天地燃ゆ−完結編−

第二十四章『関ヶ原の戦い』(後編)

 西軍は一斉に突撃を開始した! 虚を衝かれ浮き足出す東軍。
「取り乱すな! 隊列を崩すでないぞ!」
 すかさず家康は号令一喝。
「落ち着くのだ! 啄木鳥は看破されたが化け猫を東軍が眼前に引きずり出した事には変わらぬ! 完璧な策など存在せぬ、時は動き、人も動く! 向かってきたのなら蹴散らすまでだ! 押し返せ!」
「「オオオオッ!!」
「殿、それがし前線にて指揮を執りまする!」
「平八(本多忠勝)、頼むぞ!」
「ははっ!」
 本多忠勝は本多正信をキッと睨んだ。
「佐渡(正信)……! 策に溺れたのォ!」
「平八……」
「この痴れ者があ!!」
 本多正信を一喝し、馬へと駆ける忠勝。
「…………」
 正信にはどうしても分からなかった。どうして西軍に啄木鳥戦法が露見したのか。
「殿……。申し訳ございませぬ」
「是非におよばず。完璧な策などないと申したであろう。迎え撃つまでじゃ」
「殿…」
「戦は生き物、予期せぬ事も起こる」
「…………」
「もはや別働隊の榊原、大須賀も生きてはいまい。半蔵も討ち取られたであろうな。背後に敵がいると知りながら討って出るほど大納言はアホウではあるまいからの」
「……お見込みの通りかと存ずる」
 そのとおりであった。九段山の夜襲部隊は西軍に待ち構えられ、前田利家を大将とする別働隊が一斉に襲い掛かり蹴散らされた。榊原康政と大須賀康高は討ち死に、東軍の陣に知らせに行く者はことごとく討ち取られたと云う。
「それがしも討って出ます」
「待て弥八郎! 川中島の山本勘助のように責任を感じて死ぬ気か! そなたの啄木鳥戦法を用いたのはワシじゃ! そなたが責任を感じる必要はない!」
「ふ、殿。それがしは三河武士ですぞ……。強情者にござればお許しを」
 本多正信は本陣を出る。息子の本多正純が駆け寄ってきた。
「父上…」
「正純、この関ヶ原が我ら親子の死に場所ぞ」
「最後までご一緒します」
「ふむ…」
 正信は柴田陣を見つめた。
「大した男よ柴田明家…。確か信康様の面影があると平八が言っておったな。殿の話を聞く姿勢や話し方がそっくりだと…。一度ゆっくりと政治やいくさについて語り合いたかったわ」
 そして伝え聞いた噂。柴田明家はヘボ将棋、ヘボ碁で有名であると。正信は将棋も碁も達人の領域だった。フッと静かに笑う正信。
「いつかあの世で会うた時、とくと指南してやろうかの」
「父上、出陣の用意が整いました」
「ふむ」
 馬に乗る正信。
「ふっふふふ、若い頃を思い出すの。三河一向宗を率い殿と戦い続けた日々を」
 本多正信は一向宗門徒であり、若き日には一向宗の社殿に焼き討ちをかけて門徒を討伐した家康に暇を願い敵に回った事がある。正信は一向宗を率い、伊勢長島を攻めた織田勢を翻弄したと言われる。後年、謀将と伝えられる彼であるが、家康の元を離れていた時は門徒の先頭に立ち戦っていた猛者である。彼の徳川家帰参は本能寺の変後における家康の伊賀越えの時と言われている。およそ二十年ぶりの帰参であったが家康は暖かく迎えた。
 その家康を天下人にしたい。その思いで懸命に働いてきた。時に味方に忌み嫌われても主君のためなら苦痛ではない。しかし今回は自分の失策で主君を窮地に陥れてしまった。もはやこれまで。正信は若き日に戻り、武器を取った。
「正純、当家の兵はどれほどじゃったかの」
「二百にございます」
「左様か、ならば参ろう」
“権ある者は禄少なく”正信は家康が五ヶ国の大大名になっても加増を拒否し続けた。ゆえに領地も小さく、二百の兵を養うだけの実入りしかなかった。将と云っても息子の正純くらいしかいない。

