天地燃ゆ−史実編−

第十九章『四人目の妻』


 この当時、明家は他の諸大名とは違う動きをしていた。朝鮮との和平交渉である。明家は古くから朝鮮と交易を続けていた対馬の宗氏を外交大使として李氏朝鮮との和議を進めた。断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣をもちかけたのである。
 一方、家康も来るべく大合戦に備えてはいたが、この和議交渉にも心を砕いていた。大坂城で明家と文机を並べて宗氏からの報告書に目を通して経過を論じ合っていた。
「内府殿、明は内乱のようです」
「そのようじゃの」
「とても日本の外交大使と会うゆとりはございますまい。いっそ和議交渉は朝鮮だけにしぼってはいかがでしょうか」
「ふむ……」
「明が勝つのか、それとも新たな王朝が興るのか、いずれにせよ当分先です。まず朝鮮から国交を回復するのがよろしかろうと」
「分かった越前殿にお任せしよう」
「承知しました」
「ところで越前殿、国書には統一政権の指導者の印判は不可欠でござるが、それは誰になさるおつもりか?」
「……恐れながら国書はまだ出せる段階ではございません。もう少し朝鮮側の敵愾心が薄れるまで貢物や謝罪文書を続けて、交渉の机につかせること。国書はそれからです」
「そうよな……。いやそなたに任せておいてつまらぬことを申した」
(かわしよったわ……。秀頼様とも言わぬし、ワシとも言わぬ)
「では、引き続きお頼み申す」
「はっ」
 明家が家康の執務室から出て行くと本多正信がやってきた。
「近いうち自分にも降りかかる大合戦があろうと分かっていように、何とも働き者ですな越前は」
「しかし言っていることは正しく、上役を納得させる謙虚さもある。唐入りの後始末は彼奴に任せておけば間違いあるまい」
「ははは、我ら徳川家の者も妬くほどの信頼ぶりですな」
「『領地をよく治めるには国々の様子を知り、人々の智慧をはかり、やたら人を使うのではなく技を使うべきである』」
「信玄公の言葉ですな」
「そうだ。太閤は越前を内心恐れていたが、同時に重要かつ困難な仕事は必ず越前を指名していた。その気持ち、よく分かるのう」
「その点は同感にござる」
「さて、朝鮮との和議は越前に任せて、我らは天下取りのために動こう」
 この当時の豊臣家の内政は明家が取り仕切り、大野治長が補佐をしていたと云う。彼は諸大名が次の政権争いの帰趨を見守るなか大老でありながら、それを外れて政治家として働いていたのだ。こんな激務をこなしていても、ちゃんと夜には屋敷に帰り妻三人とイチャつき、朝には武技の鍛錬も欠かさなかった。

 そんなある日、一日の仕事を終えて明家は大坂城から帰ろうとしていた。廊下を歩いていると一人の貴婦人が前から歩いてきた。秀吉の側室なので明家は道を開けた。苦手としている女だった。
「越前殿」
「はっ」
(今日は何と罵ってくるか……)
 その側室は明家に近づいた。
「今まで越前殿へのご無礼の数々、ひらにご容赦を」
「は?」
 明家の手に紙をそっと渡した側室。偶然会ったのではなく、明家が通るのを見越して来たようである。
「……?」
「ではこれにて」
 側室は立ち去った。
「なんだ……?」
 紙を広げて驚いた。
『今宵、私の寝所へお越し下さい』
「甲斐姫様……」
 甲斐姫、武州忍城城主、成田氏長の娘である。女傑として有名で忍城の戦いでは真田信繁(幸村)に一騎打ちを挑んだほどである。
