天地燃ゆ−完結編−
第二十七章『家康の最期』
「明家、総大将が涙を見せてはいかん。勝って兜の緒を締めよと云う。全軍に勝ち誇った顔を見せよ。そして勝どきをあげるのだ」
佐々成政の討ち死にに落涙する息子を叱る勝家。
「はい……」
成政に手を合わせる明家。
(佐々家はこの天下分け目の合戦で主家を庇い当主が討ち死にした家。成政殿、柴田家は佐々家に報い続ける事を誓います!)
後日談となるが、佐々家は成政正室がしばらく治めていく事となる。成政の娘は五人いたが、上の三人はすでに嫁いでおり、四女には婚約者がいたため五女の梢姫に明家と虎姫の間に生まれた男子である大助が婿養子と入る。明家の子であり佐久間盛政の孫が佐々家を継ぐ事となる。
「修理(大野治長)、我が馬を!」
「はっ!」
天下分け目の関ヶ原の戦い、それは柴田明家率いる西軍の大勝利である。西軍諸将も柴田本陣に集結し出す。そして
「勝どきだ!」
明家は軍扇を空に掲げた。
「エイ・エイ・オーッ!」
「「エイ・エイ・オー!」」
西軍の凱歌があがる。西軍勝利の雄叫びの中、明家は天に召された家臣に言った。
(勝った……! 勝ったぞ慶次……!)
笹尾山本陣に戻った明家、そこにくノ一が来た。
「申し上げます、敗走する徳川家康を捕捉しました」
真田家くノ一のお江が明家に報告。
「何騎ほどですかお江殿」
「三十ほどです」
「信幸と幸村に伝えて下さい、姿だけは見逃さず、今は捕らえるに及ばないと」
「は……?」
「そう申せば分かります」
その命令が真田信幸と幸村に届いた。信幸が答えた。
「承知した、とお伝えせよ」
「ははっ!」
明家と信幸の思慮が分からない猿飛佐助が幸村に問うた。
「なぜすぐに捕らえないのですか!」
「今ここで捕らえ、西軍本陣に家康の身柄を連れて行けば、残る徳川の敗残兵が決死隊を結成して奪還せしめようと考えるかもしれない。そういう隊は怖い。だから適度に逃がして東軍が完全に離散してから捕らえた方が良いのだ」
と、真田幸村。得心した佐助。
「ほええ、智慧美濃とはよく言ったものだなあ……」
「おいおい、その智慧美濃の意図を説明なくても理解した兄上とオレも褒めろよ」
笹尾山本陣、西軍諸将から戦勝を祝福される明家。
「大納言殿、おめでとうございまする」
と、蒲生氏郷。
「東軍も手強かったですが、何とか退けましたな」
上機嫌の島津義弘。続いて多くの祝辞を受ける明家。ニコニコしながらそれを受ける。一人むくれている者がいる。細川忠興である。
「どうした忠興、具合でも悪いのか?」
「い、いえ……。コホン、戦勝祝着に存じます」
「うん、ありがとう」
(ちっ、今後もこんなベンチャラ言い続けなければならないのか、ヘドが出る。もし玉とデキていやがったらブッ殺してやるからな!)
