天地燃ゆー完結編−
第十九章『柴田軍布陣』
島津兄弟、そして島津忠長、そして重臣たちは島津義久居城の内城に戻り、軍勢を立て直し柴田軍への迎撃に備えるべく出陣した。総大将は島津義弘、副将に島津家久と島津忠長、島津の全軍を率いて北上する。
柴田二十万に大友と竜造寺、秋月が加わり、すでに二十二万に軍勢は膨れ上がっていた。一方の島津の軍勢は三万まで減っていた。これが島津の全軍だった。最高六万から七万の軍兵を誇った島津であるが、柴田に寝返る者や逃亡者が後を絶たなかった。島津から去り、どんどん柴田へと付いてしまう。しかしそれでも戦わなくてはならない。柴田勢を迎え撃つために北上していた。先頭で馬を進める義弘が言った。
「何の、戦は数でするものではないわ。大軍がゆえに油断が生じる。そこをつくのだ。良いな家久、忠長」
「「ははっ」」
「しかし二十二万か…。恐るべきは兵数より、それを支える柴田の財じゃな。大坂から九州までかような大軍を連れてくる事そのものが柴田の恐ろしさじゃ。島津はこの点は勝負にならぬわ。しかし戦なら別じゃ」
「大軍ゆえの油断もありまする。大納言が油断せずとも将兵のすべてはそう参りますまい」
と、島津家久。
「うむ、地形も我らは熟知している。かつて智慧美濃と大納言は言われていたらしいが、さてさてどんな手並みか」
大軍による油断、明家もそれを考えていた。しかも柴田は勝ち続けている。武田信玄の『十の勝ちは下となす』とはよく言ったものと心から思う。大軍とはいえあの島津をなめてかかったら必ず負ける。島津は勇猛果敢。予想もつかない損害を被る。
自分が島津軍の総大将ならばどうするか、どう考えても奇襲しかない。敵軍の十分の一の兵力でも自軍を二手に分けて戦い勝利した事がある総大将の島津義弘。明家には毛ほどの油断はなかった。各将兵にも『油断こそが百万の軍勢に値する大敵と知れ』と徹底させている。
ちなみに水面下の戦闘は柴田軍の圧倒的な勝利となっている。これによって島津よりの諸大名は完全に疑心暗鬼に陥り、島津は苦労して手に入れた九州の地をことごとく柴田に奪われた。
後年の歴史小説では、島津家に柴田明家や黒田官兵衛と互角に渡り合える知恵者がいなかったからこうもいいように水面下でやられたと書かれる事も多いが、それは誤りだろう。次男義弘や四男家久の智謀の冴えは彼らの戦歴を見れば明らかな事。
ならばどうしてこうなったか。これは明家が天下人に一番近しい武将であったからではなかろうか。敵に回るより味方に付いた方が得と考える。武家の棟梁となるに、もっとも近い男。絶大な勢力に権力、逆らえばどうなるか。事実四国の覇者の長宗我部はアッと云う間に粉砕されたではないか。我も我もと降って行く。
元々島津の武威に屈服した小名や豪族たち。島津に何の恩恵も受けていない。今回の柴田の来襲にしても『全軍で島津に参ずるべし』と通達しているだけである。一方、明家は本領安堵に加えて、柴田に味方するならと軍費として五百貫を与えている。これでは島津に加担するわけがない。
島津将士は柴田のやり方を『卑怯だ』と罵る。勇猛果敢に戦い、敵を蹴散らす事が武士であると信じる島津勢には柴田の行いは卑怯に見えたかもしれないが、これが合戦と云うものである。
しかし、まだ島津につく九州の国人はいた。赤星統家である。戦局は島津に不利だと云う事は分かっている。だからと言ってすぐに中央の覇者に尻尾を振る事など彼には耐えられなかった。島津家久本陣、ここに統家はやってきた。兵は八百ほどしかいないが、島津に入ってくる報は柴田に寝返りの報ばかり。そんな劣勢の中に赤星統家は島津軍に駆けつけた。家久の喜びは大変なものであった。
