天地燃ゆ−史実編−

第二十三章『東軍西進』


 ここは直江兼続の本陣、徳川家康が下野小山から撤退を開始したと知らせが入った。
「よし、いよいよ決戦の時が来た! これから殿のご意向をうかがいに長沼に参る。全軍出陣の準備をしておくのだ!」
 兼続は急ぎ、上杉景勝本陣の長沼に走った。徳川の陣には柴田明家もいると知っている。そして明家が上杉と戦うのではなく戦場において上杉と徳川の和議を取り成そうとしていることも知っていた。明家は会津へ出陣前に兼続へ『徳川と上杉の和議を図りたい』と伝えてあったのだ。しかし直江兼続はこの同門の友の申し出に対して返事をしなかった。上杉のことを案じてくれるのは感謝していたが、兼続も上杉景勝も徳川と和議をする気持ちなどさらさらない。上杉絶体絶命の危機とも言えるが、兼続は逆に好機とも考えていた。
“内府は自分で自分の首を絞めた”
 家康が西へ転進した時が上杉の勝負所であり、内府がもっとも危険な時。上杉軍が徳川を追撃し関東に乱入すれば徳川の大軍をもっても上杉に勝つことは難しい。しかも上杉軍が長躯して江戸に襲い掛かれば江戸城も落とせるかもしれない。
 いかなる名将の采配であろうと、敵前から撤退するほど困難を極めるものはない。家康はあえてその作戦を上杉相手にやろうとしていたのだ。上杉を石田三成の挙兵を促すための当て馬に使った家康を断じて許すつもりはない。この機に乗じて打ち破るのみ。長沼に到着した兼続。
「殿!」
「来たか山城、聞いたか?」
「はっ」
「こたびの北上……。治部殿の挙兵を誘う策であったようだの……」
 フッと笑う上杉景勝。
「とんだ当て馬よの……」
 軍机にある布陣図と地形図を見る景勝。
「徳川軍が白河口に迫れば、本庄勢が一戦仕掛け、退却を装い革籠原へ誘い入れる。そこで正面から安田と我が本隊、右から旗本、後から山城(兼続)……。三方から攻め谷田川の深沼に追い込み、下野に逃げ帰る敵は佐竹、相馬、岩城の軍が待ち受けて殲滅する……。ふん、絵に描いた餅じゃ」
「とんでもございませんぞ殿! 今こそ好機! 追撃に出て敵軍を鬼怒川辺りで補足し打ち破ることはできまする!」
「ならん」
「は?」
「治部と内府の戦。しばらくはかかろう。その間に我らは北の最上を破り、背後を固めることが肝要であろう」
 上杉の北の隣国、最上義光は東軍につくことを表明していた。家康は最上義光、伊達政宗、堀秀治など上杉領に隣接した諸大名に上杉への警戒を怠るなと下命している。景勝はその先鋒となり上杉領に進攻しようとしている最上を討ち、逆に最上領に進攻する旨を告げたのだ。最上の領地の山形には海がない。義光はどうしても酒田港が欲しかった。秀吉の存命のおりには酒田港の一部を上杉から借りて活用できたが、秀吉が死に、やがて上杉西軍、最上東軍の旗幟が明らかになると上杉は最上に酒田港の一寸の余地も貸すことを拒否した。当然の成り行きではあるが、たとえ港の一部とて義光にとって大事な財源を生み出す要所。海の交易が断たれる。こうなれば奪うしかないと思うのも当然だろう。その動きを景勝は察知し、最上を討つことにしたのである。この命令に兼続は驚いた。景勝様は何を言っているのか。
「恐れながら殿、ご賢察下さいませ。ここは地盤固めではなく追撃の時、我が上杉が内府を追撃いたさば佐竹も呼応するのは必定! 徳川軍を打ち破れます!!」
 しかし景勝の考えは変わらなかった。
「この東西の天下分け目の戦い、半年、いや一年はかかる戦となろう。我ら上杉はそれに備えるため最上を下し、北の守りを固めねばならぬ」
(何と言うことだ…)
 兼続は心中激しく落胆した。景勝は決断してしまっている。もうこれ以上は異を唱えることはできない。
「殿の御意のままに…」
(内府との戦いはこれで終わった…)
