天地燃ゆ−史実編−

第十三章『三成の賭け』


 柴田明家が三条河原に攻め込み、関白秀次の一族を救出して領国の舞鶴へと連れて行ってしまった。大坂と伏見の屋敷から家族を逃がしていた明家の差配は妹の茶々、初、江与の元にも及んだ。二の妹の初は兄の謀反を聞いた時は我が耳を疑った。そんなことをすれば我ら三姉妹がどうなるか兄なら分かっていたはず。しかし初は
「いや兄を怨むまい。関白殿下の妻子を助けたのは正しい。柴田越前が妹として見苦しい振る舞いは出来ぬ。ならば堂々としていよう」
 そう腹を括った。そして良人の京極高次の裁きを待った。だが高次は何も言わない。兄の謀反を知らないのかと思い、それを聞くと
「ああ、知っているぞ。よくやったよなあ、さすが義兄上だ」
 当たり前だが高次は知っていた。そして義兄を讃えた。驚く初。
「む、謀反をしたのですよ。妹の私にも、はては京極家にも累が及べば!」
「それならワシは義兄上について戦う」
「ええ!」
「もう太閤殿下など知らん。老いた駄馬より不敗の名将に賭けるわ」
「殿……」
「越前殿から謀反後にすぐに文が来た。初が手に余るというのなら実家の当方にお返しを、とな」
「…………」
「やってくれる。それでハイそうですか、と返せば笑いものではないか。あっははは!」
「殿……。ありがとう!」
(何より、そなたを悲しませたくはないでな…)
 最後の言葉は照れくさいのか発しなかった高次であった。

 そして徳川家康の屋敷、良人の秀忠と話す江与。
「いやあ義兄上はやってくれたな! なんかスカッとした」
「そんなのんきなことを言っている場合ではありません。太閤は私を……」
「心配するな。謀反後に義兄上から文が来てな。『どうか江与を守ってくだされ』と来た。そうまで言われては引き受けるしかない。六つ年下の亭主とてやる時はやるぞ。安心せよ」
 同じ義弟でも京極高次と徳川秀忠と書面の内容が違う。それぞれの器量や性格を分かったうえで出していたのだろう。
「よう言った」
「これは父上」
「義父上様」
 家康が入ってきた。秀忠と江与はかしずき控えた。
「江与、太閤殿下がどう言おうとそなたを渡さぬ。安心して秀忠と子作りに励め」
「義父上様ったら……(ポッ)」
「しかしやりおったなァ。諸大名は無論、庶民に至るまで拍手喝さいをしている。光秀の謀反とは大違いじゃ」
「義父上様、兄はどうなりましょう」
「おおむね、あの男の筋書き通りであろうな。むしろ追い詰められているのは太閤殿下であろう」
「柴田と前田が大挙して大坂に攻め入るともっぱらの噂です」
「越前と大納言(利家)はそんな短慮者ではないわ。例えて言うなら、あの竹中半兵衛がやった稲葉山城のっとりのようなもの。殿下に少し脅しをかけただけじゃ」
「なるほど」
「今に自然と収まるであろうよ」

「茶々姫様、兄上の下命どおり、早く大坂城を退去して下さいませ。この大野の手勢が舞鶴まで無事に届けまする!」
「だめです」
「何故ですか! ここにいたら殿下に殺されますぞ!」
 大野治長は秀吉の直臣であるが、元柴田勝家の小姓であり、丸岡城の篭城戦では明家の元で戦っていた。その後に茶々に随行して秀吉に仕えているが、いまだ柴田家や明家に対する気持ちは強い。茶々の大坂城退去を内々に明家から頼まれていた治長。だが茶々は動こうとしない。
「初と江与には適切な手を打った兄上ですが、私に対しては少々計算を間違えたようです。私が逃げたら太閤殿下はいよいよ兄と戦おうとするでしょう。そうさせてはならぬゆえ、私が命乞いしなければ」
「姫……」
