天地燃ゆ−史実編−
第十章『文禄の役』
ここは聚楽第、千利休の茶室。利休から茶に招待された柴田明家。利休から茶が差し出された。
「どうぞ」
「頂戴いたす」
飲み干す明家。さすがは茶聖利休の茶、実に美味い。
「美味い、さすがは利休殿です」
「ははは、越前殿はあまり茶の湯に興味がないと聞いていましたが、今の飲みよう、まこと心得ていますな。実に美味しそうに飲んでくだされ、こちらも点てがいがございます」
「養父も実父も茶の湯にあまり興味なかったので自然にそれがしも無関心となりました。お恥ずかしながら嗜む程度しか存じません。しかしこの茶室の雰囲気は良いです。実に落ち着きまする」
「これは恐縮にございます」
「ところで利休殿とお会いしたら一度お聞きしたかったのでございますが……」
「何でございましょう」
「利休殿は荒木村重殿のご最期をご覧になったとか」
「……いかにも」
「ご存知と思いますが、それがしが初めて総大将となった合戦の伊丹城攻め。その敵将が村重殿でした」
「はい、私も村重殿から伺いましてございます」
「村重殿は殿下の御伽衆にもなられたので、よく話しました。手前は伊丹を水攻めで落としたのですが、それをよく褒めてくれました。『途方もない手を使いおって、よもや当時十六歳の小僧の采配とは思えなかった』と」
「私にもよう言っておられた。戦った事を誇りに思うと……」
明家は村重の嫡男村次の妻(明智光秀の娘、離縁後に明智秀満の妻ともなる)の園(その)を秀吉に内密で舞鶴に屋敷を与えて養っていた。明家より年上だが愛人説もある。ともあれ村重に対して明家の思いは強かった。
「しかしご承知の通り、村重殿は殿下に名茶器『荒木高麗』を取り上げられる事を拒絶し豊臣を出奔……。それがしも気にしていたのですが行方はようとして知れず……」
「私もようやく居場所を突き止めたのですが……。すでに……」
「わびしい最期と云う事ですが……事実なのでしょうか?」
「……その通りにございます。小さな小屋の中、誰にも看取られず……粗末な蒲団の中で果てておりました」
「そうですか……。当家には先の伊丹攻めが縁で手前の兵になった者も多うございます。彼らは村重殿に見捨てられたのでございますが、時を経て今は許しておりますし、それどころか孤独な最期と聞き及び嘆いております。それがしも同様……。もし縁者で暮らしに困っている者がいたらお教え願えませんか? 当家で丁重に遇したいのでございますが」
「おお……越前殿、村重殿の茶の師としてお礼申し上げる。実は男子が一人、生き残っております。当年九歳になられましたか」
「まことに?」
「今は本願寺に庇護されておられるそうです」
「さようでございますか……。本願寺で幸せに暮らしているのならその生活を邪魔する気はないですが……」
明家は茶室の外においてあった脇差を取り
「もし不自由な暮らしならいつでも柴田家を頼れと、その証としてこの脇差を渡していただけまいか」
と、利休に渡した。
「しかと承りました」
後日談となるが、それからほどなくして、その男子は乳母に連れられて舞鶴城を訪ねた。明家は養子として迎えた。村重の末子だったその少年は柴田姓を賜り『柴田又兵衛』と名乗る。元村重の兵だった者たちから大変可愛がられたと云う。しかし武士にはならず、彼は大和絵の道に進み、浮世絵の祖として今日に名を残す事となる。
話は戻る。茶室でしばらく談笑していた利休と明家。そして利休が言った。
「朝鮮に出陣されるそうですな……」
明家は溜息を出し答えた。
「いかにも、それがしと治部で懸命にお諌めしましたが……無駄でした」
「鶴松君の死が堪えたのでしょうかな……」
秀吉の一子、明家の妹の茶々が生んだ鶴松はわずか三歳でこの世を去った。
「一つの起因となってはいましょうが……秀長様が生きておられればかような仕儀には至らなかったでありましょう」
「…………」
「やっと……戦のない世が到来したのに無念でございます。それがしが父母の仇である殿下に仕えたのは戦のない世を作るため。一兵卒であるのならとうに豊臣家から去っていたでしょう。しかし今は何千何万の家臣領民の暮らしがあり……そんな無責任な事もできませぬ」
「越前殿……」
「やめましょう、せっかくの茶がまずくなります」
この年、明家の息子の竜之介が元服し、『柴田勝秀』と名乗る。秀吉から一字を与えられたのだ。秀吉の『秀』を後に出来ないと明家は『秀勝』としようとしたが、秀吉は