「みなもよう働いて下さいました。大納言は本日の喜びを忘れません。厚く報いたいと存じます。まずは食事と水をとり、御身と将兵たちを休めて下さい。引き上げの指示はおって各々に沙汰いたしまする」
「「ははっ!」」
諸将は一度自陣に戻っていった。すぐに戦後処理が始まった。本陣で明家が首実検をしている時、大野治長が伝えた。
「殿、大谷家の家老の湯浅五助殿が目通り願っていますが」
「五助が? 通せ」
大谷家の湯浅五助がやってきた。
「大谷家家老、湯浅五助にございます」
「ふむ、平馬(吉継)はどうした? 大谷勢は安藤直次を討ち取ったと聞くが……」
五助は肩を震わせていた。首実検の補佐をしていた石田三成が訊ねた。
「どうされた五助殿、平馬がどうしたのです?」
「主人吉継……。陣没いたしましてございます」
「なんだと!?」
「そんな……!」
明家は床几から立ち上がり、石田三成は持っていた帳面と筆を落としてしまった。柴田の合戦の兵站にそのチカラを発揮してきた吉継。それと同時に、いざ合戦と云う時は一翼の大将として八面六臂の活躍を見せる。かつて羽柴秀吉は『平馬に百万の軍勢の采配を執らせてみたい』と言った事があるが、その吉継を用いている明家は秀吉の評をさすがと思う。吉継はこの関ヶ原で徳川の安藤直次を討ち取り、平岩親吉を敗走させる大活躍だった。
しかし病は重く、輿に乗っての采配。輿を担ぐ部下たちは大谷隊でも怪力を認められた者たち。嬉々として主君吉継を担いだ。
「主人は前々から体調が悪く、合戦前も倒れました。我ら家臣、何度もお休みあるよう述べましたが、主人は『こんな大事な合戦を休めるものか』と……! そして安藤隊と平岩隊と戦い、かつ戦闘中にお目を失明せしも見事な采配を執り両隊退けました! そしてその直後、眠るように息を引き取りましてございます」
「何て事だ……」
明家は激しく落胆した。三成は悔しさに落涙する。源蔵館医師筆頭の銃太郎に大坂に帰ってきた吉継に治療を強く勧めて欲しいと要望した三成。それに伴い吉継が関ヶ原の合戦から外され、結果吉継が自分を一生許さなくてもかまわないとも思っていた三成。
しかし吉継は武人。床のうえで病にて死ぬより、戦場で死にたかったのだろう。九州から大坂に帰った時点、すでに吉継は死期を悟っていた。だから朋友三成の配慮に感謝しても、それに応える事はできなかった。三成は悔しい。
(平馬……! 余計なお世話だったかもしれないが、オレはお前に生きて欲しかった……。バカ野郎……!)
「慶次、成政殿、吉継……。こたびの戦、柴田が失いしものも大きい……」
「殿……」
「五助」
「はっ」
「吉継の子にそのまま大谷家を継がせよ。変わらず遇する。良いな」
「ははっ」
五助と交代して織田信明(三法師)が家老を連れてやってきた。信明は大垣城の留守を任されていて合戦に参加していなかった。また信明は明家の次女の鏡との婚儀が決まっていた。
「舅殿、お呼びと聞き大垣から参りました」
「婿殿、この関ヶ原は婿殿の領地内ですが、柴田と徳川の天下分け目の戦が行われた地としてこれから大切にして欲しい」
「はい!」
「それと東西両軍の死者、これを今から丁重に弔わなくてはなりません。負傷者は東西問わず治療します。それがし自らやりたいところでございますが、戦後処理がありますのでそちらを優先しなければなりません。人員と資金は出しますので、それを婿殿にやってもらいたい」
「分かりました。敵味方問わず行います」
「頼みましたぞ」
信明は大量の僧と民を雇い、敵味方問わず弔った。戦死者の亡骸は遺品と遺骨をその大名の元へ送り届け、慰霊の廟の建立も行った。
