岡県御殿場市)に向かう途中、大府駅のホームを歩く後を保健所の職員が付いて回り、消毒液を吹き掛けたのを覚えている。定時制高校がある岡山県の療養所に移る時には、貨物列車に乗せられた。

 一九六五年、兄がいた多磨全生園へ。九六年に強制隔離の根拠となった「らい予防法」が廃止された時はすでに五十七歳。「外に出ても年齢と後遺症から仕事は難しい」ととどまった。

 伴侶を得たが、女性の家族の理解が得られないだろうと籍は入れられなかった。二〇一五年七月に病気で先立たれたが、墓参りには、自分が行くと迷惑になると思い、今も行けずにいる。

 園内を散歩する近所の人と言葉を交わすようになったし、スーパーのレジでは、指が不自由なことが分かると店員が買った物を袋に入れてくれるようにもなった。園内のグラウンドから子どもたちの声が響き、この二十年で「変わったな」と思う。

 最近、仲間の葬式を仕切ることが増えた。家族から縁を切られ、身寄りがない人が多いから仲間が喪主になって弔う。昨年は十九人を送った。

 そんな時起きた相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件。「ものすごい怒り」とともに、インターネット上の容疑者を称賛する言葉に「ハンセン病への差別と通じる」と感じた。

 障害者を隠したり、生まれないようにしたりした時代があった。入園者は子どもを持てず、妊娠すれば堕胎させられた自分たちのことを「今、話さなければ」と考えるようになった。

 平野さんは話す。「私たちハンセン病の元患者はあと二十年もすればいなくなる。でも、障害者はこの先も生き続ける。時計の針を後戻りさせないために、歴史を後世に伝えなければいけない」

 <ハンセン病> らい菌によって起こる感染症。皮膚や末梢(まっしょう)神経などが侵される病気で、変形が生じたり、感覚がまひしたりする。感染力は低く、特効薬プロミンによって確実に治癒するようになった。1930年代に患者の隔離を進める社会運動「無らい県運動」が愛知県から全国に広がった。「らい予防法」の誤りを2001年に当時の小泉純一郎首相が謝罪。昨年4月には最高裁が患者の裁判所外での審理について「差別を助長した」として謝罪した。厚生労働省によると、昨年5月1日時点で1577人の元患者が療養所で暮らす。平均年齢は84.8歳。世界ハンセン病の日は、フランスの社会活動家ラウル・フォレロが1954年に提唱した。

 

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