天地燃ゆ-外伝さえ-
第十二話『安土城の戦い』(後編)
水沢隆広一行が籠もる安土城を羽柴秀長率いる二万が囲んで数日が流れた。羽柴の陣には商人や遊び女が入り、ずいぶんと賑やかである。安土にこちらの余裕を見せ、あわよくば油断していると思わせ、かつこちらの極楽陣中を見て城に籠もる水沢勢の士気を下げる意味合いもあった。
そのころ隆広はと云うと
「ぷはぁ、酒が旨い!」
両腕に美女をはべらせご機嫌なようだ。
「うふっ、御大将、もう一杯どうぞ」
「うんうん」
「殿!」
「なんだ助右衛門」
「かような時に酒を飲むとは何事にござるか!」
「そう、カッカするな。助右衛門も一杯どうだ」
「酒は戦に勝つまで飲みませぬ。殿もご自身を律して下され! 兵に示しがつきませんぞ!」
左腕に抱かれていた美女が隆広に小声で
「…去ったわ」
「そのようだな」
水の入った杯を膳に置いた隆広。助右衛門も姿勢を崩してあぐらをかいた。
「ふう、いつまでこんなことをするのやら」
羽柴からの密偵は幾度となく安土に潜り込んでいる。すべてを見逃しているわけではないが城代隆広の様子を伺わせにあえて好きなように探りを入れさせた。隆広は敵方の油断を誘うため体たらくな様相を示している。しかし密偵の前に大将をさらすわけにはいかない。忍びの白が影武者を務めていた。
「殿は秀長殿が完全に油断したら、と申していましたが」
渋々芝居に付きあっている助右衛門は
「秀長殿は筑前殿の影に隠れてはいるが、かの仁もまた優れた将。しかも殿を知っている。殿が劣勢の圧迫ごときで酒色に逃げるはずがないと分かっているはずだ」
白の左腕を離れたくノ一葉桜は
「奥村様の申す通りです。羽柴に潜ませた忍びの報告によると密偵どもが美濃は酒色に逃げていると幾度か報告を聞いても『フリに過ぎない』と聞く耳持たないとか」
「さもあろう、大殿に盾着くことも辞さなかった殿がどうして酒色に逃げようか」
「でも続けてくれと言われている以上、やるしかないじゃない」
白の右腕に抱かれていた美女が腕をあげて体を伸ばす。くノ一舞である。ふうっ、と息を吐くと共に腕を下ろすと自慢の乳房が揺れる。
「だいたい白に演技力が足らないのよ。そりゃ左腕に抱いているのが胸の貧しい葉桜では無理ないけど」
「なんだと牛女!」
「やる? 洗濯板」
「言ったなぁ!!」
「白もはだけた私の胸ばかりジロジロ見ないでほしいわ」
キッと白を見る葉桜。葉桜は白の妻である。昔から舞と仲が悪くケンカばかりしている。
「こちらも目のやり場に困る。着物はちゃんと着ろよ」
「だから演技がヘタなのよ。隆広様はもっとスケベな顔をするわよ。デレッとだらしなく。そう真に迫れるよう目の保養をさせてあげているのに」
「舞のウソつき。隆広様がそんなスケベな顔するはずないわ」
と、葉桜が言うと
「そりゃ胸のないアンタにスケベ顔なんぞ見せようがないでしょうよ」
「アッタマ来た!」
舞に殴りかかる葉桜。葉桜の両頬を掴んで引っ張る舞。
「ひひがおいひいほいあうあははほんは!(乳が大きいからといばるなバカ女!)」
「いた! 平手じゃなく拳で殴ったわねツルペタお胸!」
勝手にしてくれと白と助右衛門は部屋を出て行った。
安土城三の門、そこにある広場に隆広は鉄砲隊の主なる隊長を集めて説明していた。
「今から新たな鉄砲術を説明する」
今まで水沢勢が使っていた鉄砲術も、そう他の隊とは変わらない。信長同様に三段射撃であったり、もしくは二段であったりと。しかし隆広は実に画期的な鉄砲術を考案していた。
「鉄砲隊を四人一組に分ける。分業弾込め式鉄砲術だ」
「「ぶんぎょうたまこめ…?」」
鉄砲隊長たちは意味が分からない。
「ははは、やってみせた方がいいだろう。オレが射手になる」