『こらこら、『勝』の字は祖父権六のものであるのだぞ。遠慮はいらぬから権六の『勝』の字を先にして勝秀とするがいい。それに『秀勝』ならワシの養子にすでに一人いる。紛らわしいから遠慮なく勝秀と名乗るがいい。ついでに官位もくれてやる。丹後守だ。ふさわしかろう』
と言ったのだ。元服、そして秀吉から一字をもらい『柴田丹後守勝秀』となった竜之介。妻も娶った。仙石秀久の娘の姫蝶姫である。勝秀と姫蝶は幼年の頃に二人で将来を約束していた。勝秀の父母である明家とさえの祝言の媒酌人をしたのは前田利家であったが、勝秀と姫蝶の祝言も前田利家が媒酌人を務めた。新妻を横に赤面する息子に微笑む明家とさえ。しかし、ほんの一瞬の安らぎであった。
また、この頃に秀吉は関白職を甥の秀次に譲り太閤となった。鶴松が亡くなった今、秀吉は後継者を養子とした秀次としたのである。それが秀次の後の悲劇に繋がっていく。
文禄年間、朝鮮に攻め入る事が決められた。総大将は豊臣秀勝、彼は秀吉の姉である瑞竜院日秀の子であり秀吉の甥にあたり、養子に迎えられていた。彼の妻は柴田明家の妹である江与である。小牧の役で徳川についた佐治一成と離縁を余儀なくされたあと、秀吉が養子とした秀勝に嫁がせたのである。
秀勝の義兄である柴田明家は第六陣で出陣する事になった。第六陣は小早川隆景、毛利秀包、立花統虎、高橋統増、安国寺恵瓊、柴田明家である。
柴田家大坂屋敷、ここで明家は苦悩していた。明家は商将の吉村直賢や、柴田家と交易をしている商人たちから情報を耳に入れており、当時の世界情勢を正確に把握していた。だから朝鮮を征服し、そのうえ唐土(明)までも手に入れようとする秀吉の構想がいかに無謀な企てであるかをよく分かっていた。確かに戦い慣れている日本の軍は強いだろう。連戦連勝するかもしれない。しかし、その後に守成に至れる事は不可能だと思っていたのである。今まで築いてきた秀吉からの寵愛をかなぐり捨てて諌めた。
「朝鮮の李氏王朝は平和な時代が続き、軍兵が有名無実となっている朝鮮軍には戦国の世を経てきた我らに太刀打ちは出来ず、かつ日本軍の侵攻など想像もしていないゆえ最初は連戦連勝にございましょう。漢城(ソウル)、平譲(ピョンヤン)も落とせましょう。しかしそこまで軍勢が至れば前線へ定期的に十分な補給を行うのはいかに兵站(後方支援)に長けた治部とて困難を極めましょう。日本軍が敵より飢えとの戦いになるは必定にございます。朝鮮を手に入れたとしても、その後の統治者に現地の民が従わないのは明白にございます。反乱が相次ぎ、いずれ敗れます。朝鮮や明の土地を得なくても、富と文化は交易で手に入れる事ができまする!
朝鮮に兵を派遣する資金と兵糧があるのならば、むしろ蝦夷地を開拓し、治部の申すとおり国内の平定に全力を注がれるが肝要。まだ石高の上がる土地は日本にいかようにもございます。かつ恩賞は土地にこだわる必要はございませぬ。銭金で良いではないですか。また亡き信長公が茶の湯をいかに部下の恩賞にうまく活用されたか知らぬ殿下ではございますまい。殿下のお手元には名物茶器が多々ございますし、大殿から茶会の実施を許可された時の喜びは覚えておいででしょう。領地だけでなく名誉を恩賞に当てた信長公の智恵を使われて下さいませ!」
だが秀吉は受け入れなかった。秀吉がこの明家の意見を入れたら歴史は大きく変わっていただろうが秀吉は明家の正論を黙殺した。そしてここは明家の大坂屋敷。石田三成と要談していた。
「治部、この唐入り(朝鮮出兵)は殿下のためにならぬ」
「承知しております。今日も必死にお諌めいたしました。しかし……もうお留めする事はかないませぬ。虎之助(加藤清正)や市松(福島正則)などは唐入りに大いに乗り気、何と愚かな……」
「一陣大将が摂津守(小西行長)、二陣大将が主計頭(加藤清正)、この陣立てでもうダメだ。どれだけ無事に日本へ帰してやれるかどうか……」
「仰せの通りです。殿下は『競わせる』を誤って用いておられます……」
「二人は仲が悪い。領国の肥後南北で睨み合いと聞く。なるほど競走させれば戦局は進展しようが大局的に見れば日本軍が内部対立をはらんでいる。かつて黒田如水殿が申したように仲の悪い二人が協力しても成果は無、気心の知れた仲の良い者同士でやれば二人の働きが三人分四人分となる。この道理は戦場なら一層顕著に浮き出る。一陣二陣の大将同士は仲が良くなければならない。馴れ合う事もありうるが結局は相互に協調する。団結し難局には一丸となる。小西と加藤では絶対にありえん」