(今はまだ時期が悪い。本格的に豊臣を乗っ取るのであれば太閤が死んでからでなければ成功はおぼつかない)
「姫は越前殿がされたことを迷惑にとお思いですか」
「カンイチ(治長)は不快なのですか」
「い、いや、ありていに申せば胸がスカッといたしました」
「ここだけの話だけですけどね。うふ、私もです」
 久しぶりに見るウソのない茶々の笑顔だった。

 同じく山内一豊の伏見屋敷。すでに明家の刑場荒らしの知らせは届いていた。
「やってくれたわ越前殿」
「さすがでございますね」
 一豊と千代の夫婦は明家を讃えた。
「千代、言っておく。もし豊臣と柴田が戦になったらワシは柴田につく」
「だんな様……」
「六万石の大名に取り立ててくれた太閤殿下には感謝しておる。しかしワシは越前殿との友情を取る。ワシは秀次様の宿老、本来はワシがしなければならんことを越前殿はやってくれた。主君を死に追いやった殿下に尻尾を振り友を討ち生きながらえるより、友情に殉じて戦い抜いた方が、少なくともワシの子孫は喜ぶであろう」
 千代は満面の笑顔を浮かべて頷いた。
「殉じてだなんて! 知恵者の越前殿と槍の使い手の山内伊右衛門が組めば鬼に金棒でございます! 勝てるかもしれませんぞ!」
「つまりワシは無学者と云うことか?」
「ま、子供みたいにお拗ねになって!」
 一豊と千代は笑いあった。

 仙石秀久の伏見屋敷。秀久は二人の息子の前で頭を抱えていた。
「弱った、ああ弱った……」
「しかし父上、いずれ旗幟はハッキリしておかないと」
 と、息子の秀範。その弟の久政も頷いた。
「豊臣につけば姫蝶が泣く、柴田につけば戸次川の大失策さえ許してくれた殿下への不忠となる。ああ選べぬ、オレには選べぬぞ」
 秀久は末娘の姫蝶を溺愛していた。
「父上、豊臣に加わっても五万石の微々たる戦力で軽視されましょうが、柴田なら世継ぎの正室が我らの妹にございます。重みが違いましょう」
「理屈はそうだが、十六の頃からお仕えしている殿下を見捨てるのはな……」
「しかし父上」
「もう少し様子を見るしかない。いよいよになったら決断する。母上にもそう言ってあるゆえ、しばし待て」
「「はっ」」
(本当に困ったことをしてくれたわ。まあ信長様にも公然と楯突いた越前殿ゆえ、らしいといえばらしいが……)
 迷いに迷う秀久だが、娘の姫蝶が言うように少し嬉しい。
(さて、どうなることやら)

 九戸政実はすでに隠居し、息子の行実に家督を譲っていた。その行実の妻は柴田明家の娘の鏡姫である。伏見の九戸屋敷は騒然としていたが、行実はすぐに豊臣と柴田が戦えば九戸は柴田に付くと明言した。妻の鏡にも舅殿につくと約束した。
「国許にいる父上は舅殿の謀反を知らないが、同じ決断をされるだろう」
「殿……」
「九戸があるのも舅殿のおかげだ。地獄の底まで舅殿に付き合うつもりだ」
「ありがとう……殿、大好き!」
 母親と同じようなことを言っている鏡。
「しかしまあ……それは戦が避けられなくなった最悪の事態の場合だ。舅殿は勝算のない戦いはしない方だ。戦を避けるべく何か手を打っていると思う」
「鏡もそう思います……。父は好んで戦を仕掛ける方ではありません」
「でも今の我らにその助力をする術はない。とにかく万一に備えて国許にいる父上に兵を出していただこう。ことが起こってから九戸城に出兵を要望しても遅いからな」

 さて、ここは舞鶴城。豊臣秀次の正室、一の台が明家に礼を述べていた。
「越前守様……我ら感謝の言葉もございませぬ」
 明家は刑場荒らしのあと一行を連れて居城の丹後舞鶴城まで一気に向かった。山中鹿介の忍びである羅刹衆が露払いを終えており、先導を果たした。大坂と伏見の屋敷にいる女子供も前田家に護衛され、さえや姫蝶も無事舞鶴に到着した。