 とはいえ、上杉の防備上の弱点が北にあるのは兼続も承知のこと。景勝の構想も間違ってはいないのだ。最上二十四万石を併呑出来れば三つに分地している上杉の領地が接合して二つの分地となる。
 気持ちを切替えた兼続、徳川が三成と戦っている間、出来るだけ上杉を強大にしておき、家康も手出し出来ないほどの大勢力になれば良い。それから家康と戦っても遅くはない。
(急がば回れよ)

 兼続はすぐに最上攻めの準備に取り掛かった。その知らせは最上義光にも届いた。直江山城守兼続率いる二万四千の軍勢が最上領に進攻を開始したと知らせが来た。完全にアテが外れてしまった義光。徳川と戦っている上杉の後背を衝くつもりが上杉の主力が転じて矛先を最上に向けてきた。義光の居城である山形城に向けて怒涛のごとく進軍してきた。そしてついに山形城の支城は長谷堂城だけを残すだけとなった。
「もはや最上だけでは太刀打ちできぬ! 伊達に援軍を要請せよ!」
 義光嫡男の義康が伊達政宗のいる北目城へと向かい援軍を要請。政宗にとって義光は母方の伯父であるが長年不和が続いていた。義康が使者として政宗に会った。
「援軍? ずいぶんと虫のいいことを言うな。母上にオレを殺すよう指示しておいて」
「そのご母堂からのお頼みにございます」
「なに?」
「最上を助けてほしいと……」
 義康は保春院の文を政宗に渡した。確かに母の保春院の筆だった。
「そうか母上がな……」
 政宗は結局援軍に応じた。最上が上杉に併呑されたら、より強大となった上杉の進攻にさらされるのは伊達なのだ。母親の頼み、そして戦略的にも伊達に有するところがあり、政宗は留守政景を総大将に援軍に向かわせた。また援軍を要望する文とは別に政宗宛に保春院の文があった。そこには騒ぎが済んだら、柴田勝秀に側室として嫁ぐ姪の駒の侍女頭として丹後若狭に行くことが書かれてあった。大名の姫が大名世継ぎの妻となる。側室とて例外ではない。そういう貴婦人には見識豊かな年長の女が侍女として随行するものだ。叔母が後見も兼ねて随行する例は多いので、それは不思議ではなかった。
「そうか、母上は柴田家に行くのか……」
 妻の愛姫に保春院からの文を見せる政宗。
「義母上は冷え性とのこと。畿内ならば暖かいのでお体にも良いですね」
 ニコリと笑う愛姫。一時は政宗と不仲だったが、今は関係も修復し昔どおり仲が良い。
「そうだな、この戦が終わったら越前殿に一筆書いて母をよしなにと頼んでおこう」

 小山から東海道を西進した東軍は福島正則の居城である清洲城に到着した。このころ家康は江戸城に入っていた。
 清洲城に集結した武将の面々は柴田明家、福島正則、山内一豊、池田輝政、一柳直盛、浅野幸長、堀尾忠氏、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎、田中吉政であった。軍監に井伊直政がついていた。柴田明家の清洲到着を主君三成に報告した島左近。三成は落胆した。尾張と三河の国境で徳川勢を迎撃と云う作戦は完全に頓挫したからである。
「もう完全に越前殿は敵でござるな……」
 と、島左近。
「越前殿は太閤殿下にご恩もあろうが同時に父母の仇でもある。子飼いの将にもあらず。秀忠の内儀は越前殿の妹であるし、内府や徳川重臣と親しい。無念ではあるが、それゆえ越前殿が家康についたことは理解もできる。しかしながら福島や黒田らが家康についたのは腹に据えかねる…」
「殿…」
「あやつらがオレを蛇蝎のごとく嫌っているのは知っておる。しかしあやつら、オレ憎さだけで家康につきよった。あやつらの豊臣への忠義はそんな程度のものだったのか」
「人は義だけでは動かない、再三申したはずですぞ」
「…その義に生きるワシを笑うなら笑えとも返したはずだ左近…」
「……」
「こんな乱世だからこそ、義が問われなければならんのだ」
「…変わりませんな殿」