「家久殿!」
「赤星殿! よう来てくれた!」
「なんの、我が子の無念を晴らさせてくれた家久殿にどうして槍を向けられようか!」
「九州男児の手並み、中央の覇者に見せ付けてくれようぞ!」
「承知!」
沖田畷の戦い、赤星統家と有馬晴信の離反に怒った竜造寺隆信はその追討に出た。当然二人の軍勢だけではとうてい竜造寺軍に叶わない。二人は島津家に救援を求めた。しかし当主の義久は援軍を渋った。
『戦場は遠く、敵は強大。有馬晴信と赤星統家とは特に付き合いもない。救援に行く義理はない』
と述べた。当然と言えよう。しかし島津四兄弟の四男家久が
『我ら島津を頼ってきた以上、助ける事が武士の正義にござる。それがしが身命を賭けて向かいまする!』
と訴え、家久は副将に一族の島津忠長をつけ、精鋭三千の軍勢で救援に向かった。家久は海路から島原半島入りし、上陸するや船を焼き捨てて全軍に言った。
『生きて帰れると、もはや思うな! 薩摩隼人の名誉を賭けてここで討ち死にせよ!』
家久は泥田を見下ろす丘の上に布陣。有馬と赤星勢を加えても約五千。竜造寺軍は二万五千、しかし大軍の有利をいかせぬ地形に家久の奇計で誘導され、アッ云う間に倒され、かつ隆信も討ち取られた。これを九州の桶狭間『沖田畷の戦い』と云うが、桶狭間の合戦は奇襲。しかしこの戦いは五千と二万五千が正面から戦い、そして五千が勝った。
家久と赤星統家は、この戦いの前に何度か衝突していた。有馬晴信に先陣を要望する統家に『統家殿は竜造寺に人質として出していた子供二人を隆信に殺されたそうであるが、子を殺された事など私怨であり、合戦には無用のもの。かような事で独走されても迷惑千万。そんな男に大事な先陣は任せられない』と無下に統家へ言い放った。援軍の大将である家久とはいえ許せる言葉ではなく統家は激怒、有馬晴信が何とか仲裁して収めると云う事もあった。しかしこれは家久の狂言であった。陣中に竜造寺の密偵がいると知っていたのである。
そして合戦当日、策にかかった竜造寺軍を見て家久は改めて統家に敵を欺く方便とはいえ大変無礼な事を言ったと丁重に詫び、改めて先陣を下命。その出撃を下命する時
『お子達の無念、存分に晴らしてまいられよ!』
と、言った。統家はこれに感奮し竜造寺軍を蹴散らすに至る。
そして今、中央の覇者柴田明家が九州に進攻してきた。島津寄りの大小名や豪族は次々と寝返る。武力制圧したばかりと云うモロさを柴田明家と黒田官兵衛が徹底して突いたゆえである。しかし赤星統家はそれを潔しとせず、島津に付くべく家久の陣にやってきた。そして同じく沖田畷の戦いを戦った島津忠長も家久の陣にいた。その軍議。
「秋月が柴田に降ったらしい」
と、家久に述べる島津忠長。
「ふむ…。粋な事をしたとも聞いている」
「粋なこと?」
「秋月は嫡子と娘、家宝を差し出した。しかし大納言は嫡子だけで良いと娘と宝物を返してしまったそうだ…。当主種実は娘を溺愛していた。それが返されたのだから秋月はこれで完全に柴田につくな…」
「心を攻めまするか、敵もさるものですな」
と、赤星統家。
「確かにな、だが我らとて負けるわけにはいかん」
「「ははっ」」
「申し上げます」
「なんだ?」
家久の元に使い番が来た。
「国許の殿より文が届いております」
「兄上から?」
