天地燃ゆ−完結編−

第二十一章『東の古狸、立つ』


 徳川家康は挙兵した。しかも八万以上の大軍を擁して立った。北条、里見、結城、佐竹らなどの関東諸将。そして最上や伊達の奥州勢もこの挙兵に応じた。
 家康は東国の大名が連合して、柴田が九州に出陣するのを見て、柴田に公言はばからないような宣戦布告で東国諸大名に檄を飛ばした。つまりこの時点で日本の大名は柴田に付くか徳川に付くかイヤでも迫られるのである。関せず、中立を保ち勝った方に取り入る。そんな中途半端な出処進退が許されるはずがない。勝った方に潰されるのは明白である。
 犬山の戦い以後に家康は懸命の書状作戦に出た。最初に後北条氏と盟約を深め、家康の娘の督姫が北条氏直に嫁ぎ、北条氏政の末娘が徳川秀忠に嫁ぐと云う二重に両家の絆を固め、かつ有力関東大名や奥州大名には譜代や一門衆の娘を自分の養女として嫁がせた。時には兵糧や金銀も届けた。そして言ったのだ。
『我が徳川は近日に柴田明家と決戦におよぶ所存、お味方していただきたい。畿内にある柴田明家の直轄領は広大かつ肥沃、戦勝のあかつきには切り取り次第に差し上げましょう』
 同じく、その北条氏と同盟していたのが奥州の伊達である。当主の政宗、まだ二十歳を過ぎたばかりの若者なるも破竹の勢いで奥州の地にて領土を拡大し、会津の芦名を滅ぼしている。政宗が北条氏と同盟を結んだのは、いずれ来るであろう柴田との決戦に備えてである。政宗は柴田明家に従う気はなかった。徳川の檄に応じたのも、徳川のチカラを利用するために過ぎない。家康に明家を討たせ、そして家康の下で勢力を広げる。家康より二十五歳も若い政宗。じっくりと家康の死を待ち、その後にその天下を奪い取る算段である。柴田明家は政宗より七つしか年上でしかない。寿命待ちはできない。徳川と北条が柴田に飲み込まれたら、もはや降伏して家名存続を図るしかないのだ。ずっと柴田の配下大名となってしまう。政宗は天下を取りたい。だからまず家康に天下を取らせるのである。
 政宗の伯父である最上義光、彼の妹が政宗の母親義姫であるが、政宗と義光はあまり仲が良くはない。しかしこの時点、最上と伊達は和睦している状態であった。よって両家とも後顧の憂いなく出陣できたのであろう。
 義光は甥の政宗と違い、天下を取ると云う野心はすでになかった。すでに畿内と西日本を統一した者もいれば、東国の大連合を作り上げた者もいる。自分にはそんな才覚はない。天下をあきらめたうえは東西どちらかに味方して、その下で生き残って行く事が大事となる。義光は内心柴田に付きたかった。しかし地理的に無理があり、かつ明家とは何の音信も取っていない。こんな事なら明家が出してきた『徳川と北条も我が配下』と云うウソ書状、ウソと知ったうえで安土に出向き友好大名になっておけば良かったと悔やむが後の祭りである。戦場で寝返る事も考えたが、そんなマネをすれば日本中の諸大名に笑われよう。このうえは徳川に勝たせて、その下で生き残るのが肝要。徳川が敗れた時は敗れた時で考えよう。そう思った。

 柴田明家が日本最大勢力の大名と云う事は奥州武士とて分かっている事。しかし京に近い畿内の領地はノドから手が出るほどに欲しい。勢力差から徳川に分が悪いとも言える。しかし逆を言えば家の拡大を狙う好機である。分が悪いからこそ御輿の家康を勝たせて領土拡大を図る。このまま連合せずにいたら、柴田明家は徳川も北条も飲み込み、やがて奥州までやってくる。その時にはもはや勝負にならない。天下に王手をかけた段階で降伏しても領地は大幅に削減される。連合は徳川家康の申し出ではあるが、東海、関東、奥州の武将たちはそうせざるを得なかったとも言える。