「それゆえ、苦労をかけるな」

 清洲に到着したのはいいが、家康は一向に江戸を出発しない。福島正則は焦れてきた。
「内府は我らを劫の立替にする気か」
 と激怒。『劫の立替』とは囲碁用語で、わざと石を捨てて敵に取らせることである。正則は家康が自分たちをそうするつもりかと井伊直政に突っかかった。
「あいや、もうじきに殿はお越しになるので」
「もう何度もそれは聞いたわ! 待ちきれんぞ!」
 直政に掴みかかった正則。黒田長政と池田輝政が仲裁に入っている。
「どう思う越前殿」
 と、山内一豊。
「我らを試しておられるやもしれませぬな内府殿は……」
「試す?」
 直政に突っかかっていた正則が明家を見た。
「西軍に合戦を挑み、完全に旗色を徳川寄りと明らかにせよ、と云うことだと……」
 正則に掴まれた着衣の乱れを正す直政。
「そのへんはそれがしも聞いてはおりませぬが、何せ我が主は用心深いお人でございますからな」
「ふむ……」
「特に越前殿」
「は?」
「治部についた岐阜城の城主の織田秀信殿と貴殿は親しい。だから警戒されても仕方ないかもしれませぬ」
 織田秀信とはあの三法師である。秀信の父である織田信忠に明家は深く信頼されており、豊臣政権下でも明家は秀信に神妙な態度を執っていた。
「意地の悪いことを申される。もし容赦なく秀信殿を討てば、それがしは中将様(織田信忠)との信義を踏みにじることとなり、内府殿も平気で旧恩を反故にする者と見て信用せず、かと申して岐阜城攻めに加わらなければ旗色を明確にしないと内府殿の信用を失う。困りましたな…」
「い、いや、それがし意地の悪さで申し上げたのではござらぬよ。ただ我が主の性格を鑑み、客観的に申し上げただけで」
「そうだ! 越前殿よき方法がござるぞ!」
 と、山内一豊。攻めても攻めなくても家康の信用を失いかねない、と明家がポロリとこぼしたことで一豊が妙案を浮かべた。
「何でしょう?」
「秀信殿を口説き落として東軍につけてみては?」
「おう、そりゃ妙案ござるな! 味方を増やして、かつ我らの旗幟も明確に出来る一石二鳥じゃ」
 福島正則も賛同。
「なるほど……。直政殿、よろしいかな」
「かまいませぬが、誰を使者にいたす所存ですかな」
「それがし自ら、と言いたいところですが家臣たちが許しますまい。適切な者を選び岐阜城に行かせます」
「承知した。織田信長公の嫡孫ゆえ殿にも思うところはござろう。一度は救いの手を伸ばすのも悪くござらぬ」
「かたじけない」
 心の中でニヤと笑う明家、攻めても攻めなくても家康の心証を悪くすると弱気を見せて井伊直政を通じて『柴田越前は家康の信頼を得ようと懸命』と示し、警戒心の強い家康を安心させられる。かつ信忠との信義を思うと息子秀信を討てば不義。明家自身、秀信に一度は救いの手を差し伸ばす必要がある。それを拒絶すればやむを得ない、と云うことだ。何より明家自身が降伏を勧めることを主張しなかったのは他の諸将の顔を立てることになる。明家はこういう配慮で豊臣政権下にて黒田官兵衛や蒲生氏郷のように秀吉に遠ざけられるのを防いできたのだ。大坂よりすぐ北の丹後若狭を与えられ、一度の減俸も移動もなかったことを見れば柴田明家が智勇に長けているだけでなく処世術にも精通していることが分かる。
 今回の会津攻めから始まる徳川陣中の中で明家はもっとも大きい大名家であった。三十二万石、二番目が二十万石の福島正則である。徳川直臣の井伊直政や本多忠勝は六千を率いる福島の機嫌を取ることには大変手を焼いたと云うが、八千を率いる明家は驕らず徳川の直臣たちにも礼節をわきまえた。ただの八千ではない。朝鮮の役では『歩来々』と朝鮮軍と明軍を震え上がらせた軍勢である。そんな猛者たちを率いているにも関わらず、明家は腰が低かったのである。この姿勢が後に柴田明家と福島正則の運命を大きく変えていくことになる。