 話は少し時間を戻る。笹尾山柴田明家本陣に西軍諸将が集められた。家康の啄木鳥戦法の事を告げた。
「……以上だ。これより全軍粛々と山を降りる」
「「ははっ」」
「それと一つ言っておく。東軍にはアトがないと云う事を念頭に置くように」
「アトがない?」
 と、長宗我部信親。
「そうだ婿殿。我々はたとえこの戦いに敗れても後方に難攻不落の安土と大坂がある。建て直しはできるかもしれない。我々の心の底には『負けてもアトがある』と云う気持ちがどこかにある。しかし東軍は敗れればアトはない。奪い取った美濃国はすぐに取り返され、徳川家康居城の浜松城も西軍全軍で襲えばすぐに落ちる。関東や奥州にも西軍は雪崩れ込む。徳川殿は無論、関東と奥州諸将もそれを知っている。だから彼らは利害が一致して結託したのだ。つまり相手は背水の陣さながらと云う事だ。『負けてもアトがある』と『負けたらアトがない』が戦えばどうなるか説明は必要なかろう」
「確かに……」
 静かに頷く蒲生氏郷。
「しかし、アトがないのは我々も同じだ。日本史始まって以来の、天下分け目の大合戦。さしずめ源平の壇ノ浦の合戦とでも云うところか。この美濃関ヶ原に全国の大名が東西に分かれて戦う。まさに応仁の大乱から続いた乱世を締め括る大合戦。その合戦に敗れれば挽回など不可能である。どんな堅城も豊富な財も役には立たない。天下の覇権を賭けて争う戦い。それに敗れれば統一政権の樹立など夢物語。我々は勝たなくてはならない。家臣、領民、恋女房や子ら、それらの安寧のため、我らとて東軍同様にアトがない。負ければ全部奪われる。これを肝に銘じよ」
「明家……」
 よう言った。勝家はしみじみ息子を見た。
「柴田は、篭城の時に水の入った大事な瓶を叩き壊して敵勢に突撃したと云う事もある。オレはその覚悟で徳川家康に挑む。みなもその覚悟を決めよ。柴田家の天下統一のためではない。負ければ全部徳川に奪われると云う事を念頭に置いて戦え! その覚悟あれば『啄木鳥戦法』を看破した今、我ら西軍の勝利は疑いない!」
「「オオオオッッ!!」」
「では西軍、関ヶ原に布陣せよ!」

 そして今、西軍も『負ければアトがない』気迫で東軍に迫る! 先を駆けるは柴田家の誇る豪傑、可児才蔵。対するは前線の指揮を執る本多忠勝。鉄砲隊が構えようとしたその時、
「たわけ! もう間に合わんわ! 全軍で可児勢と対する!」
「「はっ!」」
 一方、可児才蔵。
「殿、後にお下がりを! 伊賀の国主ともあろう方が最前線に立たれるなんて!」
 才蔵の家臣が諌めた。
「頭が分かっていても体が言う事を聞かんのだ! さあオレに後れを取ったヤツは城の便所掃除をさせるぞ!」
 それはたまらない、可児勢はさらに加速し、そして士気が高まる。才蔵は伊賀国主であるが残念ながら政治能力は皆無。しかも気難しい男であるが何か人を惹きつける不思議な魅力ともいえるものがあった。だから内政巧者の優れた家臣が彼の元に集まった。
 彼が築城した伊賀上野城は現在国宝であり、また天正伊賀の乱で織田家に怨みを持つ伊賀忍者の残党たち、徳川家康に仕える服部半蔵が率いる忍軍とは別系統の彼らを自分の忍軍や兵として再登用させる事に成功している。これは才蔵でなければできなかった事だと歴史家は言う。だから才蔵を伊賀国主とした柴田明家の人事の妙と云う。
 実際、才蔵の前に伊賀を統治していた織田信雄は乱発する反乱に頭を悩ませていたのだから。戦国時代屈指の豪傑である彼であるが、彼の墓所のある才蔵寺、その敷地内にある彼の功績を讃える碑には才蔵を知将として表現している一文がある。(広島県の才蔵寺にて筆者が確認)
 知将と云っても才蔵は主君明家や同僚の黒田官兵衛とは違う智将であろう。自身は知恵をさほど使わず部下に使わせた将である。何より伊賀忍者の残党を自分の部下に組み入れられた器量は知恵ではなく至誠であったに違いない。
 織田信長に敗れたとはいえ伊賀忍軍は精強。だから信長は恐れた。その生き残りが多くいる才蔵の軍勢。この時点では柴田家最強は可児軍であったろう。
「オレに続けぇ!」
「「オオオッ!!」」
 そして本多勢と激突、東西の豪傑、可児才蔵と本多忠勝が槍を交えた。
「その蜻蛉切の槍、本多平八か!」
「いかにも、その笹の旗印、笹の才蔵か!」
「相手にとって不足なし!」
「望むところ!」
 激しい槍のせめぎ合い、両雄一歩も譲らない。
「伊賀の国主が軽率な!」
「ふっははは! 男は現場第一よ!」
「同感でござるな!」
 しかし前線の指揮をとるべきの忠勝は一騎打ちにこだわっていられない。
「どうやら右翼が崩れだした。あちらの指揮を執りたい」
「逃げるか!」
「さにあらず、右翼が完全に崩れれば主君が危うい!」
「左様か、なら行かれよ。追撃はせぬ」
「かたじけない!」
 本多忠勝は右翼へと転戦した。
「さて、次に我が可児勢と戦う東軍の猛者はおらんか!」