事前に説明をしていた松山矩久、小野田幸猛、高橋紀茂に配置に着かせた。矩久を自分の右後ろ、幸猛を真後ろ、紀茂を左後ろにつけ、かつ三人は隆広に対して背を向けた。隆広が
「ばん!」
と、鉄砲の号砲を真似て言うや、すぐ左後ろの矩久に渡した。矩久は銃口から蓋薬を込めるだけ、真後ろの幸猛は火皿に口薬を盛り火蓋をふさぐだけ、右後ろの紀茂は点火した火縄をつけるだけ、すぐに隆広に渡される。最初は一丁だけだったが二丁、三丁、四丁と増やし、射手の隆広に次々と発射準備が終えた鉄砲が渡される。
「ばん! ばん! ばん!」
銃声の物まねも矢継ぎ早となった。鉄砲隊の者は呆然とした。
「す、すごい! 大殿の三段射撃より早いんじゃないか!?」
「しかも三段射撃と違い、移動による体力の消耗もない」
「謙信公の車懸りの陣を研究していたら思いついた鉄砲術だ。敵は待ってくれない。これをすぐに身につけよ」
「「ははっ」」
百聞は一見に何とか、隆広の言わんとするところは兵たちに伝わった。鉄砲伝来のころには粗悪品なものも多くて実現は不可能であった作戦だが、このころには改良も進んで暴発も滅多になく実現可能であった。この後に銃身冷却の役も付けられ五人一組となるが、関ヶ原の戦いで伊達政宗に破られるまでは無敵を誇った鉄砲術『鉄砲車輪』の誕生である。
安土城の奥、生まれた愛娘に乳を与えているさえ。それを見つめる竜之介とお福。
「よく飲むなあ」
「よっぽど美味しいのかな」
少し妹がうらやましいお福と竜之介。
「竜之介も飲みたい?」
「りゅ、竜之介はもう赤ちゃんじゃないやい!」
「そう、ごめんね。ふふっ」
この娘は『鏡姫』と名づけられた。さえの父の景鏡から一字もらったのである。美男美女の夫婦から生まれただけあって後年には評判の美しさとなる。婿となる織田信明は三国一の幸せ者と呼ばれたほどだ。腹を満たすとスヤスヤと眠る鏡姫。
「いい? 子守りをするのは兄上と姉上の仕事よ。抱き方、オムツの換え方、二人とも覚えたわね?」
「もちろんです」
胸をドンと叩くお福だが竜之介はすっかり忘れていたようで
「竜之介は…」
「もう、しょうがないなぁ。姉上が教えてあげる!」
「うん、姉上!」
さえは兄妹と鏡を侍女頭の八重に任せると城に向かった。城に入れば女たちの束ねとして働かなくてはならない。すずも不自由な体を叱咤して働いている。
「奥方様」
さえが城の台所に入ると松山矩久の妻の春乃が駆けてきた。何かザルに入れて持っている。
「どうしたの春乃」
「ご覧ください。収穫された卵です」
「まあ、美味しそう」
ザルに山となっている卵だった。隆広は安土に養鶏の施設を作っているが、なにぶん慣れない畜産なので仕入れた鶏をだいぶ失ってしまった。隆広は女たちを養鶏の責任者にしたため、女たちは試行錯誤しながら養鶏を研究し、ついに今日はじめての卵の収穫となったのだ。
「殿にさきほど一つ献上してきました」
「何と言っていました?」
「コクがあって美味しいと。私たちも苦労して励んだ甲斐がありました」
涙ぐんでいる春乃だった。
「じゃ、私も一つ」
殻を割って身をゴクリ
「ん〜! 美味しい!」
「きっと乳の出も良うなりますよ!」
「ありがたいわ…。みんなで殿を支えてくれて。この卵の味、忘れません」
「奥方様……」
「さあ、美味しいものも食べたし働くわよ。各々今日の仕事は昨日に伝えた通りです。敵はいつ攻めてくるか分かりません。我々の内助が良人を勝たせる道です。励みなさい!」
「「はいっ!!」」
女たちが次々と持ち場に行く中、一人オロオロしている少女がいた。水沢家奉公のため最近侍女見習いとなった少女だ。それを見つけたさえ。
「どうしたの、しづ。今日貴女は赤子たちの子守りでしょ」
「あ、そうでした。す、すいません」
叱られると思い、何度も頭を下げるしづ。さえは苦笑して
「いいのよ、しづ。焦らなくて。最初から上手く出来る子なんていないんだから。ゆっくりでいいの」