 さっそく明家は自陣に帰り、岐阜城に降伏を勧める使者を出すことを家臣たちに話した。
「で、誰が適任と思う」
 重臣に訊ねた。
「殿、それがしが参りましょうか」
 それは明家養父、水沢隆家に仕えていた高崎太郎の息子、高崎次郎吉兼であった。明家が柴田勝家の足軽大将だった頃から仕えている人物である。渉外の仕事を任されることも多く、明家の信頼厚い重臣だ。
「行ってくれるか吉兼」
「御意」
 吉兼は急ぎ支度して岐阜城へと駆け、二日後に岐阜城に到着。柴田越前守の使者と云うことで秀信は吉兼に会った。
「すでに会津攻めは中止、内府は江戸に入られ、我が主越前を始め、福島、池田、黒田、山内、井伊が清洲に入りましてございます。大軍にござれば秀信殿には恭順を示し、祖父信長公の同盟相手であった内府殿に従っていただきたい」
「……確かに祖父と同盟相手ではあった。しかしながらそれがしを育ててくだされ、厚遇して下されたのは亡き太閤殿下。その遺児の秀頼殿を守るのがそれがしの道と見ました。使者にはご足労であったがお引取り願いたい」
「秀頼様を守るのであらば、その君側の奸である石田治部を排斥するのが先でございましょう」
「……越前殿にそう申せと言われたか?」
「いえ、それがしの意見にございます」
「ならば言っておこう。石田治部少輔は断じて君側の奸ではない。君側の奸は内府だ」
「…………」
「治部ほど豊臣に忠義厚き者はいない。その方らは内府の野心に利用されているだけよ」
(何とも……。あの幼き三法師様がようここまで成長された……)
 言いくるめられそうなのに吉兼は秀信に感心してしまった。
「一つ聞いてようございますか」
「何かな?」
「豊臣に織田の天下を奪われ、悔しいと思いませんでしたか」
「異なことを申されるな。祖父と父が亡くなった時、それがしは三つ。何が出来ますか。太閤殿下が天下を取られたのは誤っておらぬ。主君嫡孫など目の上のタンコブであるのに、太閤殿下は本当によくして下された。確かに天下を奪い取られたと言う者もいた。しかしそれがしは大切に育てて下された太閤殿下に恩義を感じています。そしてそれがしから見て治部はまことの忠臣。今ここで立たねば秀頼様に明日はないと思うゆえの挙兵。それがしが治部に付くのは当然でござろう」
「しかし、情勢は」
「くどい!」
 女の声で止められた。落飾している女が城主の間に入ってきた。
「失礼、私は秀信殿の生母、徳寿院と申します」(正史ではすでに故人)
「柴田越前守が侍大将、高崎吉兼と申します」
「母とは申せ、女のクチ出すことではないのは承知。しかし聞いての通り、秀信殿は西軍に組することを決めている。帰られよ」
「ご母堂……」
 ふん、と徳寿院は笑った。
「越前が使者でさえなければ、もしかしたら私はこの場で秀信殿を説得したかもしれぬ。しかしその方が越前の使者である限り、取り成しをする気はございません。さっさと退出されよ!」
 それを言いに来たのだな、と吉兼は思った。母親の取り成しごときで秀信が心変わりをするはずがないことを吉兼は知っている。秀信の母、つまり織田信忠の正室幸姫、現在の徳寿院は柴田明家を蛇蝎の如く忌み嫌っていたのである。柴田家中、誰もが知っている。
「私にあんなむごい仕打ちをしただけでは足らず、今度は内府に尻尾を振って大恩ある中将様(信忠)の子さえ討とうとしている! 何が仁将! 笑わせるでないわ!」
「…………」
 徳寿院は言うだけ言うと城主の間から去っていった。
「母がご無礼した。許されよ」
「は……」
「時は人の頑なな心を溶かす。いずれ母と越前殿も和解されよう」
「…………」
「使者がお帰りだ。城門まで送り届けよ!」
「「ははっ!」」
 送り出すため吉兼と一緒についてきた秀信の家老である百々綱家が言った。
「許されよ、御袋様(徳寿院)の越前殿への怒りは並大抵ではござらぬゆえ……」