 明家は秀次妻女たちの実家に救出した旨を伝え、舞鶴に迎えに来るように通達した。妻女たちの実家は歓喜して、すぐに迎えの使者を送った。明家が秀吉に謀反したことなど眼中にない。それほど彼女たちの親たちは嬉しかったのだ。
 秀次の息子は良き武士となれるよう柴田家が養育し、娘たちには良い男児と娶わせると約束した明家。秀次妻女たちがどれだけ明家に感謝したか言うまでもない。秀次の正室一の台は、女たちを代表して明家に礼を述べていた。
「いえいえ、人として当然のこと。礼には及びません。それから駒姫殿」
「はい」
 当年十五歳の駒姫。花も恥らう美しさであった。彼女は奥州の雄、最上義光の娘だった。父の義光が溺愛している娘で、秀次に召し出されるときは別れを惜しんで涙したほどだった。
 秀次に連座して処刑されると聞き、義光はあらゆる方面に手をつくしたが結局かなわず失意のどん底にあった。それが助け出された。父の義光の感激たるや言葉につくせぬほどだった。
 で、その駒姫は明家の横にいる少年をウットリとして見ていた。明家嫡男の勝秀、彼女を殺そうとした首切り人を射殺したのは彼で、その後も敵から守ってくれた。その凛々しい背中に完全に心を奪われてしまった。秀次の側室とはいえ、彼女はまだ秀次の元へと上がっていない。山形から京に来て最上屋敷で旅の疲れを癒している時に秀次は処刑されている。まだ男を知らない美少女であり、それがこんな劇的な救出をされたのである。自分を助けてくれた同じ歳の美男子に心を奪われるのも仕方ない。しかし勝秀はそんな駒姫の視線に全然気付かない。こういうところも父親譲りらしい。惚けている駒姫に気付いた明家。
「話を聞いておられるのかな駒姫殿」
「あ、は、はい! すみませぬ、何でございましょう?」
「具合でも悪いのでござるか?」
 勝秀が訊ねた。もう恥ずかしくてたまらない駒姫は顔を赤めた。
「だ、だ、大丈夫でしゅ」
 明家と勝秀は『?』と顔を見合ったが、明家が続けた。
「すでに出羽酒田から舞鶴に向けて迎えの船が向かっているとのこと。明後日には舞鶴に着きましょう。生まれ故郷に帰るが宜しかろう」
「あ、ありがとうございます! 母上と父上に会えるのですね!」
「そうですとも、ご父母は娘の帰り、さぞ首を長くして待っていましょう」
「ああ、早く母上と父上に会いとうございます!」
「なんとお礼を申したら……! 我らに取って越前守様は神仏の化身にございます……!」
 明家を生き仏のように拝む一の台。
「いえ……ご最期の時、命を捨てて太閤殿下に訴えた関白殿下のことを伝え聞き、今まで保身ばかり考えて太閤殿下の顔色ばかり伺う自分に恥じ、せめて妻子をお助けして……関白殿下に報いたかったのでございます」
「越前守様……」
 彼女は朝廷で右大臣を勤める菊亭晴季の娘だった。菊亭晴季は明家の義挙に涙を流して感謝した。後にこれが理由で菊亭晴季は柴田家のため、あることに尽力することになる。それが柴田家存亡も救うことにもなるのだ。

 柴田明家の刑場荒らし、これは奥村助右衛門も驚いた。前田慶次はただ大笑いしただけであったが。
「なぜ我らに一言も相談もなく!」
 と明家に激しく抗議。無理もない。完全な豊臣家への謀反なのだから。
「鹿介もついていたのに、なぜお止めしなかったのだ!」
「いや面目ござらん、殿の目がもう止められる段階の覇気ではなかったので……」
 そりゃそうだろうな、と思う助右衛門。明家も頭を掻きながら助右衛門に詫びた。