 石田三成が忍城を攻めた戦い。水攻めで落とすように秀吉に命令されていたが、明家の取り成しで兵糧攻めに切り替えて挑み、そして落としている。明家は三成に『当主氏長殿のご息女甲斐姫に殿下は興味を持たれていた。殺してはならない』と伝えており、落城のさい自決しようとした甲斐姫を三成は救出している。やがて甲斐姫は秀吉の側室となるが、自分を秀吉に差し出し機嫌をとった男のクズと甲斐姫は明家と三成を嫌悪した。実際そう激しく罵っている。三成は言わせておけばいいと知らん顔をしていたが、明家は素直に武士にあるまじき振る舞いをしたと大反省して甲斐姫に謝ったと云う。ある事件の日に至るまで甲斐姫は明家を許さなかった。軽蔑だけではなく、失望と云うオマケがついていたからだ。
 彼女のいた忍城は上杉謙信にも攻め込まれている。結果謙信は落とせなかったが、謙信は忍城でとんでもないことをしている。鉄砲の射程内に馬上で不動の体勢を執った。忍城将兵たちはそれを賞賛したが銃撃も無論やっている。だが何故かどんな鉄砲達者が撃っても謙信にかすりもしなかった。忍城将兵たちはまさに軍神だと震撼したのだ。甲斐姫は幼い頃からこの謙信の逸話を聞き、謙信に憧れていた。
 だがその上杉謙信を齢十七で退けた男がいる。しかも謙信三万相手にわずか二千で。水沢隆広、現在の柴田明家である。幼いながらどんな殿御なのだろうと思慕していたが、フタを開けてみれば自分を権力者に売り飛ばすクズ野郎だった。ガッカリさせられた甲斐姫の腹は中々収まらなかった。大嫌いな秀吉に抱かれることに相当鬱憤も溜まっていたのではないか、城の中で明家に会えば罵った。明家は黙って聞いた。いや聞いてくれたと云うべきか。『もったいない越前』と揶揄され、妻が病気の時には出兵も断ったと聞く。腰抜け野郎と軽蔑していた。
 しかしそれが一変する事件が起きた。明家の関白秀次妻子救出である。甲斐姫は初めて秀吉に逆らった男を見た。誰もが逆らえない太閤豊臣秀吉に『関白殿下の妻子を返して欲しくば弓矢で来い』と言い切ったと聞き、腰抜けなんてとんでもないと思った。まるで最後まで秀吉に逆らった坂東武者たちそのものではないか。柴田明家は家臣と家族、領民のため秀吉に従順であったが理不尽には毅然と牙を剥く気概を持つ男なのだと甲斐姫は知った。だが分からない。どうしてそんな男が秀吉の機嫌を取るために自分を売り飛ばしたのか。後に衝撃な形でそれを甲斐姫は知ることになるが、この時点では分からない。言えることは上杉謙信を退けた男はやはり本物だったのだ。
 こうなると現金なもので、明家の良いことばかり耳にする。特に武田勝頼の最期に立会い酒を酌み交わし、その時に勝頼から贈られた不動明王の朱の陣羽織を今も明家が愛用している話にときめいた。坂東武者の娘はこういう話に弱い。幼き頃の思慕が再燃した甲斐姫。
 彼女は十八歳で秀吉の側室になった。秀吉を最後まで嫌悪していた。父の氏長の再起を願うため、夜閨で何度も悪趣味なマネの強要をされた。誇り高い彼女には我慢ならなかったが従うしかなかった。情事の後に悔しくて涙が出てきた。秀吉を嫌うどころか殺意さえ抱いたものだ。側室になった当時、未婚だった彼女は当然処女だった。男と寝ることは醜悪だと言う印象が強い。彼女は『私はまだ男を知らない』そう思った。