 徳川家康は尾張犬山の戦いのおり、気付いた事がある。なぜ柴田明家は朝廷に仲立ちを願ってまで徳川との決戦を避けたか。自惚れる気はないが家康は柴田明家が自分を恐れていると考えた。しかしこれは『光栄だ』などと云う美辞麗句で済まない。大変な事だ。もし徳川が柴田に従属しても明家はけして自分に気を許さない。武田攻めの後に親しく懇談したなんて邂逅は何の役にも立たない。間違いなく明家は自分と三河武士団を酷使したうえ、我が身が身罷れば次代当主の秀忠に謀反の疑いありなどと吹っかけて徳川を滅ぼすだろう。戦国の艱難辛苦を経てきた家康には手に取るように明家の考えが分かった。
『もう勅使が来ても聞く耳持たず斬り捨てる。ワシの人生、最大の賭けじゃ!』
 家康は明家が西日本に勢力を拡大していくのを黙って見ていたが、彼もまたじっくりと味方を東国に増やしていったのである。いくら柴田明家に二十万三十万の動員数があれど、戦は数ではない。武田信玄三万に一万でケンカを売った男である家康。
 今回の戦にしても柴田は大軍勢であろう。しかし徳川も八万から九万に届く軍勢を整えている。十分に戦いようはある。柴田明家を生涯最大の敵と認めている家康だった。

 そしてついに家康は東国連合軍を結成、東軍が挙兵した。味方を約束した関東と奥州の武将たちは家康の檄に応じて信州松本に集結。美濃国に進軍を開始した。東美濃を統治している稲葉貞通。事前に明家は貞通に“徳川が挙兵したら、信州から美濃路に来る可能性が高い。稲葉勢だけでは防ぎきれぬゆえ、無理をせずに後退して上杉と真田、他の濃尾勢と連合して迎撃されよ、そして時間を稼ぎ、我らの到着を待って欲しい”と指示していた。とはいえ、敵の通過を許しては美濃武士の名折れ。大坂で留守を務める父の一鉄に
『大納言殿は立場上ああは言ったが、よもやその通りにするでない。徳川との国境に稲葉を置いたは、大納言殿が稲葉の強さを認めているからこそ。断じて易々と通すでない』
 と、釘を刺されていた。無論、貞通も易々と通す気はない。岩村城で徹底抗戦した。岩村城は明家の養父の水沢隆家が改修し、遠山氏、秋山氏を経て稲葉氏が堅固な城に作り変えた。徳川軍、いや東軍は手を焼いたが、結局は多勢に無勢である。防ぎきれないと悟った貞通は岩村城を焼却したうえ、あらかじめ用意してあった隠し道で敗走した。
 東軍は西に進む。稲葉の砦も次々と落とされ、そして岐阜城に迫る。岐阜城を守るのは織田信明、三法師である。つい最近に元服したばかりの少年だ。明家の次女の鏡姫との婚礼を今か今かと待っていた彼だったが、突如の激震が東からやってきた。稲葉勢も岐阜城に入り、防備に備えた。
 そして滝川一益と森長可が岐阜城に援軍に駆けつけた。上杉と真田は四面敵国も同じ。自領の守備を考えると三分の一ほど軍勢しか出せない。上杉家は当主景勝が防備にあたり、直江兼続が四千の兵を率いて出陣、真田家はすでに幸村の軍勢が九州にあり、かつ徳川軍の集結地のすぐ間近に領地がある。それでも昌幸は盟約を遵守して軍勢を出した。真田信幸が精鋭五百を率いて出陣。領地は父の昌幸が死守する覚悟である。しかしながら相手は九万近い大軍勢、柴田留守部隊は岐阜城に集結して滝川一益を大将とし東軍と激突。世に云う『岐阜城の戦い』である。
 上杉、真田、滝川、森、稲葉の連合軍は滝川一益を総大将にして凌ぎ続けた。さすがは信長をして『攻めるも滝川、退くも滝川』と言われた名将である。岐阜城には直江兼続が入り、山城の利点を生かして東軍を翻弄。しかし負ければすべてを失う東軍は必死であり士気も高い。猛反撃に転じた。その猛勢に名将の直江兼続も持ちこたえられず岐阜城は炎上落城、直江勢は信明を連れ脱出するのが精一杯であり、前田玄以は岐阜城を守りきれなかった責任を取り、城と運命を共にした。