「いや、すまん。急なことで舞鶴まで使いを出すゆとりが無かったのだ」
「だからと申して……」
 頭を抱える助右衛門。
「まあ良いではないか助右衛門、我らはこういう殿に惚れて今まで一緒にいたのであるから。なるようになるだろ」
「気楽なことを言うな慶次! しかしまあ……やってしまったことは仕方ありませんな」
 意外にあっさりしている助右衛門。内心よくやったと思っているのだろう。
「しかし殿、早晩太閤殿下から申し開きをしに来いと使いが来るでしょう。それはどうなさいますか?」
「使者と会うには会うが伏見には行かない」
「は?」
「忘れたのか、我らは朝鮮に合戦をしにいかなくてはならない」
 驚く助右衛門。
「謀反しておいて、ご下命の通り朝鮮に行くと?」
「奥村殿、太閤の下命に従うには従い朝鮮に行くと言うのだから伏見に行かない理由にもなるし、軍備している言い訳にもなるではないか」
「バカな鹿介、そんなものはどうでもいいからやってこいと言うに決まっているぞ」
「それは無視する。とにかく伏見には行かない」
「殿……」
「ここで弱みを見せられない」
「そうだな、むしろ『来るなら来い』と言わんばかりのほうが良い。叔父御(利家)がおられるゆえ軍勢が朝鮮に行ってもこの国が攻められることもない。この状況で下手に出れば柴田はなめられる。強気で行った方がいいだろう」
 と、前田慶次。
「ふむ…。慶次の言うことも道理だな。一度下手に出れば、嵩にかかって潰されよう」
 今回の刑場荒らし。いざとなったら柴田は噛み付くぞと云う気概を秀吉に示すだけで十分有益である。『狡兎捕らえて走狗煮られる』を柴田にやろうとすればどうなるか、それを秀吉に理解させることができるのだ。かつて織田信長にさえ逆らった柴田明家である。従順であってもその内面には理不尽には絶対に服従しない顔をもっていると秀吉に知らしめた。刑場荒らしを最終的に秀吉に許させることが目的である以上、明家はその瞬間まで強気の姿勢を崩すわけには行かない。
「では今までどおり唐入りの準備を進めてくれ」
「「ははっ」」

 ところで救出した者の中には明家個人と縁のある女もいた。明家十歳の時に金山城下で巡り合った、ふみと云う少女。長じて森長可の側室となり、長可亡き後には羽柴秀次の側室となっていた。羽柴秀次謀反の連座の罪で処刑されるところを間一髪で柴田軍に助けられた。
 舞鶴城内に用意された彼女の部屋を訪れた明家。ふみの兄の鮎助こと野村可和も部屋の中にいた。明家に平伏する可和とふみ。
「なんだ他人行儀するな、ここには我らしかおらんぞ」
 そう言って座る明家。
「金山に帰るそうだな鮎助」
「うん、伏見に行ったのもふみを助けるためだ。もうその用事も済んだし戻る」
「あんちゃん……」
「うん?」
「私……金山に帰りたくない……」
「え?」
「また知らない男に嫁げと森家に命じられる。もうイヤなの、武士の妻は!」
「じゃ、じゃあ長可様と関白殿下の菩提を弔い尼僧になればそんなことも……」
「それもイヤだ。亭主に先立たれたら操を立てて尼になる。何でそうならなくてはならないの。元々私は百姓の娘。そんな武士の妻の慣例に囚われる気はない」
「じゃあどうするんだ、金山に帰らないでどうやって暮らすんだよ」
「そうだ!!」
 ふみと可和は明家に向いた。話の腰を折って、と可和は迷惑顔だ。
「そんな顔するな。いいこと思いついた」
「なに? 竜之介さん」
「実は五ヶ月ほど前、城下に温泉の源泉が見つかったと報告が入ってな。オレも何度か行ったが疲れが取れてとても良い温泉なんだ」
「「……?……?」」