 関ヶ原に降りた明家がとった布陣も東軍と同じ魚鱗の陣である。右翼から突撃するは長宗我部と毛利。
 関ヶ原が騎馬の突撃で地響きを立てる。長宗我部と毛利も柴田の統一政権での確固たる居場所を確保するために必死である。長宗我部の先陣を切るのは谷忠澄。かつて柴田の攻撃の前に降伏を主張した将。だがこの戦では当主元親に先陣を許された。その誉れに戦意が高まる。
「土佐のいごっそうが恐ろしさ、東軍の弱腰に見せてくれようぞ!」
「「オオオオッッ!」」
 毛利の先陣は吉川広家、父の元春さながら戦上手といわれる将だ。
「厳島にて陶晴賢を討った時のごとく進め! 毛利武士道を天下に示す時じゃ!」
「「オオオオッッッ!!」」
 後詰兵力として関ヶ原に布陣していなかった松尾山の滝川、森、稲葉、真田も逆落としで出陣。
「攻めるも滝川の手並み、東軍に見せよ!!」
「「オオオオッ!!」
「鬼武蔵の愛する精鋭たちよ! 武功を立てるのは今ぞ! 我に続けえ!」
「「オオオオッ!!」」
 森長可はこの関ヶ原の戦いに望む前、遺言状を書いている。それによれば『家宝は大納言に献上、家督は仙(実弟、後の忠政)に継がせ、娘たちは武士ではなく医者のような地道な職のような者に嫁がせよ』と書き残している。長可の覚悟が知れる。
「森が出たな……」
 と、明家。
「そのようです」
 短く答える影武者の白。
「白、偉くなると云うのは時に寂しいものだ」
「は?」
「長可殿に仕える将兵の中には、乱法師(森蘭丸)と石投げ合戦でケンカした仲間たちがいる。オレについた者、乱法師についた者、敵味方みんな幼馴染のケンカ仲間だ。しかしもうそんな付き合いは出来ない。その仲間たちに森家の家臣として平伏された時、何か悲しかったよ」
「殿、今はそんな感傷に浸っている場合では!」
「そ、そうだった、すまん」
(みんな、西軍のためなんて考えなくて良い……。森家のため、各々の恋女房と子供たちのためにも生き残れよ!)
 明家の言うとおり、長可の部下の中には、幼き日に竜之介(柴田明家)と木曽川で石投げ合戦をした者がいる。竜之介について勝利した者、乱法師についてコテンパンにやられた者、今ではそれも良き思い出。まさかあの竜之介が天下人に手が届くほどの男となろうとは誰も予想していなかったろう。それゆえ竜之介対乱法師の『木曽川の石投げ合戦』は柴田明家と前田慶次との出会いも含め、歴史上もっとも有名な『子供のケンカ』となっている。
「大丈夫なんだろうな鮎助、絶対勝てるなんて言っていたが?」
 鮎助は竜之介につき勝った少年だった。竜之介陣営は四人だったが、いずれも石投げ合戦当時は武士ではなく一領民に過ぎなかった。だが、その勇気を買われて乱法師の父の可成に足軽に取り立てられ、可成亡き後は長可に仕えていた。
 その鮎助に声をかけた者は耕太と云い乱法師陣営の二十六人、哀れにも竜之介の計略に引っかかり大将の乱法師と共にボロ負けした少年だった。額には今もその時の傷が残り、彼はそれを『男の勲章』と誇りに思っている。彼ら二人も、そして他の石投げ合戦参加者の勝者と敗者も現在は立派な森家の武将となっている。鮎助と耕太は幼名で呼び合うほど親しい。
「大丈夫だ耕太、あいつについたおかげでオレたち四人は二十六人もいたお前らに勝てたんだからよ!」
「まあラクして勝たせてはくれんだろうがな東軍も! さあ参るぞ!」
「おう!」

