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村上春樹に毒されたこの僕がお届けするブログ

文章を書くという自己表現に向いている人って? 3つの仮説

雑感

Writing

かふか です。

 

はてなブログを始めて、大体三ヶ月が経ったのですが、まことに文章を書くというのは、精神衛生上すこぶる良い影響があるなあと思うのです。もちろんブログという形なので、このネット上の誰かしらに自分の書いた記事が見られ得るという承認欲求も、それはそれは否定できないのですが、それ以上に自分の思いの丈を文字にして表すという事に底知れぬ何かがあるとしか思えないのであります。(なぜか『マツコ&有吉の怒り新党』のナレーターの語調になってしまっている・・・のであります)

 

ブログというのは、自己表現の一つです。ただ、自己表現という観点だけから考えると、音楽を作曲するのだって自己表現であるし、絵を描くのだって、陶芸をするのだって自己表現です。僕は数年前まで音楽をやっており、ずっと曲を作っていました。それをバンドで表現したりしてました。もちろん、それはそれで自分の感情を音楽という形に表すことによって、充足感はありました。ただ、今思うのが、自分には文章を綴っていく方がより充足感が高いということです。たぶん、これは僕という人間が、上手い下手は別にして、文字における表現の方に向いていたからでしょう。

 

というわけで、勝手ながら、以下にどのような人が文章による自己表現により向いているか、より充足感を感じやすいかという事について、仮説を立ててみました。まことに勝手ながら。

 

※「文章を書くこと」の精神衛生上の効用について、書こうとしましたが止めました。こっちの方が、面白いかなと思ったので。

 

1.  アドリブが利かない人、石橋を叩きまくって渡る人

僕は長いこと音楽をやっていたので思うのですが、多くの自己表現はやり直しが容易ではありません。音楽の場合、もちろん自分だけで曲を創っている時は、何度も練り直すことができます。「ここのパートはコードが合ってないから変えよう」とか。しかし、音楽の最も輝ける表現場であるライブではやり直しはききません。演奏をミスすれば、ミスになります。もちろん演奏し直すことはできますが、ライブで普通それはやりません。音楽はあくまで時間における自己表現なので、曲のある時点でミスるとそれは取り返せません。

 

絵はどうでしょう。絵もやり直しは難しいのではないでしょうか。壁画なんかにペイントしていて、ペンキをミスったらアウトです。たぶん。まあ修正の手段は色々と持ち合わせてはいるのでしょうけれども。デッサンにしても、そりゃ鉛筆で書いていれば、消しゴムで消せますが、大きくミスした時はなかなか厄介でしょう。

 

昨今、趣味として人気の陶芸にしても同じです。(僕も一回だけ陶芸体験したことがありますが、)陶芸は、ろくろの上で指が滑ったら致命的です。ぐにゃってなります。

 

カメラは? 静止しているものや情景であれば何度も撮り直せますが、動いているものに対しては、そうはいきません。その一瞬を捕えなければなりません。シャッターチャンスは一度きりです。 

 

ではでは、やっときました。文章を書くというのはどうでしょう。今の時代ほとんどの人は、キーボート(スマホであればテンキーかな)で文章を綴ることができます。「なんか文章ミスったな」「文脈がはっきりしてないな」と思えば、Delete keyを押せばいいだけです。いっぺんに消したければ、その部分を選択してDeleteです。文の構成を変えるためのコピペも容易です。つまり、簡単にやり直すことができるのです。リライトです。即興性に長けていなくても、じっくり何度でも推敲して投稿(本番)できます。コーヒーでも飲みながらじっくりと。

 

※こんなこと言ってるのに何ですが、個人的には文章を書く時に、ある程度の即興性は大事かなと思っています。べつに時間に縛られることはないですが、ある意味短い時間で、即興的にダーーっと書き連ねる方がいい文章が書けるのではないかと思うからです。僕が敬愛する作家の村上春樹も即興的な書き方です。構成などあまり練らずに、白紙にアドリブで物語を紡いでいく作家です。

 

 僕がブログの記事を書こうと思ってキーボードの前に座るとき、よくこんな声が聞えてきます。

 

さあ、じっくり羽を広げて書いてごらんなさい。時間はたっぷりあるんですよ。後からちょこっとだけ修正もOKよ」と。僕は「はい。」と頷いて書き始めます。

 

 

Writing

 

2. 右脳ではなく、左脳で考えるタイプの人

これはホント仮説ですが、おそらく文章を書くのに向いている、ないしは充足感を覚える人というのは、物事を現実的に理性的に考えるタイプなのではないでしょうか。一つ一つ筋を追っていきながら、時間をかけてやっと腑に落ちるタイプ。いわゆる左脳タイプの人。人間がもつ表現の手段として、文字というのは一番直接的で理性的です。

 

対して、より抽象的で自分でも自分が表現していることを完全には理解していないような人は、絵とか音楽に向いているような気がするのです。より抽象度の高いものでもって、満足するタイプです。右脳タイプでしょうか。たぶん、このタイプの人からすると、小説なんかは、直接的で説明的過ぎるのではないでしょうか。それよりも、一枚の一瞬の情景でもって、現実を捉える方が好みなのではないでしょうか。

 

 

3. 「書く」以外において、自己表現の手段をもっていない人

最後はこれです。書くというのは、最も敷居の低い表現方法です。楽器が弾けなくてもいいし、絵がうまくなくてもいいし、手先が器用でなくてもいいのです。読み書きができれば表現が可能です。

 

べつに文章力がなくても、熱意をもって書けば、人にちゃんと伝わります。音楽なんかはいくら熱意があっても、音が外れていては正直聞いてられません。日本における識字率からみても、義務教育を受けた人であれば、ほとんどの人が読み書きはできるでしょう。漢字が分からなくても、今やパソコンが変換してくれるのですから。

 

 

と、まあ僕が考える「文章執筆に向いてる人」論はこんな感じです。最後はジリ貧になってしまいました・・。まあけど、文章書いてて「楽しいなー」と思える人が一番向いているんじゃないでしょうか。というオチにしておきます。 

 

最後にこんな引用で終わらせて下さい。

 

弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。付け加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。

 

村上春樹『風の歌を聴け』p8-9

 

はい(笑)

では。

かふか