天地燃ゆ−完結編−

第十八章『南進柴田軍』


 ここは大坂城、明家の家族の私室。
「おぎゃあおぎゃあ」
「おお、よしよし、あ、おしめが湿っている」
 赤子が元気に泣いている。正室さえが生んだ男の子である。幼名を吉之介と云う。信長の幼名の吉法師、秀吉の幼名の日吉丸から『吉』をもらい、そう名づけた。この男児が後年柴田家によって再興される『後朝倉家』の当主、朝倉教景となる。朝倉家の名将である朝倉宗滴の入道前の名を与えられる。朝倉家再興の祖となる運命を持つ赤子である。
 その赤子を明家とさえの嫡子竜之介と次女鏡姫が懸命に面倒を見ている。当然乳母もつけられるが、弟の面倒は兄と姉が見るのは当たり前と、明家とさえは竜之介、お福、鏡をそう養育している。だから言われなくても竜之介と鏡は弟の面倒を見ていた。
「ああ鏡、何度言わせるんだよ。おしめの変え方はこうやってこうだよ」
「こう、こう、じゃ分かんないよ兄上!」
「仕方ないな、貸してみろ」
「鏡がやる、やり方をもう一度教えてよ」
「九回も教えている身にもなれよ、吉之介が風邪ひくぞ」
「いいから鏡にやらせて!」
 そんな兄妹の様子を遠目から見ている明家とさえ。
「竜之介も大きくなったな」
「はい」
「つい昨日生まれたと思っていたが、早いものだな。あと三年もすれば元服だ」
「大殿様、大御台様も楽しみになさっているようです」
「そりゃそうだ、オレだって楽しみだ」
「早く初陣の姿を見とうございます……」
「はっははは、さえ、竜之介に初陣はないぞ」
「え?」
「竜之介の初陣の頃には、オレが合戦の世を終わらせている」
「殿……」
「オレが竜之介に望むのは乱世の英雄ではなく、治世の賢君なのだ」
「治世の賢君…」
「うん」
「わーん母上!!」
「ど、どうしたの鏡?」
「吉之介にオシッコかけられた!」
 兄の竜之介は薄情にも腹を抱えて大爆笑していた。さえも笑いをこらえながら鏡に歩み寄った。
「まあまあ、赤ちゃんのオシッコは母乳しか飲んでいないからきれいよ、大丈夫」
「目に少し入っちゃったよ〜ッ!」
 父の明家も苦笑しながら、そんな光景を眺めていた。九州出陣前、明家の心も安らいだ。

 勇猛果敢な島津勢との合戦。明家は大友と竜造寺に命じ九州の地形図を提出させ、また島津の戦術など細かく調べた。特に明家が注目したのは沖田畷の戦いである。九州の桶狭間と呼ばれる合戦。竜造寺家を離反して主君隆信に叛旗を翻した有馬晴信、赤星統家に島津家久とその従兄弟の忠長が加勢し、三万の竜造寺勢に有馬、赤星、島津の五千が大勝した合戦。この戦いの采配を執ったのは島津家久。現当主義久の弟であるが、相手の総大将の竜造寺隆信も討ち取る大勝利だった。島津の用兵を記した竜造寺家老の鍋島直茂からの文を読み、これは難しい合戦だと思った明家。
 しかし島津は柴田の介入を危惧し、九州の統一を急ぎすぎた。それを明家に付け込まれる事になる。軍師の黒田官兵衛を呼んでこう伝えた。
「出羽守(官兵衛)、九州遠征に先立ち、火のないところに煙を立たせてほしい」
「承知つかまつった」
 黒田官兵衛が九州出陣前に島津の武威の前に屈服した九州の大小名、豪族や土豪に使者を送り調略を行った。長宗我部を攻めた時と同じく、明家は島津に敗北し、島津に怨みを持つ者を味方につけるべく黒田官兵衛に下命したのだ。官兵衛は『大納言様に味方すれば本領の安堵を約束する』と九州の大小名、豪族や土豪に使者を送り届けた。そのうえで『貴殿が柴田に降伏したと島津に気取られたら、貴殿が攻められる恐れあり。よって大納言様が九州に到着するまで互いに秘事とするべし』と念を押した。
 狙い通り九州大小名は疑心暗鬼に陥ってしまった。寝返りの噂が飛び交い、誰が敵であり味方であるか分からなくなってしまった。九州攻めの準備は整った。その軍儀での事。重臣たちは毛利や長宗我部と云った柴田に属したばかりの大名を先鋒に行かせてはどうかと具申したが、
「いや、最初からオレ自ら行く」