「兄上、こうして一緒に戦うのは徳川が上田に攻めてきた時以来ですな」
 と、真田幸村。
「ああ、上方にいて美人のカミさんに鼻毛を抜かれていないか、とくと今日見てくれるぞ」
「はっははは! ヒデぇ言い草ですな。しかし心配無用にござる!」
「我ら兄弟、留守番の父上の分まで戦おうぞ!」
「はっ!」

「岩村を落とされた無念、ここで晴らす! 稲葉のチカラ東軍に示せーッ!」
「「オオオオッッ!」」
 松尾山勢、東軍に迫る。前哨戦と云える東美濃での戦いでは東軍にさんざんにやられた軍勢だけあり士気は高い。それを迎え撃つは佐竹義重の軍勢である。
「滝川、森、真田に稲葉か……。四つまとめて来たか」
「父上、秋田勢が加勢に入るとの事」
「よし、なら兵力はほぼ五分、迎え撃つぞ!」
「はい!」
「弓隊構えーッ!!」
 佐竹の弓隊が射手の体制に入った。
「放てーッ!!」
 弓隊の体制を見て滝川一益の采配が右手に振られた。すると一益の軍勢は佐竹勢の眼前を横に通過するような進軍形態を執った。各々が木盾を持っている。その木盾に弓矢は刺さる。
「ほう……! さすが『攻めるも滝川』だな」
 義重はニヤと笑った。
「盾隊が通過すると同時に二陣の森が突っ込んでくるぞ! 槍衾!」
「「オオッッ!!」」
「迎え撃てッ!」
 佐竹勢と森勢が激突、続けて真田と稲葉も突撃。さすがは関東の雄の佐竹、押せば退き、退かば押した。秋田実季の軍も杭瀬川の戦いの雪辱とばかり寄せてきた。
「西軍の木っ端武者どもに奥州武士の気概を見せい!」
「「オオオッ!!」」

「松尾山勢の旗色が悪いな……」
 本陣から戦いを見つめる明家。答える黒田官兵衛。
「そのようです。敵は佐竹勢、苦戦もやむなしと存ずる」
「啄木鳥を看破したとはいえ、東軍は敗れたら後がない。我らもそうだが、やはりその尺度が違うな」
「御意、とにかくお焦りにならず、戦局をご覧あれ」
「そうしよう」