 このまま死んだ秀吉の側室のまま、母親にもならず死んで行くのはいやだ。人並みの武家娘の幸せを掴みたいのだ。実家の成田家に帰ろうかとも考えた。甲斐姫の苦難のかいあって成田家は下野烏山三万石の大名に返り咲いていたが、あんな侮辱を受け続けてたった三万石であることにも失望した。父の氏長は『娘が太閤殿下をとろけさせたおかげだ』と諸大名に揶揄されており、実際それを恥じていた。成田家と父のためにと誇りさえ踏みにじられたのに氏長は娘に『ありがとう』『よく今まで堪えた』の一言も言わない。秀吉の死後にも一切連絡してこない。そんな父などもう知るか、烏山三万石は自分の体を切り売りした代価、そんな領地なども知るかと思う。まだ間に合う。別に天下を取る男に嫁ぎたいとは思わない。秀吉を見て天下人などロクなモンじゃないと思っていた。ただ、強くて優しい男の妻になりたい。しかしどいつもこいつも秀吉に尻尾を振ってきた者たちばかり、そんな男は御免だ。強くて優しく、秀吉にも逆らうほどの気概、それが揃っていれば側室で十分。同時代の男たちから『そんなヤツいるか!』と猛抗議が来そうだが当てはまるのが一人いた。柴田明家である。しかも美男、醜男の秀吉にウンザリしていた甲斐姫は少女のように胸ときめく。
「一世一代の勝負ね。もっとも寝所に来てくれるかも疑問だけど一度二度であきらめないわ。今まで悪口雑言を吹っかけ続けたけれど、そんなことを根に持つお方でもないでしょう。殺し文句も用意してあるし、相対さえすれば落とせる。しかし越前殿ほどのお方がどうして私を太閤に売り飛ばしたのだろう。いやすべては済んだこと。聞くまい一生……」
 明家はその夜、甲斐姫の部屋に行かなかった。甲斐姫に憧れていたかつての忍城の若者たちからすれば激怒ものだ。しかし甲斐姫はあきらめなかった。数日後、また廊下で待ち伏せ、すっぽかされたことはクチに出さず、また手紙を渡した。
『女に恥をかかせるなんてあんまりです。今宵も待っております』
 誰にもこんなことは相談できない明家は頭を抱えた。
「一度会って、こんなマネはするなと言おうか……」
 これが知恵者の明家としてはうかつな判断だった。甲斐姫は明家が自分を受けざるを得ない必殺の言葉を用意していたのである。甲斐姫はその夜、身を清め、侍女たちを遠く下がらせた。本来秀吉しか行くことが許されない大坂城の奥。秀吉が死んでも男子禁制であった。しかし明家は淀の方の実兄であり、何より甲斐姫が通すようにと侍女に伝えていた。蒲団のうえで座して待つ。何となくだが分かった。『今宵は来る』と。部屋の中の空気が流れた。柴田明家は来た。三つ指立ててかしずく甲斐姫。
「甲斐姫様、こんな文を手渡されるのは感心しません。それがしには」
「正室も側室二人いる、ですか?」
「……いかにも」
「それと領内に二人、大坂に一人、伏見に一人…でしたね」
「どうしてそれを…」
 それは明家が外で作った愛人の数である。
「申し訳ないですが調べさせていただきました。罪なお方ですね、女子を泣かせてばかりのようで」
「泣かせてなどはおりません。一人一人大切にしています」
 明家は甲斐姫の前に座った。もうこちらのものだと甲斐姫は思った。
「ところで越前殿はどうして月代を剃らないのでございますか? ヒゲも生やしておらぬし」
 明家の髪型は『茶筅髷』と呼ばれるもので、長い髪をそのまま紐で結っただけである。
「父の勝家がそうでしたゆえ、あやかる気持ちと申しましょうか」
「ヒゲはどうして?」
「妻たちがチクチクして痛いでしょう」
 クスッと甲斐姫は笑った。まさかそんな理由とは思わず、それを堂々と言う明家もいい。甲斐姫は問いかけを続けた。
「越前殿は寵児を好まぬのですか?」
 つまり男色ではないのか、と云うことだ。この時代の男は美少年にも目がなかった。
「……それがし自身が男色を好む者に不愉快な思いをさせられたことが幼き頃より多々ありました。どうにも好きになれないのです」
「なるほど、そのぶん女子が大好きだと」
「いや、べつにそういうわけではないですが、女子は好きです」
「越前殿の政治は女子にとても喜ばれていると伺います。何をしていなさるのですか?」