「ついては柴田家が運営する温泉宿を建てることにして現在建築中だ。宴会大広間もあれば、旅人もたくさん泊まれる大きな宿だ」
「竜之介さん、何の話しているの?」
「最後まで聞け。で、その温泉宿、そのまんま『舞鶴温泉』と命名したが、その宿の女将を誰にするか人選に迷っていたが決めた。ふみお前がやれ」
「ええ!」
「ここ数日ふみと話して分かった。苦労してきたのか、ずいぶんとしっかりして腰の据わった女になっていた。しかも算盤に長けているらしいじゃないか。側室でありながら森家や関白家の台所を切り盛りしていたと聞いている。大きい宿の女将にピッタリだ」
「別にそんな……」
「売り上げの三割を当家に献上してくれれば経営は全部任せる」
「わ、私で良いの? 竜之介さん」
「ああ、ただし」
「え?」
「そこにはオレ専用の部屋もある。妻を連れて行くこともあろうが、時に一人で行く。その夜はふみと過ごしたいな」
 ふみは顔を赤めた。一夜を過ごすと云うことは……。
「おいおい、兄の前で」
 苦笑する可和。
「面白そうじゃないかふみ、やってみろよ」
「うん! やってみるよあんちゃん! あの……お、お殿様」
「え?」
「お一人でいらっしゃる時は事前に連絡ください。精のつく夕餉をご用意して…は、恥ずかしい!」
 顔を真っ赤にして両手で覆うふみ。気の早いことだなと可和と明家は苦笑した。

 明家は刑場荒らしなどなかったかのように出陣準備を整えていた。その準備中、工兵隊頭領の鳶吉が要談を求めたので明家は会った。
「以上が先の文禄年間での朝鮮での戦を鑑み、必要な資材の数量かと存じます」
 鳶吉が提出した必要資材とその数量を網羅した報告書を見る明家。
「文禄の時のおよそ倍だな。的を射ている計算だ」
 報告書に花押を記入した明家。
「分かった、商人司の直賢に通達しておくゆえ資金を受け取るがいい。何とか出陣まで揃えよ」
「はっ」
「話は変わるが辰五郎はどうしている?」
「はい、若い職人に技術を教える毎日に充実しておられる様子です」
「そうかぁ、辰五郎は七十近いのにすごいな」
「私も親方のような老後を送ろうと健康に色々と気遣っておりますよ」
「ところで……」
「……? はい」
「しづは……元気か?」
「ええ、一応……」
「嫁ぎ先はまだ決まらないのか?」
 鳶吉は首を振った。
「嫁には行かないと。しづは……」
 言いづらそうだった。
「かまわない、何と言ったんだ?」
「男なんて信用できないと……」
 肩を落とす明家。鳶吉の娘であるしづを明家が無理やり手篭めにしてから時は経っているが、幼い頃から思慕していた明家に裏切られたしづの心の傷はいまだ癒えておらず、そして明家を許してはいなかった。
「すまん、そなたの娘の一生をオレはメチャクチャにしてしまった……。もうそなたには孫がいてもいい頃なのに、本当に申し訳ない……。それなのにそなたはオレによく仕えてくれている。どう報いてよいのか……」
「……殿、私は工兵ゆえ武勲は立てられません。しかしもし、私の長年の働きを見込んで下さるのであれば……」
「うん」
「……しづを……側室にして下さいませんか」
「そ、そりゃあそうしたいのは山々なのだが、しづが受け入れるとは思えない」
「それを何とかするのが男でござろう。私や女房も出来るだけのことはしますから」
「みよは何と?」
 みよとは鳶吉の妻で、つまりしづの母である。
「『殿に男の責任を取ってもらうしかない』と」
 明家は腹を括った。まったくみよの言うとおり。
「よし、朝鮮から帰ってきたら、しづを口説き落としてみる!」
「おお殿! その意気その意気!」