「殿…」
 止めようとした官兵衛を制した明家。
「島津相手に軍勢を小出しにしていては各個撃破されるのがオチだ。はじめから全軍を投入して一気に勝負をつける。島津は九州にだいぶ版図を広げてはいるが、軍事征服が成ったばかりの地が大半。調略し味方につけ、道案内をさせて南下する。そして…」
「そして?」
 明家の扇子が島津の本拠薩摩を指す。
「島津当主、島津義久殿に降伏を同時進行で勧める」
「前線の島津勢と対峙しながら、本拠の君主を外交で落とすのですか」
「そうだ出羽守、島津は精強と聞く。島津の四兄弟は祖父の島津忠良殿に『義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略をもって傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり』と評している。祖父の身びいきでない事は四兄弟の今までの武勲で分かる。まして我らは遠い敵地に遠征だ。長期戦も避けたい」
「「ははっ」」
「それでは各将、九州遠征のため軍勢を整えよ」
「「ははっ」」

 軍議が終わると、白と六郎がやってきた。
「殿、徳川殿は北条とより強固な同盟を結び、他の関東勢や奥州勢にも使者を送っておりまする。吝嗇(りんしょく【けちと云う意味】)の徳川殿がかなりの金子と宝物をばらましているとの事」
 と、白。
「そうか」
「家臣の美貌の娘を養女とし、嫁がせております。徳川殿が東国の連合軍を作ろうとしているのは明白です」
「…確か奥州の地は伊達政宗が頭角を出してきたな。会津の芦名氏を滅ぼし、東北一の暴れん坊と呼ばれているそうな」
「父の輝宗より家督を継いでより、怒涛の勢いで領地を広げていきました」
「ふむ…」
 白は続ける。
「奥州の地はいまだ群雄割拠の様相ですが、各々の大名が少なからず縁戚にございます。戦になったとしても、敵を殲滅せしめない事が暗黙の了解となっていましたが政宗はやりました。叛旗を翻した大内定綱なる者の小出森城を攻めた時、女子供に至るまで撫で斬りにしたそうです」
「賭けに出たのであろうな、滅ぶか、奥州の覇者となるか。伊達に逆らうとこうなるぞ、と内外に示したと見える」
「それに伴い母親に悪鬼羅刹と嫌われ、父の輝宗殿は政宗に追い詰められた畠山某に殺されたと聞き及びます。しかし、ほぼ奥州全土を敵に回しました四面楚歌の様相ながらも政宗はそれを噛み破り、ついには会津の芦名を滅ぼしました。代償は大きゅうございましたが伊達政宗は南奥州の覇者となりました」
「ふむ……しかし政宗と云う男、案外面白い。会津の芦名を滅ぼす時は、もっとも険しい入路である母成峠から押し寄せ、また先の大内定綱は叛旗を翻したのは二度目、それでも政宗は定綱なる男の才幹を重く見て再登用したと聞く。今度は使いこなす自信があったと見える。油断ならざる男だ」
「御意」
「当然、徳川殿はその日の出の勢いの政宗にも手を伸ばしたであろうな」
「その通りです。そして意外にも味方に付く事を政宗は了承したとの事」
「……オレが政宗のような性格で、かつ同じような立場なら徳川殿に天下を取らせ、その政権下で勢力を拡大し人脈も広げ、徳川殿亡き後に天下を狙う。政宗とオレは七つしか変わらない。オレがいては天下を望めないが徳川殿なら寿命待ちと云う作戦が取れる。まあ徳川殿ほどの人物ならば、政宗のそんな魂胆も理解しながら当面利用するつもりなのだろうが」
「しかし、当面において伊達が敵となったのは明らかにございましょう」
 と、六郎。さらに続ける。
「伊達は徳川に付いたとはいえ、奥州はまだ群雄割拠にございます。他の奥州勢は徳川に付きましょうか」
「付く」
「なにゆえ」
「柴田大納言を討つ、そう徳川殿が檄文を発したら大名はイヤでも二択を迫られる。オレに付くか徳川に付くか。統一政権の樹立のため、オレは源頼朝、足利尊氏と同じく『征夷大将軍』になる必要がある。『征夷』そして『大将軍』つまり『東方の蛮族を誅する軍の総大将』となる。徳川と北条が柴田に併呑されたら最後、奥州まで柴田は攻め入り蹂躙すると思っている。だから利害の関係で奥州勢は徳川に付くしかない。中立は通らない。柴田と徳川、その勝者に潰される。