「はい!」
赤子たちが寝ている部屋に駆けて行くしづ。
「お義父様(隆家)が助けた女童があんなに大きくなって。私も歳を取るわけよね。ふふっ」
白の涙ぐましい芝居の甲斐あって、ついに秀長が陣中で酒を飲んで遊び女を抱いたと云う知らせが届いた。水沢軍の動きは慌ただしくなった。隆広の使いで六郎があらかじめ出陣して羽柴陣より南に三里の位置に滞陣していた蒲生、九鬼、筒井勢に向かった。いよいよ夜襲開始の時だ。
しかしさすがは秀長、見抜いていた。将を集めて
「今宵、美濃が攻めてくる」
「夜襲と?」
と、浅野長政。
「そうだ。美濃は我らの密偵にずっと酒色に溺れる体たらくを見せつけていた」
「見せつけていた?」
「手取川の撤退戦……。我らの包囲など謙信三万の進軍に比べれば取るに足らぬ。そんな状況でも美濃は冷静沈着に対応し、常勝謙信より一本取った。なおかつ美濃は幾度となく亡き上様(信長)にも噛みついた。そんな男がどうして堕落するか」
「ふむ、秀長様の申す通りだ」
ふんふん、と頷く中村一氏。
「藤林の密偵の報告で、昨夜オレが遊び女を抱いたと知らせが入ったと見える。美濃はオレが油断したと思っている。本日は煮炊きの煙もずいぶんと上がっていた。間違いなく今宵に攻めてくる」
「では叔父御、我らは美濃が出てくるのを待てば良いのですね。かがり火を消して鎧を脱がず寝た振りをしていれば」
「ところが秀次、そうもいかん。美濃に援軍が来る」
羽柴陣にやってきた商人と遊び女、それは隆広が雇った者だ。正確に言えば隆広がある者に頼んで派遣してもらったと云うところだ。つまり城の外に味方がいる。秀長は柴田攻めの合力を公然と拒否した蒲生と九鬼が援軍と直感した。両家は明智攻めで隆広の采配で戦っているので才覚と器量が分かっているうえ勝家に好意的であった。
「確かに蒲生と九鬼は柴田に好意的であり、美濃の采配で明智と戦っているゆえ器量のほどを分かっていましょう。しかしそれだけで三千の兵しか持たない美濃のもとに参りますかな」
「来る。長政殿も聞いていよう。美濃が柴田勝家の実子だと云うことを」
「はっ」
清州会議でお市が『隆広は勝家と私の子』と明言した今、公式発表はなくても自然と伝わるものだ。
「無論、蒲生と九鬼も援軍に参ることによる旨みも計算にあろう。羽柴と柴田の天下分け目の戦…。この戦に勝った方が間違いなく織田の天下を継承する。しかし人間五十年。四十を越して子供がいない兄者より、二十二と若く実子が三人もいる美濃を勝たせた方がよいと考える。美濃が柴田当主として亡き大殿の天下を継げば蒲生と九鬼も共に栄える。劣勢だからこそ合力して恩を売っておきたいと思うのも不思議ではない」
「ふむ…。では蒲生と九鬼もそうとうこの戦を重く見ていましょうな」
中村一氏が言うと、将たちの目に気合いが宿った。秀長が
「しかし美濃は策に溺れたわ。堕落を見せつけて我らの油断を誘う腹であったのだろうが皮肉にも今まで美濃が歩んできた軌跡がアダとなった。堕落など絶対にせぬ男とオレは知っている。体たらくな顔の内に虎視眈々と我らを仕留める絵図を描いておった。だが我らは美濃の夜襲を見抜いた。話が違うと援軍は引き上げるかもしれぬ。ならば話はそんなに難しくはない。泥酔して寝込んでいると見込んで攻めてくる美濃の部隊を蹴散らし、そして我らは安土に殺到して占拠する。そのうえでまだ援軍部隊が寄せてきたら戦うまでだが蒲生氏郷と九鬼嘉隆は名将だ。各々油断するなかれ!」
「「オオッ!!」」
そして安土城の隆広。眼下の羽柴陣を見つめ
「気取られたな…」
安土山の木々から鳥が一斉に飛び立った。人の殺気を感じ取った証拠だ。一番の理想的な形は泥酔している羽柴陣に夜襲出来ることだったが、相手は羽柴秀長、そうことは簡単には進まない。
「が、想定内だ」