 留守部隊は美濃と近江の国境に近い大垣城に向かい東軍を迎え撃つ構えに入った。
「おお、三法師様、いや信明様ご無事で」
「伊予(一益)殿……私は岐阜城を守れなかった……」
「何の、まだ盛り返しは出来ます。今は傷を癒しなされ」
「かたじけない……」
 滝川一益に迎えられた信明を見て安心したか、直江兼続は倒れた。疲労しきっていた。
「大丈夫か山城殿!」
「だ、大丈夫にございます伊予殿……」
「よう三法師様をお守りして下された……。元織田家の家老として礼を申す……」
「何の……信幸殿や長可殿、貞通殿は?」
「無事にござる」
「良かった……」
「大坂から早馬が来た。大納言殿はまだ厳島におられるらしいが大急ぎで戻っているとの事。しかしその前に兵糧が足らぬ事を察し、ご隠居殿(勝家)が援軍と兵糧を持ち、こちらに向かっているとの事だ」
「大和の筒井殿は?」
「無論、もう大和を出てこちらに向かっている。とにかく貴殿は少し休まれるが良い」
「かたじけない……」
 直江兼続は兵に支えられ、用意されている部屋へと向かった。
「ふう…厳島か。明後日に大坂に着いたとして大垣に至れるまではまだ七日はかかろう。何とか大垣で踏ん張らねば」
「伊予殿!」
「おお武蔵(長可)」
「水は井戸が何箇所もあるので問題ないが、兵糧はもって四日にござる」
「そうか」
「ご隠居の部隊はいつに?」
「大坂から京極但馬が、そして安土の石田治部がご隠居を補佐して大急ぎで運ばれているので三日以内には来よう。兵糧と水の心配がないのだけは救いじゃな」
「しかし大垣は岐阜や岩村と比べ物にならんほどに防備が薄い平城、しかも兵の士気は乏しゅうござる。岩村と岐阜が落ち、美濃は東軍に取られたも同じ。それゆえ大軍の東軍に怖気ついておりまする」
「分かっておる。直江山城が目覚めたら軍議じゃ」
「……こんな事になるのなら犬山で決戦をしていた方が良かったと大納言殿も船上で悔いているやもしれませぬな」
「よせ武蔵、それは今さらグチじゃ」
「は……」
「犬山で決戦していたら決戦していたで惨敗をしていた結果もありえた。西進を考えれば朝廷を介して徳川と和議をした大納言殿の考えは誤っておらぬ。過ぎた事は悔やまず、我らは大納言殿の軍勢到着まで何とか踏ん張らねばならん」
「此度も大納言殿は朝廷工作でしのぐつもりでござろうか……」
 一益は首を振った。
「今度は徳川家康、勅使も斬る覚悟でいよう。朝敵になるか天下を取るかじゃ」
「ううむ……」
「また……たとえ帝から仲介を申し出ても大納言殿は受けてはならん。二度もやれば柴田は敵味方にも笑いものぞ。『そうまでして徳川が怖いのか』……とな」
「確かに」
「家康は…武田三万に一万一千で戦を挑み、姉川では多勢の朝倉勢に突撃もした男だ。慎重居士などと呼ばれているが元来あの男の気性は激しい」
「その通りにございますな」
「天下を取ったのが筑前(秀吉)ならば、家康は臣下となったかもしれぬ。筑前は創造が出来ても守成の出来る男ではなかった。家康より年長であるし、子もいなかった。筑前の元でガマンを続けて、亡き後に牙を剥いたであろう。しかし大納言殿は創造も守成もできる。何より若く、子もいる。ガマンを続けているうちに大納言殿より先に死んでしまう。その後、掴み取った甲信駿遠三の五ヶ国はアッと云う間に柴田に飲まれる。甘受できようはずもない。家康が勝つには、戦場で大納言殿を討つ事しかない。柴田明家の大名首を取るしかないのだ。家康が己の人生の中で最たる大博打に出た。我らも死ぬ覚悟で対するのみ」