「大したことはしていません。女医を育成したり、母子家庭には十分な生活費を支給したり老女にも仕事を与えたりとか、それがしのできる程度のことでござる」
 微笑む甲斐姫、この人は本当に女が大好きなのだと思った。そんな政策を執っているのは日本広しと云えど明家だけである。幼女、老女、そして醜女にも温かいのだろう。不幸な女を守らずにはいられないのだろう。こういうのを真の女好きと云うのだ。秀吉のは女好きと云うものではない。悪趣味と云うのだと甲斐姫は思う。
「越前殿……」
 甲斐姫の目つきがガラリと変わった。世間一般で云う『色目』だ。胸元と太ももを見せて明家に迫る。目を背けた明家。
「女に恥をかかせますか……」
「しかし……」
「私を側室にして下さいませ」
「な……!」
「私は心ならずも太閤に抱かれ続けました。大嫌いな太閤に」
「…………」
「このまま憎悪する太閤に操を立てるなんて冗談じゃありません。私も武家娘として母親になりたい。強い男児を生みたい。父の氏長のような惰弱な男ではなく、強い子が欲しい。そのためには強い人の妻になりたいのです……」
「甲斐姫様……」
「責任をとって下さい、越前殿が太閤の側室になるキッカケを作られたのです」
 これが必殺となった。それを言われてはもう観念するしかない明家。色目にうるうると涙を浮かべる甲斐姫は美しい。甲斐姫を抱きしめ、優しく寝かせ着物をゆっくり脱がした。不思議だった。秀吉に対してはもう羞恥の心はなく脱がされても何とも思わなかったが、今は何か急に恥ずかしい。両腕であらわになった胸を隠してしまった。明家はフッと笑い、自分も着物をゆっくり脱いだ。
「では、いただかせてもらいます」
「助平な物言いにございます……」
 快楽の次元が違った。味わったこともない極楽、惚れた男に抱かれるのはこういうものなのか。秀吉には触られるのもイヤで寒気がしたが、明家に触れられると熱くなってくる。身も心もとろけるとはこのこと。彼女は羽化登仙の中にいた。
 泳ぎ終えた後も甲斐姫は明家にピッタリと抱きついてきた。もう放すものかと言わんばかりだ。
「これが男なのですね……」
「まあ……そういうことです」
「私を側室にして下さいますか」
 仮にも忍城の戦いでは姫武将として名を全国に轟かせ、秀吉の側室であった甲斐姫。一夜の戯れにできる相手ではない。明家は静かに頷いた。
「……今までのような贅沢な暮らしはできませんぞ。柴田家は質素倹約でございますゆえ」
「成田家もそうでした。望むところです。それともうよそよそしい言葉使いはやめて下さい。名も甲斐と呼んで下さい」
「分かった。甲斐……」
「殿……」
「氏長殿にも連絡をしないと」
「いいんです、あんな父に知らせなくて」
「そんなわけにもいかんだろう」
「いいんです……」
 心地よい疲れの中、甲斐姫は眠っていった。明家はこれからのことを考えると頭が痛くなってきた。
(さえに何と言おう……。しづを側室にしたばかりだと云うのにさらに一人じゃ怒るだろうなぁ)

 翌朝に明家は屋敷に帰っていった。いま側室のすずも大坂に来ている。イヤな予感がしたが的中。朝食のときに明家のそばに来るや鼻がヒクヒク動き、静かに明家に言った。
「……女の匂い」
 と言った。明家は味噌汁を鼻の穴から吹き出した。さえの箸がピタリと止まり、しづは驚いたように明家を見た。しかしさえは一笑に付した。
「久しぶりに大坂の愛人さんと会われたのでしょう。味噌汁冷めますよすず」
 大名の正室になっておよそ二十年、どこの正室もそうだが良人の女遊びに目くじら立てたらキリがない。外に女の一人二人作れない男に何が出来る。何より良人が一番愛しているのは自分だとさえには分かっている。そういう意味では余裕もある。