「まさに……。そちらの方が喧嘩させながら競わせるより利点はございます。それがしと刑部(大谷吉継)でお諌めしましたが、お聞き入れされませんでした」
「仲が悪い同士でも順調に行くのは戦局が有利の時だけだ。劣勢になったら無様なものだ。互いに責任をなすりつけ、諸将の失笑を招き、やがて殿下の耳に入り面目丸つぶれ。日本軍のこの末路が目に浮かぶ……」
「…………」
「事ここに至っては緒戦で勝ち、有利な条件で和議を結ぶしかない。摂津守もそのつもりらしい。かの御仁の交渉術なら上手くいくかもしれんが主計頭がどう出るか。彼とてこの戦いが無意味とは知っていようから、考えが同じなら協力して欲しいものだが……」
「越前殿……」
「ん?」
「戦のない世を作るため……ご貴殿は父母の仇である殿下に仕えました。やっとその世が来たと云うのにこの戦……。かつて越前殿に仕えていたそれがし、食い止められず申し訳なさで一杯にございます」
「そなたのせいではない。殿下は戦のない世を作られたが、それを維持する事が出来なかったようだ……。殿下は農民から天下人になられた。譜代の家臣と呼べるのは亡き秀長様くらいであろうから領地を拡大し、それを与えて家臣たちの忠孝を得なければならないと云う気持ちが強すぎる。間違ってはいない。かの信玄公もそうして家臣たちの忠孝を得てきた。しかしもう時代が違う。土地以外のもので家臣たちに報いた亡き信長公に学ぶべきであるのに、それが出来ない。合戦がなくなり領地を拡大して家臣たちに与えられなくなった今、いつ謀反を起こされるか不安でならないのだろう」
「おおせの通りにございます……」
「今は唐入りではなく、合戦が無くなったこの国を無事に治める事が先決。そなたもオレも必死にお諌めしたのに徒労に終わってしまった」
「…………」
「この国を無事に治める事……。殿下が跡継ぎと目されている秀次様なら出来る。軍才は凡庸なお方だが、関白になられても驕らず、学問を愛され民や家臣を慈しむ心があり、行政能力は秀でている。検地や戸籍調査、楽市の導入、その手腕は見事な方だ。殿下の後を継がれるのなら軍才はむしろ不要。秀次様ならば治世の名君ともなりうる。我が義弟である秀勝殿も才覚は普通であるが心が真っ直ぐで補佐役に適している。ご兄弟が手を取り合って戦の無い豊臣政権を作ること。オレの希望はもはやそれのみ…。だから早くこの唐入りを終わらせなくては」
「隆広様……」
明家は思った。
(如水殿の申す通り、豊臣が二代持つ事はないであろう。この唐入りでなおさらそれが決定したようなもの。しかし秀次様と秀勝殿なら、少なくともそうヒドい幕切れにはなるまい。オレや治部が補佐すれば、この国から十年は戦を無くす事は出来るかもしれない。まずは十年でいい。その間に助かる命はいかばかりか。それだけでも二代目の存在は意義のあるものとなる。そのためには唐入りを一刻も早く終わらせなければならない…!)
石田三成も朝鮮に渡海、増田長盛、大谷吉継とともに総大将の秀勝の補佐をする戦奉行に任命されていた。明家に面談した翌日、三成は肥前名護屋へと向かい、第一陣の小西行長らと共に朝鮮に渡った。
同じく翌日、明家はすずを伴い領国の丹後若狭へと帰った。正室のさえは人質として大坂に残らなければならない。さえは海の外に合戦に行く良人が心配でならず、昨夜は明家から離れず抱き合っていた。
留守を預かる奥村助右衛門の指示ですでに出陣準備は出来ていた。出陣前日、すずもまた明家から離れようとしなかった。遠い異国に戦いに行く明家が心配でならなかった。
「平和な世が来たと……つい先日にそなたに言ったのに、そう至らなかった」
「殿……」
「すず」
「はい」
「冷え込む今の時期は傷跡と足が痛むようだな」
「え……!」
「顔と歩き方を見れば分かる。隠すことなどなかったのだぞ。京の曲直瀬家から数日後に医者がやってくるから診てもらうといい」
「殿……」
「必要に応じて、漢方の良い薬を手配してもらうよう頼んでもある。養生してくれ」
「出陣前にそんな優しい事を言わないで下さい……! すずは泣いてしまいますよ!」
もう泣いちゃったすず。
「ははは、さて明日は出陣だ。しばらく会えない。今宵はすずを堪能したい。足と傷跡が痛まないよう……優しくするから」
「はい(ポッ)」
