故人の年齢をどう考えるか
葬儀の際によく問題となるのが、故人の年齢。
「77才で亡くなったけど、位牌をみたら79才って書いてあった」
「享年と行年って何が違うの?」
「満年齢じゃだめなの? 数え年でなきゃだめなの?」
「人によって説明が違う」
などなど、遺族の方々は葬儀社スタッフによく質問をされるという。
これらは葬儀社スタッフにとって「もっともよく受ける質問の1つ」らしく、それならすぐに答えてあげられるのだろうと思ったら、やや歯切れの悪い返答にならざるをえないことが多いそうだ。
なぜか。
結局のところ、故人の年齢の表記や算出方法に関しては葬儀を勤める僧侶の考えに左右されることになるため、はっきりとしたことが言えないのである。
強いて言えば、
「詳しくはご住職様にお訊ねください」
ということになるだろうか。
……僧侶の身としては、なんとも申し訳ない理由だ。
こういうふうに書くと、いかにも僧侶が「オレの考えが正しいんだ」的な権威を振りかざしているように取れるかもしれないが、真意はちょっとそれとは違う。
故人には、先祖の墓がすでに存在している場合が多い。
墓石には亡くなられたご先祖の年齢が刻まれている場合が多く、その表記は統一されている。
曾祖父は享年、曾祖母は行年、そして祖父は満年齢で、とはあまりならない。
ほとんどの場合、表記はどれか1つに統一される。
また大抵の場合、年齢の表記の仕方は寺院ごとで昔から決まってしまってもいる。
「よその寺院では享年としているが、うちはずっと行年だ」というように。
だから故人によって表記の仕方を変えるということは基本的にない。
つまり、いくら葬儀社スタッフが親切に一般論を伝えて下さっても、僧侶の考えや寺院の伝統によって決まってしまう場合がほとんどなのである。
享年と行年
ただ、それぞれの表記にはやはり意味があり違いもあるので、それらについて少々掘り下げてみたいと思う。
まずは、享年と行年の違いから。
結論から言えば、この両者には大きな違いはなく、どちらも「亡くなった方の年齢」を意味する言葉として使われている。
なので享年であっても行年であっても、どちらでも基本的に問題なし。
ただ、大きな違いはないのだが、言葉そのものの意味には微妙な違いがある。
- 享年とは、天から享(う)けた年月
- 行年とは、何才まで生きたか
つまり厳密に考えれば、享年は年月を指しており、行年は歳を指している、ということになる。
この違いを考慮しなくても特に問題はないが、両者は厳密には若干異なっているということを知っておいても損はないだろう。
ちなみに、位牌などに享年・行年と書く際、享年は年月を指すため「才」を付けず、行年は年齢を指すから「才」を付けるのだという説がある。
「享年77」
「行年77才」
といった感じである。
ただこれも絶対というわけではなく、「享年」としながらも「才」を付けているケースはいくらでも存在する。
実務的な部分は、やはり寺院ごとの考えによるのが現実的である。
結論として、享年と行年は言葉の意味に若干の違いは存在するものの、どちらも亡くなった方の年齢を指す言葉として大差ないものと理解しておけば、実際にはほとんど問題ない。
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満年齢と数え年
故人の年齢を算出する方法としては、通常、満年齢か数え年か、2つの方法のどちらかが用いられる。
現在では日常生活で数え年を用いる機会などほぼ存在しないが、故人の年齢に限っては今でも数え年で表記されることが多い。
その理由の1つに、昔はなるべく長生きをしたほうが「良い」「めでたい」という風潮が強く、数え年で表記すれば年齢が多くなるからという説がある。
そんな子ども騙しみたいな歳の稼ぎ方をして何が「良い」のかは不明だが、それだけ長寿は喜ぶべき事柄であったということなのだろうか。
ただ、数え年は、現代ではどうにも馴染みがない。
満年齢と差異が生じる点も、単に故人の年齢が間違って表記されているように感じる遺族の方もいらっしゃるようで、違和感を覚えるという意見も少なくないという。
そこで近年、故人の年齢を「満年齢」で表記するケースが増えてきている。
「享年77才」「行年77才」という「77」を満年齢で記すだけで、あえて「満」の字をつける必要はないので、見た目の違いはない。
もちろん「満77才」と記しても間違いではない。
現在の日本では公文書には満年齢を記載することが決まっており、また馴染みのある満年齢を用いたほうが遺族にとってもわかりやすいということで、近年は位牌などに満年齢を記載することも多くなってきている。
満年齢とは、言わずもがなではあるが、生まれた瞬間を「0才」とし、誕生日を迎えるごとに加齢されていった末の今現在の年齢をいう。
一方の数え年は、生まれた瞬間を「1才」とし、年が明けると1才年をとるという数え方となる。
数え年の考え方でいけば、人は正月に全員揃って年を重ねることになる。
とてもわかりやすい加齢の方法に思えるが、現代の感覚からいうと、数え年はむしろわかりにくいという人のほうが多いことだろう。
満年齢から数え年を算出する方法としては、
- 誕生日を迎えていない場合:満年齢+2才
- 誕生日を迎えている場合:満年齢+1才
となる。
たまに、「数え年は満年齢+1才」と言われることがあるが、それは誤りなので注意していただきたい。
誕生日を迎えた満年齢と、迎えていない満年齢とでは、算出の方法が少し違う。
ちなみに数え年というのは、「いくつの年と関わったか」と考えることでも算出することができる。
たとえば昭和60年生まれの人は、生まれたときに「昭和60年」と関わっている。
そして翌年1月1日になれば「昭和61年」とも関わったことになる。
つまり、2つの年と関わったことがあるから、2才というわけだ。
この考え方のほうがむしろわかりやすいかもしれない。
数え年は胎児の期間を考慮している?