 当家と友好関係にある秋田家も今は音信がない。無理ないな、柴田につくなどと言えば袋叩きにされようからな。それに関東勢は徳川と北条が味方につけと云えば断れまいな」
「なるほど……。では殿、徳川殿は九州攻めに出ている我らの後背を衝く腹ではないでしょうか」
「だろうな」
「だろうな……。とは察しておられたのですか殿」
「しかしながら二方面作戦は取れない。よって留守部隊はそれなりに残す」
「ですが、殿の留守を狙い、安土、京、大坂と一気に西進してきてはいかがなさいます?」
「そうしてくれれば助かる。上洛するほどの軍勢ならば中山道を通り西進するしかない。長蛇に延びた徳川軍を畿内に残る留守部隊が南北から襲い掛かる。間道を通るも地理に明るくなく、そこいらじゅうに柴田の忍びが伏せている。その差配のため奥村弾正、信濃守(山崎俊永)、そして佐吉や高次、筒井殿を残し、濃尾の軍勢も上杉と真田にも出陣要請はしない。無理に押し通ろうとすれば犠牲甚大となる事くらい徳川殿にも分かろう」
「濃尾の軍勢を残すと言う事は……殿は徳川が濃尾まで押し寄せるかもしれぬと?」
「柴田明家を野戦に引きずり出し、首を取るためにな。徳川殿が柴田に勝つ方法は一つしかない。戦場でオレを討つ事だ」
「では島津攻めは徳川殿を誘い出す意味も?」
「いや、そんな思惑はない。相変わらず寿命を待ち、徳川家康の死後に対するつもりである。しかし、島津との連戦を考えると、たとえ九州に二十万の軍勢で赴こうが、徳川に対応できる兵は八万がいいところだ。ほぼ五分と五分。あのタヌキがこの機会を逃すとは思えない」
「島津と徳川、討つ順番は変えられないのですか殿?」
 白が訊ねた。
「無理だ、徳川殿を討てても、そこまで島津に時間を与えたら大友は島津に降伏し九州は島津を王とする独立王国の様相になる。先に島津と云うのは変えられない」
「そうですな……」
「とにかく、今は島津に集中だ。徳川との天下分け目の戦の前哨戦程度に軽んじて勝てる相手ではない。島津を柴田総力挙げて討つ」
「「ははっ」」
「六郎はこれまで通り、徳川の動向を逐一オレに報告してくれ。白はオレと随員して影武者を頼む」
「「承知しました」」
「あ、六郎」
「はっ」
「子が生まれたらしいな」
「はい」
「名前も聞いた。『七郎』だって?」
「親父より一歩優れた男になってもらいたいと云う願いから舞がそう名づけました」
「ずっと棚上げとしていた人事であったけれど……舞は本日を持って『三忍』の任を解く。以後は妻として母親として生きるように伝えよ。九州から帰ってきたら、舞と会いオレ自身から改めて引退を言い渡し、功労金も渡すつもりだ」
「心遣い、かたじけのうございます」
「うん」
「三忍も二人となってしまいましたな殿、父の柴舟はすでに商人から引き、鈴之介様の守役と城下町の運営に専念。昔のように殿をお助けしたいとグチッていましたが……」
「ははは、白、『鈴之介の守役と美浜の城下町の運営に専念』それがオレをすでに助けているじゃないか」
「殿……」
「亡き養父隆家は銅蔵殿と幻庵(舞の祖父)殿を両忍として使っていた。オレもそれに習おう。これからも頼むぞ二人とも」
「「ははっ!」」

 かくして柴田明家は留守に奥村助右衛門、山崎俊永らを残し九州に向けて出陣した。未曾有の大軍勢、大海原を数え切れない軍船が西に進む。それらの後方支援を勤めたのは石田三成と京極高次、九鬼水軍と村上水軍とも示し合わせ、大量の物資が瀬戸内海を渡った。船上の総大将明家は前田利家、毛受勝照と話していた。
「殿、島津義久は九州討伐中ももっぱら居城にこもり、前線は弟たちと家臣たちに任せていると云う事。これをどう思いますか」
 と、前田利家。