翌朝、いよいよ出陣、軍船で肥前の名護屋へと向かい、第六陣の諸将と合流。朝鮮へと向かっていった。
釜山に上陸した日本軍、侵攻を予期していなかった朝鮮軍はあっという間に敗走していった。早や都の漢城(ソウル)に向かい出した頃、軍議が開かれた。すでに総大将豊臣秀勝と三成、吉継でおおむねの作戦を取り決めていたが、秀吉から戦のやりようにおいては逐一、柴田越前守に相談すべしと下命されている。作戦が立案されたので秀勝と三成は明家を呼応し、三成が
「太閤殿下から作戦については柴田越前殿の意見を求めるように言われております。この案でいかがでございましょうか」
と、述べた。明家はその計画を細かく分析しながら読んでいった。
「非のうちどころはござらぬ。だがあえて付け足せば隙のない陣備えで、これは勝利をおさめる場合だけを前提にしたもの。しかし合戦と云うものは、こちらの目算どおりになるとは限らない。敗れる事もあるので敗北した時の事を想定した作戦を考えてはいかがでしょうか」
秀勝と三成は目をつぶって黙って聞いていたが、しばらく思案してから目を開いて秀勝が言った。
「義兄上、いえ越前殿の言われる事はもっともです。されば敗れた時、どうするかを考えてみましょう」
そして三成は書記役を呼んで、漢城にまでゆく問にある城の絵図、城主などを書きとらせて、漢城に至るまでの道にある城や砦を普請して城代を置く事を作戦書に書き足し、明家に示した。
「これで結構にござる」
釜山鎮の戦い、東莱城の戦い、尚州の戦い、弾琴台の戦いなどで日本軍は破竹の勢いで勝利を重ねた。日本軍は第一軍、第二軍、第三軍を先鋒に三路に分かれて進攻し、良く翌月には朝鮮の都である漢城(ソウル)を占領に至る。朝鮮国王の宣祖は平壌(ピョンヤン)へ都を移して逃走して大国の明に救援を要請する。その間にさらに北上した日本の第一軍と第二軍は平壌を占領して進撃を停止した。
容易に李氏朝鮮の都である漢城が陥落したため、日本軍の将は漢城にて軍議を行い、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた。
平安道第一軍 小西行長・有馬晴信
咸鏡道第二軍 加藤清正・鍋島直茂・相良頼房
黄海道第三軍 黒田長政・大友義統
江原道第四軍 毛利吉成・島津義弘・島津忠豊・高橋元種・秋月種長・伊東祐兵
忠清道第五軍 福島正則・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正
全羅道第六軍 柴田明家・小早川隆景・立花統虎・高橋統増・安国寺恵瓊
慶尚道第七軍 毛利輝元
京畿道第八軍 宇喜多秀家
本隊 豊臣秀勝・石田三成・大谷吉継・増田長盛
以上の陣立てである。日本軍は北西部の平安道と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、加藤清正の一隊は威力偵察のため国境を越えて明領オランカイへ攻め入った。これが結果的に明軍の介入の大義名分となる。援軍に来た明軍の部隊が最前線の平壌を急襲した。これは小西行長によって撃退するものの、明の救援が始まった事で戦況は膠着する事になる。
日本軍に大きく侵略を許した李氏朝鮮、しかし釜山を基点に支配領を拡大していた日本軍の後方部隊の船団を李舜臣率いる朝鮮水軍が二回の出撃で攻撃を加え、大きな被害を受けた。
海戦用の水軍を用立てていなかった秀吉は陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急ごしらえで水軍を編成して対抗した。こうして編成された水軍を指揮した脇坂安治は閑山島海戦で敗北、続いて援護のために出撃していた加藤嘉明と九鬼嘉隆の水軍も李舜臣に敗北を喫した。秀吉は海戦では勝てない事を悟り、水軍と陸の軍勢が共同して防御すると云う戦術へ方針を変えたのだ。
秀吉は、明との戦争で海賊の力を活用する事はなかった。むしろ逆に『海賊法度』を出して海賊行為を禁止してしまった。海賊たちは無念なるも時の絶対権力者である秀吉に逆らえるはずもなく、そのチカラは縮小してしまった。当時の明は倭寇への対策に頭を悩まされていたのであるから、秀吉のこの行いは敵を利するだけであったのである。