 しかしすずの嗅覚はケタ違いにするどい。大坂の愛人の匂いではないと看破。それを聞くとさえも怒った。膳にお椀と箸を怒気に任せ強く置いた。
「貴方と云う人はまた女子を作ったのですか! 妻三人と愛人四人でまだ足りないと云うのですか!」
「い、いや…」
「殿も来年は四十になるのですよ! 過ぎたる女色はもはや毒! 私は嫉妬で言っているのではありません! 殿の身を心配して言っているのです! 殿の命は殿だけのものではございません! 柴田家当主が『しすぎ』で死んだら亡き勝家様とお市様にどのツラ下げて詫びるのですか!」
「ご、ごめんなさい!」
(そ、そなただって夜閨ではあんなに激しいのに)
 と、クチに出しては言えない。さえに手を合わせて平伏する明家。明家は晩年まで男として現役であったが、この時にそんなことが予想できるはずもない。人間五十年と云われていた当時、さえの言葉は正しい。
「すず、匂いからして歳はどれほどの女子なのですか」
「おおよそ二十代前半、化粧の匂いから武家娘と存じます」
 真っ青になる明家、大当たりである。今さらながらすずの特技に驚く。
「まあ! 殿はそんなに若い娘が欲しいのですか! 私たちや愛人だけでは満足できないと云うのですか!」
「じゅ、じゅ、じゅ、十分です。いや、さ、さ、さ、さえだけで十分満足にございます!」
「「私はいらないと言うのですか!」」
 すずとしづは激怒。
「ち、ち、ち、違う違う話を聞けーッ!」
 石田三成の命で島左近が佐和山城を出て明家の大坂屋敷に訪れて見た光景、それは屋敷の入り口で家の中から物を投げられていた明家の姿だった。何やら必死に謝っている。
「…………?」
「殿、お覚悟!」
「待て待てすず! お前が投げればその湯飲みも凶器だぞ! 殺す気か!」
「越前殿……?」
「お、おおお! 左近殿!」
(助かった……!)
 左近に振り向いた明家の後頭部に湯飲みが直撃した。いい音がした。しまったと思うすず。
(当たっちゃった……! 避けられるように投げたのに……!)
 あぜんとする左近にさえ、すず、しづも気付いた。
「こ、これは島様! 何ともみっともないところを!」
 さえが慌てて出迎えた。すずとしづも赤面しながら控えた。
「い、いえ……。どうも間が悪かったようで。出直してまいりまする」
 後頭部を押さえる明家が左近の着物の裾を掴んだ。目が明確に帰らないでくれと訴えていた。客間に通された左近。
「助かった左近殿、命の恩人だよ……」
「大げさな、しかしまあ夫婦喧嘩も三対一ではさしもの越前殿もお手上げですかな」
「その通りにございます。悪いのはそれがしだし……」
「ははは、では本題に入ってよろしいですか」
「はい」

 左近の話を一通り聞いた明家。当たり前だがさっきと打って変わり真剣な面持ちである。
「そうですか……。治部はよっぽど内府殿に頭にきているようですな」
「越前殿、大坂城にすんなり内府を入れた意図は?」
「大老筆頭の入城を拒む理由がどこにあるのですか」
「しかし」
「なあ左近殿、内府殿は賭けに出た。天下を取ると云う大博打です」
「はい」
「隙を見ればどんどん仕掛けるのは当然にございます。だが……」
「だが?」
「治部がことを起こさない限り、何も起こりはしません」
「…………」
「天下を取るには旧勢力や自分に敵対する者の一掃する『みそぎ』が必要です。オレが内府殿なら治部にその勢力を集めさせて『君側の奸を排除する』と云う大義名分を立てて討つ。治部は色々と怨みも買っています。あの時の七将や他の豊臣武断派を味方につけるには治部を敵とする必要があります」