美濃国はすぐに奪還し、稲葉氏も旧領を戻された。落ち武者狩りは固く禁じられ、すでに石田三成考案の五人組の連帯責任制度が柴田領内に敷かれているため、一人でも落ち武者狩りに参加したら五人全員打ち首である。柴田家は自国の民でも敵軍の将兵を辱める事は許さなかった。その代わり、負傷兵の治療や戦死者の埋葬や火葬などの人手として働けば十分な手当ては支払った。その働きもちゃんと公正に評価し、賃金も上乗せされる。柴田の陣法を無理に民に押し付けず、守られるよう心砕いたのだ。
兵は神速を尊ぶ。家康の居城の浜松城にもすでに軍勢が向かった。前田利家を総大将に西軍は徳川領に進攻を開始した。徳川が息を回復しないうちに甲信駿遠三を一気に飲み込むつもりである。
柴田勝家、柴田明家は大坂に引き返した。九州に関ヶ原と、あまりにも当主の本拠地不在が長かったからである。明家は重臣たちの『大坂は当主不在がずいぶん続いています。殿は大坂に帰られ、無事な姿を我らの家族たちや領民たちにお見せして安心させて下さい』と云う意見を退け『自分だけ城に帰り、のうのうとしているわけにはいかない』と主張したが前田利家と奥村助右衛門が『殿が本拠地にいて領内を統治してくれるからこそ我らは安心して戦えるのですぞ』と諌め、帰途につく事にした。京都での柴田本陣である二条城に到着。そこにはさえが待っていた。戦勝と聞き、そして関ヶ原から夫が帰途についたと知らされ大坂でジッとしていられなかった。
「殿……!」
さえの顔を見るや明家は馬から降りて走っていく。さえも明家に走る。
「さえ……!」
「関ヶ原の戦勝、おめでとうございます!」
「さえも留守をありがとう!」
二条城の城門で抱き合う二人。すぐに熱い口づけをする。
「会いたかったぞ……。よくここまで迎えに来てくれたな……!」
「一日も早く殿の顔が見たくて……」
「ありがとう、ああ……さえの顔を見ると疲れなんか飛んでしまうよ」
「嬉しい殿……!」
父の勝家、咳払い。共に入城して来た家臣団は『こっちが恥ずかしくて見てられない』と言いたげな顔をしていた。
「おい、後がつかえておる」
「あ、す、すいません!」
「まったくお前ら変わらんな、城の中までがまんできんのか。はっははは!」
二条城に入る柴田親子、この後しばらくして朝廷から勅使が来て帝が関ヶ原での戦勝を祝福している旨を明家に伝えた。とかくこういう答礼は格式ばり時間がかかる。ようやくそれから解放されると、さえのいる部屋へと駆けて行った。
「済まないな待たせて」
「いえ、殿も疲れたでしょう。お風呂が沸いていますよ」
「一緒に入ろう!」
「はい(ポッ)」
風呂のあと食事をして閨に入る。久しぶりの妻との情事をたんのうし、明家は久しぶりにぐっすり眠った。そして翌日、朝食をさえの給仕でとっていた明家の元に大野治長が来た。
「殿、御台様、おはようございまする」
「うん」
「おはよう修理殿」
「はっ、殿」
「かまわん申せ」
「はっ、浜松城と岡崎城、落城いたしました」
箸を止めた明家。
「そうか」
「それと徳川家康殿を捕らえましてございます」
「捕らえたか……」
「徳川殿の周囲にはすでに石川数正、酒井忠次、保科正直のみしかいなかったとの事」
「ふむ……。それで?」
「はっ、石川、酒井、保科、いずれも真田勢に突貫し玉砕したとの事です」
「そうか……。敵ながら見事だな。その首はどうした?」
「いずれも徳川の主要な将、塩漬けにして大坂に運ぶとの事」
「保科正直殿の首は遠征中の正光に届けよ、大坂まで持ってくる事はない」
「承知しました」
椀と箸を膳に置いて治長に命じた。
「信幸と幸村に伝えよ。仮にも五ヶ国の国主。丁重に大坂までお連れするようにと」
「承知しました」
大野治長は去っていった。