 佐竹と秋田勢は松尾山の連合軍を圧倒しはじめた。そこへ筒井の島左近が合流を開始。
「坂東太郎(義重)、先の合戦の続きじゃ!」
「おう、今ごろ来たかヒゲの鬼瓦めが!」
 左近率いる筒井勢が佐竹と秋田勢に突撃、一益は下命。
「一旦下がり、体勢を整えよ!」
「「ははっ!」」
 松尾山勢は離脱、後退した。
「伊予(一益)殿!」
「おお武蔵、無事であったか」
「再度突撃いたしましょう!」
「無論じゃ、真田も稲葉も良いな!」
「「おう!」」
「しかし、さすが坂東太郎、鬼義重と呼ばれている男ですな」
「まさに、だからこそ戦いがいがあるでないか!」
 再び一益率いる松尾山勢が突撃、筒井も加わってはさすがに佐竹と秋田連合軍も劣勢となる。
「義宜、こちらにはもう加勢はこないか」
 と、佐竹義重。
「父上、東軍いずれも目の前の敵に手一杯にございます」
「ふう、なら帰るか」
「か、帰る?」
「ここまでやれば徳川に義理も果たしただろう」
 徳川家康は佐竹家に黄金と食糧を送り、伊達との和睦も仲介したのである。
「しかし、こんな乱戦でどうやって帰るのですか」
「稲葉が手薄だ」
「確かに……」
「実季殿に伝えよ、両軍稲葉に集中攻撃、そして突破し、戦場を離脱する」
「は!」
 佐竹と秋田は稲葉勢を標的と定め集中攻撃、左近と一益が中央突破を図るつもりと悟った時はすでに遅く、稲葉勢は蹴散らされ、佐竹と秋田は一直線に駆け抜けた。
 真田が追撃に出たが、義重はどうやら地形もある程度は調べていたようで上手く狭隘な道に味方を誘導する事に成功。こうなれば追われる側が有利となる。道の入り口に鉄砲隊や弓隊を配備しておけば追う側はそれの餌食になる。信幸は退却を下命。義重は戦場離脱に成功した。松尾山勢と筒井勢は義重一人にやられたようなものだ。勝負に勝ちケンカで負けたと云う事だ。明家に報告が入った。
「申し上げます、佐竹勢と秋田勢、戦場を離脱するも、西軍への損害も軽からず、滝川、森、稲葉、真田、そして筒井はしばらく体勢を整えるべく待機したきと」
「承知した」
 使い番は帰っていった。
「佐竹義重か……。出羽守(官兵衛)」
「はい」
「佐竹と二度は戦いたくはない。合戦後に佐竹へ調略を」
「承知しました」
 柴田本陣の床几場に明家は座る。藤林忍軍が明家と白を守り囲み、周囲は潜んで鉄砲による狙撃も出来ない平野。しかし敵は最後の手段として明家の暗殺を謀るかもしれない。徹底した護衛がされる。明家自身、矢玉を通さない西洋の甲冑を装備していた。同じく床几場にあり戦況を見つめる父の勝家。
「あと十も若ければいくさ場を駆けたいものだがな……」
「それがしも父上の下で働いていたころに戻り、陣頭に立ち戦いたいものです」
「ははは、おそらくはこれが戦国最後の合戦になろうからな。最後の機会を逸するのは悔しいものだ」
 そんな親子を静かに見つめる黒田官兵衛。
(最後の合戦か……。そうなるであろうな)
「のう出羽」
 と、勝家。
「はっ」
「筑前(秀吉)も見ているかのう、この戦」
「おそらく。いや秀吉様だけではなく、信長公や明智殿も」
「ははは、みんなワシより若いのに先に逝ってしもうた。織田の老骨生き残ったからにはこの乱世、せがれと共に締め括りたいものよ」