「確かに……」
「だから動かなければ良いのです。文には出来ぬゆえ言伝を頼みます。名護屋でも同じことを申しましたが、重ねて言います」
「はっ」
「『いかに内府が権勢をふるおうと立場は豊臣家の大老、挙兵の口実を与えなければ動きようがない。何をしようが静観せよ。当年五十八の内府、そう先は長くない』」
 一言一句聞き逃さない左近。
「『オレは豊臣が二代続かないと思っていた。このままでは間違いなくそうなる。しかし内府が老いて死に、若い秀頼様が仁政をしけばそうはならない。徳川と戦うにしても内府死後でなければ勝ち目はない。だから待て。待てば必ず光明が差す』」
「しかし内府がそんな時間を与えましょうか」
「そうコトを運ぶのがオレと治部、そして左近殿の仕事にござる」
「確かに」
「左近殿」
「はい」
「オレとて豊臣と徳川の戦は避けられないと思っている。と云うより、すでに始まっている。だが要はやりようにござる。何も合戦を今やることはないのです。徳川は小牧の戦いらい合戦をしていない。ご自慢の三河武士団も世代交代が進み合戦の経験もなく、亡き太閤殿下が恐れた日本一の強さは過去の話です。何より内府殿が死ねば徳川家臣団の求心力は薄れる。それからなら対応できる。秀忠殿はオレの妹婿だし、何とか融和に持っていくこともできるかもしれない。秀頼様の務めはその時期まで待ち、太閤殿下の残した家臣団をより強固にしておくこと。そして我らはその補佐をすること。それもまた豊臣と徳川の戦なのだと。けして短慮はならないと治部に伝えて下さい」
「承知しました。伝えまする」
 左近は座を立った。
「帰られるのか?」
「は?」
「せっかく佐和山から参られたのだし……もうちょっといていただけまいか……」
 フッと笑った左近。
「ご自分で撒いた夫婦の戦の種にございましょう。何とかなされませ」
 左近は帰っていった。物が投げられていた廊下がすっかり片付いていた。
(このうえ、甲斐姫を側室にすることも伝えなければならないとは気が重いな)
「さえ、入るぞ」
 さえの部屋を開けて絶句する明家。
「殿、もう来ちゃいました」
「か、か、か、か、甲斐……」

 明家が左近と話している時、さえはすずとしづをなだめていた。
「言葉のアヤよ、殿が二人を大事にしているの分かっているでしょ」
「それは分かっていますが、ついカッとなって」
 と、しづ。
「まあまあしづ殿、このくらいがヤキモチとしてかわいいものですし、殿にも少し灸となったでしょう」
 湯飲みを良人の後頭部にブン投げるのどこがかわいいのだろうかとしづは疑問だったが、あまりに情けない明家の風体で怒りも静まり、
「でも万の敵勢を震え上がらせる殿のあんな情けない姿、正直笑えてしまいます」
 しづが言うとさえとすずも笑い出した。この丸くおさまりつつあるころ、
「ごめんください」
 屋敷の入り口を三人が見ると秀吉の側室である甲斐姫がいた。当然さえは知っている。驚いて出迎えた。
「これは甲斐姫様、いらっしゃいませ…………?」
 甲斐姫は供も連れておらず風呂敷包みを背負っていた。
「あの、何か?」
 風呂敷包みを降ろし、さえに丁寧に頭を垂れた。
「本日から柴田越前守様の側室となりました甲斐です」
 開いた口が塞がらないさえ。すずとしづもポカンとしていた。
「これからよろしくお願いいたします」
 ニコリと笑う甲斐、さえ、すず、しづは昨日の夜は彼女と……と、すぐに分かった。とにかく追い返すこともできないので屋敷に入れたさえ。坂東武者の家柄の彼女は元々竹を割ったような性格であり礼儀も正しい。秀吉の呪縛が解けて、かつ好きな男の元に行けたのだから、さらに根は明るい。