島津家当主の島津義久は考える。“最上の策は戦わぬ事、味方につける事”孫子の兵法である。自分の取るべき事は戦わず、柴田と和を結ぶ事ではないのか。おそらく柴田もそう思っているはずだ。現に柴田明家はほとんど合戦らしい合戦をせず、九州の大名を味方につけて南下している。
今さら対等の和睦は無理、島津は薩摩・大隅・日向の三ヶ国の領有で手を打ち和睦すべきではないかと考えたのだ。つまりは従属である。いかに歴戦の猛者である弟たちでも、相手は未曾有の大軍勢。かつ柴田明家は数を頼って油断するような三流の将帥ではない。竜造寺隆信や大友宗麟と戦ったようにはいかない。
よって義久は、おそらくは柴田が突きつけてくるであろう条件を想定し弟たちに和議を考えている旨を記した文を送ったのである。家久は落胆した。
「国許の兄上がこんな弱気では勝てる戦も勝てないではないか!」
乱暴に兄からの文を島津忠長に突きつける家久。手にとって読む忠長。
「無理もござらん……。未曾有の大軍勢でござるゆえ、島津の安泰を考えれば殿がこう考えるのも……」
「ふむ……」
「我らがあれだけ急いて九州統一を急いだのは、九州の合戦に柴田を介入させず、かつ有利な条件で柴田と和睦に至る事。それが潰えた今、柴田と戦うしかございませぬが、国許の殿の元には大小名、豪族、土豪ことごとく柴田についたと云う知らせが届いていましょう。柴田と和睦を考えても致し方なき事と存ずる」
「兄上には歳久兄さぁがついている。歳久兄さぁも同じ気持ちなのだろうか……」
「歳久殿は中央との戦を反対していた。おそらくは……」
島津義久居城の内城。病に伏せる弟の歳久を見舞う義久。
「ゴホッ……。そうでござるか、制海権を奪われましたか……」
「ふむ……」
そう、島津家を支持大名とする坊津水軍は松浪庄三を総督とする松浪、九鬼、村上の連合艦隊に蹴散らされ、島津は制海権を奪い取られていた。明家に水軍総督を任されていた庄三の采配と装備の違いの前に坊津水軍は手も足も出なかったと云われている。まだ軍港の占拠にまでは至っていないが、島津は海を奪われた。
「どうして港を占拠しないと思う?」
「占拠するに至っても、上陸すれば松浪の水軍らは陸の上のカッパ……。島津の留守部隊と柴田本隊より先に戦い消耗するより、海上にあり心理的圧迫をかけた方が損害もなく効果も大きゅうございまする……。いつ海から攻めかかってくるか、領内の女子供も怯えていましょう……」
「坊津水軍が小船で近づき夜襲をかけたらしいが……あえなく返り討ちに遭ったと報告が入った……」
「総督の松浪庄三は身一つで若狭水軍を乗っ取り、そして今の大身、並みの海大将ではございますまい……。坊津水軍に今後は軍事活動に出るのは差し控えるよう通達すべきと……ゴホッ!」
「分かった……」
「みな、化け猫に怯えておりまする……。薩摩は辺境ゆえ……柴田明家が本物の大妖と信じ込んでいる者も民には多い。捕らえられたら最後、何をされるかと……」
「チカラで攻めずとも……心理的にジワジワと攻めているのだな……」
「義弘兄さぁは……退きますまいな……」
島津義弘の陣、家久の考えていた通り義久の文が義弘にも届いていた。読み終えて憤然とする義弘。
「なんという情けない物言いじゃ!」
「兄さぁ!」
「おう又七郎(家久幼名)」
義弘の陣に家久が来た。
「兄さぁ、兄上(義久)が柴田への恭順を考えている事を知りましたか?」
「お前のところに兄上の文が届いたか。やれやれ、兄上は柴田の軍勢の数に腰が引けておられる」