「主君も非を認めております。本日それがしに嫌味を述べ、少しでも気が晴れたなら、それで良うございます」
「かたじけない、では道中気をつけて。次に会う時は戦場ですな」
「そうですな、堂々とまみえましょう」
 高崎吉兼は岐阜城から去っていった。そして清洲の柴田陣に戻り、すべてを明家に報告した。
「そうか……。ご立派になられたものだ」
 秀信の成長が嬉しい明家。
「しかし、これで攻めるしかなくなったな」
「御意」
「幸姫……。いや徳寿院殿は相変わらずか」
「……はい」
 フッと笑う明家。
「もし秀信殿を失えば、彼女の支えはオレへの憎悪だけとなろうな。それもまた良し」
「殿……」
「大義であった。下がって休め」
「はっ!」

 その後、明家は秀信の恭順勧告拒否を井伊直政に報告。それと同じくして徳川家康から使者が来た。家康の旗本である村越茂助が口上を述べた。
「家康様の口上を述べまする。『諸将がいまだ戦端を開かないのは何ゆえか。各々方が敵に手出しをして向背を示されれば我も出陣いたす』以上にございます」
 明家が見たとおり、家康が中々腰を上げようとしなかったのは先陣隊として出陣した豊臣恩顧の武将たちの忠誠を確かめていたからである。
 とはいえ、家康もただのんべんだらりと江戸で過ごしていたわけではない。怒涛の書状作戦を用いて陣営固めにチカラを注ぎ、必勝に向けて態勢作りに専念していたのだ。動かざるごと山の如しとしていた裏側では智謀の限りをつくし豊臣恩顧の諸大名の心を繋ぎとめるために苦心し、かつ石田方への諸将に対して誘降作戦を展開していた。
 そして向背を明らかにせよ、と迫られた東軍は美濃攻めに着手することを評議で決定。美濃では徳川か石田、いずれに加勢するか迷っている者が多かったが、岐阜城を預かる秀信は美濃一国の中心的存在と云える立場であり、秀信がどちらに付くか、その進退を見ていた。そして秀信は西軍についた。秀吉に恩義を感じており、かつ西軍からは戦勝後に濃尾二国を与えると云う条件が出されていた。
 秀信の重臣である木造具康らは徳川に加勢すべしと進言したが、寵臣の入江右近の進言を容れて石田方に付くことを決断、これが美濃国内の諸将の帰趨に大きく影響することになり、美濃の大小名は大方西軍に付くことになった。

 柴田明家、山内一豊、福島正則、池田輝政、一柳直盛、浅野幸長、堀尾忠氏は木曽川の上流から、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎、田中吉政は木曽川下流から渡河すると云う部署配置で美濃への進撃を開始した。上流部隊を指揮するのは柴田明家であった。大老であり部隊の中でもっとも兵数多く最大の大名であり実績もある。当然であろう。進軍中、ふと木曽川の河原を見る明家。
「…………」
 そんな明家の様子に慶次が気づいた。
「場所は違えども、殿が石投げ合戦で森の乱法師(森蘭丸)と戦った木曽川ですな」
「そうだな、何か懐かしい」
 フッと笑う慶次。その石投げ合戦が自分と明家との出会いだった。まさか後年に家臣になるとは当時想像もしていなかったが。その慶次が明家に言った。
「あまり気が進まない城攻めのようですな」
「岐阜城、つまり稲葉山城……。亡き養父隆家が改修した城。まさか攻めるときが来るとは思わなかった」
「武田攻めのおりは岐阜城から甲信に進軍を開始しました。あの時には確かに岐阜城を攻める日が来るなんて想像もしていませんでしたな」
「しかも守るのは信忠様の子息、降伏してくれればと思ったが…」
「三法師様、いや秀信様には秀信様なりの治部に付いた理由がおありでしょう。仕方ございませぬ」
「そうよな……」
 ふと西を見る明家。
「今ごろ丹波と但馬の軍勢が舞鶴に寄せているころか。頼むぞ助右衛門、矩久!」