 どんどん軍備が整う柴田軍。秀吉から詰問の使者としてやってきた増田長盛はその準備を大坂に攻め入る準備と見た。そして舞鶴城で明家と会った。
「ご謀反、明らかですな」
「何の話だか分からないが」
「あの物々しい軍備、あれで大坂を攻める所存でござろう!」
「あっははは、右衛門少(長盛)、我ら柴田は太閤殿下に朝鮮へ行き合戦せよと命じられているではないか。その準備をしているだけでござるぞ」
「ではあの刑場荒らしは何の真似でござるか!」
「ああ、そんなこともやりましたな」
「刑場にいた者たちは太閤殿下直属の兵ですぞ! それを討ち罪人を強奪するとは謀反以外のなにものでもない!」
「あれが殿下直属兵? あっははは!」
「何が可笑しいのでござるか!」
「いやぁ、それがしあんまり弱いので、どこぞのならず者とばかり思っていましたがな」
「なんと……!」
「それに女子供は国の根本、まして関白殿下の奥方たちは美女ばかり。美しい女は国の宝。殺すのではなく愛でるもの。柴田の気風は尚武もありますが、女子を慈しむ騎士道もございましてな。それがしはならず者から国の宝を取り返しただけでござるよ。あっははは!」
「越前殿!」
「とにかく、遠路申し訳なかったですが、それがしには軍備の指揮がござるゆえ忙しい。お引き取りを」
「越前殿、まだ間に合う! 関白殿下の妻子を渡されよ!」
「断る」
「越前殿!」
「無理を言われては困る。大半実家に帰し申した」
「なにを……!」
「まだ丹後に数名いるが、無論渡さない。どうしても取り返したくば弓矢で参られよ。オレの目の黒いうちは断じて渡さん」
 長盛は立ち去ろうとする明家の着物を掴んだ。
「それがしも子供の使いではない。今の態度を太閤殿下に申して良いのでござるな!」
「ご随意に。騎士道を誉れとする柴田武者の槍の味、堪能したければいつでもお相手いたす」
 そう言うや長盛の手を扇子で叩き落した。
「ご使者がお帰りだ。城門までお送りもうせ」
「はっ!」
 明家の目は明らかに『来るなら来い』と示していた。明家は完全に秀吉の召し出しを無視した。秀吉は長盛の報告を聞いて激怒。
「おのれ越前……。弓矢で来いとはようもぬかしよったな!!」
 秀吉の天下統一以後、ここまで毅然と逆らった家臣はいない。当時の秀吉は今では考えられないほどの絶対君主である。誰もがその威光に逆らえなかった。だが柴田明家は逆らった。秀吉の怒りはすさまじいものであった。だが……
「勝てますかな」
 徳川家康が静かにつぶやいた。
「なに?」
「豊臣は越前に勝てますかな」
「どういう意味か?」
「今は朝鮮と九州名護屋に豊臣の軍勢は集結しております。我ら徳川の軍も関東にあり、大坂には千五百ほどの兵しかおりませぬ。何より……」
「何より?」
「前田利家殿もついているのでは……」
「又佐(利家)が完全に越前に付くと申すのか!!」
「つきましょう。柴田と前田が本気で組めば十分に勝機はございますゆえ」
「…………」
「いや前田だけでは済みますまい。色々と人望もありまする。長宗我部、十河、九戸、秀次殿の旧臣たち、加えて今回娘を助けられた大名もつきましょう。それが野戦で負けたことのない越前の采配で動けば、はてさて今の豊臣で退けられるかどうか……」
「徳川殿はどうされるつもりか」
「それがしは殿下や越前と違い戦下手。徳川が殿下についても戦況に大した変わりはございますまい」
「…………」
「それとも朝鮮に軍勢が向かい、手薄になった丹後若狭を落としまするか? まあ前田殿が弓矢にかけても阻止しましょうがな。何にせよ越前を敵とすれば豊臣は割れ、倒したとしても相当な犠牲は覚悟せねばなりますまい」