「それがしとは違う観点を持つ大将と見えます。それがしは部下将兵の鼓舞を促すため総大将自らが戦場に赴く事は誤っていないと思っています。これはこれで一つの大将のやりようと自負はしていますが、義久殿は大将自ら動く事なく、弟たちや家臣らを上手く使いこなす優れた采配を持っていると思われます。けして愚兄賢弟ではないでしょう」
「同感にございます。今さら義久と同じ事をせよとは申しませぬが学ぶ事も多かろうと存じますぞ」
「はい」
「それにしても惜しい方を亡くしました。立花道雪殿と高橋紹雲殿。それがしもお会いしましたが、彼らはまことの武人」
「まさに」
 うなずく毛受勝照。続けて言った。
「武田信玄が対面を熱望したと云うのが、道雪殿を見てよう分かった。あの御仁はすべての武将が目標とするべきお方よ。殿に頭を垂れている時でさえ、我ら尚武の柴田家臣も気圧された。あの才蔵が“道雪殿に比べればオレなど小僧にすぎない”と言いよったからな」
「兵部(才蔵)殿が小僧では、それがし赤子です。あっははは」
「中務(利家)は殿の采配で戦うご両名を見たかった」
「道雪殿と紹雲殿は……養父隆家に似ている」
 利家と勝照は静かに頷いた。
「まだ色々とお話を聞きたかったのですが残念です。しかし語らずとも両将の生き様は尚武の柴田も学ぶところが多大にございます。お二人を知っている大友将兵から伺いたいと存ずる。また……娘婿の立花統虎(後の宗茂)殿が島津の大軍相手に立花城でがんばっているらしい。間に合えば良いが」

 それから二日後、毛利勢を先鋒として柴田の大軍勢が筑前国門司に到着した。
「思えば遠くへ来たものだな…」
 九州の地を踏み、体を伸ばす明家。そして赤と黒の母衣衆を召して下命した。
「少しの休息の後、南進を開始する。各々十分にメシを食っておくように、なお酒は禁じる」
「「ははっ」」
「殿、先鋒の毛利から使い番が来ております」
「会おう」
「それがし、小早川隆景が母衣衆、柴田大納言殿に申し上げまする」
「申されよ」
「島津軍は後退、立花城は何とか持ちこたえた由」
「そうか! 本日は立花城にて陣を作るゆえ、城主の統虎殿へ城外に柴田陣を作る事を伝えておくように」
「ははっ」
「それではしばしの休息の後、立花城に向かう」
「「ははっ」」
 一刻半後(三時間後)、柴田軍は立花城に向かった。先鋒の毛利軍、そして立花軍が柴田の陣場をすでに作り出していた。その指揮を執っていた統虎、柴田明家が来たと聞くと出迎えに向かった。ァ千代も一緒である。
「大納言殿!」
「おお統虎殿、お久しぶりにござる」
「援軍、かたじけなし。ささやかながら城内に馳走を用意しましたゆえ、こちらに」
「これはありがたい。…ん?」
 統虎の後ろに一人の美女がいるのに気づく。
「立花統虎が室、ァ千代にございます」
 明家の左右にいた前田利家と可児才蔵は惚けた。甲冑姿のァ千代であるが、何ともそれが彼女の美しさを引き出している。
(何と見目麗しい…)
 我が妻のまつ以上の美女はいないと豪語する利家であるが、上には上がいる者だと感じている。
(かように甲冑が似合う女は見た事がない…)
 さしもの笹の才蔵も見惚れてしまった。
「貴女が…道雪殿のご息女のァ千代殿なのですか?」
「はい、大納言殿の事は亡き父より伺っております」
 ァ千代を見た明家。
(さえには及ばぬが、なんて美しい…。ウチのさえを見て統虎殿が泣いて羨ましがっていたから、道雪殿の面相さながらの鬼瓦みたいな女房かと想像していた)
 そして城に入り、しばしの休息と歓待を受けている時だった。
「ァ千代殿のお話は聞いた事がございます。六歳で立花の家督を譲られ、この城に女城主として君臨していたとか」
「恐れながら大納言殿」
「は?」
「女にあらず、立花です」
「ほう……」
「お、おいァ千代! 失礼だろ」
「あっははは、いや統虎殿、礼を失していたのはそれがし。『女城主』と言った事がァ千代殿のカンに触ったのかもしれませんな。父祖の名を尊ぶ事、生まれ故郷を守りたいと思い戦う心に女も男もない。今度上坂されたおりには是非それがしの妻の友となってもらいたい」