 瀬戸内海の厳島、ここに柴田明家は来ていた。すでに岐阜城は落ち、濃尾勢や上杉と真田は大垣に後退している事は伝わっていた。
「大垣に迫ったか……」
「殿が以前にお考えの通り、徳川の、いや東軍の西進は大垣で一度止まると存じますが、あまり遅ければ大垣や佐和山も落とし、安土は通らず琵琶湖を迂回して京に入る可能性がありまする。急ぐ必要がございまするぞ」
「そうでございますな…」
「まだ恩賞を与えてはおりませぬで、西国大名は連戦を渋りましょう。我らは論功行賞もやる時間もなければ、島津と一枚岩になれるよう心砕くゆとりも今はございませぬ。九州、四国、中国の武将らは帰すべきかと」
「この東西合戦にずいぶんやる気を示していると聞いている。ハイそうですかと帰るであろうか?」
「もし大垣の戦で当方劣勢になったら、島津や毛利がどんな動きをしてくるか分かりませぬ。劣勢時に敵に寝返られたら我ら西軍は総崩れ。いかに貴重な兵力とは申せ帰すべきにございます。畿内と濃尾の軍勢だけで十分東軍には対する事は出来ます」
「分かった、出羽守に陣立てを任せまする」
「承知しました」

 だが国許に帰れと申し渡された大名たちは激怒。島津義弘ら九州の武将たちは上坂し改めて明家に降伏の意図を示さなければならないので大坂城に行くが、それでも『軍勢は無用ゆえ、適度な護衛兵と主なる家臣だけ残し帰せ』と通達された。
 毛利、長宗我部、宇喜多らはそのまま国許に引き返せと言われていた。これに納得できない大名たちは柴田本陣に怒鳴り込んだ。島津義弘は頭から湯気を立てて怒鳴る。
「どういう事か! 新参の島津は信用できないと云う事か!」
「落ち着かれよ義弘殿」
「これが落ち着いていられるか軍師殿、大納言殿はどこにおられるか」
「明日の出航に備え、すでに横になっておられます。お話ならそれがし出羽が伺いますが」
「大納言殿に直接伺いたいのである」