 丹後若狭二ヶ国の国主である柴田明家、居城は舞鶴城。守るのは明家の第一の側近である奥村助右衛門永福。齢五十八歳となり家康と同年である。
 この戦い、舞鶴城を死守することが己の最後の戦となろうと覚悟を決めた。補佐を務める松山矩久はこの時四十三歳、息子の矩孝と共に死ぬ気で戦って死なぬつもりだ。丹後の民は長年細川氏の統治を受けており、明家の入府はあまり快く思っていなかったが徐々に明家の仁政に心酔し、この時は城に入り、寄せ手の西軍に立ち向かう覚悟である。城攻めが始まった。助右衛門は矩久に迎撃を下命した後に奥へと行った。
「奥村様」
「奥方、しづ様、心配いりませぬ。必ず守りきります。津禰」
「はい」
「奥方と若君、しづ様をしかと守るのだぞ」
「はい殿」
 奥方とは柴田勝秀の妻の姫蝶、そして若君とは勝秀嫡男竜之介のことである。助右衛門は妻の津禰に両名を守れと言い、再び前線へと駆けた。
 大坂屋敷で西軍舞鶴に迫るを聞いたさえたちは祈るしかできなかった。救いは守備するのは奥村助右衛門と松山矩久と云うことだ。さえたちとて二人の武将としての才覚は知っている。特に奥村助右衛門は十万、二十万石の大名でもおかしくはない武人。しかしそんな欲を見せず、若き主君に忠義を貫き続けてきた一級の智勇兼備の猛将である。
「奥村殿、松山殿、お城を守って……!」
 神棚に祈るさえとすず。
「御台様、奥村様と松山殿の軍勢は朝鮮の戦でも敵軍を震え上がらせた精鋭揃い! たとえどんなに多勢が押し寄せようとも負けはしない。何より舞鶴の掘りは大きく、石垣は巨大。平城でも山城級の防御力。大丈夫です!」
「ありがとう、すず! 奥村殿、松山殿! 負けないで!」

 柴田勝家をして『沈着にして大胆』と言われた奥村助右衛門、寄せ手を近づけない。
「撃てーッ!!」
 柴田家の鉄砲隊が敵兵を撃ち落す。敵は六倍以上の兵力だが負けていない。だが
「ご城代、長庵門が破られました!」
「よし、矩久!」
「はっ!」
 わざと城に入れて、狭隘通路に誘い込んで殲滅。松山勢の伏兵に遭い、長庵門から入った敵は掃討された。援軍は来ないと分かっている篭城戦だが、負けずに踏ん張り続ければ、いずれ明家が大軍を連れて帰ってくる。何とかしてそれまで城を守り抜くつもりだ。
 助右衛門は時に討って出て小野木重勝勢を翻弄した。寄せ手の小野木重勝は明家より三歳年下の武将で、秀吉が長浜城主だった頃に直臣として召抱えた。小牧長久手の戦い、小田原攻め、朝鮮の役にも活躍をしてきた武将だが、やはり相手が百戦錬磨の奥村助右衛門では役者が違う。助右衛門は篭城に備えて多くの兵糧や弾薬も補充し、水も井戸が何箇所もあり豊富である。そして丹後の民たちも自分たちの国を守るためと武装し、西軍の小野木勢に立ち向かった。
『お殿様がお戻りになるまでお城を守る!!』を合言葉に一歩も退かない。小野木勢はこの頑強な民たちにも手を焼いた。助右衛門は主君明家の仁政のたまものと思っていた。暴政の君主ならば、いま柴田家を守るために戦ってくれている民も敵となっていた。兵糧も水も十分、これなら主君明家が帰るまで持ち堪えられると助右衛門は思った。

 そして一際目立つのが甲斐姫率いる忍衆四百である。今でも忍城のある埼玉県行田市では彼女は思慕されているが、それは豊臣軍に果敢に立ち向かった十八歳の乙女の勇気に感動する他ならない。また忍城を守る将兵は豊臣秀吉の北条攻めで唯一豊臣軍を野戦で蹴散らした坂東武者の精鋭たちである。その坂東武者を率いて戦ったのは甲斐姫である。この舞鶴城の攻防戦においても源平の巴御前、同時代の立花ァ千代を彷彿させる戦いぶりだった。忍衆だけではなく、甲斐姫の鼓舞は全軍の士気を上げた。
「我に続けええッッ!!」
「「オオオオオッッ!!」」