「喜んで」

 そして翌日、毛利と立花を先陣とする柴田勢は出陣した。ァ千代も統虎について出陣した。同じく前田利家が大軍を率いて日向方向へと進軍した。前田には宇喜多や細川の軍勢が付き南進。途中島津勢に攻められている臼杵城を救い、大友本隊と合流予定である。明家には毛利、長宗我部、立花が付き、統虎が案内を務め南進する。

 ところで九州における、もう一方の柴田家友好大名、竜造寺家について語ろう。
 肥前の熊と称された竜造寺隆信、大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗すると、大友氏の混乱に乗じて自領の拡大に乗り出し、やがて筑前や筑後、肥後、豊前などを勢力下に置く事に成功した。
 しかし彼もまた大友宗麟と同じく、暴虐な側面もあった。君主として家臣や国人の造反を恐れたのか、疑心暗鬼に陥りやすく、かつ報恩の義を欠片も持ち合わせていない男である。隆信は二度も流浪の将となったが、その際に庇護してくれた筑後の蒲池家、そんな大恩ある蒲池家を長じた隆信は騙し討ちにして皆殺しにしている。いくら戦国の世とて行き過ぎである。さらに人質として預かっていた赤星統家の子二人を殺すなど、常軌に逸した内部粛清を強める。
 そして、ついに有力な国人である有馬晴信が竜造寺氏から離反した。これを機に島原半島における龍造寺寄りの諸豪族が動揺し始めた。先の赤星統家も有馬晴信の元に参じた。子二人を殺された怨みは凄まじいものであった。この有馬晴信を中心とする反竜造寺軍に島津家久軍が助勢した。これが世に云う九州の桶狭間『沖田畷の戦い』である。
 島津側の援軍の将は島津家久、島津忠長と云う名将であり、竜造寺隆信は自ら大軍を率いて島津有馬連合軍との決戦を仕掛ける。竜造寺は島津と有馬の連合軍の陣に密偵を放つが、このおり島津家久は援軍に来てやったと言わんばかりに高慢な態度をとり、赤星統家と激しい口論に及んでいた。
 しかし、これは家久が密偵のいる事をいち早く悟り、そのような態度を執った芝居であった。味方の赤星統家とて騙されたのである。竜造寺方には合戦を楽観視する家久の言葉を鵜呑みにした密偵の報告がそのまま伝わった。それにまんまと乗せられてしまった。
 だが家老の鍋島直茂(当時は信生)が島津家久はそんな底の浅い大将ではないと隆信を諌めたが、この時に竜造寺軍は二万五千の大軍。竜造寺方は六万と流布したが、実際は二万五千であった。しかしそれでも有馬の五倍と云う大軍であった事から隆信はその諫言を入れずに出陣。家久の術中に陥り、絶対に不利な地形におびき寄せられてしまい、大敗を喫し多くの将兵を失い、隆信自身も島津軍の川上忠堅に討ち取られてあっけなく戦死してしまった。

 竜造寺家の家老である鍋島直茂。こういう話が残っている。沖田畷の戦いは竜造寺の惨敗。しかも総大将である隆信の首が奪われると云う数多ある戦国時代の合戦史でもそう例のない屈辱的大敗だった。沖田畷の戦いの後、直茂は敗残兵を収拾して佐嘉城に撤退した。
 竜造寺隆信の首を取った島津家は首実検を終わらせるとその首級を使者に持たせて竜造寺家の居城である佐嘉城に届けた。無論、これは降伏勧告である。直茂は変わり果てた主君を見て、静かに隆信の首に語りだした。
『殿……。このたびの負け戦は家老のそれがしの諌めをお聞き入れなく、不用意なご出陣をなされたゆえにございますが、古来より武士が戦場で散るは天命。それがしも殿と共に討ち死にすべきところでござるが、こうしておめおめと生き延び、恥を晒すは……』
 島津の使者をキッと睨み、
『殿の仇を討たんがためにござります!』
 獅子の一喝とも云える直茂の裂帛。直茂は首台の筒蓋をとり、
『いま、かたじけのうと首級を譲られ、おめおめと島津の軍門に降るわけにはいきもうさん。長くはお待たせしませぬ。我らが薩摩に討ち入る時まで、今しばらく敵地にてご辛抱して下され』