 陣屋で横になっていた明家に大野治長が使いで来た。
「殿」
 眼を開けた明家、静かに訊ねた。
「何だ」
「大垣への戦に外された諸大名たちが軍師殿に猛抗議です」
「分かった、すぐに行く。着替えを手伝え」
「はっ!」
 明家は甲冑と陣羽織を身に付け、髪も整え本陣へと向かった。大騒ぎの本陣、誰もが、もう大きな合戦はない。武功を立てられる最後の機会かもしれないと思っていた。何よりこの東西の戦いの結果が明家の作ろうとする統一政権樹立の是非を占う大事な合戦と見ていたのである。全国の大名が一つの戦場に結集し東西に分かれて戦う。それぞれ自分の家名を轟かせようと思っていた。外されるワケにはいかないのであった。
「一同控えられよ! 大納言様のお越しでござる」
 治長の言葉に場は静まり、明家が陣幕をはらい入ってきた。諸大名は膝を屈し控えた。
「取り繕いは皆に失礼、ありのままを話すゆえ聞いて下さい。ここにいる西国大名の皆は矛をおさめ、当家に恭順してくれました。しかし時を経ておりませぬ。当家が成そうとする統一政権の樹立に伴い、政治にせよ軍務にせよ協力し合っている日数が浅く、深い信頼関係がまだ築けておりませぬ。不愉快に思うかもしれませんが、徳川との戦局によっては、その矛先を当家に向けてくるのではないかとそれがしは恐れたのです。だから出羽守に命じて外させました。他意はございませぬ、ただそれがしの臆病さゆえにございます」
「……では、西軍劣勢に陥ったら島津は東軍につき、大納言殿を攻撃すると思われたのか?」
「その通り、思いました」
 義弘の目を見て、正直に答える明家。義弘は苦笑した。
「正直なお方ですな」
「大納言殿」
 と、毛利家家老の小早川隆景。
「何でしょう小早川殿」
「その道理、分からんでもござらぬが、それでは天下分け目の戦と云うのに我ら毛利は何の武功も立てられぬ。恐れながら大納言殿が勝利の後に我ら従属大名に恩賞を惜しんでの吝嗇(りんしょく【けち】)の気ありと見る者も出てきましょうぞ」
「こ、小早川殿、お言葉が!」
 大野治長が言うが隆景は退かない。
「義父上」
「婿殿」
「いったん柴田に組したからには、『柴田は勝てるか』ではなく『柴田を勝たせる』のが我らの務めにござる。そして統一政権の樹立に尽力し、共に栄えるが望み。こたびの戦から外されればそれも叶いませぬ。何とぞ参戦をお許し願いたい」
 長宗我部信親が言うと、他の大名も賛同。立ち上がり改めて参戦を要望してきた。
「徳川は強いですぞ。一緒に来ていただけますか!」
「「オオオッ」」
「弱い敵なら逆に行きませんがのォ」
 島津義弘が言うと陣がドッと湧いた。参謀の黒田官兵衛は
(まことの事を申すのが一番説得力のある事とは云え……『みなに背かれるのが怖いから連れて行けない』と言うのは、もはやバカ正直の領域。しかしそれが逆に諸大名の心を掴みよった。『勝ち馬に乗る』ではなく『勝たせなければ』と思わせよった。なんと云う大器。やはりこのお方が天下人とならなければならない!)
 と、惚けて明家の顔を見つめた。
「ん? 出羽守、それがしの顔に何か付いていますか?」
「い、いや、あははは!」
 明家は一つ咳払いをして背筋を伸ばした。
「ではこのまま全軍、美濃の国に向かう」
「「オオオオッ!!」」
「兵糧はすべて柴田家で工面する。また功労者には手厚く遇し、戦死した場合は子を取り立てる。子がなくば兄弟、兄弟なくば縁者を取り立てる」
「「ははっ!」」
「また主戦場は大垣にあらず」
「え?」
 黒田官兵衛は目を丸くした。
「大軍を配置できる場所を特定し、そこに徳川を誘導し叩く」
「して、その戦場は?」
「関ヶ原だ!」
「関ヶ原……大海人皇子(おおあまのみこ)と大友皇子(おおとものみこ)が合戦の火蓋を切った場所!」
「その通りだ出羽守! まさにこの戦国乱世に終止符を打つに相応しい場所! さあ軍議だ!」
「「オオオッ!!」」