「しかし驚きましたな。あの体たらく芝居が二重仕掛けだったとは」
やっと田舎芝居から解放された助右衛門。そう、体たらくな芝居は二重仕掛けだった。堕落が見せかけと看破されても『美濃は策に溺れた』と云う油断を誘えている。
「ははは、しかし助右衛門は芝居がヘタだったが慶次は中々だったな」
「無論、だから羽柴は殿の術中にハマッたのでござる」
芝居の最後の詰めは助右衛門と慶次が泥酔する隆広を強諫し、それに激怒した隆広が二人を幽閉すると云う筋書きだった。助右衛門は程々抵抗する体で幽閉部屋に連行されていったが慶次は大暴れした。彼にとってはそれが敵方に怪しまれない『程々』であったのだが、隆広の小姓や近習たちは思わぬ負傷をするはめとなった。味方の武将に傷を負わされた彼らは慶次をうらめしそうに見ていたが
「こらこら、そう、うらめしそうな顔をするな。お前らとて未熟だぞ。あれだけ束になってもオレ一人押さえられないで、いざと云う時に殿のお役に立つか?」
それを言われれば何も言い返せない。拗ねる小姓たちを見て大笑いする隆広たち。
「いつでも揉んでやる。悔しかったらかかってこい。あっははは!」
「ははは、さて長い夜になるぞ。援軍到着までまだ間がある。交替で睡眠と食事を取れ。ただし飲酒は禁じる。良いな」
「「ははっ!!」」
「助右衛門、すまないが先に休む」
「はっ」
でも奥には行かない。評定の間の横にある一室で横になる隆広だった。
台所では
「奥方様、出丸と城門、城壁に握り飯と水、運び終えました」
春乃がさえに報告。
「分かりました。みんな」
「「はいっ」」
「我らの仕事はこれで一段落しました。長い夜になります。今のうちに休んで下さい」
女たちは解散し、城内の家に帰っていった。さえも前掛けと鉢巻を解いて奥へと歩く。
「疲れた…」
部屋に戻るとすずが待っていた。
「お疲れ様です」
すずが湯漬けを出してくれた。
「いただきます」
助かった。かなり空腹だった。
「ふう、ひと心地つきました。子供たちと伯母上たちは?」
「子供たちはもうお休みになっています。八重殿と監物殿は開戦に備えてお城に」
「そう、でも疲れた…」
「開戦までもう数刻です。湯に入り疲れを取りお休みになった方が。私も横になります」
「そうさせてもらいます」
「敵の攻撃が始まったら不眠不休です。休めるうちに休まないと」
それから二刻(四時間)経った。援軍部隊に向かった六郎から知らせが入った。すでに蒲生氏郷、九鬼嘉隆、筒井順慶が羽柴陣の南一里に寄せていると。すでに仮眠から起きていた隆広は総員起床を下命。監物と八重は子供を誘導して城の大広間に連れて行き、さえとすずも鉢巻を締めて薙刀を持ち、持ち場である東の出丸へと向かった。そして突如南から轟音が響いてきた。蒲生氏郷が夜襲の鉄則である無音進軍を無視して全軍に必要以上に甲冑の音を鳴らして進むように命じたのだ。蒲生・九鬼・筒井を合わせれば一万七千の大軍である。それが必要以上に甲冑の音を立てた。羽柴秀長は凍りついた。二万はいる大軍だ。
そして気づいた。隆広の作戦は泥酔した我らを討つこともあったには違いないが、それを看破されることも想定内であり、真の目的は羽柴勢を安土城の前から動かさないことだったのだと。城兵と援軍で挟撃して殲滅たらしめることが目的だったのだ。
「してやられたわ美濃に!」
策に溺れし水沢隆広と思わせることが体たらく芝居の狙いだったのか、拳を握る秀長。安土城を見上げ秀長。
「智慧美濃か……。よく言ったものよ!」
南から津波のように寄せる大音響に羽柴陣には逃亡者が出始めた。
一方、安土には援軍到来の知らせとなる。士気は上がる。窓から南を見つめる隆広。
「飛騨(氏郷)殿、やるな。……ん?」
「殿、羽柴勢が西に退却していきますぞ」
と、助右衛門。
「さすが秀長殿、戦局不利と分かれば退却するな。しかし、逃がすわけにはいかない」