「どうせよと言うのだ」
「簡単なこと、お許しあればそれで済みまする」
「許せだと? 謀反を起こしたものを唐入りがあるからと申せ帳消しにせよと?」
「はて、かつて伊達の明らかな謀反も見てみぬふりしたのは生かして使うほうが良いと殿下は思ったのでは?」
「あの時の伊達と越前の謀反は違う! 伊達は裏に回って扇動しただけだが、越前は豊臣に真正面から武装蜂起したではないか!」
「おそれながら、あの男は殿下と戦い、やっと統一されたこの国を乱世に誘うほど阿呆ではござらぬ」
 徳川家康はそれだけ言うと秀吉に一礼して去っていった。
「…………」
「殿下、見せしめに大坂や伏見の柴田屋敷を焼き討ちしては」
 と、増田長盛。
「愚か者、怒りに任せて空き家を焼くなど笑いものじゃ」
「しかしこのままでは」
「無論済ます気はない」
「殿下」
「なんじゃ佐吉」
「さきの書状に『朝鮮に行く』とありましたように越前殿は謀反をしながら、一方で下命に従うと云うおかしなことをしています」
「つまり、ワシに免罪を要望していると云うこと。そういうことだな?」
「御意……?」
「……?」
 石田三成と増田長盛は秀吉の変化に気付いた。つい昨日までは柴田と前田の連合軍が南下してくるのを恐れ、『茶々も越前が刺客だ』と疑い、会おうとしなかったほどの体たらく。
 しかし家康の言葉で何かが変わった。かつて自分より強い敵がいたときの秀吉とでも言おうか。権力の亡者となった陰険頑固な、自分の感情を抑制できない老いた駄馬でなくなっていたのだ。
「なんじゃ二人とも、ワシの顔に何かついているか?」
「い、いえ……」
 秀吉は思案し、そして三成に訊ねた。
「佐吉」
「はい」
「ただで許せると思うのか」
「結果的には許さざるを……」
「そなたも今の豊臣では越前に勝てないと思うのか」
「……はい」
 つい昨日なら秀吉に斬られていたであろう返答、だが秀吉は静かだった。
「その心は?」
「前田は言うに及ばず、越前殿に恩義のある四国の長宗我部や十河、奥羽の九戸や最上もつきましょう。状況によっては九州の大友、立花、島津も。そうなってはかつて勝家様と袂を分けた金森長近殿もつき、愛娘の命を助けられた山内一豊殿、柴田家世継ぎの正室が娘である仙石秀久殿も、初姫様の嫁ぎ先である京極、江与姫様嫁ぎ先である徳川も! 越前殿個人と親しい真田もつき、上杉の家宰である山城殿(直江兼続)と越前殿は同門の朋友! 戦局優勢ならば必ず柴田につくべしと景勝殿を説得しましょう! そうなったらもう豊臣は終わりでございます!」
 苦悩する秀吉、悔しいが三成の言うとおりである。
「しかし、お許しあれば話はあっけなく終わりまする」
「…………」
「殿下、寛大なご処置を豊臣家のために!」
 秀吉は腹を決めて言った。
「…分かった、越前を許そう」
「殿下!」
 増田長盛は反対の様子、しかし秀吉は手で制した。
「背に腹は返られぬとはまさにこのことだ。何と云う恐ろしい男となったのか越前は……!」
「殿下……」
「だが……どうやって許せば良いのだ」
「…………」
「よもや『秀次妻子を殺すのは立場上泣く泣くやったのだ。よくワシの意を汲み取ってくれた』などの白々しい田舎芝居をせよなどと申すまいな! そんな許し方をしてみよ! ワシが越前を恐れたと誰もが見るわ! 豊臣の権威は失墜し、謀反が乱発するぞ!」
 暗に明家に工作を要望された三成、思案に思案を重ねてこの策に至り、秀吉に言った。
「今から申す策、お気に召さなんだら斬り捨てあれ」
「申してみよ」
「策と申すより、賭けでございます」
「いいから申せ」