 数日後。美濃の国、岡山の赤坂、東軍の本陣。
「申し上げます」
「なんじゃ半蔵」
「柴田明家、大坂に戻った由にございます」
「来おったか…」
「到着した当日、大坂城で改めて九州勢が降伏の意図を示したと聞いております」
「ふん、とうとう九州まで手中にしたか化け猫め、まあ良いわ、あとでまとめてワシがいただく。引き続き情報収集にあたれ」
「はっ」
 服部半蔵は引き返した。
「弥八郎(本多正信)、いよいよこの時が来たのう……」
「御意、よもや大納言も今度は朝廷に仲介を頼む事もございますまい」
「しかし、よもやあの時、有意義に語り合った若者とこの国の覇権を賭けて戦おうとはのう…。世の中は何が起こるか分からんわ」
「ですが殿、殿はあのおり『隆広殿は家臣にすれば恐ろしいが、敵にすれば恐ろしくない』と申したではございませんか」
 と、本多忠勝。
「事情が変わったのう、よもやここまで大化けすると見ておらんかったからな」
 苦笑して答えた家康。一つ記憶に残る出来事があった。家康が織田信長から安土城に招待された時であった。徳川家を歓待する宴、そこには柴田家の面々はいなかった。隣に座る家康に信長が尋ねた。
「三河殿(家康)は武田攻めのあと、ネコの陣に訪れたらしいの」
「いかにも」
「あの小僧をどう見た?」
「才は溢れんばかりと存じます。さりながら、いささか性格が甘いと思いましたが」
「確かにの」
 信長は笑った。
「だが三河殿、もしかするとネコは冷酷非情になる必要がないのかもしれぬ。そして彼奴にはそういう性格に沿うた才能も持っている。戦に勝つのも、国を統治するのにも方法が一つではないように、上に立つ者が必ずしも冷酷非情な絶対君主でなければならないと云う法もない。その性格の甘さ、優しさゆえに、勝利者となる時もあろう。ワシは今さら優しい君主にはなれぬがな」
「その勝利者となった時の敗者は誰でござろうか」
 信長は豪快に笑い、答えた。
「ワシか、そなたであろう。あっはははは!!」
 信長のこの言葉が最近気になる家康。性格が甘い、優しい。しかし柴田明家は結局それで勝っているのである。味方も増やしている。
(……大納言を戦国乱世の最後の勝者とするため歴史に選ばれた敗者がワシとでも云うのか……。いや、大納言が勝利者たれたのは、ここまでにせねばならない。本当の戦いはこの戦に勝ってからの治世の創造期にある。大納言の性格では大名に徹底した支配などはできまい。統一政権と云っても柴田を盟主とした同盟諸国の幕府。大納言の死後に再び乱世が始まり、結局はにわか天下じゃ。しかしワシならば天魔外道と謗られようと大名を支配していく覚悟がある。泰平の邪魔になる者は容赦なく排除する鬼となれる。大納言は鬼になれぬ。鬼になる事が泰平の世に繋がる事を分からぬ男じゃ。大納言にこの戦を勝たせてはならぬ……!)
「殿」
「ん?」
「どうされた、怖い顔して考え事を」
「いや弥八郎、何でもない」

「殿、大納言は美濃の生まれ、大軍を擁したのならここに陣取りましょう」
「関ヶ原……。確か大昔に大海人皇子と大友皇子が合戦の火蓋を切った場所であるな」
「いかにも」
「ふむ……」
 本多正信は描かせてあった関ヶ原の地形図を広げた。
「殿がこの南宮山に陣取れば、大納言はこの松尾山か、この笹尾山に陣取りましょう」
「なるほど」
「その前に殿」
「なんじゃ平八」
「大垣を一挙に落とし、京に旗を立てられてはいかがでござろうか」
「そうじゃ、正親町天皇から帝の地位を譲られた後陽成天皇に拝謁し、こちらが玉を握る。そのうえで柴田征伐の勅許を拝領できれば柴田は賊軍にございますぞ!」
 本多忠勝の意見に榊原康政も同調。
「弥八郎」
「は、では話すが……無論、そのような構想も当初はあった。しかし、それでも現在大納言についている将兵がすべて我らに味方する事は絶対にありえん。よう考えてみよ、武士は元々公家の圧政に対抗するために出来た者たち。ゆえに幕府と天皇が戦ったとしても武士は幕府に付くのが正道である。大納言は帝より統一政権を立てよと下命されている。つまり幕府じゃ。西日本の統一を成した今、悔しいが大納言はその幕府を開くのに、もっとも近い人物じゃ。
 何より大納言到着前に京に至れると思うのはとんでもない誤りじゃ。大垣に篭る滝川も徹底抗戦しようし、その後には最大級の要塞である安土がある。城代の石田治部は合戦に向かぬ男であるゆえ、隠居の勝家が出て来て防戦の指揮を執ろう。老いたりとはいえ織田家最強と言われた武将。さすれば我々はヘタすれば安土を攻めて背後から襲われ挟撃を受けた羽柴秀長と同じ目に遭う」
「安土に向かわずに琵琶湖を迂回すればいかがか?」
「平八、それでは柴田の領地の近江と丹波を通らねばならぬ。安土を落とすと同格の犠牲が強いられるであろう」
「むう……」
「分かるの、我々は西進をここで止めて大納言を待つ。我らは柴田明家を野戦に誘い込み、そして戦場で討つ事に全力を傾けねばならぬのじゃ」
「そうじゃ、性格は大きく違うが大納言は織田信長に比肩する君主の器。それゆえに大納言さえ討てば徳川の勝ちじゃ。嫡子竜之介は幼く、トンビの父親(勝家)にタカの息子(明家)と同じ事は今さらできぬ。ほっておいても柴田は内部から崩壊する。我ら徳川を中心とする武家社会が起こせるのじゃ!」
「殿!」
「得心したようじゃな、弥八郎、関ヶ原での陣立てを続けよ」
「はっ」