 立花統虎、鍋島直茂の軍勢は北条に突撃。部隊がたまたま隣に居合わせた立花と鍋島、直茂が合戦前『立花の鬼姫に注意せよ、どさくさに紛れ九州のいくさの仕返しに我らに雷切を向けるかもしれんぞ』と家臣たちに冗談交じりに言ったが、伝え聞いた鬼姫呼ばわりのァ千代は激怒して直茂の陣に出向き、
「立花をなめるな! 立花がそんな卑怯な真似をするものか! 取り消せ!」
 と直茂に詰め寄った。冗談で言ったのに……と思ったがァ千代の誇りを傷つけたのは確か。直茂は素直に謝った。帰っていくァ千代の背を見て
「統虎は果報者よな……」
 と苦笑した。そして今、立花勢と鍋島勢が北条に突撃。特に立花統虎の横で戦う美丈夫は北条を震え上がらせる戦いぶりである。女である事を気付いた者はいないだろう。しかし人間疲れが出るもの。息が上がったところ北条勢に討たれかけた。
「ァ!」
 夫の統虎が辛うじて助けた。だがもう一人、ァ千代に致命的な攻撃を仕掛けようとした者がいたが、
「鍋島……」
 鍋島直茂が間一髪のところで北条の兵を斬った。
「ふははは、『鍋島に助けられた、立花の恥辱だ』ですかな? あっははは!」
「ふ、ふん! 私が言おうとしていた事を先に言わないでいただきたい!」
「ははは、統虎殿、北条は崩れた。これ以上追い詰めれば思わぬ逆襲を食う。ほっておいても退却する者は追わず、他の隊に転戦しようと思うがいかに」
「承知しました」
「直茂殿!」
「何だァ殿」
「助けてくれて、ありがとう」
「なんの、そこもとのお父上は我が武略の師ゆえな! 礼には及ばん」
 ァ千代の父、立花道雪は敵将である鍋島直茂の事を『智・勇・仁を兼ね備えた、当節には珍しき名将』と絶賛していたが、なるほどその通りと思うァ千代だった。直茂はさっさと前線に馬を駆った。後れてなるかと急ぎ馬に乗ったァ千代。
「殿、鍋島に後れを取っては立花の名折れ、参りましょう!」
「よし! 立花勢はオレに続け!」
「「オオオッ!!」」
 直茂の言葉どおり、啄木鳥戦法が看破され浮き足立っていた北条勢は立花と鍋島の攻撃で崩れ、この関ヶ原の陣中で家康とあまり上手くいっていなかった事も手伝い、北条氏政はすぐに退却を指示した。

「も、申し上げます! 佐竹、秋田に続き、北条勢も戦場を離脱!」
 東軍にて二番目の兵力を要する北条勢が戦場を離脱。当主の北条氏政は正信の起草した『啄木鳥戦法』に反対したと言われている。そして結果は彼の懸念通り露見してしまった。氏政は前々から大納言到着前に大垣を落とし、安土、京、大坂と攻め入るべきと主張したのである。
 しかしすべて受け入れられず、憤然としていた。そして戦端を開けば西軍に機先を制された。氏政は『それ見た事か』と自軍の劣勢もあり徳川家康を見限り撤退してしまったのだ。徳川家康本陣に使い番が来て、それを報告した。内容が衝撃的だった事も手伝い、
「キサマ馬上から報告とは何事か!」
 家康は抜刀して使い番に切りかかった。急ぎ身をかわした使い番。そして立ち去った。
「待たんか!」
 気の収まらない家康は地団太を踏む。
「殿、落ち着いて下さいませ!」
「数正……」
 フウと一呼吸置いて家康は床几に座った。
「北条が離脱しよった……」
「はい」
「ふふ……。ワシは三方ヶ原の過ちをまたやってしまったのか……!」
 徳川勢に次ぐ兵力を持っていた北条家の離脱は痛恨であった。これは連鎖が続くと思えば案の定である。東軍将兵の戦場離脱が続出した。そして伊達陣。
「殿、東軍はもはや……」
 と、片倉小十郎。
「ふむ」
「離脱の下知を」
「いやダメだ」
 首を振る伊達政宗。
「は?」
「ここで逃げれば、西軍に伊達は永遠に腰抜けと笑われるぞ。伊達勢ここにありと見せねばならぬ。いや大いにこの機会を利用せねばならん」
「殿……」
「まあ見ておれ、考えがあっての事だ」