海路交易をして、その水軍に積み荷船を護衛してもらっていた明家は水軍と手を組む利点を理解しており、『排除ではなく味方につけるべき』と秀吉に進言した事がある。『海の武将たちを排除するのは自分の足を食う蛸も同じ』と述べたが秀吉は聞く耳持たなかった。天下人になっても自分の意に添うものなら耳を傾けた秀吉であるが、一度『海賊行為は認めない』と言った以上はガンとして聞かなかったのである。明家の意見を聞いていれば、この海戦の敗戦はなかったであろう。
そして陸では明の大軍が南下してきた。撤退を開始して漢城まで至ったが、もはや漢城を支える事は困難となった。連日軍議が重ねられたが話が全然まとまらない。秀勝、そして三成ら奉行の腹は撤退したかったのだが、加藤清正ら強硬な抗戦論が圧倒的で撤退が決められないでいた。柴田明家に出席を求めたが、明家は病気と称して欠席した。
秀勝や三成は明家に撤退を主張してもらいたかったのである。賤ヶ岳の合戦で寡兵を指揮し、賤ヶ岳七本槍や山内、黒田の軍勢も撃破し、秀吉の家臣になってからは秀長と秀次の参謀を務めた明家。四国、九州でも柴田明家軍の精強さは抜きん出ていた。明家の言う事なら抗戦論を主張する諸将らも従うだろう。その明家、抗戦論を主張する諸将が心にもなく強がりをいっている事を見抜いていた。
(彼らは兵糧があるうちは持論を変えないだろう。そのうち乏しくなれば意見が変わる。それまで様子をみよう)
説得しても応ずる見込みがないのに出席しても意味がない。二度三度と仮病で出席を断った明家。次第に食糧が減って諸将の発言に元気がなくなった。『ころはよし』と情勢を見極めた明家はやっと軍議の席に姿をあらわした。
「コホン、漢城を持ちこたえられないと我が日本が恥をかく事になる。引くべきでないと思うのだが越前殿のご意見は……」
三成が撤兵に持っていきたいので明家に誘導訊問を仕掛けた。明家はそれを受けて意見を述べた。
「その意見には賛成できませぬ。その理由は三つありまする。第一に漢城は広すぎてとても日本の軍勢では防ぎきれない事。第二に我が軍がここで討死したら豊臣の武威は衰え権威も失墜し、再び群雄割拠の乱世に戻り、つまり日本のためになりませぬ。第三に兵糧が尽きようとしております。腹が減っては戦えぬが道理。ここは全軍釜山に引き揚げるべきでござる」
諸将は強気な事を言っていた手前、前言をひるがえす事ができないでいた。明家は諸将を焦らしてから軍議に臨み、皆が言い出せないでいた事を直言してのけたのである。諸将は越前殿がそう申すならやむをえないと云う態で、渋々撤兵を承知するふりをした。本心は『やれやれ、越前に言ってもらって助かった』と云う事だ。明家には全軍のまとめ役としての風格が備わっていた。一番感謝したのは石田三成であろう。
(さすが隆広様よ……)
さらに三成、
「では都を焼き払ってから撤退を開始いたそう」
「待たれよ」
明家が制した。
「は?」
「都を焼けば確かに時間は稼げまするが、家と財産を失った現地の民が怒り狂い追撃して参ります。我らが戦うのはあくまで朝鮮と明の軍兵、民を巻き添えにしてはなりませぬ。この遠征で朝鮮人が日本を怨嗟する事は避けられませぬが、せめてそういう振る舞いは慎むべきでござる。明が介入した今、朝鮮全土を日本の領地にするのは不可能。ならば後々に日本人へ憎悪を残さぬため、焦土戦術はやってはなりませぬ」
「かようなキレイ事を申している場合ではございませんぞ越前殿」
そう発した増田長盛をキッと睨む。
「きれい事ではなく、現地の民の憎悪を買いまする。家と財産を失えば刺し違える覚悟で襲い掛かってくるでござろう。そのすさまじい追撃を防ぐためにございます。漢城には神社仏閣と思えるものが多々ありまする。財貨や食糧を奪うのも醜悪であるのに、このうえ文化や誇りを焼いては絶対に日本人は朝鮮人に許されませぬ。都には何も手を出さずに引き揚げるべきでございます」
と毅然として言った。
「越前殿の申す通りにしよう」
と、豊臣秀勝が答えた。そして撤退が決定された。明家は諸将が強硬論をこれ幸いと引っ込めて態度を豹変させたのにいささか腹が立った。軍議撤退に決定すると気の早い連中は、その晩のうちにも陣払いしようとする態度をみせた。軍議が終わりかけ諸将が座を立ちかけると明家は手でそれを制して言った。
「待たれよ、これまで漢城を死守せよと主張された方たちが、ハッキリした理由なしに撤退すると敵に思われるのは武人の恥でござる。明の大軍が攻めてくるから逃げるのでは筋が通りませぬ」
撤退を主張した当の明家が、これまた豹変して抗戦せよ、と主張したのである。一同はあっけにとられた。明家は続ける。