「と云うわけで、越前守様に責任を取っていただこうと思ったのです」
「「なるほど……」」
 さえ、すず、しづは何か納得してしまった。確かに明家が悪い。権力者に敵方の美女を売るなんて女として許せない。何よりさえは甲斐姫に元々好印象を持っていた。あの醍醐の花見にて、さえは秀吉を叩いた。秀吉は黙って立ち去ったが、その秀吉の一行の中にいた甲斐姫はさえを微笑んで見つめていた。甲斐姫はさえの胆力に感じ入り、そしてさえは『よく叩きました』と目で述べる甲斐姫の笑顔が嬉しく、それ以来好印象を持っていたのだ。だからこそ良人が彼女を秀吉に売ったと云うことに対して申し訳なさが出た。
「それは何とも申し訳なく…。柴田家の御台としてお詫びいたします」
「過ぎたことです。坂東武者は昨日の天気のことはクチにしません」
「甲斐姫様…」
「あとご心配なく、私の罵詈雑言が効いたのか、二度と越前守様はそういう振る舞いはしていませんので」
「安心しました」
「でも最初で最後の生贄となってしまった私としては無念の限り。このまま母親にもならず、老いさらばえるなんてまっぴらです。越前守様に女としてもらい、そして母にもしてもらいたい。御台様、すず様、しづ様は不快かもしれませぬが、どうか私も柴田越前守の妻の末席に入れていただきとうございます」
 きちんと平伏して序列を守り正室を立て、年長であり側室としては先輩のすずとしづも敬う。朝倉家出身のさえはともかく、すずとしづの家柄は関東の名家の成田家に比べて到底及ぶものではないのに、とても元秀吉の側室とは思えない。だいたいの側室が天下人の権威を嵩にしていたものだ。しかし彼女は元々秀吉の側室という身を嫌悪していた。そんな権威など嵩にするはずがない。
「分かりました、奥向きのことは私の指示に従ってもらいますよ、宜しいですね?」
「はい!」
 そこには想い人の妻になれることを許されたと喜ぶ美々しい笑顔があった。さえは甲斐姫が良人の側室になることを認めた。不思議そうにさえを見つめるしづ。
「しづ、私が甲斐殿の側室輿入れをあっさり認めたのが不思議ですか?」
「え? いえそんな」
「顔に書いてありますよ。認めたのは私がすでに甲斐殿の性根を見ているゆえです。たとえ良人と因縁浅からぬと云えども、柴田明家のためにならぬ女子と見たら私は絶対に認めませんでした」
 さえが甲斐姫側室輿入れを認めたのは、良人明家の手によって心ならずも秀吉の側室とならざるを得なかった彼女の身の上に加えて、醍醐の花見における出会いもあった。秀吉を毅然と叩いた自分を心より認める笑顔。甲斐姫と云う人物を見るに、あの笑顔ほど器量が分かるものはなかった。甲斐があの時にさえを認めていたように、さえもまた甲斐を認めていたのだ。すずとしづ、そして明家も醍醐の花見においてさえと甲斐にそんな邂逅があったなんて知らない。だからさえがずいぶんとあっさり認めたと思ったのだろう。
「長い付き合いとなりましょう。よろしくお頼みします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 そこに明家が入ってきた。びっくりしていた。
「か、甲斐……!」
「もう来ちゃいました」
「あ、あのさえ! すず、しづ! これにはワケがあってだな!」
「もう伺いました。殿は北条攻めのときヒドいことをしていたのですね。治部殿に甲斐殿を捕らえさせ殿下に献上しろだなんて」
「うん……。反省している」
「ちゃんと責任を取ってあげて下さいね」
「え?」
「今しがた、話は全部済みました。ご安心を」
「……?」