 離脱した北条勢では
「父上、返しましょう! これでは北条の離脱は東軍の敗因となり、後世に嘲りを受けましょうぞ!」
 と北条氏直が父の氏政に訴えた。氏直は家康の次女督姫を妻にしているので尚更である。家康を見捨てて帰ってきたと知れば妻は一生氏直を許さない。
「敗因は徳川の啄木鳥戦法ゆえよ。成功すれば見事じゃが、所詮は川中島で看破されたザル戦法。ワシは反対したんじゃ! 武田の兵法を学び、寡兵で謙信を退けた大納言にそんな手が通じるものかと!」
「父上……」
 しかし、然るべき代案を示さなければ他者の案を反対する資格はない。氏政は啄木鳥戦法以上の作戦は示せなかった。ただ危ういと見ただけで反対するだけなら誰でも出来る。
「だからワシは大納言到着前に安土、京、大坂と落とすべきと言ったのじゃ! わざわざ敵の総帥が出てくるのを待つなんて家康は兵法を知らん大馬鹿じゃ!」
 一理あるが、その手段を執った場合、東軍で大坂はおろか京へもたどり着く者は一人もいなかっただろう。大垣を守る滝川一益が容易く通すはずもない。
 そしてその後にある安土城は大坂に比肩する堅城、東軍が安土に迫れば城代の石田三成ではなく、柴田勝家が篭城の指揮を執っただろう。老練な戦上手の勝家が要塞安土の防戦の指揮を執れば被害甚大。たとえ安土攻めを避けて琵琶湖を迂回し京と大坂に進軍しても琵琶湖の湖族の堅田は柴田家に組しており、通過する近江と丹波は柴田領、両国は無論、越前や若狭の留守部隊も襲い掛かってくる。進軍で延びた縦列の横腹に畿内中の留守部隊が襲い掛かってくる。
 何より柴田の治世。一揆が一度たりとも起きておらず、『民の勢い潮の如く』と呼ばれる仁政。民百姓は柴田治世を喜んでいる。武士だけではなく畿内の民すべてが東軍を敵とみなし何をしてくるか分からない。
 北条氏政の進言を家康が入れていたら、東軍は明家到着前に瓦解していただろう。家康が大垣の手前で止まり、明家を待つ事は作戦上間違ってはいないのである。東軍は戦場で柴田明家を討つ事が最大の狙いなのであるから。
 明家はすでに性質は違えども信長と比肩する君主の器。まだ後継者が育っておらず、先代はもう息子に及ばない。だから明家が死ねば信長亡き後の織田家同様に柴田家は崩れていく。戦場で柴田明家を討つ事、家康の大望のすべてはそこから始まるのである。
 しかし北条氏政には歯がゆくてならなかった。だから啄木鳥戦法が裏目に出て浮き足立ったところを九州勢に攻め込まれた時、撤退を迷わなかった。
「大納言め、徳川を片付けてもまだ北条がおる。我が小田原城は武田信玄と上杉謙信の攻撃さえ退けた金城! 来るなら来い」
「父上…。先に返すべきと申しておいで何ですが大納言は叔母上(武田勝頼正室の相模)を丁重に弔って下された者。戦わず和を講じるわけにはいかないのですか。関ヶ原から撤退し、戦場で大納言を討つ事をあきらめた今、家の存続のため模索するが肝要かと」
「和だと?」
 そう、柴田明家、当時水沢隆広は天目山で夫の武田勝頼と共に自刃して果てた北条氏政の妹、相模姫を丁重に弔った人物である。しかも相模が地に書いた辞世を記した文と遺髪を小田原に届けた。このように北条家は柴田明家に恩義こそあれ怨みはない。
 ゆえに当初、北条は柴田につくべきと云う意見も出た。しかしすでに徳川との同盟は締結されていた。柴田と組んで徳川を討つ、これもすでに時機を逸してしまっている。かつ北条が柴田につけば徳川は北条を攻める。それを誰が一番喜ぶか。徳川と北条が戦い潰し合ったところに柴田明家がまたぞろ『帝より勅命を受けた』などと云う大義名分を掲げ攻め寄せて東海と関東が一気に食われてしまう。北条は徳川と手を組むより他なかったとも言えるだろう。何より『五代続いた北条家が、あんな成り上がりの若僧に膝を屈せるか』と氏政は柴田と戦う事を決断したのだ。
 しかし結果、北条は関ヶ原で徳川を見限り帰途についた。氏政は北条全軍で柴田に挑む気概だ。だが息子の氏直は煮え切らない。
「今回に敵に回った事を忘れてもらうため、関八州のうち二つほど差し出し、人質を送ればあるいは」
「弓矢を恐れ、安泰を図るは武士の所業にあらず。キサマには坂東武者の誇りがないのか」
「父上…」
「さ、小田原に帰り軍備を整えるぞ」
 西軍陣地を見る北条氏政。
(これで天下を取ったなどと思うな大納言、徳川が敗れてもまだ北条がおる。たとえ貴様がワシの愛する妹の相模を丁重に弔った男であれ、それはワシ個人の縁に過ぎぬ。いくさは別だ。ワシは負けぬ、負けんぞ!)


第二十五章『激戦』に続く。