床几に座りながらそれに答える家久。
「無理もございますまい。こちらは全軍で三万、柴田は二十二万ですからな。笑えるほどの兵力差にござる」
「ま、一度勝てば兄上の気持ちも変わろうて。我らは押し寄せてくる柴田を倒すのみじゃ」
「兄さぁは戦うつもりなのですな!」
「無論じゃ。薩摩隼人が戦わずに屈するなどできようか!」
「病の歳久兄さぁの分までオレが働きまする!」
「うむ、やはりこちらに向かってきておるか柴田は」
「はい」
地形図を見る義弘。
「家久、我らが柴田に勝つには『釣り野伏せ』しかない」
「それがしもそう思います」
『釣り野伏せ』とは後退すると見せかけて、伏兵を置く有利の地に誘い込み倒す、と云う兵法としては当たり前の事とも言える作戦であるが、島津勢はその作戦をとことん研磨させ、芸術とも言える計と昇華させた。無論、敵もそれを知っているから用心してかかるものの、結局はその術中に陥り大敗しているのである。
「二十二万の柴田を誘導する地はここ、天津原じゃ」
地形図を指す義弘。
「なるほど、そこなら沖田畷と同じく沼地、大軍の利が無くなり、我らが伏せるに易い」
「ワシは天津原の北方に布陣して柴田を待ちうけ、この地に誘導する。家久は天津原で待て」
「ははっ」
家久は義弘の陣から出て行った。義弘は国許の兄義久に返書を書いた。先々代の日新斎(島津忠良)の教えを引用し
『兄上は祖父日新斎の教えをお忘れか。“戦場では家臣たちの心を掴む事が最も大切だ。家臣たちと心を一つにしなければ勝利はない”との教えを。我らは家臣たちの心を掴み、今まで常勝。反して柴田は長宗我部、毛利、宇喜多と傘下に組み入れ、今また九州の寝返り大名を傘下に入れた急ごしらえの大軍。柴田明家はまだ三十前の若僧。そう統率できるものではない。心を掴む事なんて出来ているはずもない。軍勢の数に惑わされてはなりませぬ』
と返した。しかし島津の内を束ねる義久の苦労を鑑みるに、これはいささか思いやりのない言葉とも取れる。島津の家臣や豪族の中には柴田につくのも良しと云う者もいれば、その逆もいる。それらの突き上げに苦慮している義久には義弘の意見は腹立たしかった。
「お前が柴田恭順に反対する者を抑えてくれれば、ワシがこんな苦労もせず柴田との和平交渉に腰据えてかかれると云うに!」
義弘の書を忌々しそうに丸めて畳に叩き付けた。病を押して兄の傍らに座っていた歳久がその丸められた文を広げて読んだ。
「兄上、義弘兄さぁは見たいのでは……」
「何をだ?」
陣の中で義弘は目をつぶり考えていた。
「兄上…。相手は帝が認め、『天下を統一せよ』と下命された男。すでに畿内とその近隣に一大勢力を築き、動員兵力は二十万以上。朝廷への貢献度も他の大名と比較にならず天下はすでに定まったと見る兄上の考えは誤ってはいないとワシも思う。しかし一度は鉾を交える必要がある。ワシは見たいのでござる兄上。柴田明家が兵の将ではなく、将の将たる器であるかを」
進軍する柴田軍、すでに別働隊の前田勢と合流。二十二万の未曾有の軍勢が南下していた。明家は物見の報告から、このまま南下すれば三日で島津勢と接触と云う事を掴んだ。そして全軍の進軍を止め、案内を務めている立花統虎に訊ねた。
「統虎殿、この地は何と云うところですかな」
「はい、神楽ヶ原と云うところでございますが」
「ふうむ……ここが戦場になったと云う歴史は?」
同じく案内を務めていた鍋島直茂が答えた。
「いえ、この地が戦場になったと云う歴史はございませぬが……」