「ここは踏み留まって、ひと合戦しなければなりませぬ。戦わずして退けば追撃されて大軍が撤退する事が出来なくなりまする。そこで軍議の場で諸将に言いにくい事を発言したこの越前が明日の合戦を引き受けましょう。その間に諸隊は引き揚げられよ」
明家は自ら、殿軍の防衛戦を買って出たのである。
「あいやしばらく、越前殿だけにかような任を押し付けてはこの清正の面目が立ち申さん。お付き合いいたそう」
「この正則もまぜていただく」
「主計頭殿(清正)、左衛門殿(正則)、気持ちは嬉しいが、それでは総力戦になってしまうではないか」
「我ら二人が両翼に着くだけにござる。あとの者は釜山に退かせまするゆえ、お認めあれ」
と、福島正則。
「我が采配に従っていただくが、それでも良いか」
「「承知した」」
「結構でござる。では秀勝様、他の軍勢を連れて釜山に退かれませ」
「承知いたしました」
この退却時においても、明家が先に三成に提案しておいた『敗れた時のために』が功を奏する事になる。漢城への途上にある城は普請され、それぞれに城主が置かれた。日本軍は城伝いに整然と釜山に引き揚げる事が出来た。
かくして日本軍は漢城に柴田明家、加藤清正、福島正則のみ残して釜山に引き返した。翌日、三家の幹部で軍議を開いた後、明家は清正と正則と酒を酌み交わした。
「お二人とも、あんまり器用ではござらんな」
「越前殿に言われたくないですな」
と、加藤清正。
「あははは、まさに」
豪快に笑う福島正則。
「そういえば主計頭殿、聞きましたぞ。森本儀太夫殿と庄林隼人殿の話」
清正に酒を注ぎながら言った明家。
「儀太夫と隼人の事を?」
両名清正の側近である。
「先の戦で軍勢を退く時、清正殿は近くにいた儀太夫殿ではなく隼人殿にその退却を前線に命じに行かせたとの事、しかしその時に儀太夫殿は泣き出してしまい……」
「ああ、その事でござるか。いやぁ越前殿も耳が早いですな」
苦笑する清正。森本儀太夫は主君清正のすぐ隣にいたのに、清正は儀太夫ではなく遠くにいた庄林隼人を呼んで命じた。隼人が清正の命を受けて前線に向かうと清正の横で森本儀太夫が突然泣き出し、清正は驚いた。
『儀太夫どうしたというのだ?』
『殿にはそれがしの姿が見えませんでしたか? 見えないはずがない。今のご下命、なぜ隣にいたそれがしに命じられませぬ? 殿は隼人に出来る事がそれがしには出来ないと見ているからにございましょう。それを思うと悔しくてならず涙が出てきたのです』
それを聞くと清正は笑い、こう答えた。
『そなたは剛の者で敵と見たら勇猛に突き進む。だから今のように戦いをやめて兵を退きたい時には用いなかったのだ。今そなたを用いれば真っ先に敵陣に切り込み、ますます深入りするに決まっている。反して隼人はそんな気性が激しくないから引き揚げの使いの時にはもってこいなのだ。もし相手が強敵でどうしても討ち破りたい時、そんな時にこそそなたを用いるつもりでおる』
この話は日本軍の中でも知れ渡った。当然明家の耳にも入る。
「この適材適所の妙、越前も見習いたいですな」
「これは恐縮にござる」
やはり褒められれば嬉しい。特に人使いの名人とも呼ばれている明家から言われればなおさらだろう。
「左衛門殿も聞きましたぞ」
「え?」
「不貞が奥方にバレて城の中を追い掛け回されたとか」
ドッ笑う加藤清正。赤面する正則。
「な、なんで虎(清正)には良い話で、それがしのは変な話を」
「はっははは、怖いもの知らずの左衛門殿が奥方には頭上がらず逃げ回ったと聞き、いやもう何か親しみが湧きまして、あっははは!」
「おう、楽しそうな宴ですな」
福島正則に仕える可児才蔵が来た。
「これは可児様、お久しぶりにございます」
「あっははは、越前殿、それがしはもう柴田家の先輩武将ではござらぬ。『様』はやめて下され」
可児才蔵は小牧・長久手の戦で羽柴秀次に馬を譲らなかった事で秀次に追放された。よほど秀次は腹が立ったようで仕官溝(他家に仕官するのを阻む)までした。秀次が仕官溝をしけば、豊臣政権の中では誰も召し抱えられない。明家はそれでも才蔵を召し抱えようとしたが才蔵は拒否した。明家に迷惑がかかる。
『先輩面がいては持て余すであろう』
と、やんわり断ったが明家はあきらめない。才蔵は
『タワケが! 豊臣政権で生き残るつもりならばもっと賢くなれ! ワシを召し抱えれば秀次様の不興を買う! お前は外様なのだから細心の注意を払わねばならん! ワシが元柴田家の者などと云う事は忘れろ!』