 そして蓋をして、直茂は一喝。
『首の受け取り辞退いたす!』
 と、島津の使者を追い返してしまったのである。これを伝え聞いた島津義弘は『肥えた豚には過ぎた家臣よ』と直茂を讃えた。そして当主が討たれ弱腰になっていた竜造寺の家臣団は直茂に傾倒していった。隆信の遺児の政家は凡庸な将であったので、これも自然の流れであろう。
 島津家に徹底抗戦の姿勢を見せる直茂率いる竜造寺家。島津は直茂の器量を認めるも変わらず攻撃の手は緩めない。隆信の跡を継いだ政家は凡庸な男であり、またこういう節目は狙い時である。竜造寺勢力の肥後に対する支配力は急速に衰え、筑前と筑後では大友氏の反撃が始まった。もはや四面楚歌となった竜造寺政家は秋月家の調停で島津家に降伏同然の和睦する事となり、島津家の配下大名に成り下がってしまった。家老の鍋島直茂は佐嘉に呼び戻され、竜造寺一門と先代隆信の母親である慶ァ尼に
『病弱な政家に代わって国を統治して欲しい』
 と要望された。政家も同意して直茂に
『そなたが和戦両面を指導せよ。もし反対する者があっても思うように指図して良い』
 と云う念書を与えて依頼した。これにより直茂は実質上の龍造寺家の実権を握ったのである。それより直茂は心血注いで主家竜造寺家のために働いた。そんなある日、畿内の王者柴田家から“徳川と北条も我が配下なり”と書が来た。中央の情勢を正確に掴んでいなかった直茂はこれを真に受けてしまった。大急ぎで直茂は安土へと向かった。そして
「当竜造寺家は現在島津に組しております。それでも友好の約を結んでくれまするか」
 と柴田明家に述べた。ちなみに言うと島津は明家が出した“徳川と北条も我が配下なり”の文を偽りの内容と見抜いたため、使者どころか返書も出していない。
 柴田明家は鍋島直茂を見て、ただものではないと見抜き、かつ政家が凡夫と聞いていたので竜造寺家ではなく、鍋島家と友好の約を果たしたいが、と述べた。直茂は我の主君は竜造寺と明家に述べたうえで、それを受諾している。ゆえに当時の記録で柴田家の友好大名列記の中で竜造寺ではなく鍋島と記されているのである。後に完全に竜造寺と鍋島は主従逆転するが、それはまだ先の話……。
 ところで友好の約を果たし終えた後、明家は“徳川と北条も我が配下なり”と云うのはウソだ。と直茂に明らかにした。直茂は心の中では『騙しやがったな、このガキャアッ!』と思ったが、顔は至って平静を取り繕い『存じておりました』と返した。どうであれ、柴田が日本最大大名である事は変わらないのであるから、きっかけはどうでも良いのである。
 以後、島津に組するも柴田とも通じ、九州遠征を促し九州の情勢は細かく報告していた。大友家が完全に柴田へ従属すると聞いた。柴田が大友の援軍として近日大軍勢でやってくる。直茂は主家の恥を雪ぐため、虎視眈々と時期を待ち、島津の言いなりとなっていた。そして、いよいよ柴田明家の率いる二十万の軍勢が門司に上陸した。直茂率いる竜造寺勢はそれを聞くや、さっさと島津陣から離反し柴田への味方を表明した。
 それと逆であるのが、九州の名族秋月氏である。当主の秋月種実もまた動乱の九州を戦い抜いたツワモノである。柴田の大軍勢来航、この報が秋月種実の居城に届いた時、種実は『我らは今まで島津に組して戦っていた。中央の覇者が未曾有の軍勢を連れてきたからと申せ、ハイそうですかと鞍替えしたら九州人の恥、先祖に合わせる顔がない』
 と徹底抗戦を主張。家老の恵利暢堯は時代の流れを読んで柴田に従うように諫言したが受け入れられず、それどころか種実は暢堯を弱腰と罵倒し追放して切腹に追い込んだ。これが痛恨であった。『柴田につくべし』と内心思っていた家臣たちは大勢いた。家老の恵利の死を見て、柴田との不戦派は柴田軍上陸と同時に総じて主家の秋月氏に叛旗を翻した。種実は『秋月同士で争っている場合ではなかろうに!』と激怒したが後の祭りである。