「…………」
「どうしたさえ?」
「気のせいか……。殿はお顔が荒まれたような……」
苦笑する明家。
「……オレもそう思う。鏡を見ると何か自分の形相が険しくなっているような……そんな感じがする」
「ごめんなさい、変な事を言って」
「でも、心の中は北ノ庄の小さな屋敷でさえと二人だけで住んでいた頃と変わっていないつもりさ」
「殿……」
「ん?」
「私の前でしか泣けない、抱きたい女はいても抱きしめられたいと思う女は私だけ……。そう申しましたね」
「言った」
「たとえどんなに大身になっても、歳を重ねても、それはご遠慮なくさえにして下さい。泣かせて差し上げますから。抱きしめてあげますから」
「さえ……」
「さえは……殿が亡き大殿のように戦で浴びた返り血で常軌を逸した人間になっていくのはイヤにございます。だからガマンしないで、さえに泣きついて下さい」
涙が出るほどに嬉しい愛妻の言葉。
「ありがとう……。ならば関ヶ原の後始末が済んだら泣かせてもらうよ。今までオレは勝つためではなく負けないための戦を心掛けてきた。イチかバチかは手取川、安土攻防、賤ヶ岳だけ。しかしそれにしたって今回ほどの犠牲はなかった。今回の関ヶ原のような消耗戦は初めてだった。避けられなかった合戦とは申せ多くの家臣たちが死んだ……。つらい」
「殿……」
「でも、つらい時はさえにいっぱい甘えて泣いていいと云う事を改めて分かった。今はもう少しガマンする。でもじきに……さえに抱きしめてもらうよ」
ニコリと笑うさえにカラになっている椀を差し出す。
「おかわり」
「はい」
飯をお椀に入れて渡す。
「相変わらず、さえの作る料理は美味い」
美味しそうに食べる明家。知らない間にさっきさえが見た明家の顔の『荒み』が取れていた。国を動かす明家、その明家を動かすさえ、見事な夫婦である。
大坂城に明家は帰城した。領民たちの拍手喝采の中に入城。見事天下分け目の戦いを制したのである。堂々とした帰城だった。明家の無事な姿は何より領民を安心させる。明家の後ろで輿に乗っているさえも領民に笑顔で手を振って応えた。
入城後、簡単な後始末を終え、提出されていた明家への報告書に目を通し、決裁の花押を記入する。城に帰れば戦場の大将ではない。君主なのである。その仕事も早や一段落した。
「あとは治部少(三成)の仕事だな。もう報告書はお終いか修理?」
「はい、あとは我ら奏者番(秘書)が済ませておきます」
「そうか、ならば修理、使いを出してくれ」
「はい、いずれに」
使いは出したものの、それは今から明家が訪ねると知らせたもので、在宅を確認したら明家はその屋敷に向かった。藤林家の大坂屋敷である。藤林家は前田利家を総大将とする徳川領進攻軍に共にあるので大坂屋敷は女子供と番兵だけであった。柴田明家が来ると大慌てとなったが
「そんなに恐縮する事はないよ。私に野暮用のようだから」
と、かつて隆広三忍と呼ばれた舞が言った。そして舞が明家を出迎えた。
「関ヶ原での戦勝、おめでとうございます」
「「おめでとうございます」」
続けて藤林家の者たちが言った。
「ありがとう、藤林家の戦振りも見事だった」
「「はっ」」
「まあそんなに大仰にしないでくれ。舞と話があるだけだ」
久しぶりに明家は舞と会った。六郎が大坂常駐の忍びのため、舞も若狭美浜ではなく大坂にいる。子が生まれる前は大坂城ですずの侍女を務め三忍として常駐していたが、出産後は藤林の大坂屋敷に住んでいる。その屋敷の居間で明家は舞と二人で話した。
「夫の六郎から聞きました。私の三忍の任を解かれたとか」
「不満か?」
静かに笑い、首を振った舞。