そこは南が平野、北が丘の連なる丘陵地帯であった。周囲を見渡した明家は使い番に指示を出した。
「久作を呼べ」
「はっ」
久作とは亡き辰五郎の息子で、現在の明家工兵隊の隊長である。
「殿、久作まいりました」
「うん、この神楽ヶ原を測量し、詳細な地形図と立面図を作成せよ」
「承知しました」
「後の者は陣場を作れ。ここで今日は夜営する」
「「ハハッ」」
さすがは名匠揃いの明家の工兵隊。一刻半(三時間)後には詳細な地形図と立面図が完成し、明家に提出された。明家は本営に各諸将を集めて作戦を説明した。
「作戦を説明する」
軍師の黒田官兵衛もフンフンと頷いて耳を傾けていた。いつもは作戦の立案などは参謀に任せていたが相手は島津義弘、明家も血がたぎるのであろう。父の勝家の元で軍師であった頃に戻り戦いたいのかもしれない。そして作戦は官兵衛も十分賛成できるものであった。と云うより改めて、さすがだと思える作戦であった。
「刑部、近う」
大谷吉継を呼んだ。
「はっ」
「刑部、そなたはオレの書を持ち内城に向かい島津義久殿を口説き落とせ」
「はっ」
「ここから陸路で行くのは無理だ。ご足労だが豊後の府内に戻り、海路から島津領に入れ。村上水軍に護衛させる手はずとなっている。軍使の旗を立て錦江湾に入れ」
「承知しました。条件は?」
「薩摩、大隅の二国だ」
「しかと承りました。家臣をつれ至急内城に向かいます」
大谷吉継は陣を去った。自陣に戻り、家臣の湯浅五助を呼んだ。
「五助、オレの正装を用意せよ」
「承知しました」
「一度府内に戻るゆえ……」
「殿!?」
吉継は倒れた。
「「殿!」」
家臣たちが吉継へ駆けた。
「殿、すごい熱に!」
「良い五助、出立の準備を整えよ……」
「無理にございます! かような体で島津への使者など!」
「言う事を聞かないか!」
「殿……」
「かような大役、体調の悪さごときで辞してなるものか!」
大谷吉継は島津義久居城の内城に向かった。そして島津義弘のいる南を見る柴田明家。
(九州勢を震え上がらせた『釣り野伏せ』しかし……動かぬ敵にどう仕掛ける。柴田はこの戦、せいぜい六分勝ちでいい。負けなければいい)
竜造寺、大友、秋月の将兵から細かく島津の『釣り野伏せ』を聞き、そして分析し官兵衛ら参謀たちと話し合った結果、一番の対抗方法は『動かない』ことだった。それが分かっていても引きずり出されるのが『釣り野伏せ』。
しかしその島津の誘いを封じる手もある。先に島津を動かせばよいのだ。と言うより動かざるを得ない段階に持っていく事である。その手はすでに打ってある明家。島津陣のあろう南を見つめフッと笑った。
そして島津陣。使い番が義弘に報告した。
「なに? 柴田勢は神楽ヶ原で止まったじゃと?」
「どういう事でしょう義弘殿」
と、島津忠長。
「……解せんの、二十二万も擁しながら三万の島津相手に腰が退けるとも思えんが……」
「その二十二万が逆に枷となっているのではないでしょうか。かような大軍だと逆に統制ができないとも考えられます。兵糧の問題も考えられますぞ」
「いや、大納言は四国攻めのおり、十万の大軍を用いて長宗我部を撃破している。統率が出来ないとは考えられぬ……。また柴田の兵站(後方支援)は天下一と聞く。それもありえん。何を企んでおる」
「兄さぁ!」
「どうした又七郎」
「困った事が発生いたしました。兵糧が送られてきません」
「なに?」
「昨日が期日だと云うのに、荷駄の一つも来ない有様です」