 成田家の宝刀『波切』を掲げる甲斐姫。かつて石田三成二万の軍勢を圧倒させた甲斐姫の突撃、それが舞鶴の地で再現された。大名側室が前線に出てきて突撃。小野木勢はそれを揶揄して士気の低下を図る。
『尚武の柴田とは女に先陣を切らせるのか! 柴田の女は女にあらずと言うが、男どもは尻に敷かれっぱなしか!』
 松山矩久も負けじと突撃しながら
「わあっはははは! この敷かれ心地は最高だぞ!!」
 と怒鳴り返すと、忍衆に『オレたちが言おうとしていたのを先に言うな!!』と怒られた。矩久も負けていない。『お前らが遅い!!』とやりかえした。気の済むまで突撃すると、甲斐姫は撤退を開始、それを追いかけると美しい長い髪を流しながらクルリと振り向き、男でもそう引けない大弓で敵を射殺す。秀吉から受けた侮辱を一気に晴らしているかのようだった。寄せ手の小野木重勝は散々に打ち破られた。
「姫、見事なお働きにござる」
「ありがとうございまする」
 活躍した甲斐姫を労う助右衛門。
「とうぶんは攻めてまいりますまい。休息をとられよ」
「お言葉に甘えさせていただきます」
 奥ではなく城内の忍衆本陣に向かう甲斐姫。
「大したものですな城代は」
 と、成田家の元家老である正木丹波が言った。
「何が?」
「ああまで姫に活躍されれば、心中は不快なのではないかと思いましたが」
「私が外で思い切り暴れられるのは、奥村殿が城でデンと構えていてくれるから。押されている時は、ちゃんとそれを見極めて増員もして下される。前線の将の活躍を妬む狭量な方ではない」
「確かに。まさに背後が安心だからこそですな。見てみたくなりましたな」
「何を?」
「あの奥村助右衛門の上に立っている姫の愛しい人を」
「ええ、最高の殿方よ。早う抱かれたい」
「あっははは、それを言うと他の忍衆が妬きますぞ」
「でも気になる」
「は?」
「私が奥村殿と会ったのは、あの方が殿の命令で上杉攻めから急遽引き返してきた日で、今に至るまでそんなに話もしたことがない。どうして私にこんなによくしてくれるのか。『貴女こそが成田家だ』なんて言葉、私をただの主君の側室と見ているだけなら言えるだろうか」
「邪な心ではないと存ずる。それだけは言い切れます。邪な心の持ち主にその言葉は言えませぬ」
「そうね。いけないわね女と云う者は……。つまらないことを考えてしまう」

「これ以上の城攻めは犠牲者を増やすだけだな…。さすがは越前が築城した城よ、それを守る奥村の采配も見事なものだ」
 そうこぼす小野木重勝。
「それにしても甲斐姫、亡き太閤殿下の側室でありながら」
 家臣の一人がぼやいた。
「嫌われていたのじゃないか殿下は。あっははは!」
「そんなノンキな。どうなさるのか殿」
「ふむ、伏見城を落とした時のように、何とか内応者を煽り内側から崩したいが」
「残念ながら城内に西軍の息のかかった者はおりません」
「いないなら作れ、城に入っている百姓に金を振舞えば当方につこう」
 しかし、この作戦は失敗に終わった。あの秀吉が行った備中高松城の水攻めのとき、現地の民は羽柴軍の与える金と米で領主を追い込む堤防作りに嬉々として参加している。それが戦国民というものだ。だが丹後若狭では高松城のようにはいかなかった。その調略を担当した者は誰一人生きて帰ってこなかった。小野木は作戦を変えた。

「若狭小浜を預かっているのは奥村のセガレたち。小浜を落として捕らえられたセガレを見れば考えも変わろう」
 と、五千を割いて小浜攻めに向かわせた。何より支城が襲われれば、助けるのが本城の務めである。小野木はそれを狙ったが小浜城主である奥村助右衛門は明確に『見捨てる』と息子たちに告げていた。主君明家居城である舞鶴城を守るのが奥村の務めと言ったのだ。ゆえに息子たちも最初から父の援軍などあてにしていない。主君明家が戻ってくるまで持ち堪えること。これがすべてである。助右衛門の息子たち、長男の奥村兵馬栄明、次男の奥村静馬易英、三男の奥村冬馬栄頼の三兄弟は奥村三馬と呼ばれ、父親には一歩譲ろうが、いずれも優れた武将であった。明家の帰還まで命がけで戦うつもりである。小野木勢迫るの報は小浜にももたらされた。長兄兵馬の元に三男冬馬が駆けた。