「我らも甲斐殿が殿の奥になることを認めました」
「ほ、本当に…?」
「だって殿が全部悪いのですから責任を取れと言われれば我らも飲まざるを得ないではないですか」
 かつて明家に手篭めにされたしづは苦笑した。
「他に、こういう娘はいないでしょうね。不幸のどん底に突き落とした娘は」
 さえの言葉に一つ咳払いした明家。
「武将である以上ないとは言えない。しかし、しづや甲斐のような例はもうない。誓える」
「しづ様は何をされたのですか?」
 と、甲斐。様づけされて呼ばれることに慣れていないのか、照れ笑いを浮かべつつしづが言った。
「殿に手篭めにされました。生娘だったのですよ私」
「まあ、ひどい!」
「もう勘弁してくれよ…」
 小さくなった明家を見て四人の妻は笑いあった。コホンと咳払いをして甲斐姫を見た。
「甲斐」
「はい」
「ようきた、これから頼む」
「こちらこそ、ふつつか者ですがよろしくお願いいたします」

「甲斐殿が兄の側室に?」
「ご存知なかったのですか?」
 大坂城の茶々と大野治長が話していた。
「甲斐殿が亡き殿下の側室を辞し、大坂城を出て行ったことは聞きました。てっきり成田家に帰るのかと思っておりましたが、まさか兄に…。甲斐殿はあんなに兄を嫌悪していたのに信じられませぬ」
「まこと、女心は分からぬものです」
「………」
「聞くところによると風呂敷包みを背負い、お一人で柴田屋敷に行ったとか。甲斐姫様の押しかけ女房と城下では言われているそうな」
「押しかけ女房か……。そんなことが出来る甲斐殿が少しうらやましい……」
「尚武の柴田家に坂東武者の血が入る。めでたいではないですか。しかも甲斐殿のいた忍城を総攻めして治部殿や刑部殿も大敗しました。二千で二万を一度は撃破している武人揃い。忍城落城後に成田家は離散しましたが、豊臣への仕官はほとんどしていないと申します。今回の甲斐殿のことで旧成田家臣の中には柴田に仕官を望む者もいるかもしれません。兄上様の軍勢はさらに強くなりますぞ」
「……その軍勢が豊臣に向けられなければ良いですがね」
「え?」
「独り言です。私を一人にして下さい」
「はっ……」

 ここは佐和山城、石田三成の居城。
『いかに内府が権勢をふるおうと立場は豊臣家の大老、挙兵の口実を与えなければ動きようがない。何をしようが静観せよ。当年五十七の内府、そう先は長くない』
 左近は明家の言葉を伝えた。
「動くなと云うことか……」
「殿、それがしも越前殿と同意見にございます」
「……ダメなのだ」
「は?」
「いま内府を討たねば、いずれ秀頼様を……」
「殿……」
 三成は秀吉に対して崇拝に近いものを抱いており、豊臣家安泰のためには家康の排除が絶対必要だと考えていた。秀吉生前は側近にあり政務を任され主君の寵愛を人一倍受けていただけに秀吉の遺志を知った事かと平然と蹂躙する家康は許しがたい。三成にとって家康は豊臣家を危うくする悪鬼羅刹である。
「もうすでに内府は大坂城を乗っ取ったではないか! ここで動かなければオレは太閤殿下に合わす顔がない!」
「どうあっても内府を討つ気にございますか」
 三成の覚悟を聞く左近。
「討つ! 秀頼様のために討たなければならぬ!」
「しかし今の内府と戦うのは無謀にございます! 殿が挑発にさえ乗らなければ内府は『君側の奸排除』の大義名分を得られず、戦いようが」
「甘い、甘いぞ越前殿も左近も。どんな言いがかりをつけても必ず内府は合戦に持ち込む。老い先が短いのであらばなおのこと、どんな悪辣な手段にも打って出る! 内府はそういう男なのだ!」
「殿……」
「絶対にあの男を討たなければならない!」


第二十章『直江状』に続く。