「兄上、どうして兵糧を送ってくれぬ! 我らは敵と戦う前に飢え死にござるぞ」
兄の義久は前線の義弘に兵糧を送りたくても送られない状態であった。事前に柴田明家が黒田官兵衛に命じて博多の商人を味方につけさせ島津領内の兵糧を高値で買い占めていたのである。
柴田明家は島津陣を藤林忍軍に内偵させていた。そして数日、空腹でイラだつ島津軍の様子が明家に届けられていた。同時に明家は地元の農民を呼び、天候について詳しく聞いていた。
「と、言うワケでして……この季節に少し生温かい強風が吹いたりすると、翌日が豪雨になる事がしばしばございます」
「そうか、これこの者に五升の米を与えよ」
「ははっ!」
「こりゃありがてえ! こんな農民に慈悲深い大将は初めてずらよ!」
農民は嬉々として帰っていった。最初は敵方の大将に貴重な天候情報などやるもんか、むしろウソ教えてやると思っていた地元農民たちであるが、こういう破格のご褒美に気を良くし、さすがにウソは言えなくなり、だんだん確かな天候情報が明家にもたらされた。農民の言う天候情報は現在の気象学から見れば根拠は何もない。しかし先祖より受け継がれた天気の知識。現代の気象学も及ばない事もある。そして明家は翌日に豪雨になると確信した日。
「翌日に陣城を築く!」
と、全軍に下命。陣城の築城を前々から言い渡されていた工兵隊たちは事前に資材の調達は終えており、明家と官兵衛の差配により仮縄張りも終えていた。神楽ヶ原を見下ろす郷川山の山中。雨の中で工兵隊長の久作の指揮で陣城が築かれていた。
「山の斜面を切り崩し、急な崖にしろ。山を切り崩した土と掘り起こした乾堀の土を使って土居を築け。馬防柵は三重構えに作れ」
その工事を視察している明家。共に長宗我部信親と立花統虎がいた。
「これが陣城……!」
「そうだ婿殿、亡き織田信長公が武田勝頼殿を討ち破った設楽原の合戦、その策を使っている」
「で、ですがあの戦いは織田信長の鉄砲三段射撃が勝因と伺いましたが……」
「それは戦の一局面の作戦でしかない。無論、それも勝因の一つでもあろうが、真の勝因はこの陣城にある」
「そ、それは存じませんでした……」
「我らは二十二万、島津は三万、奇襲か十八番の釣り野伏せか、いずれにせよ野戦。それに備えて我らは陣城を準備しているわけだ」
「確かに……陣城なら守る側は寡兵でも十分に戦えます。そこへきて我が方の兵数の方が多いとくればこの戦は勝てまする!」
「油断は禁物ぞ婿殿」
「は、はい!」
舅と婿と云っても明家と信親の年齢差は九つほどである。義兄弟のようなものだ。一緒にいる統虎もずいぶんと若い義父もいるものだと苦笑している。
「この分では馬防柵や土塁、空掘も含め、明日には築けそうだ。……ん?」
「雨が強くなってまいりましたな」
「陣屋に参るか、婿殿、統虎殿」
「「はい」」
この陣城構築について島津に情報が漏れないように徹底された。島津の偵察隊はことごとく討ち取られたと云う。何よりこの雨、だんだん降りが激しくなり遠目からは何も確認できない。
明家がなぜ雨を待ったか。これは設楽原の合戦における織田信長の陣城築城、対していた武田勝頼軍は織田・徳川連合軍が陣城を築いた弾正山にわずか三百メートルしか離れていなかった。それなのに武田勝頼は織田の陣城築城を見破れなかった。信長が天佑の豪雨を利用し、かつ一日で陣城を築いたゆえと言えるだろう。島津もまた、武田と同じく柴田の陣城構築にまったく気付かなかったのである。豪雨では五十メートル先も視界は利かない。ましてやこの時の柴田と島津の陣地の距離は行軍にして二日の距離があった。