「兄上! 小野木の別働隊が小浜に迫っておるとのこと!」
「来たか、舞鶴に手間取れば支城の小浜にゲソを伸ばすしかないのは分かっていたこと。かねてよりの手はずどおり迎撃の準備をせよ!」
「はっ!」
「殿……」
「心配するな糸、この小浜城、若狭の国中にあった城や砦を破却し、材木や石材の多くを再利用して建てられ、築城中は羽柴家の者からケチな柴田の若殿よと笑われていたらしい。しかし完成したら、誰もバカに出来ない出来栄えとなり、堅固な平城と殿は作り上げた。その城に加えて、兵数は少ないが、今回の来襲は予想できたゆえ備えもしてある。そなたは奥で女たちをまとめていよ、良いな」
「はい、ご武運を」
「うん」
 そして兵馬は評定の間に入っていった。奥村家家臣たちが揃っていた。兵馬は城主の席には座らない。座れるのは父の助右衛門と明家だけである。家老の位置に座った。
「静馬、小野木の軍勢の数は?」
「五千と聞いています」
「ふむ…舞鶴に一万、こっちに五千か」
 兵馬は左頬にある大きな傷痕をポリポリと掻いた。
「兄上、討って出ますか」
「慌てるな冬馬、忘れたか、この篭城戦に援軍はない。篭る利点を捨てるわけにはいかない。小浜落ちれば舞鶴の士気も落ちる。敵を撃破するのは理想であるが、当方の兵は千五百、討って出るわけにはいかん。中央の合戦で東軍が勝ち、寄せる西軍が大義名分を失い引き揚げるか、もしくは殿と若殿が本隊を連れて丹後若狭にお戻りあるまで踏ん張ることだ」
「そうだ、何より柴田の丹後若狭は西軍大名ひしめく畿内で孤立している。よしんば今回の五千を撃破したとて、新手がやってこよう。今度は一万二万とな。兄上の申すとおり時間を稼ぐことだ。幸い兵糧は山とある」
 と、静馬。小浜は海を背にした城であり、城下町も海沿いに作られている。貿易と漁業、塩田の盛んな豊かな国である。明家は地形に沿った堅固な城壁と石垣、堀を作り、つまり城壁を通ってからでなければ城下町に至れないように作った。明家は城を砦として、城下町を守るように城作りをしたのである。
 つまり小浜は平城でありながら篭城戦において城下町が危険にさらされないと云う稀有な城だったのだ。明家の人柄が偲ばれる築城方法であろう。また海には柴田家の船が多く停泊しているので、兵糧の買出しも可能であり、楽市楽座に伴い城下の商人たちも海の交易を行っているので城下町からも兵糧は得られる。舞鶴城も舞鶴港と連なるように築城され、海を背にした城であり、同じ様式で築城されている。この後に小浜と舞鶴とも陸側にも城下町は作られるが、当時はまだ海沿いにしか城下町はなかった。
 普段は開放しっぱなしで商人や民の往来もにぎやかな小浜の城門であるが、明家の東軍加担が決定してからは閉じられ、厳重に配備がされていた。そして領民も義勇兵として続々と参戦。助右衛門は主君同様に仁政をしく名君であったので、民は慕い、自分たちの国を西軍の好きにさせるかと武器をもって立ち上がったのだ。
「兄上―ッ!」
「どうした冬馬、もう西軍が来たか?」
「違います! すごいですよ、領民が続々と加勢に!」
「そうか、どんどん入れよ。他の城は領民の加勢によって兵糧が減り自滅となろうが、小浜は違う。海と城下町からどんどん兵糧は入るので心配はない。メシは腹いっぱい食わせよ」
「はい!」
 兵馬は小野木勢が来るであろう方角を城の最上階から見つめていた。
「まさか、オレが若狭の国を背負って戦う日が来るとはな…。人生はどんなことが待ち受けているか分からないものだ…」


第二十四章『奥村兵馬』に続く。