「いえ…正直ホッとしたのが本音です。くノ一として私は肉体的に下り坂…。もう手取川の戦のようなマネは出来ません。子供が生まれ母となった私は死ぬのが怖い…。殿が申さずとも退任を要求していたと思います」
「そうか」
「それで本日は?」
「その退任を正式に伝えに来た。オレが駆け出しのころから一緒にあったそなた。言伝で済ませるなんて出来ないよ」
「殿…」
「今までよく働いてくれた、礼を言う。謙信公の本陣に突撃した時、上杉勢に最初に攻撃を仕掛けたのがそなたであったな、あの重そうな鉄扇を二つブン投げて、あの精強の上杉勢の腰を引かせた。今でも覚えている」
「私も殿が信玄公のいでたちをして謙信公に一太刀浴びせたお姿、今でも覚えています」
しばらく思い出話に花を咲かせる。二人には肉体関係もあったが、それはすでに過去の話だった。
「舞」
「はい」
「三忍の任を解く、これからは妻として母として生きよ」
「かしこまいりました」
「最後にあれ見せてくれないか?」
「え?」
「あれだよ」
「…殿、私はもう殿の戦場妻ではないのですから肌を見せられません」
「違う違う、戦に勝つとよくやっていたじゃないか、あれだよ」
「あれ…ですか?」
「そうそう」
「夫の六郎にも見せていなかったのに…」
「何で」
「だって子持ちの身で恥ずかしいじゃないですか」
「いいじゃないか、頼む一回だけ」
手を合わせて頼む明家。だんだん乗り気になってきた舞、今は忍び装束ではなく武家の着物を着ている舞、だがちゃんと鉄扇はいまだ肌身離さず所持していた。恭しく閉じていた足をドンと広げて明家の前に立ち、左手を腰に置き胸を張る。
「コホン、では一回きりですよ」
明家は拍手して舞を見つめる。舞は自慢の乳房を揺らしながら鉄扇を右手でパンと景気よく広げた。
「いよッ! 日本一〜ッ!」
明家は大喜び、舞は赤面してペロと舌を出した。柴田の下っ端部隊だった頃をふと懐かしがる明家と舞だった。
三日後の朝、明家は庭で槍の鍛錬をしていた。竜之介も一緒にやっている。父の明家と一緒に槍を振るう竜之介。
「えいっ!」
「声が小さい! 腹から声を出せ!」
「はい父上!」
さえも二人の鍛錬を微笑み見つめる。そこへ侍女が来た。
「お殿様、大野様がお越しです」
「ここへ通せ」
「はい」
大野治長が来た。
「おはようございまする、殿、御台様、若君」
「うん」
明家は槍を置いた。
「竜之介は素振りを続けよ」
「はい父上」
縁側に座った明家に治長は報告した。
「真田に連行されし徳川家康殿、大坂城下に到着したとの事です」
「分かった、各諸大名に登城させよ」
「はっ」
治長は帰っていった。
「殿」
さえがいつものようにタライに水をひたして持ってきた。
「ありがとう」
手ぬぐいで汗を拭く明家。しかし心ここにあらず。
「こんな形で会いたくなかった……」
「殿?」
「い、いや何でもない。さえ着物を」
「はい」
各諸大名は登城の知らせを聞き、急ぎ城内へと駆けた。そして城主の間。
「徳川殿が間もなくこれに参ろう」
「「はっ」」
徳川領に進攻中の武将は不在であるが柴田明家をはじめ、島津義弘、長宗我部元親、毛利輝元、小早川隆景、筒井順慶は大坂にいた。柴田家中では毛受勝照、前田利長、不破光重、高橋紀茂、星野重鉄、大野治長なども列席している。そして……。
「こんな形で徳川殿と会おうとはな……」
明家の父、柴田勝家も立ち会っていた。
「織田と徳川同盟のおりの三河への使者は、確か父上でしたね」
「そうだ……。何が起こるか分からんな世の中は……」
「徳川家康殿、お越しにございます」
真田信幸、幸村兄弟に連れられて家康はやってきた。綱に縛られていた。憔悴しきった顔である。そして明家の前に座らされた。
「綱を解け」