「この謀反、殿下に免罪を要望していることで越前殿に野心がないことは明らか。単に惻隠の情から行ったことで亡き関白殿下に義を貫いただけであり、豊臣の天下の転覆を図ってのことではないと云うことです」
「それは認める」
「許すと同時に、それをこちらが証明させてやる必要がございます。それで初めて殿下が『単なる惻隠の情でやったこと。お前なりに義を通したまでのこと。今までの武勲に免じて許してやる』と上位で許すことができます」
「結論を急げ」
「はい、殿下に……本能寺の信長公になっていただきます」
「なんだと?」
「治部殿!?」
「どういうことじゃ?」
「丹後舞鶴の軍港から西へ最初にある但馬の軍港、その近くにある本性寺、ここで殿下が柴田の馬揃えをやるのです。ただし軍勢はなく、それがしと少しの供回りだけ」
「バカな! まさに本能寺の変そのままではないか! 殿下は間違いなく越前に討たれるぞ!」
「黙れ長盛、続けよ佐吉」
「そのとおり、本能寺の変そのままです。もし越前殿が謀反まことなら殿下は但馬本性寺で討たれます。しかし謀反の気持ちがなくばそのまま馬揃え。先の通り、笑って刑場荒らしを許してやることができます」
「自分の言っていることが分かっているのか治部少輔! 殿下を死地に誘っているのだぞ! たとえ今の越前にその気がなくてもその状況を知れば、間違いなく日向(光秀)と同じことをしてくるぞ!」
「それならそれで、越前殿は明智光秀と云う『前者の覆轍』を何ら教訓としていなかった阿呆なだけ。明智光秀と同じ末路を辿るだけでござる」
「しかしかような危険な賭けを認めるわけには!」
「それがし、森蘭丸となり最後まで殿下につき従って戦い、そして果てる所存」
「貴殿の命と殿下のお命では釣り合いが」
「……面白い。その策、乗ろうではないか」
「殿下!」
 驚いた長盛。同時に秀吉が歓喜とも見える顔をしていることに気付いた。
「佐吉、見事な策よ。今日ほどそちを家臣にして良かったと思ったことはないわ」
「お、親父様」
「ねねも連れて行く、良いな」
「北政所様を!?」
「しばらく旅行に連れて行ってやらなかったからな。喜んでくれよう」
「親父様……」
「越前に使いを出せ。但馬本性寺にて馬揃えをいたす。ワシの供の人数も正確に記せよ。彼奴ならすぐに本能寺の再現と気付こう。どんな顔をするか見ものじゃな」
 秀吉はスクッと立ち上がった。今まで足腰も弱り、フラフラと立っていたのが別人のようである。
(ふっははは、体にチカラが湧くわ。越前に礼を言わねばならんかな)
「佐吉、馬揃えの段取りをして日程の調整をせよ」
「はっ!」
「いま一度、本能寺じゃ!」

 朝鮮への出陣準備を終えた柴田軍、いよいよ九州名護屋城へと向かうこととなった。さあ船に乗り込もうと云う時だった。秀吉から使者が来て明家に書状を渡した。秀吉の文を読んでいるうち、明家は顔色が変わった。
「殿、太閤殿下は……」
 あぜんとしているので奥村助右衛門、
「ごめん」
 明家の手から文を取った。
「何と……」
 奥村助右衛門も驚いた。秀吉は明家に通達した。但馬の軍港ほど近くにある本性寺。秀吉は近習小姓のみを連れ本性寺を本陣とする。そこで柴田軍の馬揃えを行い、柴田将兵の督励をすると云うのである。明家と助右衛門はすぐに秀吉の意図を読み取った。秀吉が申し出てきた状況は本能寺の変そのものである。本性寺は城郭様式が整っておらず、防備はうすい。そこにわずかな供回りで泊まることを明家に明言してきたのである。
「討てる覚悟があるならやってみよと云うことか……!」


第十四章『浪花のことも夢のまた夢』に続く。