と断ったと云う。そしてもう一人、秀次の仕官溝を知りながらも才蔵を召し抱えたいと躍起になっていた者がいる。福島正則である。秀次は抗議したが
『そんな狭量な事でどうするのでございますか!』
と正則は怒鳴り返した。秀吉子飼いの将である正則には秀次も強くは言えなかったのだろう。正則は才蔵の武芸を尊敬していた。どうにか召し抱えたいと思い、恋しい女を求めるかのように口説き、ついに家臣に召し抱える事が出来たと云うワケである。才蔵も加わり、話は弾む。
「明日は越前殿の采配で福島家も戦うとの事。それがしが柴田の若き知恵袋の采配で戦うのは伊丹攻め以来、楽しみにしておりますぞ」
「はい」
そして翌日、見込んでいた通り明の大軍が潮のように殺到してきた。文禄三年正月の事だった。明将李如松に率いられた二万余の明軍は、漢城の北方、十里ほどに追っていた。
合戦当日早朝、柴田明家が采配をふるう柴田・加藤・福島の連合軍は、明軍を碧蹄館で迎え撃つ。野戦であった。敵味方が入り乱れた白兵戦となったのだが、そうなれば野戦に強い日本軍が有利である。柴田明家が得意とする偃月の陣、まんまと明軍はその術中にはまり数千人の死者をだした。李如松は可児才蔵に挑まれ、もう少しで討死するところで逃げ出し、明軍は総崩れとなった。李如松は戦意を喪失し敗走した。清正と正則は追撃を主張。しかし明家はあえて『しばらく待て、抜け駆けする者は斬る。今は各々の備えを立て直せ』と厳命。明家の采配に従う約束をしていた二人は渋々陣に引き返して全軍をまとめた。それを見計らったのように柴田明家から全軍追撃の下命が出た。明家率いる日本軍は逃げる明軍に追撃をかけ、多くの首級をあげた。大勝利である。
その後、明と朝鮮からの追撃も受ける事なく、ゆうゆうと釜山に引き返してきた柴田・加藤・福島軍。釜山の日本軍本陣で休息を取っていた明家に大谷吉継が面会を求めた。
「明軍を追撃するのに時間を置いたのはどんな考えによるものか」
「明軍は追手が来る事を予想している。すぐにこちらが攻めかかったのでは敵軍は迎え撃つ準備が整っているから防げる。時間を遅らせて攻めれば、もう追ってこないだろうと油断しているので一気に蹴散らせる。また我が軍も早く出撃できる部隊とそうでない部隊がある。時間を置いて攻めれば足並みが揃うから敵は大軍が押し寄せたと思って怯える。我が軍も、後に続く軍勢を見て大丈夫だと思い勇気が湧く。だから時間を置いて追撃をかけたのだ」
さすがの大谷吉継も感服した。
「なるほど、それだけの深慮があったからこそ明の大軍を撃破できたのだな。さすが越前」
そう褒め称えた。すると明家は一歩下がって秀吉を持ち上げた。
「とんでもない、大昔に神功皇后が三韓征伐をされた時、神々が姿を現して応援したと伝えられる。このたびの戦い、太閤殿下が天命にかなっておられるので神仏の加護があったのだ」
いささか持ち上げすぎであると自分で苦笑する明家であるが、明家はここでも自分の武功を誇る事は控えたのである。『天命にかなっている』など微塵も考えてはいないが、同じく秀吉に仕える同僚たちに嫉妬心を煽り反感招くような言動を避けたのである。秀吉は明家のこの言葉を伝え聞き、大変喜び『越前は稀な仕事師よ』と讃えたと言われている。
秀吉が機嫌の良かった事は他に理由もある。秀吉の側室である茶々姫が男の子を生んだのである。名はお拾、後の秀頼である。先年に鶴松と云う男子を亡くしていた秀吉にとってはこれ以上の喜びはなかった。この機嫌の良い時を小西行長は逃さなかった。和議を秀吉に提案して、秀吉はそれを許したのである。ここで一度、小西行長らの働きにより明と朝鮮との和議が成り、日本軍は帰国する事になった。
その帰途中のこと。豊臣秀勝が病に倒れた。知らせを聞いた明家は秀勝の船へと大急ぎで向かった。秀勝が越前を呼べと言ったのである。
「秀勝様!」
「義兄上……」
秀勝は船中で病に伏せていた。彼は妻の江与を深く愛していた。才覚は普通であるが天下人秀吉の養子と云う身分に驕らず性根が真っ直ぐな人物であった。明家もまたとない義弟殿だと喜んでいた。しかし秀勝は倒れた。
「しっかりなされよ! 日本までもう少し! 江与が待っていますぞ!」
「あまり近づきますな、病がうつりますぞ」
「秀勝様……!」
「義兄上、江与と娘を頼みます……」
秀勝はそう明家に言い残して息を引き取った。