 島津義久居城の内城(うちじょう)。
「申し上げます!」
 当主義久の元に使い番が来た。
「なんだ」
「大納言柴田明家、二十万の軍勢で立花城を出陣!」
「二十万……!?」
「兄上、この後に及んで臆しましたか。ゴホッゴホッ」
 止まらない咳を続ける島津歳久。
「臆してなどおらぬ」
「フッ、ここには弟のそれがししかおりませぬ」
「……かなわんな、確かに兵力を聞き、少し驚いた」
 島津義久の弟の歳久は、島津四兄弟の中でただ一人、柴田との交戦を反対した人物であった。
『苦戦の見込みあらば迷わず逃走し、勝利しても犠牲多大と悟れば徹底して合戦を避ける大納言。今までただの一度も敗北を知らないのは大納言が勝つための合戦ではなく負けないための合戦をしてきたゆえ。かと思えば手取川の撤退や賤ヶ岳の合戦のような敗北必至の情勢をひっくり返してもいる。並みの武将ではない。三十前の若僧とて侮ってならない』
 しかし、結果は済崩しに交戦となった。歳久は毛利と同じく柴田の従属大名となり、それから交渉をもって島津の領地を保証してもらうべきと主張した。だが次兄の義弘に『かような姑息な手段は島津の軍法にない。島津が命がけで切り取った九州の地、なぜ大納言の裁量に委ねばならぬ』と一喝されてしまった。交戦と決まったからには島津の三男として戦場に出るべきであるが、歳久は病に冒されていた。
「ゴホッ、ゴホッゴホッ! ハァハァ……」
「大丈夫か、又六郎(歳久幼名)……」
「何とか……。兄上、おっつけ柴田から降伏の使者がやってきましょう……」
「ふむ……」
「前線でも島津と対峙し、九州の大小名や豪族を調略し、なお水面下でそういう交渉をやってくるのが大納言、腹は立つでしょうが、その使者には礼を尽くし、とことん話し合うが肝要かと存じます」
「分かった、もう休め」
「はっ」
「誰ぞある。歳久を寝所へ連れて行け」
「ははっ」

 柴田軍は進攻を開始した。毛利と立花の後詰に柴田本隊が入り、宝満山城、そして紹雲最期の地である岩屋城も奪還。そして前田利家率いる別働隊が大友宗麟の居城である臼杵城に迫る。別働隊とはいえ途方もない大軍。さしもの島津義弘と家久も退却してしまった。その後に大友本隊と合流して前田利家率いる大軍が南下。
 一方、柴田明家。岩屋城に柴田本陣を築き、紹雲と岩屋将兵に柴田全軍が合掌した。穀蔵院ひょっとこ斎と云う流れ者の豪傑がいたと云う話は明家の耳には入ったが、慶次と同一人物とまでは知る由もない。岩屋城に陣を構えている時、鍋島直茂率いる竜造寺勢が合流。ここから明家が本格的に采配を執り始めた。明家は秋月氏に進攻を開始。豊前の国に入り秋月氏の砦の岩石城を半日で落としてしまった。益富城にいた秋月種実はこれを知り愕然。わずか半日で落とされた事実にただ呆然とした。
 九州では想像もつかない未曾有の大軍勢で押し寄せる柴田軍。秋月種実は益富城を破却して、後方の古処山城に退去してしまった。明家は益富城の跡地に本陣を構えて古処山城と対峙。だが翌日、種実は信じられない光景を古処山城から目の当たりにする。自軍が破壊した益富城が立派に作り直されてしまったのである。築城術では人後に落ちない明家。地形的に前線拠点としてちょうど良いと考え、自ら地形に沿った縄張り図をすぐに描き上げ、人海戦術を駆使し秋月種実に柴田のチカラを誇示するため、たった一日で築城を完了させたのである。古処山城からそれを見た種実は戦意を喪失した。
「柴田明家は天魔なりけり……!」
「父上……」
「三郎(種実嫡子の種長)……。もうどうにもならん……!」

 益富城を再築し前線拠点としたうえ、古処山城を完全に包囲した柴田軍。明家は使者を出した。
『種実殿は立花勢と対峙していた時、退却する立花勢の中にあった棺の中が立花道雪と知るや、一切の追撃を許さなかったとの事。九州の武人の心意気、柴田大納言感服いたした。はからずも敵味方となってしまったのは残念至極なるが、できる事ならば味方としたい。そして柴田の作る統一政権の樹立に協力願いたい。柴田は名門秋月氏を厚遇しましょうぞ』