「はっ」
真田信幸が家康を縛る綱を切った。しばらくぶりに自由になった体に安堵の溜息を出した家康。
「お久しぶりですな……。徳川殿」
「そうですな……」
フッと笑う家康。明家は大野治長に目で合図した。治長は立ち上がり書を広げた。
「徳川殿、岡崎城と浜松城における戦いを報告いたします。まず側室の西郡殿、お万の方、茶阿の方、お亀の方は自刃、そしてご子息の秀忠殿ですが……」
「…………」
「当方で仏門に入るよう差配しました。ご安心あれ、仏門にある者に危害を加える気はござらぬゆえ」
「過分な配慮痛み入りまする……。一つ伺いたい」
「何でござろう」
「次男秀康がどうなったか知りませぬか……」
明家を見る治長、明家は浅く頷き言った。
「それがしが答えましょう。重傷を負っており戦場にて倒れておりました。合戦の決着がついた後は敵兵でも手当てをするのが柴田の陣法。しかし秀康殿は受け入れず、自ら喉を突いて果てましてございます」
「左様にござるか……」
「修理続けよ」
「はっ、先に主君が申した柴田の陣法により、関ヶ原の東西両軍戦死者、西美濃ご領主の織田信明様が弔うべく懸命に対応中にございます。落ち武者狩りを禁じ、負傷者の手当ても現在西美濃と近江で実施中でございます。戦死者は東西問わず荼毘に付し、遺骨と遺品を木箱に入れ、身元の確認が取れた順から遺族へお送りいたす予定。以上にございます」
治長は書をふところにしまって脇に控えた。
「しかし……徳川殿とそれがしにこんな運命が待っているとは思いませんでした」
「…………」
「覚えておいでか。それがしが徳川殿に初めて会ったのは武田攻めの時でした。あの時のそれがしは柴田家部将で中将信忠様の寄騎、徳川殿は信長公に援軍に来ておられた。武田攻めが終わり……それがしの陣で我ら時を忘れて語り合いましたな……」
「…………」
「もう一度、とくと語り合いたかったが……もうそれは無理。徳川殿がつまらぬ野心さえ持たなければ、血を流さずとも済んだはずなのに……」
「つまらぬ野心だと……?」
「はい、つまらぬ野心でござる」
「『目的が同じだから手を取り合って仲良く協力しましょう』そんな道理があるのならば戦国の世はとうに終わっている。天下をとるにしても! キサマとワシとでは描くものが違う! だから挙兵したのじゃ!」
「…………」
「キサマは確かに信長公に匹敵する、いやそれ以上の天才であろう。しかし心が甘い! 合戦が終われば敵兵でも手当てじゃと? 笑わせるでないわ! かつ家臣も従属大名も甘やかせ、領民にはこれでもかと云うほどに尽くす! そんな良い子ちゃんではキサマの取る天下も信長公同様にわか天下じゃ! だがワシならば作れた! 敵に情けなどかけぬ! 家臣も従属大名も厳しく監督し、士農工商の身分を定め領民は生かさず殺さず! そうでなければこの乱世は治まらぬ! キサマのような甘い男にこれからの世が治められるか!」
「それがしの死んだ後、再び乱世に戻ると?」
「火を見るより明らかよ、キサマの愛しい息子は、おおよそ武田勝頼と同じ道を歩む!」
「…………」
「ワシの挙兵をつまらぬ野心だと? キサマのように……幼い頃から名将であった養父の英才教育を受け、長じて実父の元で重用され……そんなヌクヌクとした武将人生を送ってきたキサマに何が分かる!」
「黙って聞いておれば我が主に言いたい放題! もうガマンできぬ!」
前田利長が激怒し刀を握る。しかし
「控えよ利長!」
「しかしご隠居様、あまりの暴言!」
「暴言にあらず、座して最後までお聞きせぬか!」
勝家が一喝。利長は座った。