「御意、すでに準備整えております」
「二万も率いる秀長殿が後背にいるままでは安土を出ることは出来ない。出るぞ助右衛門、慶次」
「はっ! 出陣だ!」
「「オオオオオオオッッ!!」」
城門に走り、馬に乗った隆広。
「城門を開けよ」
「「ハハッ!!」」
安土城の城門が開いた。
「歩の旗をあげよ!」
「「オオオオ!!」」
「目指すは羽柴秀次が備え! 我に続けえーッ!!」
「「オオオオオオオオオッッ!!」」
西に転進していた羽柴秀次の隊に水沢勢が突撃を開始。隊列が伸びきったところに突撃。
「投石部隊!」
小山田投石部隊が先制攻撃、稲妻のような石礫が秀次の軍勢に襲いかかった。甲冑が砕けるほどの破壊力に加えて狙いは夜間でも正確である。顔面に直撃すれば、もう戦闘不能だ。
「ぐあっ」
「ぎゃあ!」
しかも将官級を狙って投げる。指示が出せず兵たちは浮足立つ。そこへ柴田家最強と言われた水沢勢が襲いかかった。前田慶次が先頭に躍り出る。
「前田慶次参上!」
漆黒の巨馬松風の前足が雷神の鉄槌のごとく秀次隊に襲いかかり、慶次の朱槍がうなりをあげて一閃される。次々と敵兵の首と胴体が離れて行く。奥村助右衛門も負けていない。愛槍の黒槍を小枝のように振り回し、敵をなぎ倒す。秀次は狼狽するばかり、何の指示も出せない。中村一氏が助勢に向かった。そうなると水沢軍より多勢である。佐久間甚九郎が
「殿、退け時にございます」
「分かった。貫一郎、退き貝を吹け」
「はっ!」
大野貫一郎はこの戦いが初陣であったが、目をつぶって突撃し槍を振り回していただけと云う情けないものだった。あれじゃ敵味方も分からず危なっかしいとすぐに隆広に呼び戻され馬丁をするよう命じられていた。ホッとするやら情けないやらの貫一郎だった。退き貝が響いた。馬を返した隆広。
「甚九郎、しんがりを命ずる」
「承知、殿も疾く退かれませ!」
「頼んだぞ、貫一郎遅れるな!」
「はい!」
水沢軍は一斉に退却した。さすがは『退き佐久間』の異名を継承する甚九郎のしんがり振りは見事で、迅速に将兵をまとめて城に退却させた。甚九郎と共にいた投石部隊の少年が秀次に石礫を投げた。それは秀次の顔面を直撃し、たまらず落馬した。止まらぬ鼻血をペッと吐いて立ちあがってみれば、もう水沢軍は消えていた。怒り狂った秀次は秀長の退却命令など忘れ
「安土城を攻める! かかれぇーッ!!」
と、城攻めを敢行。唖然とする秀長。今まで攻めなかったのは何故なのか、それは十倍の兵力でも落とせない堅城と分かっていたからではないのか。
城門は閉じられた。隆広は馬を下りて急ぎ出丸に走った。隆広の持ち場は安土城東の出丸。すでに女たちは待機している。出丸に走ってくる隆広に頭を垂れる。隆広はさえの前を通る時、さえを一瞬見てニコリと笑った。さえも笑みで返した。
出丸の銃眼前に四人一組の鉄砲隊が着いた。女たちの声援が響く。出丸に女たちを集めたのは兵糧と水の給仕だけではなく男たちへの声援もある。総大将隆広が二十二歳の若者ゆえ兵もまた若者ばかりの水沢軍。新婚もたくさんいる。妻の声援が何より嬉しい。気合が入る。士気は落ちない。これも隆広の考えた鼓舞である。この戦いで前線に出なかったのは子供だけと云われている。まさに水沢家一丸となって二万の羽柴勢に挑む。
「お前さん! 女房の私を守ってよ!」
「この戦に勝ったら何発でもやらせてやるよ!」
ドッと笑いが湧いた。何とも緊張感がないがこれで良いのだ。肩のチカラが抜けて落ち着いて戦える。
そして蒲生、九鬼、筒井の連合軍が到着。一斉に羽柴勢に襲いかかった。
「殿、羽柴秀次が寄せて参りました!」
鉄砲車輪の構えはすでに整っていた。
「良いか、実際に発砲してこの陣形で戦うのは初めてだが臆することは何もない。訓練は実戦のごとく、実戦は訓練のごとく! 羽柴に水沢の鉄砲術を馳走せよ!」