そして明家の陣屋。信親と統虎と語り合っていた。
「義父殿、なぜ一気に島津陣へと向かわなかったのですか?」
「こう島津陣にうわさを流した。大納言は島津を恐れている、とな」
「は?」
「七倍以上の兵力を有する柴田が島津勢の待ち構える地に行かず、この神楽ヶ原に留まった事で、さぞかしオレが島津を恐れていると見る。勇猛果敢の島津を恐れて柴田勢は来られないと見る。そしてこう考える。『二十二万の大軍を擁しながら気後れしている柴田明家など恐れるに足らず。ならばこちらから出向いて一気に叩き潰してやる』とな」
「島津義弘と家久は勇猛だけでなく、智慧もまたございます。そう乗ってくるとは思えませんが……」
と、立花統虎。
「島津義弘殿と家久殿が引っかかるとは最初から考えていない。だが将兵がそう思う。それにもうすぐ出てこざるを得ない状況にもなる」
「それは?」
「島津領内にはもう米が無い」
「米が無い……?」
「博多に手を回し、島津の兵糧は買い占めた。海路も封鎖済みだ」
あぜんとする長宗我部信親と立花統虎。
「しかし義父殿、むしろそれは危険では? 相手は島津、しかも窮鼠たらしめれば、どんな逆襲があるか!」
「その窮鼠にネコのオレが噛まれない様に防ぐのがあの陣城だ」
「そこまで……」
「ん?」
「そこまで島津を恐れる理由は何でございましょう?」
立花統虎が明家に訊ねた。
「織田の兵は弱い」
「は?」
「その織田から柴田に名前が変わっても、兵一人一人のチカラはとうてい西国の精強な兵にはかなわない。婿殿と戦った時、我らの隊は痛い目にもあったしな」
「それは恐縮」
「織田の兵が弱い事は根拠がある。畿内を中心とした商業都市の武士たちだからだ。そして土地が肥沃であるのが理由だ。日ごろ痩せた土地に実りをもたらすべく農作業に従事して体を鍛えている九州の男たちより弱いのが当たり前だ。だから最西端の島津は怖い。島津の本拠の薩摩は桜島の火山灰に悩まされ、かつ台風の通り道で収穫は不安定。そこに根付いてきた者たち。オレが恐れるのはそういう薩摩隼人の地力なんだ」
「薩摩隼人の地力……」
その地力に散々な目に遭った統虎にはよく分かる事であった。
「統虎殿、『チェストーッ!』でござったかな? 薩摩隼人の気合の言葉は」
「はい」
「そんな言葉は他国にはない。最後の一兵まで戦い抜くぞと云うような、そんな意味合いが含まれているように思えてならない。いわば三万の死兵。二十二万の軍勢の多さなど大した有利にはならんのだ。
当家領地の東、徳川家康殿に不穏な動きがあるにも関わらずオレが二十万も動員したのは九州勢に軍勢を見せて戦意を失わせるため。一地方を攻めるにはそのくらいいる。短期、かつなるべく合戦に及ばずに恭順させるには、この方法が一番早くて正確だ。しかしながら唐土の項羽は三万で劉邦五十万を討ち破った事がある。島津義弘殿は三百で三千を撃破し、島津家久殿は五千で二万五千を討ち破り大名首まであげている。島津に万単位の兵力があらば二十二万の大軍など、利点になる事はさほどにない。逆に味方将兵に油断を生じさせる諸刃の剣だ。柴田勢は数を頼りにしている。オレが油断するなと述べても枝葉の先までの徹底は無理。
繰り返すが、オレは島津が恐ろしい。だから調略や根回しも徹底してやった。戦う前にできるだけ野戦を有利に運べるようにしている。鬼島津の武か、オレの智か、勝負だ!」
第二十章『神楽ヶ原の戦い』に続く。