「幼い頃から人質としての生活を余儀なくされ……! 大名に返り咲いても西に織田、東に武田! そんな強国に囲まれた国の領主の圧迫など! 世襲で大国を領有したキサマに分かるものか! 妻子を殺さねばならなかった男のつらさなど! 愛妻家などと呼ばれているキサマには分かるまい!」
「…………」
「ワシが天下を望んだのは、無論キサマと同じ『戦のない世の構築』もある。しかし根本は怨みじゃ! 妻子を殺さなければならなかったワシ自身へとこの世への怨みからじゃ! ワシの手で日本を統一し戦をなくし! そしてもう誰も……妻と子を殺すなどと云う悲しみを味わわぬために……!」
血を吐くように自説を叫ぶ家康。城主の間はシーンとした空気に包まれた。
「……分かり申した。その国、きっと作ってみせましょう」
「……どう作る? どんな世を作るのだ」
「弱い者が泣かぬ世を」
「あっははははは!」
家康は笑った。
「ふっはは…。大納言、そんな世はない。キサマが一番それを分かっているはずだ…」
「……」
「大納言……」
「はい」
「亡き信長公はこう言っていた。『ネコは冷酷非情にならずとも勝利者になれるかもしれぬ。そしてその時の敗者は自分か家康であろう』とな」
「かような事を……」
「確かにキサマは冷酷非情になれないのではなく、なる必要がなかった。そういう性格に適した才覚を持っている。だがの、その才覚が通じるのはワシを倒した、この瞬間までと心得よ。国を治めるに一番効果的なのは敵がある事、ワシがいなくなればもう柴田に敵はおらん。敵がいなくなった時、キサマの為政者としてのチカラが問われる。今までのような優しい殿様ではこれからの世には通じぬ。天下人は一人、ゆえに孤独じゃ。本気で弱い者が泣かぬ世を作るのならば、キサマは誰よりも涙を流さねばならん。その覚悟はできておろうな!」
「徳川殿…」
「理解してもらえぬ事を、嫌われる事を、憎まれる事を恐れてはならぬ。嫌がってもならぬ。それを約束せよ、さもなくばワシは安心して逝けぬ……」
明家は深々と頭を下げた。
「千金に値する至言……。大納言しかとお約束いたす」
フッと家康は笑った。
(頭の下げ方まで信康に似ておるわ…)
安心して逝けぬ、さながら父が子に言うがごとく。家康にとって明家は天下人として危なっかしく見えたのかもしれない。親と子ほど歳が違う家康と明家、最後に家康は息子信康の面影を持つ明家に父親の気持ちになって諭したのではないだろうか。勝家にもそれは伝わり
(よう申して下された……)
と胸中で礼を述べた。
「……言いたい事は言った。もう首を刎ねよ」
「徳川殿」
「…………」
「数十年後、それがしも参ります。お先に待っていて下され」
「よき国を作って下され……」
「承知仕った」
『つまらぬ野心』たとえ相手が敗軍の将であろうと酷な言い方である。しかしああでも言わなければ『敗軍の将、兵を語らず』の家康は何も言わずに死を望んだだろう。明家はあえて家康の誇りを踏みにじる言葉を述べ、怒らせて思いのたけを発させたのではないか。たとえ勝者と敗者に別れても、明家は家康ともう一度話したかった。そして家康に教えを受けたかったのである。
家康も途中でそれに気づいたに違いない。ゆえに『天下人は一人、ゆえに孤独じゃ。本気で弱い者が泣かぬ世を作るのならば、お前は誰よりも涙を流さねばならん。理解してもらえぬ事を、嫌われる事を、憎まれる事を恐れてはならぬ、嫌がってもならぬ』と訓戒を残したのであろう。明家はこの言葉を生涯の教訓としている。
徳川家康は斬刑に処せられた。家康は最期にこんな事を述べている。
『人の一生は重き荷を背負い、坂道を歩く如し……。ワシには荷が重かったようじゃが、大納言ならその重き荷も背負い、坂を歩き続けよう…』
第二十八章『天下統一』に続く。