「殿、ここは徳川の陣を出て、京に向かい伊達の旗を立てるのも一興ですぞ!」
「アホ成実、それでは木曽義仲と同じで、アッと云う間に東西の軍に駆逐されるぞ」
 頬をプクリと膨らませる伊達成実。ここは伊達陣。伊達政宗、伊達成実、そして政宗の右腕である片倉小十郎がいた。
「ははは、しかし殿、徳川は動きませんな」
「動くはずがないわ小十郎、家康は京に上洛して天下に号令するのが目的ではない」
 自らの首に扇子をトントンと叩く伊達政宗。
「柴田明家が首よ」
「さもあらん」
「ああもう、この成実には話が見えん! なぜ柴田明家の首を狙う事が大垣の手前から動かない理由なのでござるか殿!」
「柴田明家の到着前に大垣を攻めて兵の消耗を避けたいのだろう。岩村から岐阜に至るまでの城は大納言をこちらに出向かせるために必要であったが、徳川は大垣より以西は必要ないと見たのだろうよ」
「なぜ?」
「これ以上進めば畿内。柴田の留守部隊が南北から襲い掛かって参るでしょう。ヘタをすれば桶狭間の今川義元のように予想もつかない奇襲を受けるかもしれない。徳川殿は美濃の国を奪い取り、大納言に宣戦布告した。大納言が大垣にやってくるのを待つつもりにございましょう」
「それじゃ小十郎、どうせなら大納言が島津と戦っている最中に挙兵すれば良かったではないか」
「徳川殿もそうしたかったでございましょう。兵力分散ができまするからな。しかし我ら東軍もここまでの陣容を整えるのに同様の時間を必要としたゆえに、それは仕方ござらぬ」
「ふむ、見たところ大垣は平城で大軍の拠点としては心もとない。大納言は大垣より後方にある関ヶ原で迎え撃つつもりと見た。あそこなら西軍の大軍が山地に陣取る事が可能ゆえな。まあ東軍も可能だが」
「関ヶ原に?」
「オレが大納言ならそこを戦場に選ぶ。それにしても」
「それにしても?」
「化け猫対古狸か、ふっははは、怪談だな」

 ここは北条の陣。
「解せぬ、大垣を突破してしまえば、あとは手薄の畿内。大坂まで一直線であろうに!」
 焦れる北条氏政。
「手薄と申しても父上、近江と大和にいる留守部隊が南北から襲ってきましょう。特に避けて通過は出来ない安土城は大納言が築城した屈強の要塞。守る石田勢も中々精強と聞いています。無視して通過するのも危険ですし……」
 と、北条氏直。
「ううむ……」
「ここはそれがしも大納言が美濃に出てくるのを待ち叩くのが上策と存じます」

 大垣城に一足先に向かっていた勝家の元にも明家が大坂に着いたと云う知らせが入った。
「よし、ワシが当面食い止めるゆえ、急ぎ軍を編成し東に向かえと伝えよ」
「ははっ」
 勝家の軍には筒井順慶も合流していた。
「ご隠居様、てっきり東軍は大垣を一気呵成で攻めると思いましたが、止まりましたな」
「ふむ、やはりセガレを戦場に引きずり出す事が狙いのようじゃ。大垣は防備こそ薄いが伊予が死守する。大事の前、兵の消耗は避けたと見える。何にせよ、あの家康がいよいよ勝負に出てきた。正念場じゃ」