「「オオオオオオオオッッ!!!」」
「撃てーッ!!」
出丸の銃眼から信じられないほどの連射が炸裂した。
「異常に加熱した鉄砲は一度回転より外して冷やしてから使え! 敵の鉄砲は我らに当たることはない。落ち着いて鉄砲を扱え!」
「「ははっ」」
さえは戦場の良人を初めて見た。床几に座り、鉄砲隊を指揮する隆広。武田勝頼から贈られた不動明王の陣羽織が何と映えることか。昇竜の前立てと炎の後立ての兜と黒一色の甲冑が何と凛々しいことか。何と美しき良人の背中かとウットリして見つめていた。他の女房たちも何人か夫など見てなく隆広ばかり見ていたようだが。
女たちは声援と給仕を懸命に務めた。鉄砲車輪をやっているうちは両手が塞がっているため口に握り飯と水を運ぶ。出丸の中は女たちが走り回っていた。そしていつしか女たちの応援は『わっしょい、わっしょい!』と一つの大音声となった。
援軍の蒲生・九鬼・筒井の戦いぶりもすさまじい。夜間での戦闘訓練を積んでいたゆえ同士打ちがまったくない。筒井家の島左近の『かかれ』と云う声は出丸にいる隆広の耳にも届くほどだ。
やがて羽柴勢は敗走していった。すでに夜が明けようとしていた。射手を務めていた松山矩久が
「殿! 羽柴勢が敗走していきまする!」
床几から立ち両腕をあげ
「勝ったぞぉ!」
「「オオオオオオッ!!」」
「みな、よく戦った! 隆広の誇りだ!」
「殿!」
「お見事な采配にございました!」
女たちに歩んだ隆広。さえが
「殿、おめでとうございます!」
いつも隆広をとろけさせる美声のさえが声をからせていた。それほど懸命に応援したのだ。
「「おめでとうございます!」」
声をからせていない女は一人もいない。みんな汗だくだった。
「さえ、そなたのおかげだ」
「殿…」
勝った喜びにさえは涙が落ちた。
「そなたらもよくやってくれた。この攻防戦は戦国の中でもっとも女が活躍した戦であるぞ」
「「はいっ!!」」
「さあ、亭主をねぎらってやるがいい」
隆広はさえを抱きしめて口づけをし、すずとは頬をつけあった。
援軍諸将と合流し、戦後処理を済ませると隆広はようやく湯につかり、愛妻の肌を堪能したあとぐっすり眠った。さえもまた心地よい疲れの中、良人の腕の中で眠った。合戦から二日目の朝
「おかわり」
「はい」
さえの給仕で朝食を食べている隆広。
「卵かけご飯は美味いな。何杯でも食べられるよ。そしてこの漬物、実に美味い」
ポリポリと漬物を食べる隆広。その漬物はさえが漬けたものだ。
「ふふっ、卵も野菜もみんな安土で取れたものですよ」
「そうかぁ、それがまたさえの給仕だから余計に美味しい。わはは」
「まあ、殿ったら」
そこへ大野貫一郎が来た。
「殿、朝食中申し訳ございません」
「かまわない、なんだ?」
「羽柴秀長殿、筒井の柳生勢により討ち取ったとのこと」
箸が止まった。敵の総大将の首を取ったのに笑顔はない。
「そうか」
「本日の昼には他の将の首と共に安土に届けられるとのこと」
「分かった。到着次第に首実験を行うと諸将に伝えよ」
「ははっ」
貫一郎は去っていった。
「なんて再会だ……」
残っていた飯をかっこむ隆広。
「殿、敵方の総大将と…」
「酒を飲む約束をしていた…」
「……」
「だが同情はしない。失礼であるし……何より一歩間違えば立場は逆だった」
「殿…」
「お茶」
「は、はい」
茶を飲んだあと
「ふう、さえ今日の朝餉も美味かった。御馳走様」
「はい」
「さえ、我らは間もなく殿の援軍に行く。しばらく留守にするが子供たちを頼んだぞ」
「はい、心おきなくお働きを」
「うん」
再び貫一郎が来た。
「殿、忍びより報告が」
「分かった。今行く」
部屋を出て行った隆広。
「また戦か…。昨日の勝利を喜んでいる暇もないなんて」
第十三話『賤ヶ岳の戦い』に続く。