数え年が生まれた瞬間を「1才」とする理由について、「胎児期間を含めているから」と言われることがよくある。
これはもっともらしい理由のように聞こえるが、じつは根拠はなく、「違う」「関係ない」と言う専門家も多い。
私も違うと思う。
数え年の基点が「1」なのは、たとえば学年が「0」ではなく「1年生」から始まるのと同じ理屈ではないか。
実数である1から始まるものはまだほかにもいろいろとあり、別に珍しいものではない。
第一、数え年で実際に計算をしてみれば、胎児期間を考慮しても年齢に誤差が出ることがすぐわかる。
たとえば12月31日に生まれた人は、数え年で考えると、翌日の1月1日で2才になる。
12月31日が1才で、年が明けたから1才年をとって2才となる。
仮に、この時点で亡くなった場合、その赤ちゃんは生後2日でありながら2才で亡くなったことになる。
胎児期間の280日を足しても、282日で、1才にも満たない。
なのに、なぜ2才になるのか。
これが、数え年が胎児期間を含めているとした主張の端的な矛盾点である。
整合性がまったくないのだ。
そもそも数え年の算出方法は、必ずしも満年齢+1才ではないのだから、整合性がないのは当然なのだが。
もし数え年が胎児期間を考慮に入れた年齢の表記方法なのだとしたら、この場合1才でなければおかしい。
なのにそうはならない。
理由は簡単で、数え年と胎児期間に関係がないからである。
数え年で故人の年齢を考えた場合、年末に生まれた人で、かつ、年始に亡くなると、胎児期間を考慮しても辻褄が合わない。
年始に生まれた人は辻褄が合い、年末に生まれた人も年末に亡くなれば辻褄が合うものだから、いかにも胎児期間を考慮しているように思われがちだが、ただの偶然である。
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胎児期間を考慮した本当の考え方
ただ「胎児も命なのだから考慮すべき」という考えを持った僧侶が大勢いるのは事実で、胎児期間を考慮して故人の年齢を算出しようとする際に、満年齢とも数え年とも違う別の算出方法がとられることが稀にある。
それが、故人が亡くなった際の満年齢に280日を足すという方法である。
つまり、76才と90日で亡くなったとすれば、胎児期間の280日を足して77才と5日と考え、めでたく喜寿になる、という具合だ。
単純な計算だが、胎児期間を考慮するというのであれば、この方法がもっとも正しい。
数え年は、単なる数え方に過ぎず、胎児期間を考慮しているわけではない。
事例は少ないが、実際にこの280日足し算法で故人の年齢を算出している僧侶は存在する。
命の段階「四有」
ちなみに、仏教では人の命を4つの段階に分けて考える「四有(しう)」という分類法がある。
4つの段階とは、次のようなもの。
- 生有(しょうう):母胎に命が宿ったとき
- 本有(ほんう):生まれてから死ぬまでの一生
- 死有(しう):命が尽きる瞬間
- 中有(ちゅうう):死有から生有までの期間
最後の中有というのが、いわゆる中陰のことで、人が亡くなってからの49日間のことである。
満年齢の考え方は、母胎から赤ちゃんが生まれた日からカウントを始めるので、本有に相当する。
単純に、生まれてから死ぬまでの一生を、人の一生と考える。
一方、胎児期間を考慮する考え方は、生有から死有までを人の一生とする考え方になるだろう。
それだって特に変わった考え方ではない。
世界にはもっと長いスパンで命を考える人々などいくらでもいて、輪廻を信じるチベットなどでは、そもそも命は生まれ変わりを続けているからどこかで終わりということにはならない。
生有、本有、死有、中有、そして生有と、繰り返し繰り返して受け継がれていくという思想である。
それはそれで、姿を変えた先祖と出会えるという、豊かな死生観だろう。
人の一生は本有の期間であると考えるのが現代日本の常識であるが、それだってあくまでも思想の1つに過ぎないのだ。
何をもってそれを常識として受け入れているのかを改めて考えることをしなければ、それは知らず知らずのうちに特定の思想に呑み込まれているのと同じである。
そう考えると、故人の年齢を考えるのは、命の連続性を考えるよい機会と言えるかもしれない。