 大坂城に到着した明家、一通りの用事を終えて家族に会いに行った。
「殿、お帰りなさいませ」
 と、さえ。それに側室たちが
「「殿、お帰りなさいませ」」
 と続いた。
「ただいま、みなも元気そうだな」
「「はい」」
「父上、お帰りなさいませ!」
「うむ、竜之介。出迎え嬉しいぞ。オレの留守中に母上にちゃんと孝行はしたか?」
「たぶん」
「はっははは、たぶんか。まあいい」
「父上、お帰りなさい!」
 鏡姫が出迎えた。娘の出迎えは嬉しい。鏡姫を抱き上げて喜ぶ明家。
「会いたかったぞ〜! 鏡!」
「鏡もです!」

 やっと部屋に入り、甲冑と陣羽織を脱いだ明家。さえが刀の大小を受け取った。
「明日にはまた出陣だ。さすがに疲れるな」
「今日、さえがたっぷり癒してあげます」
「うん、それを楽しみにしてきた」
「殿、その前に子供たちに」
「そうだな」
「はい」
 さえの言う子供たち、とは養子と養女の事であった。明家の家で大切に養育されている二人。
「「父上、お帰りなさいませ」」
「うん、二人とも顔をあげよ、父に顔をよう見せてくれ」
「「はい」」
 養子と養女は一人づついた。養子は明智秀満の嫡男左馬介、養女は金森長近の娘の桂姫である。
「左馬介は学問、桂は家の手伝い、それぞれ励んでいるか?」
「「はい」」
 優しく微笑む明家。左馬介は父の秀満同様、凛とした良き面構えをしている。つい最近まで藤林家で養育されていたが、明智秀満との約束どおり、明家は左馬介を養子とした。明家期待の養子である。桂姫は長近が本能寺の変の翌年に授かった姫である。しかし賤ヶ岳の合戦にて離反の罪で断絶させられた金森家。当主長近は追放され、ほどなく死去。
 金森家は離散したが、長近の妻はお市の侍女を務めていた時期があり、柴田家に拾われたばかりのさえに侍女として仕事を教えてくれた女であった。金森家の追放を知ったさえは何とか夫の明家に取り成しを願うが、明家でも庇いようのない裏切りを長近はしてしまったのだからどうしようもない。柴田家に仕官したての自分に温かく接してくれ、伊丹城攻めでは若い総大将の自分を盛り立ててくれた長近。何とか助けたいと思ったが、明家が柴田の家督を継いだころ、長近の訃報が届いた。
 それから消息はぷっつり途絶えたが、桂がある日、大坂城を訪れた。汚い身なりであったので門前払いさせられそうになったが、そこへ前田利長が通りかかり事情を聞くと金森長近の娘と分かり、明家は不在であったのでさえに目通りさせた。
 長近の妻の香は貧乏暮らしが祟り、重病に陥っていた。娘の桂は源蔵館で母を治して欲しいと頼みに来たのである。さえはすぐに迎えを出し源蔵館で治療を受けさせた。しかし時すでに遅く、香は息を引き取った。残された桂をさえが養女として引き取ったのである。明家も長近の娘と聞き、自分の娘として育てる事を決めたのだった。柴田は父を追放し、母を死に追いやったと桂はお福と同じく最初は中々明家とさえに心を開かなかったが、今は心を閉ざしておらず、元気な少女となっている。
「父は、明日にまた出陣であるが、この戦が終われば少しは落ち着く。そのおりには海にでも行くか」
「本当ですか! うわぁ桂は楽しみにしています!」

 その夜、明家とさえの寝室。情事を終え、抱き合い語り合う二人。
「さえ、ごめんな……ゆっくりできなくて」
「殿……」
「でも、もう少しの辛抱だ……」
「はい……」
 明家はそのまま眠った。ぐっすり気持ち良さそうに眠っている。さえはそんな夫を抱き寄せ、そして眠りについた。
(おやすみなさい、殿)


第二十二章『関ヶ原の戦い』(前編)に続く。