 戦意を失っていた秋月種実は降伏を決意し、柴田陣にやってきた。まさに立花の退却を黙って行かせた事が彼自身を救った。あのおりに道雪の死に乗じて追撃をしていたら、柴田の助勢を得た立花勢は怒り狂いながら古処山城を落とし、種実を討っていただろう。
 降伏の英断を示した種実を労った。種実は剃髪し、僧侶姿となっていた。家宝の『楢柴肩衝』『国俊の刀』を献上し、そして嫡子三郎と長女の春姫を人質に差し出した。
「秋月殿も柴田の南進に列していただくが、ご承知か?」
「…恐れながら、つい先日までお味方していた島津に弓引くのは九州人として出来ませぬ」
 種実は、その『つい先日まで味方していた島津に弓を引く』を平然としてのけている竜造寺家家老の鍋島直茂を睨む。島津と竜造寺の仲を取り持ったのは秋月。直茂は秋月に後ろ足で砂をかけたと同じであるが直茂は意に介さない。元々島津に味方する気など最初から無かったのであるから。そして明家は南進に加わらないと示す種実をしばらく見据え、言った。
「お気持ちは察するが、敵か味方か分からない者を後方に残して進軍するほど柴田はおめでたくはない。嫡子の三郎殿に秋月の兵を任せられよ。それを伴いまする。種実殿が出なければ島津への義理も立とう」
「……承知いたした」
 種実の後で明家に平伏し、震えている少女がいた。種実の娘の春姫。彼女は明家が怖かった。織田信長がネコと呼んでいたせいか、柴田明家はこの当時『化け猫』と敵方の女子供に恐れられていたと云う。種実の娘の春姫は『化け猫に食われたくない』と泣いてイヤがったが、秋月家のために父の種実も苦渋の決断であった。迷信深かった当時である。武将たちはともかく、女子供は『人間に化けられる、尾が七本ある猫の大妖』と本気で明家を恐れられていたのではなかろうか。美男子とも伝えられていたろうが、それが余計に情け容赦ない残酷な男と云う印象が先走っていたかもしれない。
 その夜、春姫は明家の部屋に来るよう命じられた。いよいよ来る時が来た。当年十四の生娘であった彼女は怯えながら明家の部屋に行った。
「春にございます」
「入られよ」
「は、はい……」
 明家は文机に向かい、書き物をしていた。筆を置いて春姫を見た。
「怖がらずとも良い、こちらに」
 震えて、そして顔を伏せながら明家に歩み寄る春姫。
「それでは話せない、顔を上げられよ」
「は、はい」
 春姫は顔を上げた。
「…………!」
「どうされた? それがしの顔に何か付いていますかな?」
「い、いえ……!」
(な、なんちゅう美男!)
「呼びだしたのは他でもない。『楢柴肩衝』『国俊の刀』を持ち、父上のいる城に帰られよ」
「は?」
「人質は嫡子の三郎殿だけでいい。宝物など贈られても困る。あの場は種実殿の顔を立てて受け取ったが、我ら柴田が九州にある宝目当てに攻め込んだと思われては迷惑なのだ」
「は、はあ……」
「また、女は好きだが嫌がる小娘を抱く趣味はない。これに貴女と宝物を返す旨を記したから古処山城に戻り父上に渡されよ」
 さっきまで書いていた文を春姫に渡した。
「わ、分かりました」
「用件はそれだけだ。城に帰る手はずは済ませておいたゆえ、行くが良い」
「…………」
「行きなさい、オレはもう寝るのでな」
「は、はい!」
 春姫は古処山城に帰っていった。種実は明家の計らいに涙して感謝した。目に入れても痛くない娘に手を触れずに返し、先祖伝来の宝物を返してくれた事に。これで秋月は柴田に完全に味方に付く事になる。しかし種実は島津との戦いに自分が出る事は拒絶した。せめてもの筋目というところだろう。秋月勢は彼の息子である三郎種長が率い柴田に組した。
 こうして大友、竜造寺に続き秋月氏も柴田に屈した。残るは薩摩の島津のみ。余談であるが、この秋月氏の血から後にあの上杉鷹山が誕生する事となる。それははるか後の話……。


第十九章『柴田軍布陣』に続く。