「何たることか……。やっと戦が終わったと云うのに……。江与に何と申せば良いのだ……」
九州の名護屋に上陸し、柴田軍は丹後若狭に引き返したが、明家は数名の供を連れて大坂に向かい、秀吉と秀次に謁見して帰国の報告をしてきた。
そのあとは大急ぎで妻の待つ柴田大坂屋敷に走って行った。無事な姿を見て感涙して良人に抱きつくさえ。国内の合戦ならまだしも、気候風土まるで違う朝鮮で戦うのだから、さえは気が気ではなかった。毎日、勝家とお市の位牌に『お守り下さい』と願っていた。屋敷の門前で何度も口付けして抱き合う明家とさえ。
「ああ、殿、ご無事でよかった……!」
「さえと会うまで死ねるものかと必死だったぞ。ああ……この髪と肌の匂い、異国でどんなに恋しかったことか……」
ようやく玄関口での抱擁に満足すると屋敷に入り、いつものように刀の大小をさえに渡して、甲冑を脱いだ。
「ふう、もう着たくないものだな……」
「今度こそ、戦のない世に?」
「そう願いたい……」
「殿の願いはさえの願い……。叶う事を神仏に願わずにはおれません……」
「ありがとう」
「さあ、お風呂が沸いております。お入り下さい。体のアチコチが疲れておいででしょう。お風呂を出た後、さえが優しく按摩してあげます」
「それは嬉しい。さえの按摩はよく効くからな」
風呂から出て、さえの按摩を受ける明家。何とも気持ち良さそう。とても二ヶ国の大名の正室がやることではないが、十五の時から苦楽を共にしている明家とさえは別であろう。あんまり気持ちいいのか、明家は寝てしまった。
「殿?」
このあとは久しぶりの夜閨に胸をときめかせていたさえは少し残念。
「お疲れなのね……」
と、掛け布団をかけようとしたら
「……寝ようとしても、股についているこれが寝ようとしないから起きてしまった」
パチと目を開けて、さえを布団に入れた。その後は思う存分に愛を確かめ合った。
「生きてまた……さえを抱けて良かった」
「さえも……」
「死んだ皆……。こうして家に帰り、恋女房を抱きたかったろうにな……」
「殿……。殿は神仏ではないのですよ……」
「え?」
「全部背負い込むのは……殿の悪いおクセです」
「ありがとう、さえ……」
翌日、明家は豊臣秀勝の屋敷を訪れた。骨壷と位牌の前で涙にくれる江与に会った。明家を見るやその胸に飛び込んで号泣する江与。抱きしめて泣かせてやる事しか明家には出来ない。また明家には残酷な事が命令されていた。秀吉と秀次双方から江与を側室として欲しいと言われていたのだ。妹をこれ以上傷つけたくはない……。そう思った明家は家康に協力を願った。徳川に嫁げば、もう江与は秀吉に干渉される事はない。
『何とか徳川の若者に嫁げるようしていただけまいか』
家康は快くそれを引き受けた。何と世継ぎと目される秀忠の室として迎えたいと秀吉に要望したのである。柴田明家の妹が徳川に嫁ぐ。柴田と徳川の縁が出来る事を避けたい秀吉、柴田と縁を持ちたいと思う家康。だが秀吉も家康たっての頼みでは断る事もできず了承した。江与の気持ちの整理もあるため、実際に江戸に行くのはしばらく先となるが、彼女は徳川秀忠の正室となるのである。秀勝と江与の間に生まれた娘の完子は明家が養女として引き取った。
文禄の役、柴田軍は六千の兵で出陣した。戦死者は五十数名と言われている。まさに明家の采配だからこの程度で済んだのだろう。他の諸将は四倍五倍の戦死者を出している。
明家は戦死者の亡骸を異国の土にはせず、遺骨を国許に持ち帰り遺族に詫びたと言われている。明家は戦国武将の中で戦死者の家族に一番手厚かった武将と呼ばれているが、この外征の戦死者の遺族は特に丁重に手厚く報いたと言われている。男子がいれば取り立て、その家族が生活に困らないように手厚い禄を支給したと云うのだ。
だから柴田将兵は命を惜しまず戦う。その結果、生存者が多いのである。不思議な事に命を惜しまず戦った者が案外生き残るのが戦場と云うものだったからである。
そしてこのころ、秀吉が五大老制度を発布した。徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景(没後は上杉景勝)、柴田明家であった。同じく五奉行は浅野長政、石田三成、前田玄以、長束正家、増田長盛である。
豊臣秀吉は自分の死後に息子の秀頼を五大老が補佐し、合議制を執る事により徳川家康の台頭を防ごうと考えていたのである。しかし…すべて徒労に終わる。
第十一章『宇治川の治水』に続く。